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《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて

タグ:古代史 ( 107 ) タグの人気記事



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ジブリアニメ 「かぐや姫の物語」 より



万葉の頃から男はせっせと女の許へ通ったといいます



「通い婚」とか「妻問婚」とよばれていますが



男が女を選ぶのではありません 最後は女が男を選ぶのでした


「かぐや姫」もそうでしたね


5人の男たちそして最後は帝まで含めたかぐや姫争奪戦。


最後は誰も選ばず 月に帰っていきます




さて4500首以上ある万葉集の歌ですが


その11最初の歌が雄略天皇の長歌です



《 籠(こも)よみ籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよみ掘串(ふくし)持ち 


この岳(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ)家告(の)らせ 名告(の)らさね 


そらみつ大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ 


しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 


家をも名をも



[現代語訳]


美しい籠を持ち美しい箆(へら)を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ 


きみはどこの家の娘なの 名はなんと言うの


この 大和の国は すべて僕が治めているんだよ 


僕こそ名乗ろう家柄も名も




果たしてこの歌が本当に雄略天皇の歌だったのかどうかは


別にして何と微笑ましい平和な歌でしょうか


どんな歌かといえば 要略すると


私は名告ります あなたの名前は何と言うのですか


この歌の隠されてテーマは「名告り」なんです


実はこの時代 男もそうなんですが特に女性の名前は


家族以外に知られることはまずなかったと言われています


名前基本的には秘密だったのです


あの源氏物語の紫式部枕草子清少納言も本名ではありません


ですから 男が 自らを名告り 相手の 女性の名前を聞くと言うことは


普通ではなく まさしく 《プロポーズ》そのもの だったのです


そして 女性が それに応えて 名前を言えば 婚姻成立です




こんな 万葉集の歌もあります


たらちねの母がよぶ名を申さめど、道行く人を誰と知りてか


123102 読み人知らず



[現代語訳]


通りすがりのあなたが自分の名前を名告らないのであれば


母がつけた私の本名をお教えできるはずなどありません




お互いの名前を呼び合う行為 呼合う(よびあう)は求愛の行為です


よばい転化して その後 この国の最近まであったという


〈夜這い〉と言う習俗になったと言われています



もっと古く文字がなかった頃には〈歌垣〉といって


特定の日時と場所に老若男女が集まり共同飲食しながら


歌を掛け合う神事がありました ここでカップルが決まります


プロポーズ始まりはデュエットからだったのです



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何度か記事にしましたアニメ映画「君の名は」のラストシーン


三葉 夢のようないろんなことがあって5年経ちました


東京二人は ある神社の石段で出会うのですが


名前を覚えておらず何を話していいかわからず


すれ違ってしまいます


瀧は勇気を出して振り返り声をかけました


あの・・俺!君をどこかで・・』


『・・私も


そしてお互いが長い間探していた「誰か」であることに気づき


そして 二人は同時に声をかけたのでした


『君の名前は・・』




「君の名は」のラストシーンお互いの名前を呼び合う


プロポーズ そしてこの作品のテーマである


「結び」「結ばれる」で終わるという


こんな深読みは如何でしょうか。







by nonkei7332 | 2019-07-24 08:46 | 万葉集 | Comments(0)
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筑前二見ヶ浦夫婦岩



