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《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて



風船唐綿(ふうせんとうわた) の花

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南アフリカ原産で 蘿藦(ががいも)科の多年草

別名 を フウセンダマノキ(風船玉の木) という

とげとげ をもつ丸い実の形が 愛らしく 生け花などによく使われる

12月になると 実が割れ 中から綿毛とタネが出てくる

 

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風船唐綿 の花 の 花言葉

 『 隠された能力 』

風船唐綿 の実 の 花言葉

『 いっぱいの夢 』



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ガガイモ の実



蘿藦(ががいも)といえば 古事記に

少彦名命 (スクナヒコナノミコト)が

波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)

に乗って来訪した 》とありました


天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)とは ガガイモの実を二つに割り

それを船にしたものみたいです 10センチ ぐらいの大きさ でしょうか



《 少 彦 名 命 (スクナヒコナノミコト) 》




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垣根の 寒椿 が一輪 咲きました






# by nonkei7332 | 2014-11-06 13:35 | | Trackback | Comments(0)


龍の国 散策_b0325317_11353991.jpg



秋空の下


龍の国 と呼ばれた 志賀海神社 付近を 散策しました



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海岸を見ると たったひとり 老いた男が とぼとぼと歩いている

絵には なりませんね!


波の音 と 風の神 シナツヒコ の 囁きが

心良く 鼓膜を振るわせてくれました




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志賀島は 島なんですよね 志賀島橋 が掛かっています



遠い日の花火


あれは 40年前の夏の日でした


麦わら帽子をかぶった あの女(ひと)は


まだ 木の橋だった この橋の下から


泳ぐ私を 見て 微笑んでいました




橋の向こうは 博多湾 能古島が見えます


あの頃は 二つの海は まだ しっかり 繋がっていました




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海から 参道に抜ける 途中に 小さな祠がありました


大黒と恵比須 の 海の神


漁に行く前に 海の民が 手を合わせる 姿が 観えます



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柿 の 実 が綺麗です



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この花は何だろう 気になる花 です



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境内の参道に ツワブキの花が さいてました



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なんとなく そんな気がしていたら やっぱり また 現れましたね



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境内 奥 の 木漏れ陽



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一の鳥居付近で 「こんにちは」と声を掛けてくれました

皆んな かっこいい 笑顔が素敵な 若者たち でした





# by nonkei7332 | 2014-11-04 11:55 | ルーツ | Trackback | Comments(0)


撫子(なでしこ) の 夢_b0325317_23154034.jpg




万葉集 の中には 26首 の 撫子の歌 がありますが

そのうち 《 大 伴 家 持 》の歌が 12首 もあります


家持 にとっては 撫子は 『 撫でしき 女(ひと) 』だったのでしょうか




《 一本の なでしこ植ゑしその心  誰れに見せむと 思ひ始めけむ 》 

                  巻18-4070

訳 : 一本の撫子 を植えたのは 誰に見せようと思って植えたのでしょうか



《 我がやどに 蒔きしなでしこ いつしかも 花に咲きなむなそへつつ見む 》 

            巻8-1448

訳 : 私の庭に蒔(ま)いた撫子は

いつになったら咲くでしょうか

(咲いたら)貴女だと思って見るでしょう




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《 なでしこが  その花にもが 朝な朝な 手に取り持ちて 恋ひぬ日なけむ 》 

            巻3-408

訳 : もし 貴女が撫子の花だったらいいのに

そうしたら毎朝 手に取って愛せるのに

 

《 ひさかたの  雨は降りしくなでしこが いや初花に 恋しき我が背 》 
 
                巻20-4443

訳 : 空からの雨は降り続きます

だけど 咲いたばかりの撫子のように 恋しい 貴女です




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九月になると

我が家の ベランダに 撫子の花を 咲き始めました

そんな ある日 私は 夢を見ました

散歩をしていて すれ違う人が みんな 私に こう言うのです


『 撫子の花が 綺麗に咲きましたね 』


なんで知っているのだろう ? 不思議な夢でした

目が覚めて ベランダをのぞくと

撫子の花が なんとなく 元気が無いような 気がしたのです

私は その日の午後 思いつくままに

ベランダの 撫子の鉢を 散歩道の 曲がり角の野辺に 持っていき

そこに 植え替えてあげました

秋の陽を浴びて 撫子の花は 元気になった ように見えました

その日からは 毎日 水を抱えた 散歩です

10月になると 三色の花が 何度も咲き続けてくれました

散歩の時間は まるで 私と撫子の デートの時間です

そんな 私の事を いつも見ていたのでしょうか

散歩をしていて すれ違う人が みんな 私に こう言うのです


『 撫子の花が 綺麗に咲きましたね 』


あの日 夢の中で見た あの 光景でした

〈 デジャヴ 〉頭の中で 海馬が震えていました


午後に 冷たい雨が 降りました

夕暮れに 行ってみると

撫子の花は 嬉しそうに 咲いていました。




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# by nonkei7332 | 2014-11-02 23:19 | | Trackback | Comments(0)


