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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて


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博多祇園山笠 の最終日
『 追い山 』は
午前4時59分 一番山笠 の櫛田入りで 始まり
七番山笠 が 廻り止め に到着するのが 午前6時頃
疲れ切った男たちの顔に笑みが戻ると
櫛田神社の 能舞台では 厳かに 最後の神事
『 鎮めの能 』(しずめののう) が はじまります



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この 由緒ある 能楽の奉納が始まったのが
寛永8年(1668年) だといわれています
朝倉甘木の能楽師 梅津太夫 によって 演ぜられました
その後 たびたび 中絶 再興 を繰り返してきましたが
今では 宮総代がその任にあたっておられます

さて ここで 奉納される 能の演目は 『 翁 』です
他の演目が 奉納されることは ありません

『 翁 』は多くの 能の演目の中にあって
特殊な位置をしめています
「 翁は能にして能にあらず 」とよくいわれます
そこには 物語というものはなく ある意味での儀式なのです
五穀豊穣を祈る 農民行事が起源だと いわれています
舞台で 舞うのは 「翁」「千歳」「三番叟」三人の役者です
「翁」は 村の長老 「千歳」は 村の若者
「三番叟」は 村の農民達 を象徴しています
面 を持った 千歳 を先頭に
翁 三番叟 囃子方 が舞台に登場します
まず 千歳 が 足を踏みながら
まるで 大地の神を 呼び出すような
露払いと呼ばれる 舞を舞います
そして その間に 右奥に座した 翁 は
舞台の上で 厳かに 白い 翁面をつけ
村の長老から 翁の神へと 変身します
次に 翁 が舞います
舞が終わり 面を外した 翁と千歳は 舞台から退出します
三番叟 が登場します
舞台は一転 アップテンポな 囃子が 舞台に流れ
黒い面をつけた 三番叟 は 鈴を鳴らしながら 舞います
それは まるで 神を迎えた 農民達 の喜びの舞いのようです


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翁面


老翁の神 とは いったい 誰でしょうか

櫛田神社に縁深き 若松様とよばれる
武内宿禰 の化身 でしょうか?

それとも 山幸彦を竜宮へ案内した
塩土老翁(しおつちのおきな)?

それとも 村の守り神 猿田彦神 ?



「 鎮めの能 」は 山笠を締めくくる 最後の神事でした

博多の町に 祭りの後の 静けさと

暑い 暑い 夏がやってきます






by nonkei7332 | 2015-07-16 07:04 | | Comments(0)

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能面




将軍義満 の庇護のもと
世阿弥 は 凛々しく 芸風を拡げていきます
観客は その 美しき舞に 酔いしれ
幽玄の中に 神話を見たのでした
晴れやかな 人生は いつまでも 続くものではありません
至徳元年(1384年) 世阿弥 22歳のとき
駿河に 巡演中の 父 観阿弥が 亡くなります
親と師匠を一度に失うという 大きな試練 でした
それだけではなく 一座を背負う 座長としての現実が
彼の肩に 重く のしかかってきたのでした

世阿弥は 新たな 挑戦を始めます
結崎座 を 観世座 と変え 統領として 観世三郎 と名乗ります
坐を束ねながら 父の遺した 演目を編曲したり
〈 夢幻能 〉と呼ばれる 独自の構成の新作で
新たな境地を開きます

唯一の悩みは 後継者でした
なかなか 子供が産まれなかった 世阿弥は
弟 四郎の子 (後の音阿弥) を
養子に迎えます ところが その後
奇しくも長男 元雅 (もとまさ)次男 元能 (もとよし)
金春禅竹(こんぱるぜんちく)の妻となる娘 の
三人の子どもが生まれます
この頃 から 父の遺した 遺訓を元に
能芸論を まとめた 『風姿花伝」の執筆に取りかかるのですが
観世流の 正しき 伝承を 考えた上での
マニュアル作りだったのでしょうか
後継者には 音阿弥 か 元雅 かで 悩みましたが
完結した『風姿花伝』は
実子 元雅 (もとまさ) に 相伝されたのでした

応永15年 (1408年) 将軍義満 が 51歳で 亡くなります
義満の死は さらに大きな試練を 世阿弥 に与えます
後を継いだ 将軍義持 は 父への 反動か
猿楽よりも 田楽を贔屓にしたために 猿楽各座は衰退していきます
義持の時代 世阿弥は 後継者の育成と 多くの伝書をのこします
再び 訪れるであろう 猿楽の将来を信じ 充電に徹したのでした

応永29年(1422年) 世阿弥は
家督を 元雅に譲り 一線から身を引き 出家します
やがて 義持が死んで 将軍義教の時代になると
義教は 猿楽を支援しますが
贔屓としたのは 元雅 ではなく
かつて 世阿弥が養子に迎えた 音阿弥 でした
義教は 世阿弥父子の楽頭職を罷免し
音阿弥を その職につけます
その頃 将来を悲観した 次男の元能も出家してしまいます

