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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

タグ:菅公・太宰府 ( 19 ) タグの人気記事



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正面から



菅原道真公 の 水鏡伝説 が残る 《 水鏡天満宮 》


福岡市 最大の繁華街「天神」の地名の由来となったのも この 水鏡天満宮です



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本殿




こんな 歌がありました


《 水鏡せると伝ふる 天神の みあしのあとに 千鳥 群れ飛ぶ 》

道真公が 博多に上られた折に
四十川 ( 今の薬院新川 ) の水面にご自分のお姿をご覧になったとされ
当初は「容見天神」(すがたみてんじん) とよばれていました
社殿も 現在地ではなく もっと 上流の 今泉付近だったと言われています
当時は 今の 博多とは ずいぶん違う 地形ですが それでも
浜千鳥が飛んでいる 海岸線では あったようですね ( 鎌倉時代の博多古地図参照 )


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「冷泉津」の右上に 容見天神 の表記があります




その後 500年経って 冷泉津と呼ばれた 干潟も 次第に陸地となり

黒田長政が 福岡城を築城の折には 東北の鬼門に当たる

現在の場所に 移転させたといわれています (江戸時代の博多古地図参照)


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左下が 福岡城 右上の川沿いに 赤い色の鳥居があるのが 「水鏡天満宮」




《 氏神 》の定義を 「お宮参り」した神社とすれば

この 水鏡天満宮 が 私の氏神になります

実は 私の両親は 結婚と同時に

水鏡天満宮の社務所の裏にあった 茶室のある 小さな家にすんでいました

(綾杉酒造所跡付近)

というのも 表千家の茶道を教えていた 母の叔母の養子になって 後を継いだからです

綾杉酒造所は 香椎宮そばの 武内家の関係の酒屋さんでしたね

私の想像ですが おそらく この付近には 綺麗な水 があったんでしょうね

そういう訳で 私の兄と姉は 天満宮そばの この家で 生まれています

私はここでは 生まれていませんが 路地の奥にあった 茶室と庭のある 小さな家は

今でも 憶えています




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茶室と庭の写真









by nonkei7332 | 2015-03-25 22:21 | ルーツ | Comments(0)


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先週 太宰府に住む 姉からの 誘いがあった


梅も見頃だし 国博 にも行っておきたいし OK の返事


兄も誘って 兄弟三人で 天満宮 へ



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菅原道真公の誕生日が 6月25日 そして 命日が 3月25日

おなじ 25日 ということで 《天神さまの日》とされている

私は 今日は 特別な日だとは知らなかったが

姉が この日にした 目的が すぐに解った

じつは 参道の〈梅ヶ枝餅〉が この日だけは

いっせいに 〈よもぎ梅ヶ枝餅〉となるからだった




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それにしても 正月でも 日曜でもないのに

この混みようはなんだ

人 が 多過ぎる 聞こえてくるのは ほとんどが Chinese

いったい ここは どこの国なんだと 思ってしまう




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お昼は 太宰府では 数少ない 倭風料理の 『 古 紺 』(ココン)

小鳥居小路 沿いの 路地の奥にある店

和風定食 (1250円) もいいが カレー (1000円) も美味しい

知る人ぞ知る 店なのだ





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今日は 拙ブログ《 磯良の海 》の 一周年記念日


道真公 に 感謝を伝え 二年目の飛躍を


《 麒麟さん》に お願いして きました





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by nonkei7332 | 2015-02-25 18:45 | 菅公・太宰府 | Comments(2)


