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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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とても 87歳とは思えぬ 凛とした 声は いまでも 私の脳裏に残っています
それは 去年の 3月2日 アクロス福岡 で行われた イベント
《 筑紫舞 再興三十周年記念 国宝大神社展 「宮地嶽 黄金伝説」》に
特別ゲスト として参加された 歴史学者 《 古 田 武 彦 》さん


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おおよそ 歴史・古代史 などとは 全く縁の無かった 私でしたが
縁あって ご講演を聞くことができました
古田さんが 提唱された 『九州王朝説』とは 次のようなものです

****************************

《 九州王朝説 》

我国には近畿天皇家に先行する王朝が存在した。

この王朝は、一貫して九州を本拠とし
「天孫降臨」とされる海人族の博多湾岸への進出に始まり、
701年に近畿天皇家に取って代わられるまで存続した。

海外史書に見える 3世紀 邪馬壹国の卑弥呼・壹予、
5世紀の倭の五王、7世紀の 阿毎多利思北孤 はこの王朝の天子であった。

漢・魏・隋・唐 など歴代中国、朝鮮半島の高句麗や新羅・百済との
交流・戦闘はこの王朝の事績だ。

また、517年の「継体」に始まる32の「九州年号」をたて、
磐井の律令や冠位12階などを制定し、全国に評制を敷き、国宰・評督等を任命し、
難波に副都を建設するなど全盛期には九州にとどまらず、全国を支配領域としていた。

白村江の敗戦もこの王朝の出来事であり、
これ以降勢力は急速に衰え、8世紀初頭、
則天武后の承認を得た近畿天皇家に名実ともにとってかわられた。

近畿天皇家は九州王朝の存在を消し、自らの正統性を主張するため、
その史書を盗用・改変し『古事記』『日本書紀』を編纂し、
我が国の初元から近畿天皇家が統治していたという歴史を作り上げた。


****************************



定説の 歴史観を くつがえす 新史観であるために 多くの批判を受けながらも
私も含め 徐々に その理解の裾野が 拡がっているようです

「 人が人の為に作った 国や宗教が 自己正統化するために
歴史を改ざんし その為に戦争を起こし 多くの人が 犠牲となった
歴史が 今なお 続いています
もう こんな 歴史は繰り返してはいけない その為にも
いまこそ この国の 本当の歴史を見つめ直すことが 大事だ 」と

古田さんは いわれます

そして 講演の最後は こんな 印象的なお話で締めくくられました。


『 私も もう87歳 間違いなく もうすぐ 死ぬでしょう 。
死んだら どこに行きたいかといえば
私は 地獄 に行きたいと 今 思っています。
そこには 生きているうちに いろんな不幸を抱えて
いまだ 地獄の思い をしている人が たくさんおられるからです
その地獄に行って 一人でも多くの人から
悔しかったこと 辛かったことを 聞いてあげたいからです
私の人生をふりかえってみたら こんな 欠陥だらけの 私のことを
多くの人が 理解をし 支援をして頂きました
ほんとうに 恵まれた 人生 でした
その お返しの為に 私は まっしぐらに 地獄に行きたい
それが 今の 望みなんです 』
(内容要略)


古田さんの 人となりを 深さを 感じさせて頂いた 温かいお話でした。
いつまでも お元気で いて欲しいです。



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博多湾から見た 鉾立山・砥石山・宝満山 に 昇る 朝日







by nonkei7332 | 2015-02-22 22:38 | 日記 | Comments(0)


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先週 〈綾杉るな さんの お話会〉に参加しました
会場が北九州市の 八 幡 でした
仕事でよく 訪れた街で 仕事を離れてからですから 3年ぶりの 北九州 です
なぜか 懐かしく いつものように 折尾駅で降りて
東筑軒の「かしわそば」を 実食


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早めに着いて 会場のそばの 小高い丘の上にある
『 豊山八幡神社 』を訪ねました
木々に囲まれた 趣きのある神社です



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《 御祭神は 親子三世代 》

帶仲津日子命 たらしなかつひこのみこと (仲哀天皇)
譽田和気命 ほんだわけのみこと (応神天皇)
息長帶比賣命 おきながたらしひめのみこと (神功皇后)
宇遲和紀郎子命 うじわきいらつこのみこと (応神天皇の皇子)


《 御由緒には 》

神功皇后、筑前宇美町に於いて応神天皇を御出産され、
穂波郡大分村より小倉村に行幸されこの地を治めていた
岡県主熊鰐より応神天皇に御衣を献上されました
神功皇后いたくお喜びになられ、三韓を従え給いし御弓矢を
山中に納め天下が豊かになる事をお祈りされ
この山を豊山(ゆたかやま)と名付けられました
明治二十二年、市町村制実施により尾倉、大蔵、枝光、三村合併の折、
三村の氏神様が『八幡神社』の為、八幡村と称しましたが、
当社が『やはた』地名の発祥の地と言われる所以であります



