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《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて



秋の風に誘われるように


二年ぶりに 香椎宮を 歩いた


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御神木「綾杉」のそばの立て札に 歌が二首


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『 ちはやふる 香椎の宮の 綾杉は 神の みそぎに たてるなりけり 』


「新古今和歌集」詠み人知らず


『 秋立や 千早ぶる 世の杉ありて 』


(明治29年 夏目漱石が松山から熊本五高へ赴任途中 香椎宮に寄った時に 詠んだ歌)


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「ちはやふる」「千早ぶる」とは


「神」に続けるための枕詞である


千早(ちはや・襅)とは


日本において古来より神事の際に用いられた衣装で、


主に女性が着た(Wikipediaより)





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香椎かもめ大橋 から 博多湾をみる



帰り道 なぜか 宮沢賢治の詩を口ずさんでいた


みんな むかしから の きやうだい なのだから


けつして ひとりを いのつてはいけない


(青森挽歌)より







# by nonkei7332 | 2014-09-20 21:16 | 古代史 | Comments(2)


《 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ 》
10巻2110


誰だあれはと 私のことを聞かないでください 

九月の露に濡れながらでも あなたを待っている 私です


夕暮れ時を「たそがれ」というのは
『 誰そ彼 』(たれそかれ)が語源です

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《 臥いまろび 恋ひは死ぬとも いちしろく 色には出でじ 朝顔の花 》
10巻2274


ころげまわって 恋焦がれて 死のうとも はっきりとは顔色には出しません

朝顔(桔梗) の花のようには


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《 道の辺の いちしの花の いちしろく 人皆知りぬ 我が恋妻 》
柿本人麻呂11巻2480


道端の いちしの花が 目立つように 私の恋しい人のことを

みんなに知られてしまいました


〈 いちしの花 〉とは 彼岸花のことです
〈 いちしろく 〉とは はっきりと目立つ という意味です

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《 秋風の 寒く吹くなへ 我が宿の 浅茅が本に こほろぎ鳴くも 》
巻10 ー 2158


秋風が寒く吹くにつれて 私の庭の 茅萱(ちがや)のもとで

コオロギが鳴いています


白い毛 を 密生した花穂が 一面に風にそよぐ光景は 大変美しい

若い花穂は 古くから ツバナ と呼ばれている。



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( 秋の夜の 月かも君は 雲隠り しましく見ねば ここだ恋しき )
10巻2299


あなたは雲に見え隠れする 秋の夜の月のようですね 

しばらく会わないと こんなにも恋しい


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# by nonkei7332 | 2014-09-15 13:01 | 万葉集 | Comments(0)


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山車人形


《 からくり人形 》の歴史は古い


そもそも 人形は ヒトガタと呼ばれ


神の依り代や形代として


人の 穢れをうつし 祓う為の神事の道具であった (流し雛など)


この 人形にいつしか 繰りの技術が加わり


祭りの出し物となったり


布教興行の呼び物などに 変わっていく


最初に文献に残る からくりは


斉明天皇四年(658年)


「沙門の智踰が指南車を造る」と日本書紀にある


指南車(しなんしゃ)とは


乗っている仙人の人形が常に一定の方向を指し示す車のこと


斉明天皇六年(660年)5月、


中大兄皇子(後の天智天皇)が


「初めて漏尅(トキノキサミ)を造り 民をして時を知らしむ」


とあります。


また、天智天皇(661-671)の10年4月25日に


「始めて漏刻を新しい台に設置して鐘鼓を鳴らして時を告げた」


と『日本書紀』に あります。


太陽暦に直すと西暦671年、6月10日となり


今日の「時の記念日」となっています



このくわしい内容は


綾杉るなさん の 「ひもろぎ逍遥」に 素晴らしい記事があります

是非 ご覧になってください


《 恵蘇八幡宮(4)こんな所に漏刻(水時計)があったよ 》

( http://lunabura.exblog.jp/tb/15209580 )



