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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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北斗七星と北極星




周防国(山口)の守護大名 大内氏の先祖は、
百済国 第26代聖明王の第3王子・琳聖太子(りんしょうたいし)と言い伝えられている
15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、
琳聖王子は 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。
聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという
その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は大内介と名乗り、
以降歴代の当主もこれを世襲した
鎌倉 室町にかけて 西国一の戦国大名に駆け上がった 大内家は
31代 大 内 義 隆 の時代に絶頂期を迎え 京都に劣らぬ 絢爛たる大内文化が花開き
山口が「西の京」と呼ばれるまでになった
しかし 琳聖太子という人物名が
当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く
琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した 大内家の自作自演との説もあり
真偽は謎である
ただ 多くの戦国大名が 「源平藤橘」やその他の中央の貴族の嫡流を名乗ったなかで
唯一 百済の末裔を名乗った 大内氏の狙いは なんだったのか 興味深い話でもある

『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には 琳聖王子の 『降星伝説』が残っている



《 降 星 伝 説 》
 
 595年推古天皇3年(17年説もあり)、9月18日、
周防国鷲頭庄青柳浦(わしづのしょう・あおやぎのうら)にある
松の大木に突如星がおり、七日七晩輝きました。
里人は不審に思い、巫女に星の精を呼び出させたところ、
「我は北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)である。
これから3年後、百済の国の琳聖太子が、
聖徳太子に合うために来日されるので、お守りするためにやってきたのだ」
と語ったといいます。
 星の予言通り、推古5年、琳聖太子は来日し、聖徳太子に会われました。
この不思議な星の話を聞いた琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、
北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、
日本で初めての星祭りをおこなったとされています。
そして、星が松に下った霊地として、青柳浦は
下松と呼ばれるようになったと伝えられています。

(下松の地名の起こりについては、百済の国への風待ちの港だったことから、「百済待」あるいは「百済津」と呼ばれていたものが訛ってくだまつとなり、下松の字を充てたという説がある)
「下松市史」より引用


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大内家の氏神 氷上山興隆寺・北辰妙見社



古代中国で起こった 北辰妙見信仰が伝わったのが 推古天皇の頃といわれているが
この伝説との関係については わからない
ただ 明日香の高松塚古墳 (被葬者は百済王族説もある) の天井と北壁の壁画には
北斗七星と玄武像が描かれていることから
百済を通して 北辰妙見信仰が伝わったという説はあながち 嘘でもないようである
日本の三代妙見のひとつである 熊本八代の 妙見宮 では 社記などによると
中国渡来説の他に 妙見神は 百済国聖明王の第三皇子 琳聖太子 であるとの
百済渡来説が伝承されているのも興味深い話である


綾杉さんの『ひもろぎ逍遥』によると
百済国のあった 地域は もともと 帯方郡 と呼ばれていて
帯方とは 天の川のことであり 真鍋大覚の記述によれば
【 帯方とは銀河の傾きを見量りて、自らの空間的時間的位置をおさえる
特技ある民族の総称でもありました。】
と述べられています



《 星の国 百済 》《 百済王子の伝説 》
そして それを 出自とした 《 戦国大名 大内家 》
興味は ますます 拡がっていく



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by nonkei7332 | 2014-10-31 08:35 | 古代史 | Comments(0)

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時は平安末期

容姿端麗で 将来を大いに嘱望された 若武者がいた

本名 「佐 藤 義 清 (よしきよ)」

藤原氏の家系を継いだのが17歳でした
兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となり
御所の北側を警護する 精鋭部隊「北面の武士」に選ばれ、
同い年の 平清盛 は 友人でもあります
北面生活では歌会が頻繁に催され そこで 義清の歌は高く評価されます
武士としても実力は一流で 疾走する馬上から的を射る
「流鏑馬(やぶさめ)」の達人でもありました
しかし 義清 22歳の若さで出家し 周囲を驚かせてしまいます
死が日常の戦国の世の中で 阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから
「 西 行 」と名乗り 現世の執着を捨てるべく「西方への道 」「死への道」を選んだのでした