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全国にある 八幡宮 八幡神社 は 44000 社 もあるといわれています
稲荷神社につぐ 多さで 日本人には なじみある 何処にでもある 神社です
《宇佐神宮》が総本社ですが
元宮は 飯塚市の 《大分八幡宮》だといわれています
祭神は 応神天皇 神功皇后 仲哀天皇 や
宗像三女神 武内宿禰 など 多彩ですね
八幡(はちまん) と呼ばれるようになったのは
8世紀のはじめ 神仏習合されてからで
それまでは 八幡(やはた)の神と 訓読みされていたようです
神功皇后が 三韓征伐の時に 対馬で 八本の旗を祭壇に祀ったとか
応神天皇が生まれた時に 屋根に 八本の旗が立っていたとか
いろんな 謂れがあるみたいですが
いずれにしても 応神天皇は あとずけみたいな気がします
大元は《幡=旗》に 関わる 神様が絡んでるみたいですね
《幡=旗》にかかわる 神様といえば

織幡神社の 『武内宿禰』か

櫛田神社の 『大幡主命』か

謎が 謎を呼ぶ

八幡(やはた)の神



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by nonkei7332 | 2015-02-20 17:51 | 古代史 | Comments(2)


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昨日 は 旧暦の 正月
暦では 二十四節句 の 『雨水』です
雪が雨にかわり 春一番 も もうすぐでしょう
ところで 今年( 西暦2015年 ) は 皇紀2675年 です
皇紀 とは 神武天皇 が即位された年を 元年とする日本の 紀年法ですが
西暦に慣れた 今の 私たちには 馴染みのない ものです
西暦になおすと 神武元年は 紀元前660年になるそうです

初代の天皇といわれた 神武天皇 とは いったい 何処の人で
何処で 育ち 何処で死んでいったのでしょうか

古事記には
『畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)にましまして』とあり
辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた 神武天皇は
橿原宮で即位したとあります
その 宮殿は「畝火の白檮原宮」
奈良の橿原市にある 橿原神宮 付近だと 言われていますが
宮跡が残っているわけではなく 橿原神宮も
明治23年 明治天皇によって造られたのものです




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香椎宮



『 香 椎 宮 』
古事記では 「詞志比宮(かしひのみや)」
日本書紀では 「橿日宮(かしひのみや)」と書かれています
このばあいの 「宮」は 神社の「宮」ではなく
天皇の御所 であり 宮殿であったとされています
「白檮原宮」=「橿日宮」=「詞志比宮」
こうしてみると
「香椎宮」こそ 神武天皇が即位した場所であり
宮殿であったと思うのは 私だけでしょうか
陵墓については 古事記には
「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」
畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり とあって
若杉山にある 太祖宮 が 神武陵だという説もあります
若杉の名前の謂れも 香椎宮の神木である
綾杉を 分けたので (わけすぎ) なまって
(わかすぎ)だといわれています


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香椎かもめ大橋 から見える 志賀島(右)



神武天皇の母である 玉依姫 は 安曇族の姫です

香椎宮の 目の前の海には 母の生まれし 志賀島 がみえます

母の海に抱かれるように

神武天皇 は そこに 宮殿を建てたのでしょう


筑紫に産まれ 筑紫に育ち 筑紫に死んでいった

神武天皇 だったのでしょう








by nonkei7332 | 2015-02-20 00:49 | 古代史 | Comments(0)


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『筑紫舞』を伝承する 宮地巌神社の 浄見譲宮司




豊臣秀吉

文禄2年(1592年) 名護屋城内に入ってからの 五年間
〈 能 〉を自ら稽古し始め 憑かれたように その世界に没頭します

その場所こそ 遠く 〈 魏 〉の使者が 最初に上陸した 〈 末盧国 〉でした
その 〈 倭人伝 〉には

《 海を渡ること千余里 末盧國に至る 》 とあります

そして 秀吉の舞う 能舞 こそが
かつて 呉の民 が 荒波を乗り越え いのしえの 九州王朝をつくり
宮廷舞 『 筑 紫 舞 』として 1000年もの間
傀儡子達によって 隠し伝えられた 《祖神の舞》 だったことを
秀吉は 知っていたはずです

享楽ではなく 今 滅亡の淵に立つ 尊き 山河 と 民 を護る為に
猿楽師 秀吉は 祈るように 舞い続けたのでした

秀吉は 死の間際 東山の麓に立てた 方広寺の大仏の鎮守として
自らを 《 八 幡 》として祀るよう遺言します

そして 辞世の句を遺します


《 露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢 》


『 難波のこと 』とは 決して 摂津の国 (大阪) のことではありません

秀吉は 謡曲 『 蘆 刈 』の 笠の段
《 津の国の 難波の春は夢なれや 名に負う梅の花笠 》
この 一節の奥に 世阿弥 が 隠そうとした
九州王朝の 博多の海の物語 だということを 知っていたのでしょう

