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《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて


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地震前の 鯰三神社




《 鯰三神社 》を訪ねました

阿蘇熊本に残る 《大鯰伝説》で

大鯰が流れ着いたとされるところです

今も 〈鯰〉という地名がのこり そこにある 神社です

正式には 〈 三社宮鯰三神社 〉といわれています








嘉島町史 に拠れば

鯰村には 上社 下社 西社 という 三つの 神社があって

それぞれ 違う祭神

《 上社には 四面大菩薩 ( 高木大神?) 》

《 下社には 八幡大菩薩 ( 大幡主神?) 》

《 西社には 国祖大明神 ( 国龍神(草部吉見)?) 》

が祀ってあったのを 習合したとあります

(?は私見です)

とすれば この鯰神社の祭神 はいずれも 鯰をトーテムとした

古代熊本の 祖神 なのでしょうか



菊池の乙姫神社 山鹿の二宮神社など 肥後から 筑後 肥前にかけて

多くの神社で「鯰」が祀られています

各地にある 鯰の宮 の中から 私が この宮を 訪れた目的は

この宮こそが 元宮 だと思ったからでした

そして なによりも この地を 護る 産土神 の

荒ぶる神霊を 鎮めるためです



熊本県神社庁 によれば

今回の地震で 県内の社殿 約130 社

鳥居 約230基が 全壊したといいます



鯰 の 宮 (嘉島町鯰)_b0325317_13153324.jpeg


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荒れ果てた 境内には 人の気配はありませんでした

無残にも壊れた 台輪鳥居 と 傾いた 神門 には 近づけません

拝殿に貼られた 危険の赤紙 が 復旧の厳しさを物語っていました

そんな中でも 神木の楠は 青々と繁っていました





40年前 この地を初めて訪れた私でした

思い出と懐かしさの詰まった ふる里です

今でも お世話になった 方々が住んでおられます

傾いた 赤紙の貼られた 母屋のそばで

こんな 私の訪問を 喜んで 頂きました


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《 もうひとつのルーツ 》参照




 

# by nonkei7332 | 2016-06-23 12:40 | 古代史 | Trackback | Comments(0)

山法師(やまぼうし)_b0325317_11134545.jpeg
やまぼうし




山法師(やまぼうし) という 花です


中央の花穂が 丸坊主の頭みたいなので

比叡山延暦寺の法師になぞえ


山法師と名ずけられたといいます

別名で 山桑(やまぐわ)・柘(つみ) といいます

万葉集では 柘の枝(つみのえ)という 名前で 三首詠まれています



《 この夕 柘のさ枝の流れ来ば 梁(やな) 打たずて取らずかもあらむ 》

万葉集3ー386


【 註釈 】

夕暮れになって もし 仙女に化身するという柘の小枝が流れてきたならば

簗は打たないで 柘の枝を取らずしまいになりはしないだろうか

(簗とは 魚をとるための 仕掛け)