【 近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」には 御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして 苦悩から死にそうになり 女院が情けをかけて一度だけ逢ったが「あこぎ」と言われて出家したとある この女院とは 白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった 待賢門院璋子です】


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NHK大河ドラマ「平清盛」で 藤木直人 扮する 佐藤義清(西行) と
檀れい 扮する 鳥羽天皇の中宮で崇徳天皇の母 待賢門院(たいけんもんいん)



私が 西行 に惹かれるのは
執着を すべて捨てたようで しかし どこか悶々としながらも
桜を詠み 月を詠みながら 徐々に 人生の極みに近づいていく姿
列についていけない者の悲哀を 決して周りには見せず かと言って
漂泊の人にもならず 生臭い世俗にも満ちた ふてぶてさも
兼ね備えた人でもあったことです
そして 生涯の 憶い女(ひと)を 死ぬまで 恋した人でもありました



《 好きな歌を四首 》


《 世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいふ 》


(訳) : 出家した人は悟りや救いを求めており 本当に世を捨てたとは言えない
出家しない人こそ自分を捨てているのだ



《 弓はりの 月にはづれて 見しかげの やさしかりしは いつか忘れむ 》


(訳) : 三日月の光をうけずに見た
恋しい人(待賢門院)の姿を生涯忘れることはありません


《 何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 》


(訳) : 伊勢神宮で詠んだ歌だとある

(註釈) : とうてい 超えることができない 絶対的な何かが そこにあって
ただ 「かたじけない」という 神に対して
最も人間らしい言葉で 首を垂れる その姿に
感動さえおぼえるのは 私だけでしょうか



《 願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月の頃 》


(訳) : 願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい

(註釈) : 西行が来世へ旅立ったのは 73歳の 2月16日
如月の望月とは 2月15日の釈迦の命日 であったので
釈迦の後ろを一日遅れてついて行ったと言われている


自分の 最後の 死の姿までも 演出しぬいてみせた 悟りの人でもありました


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by nonkei7332 | 2014-10-08 11:58 | 古代史 | Comments(0)


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博多の祝い唄 《祝い目出度》は 祝いの席で唄われます。

一、 祝いめでたの 若松さまよ 
若松さまよ
    枝も栄ゆりゃ 葉も繁る

  【エーイーショウエー エーイーショウエー
   ショーエ ショーエ ションガネ
   アレワイサソ エーサーソー エー ションガネ】

一、 こちの座敷は 祝いの座敷 
祝いの座敷
    鶴と亀とが 舞い遊ぶ
  
一、 こちのお庭に お井戸を掘れば 
お井戸を掘れば
    水は若水 金が湧く
   
一、 さても見事な 櫛田の銀杏(ぎなん) 
櫛田の銀杏
    枝も栄ゆりゃ 葉も繁る
    
一、 旦那大黒 ごりょさんな恵比寿
    ごりょさんな恵比寿
      でけた子供は 福の神
    
一、 あんた 百まで わしゃ九十九まで
    わしゃ九十九まで
      ともに白髪の生えるまで
    

さてさて この祝い唄 いったい 誰の事を唄ったものなのかを
私なりに 考えてみました
謎解き キーワードが 五つ

〈若松様って誰?〉
昔 仲哀天皇 と 神功皇后 が熊襲征伐に筑紫国においでになった時
洞の海に差し掛かったころに岡県主熊鰐の奏上によって天皇は外海を、
皇后は内海を進まれることになりました。ところが 洞海湾へ向かう皇后の御船が進まず、 武内宿禰 が漁夫に海中を調べさせたところ「海底に光る石」が見つかって、天皇に献上しました。
ご覧になった天皇は「これは海童(えびす)神の心なり」と仰せになられて、
この霊石をお祀りしたのがこの恵比須神社の始まりなんだそうです。
その後 武内宿禰 はここを訪れて 歌をうたいます
「 海原の 溟たる松の青々たる わが心も若し 」
広く青々とした海を背景に青々と繁った松の木を見ると、私の心も若々しくなりますという意味です、そこから若松という地名が興りました
北九州の 若松恵比須神社の由来と若松の地名の由来から