九州王朝の復興を 『 夢のまた夢 』と 偲びつつ

息を引き取る 最期まで

《 猿楽師のせがれ 》

秀吉は 猿 だった のでした



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那の津(難波の津) 博多湾 磯良の海 の夕暮れ


by nonkei7332 | 2015-01-26 13:38 | ルーツ | Comments(0)


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フェリペ2世 (スペイン最強王)



『 秀吉の 朝鮮出兵の 本当の動機は

《 スペインのアジア侵略の対抗手段》

だったって 知ってる?』


この質問に 友人の答えは こうでした


『 そんなの 初めて聞いたけど

秀吉の天下統一 によって 恩賞をめぐり

家臣の中には 不満が高まっていて

狭い国土には 与えるべく領地も乏しいために

家臣達の不満のはけ口として

朝鮮出兵を行ったんじゃ ないの 』


確かに 私も 学校では そう 習ったような気もします



『太陽の沈まない帝国』と称された スペイン は

最盛期(16~17世紀前半)には 世界中の 8割 の国を 植民地にしていました

アジアにおいても フィリピンを侵略して

残るのは 明 (朝鮮半島を含む) と 日本 だけでした

スペイン の 軍事侵略 は

中南米の インカ帝国 や マヤ文明が滅ぼされたように

カトリックの布教活動と植民地獲得の軍事侵略が

一体化した形で遂行されてきたようです

日本にも イエズス会の フランシスコザビエルに はじまり

多くの 宣教師が 布教活動をやっていましたし

その中で 改宗した キリシタン大名も数多くいました


《 キリシタン大名 》


有馬義貞(肥前領主)

大村純忠(日本で最初のキリシタン大名)

大友宗麟(豊後領主)

織田有楽斎(織田信長の弟)

織田秀信(信長の孫)

蒲生氏郷(会津領主)

黒田如水

小西行長

高山右近



秀吉が 九州平定を終え

博多湾岸の 箱崎 にいる時に 事件は起こります

当時 イエズス会初代準管区長 の 〈 ガスパール・コエリョ 〉が

秀吉に謁見し大砲を装備したスペイン船 を 秀吉 に見せたのですが

その船の動力源である 船漕ぎが 全て日本人であったのを

コエリョに聞くと『 皆犯罪者だと 』と平気で言ったことや

スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく 誇示したことに対して

秀吉は 激怒します

そして 1587年7月24日《 バテレン追放令 》 を出したのです


秀吉は こんなふうに 考えたのでは ないでしょうか


『 もし 〈スペイン〉 と 〈キリシタン大名〉 が

手を組んで 反旗を掲げれば

神国 日本 は たちまち 異教徒に侵略されてしまうだろう

よしんば 〈明〉が先に 征服されたとしても

明の軍兵を使って いずれは

〈スペイン〉は 我が国を襲い

あの 元寇の役 のようになるかもしれない

とすれば 方法はひとつ

〈スペイン〉より先に 〈明〉を奪うしかない 』



文禄元年(1592年〉4月12日

秀吉は (小西行長) 率いる一万八千 の 一番隊 を 釜山浦に上陸させます

これが 〈 文禄の役 〉です

当初 快進撃をした 日本軍でしたが

縦に伸びた戦線の食糧補給路を

朝鮮水軍に絶たれ 苦戦し やむ無く撤退することになります

その後 明との講話交渉も決裂した為 に

慶長2年(1597年) 再度の出兵を決意します

これが 〈 慶長の役 〉です

総力戦 で臨んだ 秀吉軍でしたが

1958年 8月 秀吉の 突然の病死により

退却を決め 7年に及んだ 戦いは幕をとじます


秀吉の 朝鮮出兵とは いったい なんだったのか 評価は二分します


多くの 負の遺産 は残した戦いでしたが

歴史を 一元的に見るのではなく

結果として スペイン植民地政策 という 脅威から 国を護り抜いた 評価も

私は 忘れてはならないと 思っています




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NHK「軍師官兵衛」 秀吉の最期






by nonkei7332 | 2015-01-26 10:12 | ルーツ | Comments(0)


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NHK『軍師官兵衛』豊臣秀吉 役 竹中直人さん



《 豊臣秀吉 》(とよとみのひでよし)