註釈だけでは 何のことなのかは さっぱり解りませんが

《 柘枝仙女伝説 》という話をバックにした歌だそうです


昔々 吉野の里の美稲(うましね)という若者がいました

吉野川に簗(やな)を打って アユをとっていました

ある日の事 上流から 柘の枝 が流れてきて簗にかかったので

家に持ち帰っておいたら 柘の枝 が美しい女性になりました

美稲はびっくりしましたが その女性を妻に迎えて

毎日幸せに暮らしました




美稲(うましね)という 皇子と柘媛 の物語なんでしょうか

いったい誰の事なんでしょうね

開化天皇 と 神功皇后 かも しれませんね

それにしても 川で遊んでいて 柘の枝が流れてきたら

男は ドキドキしますよね 美女に変わるかもしれないですから



まったく 罪(つみ) つくりな 話でした



山法師(やまぼうし)_b0325317_11144000.jpeg






# by nonkei7332 | 2016-06-18 11:05 | | Trackback | Comments(0)


山笠 とは 夏越の祓い_b0325317_15185457.jpeg
下鴨神社 糺の森



古代の人々は 鎮守の森で

一年に二度だけ 冬と夏 に 神様から 霊力をもらいました

これが 祭りの始まりです

神は 海の彼方から来るのでしたが いつの間にか

山から来る神や 天から来る神に 変わっていきました

神が降臨(おり)てくるまえに 人々は まず 身を浄めます

神の威霊を 新たな心身で 受け取るための 禊の儀式です

冬の禊を 『年越祓』

夏の禊を 『夏越の祓い』『名越祓』『水無月祓』などといいます

神が降りてくる目印として〈標山〉(しめやま)という

松や杉で作った高い木の棒に 旗や幟をたてます

この〈標山〉に神霊が降ります

各地の夏まつりで この 標山に 飾りつけしたものが

山車(だし)・鉾(ほこ)・山(やま)・地車(だんじり) と呼ばれました

それとは別に 人の形をした紙人形 人形(ひとがた)に息を吹きかけたり

その紙人形で体を撫でて穢れを人形に移した後

川や海に流すという厄払いも行われていました


これが 人形の起源です



山笠 とは 夏越の祓い_b0325317_15261096.jpeg



博多の夏まつり は山笠です

《博多祇園山笠》の起源については 幾つか説がありますが

通説となっているのが 「仁治2(1241)年説」です

博多で疫病が流行り 承天寺の開山の 聖一国師(弁円)が 人々の担ぐ

施餓鬼棚に乗って 祈祷水を撒いて 疫病を鎮めたとされます

これが 櫛田神社の祭神 のひとつ 素戔嗚尊(祇園神) と結びついて

櫛田神社の祭礼になったという説なのです

〈博多祇園山笠振興会〉も この説をとっています


あくまでも 通説なのです おかしなことも幾つかあります

まず一つは 仁治2年頃に 疫病が流行ったという記録がないこと

もう一つは 施餓鬼というのは 仏事の法会であって 神事ではないこと

たしかに 当時は神仏混淆の世相であって 祇園神そのものが

素戔嗚と牛頭天王が神仏習合した 神と考えれば おかしくもないのですが

仏教伝来以前 まだ 櫛田の杜に

社殿が出来る前の 祭りの様子が気になりました

文化4年(1807)に書かれた

『 筑前 櫛田社鑑 』原田種美著 に 思わぬ 記述がありました


昔より 山笠のいはれあり

水無月祓 に 形代とて 茅、麻の葉にて 人形を作り

( 是を賀茂川祭りというなり )

身を撫でし時に となえる歌に

『水無月に名越しの祓する人は 千と世の命延ぶ 』というなり

となへの歌は外に数あり

是を川え流すと言へり

是 我が身の不浄を潔白に解除するの法にて

俗に是を 撫物(なでもの)と言う

( 当社の社宮 祝部家 等 水無月の祓に今是を用う )

山笠も其始めは 茅の形代の例にまなびしが

永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 云々



博多の山笠の起源は

賀茂川祭り(夏越の祓い) だと書かれています


背振山麓に住む 賀茂族 が背振神社に残す


夏越の祭りが起源なのです

賀茂川祭りとは 京都下鴨神社の 《みたらし祭り》のことでしょう

下鴨神社の祭神は

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)賀茂族の祖神 です

その神こそ ヤタガラス である 古代博多の皇子 《豊玉彦》なのです


2015/11/10 拙ブログ《鴨(賀茂)の流れ》を参照ください

〈 永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 〉と書かれているように

博多の夏越の祓い が 祇園山笠(いかめしき作り山) と 変わったのが

永享年間 だと書かれています

さて 永享年間に 何があったのでしょうか

同じく『 筑前 櫛田社鑑 』には こう書かれていました


永享九年 (1437) 春三月に 博多より

京都の木偶師土偶師 を召かかえんとて上京せしが

小堀善左衛門 とて四条に居住せし木偶師を召抱えて 帰国す

櫛田神社内へ居宅を作りて 扶持米を遣わし

その年の作り山に 甲冑を着せ 旗幡を ささせ さまざまの

模様を作りて 祇園祭礼を勤む



櫛田神社 が 京都から 一人の男を 連れてきます

夏越の祓い祭り を いかめしき作り山 に変える為に連れてきた

若き 人形師 でした

《 小堀善左衛門 正直 》

博多山笠人形の始祖 であり

明治時代まで 13代 続いた 小堀流細工人形の 小堀家でした


2014/4/25 拙ブログ 《ルーツの旅》参照下さい



博多の祭りを

〈夏越の祓い祭り〉から 〈祇園山笠〉へと変えた

張本人 が 私の先祖 だったとは

驚きの ファミリーヒストリー でした


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明治初年
最古の 博多山笠の写真
高さ16m です







# by nonkei7332 | 2016-06-16 15:47 | ルーツ | Trackback | Comments(0)


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久しぶりに 兄弟三人で 大宰府へ行きました

お目当は 九州国立博物館 の 特別展『始皇帝と大兵馬俑』

そして 『花菖蒲』です



まずは 腹ごしらえ

姉が 穴場を見つけていました

姉の家の側にある 《介護付有料老人ホーム アクラス五条》の中にある

食事処「よっと~と」

日替わりランチ 550円(コーヒー・デザート付)

