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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

タグ:古代史 ( 103 ) タグの人気記事



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てるてる坊主





6月 は 水 の季節です



遠い昔から 人々は この時期の雨に一喜一憂したものです



降らなければ 田に水を引けない



降りすぎると 田が流されてしまう



また 夏越の祓といって 一年の穢れを祓う 神事も行われます



水無月に夏越しの祓いするひとは千と世の命延ぶ



と歌われています




ここで 登場するのが ヒトガタ です



ヒトガタ とは 人形(にんぎょう)のことです



人形 と呼ばれるようになったのは 鎌倉時代 以降だといわれています



最も古い ヒトガタ 紙で作った 人の形をした




お札のようなものでした



夏の鎮守の杜 での 神事(呪術)に使われました






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呪術者は 罪や穢れや災いを祓い清める為に



まず 人々は このヒトガタに 触れることにより



穢れを背負はして 全て移してしまいます



移してしまう対象のことを 形代(かたしろ)とか



撫物(なでもの)とも言います



そして 穢れを移した ヒトガタ (撫で物)を 川に流し



新しい 霊魂の再生を祈るという 神事 だったのです



ヒトガタ神事 やがて いろんな形で 繋がり現代でも



風習や 祭りの形態として残っています



人形は ひなまつりの雛人形 をはじめ 人形と名のつくものは



起源を辿れば ヒトガタ につながります。コケシ もそうです。



てるてる坊主 もそうです。てるてる坊主は



「明日天気になあれ」と言って 雨が止むのを祈る人形ですが



起源を辿れば 真逆で 祈雨の為のヒトガタだったのです



雨が降ると 白い顔の部分に 目を入れて 川に流したようです



ヒトガタ神事 を祭りで 繋いでいる 代表は 「博多祇園山笠」



《夏越の祓い》については この記事を見て下さい



https://hisamitsu.exblog.jp/25917874/ 《夏越しの祓い》



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博多祇園山笠



山笠の 7つの町衆を 〈流〉(ながれ)といいます (土居流 千代流)



あれは 私は 川のことだと思います



〈人形を川に流す〉からきたものでしょう



町の一年の穢れを 山笠人形に移して それを 川に流す



それから 勢い水 (きおいみず) というのがあります



舁き手のからだを冷やす為とか 山笠が滑りやすくする為に



水をかけるといいますが 本当は 町中の穢れを水に流す為に



水をかけるというのが本当の意味だと思います






ヒトガタ より もっと古い人形があるとすれば



それは 「埴輪」(はにわ)でしょうか



次回 埴輪について考えてみます






by nonkei7332 | 2018-06-23 10:15 | 古代史 | Comments(0)

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柴(しば)


花屋の店先の花活けに3つの



葉枝 が並べられていました



名前が書いていなければ どれだけの人が



言い当てることができるのでしょうか



そういう 私も 2つは 解りましたが



あとひとつについては 解りませんでした



解らなかったのが 〈柴〉です




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榊(さかき)



〈榊〉木偏に と書いて ( サカキ )です



幼い頃 我が家には 神棚 があったのを 覚えています



遠い記憶なんですが 高い所にあったので



もっぱら 神棚 にお供えを添えるのは の仕事でした



時折 父が 買ってくる 葉っぱ だと知ったのは



ずっと 後のことです




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樒(しきみ)




