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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

タグ:菅公・太宰府 ( 18 ) タグの人気記事



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西鉄電車 《旅人》




大伴旅人(たびと)は

天平二年(730)正月

大宰府の帥邸において梅花宴を催しました



梅雪(ばいせつ)残岸(ざんがん)に乱れ

煙霞(えんか)早春(さうしゆん)に接す



《雪のように白い梅の花びらが切り立った岸壁に乱れ散り》

《霞が早春の空にたなびいている》


「初春侍宴」

大伴旅人

『懐風藻』より



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早咲き の 白梅



今年 始めて の 太宰府です

去年の最後が 太宰府の 〈入穴神社〉 でした

今年の最初は 観世音寺 の鎮守 〈日吉神社〉(ひえじんじゃ) です



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日吉神社 扁額




日吉神社 は 観世音寺の鎮守であり

地元では ひよし神社と呼ばれています

鳥居の扁額は 〈山王宮〉になっています

六十六段の急な階段を登ると 本殿

神社誌によれば 創建は 朱鳥大宝年間(686〜703年) とされ

平安時代に 比叡山の日吉大社を分霊したと言われています

とすると 旅人 は ここに 登った事があるのでしょうか



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日吉神社




江戸時代の地誌によると〈豊臣秀吉〉が九州下向の折

この神社に陣を張ったが 時の観世音寺の別当は世情に疎く

秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て

秀吉の怒りをかい 寺領を没収されたと伝えられています

承応元年(1652年) 領主が再興しました

祭神 は 大山咋神 と 大己貴命(大国主命)

日吉神社は山王社とも呼ばれ 観世音寺の守護神とされています



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旭地蔵尊






日吉神社 から 天満宮方面へと 小径を歩いていくと

坂の途中に 旭地蔵尊 があります

この堂 は 〈横岳山崇福寺〉を創建した

湛慧(たんね)禅師の墓と伝えられています

『筑前国続風土記』によれば


「 この地谷間にありて いと 閑寂なる境区なり。

湛慧の墓は 横岳 に行く道の傍にあり、此所入定の地なる故に

石塔を立てそのしるしとする。」とあります


伝承では禅師が正月に観世音寺の前を通りかかった時、

正月最初に門前を通った者を鬼とする 追儺(ついな)があった為

追儺 : (後世 節分となった神事)

捕えられて追儺の鬼にされたそうです

禅師は これを恥じて 後年この地に穴を掘って籠もり

入定したと言われています

土地の人々は手厚くここに葬り石塔を建てて供養し

後に地蔵を祀り 山の名前 朝日山にちなみ朝日 又は日の出の旭をとり

〈旭地蔵〉として、信仰厚く現在に至っています




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崇福寺別院






仁治元年(1240)に

湛慧禅師によって.ここに 創建された 横岳山崇福寺 は

文永9年(1272) 大応国師によって 崇福寺別院として 開山されてから

中世 影響力のある 寺院として 往時には 隆盛を極めましたが

天正14年(1586)の島津氏と大友氏との 岩屋城の合戦によって焼失し

その後・慶長5年(1600)に 福岡藩初代藩主黒田長政 によって

福岡市博多区千代 に移設 再建がなされ 黒田家の菩提寺となって

大きく発展し 今日に 至っています




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崇福寺 朝日地蔵堂





千代の崇福寺 山門横にある 〈朝日地蔵〉何度も見たことがあるのに

太宰府 白川の〈旭地蔵〉が 本家本元 だなんて


知る由もなかった



今年も 知る由もなかった事を


たくさん 探しに行くんでしょうね


旅人の 夢 は 果てしのない 旅です






黄 : 日吉神社
緑 : 旭地蔵尊
赤 : 崇福寺別院



by nonkei7332 | 2017-01-10 21:40 | 菅公・太宰府 | Comments(2)