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長者の藤




太宰府の 昔話に 『 田中長者 』という お話があって
二人の 長者 がでてきます
今日は そんな 話をしてみます

《 田 中 長 者 》 日本昔ばなし より

昔、九州の太宰府に近い通古賀(とおのこが)という所に、
田中長者と言う大変な長者がいた。
その屋敷の広さと言ったら、使用人でさえ迷子になる程で、
また屋敷には数えきれないくらいの蔵があった。
そんな大金持ちの田中長者であったが、決して人に対して威張るという事はなく、
そのため村人や使用人たちからたいそう尊敬されていた。
ところで、この通古賀から山一つ隔てた隣村には、
これまた大金持ちの虎丸長者という長者がいた。
この虎丸長者は、田中長者とは対照的に、自分が金持ちであるという事を鼻にかけ、
いつも隣村の田中長者に対抗心を燃やしていた。
ある時、虎丸長者は自分の財力を通古賀の村人や田中長者に見せつけるため、
千人の使用人を引き連れて、太宰府の寺にお参りに行くことにした。
千人の長い行列は、太鼓や笛などを鳴らしながら、
にぎやかに通古賀の村を通り過ぎて行く。
さて、その太宰府からの帰り道のことであった。
虎丸長者が田中長者の屋敷の前を通りかかると、折から雨が降り始めた。
虎丸長者はちょうど良いと、田中長者から傘を千本借りることにした。
いくら田中長者でも、傘千本は用意出来ずに泡を食うだろうと思ったからだ。
ところが田中長者は、新品の傘を千本いとも簡単に用意して、
虎丸長者の使用人に持たせた。
これに悔しい思いをした虎丸長者、何とか田中長者に一泡吹かせようと、
今度は千人の大飯食らいを集めた。
傘を返すのを口実に、田中長者の屋敷に千人の大飯食らいを昼飯前に向わせたのだ。
これにはさすがの田中長者もさぞ困るだろう。ところがどうだろう。
田中長者の屋敷では、ちょうどご飯を多めに炊き過ぎたと、
千人の大飯食らいをもてなし、
さらに食べきれなかったご飯は、一人三つずつお握りにして渡し、
計三千個の握り飯をもらって帰って来たのだ。
これを見て、とても太刀打ち出来ないと思った虎丸長者は、
二度と田中長者と張り合おうとしなかったそうだ。



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武蔵寺



『 虎丸長者 』 どんな人?

藤原鎌足の子孫の 《 藤原虎麻 》(ふじはらのとらまろ) がその人です
初代の大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官) だといわれています
天拝山の麓にある 《 椿花山武蔵寺 》
虎麻 が 夢の中で 薬師如来が宿る霊木の精から
薬師十二神将像を作り 堂を建てて祀るようお告げがあったので
ここに寺を建てた これが武蔵寺の由来と伝えられています
ここには 「瑠璃姫伝説」という話が残っています
《 子供のいなかった 虎麿 は薬師堂にこもり 薬師三尊に祈り縋ったところ
その加護をえて 瑠璃姫 を授かったといいます
ところが疫病が流行り 瑠璃姫もこの流行病に罹り 虎麿はさらに薬師如来に祈願し続けたところ
ある夜、夢の中に一人の僧侶が現れて
「ここから東方に葦の生えている湿地があり、そこに温泉がある。
ここで入浴させれば、必ず病は治るであろう」と告げ、姿を消しました
早速 虎麿はその場所に行き茂った葦を刈り こんこんと湧き出る温泉を見つけました
その温泉に瑠璃姫を 入浴させると たちまち病気が治ったといいます
これが二日市温泉の始まりです》

天拝山・武蔵寺 は 私の大好きな 散策路です
(長者の藤といわれる 藤棚) (駐車場横の 深紅の寒椿) (新緑の山路)
(菅公が身を清めたという 紫藤の滝) 懐かしい風景がそこには 残っています
今は 「天拝山歴史自然公園」として 綺麗に整備されていて
遠く 万葉の風の中で 静かに 佇んでいます


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王城神社



《 田中長者 》どんな人?

菅公よりも 天智天皇よりも もっと もっと 昔の話になります
通古賀(とおのこが) あたりに住んでいた
大野県主 《 田中熊別 》(たなかくまわけ ) がその人です
もとより 太宰府が 「遠の朝廷」(とおのみかど) とよばれたように
通古賀 も 「遠の国衙」(とおのこが)と呼ばれた場所で 政務を司る
役所があったところでした
熊別は 四王寺山の向こうの宇美町に至るまでの 広い土地を おさめていました
通古賀にある 《 王城神社 》の「縁起」によると
玉依姫の子 神武天皇が 東征にあたり 四王寺山の山頂に仮宮を建て
ここに (事代主命) と (武甕槌命) を祀ったとされます
東征には 田中熊別も息子の(熊則)を伴って 援軍したとされています
四王寺山 の名前も 神武の初めての 仮宮だったので 「始王地 」
神武天皇の子供 (蚊田王) 出産に由来して 「始皇子」と呼ばれたと書かれています
田中の庄 宇美町は 蚊田の庄 に名前がかわったといいますから
「蚊田王」の産まれた場所も 熊別の所領であった 宇美町で
ほんとうは 応神天皇ではなく 神武天皇の子 蚊田王の産まれたところだと
「縁起」に書かれています
熊別 は東征後 通古賀にもどり 御笠川の支流である 鷺田川のほとりに
田中の森 という 墓に眠っているそうです
天智天皇は 大野城や基肄城を作った時に 四王寺山頂に祀られた
「事代主命」は 通古賀にある 王城神社へ
「武甕槌命」は 春日市の 春日神社に それぞれ 移されたとも書かれています