やがて 中学の頃だったでしょうか 我が家に



仏壇 備えられました 経机 の脇に 供えられていたのは



〈樒〉シキミ だと 母から 教えられました



ある日 の事



母から 花屋に行って を買ってきてと頼まれたのです



ところが 花屋に行くと シキミ という言葉が出てこなくて



同じだろうと思い込んで サカキ を買ってきて



母から 随分叱られて記憶があります



の区別ができるようになったのその時からでしょうか





話は変わって



昔話の「桃太郎」



冒頭の一節は 日本人であれば 誰もが知っています





むかしむかし、あるところに、



おじいさんとおばあさんが住んでいました。



おじいさんは山へ 〈柴刈〉に



おばあさんは川へ〈せんたく〉に行きました。





この四行の中に 日本の古代の祭祀の謎が隠されています



山へ行ったのはお爺さんでした (おきな)です



翁は 山に何をしに行ったのかといえば 柴を刈りにいったのです



私は長い間 柴刈りというのは 薪拾いとばかり思っていましたが



最近 ある本を読んで 実は〈柴刈り〉というのは ひょっとして



古代の祭儀だったのではと 思うようになりました




本の名前は


『芝刺-忘れられた古代の祭儀』馬場紀美史著



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著者は 本の中で



宇佐神宮の致斎で行われている『柴刺神事』という祭祀



忘れられた古代の祭儀であったとします



すなわち 神(祖霊) の環天と来臨の儀式だったのです



その起源は 中国雲南省の彝族(イゾク)の祭儀にあったと



さらに 柴の語源を バラモン教のシヴァ神からきたのではないかと



画期的な展開をされていたのでした



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宇佐神宮 『 柴刺神事 』




能楽の演目にある 「翁」についても 以前触れたことがありますが



元々 は申楽(神楽)が 演劇化されたものです



村の長老(翁)が神様を招いて豊穣の祈りをする 神事を



演目に残したもので 神様が乗り移った 翁が 歌ったり 踊ったりして



遊ぶ様を演じたものなのです



博多祇園山笠 納めの能 毎年 櫛田神社で奉納されますが



演目は「翁」です 神事なのです






今度は おばあさんの話です



おばあさんは 川に洗濯に行ったんですね



山に住むおばあさんといえば 「山姥」です



山姥 は元はと言えば 山の神に仕える 巫女なんです



いつのまにか 妖怪 にされてしまいました



〈山姥の洗濯日〉という伝承が残っています



暮れの13日または20日とされ この日は必ず雨が降るため



洗濯をしないという風習が残っています



これは恐らく 山の川に現れた



山姥が禊ぎをする日だつたといわれているからです



これも神事なんです





あとは 大きな桃が



どんぶらこ どんぶらこ と流れてくるのですが



桃の話は またこの次にしましょう







by nonkei7332 | 2018-04-04 16:43 | 古代史 | Comments(0)