写真は 糸島桜井二見ヶ浦 の 夫婦岩 です。



私にとって〈海〉と言えば この二見ヶ浦〈海〉なのです



この 二見ヶ浦の海は のお気に入りの海でした



60年前家族で何度も行ったことのある 思い出の海 なのです



遠い記憶を辿ると




私達は かなりの時間 西鉄バス に乗って



終点の 西ノ浦 という 海沿いの小さな町で降りました



それから トボトボと海岸線を歩き スイカ畑の間の



農道を過ぎると 視界に〈日本の渚百選〉に選ばれる程



綺麗な 白砂の海岸線 に着きました



当時は まだ 今のような 海岸道路も無く



ビーチリゾート しゃれた CAFE などありません



今ある 白い鳥居 もありませんでした



海岸から 約150メートルの 海中に



あの夫婦岩 屹立していました



当時はまだ 多くの人に知られていない



穴場スポット だったのでしょうか 人も少なく



我が家が ビーチを 独占していました



父と兄 は 夫婦岩まで泳いで



潜っては 銛(もり) 魚をとっていました



煮付けにすると美味しい ベラ という 綺麗な魚でした



夫婦岩まで泳げない 姉と私 は海岸の磯で



びな と呼ばれる 小さな巻貝 をとってました



茹でて食べると 美味しい貝でした



なぜか 鮮明にその思い出は



私の中で 数少ない海の記憶 として残っているのでした




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筑前二見ヶ浦の夕陽



さて 遠い想い出はこのくらいにして



この夫婦岩 いったい 誰と誰とを祀った岩なのか



その 迫ってみました



実は鳥居があるようにこの浜の近くに



〈桜井神社〉があります





桜井神社(赤マーク) と 二見ヶ浦




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桜井神社 楼門





社伝によると 二見ヶ浦夫婦岩は 桜井神社の 宇良宮 として



伊奘諾(イザナギ)伊弉冊(イザナミ)を祀るとされています



桜井神社由緒によると 寛永9年(1632年)




黒田藩二代藩主 黒田忠之 の 創建です



祭神は 警固三神(神直日神・大直日神・八十枉津日神)



黒田忠之が 創建した 警固神社(福岡市中央区) と同じ祭神ですので



同じように 桜井神社も



忠之が 黒田藩の守護神社 としたのでしょう



ただ由緒には 本来の祭神は 与止姫大明神 だと書かれています



「豊姫ゆたひめ」「淀姫よどひめ」などと呼ばれ



佐賀大和町の川上神社 那珂川山田の伏見神社 などの祭神と同じ



あの神功皇后の妹とされる 謎の女神 です。



さて 桜井神社の境内には もう一つの 謎の宮 が祀られています



実は この地は 古代の古墳跡 で 慶長15年(1610年)豪雨により




古墳の入り口の 岩が開いて霊験あらたかな神様が現れたとされ



「岩戸宮」と呼ばれています 祭神は「大綿積神(わたつみしん)」



あの 志賀海神社の祭神 『安曇磯良』です。






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岩戸宮





ここで 百嶋系図 をご覧ください




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安曇磯良 と 豊姫 は 夫婦とされています



と言うことは 桜井神社の 本来の祭神 は 安曇磯良 豊姫であり



二見ヶ浦夫婦岩 の 夫婦とは 伊奘諾・伊弉冊ではなく



安曇磯良 豊姫 夫婦神 だったのではないでしょうか





私がこのブログを《磯良の海》としたのは



安曇磯良を祀る 志賀島の海 を イメージして付けたのですが



60年前の あの 二見ヶ浦との出会いこそが



〈私〉と〈安曇磯良〉の 《 磯良の海 》との



はじめての 出会い だったのだよと



夫婦岩 は その 不思議な謎 を 教えてくれたのでした








《補足》私も行ったことがある 全国的に知られている


伊勢市の二見ヶ浦夫婦岩がありますが あの夫婦岩は


筑前二見ヶ浦をモデルとしたウツシだと思っています。





by nonkei7332 | 2019-07-07 08:44 | 古代史 | Comments(0)

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山法師




わが盛りいたく降ちぬ 雲に飛ぶ薬はむとも また変若ちめやも》


万葉集5847


私の盛りの時はもうとっくに過ぎてしまった


雲の上にまで飛べるという薬を飲んで仙人になったとて


もう一度もとの若さに戻ることなどあるものか




天平2年(730年)正月


大伴旅人九州一円の役人らを自分の公邸に招き


「梅花の宴」を催しています


2年前 太宰帥として 赴任した早々に


妻を亡くしその失意からもようやく


落ち着きを取り戻した頃だったのでしょうか




旅 人 の 梅 2014315の 記事です


https://hisamitsu.exblog.jp/22266064/




旅人の63年の生涯でしたが


最期の夢 とも言えるがありました




『 旅 人 の 恋 』 201485の 記事です


https://hisamitsu.exblog.jp/23099658/




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裕二さんは 著書《大伴氏の正体》でこう言っています


『 大伴氏は悲劇的な一族だ


七世紀後半以降 藤原氏が一党独裁体制を固めていくが


ほとんどの旧豪族が追い落とされ 没落していく中


大伴氏は最後に残った 名門一族となってしまった』




『 旅 人 の ルーツ 』 201517の 記事です


https://hisamitsu.exblog.jp/23978761/





万葉集に残された大伴旅人の歌は 56首 ですが


太宰府以前の歌は 2だけでほとんどが


太宰府赴任から都にもどって亡くなるまでの



3年間の歌です


筑紫万葉歌人中心人物として


その名は永遠にこの都に 残るのでしょう



『 旅 人 の 初 春 』 2017110の 記事です


https://hisamitsu.exblog.jp/26546276/




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芝桜





by nonkei7332 | 2019-05-03 00:00 | 旅人 | Comments(0)



