蚤の王
遠い古の出雲の里に
後世 蚤の王 と呼ばれた 一族の頭領がいた
その王の名は 野見宿禰(ノミノスクネ)と呼ばれたいう
日本書紀には 垂仁天皇の頃
天皇の命により
大和の《当麻蹴速》と出雲の《野見宿禰》が 召喚され
捔力(すまひ)が行われた。捔力とは力比べの事で
野見宿禰が勝利して、天皇の側近となった
捔力は平安時代に入って、相撲(すもう)と名を変え
神事として神社には土俵や桟敷が作られ、今日に至っている。
野見宿禰は垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の際に
殉死の風習に代わる埴輪の制度を提案した事で、
土師臣という姓を与えられ
以降皇室の葬儀を司る事になる
土師氏は 桓武天皇の頃に 菅原氏 大江氏 秋篠宮氏
などに改名して、朝廷の重鎮となっていく
なかでも 菅原道真 は 宇多天皇の信望を集め
右大臣まで上り詰めるも、藤原氏の策略で失脚する
太宰府天満宮には 菅公の祖先である
野見宿禰の公碑がある
我が家に残っていた家系図 小堀略系図には
冒頭 野見宿禰後胤 と書かれている
私の遠い遠い記憶の中に眠る
蚤の王 土師氏 の 真実を追って
私の古代史への旅が始まった。
野見宿禰 と 当麻蹴速 が対決の日を
日本書紀には 垂仁天皇7年7月7日と書かれている
七夕と相撲 どこで結びつくのか
中世に於いては この日 宮中行事として
相撲節会が奉られていた