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厳島神社 客神社




お客様 神様です



歌手の〈三波春夫〉が 1961 舞台から客席に向かって



感謝の意で 放った 言葉です



それ以降 この言葉は サービス業の新人教育に使われたり



悪質なクレーマーの常套句として使われたり



今や 一人歩きしているのですが




さて 日本の神社 には



》という名前で呼ばれる神の存在があります



〈まろうどの神〉とか 〈渡来神〉とか言われている神です




太古より 世界中の至る所で 民族の違いによる 紛争は今も絶えません



東アジア では 大陸においても半島においても



国家間の覇権争いが 古来より 絶え間なく行われ



殺戮の繰り返しの歴史だったようです



特に 敗者の運命は悲惨なもので 王家の親族はもとより



軍人 住民に至るまで 将来の報復を恐れて 根絶やしといって



何万人という人たちが殺されていったのでした



死を怖れて 追い詰められた人々 山の奥深く逃げたり



死を覚悟して 荒海に 身を任せ 海の向こうに 夢を繋いだのでした



この列島に 海を越え 渡来して 移り住んだ 人々の多くは



こういった 戦争遺民 だったといわれています



渡来人達は 先住民 との 多少の軋轢はあったものの



概ね 同化 していったのでしょう



渡来人は 多くの恵みをもたらしました それは 水稲 であり でした



こうして 縄文 から 弥生へと 人々の暮らしは 変わっていきます



各地に 小国が林立し 小国同士の争い(倭国大乱)が起きましたが



卑弥呼によって統一 。卑弥呼死後に(狗奴国の乱)などの



内乱はあったものの 卑弥呼の宗女 台与に再び 倭国は統一。



弥生時代 倭国での内乱では 統治者は変わるものの



根耐えしみたいに 民衆を殺めることなどはありませんでした



渡来人の記憶のなかに 悲惨な戦火の連鎖を繰り返さないという



魂の叫びが 残されていたのでしょうか




唯一 敗者に強いられた事といえば 勝者の祀る神への 従属です



しかし 勝者は 敗者への配慮も忘れてはなく



勝者の祀る神社の中に 敗者の祀っていた 神を 残したのでした



《 客 神 》と呼ばれる神 がこれです



末社 とか 摂社 の中に 祀られていることが多いみたいです




神社の祭神の多くは 王朝の変遷や 国体の移り変わり



欲に駆られた神主の横暴などによって



書き変えられたり 消されたりしています





百嶋神社考古学研究会



百嶋由一郎氏 (19282013)という稀有の神社考古学者が遺した



神代系譜 肉声テープ 手書き資料などをもとに



神社の祭神や伝承を追いかけながら 北部九州古代史の真実を



探求する 研究会です



研究会の末席を汚している私ですが



昨年は 何度か神社探求のトレッキングに参加させていただきました



〈神社の位置する地形〉〈鳥居〉〈扁額〉〈社殿建築様式〉〈社紋〉



〈摂社・末社〉〈本殿の千木〉〈地元に残る祭り・伝承〉など



由緒書きにはかかれてない 謎解きは 楽しい作業でした



多くは 朽ち果てた 神社ではありますが



かつてそこに鎮座した 地主神 と村人達の 祈りと豊穣の歌声が



木々の間から 聞こえてくるようでした





〈客神〉は 時を超えて



私達に 何を望んでいるのでしょうか





by nonkei7332 | 2018-02-08 16:54 | 古代史 | Comments(0)


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青森県西津軽郡深浦金ヶ沢 の 日本最古と言われる 大銀杏

樹齢 1000年 樹高 40メートル 幹回 20メートル





この漢字 《公孫樹》を 〈いちょう〉と読める人は少ないでしょうね



普通は 〈銀杏〉と書きます



食用にされている は(ぎんなん〉誰もが知っています



各地にある 銀杏並木 晩秋の街並みには 欠かせない風景です



一般には この 成長するのに長い時間がかかります



祖父が植えると その樹に実がなるのは



孫の世代になってからという事で



《公孫樹》と言う字が つけられたといいます





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銀杏並木




30年前位でしょうか



散歩がてらに自転車に乗って 那珂川町の中ノ島公園まで行きました



那珂川の砂地になった中洲で 三枚葉の銀杏の若芽を見つけました



10センチくらいの苗木でした



上流の銀杏の樹になった実が 流されてきて根ずいたのでしょう



まるで 私に見つけて欲しかったのような 思いにかられ



うちに帰って 小さな鉢に植えた置いたのです




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イチョウの苗木



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あの苗木が 成長しました

2015年 の イチョウの苗木



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こんなにも 大きくなった

今年 正月 の イチョウの 苗木






銀杏は 中国原産の樹木です



ではいつ頃日本に渡ってきたのでしょう



通説では 銀杏の木は仏教伝来とともに日本にきたといわれています



仏教公伝 538年ですが 本当のことは誰もわかりません



418年に 仏教は九州王朝に伝来した』という説もあります



実は 中国の魏呉蜀の三国時代に 漢族の公孫氏という豪族がいて



公孫氏三代(度(たく)・康(こう)・淵(えん))が 50年にわたって



遼東半島以北を治めていました 〈公孫康〉の 時期には



倭国を内属していた時期もあり その後 〈公孫淵〉は 燕王を名乗り



魏から自立しますが 238 魏の反撃で 滅亡してしまいます



魏志倭人伝に拠れば



公孫氏滅亡の翌年 239 倭国の使節が 魏から



《親魏倭王の金印》(別名 卑弥呼の金印) を授かっているのです



(志賀島で見つかった 金印 とは 別の金印です)



