M先生 へ
人の出逢いとは 不思議なものですね
多くのブログの中から 私の記事を見つけていただいた事
そして コメントをいただいた事 嬉しく思います
何が 私達を 繋げてくれたのでしょうね
《 風信子(ヒヤシンス) 》
2014年 4月 私の こんな 記事でした
https://hisamitsu.exblog.jp/22448123/ (タップして下さい)
この記事に 先生からいただいた コメントです
『 4年も前に書いた文章にコメントを寄せられて驚かれるでしょう
「ヒヤシンス」で検索していて,たまたま見つけました。
ポッキン君,ひょっとして早熟の文学少年で
立原道造のファンだったのではないでしょうか。
彼が生前に残したたった2つの詩集には『風信子叢書』という
サブタイトルというかシリーズ名がついていました。
ちなみに,東京オリンピックの年,
わたしは9歳,小学校3年生で,
まだ立原道造にであってはいませんでした。』
淡い 少年時代の記憶をたどっての 私の思い出でした
1964年 正確に言うと 54年前
私が 小学校の6年生の時の 思い出です
ポッキンという 数少ない わたしの友達との
ある日の出来事を記事にしたのでしたが
先生は 〈立原道造〉 という 夭折した若き詩人 の事を
ポッキン は知っていたのでしょうか という
投げかけを していただいたのですが
その答えは 私には わかりません
わかっていることは ポッキンが 花が大好きだったこと
その年 に クラスで 〈ヒヤシンス〉 と〈クロッカス〉 の
水栽培をして 教室の窓際に 色とりどりの 花々が並んでいた事です
本来であれば コメント の 返事で お答えするところですが
ポッキン についての話 には その時に書けなかった
悲しい 思い出が ありましたので
思い切って 記事にさせて頂いたことをお許しください
私達が 通っていたのは 福岡市南区の M小学校です
西鉄の井尻駅 の近く 今でこそ 住宅地が並ぶ 街ですが
当時は まだ 田んぼや 小川がある 田舎町 でした
ヒヤシンス のことがあった年の 晩秋だったでしょうか
教室の ポッキン の 机には 花が飾られていました
担任の先生から 告げられたのは 衝撃の ポッキン の死 の報せでした
ポッキンの死は 自殺 でした
西鉄電車の線路脇に 靴が並べられていたと聞きました
私が 死 ということに最初に向かいあった経験でしたので
その時のことは 鮮明に覚えているのです
お葬式に行った時に 泣き叫ぶ ポッキンの お母さんの姿に
ただ 悲しみだけの 泪を 流していた 私がそこにはいました
数少ない友達でしたので ポッキンの家には何度か遊びに行きました
ポッキン には お父さんがいませんでした
ポッキン が 数年前に亡くなった 消防士だった父の話を
写真と賞状を 見せて 誇らしげに 話してくれたのを 覚えています
大好きな お父さんだったのでしょうね
その後 母親が 再婚され 新しい父親が できたと聞きました
ポッキン のとても短い 12年の人生に 何があったのか
私は 多くを語ることに 口を閉ざしてきました
ギリシャ神話 の ヒヤシンス の話 をしました
ポッキン の 物語かもしれませんね
そして ヒヤシンス の花言葉 は 〈 悲しみ 〉だということを知ったのも
夭折の詩人 立原道造と 風信子(ヒヤシンス) の事を知ったのも
ずっと後のことだったのです
《 夢見たものは‥‥》
立原道造
夢見たものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある
日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊ををどつてゐる
告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる
夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と