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神奈備(かんなび) とは

神籬(ひもろぎ) と 磐座(いわくら) の総称でもあります

神が「鎮座する」または「隠れ住まう」

山 や 森 や 岩 や 滝 などの 神域 のことをいいます

今年も たくさんの 神奈備を 訪ねてきましたが

最後の 杜 は 太宰府 五条 でした



伊藤まさこ著 『太宰府・宝満・沖ノ島』を読んで

ずっと 気になる場所が 記事の中にありました


第2章 倭国の成立

(6) 王宮はどこに置かれていたか~太宰府の中心ラインを復元する


太宰府の古代 王宮はどこだったのか という興味深い内容でした

山頂・王墓・神社を結ぶ 古代の祭祀ラインを手掛かりに

消された 歴史を 復元する というのが 伊藤さんの試みです

まず 太宰府の四角形の謎解きでした

〈宝満山〉の西に5km の位置にあるのが 〈大城山(四王寺山) 〉

南に 5km の位置にあるのが 〈宮地岳〉それを結び

もう一点の頂点は JR二日市駅の西側にある 〈塔ノ原〉付近

この 四つの頂点を結ぶと ほぼ正方形の聖域が出来上がるといいます

塔ノ原には 定かではないらしいのですが 何かがあったのでしょう

昔から 宝満山は太宰府の鬼門(東北)と言われているので

その中心となる 王宮の位置は 正方形の中心地点

太宰府天満宮から 南西に 500M くらいに行ったところにある

高尾山の斜面に鎮座する 《石穴稲荷神社》ではなかったかというのが

伊藤さんの 説 でした


天満宮 や 観世音寺 や 竈門神社 や 光明禅寺 に行くことがあっても

この 石穴神社を 訪れる参拝者は 極めて少ないみたいです

近くに住んでいたことがある私でも知らなかった 神社 です

伊藤さんは その由緒と 様子を 詳しく書かれていましたが

どうしても行ってみたいという 衝動には勝てません

近くにお住いの Tomさん に連絡すると 案内しますよ との返事

今年の 最後の神奈備訪問となりました


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場所は 筑紫女学園大学入口のすぐ側にありました

祭神は 宇迦之御霊大神(うかのみたまのおおかみ) 稲荷神です

由緒 は 文献や資料が消失して残ってないので

伝承によると 菅原道真が 太宰府に降られた時に

一緒に来られた神様だとされています どうやら

菅公没後に京都伏見稲荷が勧請されたようです


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本殿の横から 奥に 〈奥の院〉と呼ばれる

巨大な磐座(いわくら)がありました

まず 入口で 靴を脱ぎ 準備してある 履物を履き替えねばなりません

これだけでも エッと 身が竦みます

濡れた 石道を 転ばないように 登りました

聞こえてくるのは 鳥の鳴き声 と 耳をすますと 微かに

高尾山を水源とする せせらぎの音が聞こえます

上り詰めた処に 桃若稲荷神社 の祠があります





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一帯は 2Mから3Mの岩が 重なるように点在する 磐座です

ここが奥の院の入り口 左奥に トタン屋根があり 奥の院 がみえます

足元が滑るので 危険なので奥には進みませんでした

ここは神社境内とは 全くの別空間といってもいいでしょう


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神迎えの 原始信仰としての 神奈備の杜 としての 〈奥の院〉 と