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太宰府天満宮 と 飛梅




最初の質問です



全国で12000社もあると言われる 天満宮 天神社 菅原神社



老松神社 などの 天神系の神社で 祀られている神様は



いったい 誰でしょうか




難しい 質問なので ヒントをいくつか言います



その人は いつのまにか 学問の神さまと呼ばれました



頭が良かったのかどうかは 誰も知りません



ほんとは 厄病神 だったのですが



疫病神だと 詣る人が少ないので 賽銭欲しさにどこかの神社が



ここの神様 拝むと頭が良くなるよ言ったところ これが 大流行り



みんな こぞって 学問の神様にしたといいます




その人は 平安時代の政治家でした



右大臣 まで出世した人でした 当時の 官職は



一番上が 太政大臣 その次が 左大臣 その次が 右大臣でした



太政大臣は空席が多かったので 実質のトップは左大臣



今で言うところの総理大臣です



ですから 右大臣は 副総理 みたいなもんでしょうか



私の大好きな 韓流ドラマ 時代劇 にも 同じような官職が出てきます



領議政 左議政 右議政 です よく似てますね



話が横道に外れましたが とにかく 偉い人だったのです



天皇にも 可愛がられていた 文人系の学者でした





さてさて 今も昔も 政治家には 必ず その人を推す バック



今で言うところの圧力団体 票田がついています



あまり 知られていませんが この人のバックは



全国の 土木金属系のネットワークでした



土師氏(はじし) と呼ばれていました



この謎の氏族 歴史から 消された 謎の氏族のひとつですが



というより 本当は消されたのではなく



自分たちで 名前を変えたと言った方がいいのかもしれません





平安京を興した 桓武天皇 の母親は 高野新笠という人です



この方の母親は 土師真妹と言って



土師氏の毛受腹(もずばら)の出身だと言われています



あの 仁徳天皇陵がある 百舌鳥古墳群 を造った人達です



あれだけの古墳群を造るだけの 動員力 土木技術と製鉄技術を



持った強力な権力を持った人達だったのです



そんな 土師氏 でしたが



仏教が伝わり 古墳造営や葬送儀礼がなくなると



氏族の 存在そのものが希薄になっていきます



そこで 土師氏の頭領であった 土師古人 桓武天皇に



改姓を願い出ます 許された 姓が 菅原氏 秋篠氏 大江氏 などです



墓守りから 文人への 大いなる イメージチェンジでした




後世 右大臣まで出世した その人の名前が ここで 出てきます



菅原家4 菅原道真 》です



最初の質問に戻ります



そうです 多くの 天神系神社に祀られている 祭神は



菅原道真 だというのが 誰でも知っている 通説ですが



通説は ひとつの仮説でもあるのですから



敢えて 歴史のタイムカプセルに乗ってみたいと思います



その 暴論 に入る前に 土師氏 の祖神 と言われる



野見宿禰(のみのすくね) という 神様の謎に次回 触れてみましょう




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太宰府天満宮 境内





by nonkei7332 | 2018-08-17 10:19 | 菅公・太宰府 | Comments(1)