永享4年(1431年)8月 世阿弥 70歳の時
人生最大の惨事がおこります
将来を託した 元雅 が 伊勢の安濃の津で 客死したのでした
後年 発見された文献には
「足利の家臣により 暗殺された」と残されていました
詳しい経緯は不明です
世阿弥は 「夢跡一紙」の中で こんな歌を遺しています

《 思ひきや 身は埋もれ木の残る世に 盛りの花の跡を見んとは 》

訳 : 埋もれ木のように老いた自分が生きていて
盛りの花というべき
子供の 亡骸をみるとは 思ってもみないことだったl

観世流の 後継 が 元雅の死によって 途絶えたのです
世阿弥の失意は 計り知れないものでした


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佐渡の夕日



苦難は続きます 永享6年(1434年) 5月 世阿弥 71歳の時 でした
突然 佐渡に流罪されるのです
元雅の暗殺の絡みなのかもしれませんが
一説には 世阿弥の秘伝書を 音阿弥に譲るようにとの
将軍義教の 命令を拒否した為だと いわれていますが
定かでは ありません
佐渡における 八年もの間 罪人として 環境 のなかでも
「金島書」という 八編の謡曲を 残しました
やがて 義教の死により 赦免され
辛く 苦しかった日々も終わりを告げます
世阿弥は 音阿弥には 渡さなかった 秘伝書を
娘婿の 金春禅竹 に 伝えます

妻 寿椿 と共に 静かな余生を過ごしたのでしょうか
嘉吉3年(1443年)8月8日 世阿弥 81歳
その 波乱万丈の人生を 閉じました

これを見ん 残す黄金の島千鳥 跡も朽ちせぬ 世々のしるしに 》

訳 : 佐渡の流人が 書き遺した これらの謡を
後の世までも 朽ちることのない
形見として 見てくれるであろうか

( 世阿弥 辞世の句といわれています)

 






by nonkei7332 | 2015-05-03 14:39 | | Comments(0)