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昔話の行き着く先は『 遠の筑紫 』の物語になりました

小さな 王城神社の縁起ですが 神武天皇 から始まる
筑紫の謎がうごめいています










by nonkei7332 | 2015-01-19 15:42 | 菅公・太宰府 | Comments(0)

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観世音寺

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奈多海岸




人は 生涯 どれだけの 《 こころに 残る 音 》というものを
記憶しているのだろうか
私の中では

『 大晦日の 観世音寺の鐘の音 』

『 奈多海岸の 波の音 』

目を閉じて 海馬を震わせると なんの注釈もなく
あの 音達が 聞こえてくる



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観世音寺の天智院には 歌碑がある

《 手をあてて 鐘は たふとき 冷たさに 爪叩き聴く そのかそけきを 》

《 長塚 節 》(ながつかたかし)
歌人、小説家。茨城県結城郡の豪農の家に生まれ、
3歳のときすでに百人一首を暗誦できたとの言い伝えがある。
長じて正岡子規の門下に入り、『馬酔木』『アララギ』に多数の短歌を発表した。
30代前半に東京朝日新聞に連載した小説「土」は
日本の農民文学を確立した作品といわれる。
明治45年(1912年)、喉頭結核治療のため夏目漱石の紹介により、
九州大学病院に入院
この時 観世音寺の住職・石田琳樹と親交を持ち、幾度かこの寺を訪ねている
この歌は、死の前年 大正3年(1914年)の晩秋、
観世音寺を訪れて詠んだ歌
翌年 2月8日 36歳の若さで 亡くなっている

千年もの間 この国の歴史をずっと見てきたこの鐘に
手が触れた時の 尊さ その 冷たさ
そして 爪で叩いて鳴る その幽かな音に
残された 我が生命の日々を 重ねたのだろうか

初めて この歌碑の前に立った時
若き歌人の 哀しみに 私は涙が止まらなかった


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この 鐘の音を 穏やかに そして 深き 哀しみの中で 聞いておられた方がいる

菅原道真公 の 謫居の館は 十条右郭一坊にある南館だった
今の 榎社 のあたりだろう

『 不 出 門 』という 漢詩を遺されている (一部)

都 府 樓 纔 看 瓦 色
( 都府樓は纔かに瓦の色を看 )
觀 音 寺 只 聽 鐘 聲
( 觀音寺は只鐘の聲を聽く )

口語訳 : 近くの都府楼は 毎日わずかに瓦の色を遠くから眺めるばかりで、
観音寺 も ただ鐘の音を聴くだけで訪れたこともない

都での全ての栄華を そして 幼い我が子の 隈麿 までも 無くした
菅公の 御心情は 私には はかりしれない

ただ 時を超え 私の中にある あの鐘の音と
同じ 鐘の音を聞いておられた という まぎれもない 真実だけで
私の魂は 延喜二年(902年) 1113年前の
あの 冷たき 真冬の 榎の住処に 繋がっていく事ができる

今年もあと 三日
観世音寺の鐘の音は 今年も 多くの人々の魂を 癒しながら
百八つの 煩悩を 払っていくのだろう



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観世音寺 の 梵鐘






by nonkei7332 | 2014-12-28 12:02 | 菅公・太宰府 | Comments(0)

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白川付近



宝満の山にまします 玉依姫は 水分の神(みくまりのかみ)