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てるてる坊主





6月 は 水 の季節です



遠い昔から 人々は この時期の雨に一喜一憂したものです



降らなければ 田に水を引けない



降りすぎると 田が流されてしまう



また 夏越の祓といって 一年の穢れを祓う 神事も行われます



水無月に夏越しの祓いするひとは千と世の命延ぶ



と歌われています




ここで 登場するのが ヒトガタ です



ヒトガタ とは 人形(にんぎょう)のことです



人形 と呼ばれるようになったのは 鎌倉時代 以降だといわれています



最も古い ヒトガタ 紙で作った 人の形をした




お札のようなものでした



夏の鎮守の杜 での 神事(呪術)に使われました






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呪術者は 罪や穢れや災いを祓い清める為に



まず 人々は このヒトガタに 触れることにより



穢れを背負はして 全て移してしまいます



移してしまう対象のことを 形代(かたしろ)とか



撫物(なでもの)とも言います



そして 穢れを移した ヒトガタ (撫で物)を 川に流し



新しい 霊魂の再生を祈るという 神事 だったのです



ヒトガタ神事 やがて いろんな形で 繋がり現代でも



風習や 祭りの形態として残っています



人形は ひなまつりの雛人形 をはじめ 人形と名のつくものは



起源を辿れば ヒトガタ につながります。コケシ もそうです。



てるてる坊主 もそうです。てるてる坊主は



「明日天気になあれ」と言って 雨が止むのを祈る人形ですが



起源を辿れば 真逆で 祈雨の為のヒトガタだったのです



雨が降ると 白い顔の部分に 目を入れて 川に流したようです



ヒトガタ神事 を祭りで 繋いでいる 代表は 「博多祇園山笠」



《夏越の祓い》については この記事を見て下さい



https://hisamitsu.exblog.jp/25917874/ 《夏越しの祓い》



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博多祇園山笠



山笠の 7つの町衆を 〈流〉(ながれ)といいます (土居流 千代流)



あれは 私は 川のことだと思います



〈人形を川に流す〉からきたものでしょう



町の一年の穢れを 山笠人形に移して それを 川に流す



それから 勢い水 (きおいみず) というのがあります



舁き手のからだを冷やす為とか 山笠が滑りやすくする為に



水をかけるといいますが 本当は 町中の穢れを水に流す為に



水をかけるというのが本当の意味だと思います






ヒトガタ より もっと古い人形があるとすれば



それは 「埴輪」(はにわ)でしょうか



次回 埴輪について考えてみます






by nonkei7332 | 2018-06-23 10:15 | 古代史 | Comments(0)

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柴(しば)


花屋の店先の花活けに3つの



葉枝 が並べられていました



名前が書いていなければ どれだけの人が



言い当てることができるのでしょうか



そういう 私も 2つは 解りましたが



あとひとつについては 解りませんでした



解らなかったのが 〈柴〉です




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榊(さかき)



〈榊〉木偏に と書いて ( サカキ )です



幼い頃 我が家には 神棚 があったのを 覚えています



遠い記憶なんですが 高い所にあったので



もっぱら 神棚 にお供えを添えるのは の仕事でした



時折 父が 買ってくる 葉っぱ だと知ったのは



ずっと 後のことです




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樒(しきみ)




