八代 印鑰神社(いんにゃくじんじゃ)
八代市 鏡町にある 印鑰神社 に行ってきました
印鑰(いんにゃく) という名前は
この地に 八代郡司という役所があって
朝廷から渡された 印 と 租米が集められる倉の 鑰(かぎ) が
神社に納めてあったからだといわれています
創建は 建久九年(1198年)
肥後の国球磨の地頭 相良三郎名頼 が 弟の八郎為頼に
八代の北三里「鏡ヶ池」の近くに神社を造営させたとされます
祭神は 蘇我石川宿禰
武内宿禰 の 第三子 です 蘇我氏の祖です
第一子の 波多八代宿禰 も 名前からして 八代の領主だったのでしょうか
仲哀天皇のころ 筑紫凶徒を鎮めるために この地に下向し
この地で 亡くなったと 神社の由緒に書かれていました
巨きなクスノキが境内にそびえ立っています
古代はこの辺りの 鎮守の杜だったのでしょう
神社に側に 八代郡倉跡 の案内文がありました
地名に 条里制の面影が残っています
まるで ここに かつて 王朝があったのごとき内容です
驚きは 「小早川文書」に 徳渕津に 正倉院 があったとの一文です
( 現在残っているのは 東大寺の正倉院だけが 唯一だと思われがちですが
当時は各地に幾つかあったようです)
〈徳渕津〉とは 球磨川の河口支流 前川付近にある 古代から 発展し
大陸貿易の拠点となっていた 港 なのですが 中世には
〈博多津〉とともに 朝鮮遣使 や 渡明船 の 拠点港だったようです
天文14年(1545)には 勅使として 大内義隆 もこの地を訪れています
徳渕 には 有名な 『河童渡来の碑』があります
「本朝俗諺志」という江戸時代の書物に こんなに書かれています
『 中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て
球磨川に住み着くようになった その後 一族は繁栄して
その数九千匹になったので その頭領を九千坊と呼ぶようになった
その河童どものいたずらが激しく人々をこまらせた
加藤清正はこれを怒り 九州中の猿に命令してこれを攻めさせた
これには河童も降参して 久留米の有馬公の許しを得て
筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった 』
河童 は 古代中国 魏呉蜀の三国時代に 呉から渡ってきた 渡来人
その 渡来地が八代だったようです
そもそも 八代という地名の由来は いくつかあるようですが
『 海からの 神迎えの信仰 が盛んな土地で
巫女が火を焚き常世の国から
神様を迎える儀式が真夜中に行われていた
この神々が往還するところに「社」があり
この「やしろ」から「八代」となった 』
と言われています
話は戻って 印鑰神社 には 春の大祭(4月7日) に
『 鮒取り神事 』が今も行われています
神社由緒には
『 蘇我石川宿禰が 凶徒平定の為この地に来られた時
悪天候で海が荒れ魚が捕れず地元の若者が「鏡ヶ池」に飛び込み
鮒を献上し石川宿禰をもてなしたと言う故事にならい毎年4月7日
褌一つの若者が池に飛び込み手づかみに鮒を捕り御神前に供え
見物人にも投げ上げる行事は今日も賑わいを伝え継いでいる 』
と書いてありました
私の長男は この地に縁があって この神事にも 何度も参加したようです
動画をよく見ましたが 彼の姿は見つかりませんでした
〈 蘇我氏 と 熊襲 〉〈 河童伝説 と 水天宮 〉
興味は尽きない 八代 ですね
次回は いよいよ 〈 八代妙見宮 と 妙見の謎 〉です
by nonkei7332
| 2016-07-28 12:30
| 古代史
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