後世 菅公守護の元で 京都から勧請された伏見稲荷の〈本殿〉

神道の変遷が 同時に見られる 特異な聖地でもあるのです


日本書紀 神功皇后62年条に 面白い話がありました

『 新羅からの朝貢がなかったので、葛城襲津彦が新羅討伐に派遣し

新羅 を討とうと した。 『百済記』によると 沙至比跪(襲津彦)は

新羅から出された女性二人を受け取り 反逆して加羅國 を 討 った

加羅王 は百済に 逃げ込み 事の次第を伝える

この事が日本の天皇に伝わり 天皇 は 怒って兵 を送り加羅國を助ける

襲津彦は天皇が怒っているのを知って 公 には 帰らず 潜伏する。

襲津彦の妹に天皇へ仕えている者が居たので

襲津彦は 使 いを 送って 取 り次いでもらおうとする

妹が天皇に夢で襲津彦を見たと伝えてみる と

天皇 はなぜ 帰ってくる と 怒ったという

襲津彦は天皇の怒りが解けない事を知り、石穴に入っ て 自殺した 』


九州王朝説の 古田武彦さんは

『ここに 古代王朝ありき』 の中で

この「石穴」は 太宰府の石穴神社ではないかと書かれています

襲津彦の妹が気になりますが 天皇に仕えていたとなると

襲津彦の娘である 磐之媛は 仁徳天皇の妃だったので

ここにでる 天皇とは 仁徳天皇になるのでしょうか




古代の太宰府の王宮は何処か

その 王 とは

石穴 が 何かを つぶやいていましたが


Tomさん には 何かが聴こえていたみたいですが

私には まだ 聴こえなかったようです





赤 : 石穴稲荷神社
黄 : 大城山
緑 : 宝満山
青 : 宮地岳
紫 : 塔ノ原









by nonkei7332 | 2016-12-26 09:14 | 古代史 | Comments(0)


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能古島 と 落陽



秋は夕暮れ。

夕日のさして山の端いと近うなりたるに、

烏の、寝どころへ行くとて、

三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへ あはれなり。

まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、

いとをかし。

日入り果てて、風の音、虫の音など、

はた言ふべきにあらず。


〈 いと をかし 〉 = とても 趣き(風情) がある


《現代語訳》


秋は夕暮れが一番だ。

夕陽がさして山の端がとても近くなると

カラスが ねぐらに行こうとして三羽四羽 二羽三羽が

飛び急ぐのさえしみじみとした情感がある

まして 雁などの列が とても小さく見えるのはとても趣きがある

日が落ちて聞こえてくる 風の音 虫の音などは

いうまでもない程 良いものだ



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博多湾 アイランドシティ に沈む夕陽




『 枕 草 子 』(まくらのそうし)

冒頭四季の情景の中から 秋は夕暮れ・・・の部分を抜き出しました

(「枕草子」・・平安中期 清少納言 作「方丈記」鴨長明・

「徒然草」吉田兼好 とともに 日本三大随筆と云われています)


清少納言 が 「いとをかし」と語った 夕暮れの景色とは

いったい どこの 夕暮れ だったのでしょうか



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カモメ香椎大橋 と みなと100年公園




なにしろ 謎多き 清少納言


俗説が 巷に 満ちあふれています

実は 父親の 清原元輔 が 周防守 や 肥後守を歴任しており

太宰府に居た足跡があることが 歌 にも 残っています


《 春はもえ 秋はこかるる かまと山 かすみも霧もけふりとそ見る 》

清原元輔 の宝満山を歌った歌

(宝満山の竈門神社境内に歌碑あり)


世阿弥の謡曲 『 檜 垣 』に描かれた

太宰府の白拍子(遊女) 〈檜垣伝説〉があります

*( 拙ブログ 2014/12/27 『想いも深き 思い川』参照 )



〈清原元輔〉と 大宰府の白拍子 〈檜垣〉の間に生まれた 子供が

清少納言であるということが


鎌倉初期の 随筆集「無明草子」に

「檜垣の子 清少納言」と書かれています



さて ここから 私の妄想は 舞い上がります

とすると 清少納言 は 太宰府に住んでいたことがあったのではないか

清少納言という 女人の記憶に残る いとをかし 夕暮れの風景とは

博多の海 に沈む 秋の夕暮れの景色だったのでは・・・



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磯良の海(博多湾)
右 志賀島 左 能古島



万葉集 も 源氏物語 も 枕草子 も そこに描かれた

宮廷王朝の 原風景 は 九州ではなかったのか・・・




『 いと をかし 』事を 言うな

そんな声 が 聞こえてきます



私が その 美しさに 魅せられて

何百枚も写した 秋の夕暮れの 写真の中から

大好きな 四枚の写真を選んでみました








by nonkei7332 | 2016-10-13 20:53 | 古代史 | Comments(0)