やがて 中学の頃だったでしょうか 我が家に



仏壇 備えられました 経机 の脇に 供えられていたのは



〈樒〉シキミ だと 母から 教えられました



ある日 の事



母から 花屋に行って を買ってきてと頼まれたのです



ところが 花屋に行くと シキミ という言葉が出てこなくて



同じだろうと思い込んで サカキ を買ってきて



母から 随分叱られて記憶があります



の区別ができるようになったのその時からでしょうか





話は変わって



昔話の「桃太郎」



冒頭の一節は 日本人であれば 誰もが知っています





むかしむかし、あるところに、



おじいさんとおばあさんが住んでいました。



おじいさんは山へ 〈柴刈〉に



おばあさんは川へ〈せんたく〉に行きました。





この四行の中に 日本の古代の祭祀の謎が隠されています



山へ行ったのはお爺さんでした (おきな)です



翁は 山に何をしに行ったのかといえば 柴を刈りにいったのです



私は長い間 柴刈りというのは 薪拾いとばかり思っていましたが



最近 ある本を読んで 実は〈柴刈り〉というのは ひょっとして



古代の祭儀だったのではと 思うようになりました




本の名前は


『芝刺-忘れられた古代の祭儀』馬場紀美史著



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著者は 本の中で



宇佐神宮の致斎で行われている『柴刺神事』という祭祀



忘れられた古代の祭儀であったとします



すなわち 神(祖霊) の環天と来臨の儀式だったのです



その起源は 中国雲南省の彝族(イゾク)の祭儀にあったと



さらに 柴の語源を バラモン教のシヴァ神からきたのではないかと



画期的な展開をされていたのでした



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宇佐神宮 『 柴刺神事 』




能楽の演目にある 「翁」についても 以前触れたことがありますが



元々 は申楽(神楽)が 演劇化されたものです



村の長老(翁)が神様を招いて豊穣の祈りをする 神事を



演目に残したもので 神様が乗り移った 翁が 歌ったり 踊ったりして



遊ぶ様を演じたものなのです



博多祇園山笠 納めの能 毎年 櫛田神社で奉納されますが



演目は「翁」です 神事なのです






今度は おばあさんの話です



おばあさんは 川に洗濯に行ったんですね



山に住むおばあさんといえば 「山姥」です



山姥 は元はと言えば 山の神に仕える 巫女なんです



いつのまにか 妖怪 にされてしまいました



〈山姥の洗濯日〉という伝承が残っています



暮れの13日または20日とされ この日は必ず雨が降るため



洗濯をしないという風習が残っています



これは恐らく 山の川に現れた



山姥が禊ぎをする日だつたといわれているからです



これも神事なんです





あとは 大きな桃が



どんぶらこ どんぶらこ と流れてくるのですが



桃の話は またこの次にしましょう







by nonkei7332 | 2018-04-04 16:43 | 古代史 | Comments(0)



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厳島神社 客神社




お客様 神様です



歌手の〈三波春夫〉が 1961 舞台から客席に向かって



感謝の意で 放った 言葉です



それ以降 この言葉は サービス業の新人教育に使われたり



悪質なクレーマーの常套句として使われたり



今や 一人歩きしているのですが




さて 日本の神社 には



》という名前で呼ばれる神の存在があります



〈まろうどの神〉とか 〈渡来神〉とか言われている神です




太古より 世界中の至る所で 民族の違いによる 紛争は今も絶えません



東アジア では 大陸においても半島においても



国家間の覇権争いが 古来より 絶え間なく行われ



殺戮の繰り返しの歴史だったようです



特に 敗者の運命は悲惨なもので 王家の親族はもとより



軍人 住民に至るまで 将来の報復を恐れて 根絶やしといって



何万人という人たちが殺されていったのでした



死を怖れて 追い詰められた人々 山の奥深く逃げたり



死を覚悟して 荒海に 身を任せ 海の向こうに 夢を繋いだのでした



この列島に 海を越え 渡来して 移り住んだ 人々の多くは



こういった 戦争遺民 だったといわれています



渡来人達は 先住民 との 多少の軋轢はあったものの



概ね 同化 していったのでしょう



渡来人は 多くの恵みをもたらしました それは 水稲 であり でした



こうして 縄文 から 弥生へと 人々の暮らしは 変わっていきます



各地に 小国が林立し 小国同士の争い(倭国大乱)が起きましたが



卑弥呼によって統一 。卑弥呼死後に(狗奴国の乱)などの



内乱はあったものの 卑弥呼の宗女 台与に再び 倭国は統一。



弥生時代 倭国での内乱では 統治者は変わるものの



根耐えしみたいに 民衆を殺めることなどはありませんでした



渡来人の記憶のなかに 悲惨な戦火の連鎖を繰り返さないという



魂の叫びが 残されていたのでしょうか




唯一 敗者に強いられた事といえば 勝者の祀る神への 従属です



しかし 勝者は 敗者への配慮も忘れてはなく



勝者の祀る神社の中に 敗者の祀っていた 神を 残したのでした



《 客 神 》と呼ばれる神 がこれです



末社 とか 摂社 の中に 祀られていることが多いみたいです




神社の祭神の多くは 王朝の変遷や 国体の移り変わり



欲に駆られた神主の横暴などによって



書き変えられたり 消されたりしています





百嶋神社考古学研究会



百嶋由一郎氏 (19282013)という稀有の神社考古学者が遺した



神代系譜 肉声テープ 手書き資料などをもとに



神社の祭神や伝承を追いかけながら 北部九州古代史の真実を



探求する 研究会です



研究会の末席を汚している私ですが



昨年は 何度か神社探求のトレッキングに参加させていただきました



〈神社の位置する地形〉〈鳥居〉〈扁額〉〈社殿建築様式〉〈社紋〉



〈摂社・末社〉〈本殿の千木〉〈地元に残る祭り・伝承〉など



由緒書きにはかかれてない 謎解きは 楽しい作業でした



多くは 朽ち果てた 神社ではありますが



かつてそこに鎮座した 地主神 と村人達の 祈りと豊穣の歌声が



木々の間から 聞こえてくるようでした





〈客神〉は 時を超えて



私達に 何を望んでいるのでしょうか





by nonkei7332 | 2018-02-08 16:54 | 古代史 | Comments(0)