人を模した 最古の「からくり人形」は、


高陽親王(桓武天皇の第七皇子)の 機械人形 です。


旱魃の京都の水田に、両手に器を持った四尺ほどの人形を創り、


人がその器を水で満たすと人形は器を揚げて


頭から水をかぶるという からくり人形 で


その動作が人気を呼んで、


その水田は潤ったという話が『今昔物語』に残っています


室町時代に入ると からくりは 「あやつり」といわれるようになり


貴族の日記などに その記録が残っている


『看聞御記』1421年・応永28年


「あやつりて金を打ち舞う人形を盆踊りの会場に立てた」


『看聞御記』1436年・永享8年


「 一の谷合戦や牛若弁慶の物語をあらわしたあやつり燈籠が宮方へ進上された」



「宮中への捧げ物としてからくり細工の鶴亀の置き物が使われた」



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京都における からくり人形の作者は、


昔は 木偶師・細工師・細工人 などと呼ばれた


その後 「からくり人形」 は大きく三つに分かれていく


「座敷からくり」「芝居からくり」「屋台からくり」である



〈 座敷からくり 〉


「御所人形」と呼ばれ


仕掛けも精巧味を帯び 茶運人形 や 品玉人形 などの


座敷からくり が多くつくられ


公家や大名 豪商などの高級玩具として普及していった



〈芝居からくり〉


江戸時代 阿波国の出身 竹田近江が


寛文2年(1662年)大坂道頓堀において、


からくり仕掛けの芝居を興行した 竹田芝居


竹田からくり とも呼ばれ


大坂の名物となり のちに江戸でも興行されて評判となった。


その後、竹田からくり芝居は、


竹田近江四代百年に亘り、日本各地で公演されていった


また その芸風は


人形浄瑠璃 歌舞伎へと 変遷していったと言われている


〈山車からくり〉


神社の祭礼で 神の依り代が乗る 山車に


からくり人形 を乗せ 神事を中心に据えた からくり であり


祇園会の山鉾にも


『蟷螂山』(とうろうやま)という からくり人形がある


江戸時代に なると


竹田近江・吉田平次郎などの京都のからくり人形師により


尾張で屋台のからくりが盛んになっていく


彼らの流れをくむ 地元の人形師も育ち


彼らを「尾陽木偶師」という


玉屋庄兵衛、鬼頭二三、竹田藤吉、隅田 仁兵衛


などの人形師の名前がのこっている


その中でも「玉屋庄兵衛」が 有名で


享保十八年(1733)から


名古屋に移住した後も 歴代 多くの名品を作り続け


現在でも九代目がその伝統を 引き継いでいる





【 からくり人形に関するよもやま話 】


《 九州久留米出身の からくり人形師 田中 久重 》


 寛政11年(1799)~明治14年(1881)