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世阿弥木造 入江美法作 



観阿弥・世阿弥 親子の出生の地は 伊賀の里です

四方を山で囲まれた 伊賀盆地は 多くの伝承に彩られています

伊賀といえば 忍者 服部一族の里です 〈伊賀衆〉とよばれた 一族です

観阿弥も 服部一族 だったといわれています

観阿弥 の 母 は 〈大楠公〉と言われた 〈楠木正成) の 姉でした

南朝を支えた 正成の血を引く 観世親子にとって 生涯 ついてまわる

出自の謎がここにもあります

もう一人 伊賀の人といえば あの 〈松尾芭蕉〉 です

全国を行脚した 芭蕉の生涯も 謎に包まれた 伊賀衆の一人だったのです

伊賀を出た 観阿弥は 大和の結崎に移り 猿楽衆 結崎座を立ち上げます

そして 正平18年(1363年) 世阿弥が生まれます 観阿弥 この時 30歳。

やがて この地にある 糸井神社の楽頭職となり その後 この地が

観世家の本拠地となります

この 糸井神社 は 社名の如く

綾羽 〉〈 呉羽 〉の 祭神 があることから 機織(ハタオリ)の神とされ

秦氏 の流れを 色濃く遺す神社 です



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糸井神社



「風姿花伝」には 申楽の 起源の中で こう書いてます


『 聖徳太子は 神代・仏在所 の吉例にならい 六十六番の物真似を

〈秦河勝〉に命じてつくらせた 』


観世親子にとって は 秦氏 天日矛命(糸井造の遠祖)に繋がる

渡来の民としての 筑紫の血脈が その後の 作品に見え隠れするのが

頷ける 逸話です

やがて 観阿弥は 奈良の春日大社に 進出し その技量が認められ

興福寺や 醍醐寺にも招聘され 大和猿楽 の座の中でも

結崎座(観世座)は トップの地位を築いていくのでした

応安7年 (1374年) 大和から 京都へ 活躍の場を移した 観阿弥 は

今熊野神社 に於いて 時の将軍 足利義満 を迎えて 能 を演じます

この晴れ舞台に 観阿弥は 長男 鬼夜叉 ( 後の世阿弥 ) を若い男役で

つとめさせたのでした 世阿弥 この時 12歳。

神業と呼ばれた 観阿弥の芸 そして 美しく輝く 鬼夜叉 の姿に

将軍義満は その衝撃に すっかり 魂を奪われてしまうのでした


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足利義満


世阿弥は 「風姿花伝」の中で

十二・三歳の頃の 稽古に在り方をこう 述べています


『 おおよそ 子供の申楽では 大人がするような 手の込んだ物真似を

させるべきではない。見た目もそぐわず 能も上達しない。ただし

上達の著しい子であれば 何をさせても問題はない。稚児姿、声の良さ

その上 演技も上手となれば 何故いけないといえるだろうか しかし

この花は 〈まことの花〉ではない。 ただ 〈時分の花〉というべきだ。 』


この頃になると 神事としての 申楽 は

人間に対しての 娯楽へと 変わっていきます

社寺 から 将軍家 や 武家に その 主催者の座が 変わっていきます

足利義満 は この時 17歳 この若き将軍は 世阿弥 という名を

鬼夜叉 に与え 寵愛の限りをつくします その寵愛ぶりに

ある公家の日記には こう 記されています


「 猿楽といえば 乞食の所業であるのに その稚児を将軍が愛するのは

もっての外のことである 」


世阿弥 の 青春は 父であり 師匠でもある 観阿弥 と

将軍義満 の 寵愛 を 受け

その 天賦の芸の技に ますますの 磨きをかけたのでした

やがて 都でも評判の 若手随一の 演者となっていったのでした

( 続く)








by nonkei7332 | 2015-05-01 20:17 | | Comments(0)


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『 その風 (伝統) を得て 心より 心に伝えていく花 』

世阿弥は『風姿花伝』の 書名の由来 を こう 述べています



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世阿弥は 『風姿花伝』の〈序〉で 申楽 ( 能 ) の起源を語ります

『 申楽と呼ばれる 長寿延命の芸能。

その起源をたずねてみる

仏在所(インド) より起こったという説

あるいは 神代より伝わるという説 などがある

しかし時移り代が隔たってしまったので

願初の姿を学ぶことは もはや 叶わない

近年 万人にもてはやされている この 芸能は

推古天皇の御代

聖徳太子が 秦河勝 に命じて 創作させたものである

ひとつには 天下泰平のため ひとつには 諸人娯楽のため

六十六番の演目を構成し 申楽と名付けたのだった

以来 代々の作者 演者たちが 花鳥風月を取り入れ

この 芸能に 息吹を与えてきたのである 』


神代説 は 世阿弥は 『 細男( せいのう) の散楽 』と言っています

「筑紫の風俗が宮廷に献上されたり雅楽寮で宮廷楽舞として

伝承されるようになった 」

と〈続日本紀〉にありますが

九州王朝舞 「筑紫舞」は こうして 宮廷舞として つくられ

今日まで 宮地嶽神社に 伝承されています

その源流は 安曇磯良が 首に鼓を首にかけ 白覆面をして 舞う

『細男舞』『磯良舞』だったのでしょう



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志式神社 磯良舞





世阿弥は こうも言っています

『 もともと 神楽よりつくられた芸なので

「神」と云う文字の偏をとり

旁だけを残して 暦の申でもあったため

申楽 と 名付けられた

すなわち 楽しみを申すという意味であり

神楽から 別れたという意味でもある』


散楽は宮廷舞として 保護されましたが

桓武天皇の頃 散楽土制度は廃止され

申楽 (猿楽) となって 寺社や街頭にその舞台を移し

やがて 全国にひろがっていきます

一部は 観阿弥世阿弥により 〈能) に昇華され

幕府や武士に保護されます

一部は 〈歌舞伎〉 や 〈狂言〉と形を変えていきます

一方 人形を使う からくり は 傀儡によって 各地に広まり

〈人形浄瑠璃 〉や〈文楽〉と なって伝統芸能に なっていきます

現存する あらゆる 芸能は こうして出来上がってきたのですが

その起源が 《 筑 紫 》にあったことは あまり 知られてないようです



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by nonkei7332 | 2015-04-30 15:05 | | Comments(0)

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謡曲を 読み込んでいくと

あちらこちらに 〈松〉 が出てきます

まるで 〈松物語〉 といってもいいくらいです



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そういえば 〈能舞台〉の正面の羽目板の事を鏡板といいますが

そこには 必ず 大きな 〈老松〉が 描かれてます

演者は 神の依り代とされる 老松の前で 神に見守られて舞をまうのです

それから 舞台をよく見ますと

〈本舞台〉と 奥の〈鏡の間〉との間に 橋のような通路があります

通路といっても ここで演技することもあるのですが

ここの場所を 〈橋掛リ〉(はしがかり) とよびます

ここには 本舞台から 鏡の間に向かって 脇には

大・中・小 の 〈若松〉 が植えてあり 順に 一の松、ニノ松、三の松 と言われています

ここにも〈松〉 です それも 三段重ね です




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三階松紋



三段重ねの松 といえば 《 三階松紋 》

この神紋は 宮地嶽神社や 高良下宮社 や 壱岐神社などの 神紋です

もともと 三つ巴の神紋は

八幡宮とか 住吉宮の神紋で 海人族の紋章だといわれていますが

九州王朝の紋章でもある 《三階松紋》 が

能舞台の中にも こっそり 残されているとすれば

世阿弥の能楽 と 九州王朝 も〈松〉で 繋がっているんですね




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木瓜紋


博多祇園山笠 の期間中には 関係者は 木瓜(きゅうり) を食べません

小学校の給食にも 木瓜 は出さないんです

それは 櫛田神社 の神紋が 木瓜 の切り口に似ているからという 俗説ですが

この 《木瓜紋》 じつは きゅうりの切り口 ではなくて

松笠 (まつぼっくり) の形からきているという説も聞いたことがあります




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松の風は

こんなところにも

吹いていました












by nonkei7332 | 2015-03-20 19:45 | | Comments(0)