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古都の光 の提灯





太宰府天満宮 の 秋の祭り

『神幸式大祭』が終わりました

この行事が始まったのが 今から 900年前 康和3年(1101年)

大宰権帥 大江匡房(おおえまさふさ)が


菅公を偲んで始めたとされています

菅公 在世の往時を偲び 御神霊をお慰めするとともに

皇室のご安泰と国家の平安


さらには 五穀豊穣を感謝するというのが

祭りの由来だと言われています


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心字池 の 巫女舞




最終日の25日は 菅公の命日 です

陽が落ちると 境内の心字池に千本のローソクに火が灯される


「千灯明」(せんとうみょう)

水上舞台では 巫女による神楽舞が奏上されます

この夜は 天満宮の境内だけではなく


『太宰府古都の光』という

イベントがおこなわれます

観世音寺 や 戒壇院 大宰府政庁跡や水城跡などの 5カ所が

灯籠や光のオブジェで彩られ

灯明の灯りによる光の道ができあがるのです



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政庁跡の 光のオブジェ
後ろは 四王寺山





都府楼という名で 地元では 親しまれてきた 古き都跡

筑紫万葉と呼ばれた 優雅な 宮廷文化が そこには見え隠れしています



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戒壇院 山門


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戒壇院 の 境内





この場所は 菅公という 一人の男を偲ぶだけの場所ではないのです

九州王朝という 歴史の闇に 消された

この国の ルーツ を偲ぶ場所なのです


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観世音寺 正面




隠された 真実とは 何なのか

観世音寺の梵鐘の音が

私に こっそり 教えてくれた

物語がありました



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榎社 を行き来した 御所車







by nonkei7332 | 2016-09-27 07:18 | 菅公・太宰府 | Comments(0)


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久しぶりに 兄弟三人で 大宰府へ行きました

お目当は 九州国立博物館 の 特別展『始皇帝と大兵馬俑』

そして 『花菖蒲』です



まずは 腹ごしらえ

姉が 穴場を見つけていました

姉の家の側にある 《介護付有料老人ホーム アクラス五条》の中にある

食事処「よっと~と」

日替わりランチ 550円(コーヒー・デザート付)

この日のメニューは 〈酢鶏〉でした かなり美味しかったです

コーヒーは 場所を変えて となりの 「カフェブリュネ」

さすが 高級老人ホーム アンティークな調度品に囲まれて 至福のひと時


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参道は 平日にもかかわらず


相変わらずの チャイニーズ王国でした


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特別展は 今週一杯ということなのか


花菖蒲満開に合わせてなのかかなりの人の波でした


〈兵馬俑〉については また後日 記事にします


何れにしても 20世紀最大の考古学発見と言われる 〈兵馬俑〉

始皇帝という 一人の男の為せる術の壮大さは

海馬の奥深くに眠る 記憶の魂を 充分に 揺さぶってくれました


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東神苑 の 菖蒲池 には


約55種3万本の 「花菖蒲」が 咲き誇っていました

池のほとりの茶屋に座って 抹茶をすすりながら しばし 無言。

池の向こうに見える 緑濃き 四王寺山 も 美しかったです


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by nonkei7332 | 2016-06-09 13:32 | 菅公・太宰府 | Comments(4)