幼児から発明の才能があり「からくり義右衛門」とも呼ばれた


若い頃は地元の祭りや大阪 江戸などへからくり興業に出かけた


その後、文政7年(1824)に


家業を弟に譲り関西でからくり修行をし、


御時計師になった。


万年時計・亀の盃運び・弓曳き童子 のからくり人形は高い評価を得た


幕末には佐賀藩に仕官し、


蒸気機関車の模型や蒸気船の建造に携わった。


明治8年に東京で田中製作所を設立した。


今の 東芝 である



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田中久重の 「弓曳き童子」




《 博多山笠人形の始祖 小堀善左衛門は 京都の からくり人形師 だった 》


『 小堀氏略系図 』(福岡市博物館所蔵) によれば


〈 野見宿禰後胤京都四条之住木偶師 〉


とあり


『 筑前櫛田社艦 』(櫛田神社所持の社伝) には


〈 永享九年(1437年) 春三月に博多より


京都の木偶師土偶師を召かかえんとて上京せしが、


小堀善左衛門とて四条に居住せし木偶師を召抱えて帰国す〉


とある


時は 室町時代


京都のからくり人形師 の名前は どこにも 残っておらず


文献に残る 貴重な記録でもある






〈野見宿禰〉〈傀儡子〉〈祇園会の人形師〉

我が魂に宿る 先達の魂よ

磯良の海に 安らかに 眠れ


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ぼくは かきとめて おかう

世界が 毒をのんで苦もんしてゐる季節に

ぼくが犯した罪のことを 

ふつうよりも すこしやさしく 

きみが ぼくを非難できるような 

言葉で

 《 吉本隆明 / ぼくが罪を忘れないうちに 》より






〈参考文献〉

玉屋庄兵衛後援会 『祭りだ ! 山車だ !』

千田靖子著 『からくり人形の宝庫』





# by nonkei7332 | 2014-09-12 20:53 | ルーツ | Comments(2)



大国主命と少彦名命については 前回触れてみましたが

もう一人 どうしても 触れなくてはならない 神様がいました


事代主命 (ことしろぬしのみこと)

〈 別名 恵比寿様 〉



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大黒様




大国主命の子供であって

少彦名命が 常世の国に帰った後を託され

少彦名命の意志を継いだ「託宣の神」といわれた為に

少彦名命=事代主神 のイメージが強い神様です


後世 〈七福神信仰〉の中で「 エビス様 」といわれ

大国主命の「 ダイコク様 」と一緒に 多くの神社の祭神となっています


さて この エビス様 いろんな話がありますが

えびす宮総本社の西宮神社で「十日えびす」を前にした正月五日

人形遣い達の祖神、百太夫神を祭る境内末社

百太夫神社(ひゃくだゆう じんじゃ)で

百太夫神社祭という祭りがおこなわれる といいます


その由来については 西宮市の産所町に 史跡がありました


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〈 傀儡師故跡 〉 

                          
この附近は昔〈産所〉といわれた所で

1690年頃には


40軒程の傀儡師(人形操を業とする者)が住んでいた。 
     

傀儡師(くぐつし) は遠く平安末期に現れ


傀儡師、木偶まわし、人形まわしなどと呼ばれ


諸地方を巡廻興業していたが 室町時代にはいると


その一部がこの産所の地に住みつき


西宮神社の雑役奉仕のかたわら 神社のお札を持って諸国を巡り


お得意の人形を踊らせながらご神徳をひろめた。
    
    
1590年頃には


その人形芸が「えびすかき」又は「えびすまわし」といわれて


全国的に知られるようになり


たびたび京都の宮廷で天覧を受けるまでになった。


さらにその後発展して



淡路の人形屋や文楽人形浄瑠璃芝居へと成長していった。

 
 
しかし1850年頃から


彼らはおいおいこの地からなぜか姿を消してしまった


おそらくは世相の変遷や好みの変化によるものと思われる。

   
   傀儡師らは永らくこの産所の地に住み


祖神を信ずる 百大夫 を崇拝して神社にまつり


守護神としたが


その社は産所の地が1840年頃に衰微するに至った時



すぐ近くの西宮神社の境内に移されて現存している。 

       

   昭和63年3月31日

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傀儡子(人形遣い達)の祖神 百太夫については

平安時代の文人 大江匡房の『 傀儡子記 』には


《 男は馬に乗り弓を持ち、狩猟で生計を立てる。

長剣を持って跳躍し、短剣をもてあそぶ類の者たちである

・・・石を魔術で金銭に変じ、

草木を鳥獣に変え、よく人目を惑わす》


面白いのは 〈石を魔術で金銭に変える〉ということだが

これは 鉄の鋳造技術を持った 鉄の民 であったということであり

そして 〈草木を鳥獣に変えよく人目を惑わす〉とは

からくり人形 を使って 人びとを驚かせたということだろう

また


《 夜は百神を祀りて 鼓を打ち 舞い 喧嘩し

もって福助を祈る》


百神とは 百太夫のことであり

その舞は 傀儡子舞( 細男舞)と呼ばれていることから

傀儡子が祀った神こそ

阿曇磯良 (あづみいそら) にまちがいないようです

傀儡子の魂の在処は、志賀島のようです


少彦名命(海神)の託宣した 事代主命(エビス)を

全国に拡めた 傀儡子(クグツ)

その 傀儡子 が祀る 守護神(祖神)は 安曇磯良(海神) だった

いにしえの魂が繋がったみたいですね (^_^)