この神体山を源とする 清き水は川となり 遠の朝廷 を潤しながら

やがては 磯良の海へと流れていく 御笠川

わが魂の流るる川なのです

古来 地元では この川は 七つの名前で呼ばれていました

山裾の北谷では 『北谷川』

太宰府の三条あたりで 『岩淵川』

連歌屋まで下ると『岩踏川(いわふみがわ)』

そして 五条付近では 『白川』と呼ばれ

藍染川 と 合流して観世音寺あたりで『思川(おもいがわ)』

水城大野城では『御笠川』

博多の町に入ってからは『石堂川』 と。

様々な名前と想いを乗せて 流れてきた この川の畔で

数え切れないほどの 物語が 語られてきたのでしょうね

そんな物語の中から

今日は 『檜垣』と いう 能楽の演目となった お話をします






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能楽 「檜垣」


《 檜 垣 》

平安時代の 承平・天慶(931年〜938年)のころ

太宰府の都に 檜垣 という 白拍子 が 「白川」のほとりに 住んでいました

歌舞にたけ 女流歌人として 広く知られた人でありました

〈檜垣〉というのは

《 檜(ひのき)の薄板を網代(あじろ)に編んで作った垣根 》という意味で

裕福な生活をいとなんでいたのでしょうか

様々な伝説に包まれ、その正体は詳らかでないのですが

〈世阿弥〉は こんな物語にしました


【 あらすじ 】

肥後の国 岩戸と云う山で 霊験あらたな観世音を信仰し

又 この地の美しい景色を楽しみながら三年の間山籠りしている僧がいた

この僧のもとに 何処からともなく 閼伽の水(仏前に供える水)を

両手に手繰る 百歳に近い老婆(前シテ) があらわれ

僧は常々不審に思っていたので、老婆に向かって名を尋ねると

あの 後撰集の歌 に

《 年ふれば我が黒髪の白川のみつわくむまで老いにけるかな》

と詠んでいるのは 自分の歌であると答えた

さてはその昔 筑前の大宰府に庵を結び 桧垣をしつらえて

「あの白川」の畔に住んでいた白拍子、後には衰えて

「この白川」の辺りで果てたと聞いている

その女の霊なのかと 僧はまことに奇異の思いをしたのである

老婆は在りし日 藤原興範(おきのり)に水を乞われた時のことを語り

そのしるしを見たければ

「あの白川」の辺りで わが跡を弔って賜れと 言い置いて姿を消した

僧はすぐに白川のほとりに赴き ねんごろに読教していると

先の 老婆(後シテ)が 再び現れて 弔いを喜ぶように 昔水を汲み

舞を舞った時の あり様を見せ

なおも弔って わが罪を償ってくれと頼み

姿微かに帰り去るのであった


【 あとがき 】

二つの白川が 書かれています

「あの白川」は 太宰府の白川

「この白川」は 熊本の白川でしょう

世阿弥は 「檜垣」を「関寺小町」「姨捨」とともに〈三老女〉と 呼び

能の世界では 最も位の高い 奥義中の奥義 と言っています

単に 老醜をはかなむのではなく

美しかった白拍子のいたましい末路を描き男どもを惹きつけた

その美しさゆえに

死後は 業火の焔に燃え立つ釣瓶(つるべ)を 永遠に手繰り続け

因果の水を汲まねばならなかったという 哀しき物語でした

中に出てくる後撰集の歌ですが


《 年ふれば 我が黒髪の白川の みづはくむまで 老いにけるかな》


訳 : 年が経って私の黒かった髪は白くなり

白川の水を汲むまでに老いて落ちぶれてしまいました


・「みづはくむ」とは水を汲むということだけでなく

腰が屈み老いた姿を「みつわぐむ」といいます。

この二つのことを掛け言葉として使っています


詠みかけた相手は 〈太宰大弐 藤原興範〉ですが

歌集では 〈肥後守 清原元輔〉になっていて

「大和物語」では 〈曲水の宴を始めた 太宰大弐 小野好古〉 となっています

いずれの男も 大物ばかりです

また 鎌倉時代に書かれた『無名草子』には 元輔の娘・清少納言を

檜垣 との間に生まれた子であるかのように記述しています

謎めいた人でもあったのですね



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思川付近


先日 太宰府の姉から 三笠川で「かわせみ」を見たよという

うれしい メールがありました

私が住んでいた 場所は ちょうど 「藍染川」が 合流する

『 思 川 』のすぐ そばでした

そんなに 綺麗とはいえない川でしたが

それでも 息子達と 魚釣りをしたり

次男坊の 〈 K E I 〉が 土手から 河原に落ちて 大騒動になったり

長男の 〈 N O N 〉 は 毎日 土手を通って 小学校に通っていましたし

春には 河原一面に菜の花が咲いていましたね

思い出ふかき 想いも深き「思川」です



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左上に 藍染川の合流している 場所が見えます

藍染川 の 物語については 「太宰府の夏」を
http://hisamitsu.exblog.jp/23039753/

白拍子 については 「旅人の恋」を






by nonkei7332 | 2014-12-27 13:11 | | Comments(0)