尾張の国 中村 (名古屋市 中村区) の 生まれです

織田信長に仕え 《 木下藤吉郎 》と名乗りました

その後 織田家の有力武将だった 丹羽長秀 と

柴田勝家 から一字ずつをもらい受け

《 羽柴秀吉 》 改名します

信長は 秀吉に「筑前守」(ちくぜんのかみ) という 官職を与えますので

『 羽柴 筑前守 秀吉 』と呼ばれていたようです

信長は通常は 秀吉のことを 「筑前」とよんでいたみたいですね

ちなみに 明智光秀は 「日向守」でした

それにしても 二人の側近に 九州を護らせた

信長の意図は なんだったんでしょうか

やがて 本能寺の変で

信長から 秀吉の時代に変わります

天下統一を目指した 秀吉は 信長に習って 《 平氏 》を名乗ります


姓 には 必ず 最後に 「の」がつきます

平氏(たいらの) 源氏(みなもとの) 藤原氏(ふじわらの) 菅原氏(すがわらの)


貴族にとって 特に 『 源 平 藤(藤原) 橘 』の 四姓 を名乗ることは

血筋や家系を明らかにする 権威ずけの 常套手段 だったようです

賎民あがりの 秀吉にとっては 見え見えの 詐称 になりますが

しかし 信長の 織田氏は 〈平氏〉

島津氏は 〈源氏〉と自称していましたが

実際のところは 織田氏は 〈忌部氏〉

島津氏は 〈惟宗氏〉だったみたいですので

まあ そんなもんだったんでしょう

ただ 秀吉が 関白 になる時は 簡単には いかなかったみたいです

あれこれ 考えた挙句 前関白の 近衛前久 の 猶子(ゆうし)になります

(猶子 とは 養子ではなく 後見人 みたいなものです)

この時 に 平氏 の姓から 近衛家の《 藤原氏 》に変わることになるわけです

藤原氏というと 中臣鎌足が天智天皇から藤原の氏姓を賜ったのが始まりで

鎌足の次男 〈 藤原不比等 〉は 朝廷に大きな勢力を築き

代々皇室の強固な外戚となります

聖武天皇から今上天皇まで85人の天皇の母方の中で 実に 78.8% が

藤原氏の出自なのですから まるで 藤原王朝 と言ってもいいでしょう


さてさて この事は 秀吉にとって 大きな 決断を迫られることになります

藤原を名乗る訳にはいかない 理由が 秀吉には あったからです


それは 秀吉を 影で支える 『同朋衆』の先祖達が ことごとく

〈不比等〉を始めとする 藤原朝廷に


消された過去の事実を 知っていたからです

「古事記」や「日本書紀」を編纂することで

九州にあった 古の王朝の姿を

史実から消しました そして 「神」さえも 変えてしまったのでした

菅原道真公も 藤原時平の讒言により 祟り神にされました

『同朋衆』達 は 鬼と呼ばれ ある時は 漂泊の民 といわれ

長い年月を ひたすら耐えてきたのでした

その無念の魂を いにしえの 祖神の姿を 神社の伝承の中に 封じ込め

猿楽を始め 多くの芸能のなかに 隠してきたのでした


秀吉は 幼い頃から その事を 知っていたのではないでしょうか


やがて 秀吉は 朝廷に対し 『 豊 臣 』の 姓を 上申します


『関白任官記』では 秀吉の言葉が残っています


「 古姓 を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし 」


「 われ天下を保ち末代に名あり ただ新たに別姓を定め 濫觴 たるべし 」

( 濫觴とは : 今一度起源にもどるという意味 )


天正14年(1586年)


12月19日の太政大臣任官を契機に 豊臣家が誕生します

豊臣の語源については 諸説ありますが

臣(おみ)とは 古代の姓 (かばね) の一つで 地名を名としたので

豊臣を名乗るということは

《 豊の国を先祖とする氏族である 》

との 意味ではなかったのかと 思います

豊国とは 福岡の豊前から 大分にかけての 地域をさしていますが

(ここでは 総称して 北九州にあった 倭国を中心にした 九州王朝と呼ぶことにします)

結論から言えば 秀吉は 8世紀前半から 途絶えた


《 九州王朝 の 復活 を 宣言した 》


というのが 私の推論です


やがて 秀吉は 1587年に 島津攻めで 九州を 平定し

1590年には 小田原城を落とし 全国を統一を果たします


落ち着く暇もなく 1592年 文禄の役 (朝鮮出兵) を おこします

秀吉は 肥前に名護屋城を築きますが

明の征服 と 朝鮮の服属を 目論んだ 最後の戦でした

そこには 領土の拡大だけとは言えない

世界の列強国 スペイン の影 が見え隠れしています

隠された 謎は まだまだ 続きます。





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名護屋城 の模型








by nonkei7332 | 2015-01-23 21:45 | ルーツ | Comments(0)