若松様といえば えびす様のことであり

武内宿禰 のことでもあります


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若松恵比須神社




〈こちの座敷 こちのお庭ってどこ?〉
この二番と三番の歌詞から わかるのが
こちの座敷とこちのお庭が同じ場所にあるということです
その場所で鶴と亀が舞い 井戸から 若水が湧き 金が湧く というわけです
この場所とは 香椎宮 のことです
香椎宮は 仲哀天皇が祀ってありますが
神功皇后と武内宿禰がお側でずっと仕えられておら れました
境内側の 武内宿禰の屋敷の庭には 不老水 と呼ばれる 井戸があり
宿禰は 毎日 この水を汲んでは 天皇と皇后のお世話をしたといいます
天皇に仕える水を 若水 といいます
鶴と亀とが舞い遊ぶとは
天下泰平、国家の長久を祈念して舞う『鶴亀』(つるかめ)という
能の演目 のことで 香椎宮で舞われたのでしょう

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香椎宮



〈櫛田の銀杏〉
恵比須神社 や 武内宿禰 に関係する神社には ほとんどの神社の境内には
銀杏(いちょう)の木が植わっています 何故かは わかりませんが


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櫛田の銀杏


〈旦那大黒 ごりょさん恵比寿〉
東公園の中に 十日恵比須神社があります
祭神は 事代主命(えびす様)・大国主命(大黒様)
大黒様とえびす様は夫婦ともいわれています

さて ここの 十日恵比須神社の由来については
天正19年 (1592年) の話 武内五右衛門という 御老人
神功皇后の三韓征伐の 武内宿禰の末裔で 香椎から博多にでて魚類を扱っていた
それがために 漁の神様である 恵比須様を信仰すること すこぶる篤い老人であった
ある日 朝早く 博多の海岸にでて恵比須様を拝していると 潮先に漂う木片があり
古下駄でも浮いているのかと思って拾い上げてみると 豈図らんや
それは 高さ六、七寸の男女二体の、彩色の施してある恵比須の神像であった
これは 本家出雲の国 三保の関の恵比須堂が 高潮か何かで打ち壊され
その御神体が 遥々漂流して来たものに違いない と深く信じて自宅に持ち帰へり
石の祠を造って祀ったという
その後 崇福寺の北側に 松原恵比須という 小社を建てたが
明治になって 東公園に社殿を移し 十日恵比須神社と合祀して 今日に至るという

武内宿禰 ここにも 現れました


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十日恵比須神社


〈白髪〉
白髪は 白髭ともいえます
白髭といえば 神話の中では 300歳も生きた 武内宿禰 が頭に浮かびますね
明治時代には 日本銀行券の紙幣肖像にもなりました
真っ白なお髭でした

ここでも 武内宿禰 ですね


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小島与一作 武内宿禰




櫛田神社 の 祭神の真ん中におられるのは 「 大幡主大神 」です
謎の神様でした
(詳しくは 当ブログ 「おくしださんの謎」
先日 武内宿禰を祀る 宗像市の 「 織幡神社 」に行って来ましたが
「幡」が重なって 妄想が繋がりそうでした


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織幡宮


「大幡主大神」って 「武内宿禰」?

それとも 織姫で 繋がって …… 瀬織 … ?