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秋の一日

姉の誘いで 九州国立博物館の 故宮展 に出かけた
姉も 家族で 旅行した時 寄ったというし 実は 私も
25年前 台湾の 故宮博物院を 訪れていたのだが 記憶が あまりない
何か 海馬に 触れるものが在るかと 期待したが 残念ながら
扁桃体は ほとんど 反応してくれなかったようだ
期待 外れだった



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〈 霜 降 〉は 過ぎたが 紅葉には まだ 早いようだ

秋の空には やはり 白い雲 が 似合う



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白い雲といえば

九州国立博物館の庭には、( 大伴旅人の歌碑 ) がある
かつては 九州歴史資料館の前庭にあったものだが 今は
九州国立博物館西側 アクセス入り口 に 建っている



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『 ここにありて 筑紫や何処 白雲の たなびく山の 方にあるらし 』
          (巻4・574・大伴旅人)

詳しくは 〈旅人の恋〉 を http://hisamitsu.exblog.jp/23099658/



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天満宮 に戻り

修学旅行の子供たち と 中国旅行者 の間を 手水所 楼門 を抜け

本殿 裏に回ると 二つの石碑が 建っている




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楠(くす)の古木の前に 俳人 荻原井泉水 の句碑 がある

《 くすの木 千年 さらに 今年の若葉なり 》



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野見宿祢公碑 が 建っている

野見宿祢は 菅原道真公の祖先に あたるということは

菅公は 私の祖先でも あるのかな? …

詳しくは 〈ルーツの旅〉を http://hisamitsu.exblog.jp/22508540/



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参道にもどり 昼食は 《 蕎麦 の やま武 》

蕎麦ではなく 知る人ぞ知る 隠れメニュー 《 雑煮 》を 食べる

六十年 博多雑煮 を食べ尽くしてきた二人の コメントは

「 まぁ まぁ やね 」。



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戻りの参道で カマキリ に出会った

カマキリが獲物をねらうとき
胸の前でカマをそろえて静止する 独特のポーズは “祈り” を連想させるというので
日本ではカマキリを「おがみ虫」という方言で呼ぶ所もあるらしい

京都祇園祭の山鉾「蟷螂山(とうろうやま)」を 思い出す
蟷螂山は「かまきり山」とも呼ばれ かまきりが羽を広げ
御所車の車輪が回転する など 祇園祭の山鉾では唯一の「からくり」
何かが 繋がってるのか 不思議な 出逢い もあるものだ



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帰りに 宝満宮竈門神社 に 久し振りに寄ってみた

最近 リニュアル されて 随分 変わったと 聞いてはいたが
あまりにも 世俗化した その様相には 正直 がっかりさせられた

あの 神功皇后を 心で支えた 玉依姫命 ゆかりの 社であるというのに



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綺麗すぎる 社務所





鳥居のそばにある 民家の垣根に 〈 花 梨 の 実 〉

秋 の 空に 揺れていた




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by nonkei7332 | 2014-10-24 02:41 | 菅公・太宰府 | Comments(2)

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『 大 伴 旅 人 』(おおとものたびと) が


大宰府の帥(長官)として赴任したのは 63歳の時である


多くの官職をこなしてきた 旅人にとって


遠の朝廷(とのおみかど)太宰府は 彼のドラマティックな人生の


最終舞台にふさわしい場所となった



《 やすみしし 我が大君の 食す国は 大和もここも 同じとぞ思ふ 》


巻6ー956


意味 : わが大君(天皇)が治めていらっしゃる国は、


大和(やまと)もこの大宰府(ださいふ)も同じだと思いますよ。



心境 穏やかな 旅の始まりだった


翌年の春 大宰少弐に遷任された小野老を祝い 旅人は 宴を催す


多くの 客人の中には その後 旅人の歌人として


の才能を引き出し 永遠の友となる 二人の人物がいた


一人は 筑紫観世音寺別当 である 『 沙 弥 満 誓 』 (さみまんせい)