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青森県西津軽郡深浦金ヶ沢 の 日本最古と言われる 大銀杏

樹齢 1000年 樹高 40メートル 幹回 20メートル





この漢字 《公孫樹》を 〈いちょう〉と読める人は少ないでしょうね



普通は 〈銀杏〉と書きます



食用にされている は(ぎんなん〉誰もが知っています



各地にある 銀杏並木 晩秋の街並みには 欠かせない風景です



一般には この 成長するのに長い時間がかかります



祖父が植えると その樹に実がなるのは



孫の世代になってからという事で



《公孫樹》と言う字が つけられたといいます





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銀杏並木




30年前位でしょうか



散歩がてらに自転車に乗って 那珂川町の中ノ島公園まで行きました



那珂川の砂地になった中洲で 三枚葉の銀杏の若芽を見つけました



10センチくらいの苗木でした



上流の銀杏の樹になった実が 流されてきて根ずいたのでしょう



まるで 私に見つけて欲しかったのような 思いにかられ



うちに帰って 小さな鉢に植えた置いたのです




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イチョウの苗木



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あの苗木が 成長しました

2015年 の イチョウの苗木



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こんなにも 大きくなった

今年 正月 の イチョウの 苗木






銀杏は 中国原産の樹木です



ではいつ頃日本に渡ってきたのでしょう



通説では 銀杏の木は仏教伝来とともに日本にきたといわれています



仏教公伝 538年ですが 本当のことは誰もわかりません



418年に 仏教は九州王朝に伝来した』という説もあります



実は 中国の魏呉蜀の三国時代に 漢族の公孫氏という豪族がいて



公孫氏三代(度(たく)・康(こう)・淵(えん))が 50年にわたって



遼東半島以北を治めていました 〈公孫康〉の 時期には



倭国を内属していた時期もあり その後 〈公孫淵〉は 燕王を名乗り



魏から自立しますが 238 魏の反撃で 滅亡してしまいます



魏志倭人伝に拠れば



公孫氏滅亡の翌年 239 倭国の使節が 魏から



《親魏倭王の金印》(別名 卑弥呼の金印) を授かっているのです



(志賀島で見つかった 金印 とは 別の金印です)



ということは 公孫氏 と 倭国は



それなりの繋がりがあったとしても おかしくありません



〈晋書〉には 倭の女王卑弥呼の事が書かれており



出自は公孫氏だったという 解釈もあるくらいです



さて 話を 公孫樹 に戻します



公孫樹 公孫氏の名前からそう呼ばれるようになった



そんな説は どこにもありません



文献に ないからだけで 誰も知らないだけかも知れません




これから 全て根拠のない 私の妄想です



公孫樹 を日本に 根付かせたのは 実は 卑弥呼だった』



卑弥呼 滅亡した 先祖を偲んで 背振山麓に 公孫樹を植えた



卑弥呼の墓は 背振山麓にあり 「親魏倭王の金印」も そこに眠っている』




1800年まえの 誰も知らない 公孫樹 の謎。



30年前に 私が 見つけた 背振山麓 那珂川で見つけた 公孫樹 の苗木



私の 海馬(脳) の中で 過去と未来が 繋がったみたいです



眼を閉じれば



1000年後 私の子孫の 子供達が



大樹と育った あの苗木の 公孫樹の 楽しそうに 遊んでいる


そんな声が聞こえてきます





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中国陝西省の西安の南東にある終南山の仏教寺にある

樹齢1400年 の 公孫樹の大木








by nonkei7332 | 2018-01-09 18:41 | 古代史 | Comments(0)


