公 孫 樹
この漢字 《公孫樹》を 〈いちょう〉と読める人は少ないでしょうね
普通は 〈銀杏〉と書きます
食用にされている 実 は(ぎんなん〉誰もが知っています
各地にある 銀杏並木 は 晩秋の街並みには 欠かせない風景です
一般には この 樹 は 成長するのに長い時間がかかります
祖父が植えると その樹に実がなるのは
孫の世代になってからという事で
《公孫樹》と言う字が つけられたといいます
30年前位でしょうか
散歩がてらに自転車に乗って 那珂川町の中ノ島公園まで行きました
那珂川の砂地になった中洲で 三枚葉の銀杏の若芽を見つけました
10センチくらいの苗木でした
上流の銀杏の樹になった実が 流されてきて根ずいたのでしょう
まるで 私に見つけて欲しかったのような 思いにかられ
うちに帰って 小さな鉢に植えた置いたのです
銀杏は 中国原産の樹木です
ではいつ頃日本に渡ってきたのでしょう
通説では 銀杏の木は仏教伝来とともに日本にきたといわれています
仏教公伝 が 538年ですが 本当のことは誰もわかりません
『418年に 仏教は九州王朝に伝来した』という説もあります
実は 中国の魏呉蜀の三国時代に 漢族の公孫氏という豪族がいて
公孫氏三代(度(たく)・康(こう)・淵(えん))が 50年にわたって
遼東半島以北を治めていました 〈公孫康〉の 時期には
倭国を内属していた時期もあり その後 〈公孫淵〉は 燕王を名乗り
魏から自立しますが 238年 魏の反撃で 滅亡してしまいます
魏志倭人伝に拠れば
公孫氏滅亡の翌年 239年 倭国の使節が 魏から
《親魏倭王の金印》(別名 卑弥呼の金印) を授かっているのです
(志賀島で見つかった 金印 とは 別の金印です)
ということは 公孫氏 と 倭国は
それなりの繋がりがあったとしても おかしくありません
〈晋書〉には 倭の女王卑弥呼の事が書かれており
出自は公孫氏だったという 解釈もあるくらいです
さて 話を 公孫樹 に戻します
公孫樹 が 公孫氏の名前からそう呼ばれるようになった
そんな説は どこにもありません
文献に ないからだけで 誰も知らないだけかも知れません
これから は 全て根拠のない 私の妄想です
『 公孫樹 を日本に 根付かせたのは 実は 卑弥呼だった』
『 卑弥呼 は 滅亡した 先祖を偲んで 背振山麓に 公孫樹を植えた 』
『 卑弥呼の墓は 背振山麓にあり 「親魏倭王の金印」も そこに眠っている』
1800年まえの 誰も知らない 公孫樹 の謎。
30年前に 私が 見つけた 背振山麓 那珂川で見つけた 公孫樹 の苗木
私の 海馬(脳) の中で 過去と未来が 繋がったみたいです
眼を閉じれば
1000年後 私の子孫の 子供達が
大樹と育った あの苗木の 公孫樹の下で 楽しそうに 遊んでいる
そんな声が聞こえてきます
樹齢1400年 の 公孫樹の大木