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九州国立博物館



『 10年は 一昔 』といいます

九州国立博物館 ができて 10年

開館記念展 の 名称 は 『 美の国日本 』でした

そして 10周年の今回も 『 美の国日本 』


渡来人で溢れる 参道を抜けて 博物館に上る

何時ものように 虹のトンネルを抜けると 目の前に

青い空を映した 鏡張りの 博物館が 目の前に 現れる


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今回の目当ては 『正倉院宝物』

正倉院は 奈良東大寺にある 校倉造(あぜくらづくり)の高床式倉庫

奈良天平の宝物が納められている と教科書で習った

パンフレットを覗くと 全国の国立博物館から取り寄せた

展示品がほとんどで 正倉院宝物 は たったの 6点だけ

あたかも 正倉院宝物展 のごとき メディア の紹介だったので

またしても 上げ底展の感を歪めない


『螺鈿紫檀五絃琵琶』今回の目玉がこれだ




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聖武天皇の愛玩品だったというが 日本の工芸ではない

ラクダに乗って琵琶を奏でる ペルシャ人からしてみると

唐に渡り 遣唐使によって 日本にもたらされて物のようだ

紫檀の上に貝の螺鈿の美しさは 目を瞠るものがある




気になった 宝物が 『筑前国嶋郡川辺里戸籍』


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説明を読むと

《大宝2年(702)の筑前国嶋郡川辺里

(今の福岡県糸島市および福岡市西区の一部あたり)住民の戸籍で、

現存する 日本最古の戸籍として知られています。

戸主とその家族の名前、年齢などが一行一名ずつ記録され、

その上から「筑前国印」が丁寧に捺されています。》

この文書は 『正倉院文書』とよばれる 一万数千点にもなる

古文書の一部だといわれているが 戸籍 天皇への献上品 などの

様々な文書群であり 今も その解析研究が進んでいるといわれる


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「九州王朝説」の 故 古田武彦さん は


講演の中でこんな話をなさっていた


『 正倉院文書の問題である。

私はあれ!と思ったのは筑後だけが献上品が全然違う。

他の地方は醤油や味噌など非常に分かり易い地方の特産物等である。

しかし筑後だけが全然違う。

まず天平10年(738年)に、

銅の竈(かまど)を作る工人を献上させられている。

次は轆轤(ろくろ)の職人を献上させられる。

轆轤(ろくろ)の職人も重要な技術である。

更におかしいのは、鷹狩りの技術者を30人献上させられている。

30人と書いて有る。先ほどの銅の竈を作る工人の数は書いていない。

もっと多いみたいだ。さらに犬を献上させられている。

犬というのは御鷹犬です。鷹狩りには人間だけいても駄 目。犬がいる。

特殊技術を持った犬を筑後から献上させられている。

奈良の犬では駄 目だったみたいだ。

( 中略 )