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博多湾にうかぶ 能古島(左) と 志賀島(右)




淤能碁呂島(おのごろじま) とは 日本神話 や 記紀 に登場する島です
イザナミ イザナギ による 「国生み神話」として知られ
神々が作り出した最初の島だと書かれています
古来より この島は 架空の島だとされたり
いくつかの島が 候補にあがったりしておりますが
未だ 謎だとされておりました



新庄千恵子さん の著書 『 謡曲のなかの九州王朝 』の中で
新庄さんは 謡曲 『淡路』をひもとかれ
『 能古島説 』を展開されておられます
この本を 最近手に入れましたが
もとより 世阿弥を通して 謡曲の謎に関心を寄せていた
私には とても 貴重な一冊の本になりました


《 序文のなかで 新庄さんはこう書かれています 》

『 筑紫舞も、謡曲も、作者は 同一人物、典拠も一つであり、
くぐつの手により 二つに分けたものと知りました。
くぐつ という 特殊な職業人の手に在ったればこそ、
室町の時代まで 官憲の手を逃れて生き延びた歌曲であり、
もし これが権門に在れば、
とうの昔に消されていた運命ではなかったでしょうか。
謡曲は 今では 単なる猿楽、遊芸物として
軽く見られがちの古典ではありますが、
官制の国書や司直の手を経た現存の書物以外、
古代を知る手立てを持たぬ私達には、
謡曲は数少ない文献として価値あるものと私は思うのです。
いっこうに物言わぬ考古学的出土品を待つよりも、
文字あるということは 遥かに納得のゆくものではないでしょうか。』



1919年 お生まれの 新庄智恵子さん
高齢にもかかわらず 84歳の時にこの本を出版され
今年 95歳になられ お元気だと知りました
謡曲(能) を通して 古代史の謎を追いかける者の一人として
頭の下がる思いです



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《 謡曲 『淡路』の中で 老人は イザナミとイザナギの国生みの物語を語ります 》

国土治まり万物出生する所をいざなみと申す。
即ち此の淡路の国を初めとせり。
さればにや二柱の御神の。
おのごろ島と申すも、この一島の事かとよ。
およそ此の島初めて。大八島の国を作り。
紀の国 伊勢志摩、日向並びに。四つの海岸を作り出し。
日神月神蛭子そさのをと申すは。
地神五代の始めにて、皆この島に御出現。
中にも皇孫は。日向の国に。天降り給ひて。
地神第四のほをでみの御子を御出生、げに有難き代々とかや。


【 解 説 】
イザナミとイザナギは まず 淤能碁呂島(おのごろじま)つくります
それを ①淡路島(能古島)といいそれを含めて②紀の国(佐賀県)
③伊勢・志摩(筑紫の糸島のこと : 伊都国と志摩国)
④日向(筑紫の日向(ひなた) 天孫降臨の地) の
四つの国と これに付随する四つの海をつくります
四つの国と四つの海で (大八島 : 大八洲) といっています
それから 日神(アマテラス) 月神(ツクヨミ) 蛭子(事代主命) 素戔嗚(スサノオ) の神々が
地神五代 ( 神武天皇以前にこの国を治めた五注の神の時代 ) の始めに 出現されます
とくに 皇神である アマテラスは 筑紫の日向 に降臨され
彦火火出見尊 【 ニニギとコノハナサクヤヒメの子供 《山幸彦》(豊玉姫の夫)】
もここに生まれ
なんと ありがたき 時代であったのだろう と謡います


《 謡曲の最後に イザナギが登場して こう語ります 》

わたづみのかざしにさせる白玉の。波もてゆへる淡路島。
月春の夜も長閑なる。緑の空も澄み渡る。
天の浮橋の上にして。八島の国を求め得し。
いざなぎの神とは我が事なり。
治まるや。国常たちの始めより。

【 解 説 】
古今和歌集にある 詠み人知らずの歌 を引用します
《 わたつみ の かざしにさせる 白妙の 浪もてゆへる 淡路島山 》
海神(志賀島) の頭にかざる 白い波のように揺れるのは 能古島だといいます
春の月はのどかで 青い空がすみわたっています
天の浮橋 ( 海の中道 )を上にして 八つの国を作った イザナギとは私の事です
国常立尊 (くにのとこたちのかみ) の始めより 平和な国だった