参席者の多くが 都への望郷の情にひたる中


満誓はこんな歌をうたって 座を盛り上げた


《 しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて 未だは着ねど 暖けく見ゆ 》

巻3ー336

意味 : 筑紫の綿(わた)で作った衣は まだ着たことはないのですが 暖かそうですねぇ


(筑紫の女性は あたたかそうですね)



そして もう一人は 『 山 上 憶 良 』



《 憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それ その母も 我を待つらむぞ 》


巻3ー337


意味 : 憶良どもは もうこれで失礼致しましょう 家では子らが泣いているでしょう


そして その母も私どもの帰りを待っていることでしょう



憶良は 都への望郷の念にも 筑紫の女を暖かい


綿に譬えた 満誓 の艶笑にもなびくこともなく


参加していた下僚たちを代表し 主人の旅人に


辞去の歌を捧げたのである


後日 この宴が生涯続く友情の出発点となる


旅人の大宰府の赴任 は 単身赴任ではなかった


長年連れ添ってきた妻(大伴郎女)も子(家持)も連れての旅であった


その妻が 翌年 亡くなったのだ


旅人の悲しみは尋常ではなかった


《 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり 》


巻5-793


意味 : この世の中が儚く空しいものであるということを思い知った今


さらにいっそう深い悲しみがこみあげてくるものです


旅人は 大きな悲しみを忘れるために 酒に溺れていきました


《 験なき ものを思はずは 一杯の 濁れる酒を 飲むべく あるらし 》

巻3ー338


意味 : なんの役にも立たないことを思うくらいなら


一杯の濁(にご)り酒を飲んだほうがましだよね



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御笠川の カルガモの親子



荒んでいく旅人を見て 山上憶良は挽歌を贈ります それをきっかけとして


その後「筑紫歌壇」といわれる 「万葉集」に収められた数々の歌が


少弐小野老(おゆ)


観世音寺別当 沙弥満誓(さみまんせい)



大伴坂上郎女


などの人々と共に 詠まれていきます



酒を飲み 友と歌を詠み 少しずつ 癒されていく



旅人の前に一人の女性が現れます



『 娘子(おとめ)児 島 』です


児島は「遊行婦女(うかれめ)」と呼ばれる


宴席に侍り詩歌音曲を奏する云わば芸妓です


が そうそうたる 万葉歌人と同席して歌を詠むだけの


品格と教養を兼ね備えた 女性でした




話はそれますが


万葉集には四人の 遊行婦女(うかれめ)が名を残しています

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「土師(はにし)」


「蒲生(かまふ)」


「左夫流児(さぶるこ)」


そして「児島(こじま)」です


この様な 遊行婦女


と呼ばれる女性達は




その後も 傀儡女(くぐつめ)とか


白拍子(しらびょうし)と呼ばれ


歴史の表裏に登場します


彼らは人形に人の穢れを移し、


舞わすことによって穢れを祓う役目を


果たしていたようですが


遊女である白拍子も 自分自身に穢れを移して、


舞うことによって 穢れを祓っていたのです


白拍子は直垂(ひたたれ)・立烏帽子(たてえぼし)姿ですが


これは巫女の衣装ともとれます


白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ


貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、


教養高い人も多く


平清盛の愛妾となった 祇王や仏御前


源義経の愛妾となった静御前


後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊などが知られています


(NHKの大河ドラマ平清盛で 松田聖子が演じた


祇園女御も白拍子ですね)


(右上の絵は 北斎による 白拍子姿の 静御前)



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水城趾




話を戻しますが


旅人にとっては 児島との甘美な日々は



「最後の恋」だったのでしょう


しかし 満誓のいう 「暖かい綿に包まれた」日々は



長くは続きませんでした


旅人は大納言に昇進し、都へ戻ることになったのです



都へ帰る日 旅人の一行は 大宰府を離れ


馬を『 水 城 』に止め、府(太宰府の庁舎)を振り返ります


その時 府吏(太宰府の官吏)の中に


見送る 遊行婦女 が 一人居ました 児島でした


彼(旅人)と二度と会えない ことを歎き



涙を拭い 袖を振りつづけるのでした


当時は 袖を振る行為というのが


最大の 愛の告白表現 だったのですね

 