一番の問題は玉類。玉というのは玻璃製・ガラス製品。

現代では安っぽく見えるが、当時ガラスは最高の工業製品。

15・16世紀に西洋で大量 生産の方法が発明されるまでは、

尊い宝玉のトップの位置にあったのが玻璃製・ガラス製品。

その玻璃製品を930枚、「賣」という名目で献上させられている。

どうせ買い上げたと言っても大した金は出していない。

さらに今度は真珠。白玉 113枚、これもすごい数。

その他にもいろいろ竹玉・ガラスの勾玉・管玉とか献上させられている。

要するに弥生時代に博多湾岸にあった物が皆筑後の方に有ったらしく、

それを献上させられている。そういうことがありました。

それで今度の古田史学会報に少し皮肉を書いたのですが、

従来の正倉院文書の研究者は多いが、

どうして九州王朝論者にならなかったのか。

あれを見れば筑後は他の国と違って、

最高権力者の土地であることが 明確ではないか。

それから天平10年から14年後に東大寺の奈良の大仏が建立されている。

これは銅の製品ですよ。そうであれば今の数が書いていないほど

「銅の竈の工人」が献上させられている。その彼らが

奈良の東大寺の大仏の建立の中心になったことはまず疑いがない。

そういうことは教科書では教えていないでしょう。

天平10年以前の権力の中心地は福岡県でした。

王朝はそこにありました。

正倉院文書の研究者がみんな言わなければいけない。

言わなかったのが後世から見ると謎になるのではないか。

こういう皮肉を書いた。そこから始まった問題は

(近畿に)献上する前のおびただしい宝玉はどこに有ったのか。

そういう疑問を持っていた。そこへ東京の高木さんから、

筑後国に「正倉院」が有ったと言われたので、本当にビックリした。

天平10年に献上させられた膨大な宝玉 はどこに入ったか。

おそらく奈良の正倉院に入ったことはまず間違いがない。

我々は今奈良の正倉院の宝物を見ていますが、

何処からきたか知らずに見ています。』


古田武彦さん 古代史研究の第一人者であられました

先月14日 亡くなられました 89歳でした

歴史は 必ず 彼が遺した偉業を 称賛するでしょう

元気なお姿を 知っている 私には 想いも深きおひとりでした

日本の賢人が またひとり 亡くなられました

御冥福をお祈り致します

拙ブログ 2/22 の記事に 《孤高の魂ー古田武彦さん》として

紹介させて頂きました




歴史に 隠された 正倉院の謎

歴史に消された 九州王朝の真実

秋の太宰府は どこまでも 青き空に包まれ

宝満から下りてくる 澄みきった神の風に

ひたすら 身をゆだねているようでもありました









by nonkei7332 | 2015-11-03 10:08 | 菅公・太宰府 | Comments(2)

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九州国立博物館

開館10周年記念特別展

『美の国日本』を 見るために

太宰府 五条に住む 姉を訪ねた

秋の陽が穏やかな 中を

御笠川 沿いを 散歩しながら 歩いた

30年前に この近くに住んでいた私には

想い も 古(いにしえ) も 深き 思川(御笠川) なのだ

川沿いに 太宰府市役所があり

上流を望むと 源流である 御笠山(宝満山) がそびえる



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この道は 姉の毎朝の 散歩道

以前 「カワセミ」を見た と聞いた事があったので

そんな話をしながら 歩いていると

チチーと鳥の鳴き声が聞こえた

「あっ カワセミ」と 姉が 言った

10mぐらい 先の 川面に 青い羽根をした 鳥が横切った

「やったー カワセミ だ」思わず 私も叫んだ

カワセミ は 向こう岸の ヨシの葉に止まっていた

しばらく 立ち止まって見ていると

瞬間 水面に コバルトブルーの 色が拡がり 水柱が立った

カワセミ が小魚を 捕らえたのだ

そして あっというまに 何処かへ 立ち去っていった

「あっ すごい」

なんという 嘘みたいな ほんとの 初めての 出逢いだった



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カワセミ は いくつもの名前がある

〈川蝉〉・〈翡翠〉・〈魚狗 〉

〈川蝉〉は 蝉のよう鳴くから とか

背中が美しいから (川背美) が訛ったからといわれている

〈翡翠〉というのは 中国でのこの鳥の呼び名で

赤い羽根と青い羽根を持った鳥という意味だという

翡翠(ヒスイ)という宝石の名前がこの鳥の名前になったのではなく

鳥の美しさが 宝石の名前になったようだ

〈魚狗〉は 魚を食べるからの名前だといわれている

〈狗〉という字は 〈食べる〉という意味なのだろうか

筑後川の下流で取れる ヤソ という魚 を 『狗母魚』と書く

筑後川下流を 古代『狗奴国』といったので

面白い解釈 が できる つまり

《 母を食べる魚がとれる 国とは 母なる国である奴国を食べる国 》

《 奴国 を 滅ぼした 狗奴国 》


万葉集には 鳥の詠まれた歌が 600首あるというが

これだけ美しい 〈かわせみ〉の歌が 一首もないというのも

不思議 でしかたがない


妄想は また 新たな 妄想を作ってしまう


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途中 『光明禅寺』に寄った

紅葉には 早いが 秋の気配 が 漂っている

階段を上って 梵鐘の横からの景色 に思わず シャッター

柿の木の向こうに 四王寺山 が美しい

宝満山と共に この山にも 多くの 神話が隠されているのだ









by nonkei7332 | 2015-11-01 22:32 | 菅公・太宰府 | Comments(0)