【 海の中道とは】
《 志賀島と九州本土を繋ぐ 全長8kmの巨大砂州 》
【国常立尊 (くにのとこたちのかみ) とは】
《 日本神話の中で あらゆる神に先立って現れた神 ( 国土生成の神 )》



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海の中道から見た 能古島(左) 志賀島(右)



淤能碁呂島(おのごろじま)と呼ばれる 淡路島は

瀬戸内海 に浮かぶ 兵庫県の 淡路島ではなく

礒良の海 ( 博多湾 ) の浮かぶ 能古島 だったと

謡曲 『淡路』は 教えてくれました。








by nonkei7332 | 2015-03-04 18:02 | | Comments(0)



 

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〈 藤原俊成 に自作の和歌集を差し出す 平忠度 〉



この 謡曲 は 平安時代の 二人の 歌人の物語です


一人は 『 藤 原 俊 成 』(ふじはらのとしなり)


若い時から 和歌一筋にして 名を馳せ 『 千 載 和 歌 集 』を編纂するなど

息子 「藤原定家」とともに 平安末期の和歌文化を確立した 歌人です


もう一人が 『 平 忠 度 』(たいらのただのり)


忠度 は 平家の武将 平忠盛の六男。平清盛の異母弟になります。

歌人としても 優れた才能を持ち 俊成 に 師事しました

41歳の時 源平の 一の谷の戦い にて 源氏方の 岡部忠澄 と戦い 討死 をします




****************************




【 謡 曲 の あ ら す じ 】

都の 俊成 の邸宅に 岡部忠澄 が訪ねてきます

じつは 岡部忠澄 は 源平の合戦で 平 忠度 を討ちとり

その亡骸から 和歌を 記した 短冊 を見つけ

忠度 の 師である 俊成 のもとに 届けてきたのでした

辞世と言われた句には 『 旅宿の花 』という題がついていました


《 行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花や今宵の 主ならまし 》


俊成が忠度の 辞世の句を詠むと

忠度の亡霊が現れます。

忠度 は 俊成 に『千載和歌集』におさめられた 自分の歌が

「詠み人知らず」になっていることを ただします

その歌は 『故郷の花』という題でした


《 さざ波や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな 》


俊成は 平氏として朝廷の敵となってしまった 忠度の名前を

表に 出すのは難しいと答えます

しかし この歌がある以上 いつかは 忠度 の名も

世間に知られることになると 慰めるのでした

忠度 は 俊成 に向かい 自分の和歌についての考えを語ります

和歌のはじめは スサノウ が出雲を 詠んだ 歌だったこと


《 八雲立つ 出雲八重垣 妻こめに、八重垣つくるその八重垣を 》


柿本人麻呂 の詠んだ 歌については


《 ほのぼのと あかしの浦の 朝ぎりに 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ 》


この 情景の本当の場所について 思い至りましたと話すのでした

夜の間 ずっと二人は 時間をわすれ 語り合っていました

やがて 急に 忠度 が立ち上がり 興奮した 錯乱状態になってしまいます

忠度の中で 〈 修羅王 〉が暴れだしたのでした

すると 忠度の「さざ波や」の歌に心を寄せた 〈 梵天帝釈天 〉が 現われ

修羅の苦しみを 鎮めてくれたのです

忠度 の姿は 山の木陰に隠れるように 消えて行きました





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八重桜 (牡丹桜)







歌人である 師弟の 別れ

弟子であった 忠度 は 武人として 戦いに敗れた 無念を晴らすために

師である 俊成の前に 亡霊と成って 現れたのではありませんでした

自分の歌を 「詠み人知らず」と 残してくれた 師 への 感謝 と

歌人として 万葉の歌の真実を 最期に

師匠に聞いて欲しかったのでしょう

この物語には「旅宿の花」「故郷の花」という 忠度の歌

スサノオの 「出雲の歌」 柿本人麻呂の 「あかしの浦」の歌 がでてきます

四編の 歌の奥に 隠された 真実を 語ることで

忠度 は 修羅の世界を抜け出すことができたのでした


忠度の 二つの歌を繋ぐものは 山桜 という 花 です

シテとツレの掛合いの中で エッと思う 台詞が登場します


《 情の末も・深見草 》


花の名を 『 深見草 ( 牡丹 ) 』といっているのです

万葉の頃に 《牡丹の花》はあったのですね

そういえば 山桜は 八重桜 とも 牡丹桜 とも呼ばれています

一夜の宿を 一世の宿と 忠度は詠みます

山桜が咲き誇っていた いにしえの都 こそが

私の 眠る所と言っているのです

そして その都こそ 今は 荒れ果てた 志賀の都 だともいっています

さて『志賀の都』とは いったい どこでしょうか

多くの人が 滋賀の 近江の都 だと 思っています

昔 栄華を誇り 今は荒れ果てた都といえば

筑紫王朝 しかありません

志賀 とは 博多湾に浮かぶ 志賀島のことです

掛合いの最後に シテは この言葉で 終わります


《 謡へや舞へや・の・国の。なにはの事も忠度なり 》

謡曲『蘆刈』の中で 〈世阿弥〉は
〈 津の国 難波(なには)の都は 仁徳天皇が 創られた 筑紫(博多)の都 〉
だと 明かしますが
ここでも 津の国 とは 那の津(博多) のことであり
なには の事 も 忠度のいう 故郷の都 だといっているのです