この日のメニューは 〈酢鶏〉でした かなり美味しかったです

コーヒーは 場所を変えて となりの 「カフェブリュネ」

さすが 高級老人ホーム アンティークな調度品に囲まれて 至福のひと時


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参道は 平日にもかかわらず


相変わらずの チャイニーズ王国でした


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特別展は 今週一杯ということなのか


花菖蒲満開に合わせてなのかかなりの人の波でした


〈兵馬俑〉については また後日 記事にします


何れにしても 20世紀最大の考古学発見と言われる 〈兵馬俑〉

始皇帝という 一人の男の為せる術の壮大さは

海馬の奥深くに眠る 記憶の魂を 充分に 揺さぶってくれました


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東神苑 の 菖蒲池 には


約55種3万本の 「花菖蒲」が 咲き誇っていました

池のほとりの茶屋に座って 抹茶をすすりながら しばし 無言。

池の向こうに見える 緑濃き 四王寺山 も 美しかったです


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# by nonkei7332 | 2016-06-09 13:32 | 菅公・太宰府 | Trackback | Comments(4)


二人の 旧藩士  ②_b0325317_09481560.jpeg
博多 出会い橋 にある 「三人舞子像」




博多には 行町 という町があった


古くからの町だったが 今はもう町名も残ってはいない

(現在でいえば 昭和通り(通称50メーター通り) 付近になる)


《806年》空海(弘法大師) が

唐 での修行の帰りついた港は 博多の津であった

空海は 早速 一軒の船宿を買い取り そこに 唐から持ち帰った

仏像や教本や仏具を備えた一寺をこの町に建て

やがては 真言密教が 東へ長く広まるようにと 東長寺となずけた

( 現在は 大博通りに面している 御供所町に移った 南岳山東長寺である )

人々は はじめは 勤行(朝夕の読経)の町 と呼んでいたが いつのまにか

行の町 行町 となったと言われている



二人の 旧藩士  ②_b0325317_09491715.jpeg
明治25年 博多町図



この 行町 に 大工の 《 成 田 善 兵 衛 》が住んでいた

実は 私の 母方の 高祖父 になる人である

成田家 は 旧藩士だと伝えられてきた 黒田本藩なのか

士藩の直方藩なのか 秋月藩なのかは定かではないが

江戸の頃 扶持を捨て 町人となったようである

土居流沿いの 西方寺前町 に住し 代々 大工を営んできた

幕末の頃 博多史誌『石城遺聞』に 西方寺前町の町年寄として

〈成田宗次郎〉の名前が 残っている 善兵衛との関係は不詳だが

町の重鎮として 大工の棟梁 をしていたのかもしれない



さて 話は 前回の話しに戻るが

相生町に 米倉藤三郎 が建てた料亭『大寿楼』の話をしたが

相生には 大寿楼のほかに 名の売れた料亭が三軒あったといわれている


『松の家』『満月』『長門』がそれである

実は この『松の家』は

明治の中頃 大工の 成田善兵衛 が転業して 始めた 料理屋 だった

大正になると 『満月』も譲り受けたようだ

私は 母から 『 成田 の 本家(ほんや)は 料理屋をしていた 』という話を

〈満月〉の店の名前といっしょに 聞いたことがあった

善兵衛には 後嗣 がおらず 二人の娘 「ルイ」と 「テフ」がいた

ルイ には 善七という婿養子が もらい 料理屋を継いだが

善七がどういう人物であったのかはわからない

一方 『テフ』には 下土井町に住む

山笠人形師 小堀家十二代 〈 小堀甚三 〉の弟


『小堀甚兵衛』を婿養子にもらった

分家すじにあたる この二人こそ

私の 曾祖父 曽祖母 なのだ

『 土居流 の恋 』という 拙ブログの記事があります


券番の取締という 男 〈 米倉藤三郎 〉と

料理屋の旦那 だった 〈 成田 善兵衛 〉とに

どういう繋がりであったのかは わからない

旧藩士あがりの この二人の名もなき博多町人が

博多花柳界の 華々しき 一時代を 作っていったことには

間違いない ようだ



座敷で よく 歌われたであろう 〈 黒田節 〉のほかに

〈 正調博多節 〉という 座敷歌がある

有名な 一節 がある


《 博多へ来る時ゃ 一人で来たが 帰りゃ人形と 二人連れ 》



二人の 旧藩士  ②_b0325317_09422160.jpeg
博多人形 ごとう 提供





参考文献
小田部博実著「博多風土記」


# by nonkei7332 | 2016-06-09 09:50 | ルーツ | Trackback | Comments(0)

by イソラ