周防国(山口)の守護大名 大内氏の先祖は、
百済国 第26代聖明王の第3王子・琳聖太子(りんしょうたいし)
と言い伝えられている
15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば
、
琳聖王子は 推古天皇19年(611年)に
百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。
聖徳太子から多々良姓とともに領地として
大内県(おおうちあがた)を賜ったという
その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は大内介と名乗り、
以降歴代の当主もこれを世襲した
鎌倉 室町にかけて 西国一の戦国大名に駆け上がった 大内家は
31代 大 内 義 隆 の時代に絶頂期を迎え
京都に劣らぬ 絢爛たる大内文化が花開き
山口が「西の京」と呼ばれるまでになった
しかし 琳聖太子という人物名が
当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く
琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した
大内家の自作自演との説もあり真偽は謎である
ただ 多くの戦国大名が 「源平藤橘」や
その他の中央の貴族の嫡流を名乗ったなかで
唯一 百済の末裔を名乗った 大内氏の狙いは なんだったのか
興味深い話でもある
『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には
琳聖王子の 『降星伝説』が残っている
《 降 星 伝 説 》
595年推古天皇3年(17年説もあり)、9月18日、
周防国鷲頭庄青柳浦(わしづのしょう・あおやぎのうら)にある
松の大木に突如星がおり、七日七晩輝きました。
里人は不審に思い、巫女に星の精を呼び出させたところ、
「我は北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)である。
これから3年後、百済の国の琳聖太子が、
聖徳太子に合うために来日されるので、お守りするためにやってきたのだ」
と語ったといいます。
星の予言通り、推古5年、琳聖太子は来日し、聖徳太子に会われました。
この不思議な星の話を聞いた琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、
北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、
日本で初めての星祭りをおこなったとされています。
そして、星が松に下った霊地として、青柳浦は
下松と呼ばれるようになったと伝えられています。
(下松の地名の起こりについては、百済の国への風待ち
の港だったことから、「百済待」あるいは「百済津」
と呼ばれていたものが訛ってくだまつとなり、
下松の字を充てたという説がある)
「下松市史」より引用
大内家の氏神 氷上山興隆寺・北辰妙見社
古代中国で起こった 北辰妙見信仰が伝わったのが
推古天皇の頃といわれているが
この伝説との関係については わからない
ただ 明日香の高松塚古墳 (被葬者は百済王族説もある) の
天井と北壁の壁画には
北斗七星と玄武像が描かれていることから
百済を通して 北辰妙見信仰が伝わったという説は
あながち 嘘でもないようである
日本の三代妙見のひとつである 熊本八代の 妙見宮 では
社記などによると中国渡来説の他に
妙見神は 百済国聖明王の第三皇子 琳聖太子 であるとの
百済渡来説が伝承されているのも興味深い話である
綾杉さんの『ひもろぎ逍遥』によると
百済国のあった 地域は もともと 帯方郡 と呼ばれていて
帯方とは 天の川のことであり 真鍋大覚の記述によれば
【 帯方とは銀河の傾きを見量りて、自らの空間的時間的位置をおさえる
特技ある民族の総称でもありました。】
と述べられています
《 星の国 百済 》《 百済王子の伝説 》
そして それを 出自とした 《 戦国大名 大内家 》
興味は ますます 拡がっていく