《 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花 》

この歌は 仁徳天皇の都の繁栄を歌った歌 です これも 筑紫の都でしょう

それともうひとつ 「詠み人知らず」にした 理由です
「詠み人知らず」 とは 歌の選集で 作者が 不明か またはそれを
明らかに示しにくい事情あるときに記載する とあります
その歌の 作者の名前だけでなく 歌の内容も
朝廷にとって 不利益になるのなら
内容を 変えたり 場所を消すことも あるのだと 示唆しているのです

忠度 は 名前を消された 敗者でした
筑紫王朝 も 名前を 消された 敗者でした
忠度は 夜を賭して 俊成に語ります
スサノオの 和歌の起源は 〈倭国〉だということを
歌仙 と呼ばれた 柿本人麻呂 の 詠んだ歌の海こそ
博多の海 ( 磯良の海 )であることを




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志賀島の海



この 謡曲 は ほんとうの 和歌 とは何かを
ふたりの 歌人を通して 伝えようとしています

その 真実とは

『 〈 和 歌 〉は 〈 倭 歌 〉だった 』

『 万葉の 風景 は 全てが 筑紫 にあった 』

驚き の 発見です。





 


by nonkei7332 | 2015-02-11 01:13 | | Comments(2)

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白川付近



宝満の山にまします 玉依姫は 水分の神(みくまりのかみ)