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観世音寺 参道



行楽の 秋日和 太宰府へ行きました

ただ 天満宮にはいかず 目的地は 迷わず

清水山普門院 の 山號をもつ 九州一の古刹

《 観 世 音 寺 》

ここには 日本一 古いと言われる 国宝の 梵鐘 があります

その鐘の音 は 菅公 が 榎社に幽閉され 失意の中で聴いた

あの鐘の音と同じだということを知る人は少ないのです

造られたのが 681年 糟屋郡の多々良 あたりだと書かれています

作った人は 〈上三毛麿〉この人がどんな人かは 詳しくは残ってませんが

562年 大伴狭手彦が 高句麗を征伐して 多数の珍宝と優秀な工人を

連れ帰った中の一人ではないかという説もあります

同じ鋳型で造られた梵鐘が 京都の妙心寺にあります 兄弟鐘です

なぜ 離れ離れになったのかは 歴史の闇のなせる技でしょうか


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国宝 梵鐘



梵鐘 の事を 別名 〈 鯨 鐘 〉とか 〈 華 鯨 〉といいます

なぜ 鯨なのかについて 考えてみました

対馬海峡は 鯨の通り道で 壱岐には 多くの捕鯨基地がありました

万葉集にも 「いさなとり」(鯨魚取り) という 海を表す 枕詞があります

安曇の海人は 壱岐の港を出て 筑紫の都をめざします

筑紫の賢人 真鍋大覚さんの『 玄界灘の海上気象 』のなかに

こんな記事がありました



『 壱岐島 郷浦 を 出ると


やがて見える 筑紫の山々は

東が 九千部山 中央が 脊振山 西が 鏡山 と

大鯨 が 水平線に浮上した形である 』



三笠川の上流 までが まだ 海だった頃


鯨 の 頭 の 九千部山 の 麓にある


太宰府の都をめざした 海人達にとって

やがて 聞こえてくる 観世音寺 の 鐘の音 は

厳しい 船旅に 終わりを告げる


安堵の 音色だったに 違いありません

だから 海人達は この鐘のことを 《 鯨 鐘 》と呼んだのでしょう

鯨 の 字は 魚偏に 京 (みやこ) と書きます



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参道脇の 萩の花





教科書では 538年に 百済から 仏教が伝来したと教えます

しかし 仏教が 筑紫に 伝わったという 記録が残っています

『雷山縁起』に 418年に 清賀上人が 仏教を伝えたとあります

王朝がある 筑紫に 多くの経典や 仏像や そして 梵鐘も 伝わりました

観世音寺 は


天智天皇が 母斉明天皇(崩御661年)の 追善のため 発願され

746年に落慶供養が行われたとされていますが

その間 80年もの空白の謎は 何を隠そうとしているのでしょうか


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苔むす 樟 の 古木 と 観世音寺講堂





観世音寺の 鐘の音は

筑紫 の 栄華 も そして 哀しみの物語も

すべてを 包み込んで

私 の 魂に 語りかけてくれました



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《 観世音寺 夕べの鐘に 花散れば 身も世も非ず 泣かまほしけれ 》


《 観世音寺 みあかし暗う 唯一人 普門品よむ 声にぬかずく 》


柳原 白蓮 の 歌






by nonkei7332 | 2015-09-24 08:33 | 古代史 | Comments(0)


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正面より


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拝殿





博多には 古くからの町である 「綱輪町」(つなわまち) という町があった

いつのまにか 訛って「綱場町」(つなばちょう) と呼ばれ 今日まで 残っているが

町名の由来は その地に鎮座する 『 綱敷天満宮 』からである

この天満宮に謂れは


菅原道真公 が 筑紫の国への 下向の船旅の終わりの時


津の国 (博多) 『 袖の湊 』に上陸された


そこが 海辺だったので


漁師達が 船の友綱を手繰り上げて


蚊取線香のように 巻いて 輪にして


円座をつくり 道真公 をその座に迎えて


休んでいただいたという話からきている


実は 全く 同じ名前 と 由来の 綱敷天満宮 が

摂津須磨の浦 (神戸市東灘区) と

豊前国築城群高塚村 (福岡県築上町高塚) にもある



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沖の濱 の 南岸に 綱場天神の表記があります




博多の町は しばしば 兵火のため 焦土となっていたので 天満宮も何度か場所を変えたが

落ち着いたところが 「袖の湊」の博多本土 と 大水路 (博多中の道) を隔てた

対岸の 沖の濱地の南岸であった ( 鎌倉時代の博多古図 参照)