旅人を見送る 児島の歌です


《 おほならば かもかもせむを 畏みと 振りたき袖を 忍びてあるかも 》


(巻6ー965)


意味 : 普通の人ならああもしたいこうもしたい


でも貴方は偉いお方なので 振りたくてならない袖も じっと我慢しています


 

《 大和道は 雲隠りたり しかれども 我が振る袖を なめしと思ふな 》


(巻6ー966)


意味 : 大和への道は雲に隠れているくらい遠い(それ程、貴方と私の身分は違います)


そうであっても 私が振る袖を無礼だと思わないで下さい

 

 児嶋に贈った 旅人の歌二首である。


《 大和道の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも 》


(巻6ー967)


 意味 : 大和へ行く途中にある吉備の児嶋を通る時には、


筑紫の児嶋をきっと思い出すであろう


《 ますらをと 思へる我れや 水茎の 水城の上に 涙拭はむ 》


( 巻6ー968 )


意味 : 立派な男子と思っている私が 水城の上で 涙をぬぐってしまった



周りもかえりみず 袖振る児島の姿に思わず


感涙する自分に びっくりしたのだろうか


旅人の最後の恋は終わった


都に戻った 旅人 は独りに戻ります


《 ほほ人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり 》


(巻3ー451)


意味 : 人気のないがらんとした我が家は(草枕)旅の苦しさよりもなお苦しく切ないものだ



旅人の人生の長旅が終わりに近づいていた


懐かしい我が家も



彼にとって心安らぐ場所では もはや なかった


そんな折 太宰府の沙弥満誓から歌が贈られてる


《 ぬば玉の 黒髪変り 白けても 痛き恋には 逢ふ時ありけり 》


巻4ー573


意味 : 黒髪(くろかみ)が白くなって(年をとって)も、


せつない想いに出会うこともあるのです( 幾つになっても、男は恋をするものです)


旅人は満誓に 返歌をおくる


《 ここにありて 筑紫やいづち 白雲の たなびく山の 方にしあるらし 》


巻4ー574


意味 : ここからでは筑紫(つくし)はどちらの方でしょうか。


白い雲がたなびいている山の方でしょうか


天平3年 7月 大伴旅人は


帰京後、1年も経たずにその秋の7月(旧暦)に病に伏し


『 萩の花は、もう咲いたか? 』と


何度も何度も 側近に聞きながら


静かに旅立ったのでした


旅人の旅とは いったい 何だったのでしょうか


帰るとこるがあってこその 旅 なのに


都に 帰ってきても そこには 待つべき人は 誰もいなかった


白い雲の向こうの太宰府を 思い浮かべて


旅人の脳裏によぎったのは


今は亡き 妻の姿ではなく


袖振る愛しい女(ひと)児島の姿だったのでしょうか



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萩の花











by nonkei7332 | 2014-08-05 22:37 | 万葉集 | Comments(0)

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姉からの誘いで 久しぶりの 夏の太宰府 を歩いた

30年ほど前に 5年ほど住んでいた町なので

町なみはすっかり変わってはいるが あちらこちらに 記憶が転がっている

姉が プロデュースした コースは

連歌屋の「寿し栄」でランチ。

それから 「光明禅寺」に寄って 「国立九州博物館」

帰りに参道の 「かさの屋」で 冷たい抹茶と梅が枝餅

全く参拝目的ではないところが 面白い



途中 『 観世音寺 』に寄ってもらった

ここの参道に連なる 楠(くすのき)は

春夏秋冬 いつ来ても その折々の姿で

訪問客を迎えてくれる


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『 観 世 音 寺 』

筑紫で亡くなった斉明天皇の追悼のため 天智天皇 が創建

約80年の歳月を費やして天平18年(746)完成した

当時は 七堂伽藍を備え 九州の中心的な寺院で


日本最古の梵鐘(国宝)が有名だ

毎年 大晦日の除夜に聞いていた 鐘の音は

今も 私の魂に染みついている




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『 寿 し 栄 』のランチは ゴー☆ジャス ! これで ¥1300 (^o^)