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『 豊 臣 秀 吉 』ほど

波乱の人生を送った 戦国武将はいません

草履取りから 太閤 まで上り詰め 立身出世の旗頭として

多くの日本人から 愛されてきた人でもあります

ただ その 人 たる 全容はまだ

明らかには されていないような気がします

秀吉は どこで産まれ どのように育ち 何をしようとしてきたのか

私には ただ 目先の欲望に駆られ 人たらし と言われ

人身術に長けた 能力があったから だけとは到底思えないのです


そこには 誰も知らない 何かが 隠されていたように 思えます


秀吉の出自には 諸説ありますが 最も まともといわれている

土屋知貞という武士が書き残した


『太閤素性記』という書物があります

そこには


秀吉 は 其母 野合の子なり、

その いとけなかりしとき、つれ子にして

木下彌右衞門に嫁したるに、

彌右衞門早く世を去りければ、

其の頃 織田家の茶坊主にて 筑阿彌 といひしもの、

浪人して近村にあるをもつて、すなはち之を入夫したり、

此の故に彌右衞門は秀吉の繼父にして、

筑阿彌は假父なり、

秀吉も亦此を悟りて、吾には父なしと云はれしなり、

若し彌右衞門にもせよ、筑阿彌にもあれ、生の父ならんには、

はや世を去りて年を經るとも、

秀吉武運比類なく富四海をたもつに至りて、

父の廟を建立し贈官の追福あるべし、

然るに其事なかりしは、

野合の子なりしなれば也



「野合の子」とは 父が誰だかわからないということです

木下彌右衞門にしても 筑阿弥 にしても

自分のほんとうの父ではないと秀吉は知っていました


その 証拠に もし 父だとすれば


あれだけ 上り詰めた秀吉ならば


陵墓 を建て 後世まで祀ったであろうし


そういった記録も 説話さえも残っていないから と


ここには書いてあります



彌右衞門は 秀吉 八歳の時に死んでいます

おそらく 少年時代の 秀吉に 最も影響を与えたのは

二人目の義父 阿 弥 〉であったであろうと 私は 思っています

「織田家の茶坊主 筑阿弥」とは 一体 どんな人物だったんでしょう

茶坊主(ちゃぼうず)とは

大名家の城中のあらゆる雑用に従事し

刀を帯びず 剃髪していたため「坊主」と呼ばれていますが

僧ではなく また 『同胞衆』


とも いわれていたといいます


その中でも 芸能に優れた 同朋衆 を 阿弥衆と言って

阿弥号 を用いたといわれていますから

筑阿弥 は 織田家 専属の 「猿楽師」だったのではないでしょうか

〈 猿楽(能)の歴史については http://hisamitsu.exblog.jp/23738288/

織田信長が 桶狭間の戦い出陣前に舞ったといわれる


みやま市(瀬高町)〈大江天満神社〉に伝わる


「幸若舞」の 『敦盛』(あつもり)

『 人間五十年 下天の内を 比ぶれば 夢幻の如く也 』

の一説で有名ですが

〈筑阿弥〉と 〈大江天満神社〉 何か 繋がりそうですね


話をもどします

秀吉は いろんな 経緯があって 信長に仕えるのですが おそらく

信長は『猿楽師のせがれ』として 秀吉を知り

『猿』『猿』と言って

秀吉を呼んでいたのではないでしょうか

もうひとつ 推論を重ねると


その当時『同朋衆』のネットワークは

影の組織のようにして 神社を中心に全国に拡っていたようです


( 歴史から消されていった 秦氏 安曇氏 の渡来系ネットワーク )


( 神社で言えば 八幡系 稲荷系 天神系 )


信長は その事を知っていて 情報網のパイプとして

秀吉の存在価値を高めるために

他の武将よりも 重用していったのではないか

また 秀吉も そのネットワークを巧みに使って


力を蓄えていったのではないかと思っています




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大阪城



信長のあと 天下統一を果たした 秀吉は

五十歳の時 太政大臣となり 朝廷から豊臣姓を 授かります


何故 『 豊 臣 』だったのか


『 豊 臣 』とは 何なのか


何故 朝鮮出兵にこだわったのか


辞世の句に残る 謎 は


隠れた謎は まだまだ 続きます。






by nonkei7332 | 2015-01-22 18:29 | ルーツ | Comments(0)


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鏡山山頂 の佐用姫像




松浦佐用姫(まつらさよひめ)は、
現在の 唐津市厳木町 にいたとされる 豪族の娘で単に
佐用姫(さよひめ)と呼ばれていました
『竹取物語』『羽衣物語』と並んで 日本の三大悲恋 と呼ばれる
『佐用姫伝説』の話があります