ということは 公孫氏 と 倭国は



それなりの繋がりがあったとしても おかしくありません



〈晋書〉には 倭の女王卑弥呼の事が書かれており



出自は公孫氏だったという 解釈もあるくらいです



さて 話を 公孫樹 に戻します



公孫樹 公孫氏の名前からそう呼ばれるようになった



そんな説は どこにもありません



文献に ないからだけで 誰も知らないだけかも知れません




これから 全て根拠のない 私の妄想です



公孫樹 を日本に 根付かせたのは 実は 卑弥呼だった』



卑弥呼 滅亡した 先祖を偲んで 背振山麓に 公孫樹を植えた



卑弥呼の墓は 背振山麓にあり 「親魏倭王の金印」も そこに眠っている』




1800年まえの 誰も知らない 公孫樹 の謎。



30年前に 私が 見つけた 背振山麓 那珂川で見つけた 公孫樹 の苗木



私の 海馬(脳) の中で 過去と未来が 繋がったみたいです



眼を閉じれば



1000年後 私の子孫の 子供達が



大樹と育った あの苗木の 公孫樹の 楽しそうに 遊んでいる


そんな声が聞こえてきます





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中国陝西省の西安の南東にある終南山の仏教寺にある

樹齢1400年 の 公孫樹の大木








by nonkei7332 | 2018-01-09 18:41 | 古代史 | Comments(0)


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一つ松 幾代か 経ぬる吹く風の音の清きは 年深みかも


万葉集 61042 市原王



私訳〉


一本の老松よ あなた いったい どの位の歳月を見て来たのですか



吹く風の音が 清らかなのは 長い歳月を見て来たからなのでしょうね




千木の長 と呼ばれる〈松〉の木です



日本人の魂が宿る 神木 なのでしょう



年の始めには 多くの 神事が行われますが



そこでは はいつも 神の使いとしての存在があります



年男 やる重要な仕事として《 御松迎え 》がありました



山に入って松の木の枝を伐ってくることでした



歳神を迎える 門松 をつくるためでしたが 地方の家々では



門松を作る前にはこの松を 納屋や馬屋の入口や 台所に棚をつくり



神酒などを供えました



ところによっては そのものを 神棚に 祀り 御松様 として



供え物を並べたようです そのものが 歳神 だったのです



その松の姿は 《 三 階 松 》です





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鏡板の松





能舞台の 鏡板の松 〈三階松〉です



橋掛かりの白洲には



一ノ松、ニノ松、三ノ松 と三本の松が植わっています



能舞台に 描かれた 松の姿。



世阿弥の魂の中には 何が視えていたのでしょうか





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今宮神社 の社紋



三階松 社紋とする 神社が 各地にあります



その中でも 私が 印象に残る 神社は



高良下宮社



宮地嶽神社



今宮神社(京都紫野)




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三階松紋




三階松紋 は九州皇統王朝の紋 だといわれています



故百嶋由一郎先生も 三階松 については



『 九州王朝でも 第7代孝霊、第8代孝元、第9代開化として



表現された 紀氏系の正統皇統九州王朝の大王の流れである 』



といわれています




この三代の天皇の御名には 〈日本根子彦〉という



同じ名前がつけられているのです




孝霊天皇=日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)




孝元天皇=日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)




開化天皇=日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)






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国東 奈多八幡宮 の 松





隠された 真実の歴史を 〈松〉は教えてくれています










by nonkei7332 | 2018-01-03 12:30 | 古代史 | Comments(0)