この神体山を源とする 清き水は川となり 遠の朝廷 を潤しながら

やがては 磯良の海へと流れていく 御笠川

わが魂の流るる川なのです

古来 地元では この川は 七つの名前で呼ばれていました

山裾の北谷では 『北谷川』

太宰府の三条あたりで 『岩淵川』

連歌屋まで下ると『岩踏川(いわふみがわ)』

そして 五条付近では 『白川』と呼ばれ

藍染川 と 合流して観世音寺あたりで『思川(おもいがわ)』

水城大野城では『御笠川』

博多の町に入ってからは『石堂川』 と。

様々な名前と想いを乗せて 流れてきた この川の畔で

数え切れないほどの 物語が 語られてきたのでしょうね

そんな物語の中から

今日は 『檜垣』と いう 能楽の演目となった お話をします






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能楽 「檜垣」


《 檜 垣 》

平安時代の 承平・天慶(931年〜938年)のころ

太宰府の都に 檜垣 という 白拍子 が 「白川」のほとりに 住んでいました

歌舞にたけ 女流歌人として 広く知られた人でありました

〈檜垣〉というのは

《 檜(ひのき)の薄板を網代(あじろ)に編んで作った垣根 》という意味で

裕福な生活をいとなんでいたのでしょうか

様々な伝説に包まれ、その正体は詳らかでないのですが

〈世阿弥〉は こんな物語にしました


【 あらすじ 】

肥後の国 岩戸と云う山で 霊験あらたな観世音を信仰し

又 この地の美しい景色を楽しみながら三年の間山籠りしている僧がいた

この僧のもとに 何処からともなく 閼伽の水(仏前に供える水)を

両手に手繰る 百歳に近い老婆(前シテ) があらわれ

僧は常々不審に思っていたので、老婆に向かって名を尋ねると

あの 後撰集の歌 に

《 年ふれば我が黒髪の白川のみつわくむまで老いにけるかな》

と詠んでいるのは 自分の歌であると答えた

さてはその昔 筑前の大宰府に庵を結び 桧垣をしつらえて

「あの白川」の畔に住んでいた白拍子、後には衰えて

「この白川」の辺りで果てたと聞いている

その女の霊なのかと 僧はまことに奇異の思いをしたのである

老婆は在りし日 藤原興範(おきのり)に水を乞われた時のことを語り

そのしるしを見たければ

「あの白川」の辺りで わが跡を弔って賜れと 言い置いて姿を消した

僧はすぐに白川のほとりに赴き ねんごろに読教していると

先の 老婆(後シテ)が 再び現れて 弔いを喜ぶように 昔水を汲み

舞を舞った時の あり様を見せ

なおも弔って わが罪を償ってくれと頼み

姿微かに帰り去るのであった


【 あとがき 】

二つの白川が 書かれています

「あの白川」は 太宰府の白川

「この白川」は 熊本の白川でしょう

世阿弥は 「檜垣」を「関寺小町」「姨捨」とともに〈三老女〉と 呼び

能の世界では 最も位の高い 奥義中の奥義 と言っています

単に 老醜をはかなむのではなく

美しかった白拍子のいたましい末路を描き男どもを惹きつけた

その美しさゆえに

死後は 業火の焔に燃え立つ釣瓶(つるべ)を 永遠に手繰り続け

因果の水を汲まねばならなかったという 哀しき物語でした

中に出てくる後撰集の歌ですが


《 年ふれば 我が黒髪の白川の みづはくむまで 老いにけるかな》


訳 : 年が経って私の黒かった髪は白くなり

白川の水を汲むまでに老いて落ちぶれてしまいました


・「みづはくむ」とは水を汲むということだけでなく

腰が屈み老いた姿を「みつわぐむ」といいます。

この二つのことを掛け言葉として使っています


詠みかけた相手は 〈太宰大弐 藤原興範〉ですが

歌集では 〈肥後守 清原元輔〉になっていて

「大和物語」では 〈曲水の宴を始めた 太宰大弐 小野好古〉 となっています

いずれの男も 大物ばかりです

また 鎌倉時代に書かれた『無名草子』には 元輔の娘・清少納言を

檜垣 との間に生まれた子であるかのように記述しています

謎めいた人でもあったのですね



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思川付近


先日 太宰府の姉から 三笠川で「かわせみ」を見たよという

うれしい メールがありました

私が住んでいた 場所は ちょうど 「藍染川」が 合流する

『 思 川 』のすぐ そばでした

そんなに 綺麗とはいえない川でしたが

それでも 息子達と 魚釣りをしたり

次男坊の 〈 K E I 〉が 土手から 河原に落ちて 大騒動になったり

長男の 〈 N O N 〉 は 毎日 土手を通って 小学校に通っていましたし

春には 河原一面に菜の花が咲いていましたね

思い出ふかき 想いも深き「思川」です



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左上に 藍染川の合流している 場所が見えます

藍染川 の 物語については 「太宰府の夏」を
http://hisamitsu.exblog.jp/23039753/

白拍子 については 「旅人の恋」を






by nonkei7332 | 2014-12-27 13:11 | | Comments(0)

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謡曲高砂



クリスマスです
街には クリスマスソング が流れています
イエスキリストの降誕を祝う お祭り(ハレ)の日
古い 謂れによると 冬至を祝った 祭りが イエスの降誕とかさなって
クリスマスになったという話もあるみたいです
ちなみに 日本で 一番最初にクリスマスを祝ったのは フランシスコザビエルで
場所は あの 大内義隆 の 山口 だと言われています
〈古今東西〉祭り(ハレ)に 歌 と 舞 は 欠かせないもので
日本では 正月や婚礼には 晴れ着(ハレギ)をきて 謡曲を歌いました
歌う謡曲も その月や祭事に合わせて 決まっているようで 元旦は 『鶴亀』
婚礼は 『 高 砂 』が 定番だったようです
今日は クリスマス ですから 祝意を表す意味で『高砂』の話をします
そうです 結婚式の時に どこかの 親戚のおじさんが唸っていた あの
《 高砂や ~ この浦舟に帆を上げて~ 》です

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祝言ソング「謡曲高砂」の 作詞作曲は あの 〈 世阿弥 〉です

この 物語 こんな〈あらすじ〉です

平安時代前期の延喜の頃。
九州阿蘇神社の神主友成(ともなり)は、
都見物の途中、従者を連れて播磨国(兵庫県)の名所高砂の浦に立ち寄ります。
そこで 松の落葉を掃く老夫婦に出会います
友成は、高砂の松について問いかけます
二人は 友成に、この松こそ高砂の松であり、遠い住吉の地にある住の江の松と合わせて
「相生(あいおい)の松」と呼ばれている謂われを教えます。
そして『万葉集』の昔のように今の延喜帝の治世に和歌の道が栄えていることを、
それぞれ高砂、住の江の松にたとえて、賞賛しました。
老翁はさらに、和歌が栄えるのは、草木をはじめ万物に歌心がこもるからだと説き、
樹齢千年を保つ常緑の松は特にめでたいものであるとして、松の由緒を語ります。
やがて老夫婦は、友成に、自分たちは高砂と住吉の「相生の松」の化身であると告げると、
住吉での再会を約して夕波に寄せる岸辺で小船に乗り、
そのまま風にまかせて、沖へと姿を消して行きました。
残された友成の一行は、老夫婦の後を追って、
月の出とともに小舟を出し、高砂の浦から一路、住吉へ向かいます。
住吉の岸に着くと、男体の住吉明神が姿を現しました。
月下の住吉明神は、神々しく颯爽と舞い、悪魔を払いのけ、
君民の長寿を寿ぎ、平安な世を祝福するのでした。