《 佐用姫 伝説 》

宣化天皇二年(537年)朝廷の命を受け、
隣国の新羅に侵略されていた 朝鮮半島 の任那、百済を救援するために
兵を率いて唐津へとやってきた
大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は、
出陣のための軍船の建造や 準備の為にしばらくここ 唐津に留まり、
その際、篠原長者の館に滞在することにしました。
篠原長者には、佐用姫というとて も美しい娘がおり、
佐用姫が挟手彦の身の回りの世話をするうち、
二人はお互い惹か れ合って恋仲となり
やがては夫婦の契りを結びました。
やがて軍船は出来上がり、いよいよ船出の日となりました。
別れのとき、挟手彦は 佐用姫に
「これを私と思って待っていて欲しい」と言って、
銅の鏡を手渡しました。
そして、狭手彦の乗った船は松浦の港を出港。
佐用姫は玄界灘を見渡す山に登り
遠ざかり行く狭手彦の船に領巾(ひれ)を振りつづけました。
船が遠ざかるにつれ、狭手彦を慕うあまり 船を追って
山を駆け下りた 佐用姫は、栗川 を一気に飛び渡り、
川岸の岩に飛び移りました。
しかしその時、狭手彦からもらった大事な銅の鏡の緒が切 れ、
鏡は川に落ち川底深く沈んでしまいました。
しかし佐用姫は、遠ざかる船をさらに追い、
途中、川で濡れた衣を乾かし、呼子の浦まで追いかけ、
最後に加部島の天童山に登って船の影を探 します。
しかし海原にはすでにその姿は見えず、
佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣き明かし、
とうとう石になってしまいました。
〈 肥前風土記 〉より


〈世阿弥〉も 『松浦佐用姫』という 演目で物語を残しています
史実にもとずいた話なので 「羽衣」「竹取」のような 隠された話は見えません
だから 今日は 能の話はしません

大伴旅人 と 山上憶良 が 万葉集の中で 歌を残しています

《 海原の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用姫 》
(大伴旅人 万葉集 5-874)  
  
《 遠つびと 松浦佐用姫 夫恋に 領巾振りしより 負へる山の名 》
(山上憶良 万葉集 5-871) 

旅人が この地を訪ねた訳は 祖先の 大伴狭手彦を 追想することによって
大伴氏に流れる DNA を確認するためだったような 気がします



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大伴旅人(菊池容斎・画)






大伴氏 の祖は
高皇産霊神 の子 天忍日命(あめのおしひのみこと)だといわれています
〈記紀〉では 天忍日命 は
天孫降臨の場面に登場し 瓊瓊杵尊(ニニギ)の先導をしたとあり
また 神武東征では 天忍日命(アメノオシヒ)の曾孫 大道臣命(ミチノオミ)が 随伴したとあります
雄略天皇の頃には 大伴室屋が大連を賜わり、
その孫 「大伴 金村 」の頃 自ら武烈天皇の後継に 継体天皇を擁立するなど 絶頂期を迎えます
田川郡糸田町に 「金村神社」があって 『豊前史』には
「 仁賢天皇の御世より 欽明天皇の 御代まで 六御代に仕奉り 」
とあることから 代々 天皇のそばで 権勢をふるっていたのでしょう
おそらく 大伴氏の根拠地は 一般に言われている 摂津 ではなく
豊前(京都郡・田川郡あたり) だったのだろうと思っています
継体21年(527年)に あの 「 磐井の乱 」が起こります
継体天皇 大伴金村は 物部麁鹿火 と共に 磐井を破ります
その後 〈紀〉には 宣化天皇が
「筑紫の那津口に宮家を脩造させよ 筑紫 肥国 豊国 の屯倉もまた 那津口に運ばせよ」
という内容の 詔勅を出したとあります
〈紀〉には 欽明元年(540年) 金村は 「住吉の宅」に疾(やまい)と称して引きこもる ともあります
このことから 大伴の根拠地が 豊前から 那の津(博多) に移っているのがわかります
摂津の住吉ではなく 博多の住吉だったのですね
大伴金村には ふたりの子がいました
兄の「大伴 磐」(いわい) と 弟の「大伴 狭手彦 」です
「狭手彦」は 佐用姫と別れて 任那復興のために 海を渡ります
兄の「磐」は 筑紫 岩屋城にて国政をとったと 紀に書かれています
岩屋城とは あの太宰府政庁の裏手にある 高橋紹運(たかはしじょううん)
が 島津軍 と戦った あの山城です
「岩屋城」の名前は 「磐の城」が訛ったようです


これからは 妄想です
大伴氏 の歴史 は筑紫の歴史だったんですね
旅人の DNA は この 筑紫の地には あちこちに 転がっていることが解りました
朝廷から 外され 同志であった 長屋王も大和で殺され
すでに 大和に戻しても 影響が無いと 判断した朝廷は
再び 旅人を 都に呼び戻します
旅人は 果たして 戻りたかったのでしょうか !?
遠い祖先の地の 筑紫で 妻はなくしましたが ここには 友もできたし
想ってくれる人もいたし 出来れば このままここに住みたかったという
旅人のため息が聞こえてくるようです
私と ほぼ同じ年齢ですから 解るんです
できるなら 旅人の旅は 筑紫で 終らしてあげたかった
それでも 都に戻ったのは
家持の将来のことだったのかもしれませんね