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鬼の面


いよいよ 今年も カウントダウン です



正月 といえば 古代から 行われて来た 祭事があります



》(ついな) と呼ばれています



追儺とは 大晦日(旧暦1230日)の宮中の年中行事であり



平安時代の初期ごろから行われている 鬼払いの儀式



「鬼やらい」「儺やらい」と呼ばれている とあります




もともと 正月 とは 村人 歳神 を迎えるための祭事だったようです



民俗学者 「折口信夫」よると



歳神と言ふのは 毎年春の初めに 空か 山の上から 来る神で



年の暮れに 村人が歳神を 迎へに行く』と書いています



大晦日に 山に登って 日の出を見る 〈御来光〉もこれが起源でしょう



正月の門松も 歳神が 家を間違えないようにと作られた 目印でした



それでは お迎えした とは なんだったのか



折口は 〈まれびと〉とか 〈常世神〉と言っていますが



それは 海を渡って来た 先祖神 だったのです



一年の豊作と幸せを 村人にもたらす 先祖を祀り



厄災を祓う 神事こそが 正月だったのです



追儺》とは 本来 儺=鬼 を追慕する神事 〉だったのですが



いつの頃か 儺=鬼 を追い払う神事 〉へと変わっていったのです



ここに 古代歴史の 隠された 真実 があるようです



とは 〈儺の国〉きらびやかな かつての九州王朝 です



畿内藤原王朝にとっては 歴史から消さなくてはならない



復活させてはならない 恐るべき 存在だったのです



全ての厄災は 九州王朝 の祟りだと決めつけ



その存在を 〈鬼〉にしてしまったのでした



藤原広嗣の乱 菅原道真 に対する 異常なまでの 報復や修正は



それを 物語っています



追儺 の神事は 後世 節分祭 に同化されました



今でも 「鬼は外」と 言って 鬼を祓う 行事として残っていますが



古代の 村人は 「鬼は内」と言って 先祖を迎えたのです



この 矛盾 に気がつかせないほど 畿内王朝の 見事なほどの



歴史隠蔽 現代も引きずっているのです




明日は 冬至 です



かぼちゃ (南瓜) 食べて 柚子湯 に浸かって



〈一陽来復〉に 感謝しましょう



http://hisamitsu.exblog.jp/25202634/ 一陽来復については クリックして下さい




by nonkei7332 | 2017-12-21 15:15 | 古代史 | Comments(0)


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志賀海神社 左奥に見えるのが 摂社 今宮神社



私が大好きな 神社 ナンバーワン



志賀海神社 》です



志賀海神社 の創建 は明らかではありません



祭神は 綿津見三神 となっていますが 伝承によれば



もともと 勝馬 に鎮座していた 沖津宮 仲津宮 表津宮



1800年前に 勝山の麓(現在の地)に遷座したとされています



志賀海神社 には 〈摂社〉が 四社 ・〈末社〉が 十九社 あります



摂社 沖津宮(勝馬)・今宮神社・弘天神社(弘)・大嶽神社 (大嶽)です



この中で 今宮神社 だけが 何故か 志賀海神社 の境内 にあります



これは 想像ですが 現在地に遷座される前には



ひょっとすると 現在社殿のある場所には



今宮神社が すでに 鎮座していたのではないかと思えます





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今宮神社




今日は 《今宮神社》について 考えてみます



由緒書きによれば



祭神は 宇都志日金折命 : (うつしひかねおりのみこと)



住吉三神 : 安曇磯良丸をはじめ神孫安曇諸神



となっています






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さて 主祭神の 《宇都志日金折命》とは 誰のことでしょう



安曇磯良をはじめとする 安曇族の祖神 とされている 神です



宇都志日金折命 とは 奴国王大幡主 の皇子



〈豊玉彦〉のことなのです




豊玉彦 と 櫛稲田姫 とに生まれたのが 鴨玉依姫



鴨玉依姫 彦火火出見尊(ウガヤフキアエズ) こと 山幸彦



間に生まれたのが 安曇磯良 だと いわれています



豊玉彦の孫 が安曇磯良 なんです ( 百嶋系図参照 )





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さて 今宮 とはなんでしょうか (辞書には)


新たに生まれた皇子。


本宮から神霊を分けて 新しく祭った神社(別宮)


若宮・新宮(しんぐう)。



とすると 現社殿のある 場所には


今宮神社こと 豊玉彦を祀った 別宮があったのではないか


豊玉彦の 海の活動拠点として 志賀島の 存在が浮かび上がります


陸の拠点といえば そういえば


海の中道の根っこには 安曇郷 と呼ばれた 新宮町 ありますね



安曇磯良 を始めとする 安曇の故郷 志賀島


実は 祖父 奴国の皇子 神武天皇を支えた


豊玉彦(ヤタガラス)の 一大拠点 だったのです








by nonkei7332 | 2017-12-12 08:40 | 古代史 | Comments(0)


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三隈川



小春日和の週末 日田に行きました



バスが 朝倉付近に通る時



車窓から 災害地の 削り取られた 山肌や



流木が覆われた 傷だらけの町の景色が 目に入ってきます



朝倉 杷木 を通り 右手に 夜明ダム を見ながら



バスは 盆地である 日田の町に入って行きます



日田は 林業の町で 天領であった古い町並みが残る 豆田地区には



多くの観光客であふれていました



町の主役は 町の真ん中を流れる 鵜飼で有名な



九州一の大河 筑後川の 上流です



日田の人々は この川を 《 三 隈 川 》(みくまがわ)と呼び



郷土の川として 誇りを持っていて 決して 筑後川とは言わないのです




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日田 と三隈 の地名は 「豊日記」「豊後国志」に 記述されている