次回は からくり人形 について








# by nonkei7332 | 2014-09-11 18:55 | 古代史 | Comments(0)

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今日(8日)は 中秋の名月 である
名月だから まんまるお月さん と 思いきや
実は 今日の月は まんまるではない
何故かというと
旧暦の1ヶ月は 月の満ち欠けの周期で 平均すると29.4日となる
しかし、暦は1日単位で数えるから そこに 誤差ができ
満月と暦の上での「中秋の名月」に1〜2日のずれが生じてしまう
まんまるお月さん(満月)は 明日(9日)なのだ

話は変わるが
昔から お月さんで 『ウサギが餅をついている』と聞かされてきた
ほかにも 世界中には いくつかの 月影の伝承 があるが

宮古列島の 多良間島 には 月には
『天秤棒をかついだ 男がいる』
という話がある



太古の昔 月と太陽は夫婦だった
妻である 月の光は 夫の 太陽の光よりはるかに強く明るいものであった。
夫は羨望のあまり 夜歩む人間には目をくらますような光は不必要だという口実で
少し 光を自分に譲るよう しばしば 月に願ってみたが
しかし 妻は夫の願いを聞き入れなかった
そこで夫は 妻が外出した時に 急に後ろから忍び寄り
月を地上に突き落としてしまったのだ
盛装をしていた月はぬかるみに落ちてしまい全身 汚れてしまった。
この時 一人の農夫が水の入った二つの桶を天秤棒にさげて通りかかった
農夫は泥の中で必死にもがいている月の姿をみて 泥の中から出してやり
桶の水で綺麗に洗ってあげた
それから 月は蒼穹に上って世界を照らそうとしたが
この時以来 明るく輝ける光を失ってしまつた。
月はお礼として 農夫を月に招き この農夫は今もなお 月に留まっていて
満月の夜には 二つの天秤棒をさげて運ぶ姿が はっきりと見えるという



もうひとつ 中国から日本に伝わった 『桂男の話』という古い 伝承がある


西河出身の男は 姓は呉、名は剛といった
呉剛は 月に住む前には 天界を飛翔していたが 仙術を学んだ罪で 月にある
月宮殿という 大宮殿で 500丈(約1500メートル)もの高さの 桂木を
切り続ける 罰を受けていた
(斧をふるって桂に伐りつけると 伐るそばからその伐り口がふさがってしまう)
呉剛 を 桂男 といい 満月の夜には 桂男が斧をふるっている姿がみえるという



中国神話の桂(中国の桂は木犀のこと)は月に生えている木とされ
桂男は月の世界に住んでいる伝説上の男になっていく 日本では 物語や
歌のなかで かつらお と詠まれ やがては 神話の「月読命」と 「桂男」は
同一視 されるようになる

今日は 中秋の名月 だから 月の住人となった
〈天秤棒をかついだ農夫〉と〈桂男〉について 話をしぼってみる

京都祇園祭山鉾のひとつに月鉾 』がある(下の写真)
《 月鉾の由来 = 月鉾は、文献によりますと、応仁の乱以前よりあり、
その昔は「 桂男鉾 」と呼ばれていました、鉾頭に“新月”をいただき、
天王座には“月読尊”を祀っていることから、
その後“月鉾”と呼ばれるようになりました 》


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じつは 京都には残っていなかった 「桂男鉾」が
徳島県の 「 宍喰祇園祭の大山鉾 」
いにしえの面影を残している事を知った(下の写真)


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ちまたで言われる 美男子の桂男というより
色黒の厳めしい 海人の風貌である
天秤棒を前後に担いでいる その姿は
海神 安曇磯良が 潮盈珠・潮乾珠 の二つの珠を担いでいる姿に見えるといえば
私の妄想になるのだろうか

〈桂男〉〈秦氏〉〈月読命〉〈安曇磯良〉
この流れに 〈少彦名命〉が繋がれば かぜん 面白くなるのだが ⁉︎

いい天気です
今夜はいい月が 見れそうですね
お月見のお団子 どうしよう 😦



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# by nonkei7332 | 2014-09-08 14:23 | | Comments(0)

by ヒサミツ