その後 袖の湊も やがて 陸地となり 今の 博多の地形になると

天満宮は 綱場通りと呼ばれる 往還沿いに 北向きに建てられたようだ

江戸の元禄の頃の大火で焼失したあとは 土居通り沿いに 西向きに建て直されたようで

再建当時の 境内地の広さは 五、六百坪もあって 土俵場があり

松の木や 梅の木や 多くの樹木が繁っていたといわれている

( 明治22年の博多地図 参照 )


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中央あたりに 綱場天神が 土居通り沿いにあります





昭和の戦災で 社殿も楼門も全焼し しばらく 官有地となっていたが

昭和25年 現在地に 百坪ほどの土地の 無償払下げを受けて

戦後の都市計画で出来た 新道沿いに 南向きに 神殿を 造営し

現在に至っている


天満宮の祭祀は 古来より

綱場町 と 下土居町とが共同で 今日まで奉仕されてきたようだ

去年の山笠の時に 訪れたが 「土居流」の 詰所 として 境内が使われていた

「下土居町」と言えば このブログの〈ルーツのタグ〉で紹介したように

我が家の先祖 「小堀家」があった町で 文献によれば

天満宮の四軒となりに「山笠細工人形店」の看板が出ていたようである

おそらく 先祖達が 子供だった頃 天満宮の 境内で 日が暮れるまで

真っ黒になるまで 汚れて 遊んでいたのだろう

目を閉じて 海馬を覗くと 子供達の唄う声が 聞こえてくる



通りゃんせ 通りゃんせ

ここは どこの細道じゃ

天神様の細道じゃ~




by nonkei7332 | 2015-03-26 12:02 | 博多ルーツ | Comments(0)


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正面から



菅原道真公 の 水鏡伝説 が残る 《 水鏡天満宮 》


福岡市 最大の繁華街「天神」の地名の由来となったのも この 水鏡天満宮です



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本殿




こんな 歌がありました


《 水鏡せると伝ふる 天神の みあしのあとに 千鳥 群れ飛ぶ 》

道真公が 博多に上られた折に
四十川 ( 今の薬院新川 ) の水面にご自分のお姿をご覧になったとされ
当初は「容見天神」(すがたみてんじん) とよばれていました
社殿も 現在地ではなく もっと 上流の 今泉付近だったと言われています
当時は 今の 博多とは ずいぶん違う 地形ですが それでも
浜千鳥が飛んでいる 海岸線では あったようですね ( 鎌倉時代の博多古地図参照 )


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「冷泉津」の右上に 容見天神 の表記があります




その後 500年経って 冷泉津と呼ばれた 干潟も 次第に陸地となり

黒田長政が 福岡城を築城の折には 東北の鬼門に当たる

現在の場所に 移転させたといわれています (江戸時代の博多古地図参照)


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左下が 福岡城 右上の川沿いに 赤い色の鳥居があるのが 「水鏡天満宮」




《 氏神 》の定義を 「お宮参り」した神社とすれば

この 水鏡天満宮 が 私の氏神になります

実は 私の両親は 結婚と同時に

水鏡天満宮の社務所の裏にあった 茶室のある 小さな家にすんでいました

(綾杉酒造所跡付近)

というのも 表千家の茶道を教えていた 母の叔母の養子になって 後を継いだからです

綾杉酒造所は 香椎宮そばの 武内家の関係の酒屋さんでしたね

私の想像ですが おそらく この付近には 綺麗な水 があったんでしょうね

そういう訳で 私の兄と姉は 天満宮そばの この家で 生まれています

私はここでは 生まれていませんが 路地の奥にあった 茶室と庭のある 小さな家は

今でも 憶えています




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茶室と庭の写真









by nonkei7332 | 2015-03-25 22:21 | 博多ルーツ | Comments(0)