『日と鷹の伝説』に隠されています




日田盆地が 大きな 湖だった頃



ある日 東から 大きな鷹が飛んできて 羽根を水面につけると



大きな波が起こり 夜明(夜明けダムの地名)が決壊して



湖水は 筑後川に流れていってしまいました 鷹は北へ 飛んでいきます



後に残った干潟には 日隈 ・月隈・ 星隈 という



三つの丘だけが残ったのでした




日田郡 の以前の名前は 日高郡 といっていたそうです



日高 日鷹 ヒダカ 日田 に訛ったという説があります



残った三つの丘 を三隈といって 三隈川 の名前になったのでしょう



この昔話は 古代史ファンには とっても 魅力ある お話です



まず 地名の 〈隈〉について



百嶋先生 はこんなふうに話されています




隈とは集落という意味です この隈を使う人々が



九州王朝の招きでこちらのこの地区に異動してきた人々で



この地区とは筑後川流域を連想し てください



日の隈 なんなんの隈が沢山ある 小郡市にも



なんなんの隈が沢山ある・・・』




〈隈〉と言われる種族が 東から(南からという説もある)やってきて



筑後川流域に住み着いた やがて その勢力は 北へ向かう



福岡にも 月隈 ・干隈 ・雑餉隈 など 隈の地名はあります



〈東から飛んできた鷹〉いったい どんな種族だったのでしょう



考えられるのが 秦氏 ですね



はた 日田 ひた になったという説もあります



秦氏 新羅系の渡来人で 豊前 を拠点にした人々です



秦氏の頭領 金山彦 その血を受け継いだのが 新羅の王子



天日鉾(アメノホヒ) こと 素戔嗚(スサノウ) だったのです



これらの 隈の種族が 神武九州王朝 を支えていきます





日田の人々の あらゆる苦難にも耐え抜いてきた



古代の血の誇りが 三隈川に残っているのです



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帰りの 「駅の道」で 日田の 南部中学校の子供達が



災害支援の募金活動を行なっていました



カメラに写った 子供達の 一人一人の顔を見てください



なんと 素晴らしい いい顔をしているのでしょうか



日田の町の 最高の御土産をいただいたようでした








by nonkei7332 | 2017-12-01 22:44 | 古代史 | Comments(0)

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真鍋大覚さん 「灘の國の星 拾遺」



記事の中で 何度か 引用させて頂いていましたが



今回 絶版 となっていた 「灘の國の星」が 再版されました



初版が 昭和57331 となっています



「灘の國の星 拾遺」の方は 昭和60330 が初版です



欲しかった 本でしたので こうやって 二冊並べてみると



嬉しさがこみ上げて来ます




読みこなすには かなり 難解な 本ではありますが



処処に エッと思うような 初めて知る 知識が散りばめられています



それは まるで 夜空を 埋め尽くした 星の中から



ひと光の 自分の星を見つけたような 喜びでもあります




この本との出会いは



ブログ『ひもろぎ逍遥』の 綾杉るな さん との出会いでした



真鍋大覚の世界を ブログの中で 勉強会の中で



数多く 教えていただきました



実は 「灘の國の星 拾遺」を 手にしたのも 綾杉さんから



那珂川町の図書館に まだ 在庫があるかもしれませんよ と



入手の仕方まで 教えていただいたからです



しかし 「灘の國の星」は何処にもありませんでした



那珂川町 に 再販を 強くお願いしておられたのも 綾杉さんでした



真鍋大覚研究の第一人者である 彼女が



「真鍋ノート」という 項目別の ファイルを作っておられるのを



知っておりましたが 最近 ブログ「ひもろぎ逍遥」の中で



「真鍋ノート」を 公開されているの知りました



愛読者として 嬉しい限りです





秋の夜長 ジャスミン茶 飲みながら



遠く 古代の人々の 星に託した 祈りの世界に 想いを馳せる



私の 至福の刻 でもあります





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真鍋大覚 氏 の プロフィール






by nonkei7332 | 2017-11-04 12:23 | 古代史 | Comments(0)