もうひとり 都に 戻らなかったひとがいます
菅原道真公 です じつは 菅公の母は 大伴氏(伴氏)だったのですね
菅公には 輝かしい 筑紫 の 真実の歴史も
大伴氏の歴史も わかっていたのでしょう
だからこそ 筑紫の里に眠ることに決めたのでしょう



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今夜は 天満宮の 『鬼すべ』 です
その年の災難消除や開運招福を願い、
境内東神苑にある鬼すべ堂で行われる勇壮な火祭りです。
寛和2年(986)
道真公の曾孫にあたる 菅原輔正(すがわら すけまさ)
によって始められたと伝えられています
『鷽替え神事』も今日です
「かえましょ かえましょ」の 巫女さんの掛け声が聞こえると
近くにいる人と 持っていた「木うそ」を交換します

巫女さんの声が 菅公の声のように聞こえてきます

どなたか 私の持っている 「木うそ」を変えてくれませんか

『 真実の 筑紫の里 の歴史に 』


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木うそ



   


by nonkei7332 | 2015-01-07 12:27 | 古代史 | Comments(0)

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謡曲高砂



クリスマスです


街には クリスマスソング が流れています


イエスキリストの降誕を祝う お祭り(ハレ)の日


古い 謂れによると 冬至を祝った 祭りが


イエスの降誕とかさなって


クリスマスになったという話もあるみたいです


ちなみに 日本で 一番最初にクリスマスを祝ったのは


フランシスコザビエルで


場所は あの 大内義隆 の 山口 だと言われています


〈古今東西〉祭り(ハレ)に 歌 と 舞 は 欠かせないもので


日本では 正月や婚礼には 晴れ着(ハレギ)をきて 謡曲を歌いました


歌う謡曲も その月や祭事に合わせて 決まっているようで


元旦は 『鶴亀』


婚礼は 『 高 砂 』が 定番だったようです


今日は クリスマス ですから 祝意を表す意味で『高砂』の話をします


そうです 結婚式の時に どこかの 親戚のおじさんが唸っていた あの


《 高砂や ~ この浦舟に帆を上げて~ 》です




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祝言ソング「謡曲高砂」の 作詞作曲は


あの 〈 世阿弥 〉です

この 物語 こんな〈あらすじ〉です


平安時代前期の延喜の頃。


九州阿蘇神社の神主友成(ともなり)は、


都見物の途中、従者を連れて播磨国(兵庫県)の


名所高砂の浦に立ち寄ります。


そこで 松の落葉を掃く老夫婦に出会います


友成は、高砂の松について問いかけます


二人は 友成に、この松こそ高砂の松であり、


遠い住吉の地にある住の江の松と合わせて


「相生(あいおい)の松」と呼ばれている謂われを教えます。


そして『万葉集』の昔のように


今の延喜帝の治世に和歌の道が栄えていることを、


それぞれ高砂、住の江の松にたとえて、賞賛しました。


老翁はさらに、和歌が栄えるのは、


草木をはじめ万物に歌心がこもるからだと説き、


樹齢千年を保つ常緑の松は特にめでたいものであるとして

松の由緒を語ります。


やがて老夫婦は、友成に、


自分たちは高砂と住吉の「相生の松」の化身であると告げると、

住吉での再会を約して夕波に寄せる岸辺で小船に乗り、


そのまま風にまかせて、沖へと姿を消して行きました。


残された友成の一行は、老夫婦の後を追って、


月の出とともに小舟を出し、


高砂の浦から一路、住吉へ向かいます。


住吉の岸に着くと、男体の住吉明神が姿を現しました。


月下の住吉明神は、神々しく颯爽と舞い、悪魔を払いのけ、


君民の長寿を寿ぎ、平安な世を祝福するのでした。



松は、古来、神が宿る木とされ、


常緑なところから 長寿のめでたさを表しています


また、雌雄の別があり、夫婦を連想させています


世阿弥は この能を、


「播州高砂 摂津の国住吉と 国を隔てて住みながらも 夫婦として暮らす老人老女」


という人物設定で、長寿や老夫婦の睦まじさを称えるとともに

松の長寿のめでたさを和歌の道の久しい繁栄になぞらえ


美しい詞章と舞いとで、表現しました



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さてさて 話は ここからです 世阿弥 は この話の中に


日本の 古代史を覆すような 謎 を隠しています



この シナリオ の目的は


神戸の高砂の松 と 難波の住吉の松 が夫婦である事をいっていて


それを 阿蘇宮司が承認するというものとなっているわけです


とすると 高砂神社と住吉大社に祀られる神は


いったい 誰なのか



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高砂神社


〈高砂神社〉


社伝によれば 神功皇后の命により


大己貴命が当地に祀られたことにより創建されたとつたえられています


とすれば この神社の神とは 《 神 功 皇 后 》 ということです





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住吉大社


〈住吉大社〉


第一本宮:底筒男命 (そこつつのをのみこと)