松は、古来、神が宿る木とされ、常緑なところから 長寿のめでたさを表しています
また、雌雄の別があり、夫婦を連想させています
世阿弥は この能を、
「播州高砂、摂津の国住吉と、国を隔てて住みながらも、夫婦として暮らす老人老女」
という人物設定で、長寿や老夫婦の睦まじさを称えるとともに、
松の長寿のめでたさを和歌の道の久しい繁栄になぞらえ、美しい詞章と舞いとで、表現しました


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さてさて 話は ここからです 世阿弥 は この話の中に
日本の 古代史を覆すような 謎 を隠しています
その 謎とは ‥‥‥ ( CMの後で ) ‥‥‥


この シナリオ の目的は 神戸の高砂の松 と 難波の住吉の松 が夫婦である事をいっていて
それを 阿蘇宮司が承認するというものとなっているわけです
とすると 高砂神社と住吉大社に祀られる神が いったい 誰なのか


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高砂神社


〈高砂神社〉
社伝によれば 神功皇后の命により大己貴命が当地に祀られたことにより創建されたとつたえられています
とすれば この神社の神とは 《 神 功 皇 后 》 ということです


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住吉大社


〈住吉大社〉
第一本宮:底筒男命 (そこつつのをのみこと)
第二本宮:中筒男命 (なかつつのをのみこと)
第三本宮:表筒男命 (うはつつのをのみこと)
第四本宮: 神功皇后 (じんぐうこうごう)

実は 大阪の住吉大社・福岡の住吉神社・下関の住吉神社 の三社が
日本三大住吉といわれていますが
割と しられていないのが この三社に元宮があって
その元宮とは 福岡 那珂川町にある 「現人神社」だということです


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現人神社



〈現人神社〉
その由来をみてみると

【 〈御祭神〉 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
〈御由緒 並びに御神徳〉
伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて禊祓い給いし時に生れまし
住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社にして、神功皇后(1780年前)三韓遠征の際、
軍船の舳先に御形を現し、玉体を護り進路を導き、無事凱旋せしめた御神として、
皇后いたく畏(かしこ)み奉りて、この住吉の神の鎮まり座す現人宮を訪れ、
神田に水を引かむと山田の一の井堰を築き、裂田の溝を通水して、
五穀豊穣の誠を捧げられ、現人大明神の尊号を授けられ、
供奉の藤原朝臣佐伯宿禰をして祀官せしめられてより、現人大明神と称す。
摂津の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀り、
福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらる。】

誰がどうみても 現人大明神 とは 《 武内宿禰 》ではないでしょうか
とすると 住吉大社 の 深の神とは 《 武 内 宿 禰 》ということです


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世阿弥は 何をいいたかったのか

《 歴史から 抹殺された 武内宿禰 と 神功皇后 は 夫婦であった 》

それじゃ 応神天皇 は 誰の子❓ 仲哀天皇 は❓
謎解きは また 多くの 謎をつくります

そこのところを ゆっくりと クリスマスケーキ を食べながら
〈世阿弥〉さんに 聞くことにしましょう。












by nonkei7332 | 2014-12-25 11:19 | | Comments(0)


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齢 を また ひとつ 重ねました

初心 に返ってといいます
二月から はじめた このブログも はや 10ヶ月
記事を重ねるたびに どうなることやらと心配しておりますが
何と無く 様になりつつようでもあり 今だに 稚拙でもあり
こればかりは 見者に 委ねることしか ないようです

相変わらず タグ に多い 「花」
そして 最近 登場した 「能」
今の私の 《 マイブーム 》が 『 世阿弥 』ですから 当然なんですけど

今年は 世阿弥 生誕 650年の節目の年だそうです
世阿弥が残した『 風 姿 花 伝 』 別名 「花伝書」という本の中に
あの 有名な一説があります


しかれば 当流に 万能一徳の一句あり。
初心わするべからず
この句 三か条の口伝あり。
是非の初心を忘るべからず。
時々の初心を忘れべからず。
老後の初心を忘れべからず。
この三つ よくよく口伝すべし。


《 万能一徳 》とは
あらゆる芸(能)がそこを 根源とする 一つの徳目であるということです
それは

《 初心わするべからず 》

初めて何かを始めた時の 純粋な気持ちに戻りなさい
というのが 一般に言われているところの解釈なんでしょうが
世阿弥 のいう 初心とは ちょっと違うみたいです
初心には (是非) (時々) (老後) の三つの初心があって
世阿弥は 初心とは 〈 未熟さの自覚 〉だと言っています
だから それは 若い時だけではなく 年をとっても あるもので
未熟さを自覚しなければ 失敗するぞと 戒めています
老後には老後の初心を忘れるなということですね


初心 の 反対語は 慢心 だと心得て
老後の初心を忘れない為にと
先週から ボランティア を ひとつ させて 頂いています
楽しい 時間です











by nonkei7332 | 2014-12-10 14:31 | | Comments(0)