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那珂川 と 背振山





遠い記憶です



季節 は 晩秋



朝早く 起きて 庭にでると 霜柱が立っていました



民家の屋根の上から 《背振の山々》が見えます



山頂付近には 雪が降ったのでしょう 白く輝いていました



背振 白くなると 雪が近いぞと 冬支度を急いだものです



背振山 私の原風景のひとつです





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比叡山 延暦寺



これまで 私は



〈比叡山〉〈信貴山〉〈英彦山〉〈国東〉と



神仏習合の霊山を訪ねてきました



いずれも 修験道の霊場でもあり 山の神が御座する



《なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼれる》と



西行法師 が歌ったような 聖地でした



年内 には 白山 (石川県) 行く予定にしています



これらの地を訪れるたびに思うことは



仏教伝来 神仏習合 以前には これらの地には どんな神が



祀られていたのかという 素朴な疑問でした



そんな中でも とても気になる 存在が 在ります



それは 白山 です





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白山市 から見た 白山の山並み




遠い昔 この国の住む人々の前に



南の海を越えて渡来してきた がいました



人々は それらの民を客人(客神) と呼びました



幾たびとなく 訪れる海人達 船を操り わずかな平地で稲を植え



海岸線伝えに 多くの村を作っていったのでした



多くの海の幸をもたらした 《海の神》です



やがて 北の海を渡って 鉄を作る 客人(客神)たちもやってきました



山に入り 鉄をつくり 里に降りてきては 鍬や鎌の農具を



そして 山の幸をもたらした 《山の神》です





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百嶋 系図




白山 とは 白き神の住む山 です



白き神 《菊理姫》(くくりひめ) 《白山姫》(はくさんひめ)と



呼ばれる 女神でした



百嶋説 》は 菊理姫 天御中主神 (アメノミナカヌシノカミ) だとします



古事記 には まだ 天地も定まらず 混沌とした時に



最初に現れた 宇宙根源の神だと書かれています



造化三神 と呼ばれる もっとも最初に出てくる中心神です



それに 続く 二神は



高皇産霊神 (たかみむすひのかみ)



神皇産霊神 (かみむすひのかみ) です



《百嶋説》では 高皇産霊 高麗 大伽耶国の王 高木大神 とします



神皇産霊 倭の奴国王 櫛田の神 大幡主神 とします




系図を見るとわかるように



天御中主 大幡主 の伯母にあたります



主(ぬし)の神々 白族 と呼ばれ



豊玉彦(豊玉主) 大国主 事代主 なども 博多を中心に展開した



あの 奴国 (春日市 那珂川町) の神々 なのです




百嶋研究家 の中には 天御中主 〈中〉は 那珂川の那珂 ではないか



という説を言われる方もいます そうだとすると



天御中主・菊理姫・白山姫 の坐した山とは



那珂川 の水源の 背振山 なのかもしれません





真鍋大覚 さんは 『儺の国の星 拾遺』の中で



〈儺〉或いは 〈奴〉は 夏を知らぬ残雪の形容であり



花の白さの形容である また



倭人伝に出る 奴国、日本書紀に出る 儺縣(なかのあがた)の



“ぬ“ “なか” 韓語 nun(ヌン) 即ち 〈雪〉或いは



霧雲の過冷却状態 即ち 〈霧氷〉のことである



と書かれていて



かつての 背振山 かなり雪深き 白き山であったようです



古い記録によれば 背振の雪が 6月まで残っていたともいいます





石川県の白山連山 朝鮮半島の北にある 長白山(白頭山)



古代 倭人 移り住んだ 土地から見えた だったのかもしれません



故郷 奴国 にそびえる 白き山 背振山 を偲んで



つけた 名前ではなかったのか





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東山魁夷 『 白い朝 』





私の 海馬の奥深く眠る 記憶は



幼き頃の 背振の景色 と 古代 白き神の住む山を



繋いでしまったようです




菊理姫 の里 》それは 背振の山々 だったのです











by nonkei7332 | 2017-10-19 23:46 | 古代史 | Comments(1)

by ヒサミツ