大内義隆 という男_b0325317_00422212.jpg



この男


身体の中を流れる 多々良の民 〈鉄の民〉の血の匂いがした


流民の苦しみ や 模倣の京の危うさも 誰よりも知っていた



この男


応仁の乱で 焼け野原になった 京には



生涯 上洛することはなかった


荒廃した 京都を 山口に 造ろうとしたのではなかった



この男


雅の粋のすべて集め「末世の道人」と呼ばれた 貴人であった



この男


皆が欲しがった 官位などには 無頓着だったが


唯一 欲しがった 官位がある



それは当時 誰も見向きもしなかった


遠の朝廷(みかど)と呼ばれた 太宰府の《 大宰大弐 》であった



この男


信長 や 秀吉 よりも 黒田官兵衛 よりも早く


周防国 山口の里に


密かに 《 九州王朝 》の復興を目論んだ 男だった




この男こそ 周防国 大内家31代当主 西国一の戦国大名であった



『 大 内 義 隆 』その人であった





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西の京 山口 国宝の瑠璃光寺五重塔






《 大内義隆の生涯 》


義隆22歳の時


家督を継ぎ 大内家当主となる


義隆の正室は、京都の公卿、


内大臣万里小路秀房 の娘 貞子である。


貞子は気品に溢れた知的な美人で


歌をよくし家内もよく治めた才媛であった


しかし 子には恵まれなかった


20年以上 正室として山口で暮らしたが


悲劇の3年前に 穏便に離婚して京都に帰っている


嫡子の 晴持は 義隆の実子ではなく


甥である 嫁いだ長姉に頼みこんで


3歳のときに養嗣子として貰い受けている


義隆は 晴持を こよなく 愛したという


義隆 30歳の時


肥前の少弐資元 豊後の大友氏と


朝鮮貿易の経路を確保するための戦いに勝ち


その後 北肥前の九州探題の 渋川氏も治め


ほぼ 北九州を 制圧する


この年 大宰大弐 を叙任される


義隆36歳の時


晴持を伴い 出雲月山城の尼子晴久を攻めたが、


逆襲にあい敗れる


この時 晴持が 敗走中の船が転覆し溺死する


晴持 の死 の衝撃は


その後の義隆の生き様をすっかり変えてしまう


ほとんど武事をかえり見ず 文人的生活にふけるようになった


そのため武断派と対立がうまれ


これが一家滅亡を招く遠因となる


後半生の 義隆は 京都貴族の風向を尊び 山口に籠もって


ひたすら 学問・芸能に没頭した



義隆43歳の時


家臣の陶隆房(後の晴賢)が 主君義隆に対して謀反をおこす


義隆は、普段から戦の準備をしていなかったために


戦うこともせず一旦は長門深川の禅宗寺院・大寧寺 へ行き


九州への逃亡も考えるが


辞世の句を残し 自決する



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大寧寺



《大内義隆とザビエル》


ポルトガルの宣教師 フランシスコ・ザビエル は


京都に向う途中山口に寄り義隆に面会した


そして一ヶ月余り山口の辻々に立ち布教に従事したが


その後 京都に上って天皇に布教の許可を得るために東上した


京都は 応仁の乱後の 荒廃の極みにあった


ザビエルも あまりの惨状に10日間滞在しただけで


京都に見切りをつけ1551年春


公文書と多大な献上品を携え


衣服を正して 義隆に改めて会見している


献上品には 本来なら天皇に捧呈すべく用意していた


ポルトガルインド総督とゴア司教の親書のほか


望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・


鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったという


日本での布教の根拠地として 京に替えて山口を選んだのである



義隆はその好意を謝し 宿舎兼説教所として


一つの寺院を与え 正式に布教を許可したという



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フランシスコ ザビエル





《 大内義隆 と 博多 》


義隆は 1546年 戦乱により荒廃した


筥崎八幡宮 の本殿・拝殿を再建した


義隆建立の本殿は 現在 国の重要文化財に指定されている


「小堀氏略系」によれば


文明年間になると 博多の町も兵火が続き


祇園山笠も途絶え 京都より下った


山笠人形師 小堀甚左衛門正直も


一家をあげて 一時難を肥前唐津に避けていたが


大内義隆の招きにより 再び博多に戻り


山笠人形を復活させたとある


その後 1456年 義隆の命により博多祇園山笠12本のうち


山口の祇園社に6本を頒ち


それ以降 博多山笠は6本となったという




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筥崎宮 本堂



『 討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露亦如電応作如是観 』



大内義隆の 辞世の句 である


九州行きをも 断念して大寧寺へ入った義隆は


風呂に浸かった後 一眠りし 夕餉の湯漬けを摂りつつ


和尚と死生観を語った後「もういいだろう」と


家臣の 冷泉隆豊 に介錯を命じたという



討つ人(=陶晴賢)も 討たれる人(=自分自身)も