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一つ松 幾代か 経ぬる吹く風の音の清きは 年深みかも


万葉集 61042 市原王



私訳〉


一本の老松よ あなた いったい どの位の歳月を見て来たのですか



吹く風の音が 清らかなのは 長い歳月を見て来たからなのでしょうね




千木の長 と呼ばれる〈松〉の木です



日本人の魂が宿る 神木 なのでしょう



年の始めには 多くの 神事が行われますが



そこでは はいつも 神の使いとしての存在があります



年男 やる重要な仕事として《 御松迎え 》がありました



山に入って松の木の枝を伐ってくることでした



歳神を迎える 門松 をつくるためでしたが 地方の家々では



門松を作る前にはこの松を 納屋や馬屋の入口や 台所に棚をつくり



神酒などを供えました



ところによっては そのものを 神棚に 祀り 御松様 として



供え物を並べたようです そのものが 歳神 だったのです



その松の姿は 《 三 階 松 》です





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鏡板の松





能舞台の 鏡板の松 〈三階松〉です



橋掛かりの白洲には



一ノ松、ニノ松、三ノ松 と三本の松が植わっています



能舞台に 描かれた 松の姿。



世阿弥の魂の中には 何が視えていたのでしょうか





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今宮神社 の社紋



三階松 社紋とする 神社が 各地にあります



その中でも 私が 印象に残る 神社は



高良下宮社



宮地嶽神社



今宮神社(京都紫野)




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三階松紋




三階松紋 は九州皇統王朝の紋 だといわれています



故百嶋由一郎先生も 三階松 については



『 九州王朝でも 第7代孝霊、第8代孝元、第9代開化として



表現された 紀氏系の正統皇統九州王朝の大王の流れである 』



といわれています




この三代の天皇の御名には 〈日本根子彦〉という



同じ名前がつけられているのです




孝霊天皇=日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)




孝元天皇=日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)




開化天皇=日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)






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国東 奈多八幡宮 の 松





隠された 真実の歴史を 〈松〉は教えてくれています










by nonkei7332 | 2018-01-03 12:30 | 古代史 | Comments(0)


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鬼の面


いよいよ 今年も カウントダウン です



正月 といえば 古代から 行われて来た 祭事があります



》(ついな) と呼ばれています



追儺とは 大晦日(旧暦1230日)の宮中の年中行事であり



平安時代の初期ごろから行われている 鬼払いの儀式



「鬼やらい」「儺やらい」と呼ばれている とあります




もともと 正月 とは 村人 歳神 を迎えるための祭事だったようです



民俗学者 「折口信夫」よると



歳神と言ふのは 毎年春の初めに 空か 山の上から 来る神で



年の暮れに 村人が歳神を 迎へに行く』と書いています



大晦日に 山に登って 日の出を見る 〈御来光〉もこれが起源でしょう



正月の門松も 歳神が 家を間違えないようにと作られた 目印でした



それでは お迎えした とは なんだったのか



折口は 〈まれびと〉とか 〈常世神〉と言っていますが



それは 海を渡って来た 先祖神 だったのです



一年の豊作と幸せを 村人にもたらす 先祖を祀り



厄災を祓う 神事こそが 正月だったのです



追儺》とは 本来 儺=鬼 を追慕する神事 〉だったのですが



いつの頃か 儺=鬼 を追い払う神事 〉へと変わっていったのです



ここに 古代歴史の 隠された 真実 があるようです



とは 〈儺の国〉きらびやかな かつての九州王朝 です



畿内藤原王朝にとっては 歴史から消さなくてはならない



復活させてはならない 恐るべき 存在だったのです



全ての厄災は 九州王朝 の祟りだと決めつけ



その存在を 〈鬼〉にしてしまったのでした



藤原広嗣の乱 菅原道真 に対する 異常なまでの 報復や修正は



それを 物語っています



追儺 の神事は 後世 節分祭 に同化されました



今でも 「鬼は外」と 言って 鬼を祓う 行事として残っていますが



古代の 村人は 「鬼は内」と言って 先祖を迎えたのです



この 矛盾 に気がつかせないほど 畿内王朝の 見事なほどの



歴史隠蔽 現代も引きずっているのです




明日は 冬至 です



かぼちゃ (南瓜) 食べて 柚子湯 に浸かって



〈一陽来復〉に 感謝しましょう



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by nonkei7332 | 2017-12-21 15:15 | 古代史 | Comments(0)