第二本宮:中筒男命 (なかつつのをのみこと)


第三本宮:表筒男命 (うはつつのをのみこと)


第四本宮: 神功皇后 (じんぐうこうごう)



実は 大阪の住吉大社・福岡の住吉神社・下関の住吉神社 の三社が


日本三大住吉といわれていますが


割と しられていないのが この三社に元宮があって


その元宮とは 福岡 那珂川町にある 「現人神社」だということです




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現人神社



〈現人神社〉


その由来をみてみると



〈御祭神〉 


住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)


〈御由緒 並びに御神徳〉


伊邪那岐の大神、


筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて禊祓い給いし時に生れまし


住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社にして、


神功皇后(1780年前)三韓遠征の際、


軍船の舳先に御形を現し、玉体を護り進路を導き、


無事凱旋せしめた御神として、


皇后いたく畏(かしこ)み奉りて、


この住吉の神の鎮まり座す現人宮を訪れ、


神田に水を引かむと山田の一の井堰を築き、裂田の溝を通水して、


五穀豊穣の誠を捧げられ、現人大明神の尊号を授けられ、


供奉の藤原朝臣佐伯宿禰をして祀官せしめられてより、


現人大明神と称す。


摂津の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀り、


福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらる。




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by nonkei7332 | 2014-12-25 11:19 | | Comments(0)

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北斗七星と北極星




周防国(山口)の守護大名 大内氏の先祖は、
百済国 第26代聖明王の第3王子・琳聖太子(りんしょうたいし)と言い伝えられている
15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、
琳聖王子は 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。
聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという
その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は大内介と名乗り、
以降歴代の当主もこれを世襲した
鎌倉 室町にかけて 西国一の戦国大名に駆け上がった 大内家は
31代 大 内 義 隆 の時代に絶頂期を迎え 京都に劣らぬ 絢爛たる大内文化が花開き
山口が「西の京」と呼ばれるまでになった
しかし 琳聖太子という人物名が
当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く
琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した 大内家の自作自演との説もあり
真偽は謎である
ただ 多くの戦国大名が 「源平藤橘」やその他の中央の貴族の嫡流を名乗ったなかで
唯一 百済の末裔を名乗った 大内氏の狙いは なんだったのか 興味深い話でもある

『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には 琳聖王子の 『降星伝説』が残っている



《 降 星 伝 説 》
 
 595年推古天皇3年(17年説もあり)、9月18日、
周防国鷲頭庄青柳浦(わしづのしょう・あおやぎのうら)にある
松の大木に突如星がおり、七日七晩輝きました。
里人は不審に思い、巫女に星の精を呼び出させたところ、
「我は北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)である。
これから3年後、百済の国の琳聖太子が、
聖徳太子に合うために来日されるので、お守りするためにやってきたのだ」
と語ったといいます。
 星の予言通り、推古5年、琳聖太子は来日し、聖徳太子に会われました。
この不思議な星の話を聞いた琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、
北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、
日本で初めての星祭りをおこなったとされています。
そして、星が松に下った霊地として、青柳浦は
下松と呼ばれるようになったと伝えられています。

(下松の地名の起こりについては、百済の国への風待ちの港だったことから、「百済待」あるいは「百済津」と呼ばれていたものが訛ってくだまつとなり、下松の字を充てたという説がある)
「下松市史」より引用


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大内家の氏神 氷上山興隆寺・北辰妙見社



古代中国で起こった 北辰妙見信仰が伝わったのが 推古天皇の頃といわれているが
この伝説との関係については わからない
ただ 明日香の高松塚古墳 (被葬者は百済王族説もある) の天井と北壁の壁画には
北斗七星と玄武像が描かれていることから
百済を通して 北辰妙見信仰が伝わったという説はあながち 嘘でもないようである
日本の三代妙見のひとつである 熊本八代の 妙見宮 では 社記などによると
中国渡来説の他に 妙見神は 百済国聖明王の第三皇子 琳聖太子 であるとの
百済渡来説が伝承されているのも興味深い話である


綾杉さんの『ひもろぎ逍遥』によると
百済国のあった 地域は もともと 帯方郡 と呼ばれていて
帯方とは 天の川のことであり 真鍋大覚の記述によれば
【 帯方とは銀河の傾きを見量りて、自らの空間的時間的位置をおさえる
特技ある民族の総称でもありました。】
と述べられています



《 星の国 百済 》《 百済王子の伝説 》
そして それを 出自とした 《 戦国大名 大内家 》
興味は ますます 拡がっていく



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by nonkei7332 | 2014-10-31 08:35 | 古代史 | Comments(0)

by ヒサミツ