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太宰府天満宮の参道の一の鳥居を右に曲がるとつきあたりに

『 光 明 禅 寺 』がある

別名「苔寺」とも呼ばれ その名のとおり庭園は碧く苔むし

前庭を七・五・三の十五石で光の字に配石された〈仏光石庭 〉

裏庭は 青苔は大陸と島 白砂は水と大海を現し

長汀曲浦の見事な線で画出された枯山水の〈一滴海庭〉となっている

とくに 秋は 紅葉が映えて 美しい



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はじめは「逢初め川」といい

出会って「思い川」という


さだまさしの名曲 「都府楼」の出だしの歌詞だ

光明禅寺の 正門の前に 1mほどの小川が流れている



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『 藍 染 川 』は逢染川、想川、思川ともいわれ、

太宰府天満宮の神官と京女の悲しい恋物語が伝わっている



天満宮の神官は 京に上っている時

そこに住む梅壷という女性と恋に落ち

梅千世という子どもまでもうけました

しかし 神官はしばらくして郷里太宰府へ帰ってしまいます

残された梅壷は恋しさが募るばかり

子どものためを思って 遠く太宰府まで下ってくるのですが

そこで待っていたのは 神官の妻の意地悪な仕打ちでした

打ちひしがれた梅壷は 世をはかなんで

藍染川に身を投げて死んでしまうのです

亡骸に取り縋って泣く梅千世を見つけた神官は

梅壷が生き返るよう 一心に祈りました

すると そこに天神様が現れて 梅壷を生き返らせたのです

梅千世は長じて名僧となり

この光明禅寺を開祖したとの説もある




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遊園地の入り口の右手に 『 九 州 国 立 博 物 館 』の入り口がある

長いエスカレーターと動く歩道が 博物館まで運んでくれる

老体には 誠にありがたい

蓮の花が 迎えてくれた



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参道は インターナショナル 何故か日本語が懐かしい

店の中に入っては 展示品をみると なぜかほっとする

やっぱりここは 日本だ




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『 か さ の 屋 』

姉のお気に入り の参道の途中にあるお土産屋さんだが

奥は カフェになっている

奥の部屋は 庭に面していて 簾越しに冷んやりとした 冷気さえ漂う

〈冷やし抹茶と梅が枝餅〉のセットを注文する

庭には 百日紅(さるすべり)の花が咲いていた

何処からか 野鳩がとんできて

百日紅の枝に止まっていた




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秋に なったら 🍁苔寺の紅葉🍁 見に来ようねと話していたら

『 小鳥居小路の 恵比寿様 』 が 和かに笑っておられた



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by nonkei7332 | 2014-07-27 21:34 | さだまさし | Comments(2)

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延喜三年二月二十五日
菅原道真は 配流の地で 
59歳の生涯を終えている
今から 1111年前の903年のことである
不遇の生涯だと人は語るが
幼少の頃は 神童といわれ 
その才能をもって 若くして 
学者としての最高位 文章博士となり
右大臣という頂点まで登りつめた人だか
不遇の人生とは言い過ぎだと思う
大宰府の地に左遷されたのが 
延喜元年であるから
生涯において 
不幸な時代は最後の二年間だけだった
最後は 波乱もなく
静かに人生の幕を閉じられているようだ

《 老いぬとて 松はみどりぞまさりけり 我が黒髪の雪のさむさに 》
(新古今和歌集1696)

菅公は亡くなったあとのほうが 
気の毒だった
都に なぜか異変が続く 
菅公の祟りだと かってに信じられ 
やがて怨霊の人となって
人々に恐れられるようになる
その祟りを鎮めるために 
祠をたて 祀られる神となる
怨霊にされたり 神にされたり 
まったく 迷惑な話だ

神話といえば 菅公の先祖は 
天穂日命(アメノホヒ) 
その十四世の子孫が野見宿禰である 
相撲の神であり 埴輪の神でもある 
第11代垂仁天皇の側近となり
殉死を廃止し
皇后の陵墓に埴輪を供えたことで 
土師氏として 天皇家の葬儀全般を
取り仕切る職を拝命する
その後 奈良の菅原の地名を名乗って 
菅原の姓をうける
垂仁天皇の御陵は 
古事記では菅原の立野 
日本書記では菅原伏見陵となっている
ここにも 隠れた神話の謎は 溢れている
今朝は朝から 雨
春まだ遠い優しい雨は満開の梅を濡らす
菅公の涙のようだ



by nonkei7332 | 2014-02-26 12:52 | 菅公・太宰府 | Comments(0)

by ヒサミツ