どちらも露のように儚く 雷のように一瞬の存在である


『金剛般若経』の一節を使った 文人としての 義隆がみえる



最期に頭をよぎったのは


波間に消えた 晴持の姿だったのだろうか


それとも 一族が夢見た


古の王朝の 民の賑わいだったのだろうか



機会があれば 大寧寺 のそばにある 湯田温泉に浸かり


夜空の ポラリス (妙見) を 追いかけながら


義隆の 想いに 繋がってみたいものだ



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# by nonkei7332 | 2014-11-01 00:59 | ルーツ | Trackback | Comments(0)

百済の王子 琳聖太子_b0325317_08101282.jpg
北斗七星と北極星




周防国(山口)の守護大名 大内氏の先祖は、

百済国 第26代聖明王の第3王子・琳聖太子(りんしょうたいし)


と言い伝えられている

15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば

琳聖王子は 推古天皇19年(611年)に

百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。

聖徳太子から多々良姓とともに領地として


大内県(おおうちあがた)を賜ったという

その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は大内介と名乗り、

以降歴代の当主もこれを世襲した

鎌倉 室町にかけて 西国一の戦国大名に駆け上がった 大内家は

31代 大 内 義 隆 の時代に絶頂期を迎え

京都に劣らぬ 絢爛たる大内文化が花開き

山口が「西の京」と呼ばれるまでになった

しかし 琳聖太子という人物名が

当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く

琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した

大内家の自作自演との説もあり真偽は謎である

ただ 多くの戦国大名が 「源平藤橘」や


その他の中央の貴族の嫡流を名乗ったなかで

唯一 百済の末裔を名乗った 大内氏の狙いは なんだったのか

興味深い話でもある


『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には

琳聖王子の 『降星伝説』が残っている



《 降 星 伝 説 》

 
 595年推古天皇3年(17年説もあり)、9月18日、


周防国鷲頭庄青柳浦(わしづのしょう・あおやぎのうら)にある


松の大木に突如星がおり、七日七晩輝きました。


里人は不審に思い、巫女に星の精を呼び出させたところ、


「我は北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)である。


これから3年後、百済の国の琳聖太子が、


聖徳太子に合うために来日されるので、お守りするためにやってきたのだ」


と語ったといいます。


 星の予言通り、推古5年、琳聖太子は来日し、聖徳太子に会われました。

この不思議な星の話を聞いた琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、


北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、


日本で初めての星祭りをおこなったとされています。


そして、星が松に下った霊地として、青柳浦は


下松と呼ばれるようになったと伝えられています。



(下松の地名の起こりについては、百済の国への風待ち

の港だったことから、「百済待」あるいは「百済津」

と呼ばれていたものが訛ってくだまつとなり、

下松の字を充てたという説がある)

「下松市史」より引用



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大内家の氏神 氷上山興隆寺・北辰妙見社



古代中国で起こった 北辰妙見信仰が伝わったのが


推古天皇の頃といわれているが

この伝説との関係については わからない

ただ 明日香の高松塚古墳 (被葬者は百済王族説もある) の


天井と北壁の壁画には

北斗七星と玄武像が描かれていることから

百済を通して 北辰妙見信仰が伝わったという説は

あながち 嘘でもないようである

日本の三代妙見のひとつである 熊本八代の 妙見宮 では


社記などによると中国渡来説の他に


妙見神は 百済国聖明王の第三皇子 琳聖太子 であるとの


百済渡来説が伝承されているのも興味深い話である



綾杉さんの『ひもろぎ逍遥』によると

百済国のあった 地域は もともと 帯方郡 と呼ばれていて

帯方とは 天の川のことであり 真鍋大覚の記述によれば

【 帯方とは銀河の傾きを見量りて、自らの空間的時間的位置をおさえる

特技ある民族の総称でもありました。】

と述べられています



《 星の国 百済 》《 百済王子の伝説 》

そして それを 出自とした 《 戦国大名 大内家 》

興味は ますます 拡がっていく



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# by nonkei7332 | 2014-10-31 08:35 | 古代史 | Trackback | Comments(0)

by イソラ