謎が 謎を呼ぶ 若松様よ !




by nonkei7332 | 2014-09-27 15:10 | 博多ルーツ | Comments(2)


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織幡宮 より 鐘崎港を望む



私の大好きな
心 和ぎる(なぎる) 海沿いの神社に
連れて来ていただいた



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《 織 幡 神 社 》



そこは ちはやぶる 鐘の岬





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この海を そして この国を護る
海神達が 武内宿禰の周りに 勢ぞろいされていた
この宮には それ以上の解釈も注釈もいらない
〈祭神〉
竹内大臣 (武内宿禰)
志賀大神(底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神)
住吉大神 (表筒男、中筒男、底筒男の三柱)
天照大神 (宗像三女神の母神)
宗像大神 (宗像三女神)
香椎大神 (神功皇后)
八幡大神 (応神天皇)
壱岐真根子臣
(武内宿禰の身代わりとなって 自害した壱岐の豪族 娘の豊子はその後 武内宿禰の妻となる)



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楯崎神社



そして
津屋崎 の 《 楯 崎 神 社 》
出雲の神様と
神功皇后の物語が
今も 伝承されていた


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〈祭神〉
大己貴命
少彦名命
飛龍権現(神功皇后)



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〈宗像〉 〈津屋崎〉 〈志賀島〉
この国の神話はこの海岸線から はじまっているみたいだ
ここが 入り口なのだろう
何も知らなかった 古代の神のことを
私は 月の名前(LUNA)を持つ 不思議な一人の女性に出会い
多くを 教えていただいた
そして そこには 私一人ではなく
おなじように 繋がっていた 志賀の男達や早乙女達の笑い声があった
ようやく わたしも ここまで 辿り着いたみたいだ

隠された真実を この海は知っているのなら
わたしも この海に寄り添って 小さく 声を挙げよう
安曇の海人達の 生命の支えであった
優しく 揺り籠をゆらしてくれた
あの 《 月読の女神 》のことを





by nonkei7332 | 2014-09-26 13:08 | 古代史 | Comments(0)


大国主命と少彦名命については 前回触れてみましたが
もう一人 どうしても 触れなくてはならない 神様がいました

事代主命 (ことしろぬしのみこと)
別名 恵比寿様

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大国主命の子供であって 少彦名命が 常世の国に帰った後を託され
少彦名命の意志を継いだ「託宣の神」といわれた為に
少彦名命=事代主神 のイメージが強い神様です

後世 〈七福神信仰〉の中で「 エビス様 」といわれ 大国主命の「 ダイコク様 」と一緒に 多くの神社の祭神となっている

さて この エビス様 いろんな話があるが
えびす宮総本社の西宮神社で「十日えびす」を前にした正月五日
人形遣い達の祖神、百太夫神を祭る境内末社・
百太夫神社(ひゃくだゆう じんじゃ)で、百太夫神社祭という祭りがおこなわれる という

その由来については 西宮市の産所町に 史跡がありました

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〈 傀儡師故跡 〉 
                          
この附近は昔産所といわれた所で
1690年頃には40軒程の傀儡師(人形操を業とする者)が住んでいた。      

傀儡師は遠く平安末期に現れ 傀儡師、木偶まわし、人形まわしなどと呼ばれ
諸地方を巡廻興業していたが 室町時代にはいるとその一部がこの産所の地に住みつき西宮神社の雑役奉仕のかたわら 神社のお札を持って諸国を巡り、お得意の人形を踊らせながらご神徳をひろめた。        
1590年頃にはその人形芸が「えびすかき」又は「えびすまわし」といわれて全国的に知られるようになりたびたび京都の宮廷で天覧を受けるまでになった。
さらにその後発展して淡路の人形屋や文楽人形浄瑠璃芝居へと成長していった。  
しかし1850年頃から彼らはおいおいこの地からなぜか姿を消してしまった
おそらくは世相の変遷や好みの変化によるものと思われる。      
傀儡師らは永らくこの産所の地に住み祖神を信ずる百大夫を崇拝して神社にまつり
守護神としたがその社は産所の地が1840年頃に衰微するに至った時すぐ近くの
西宮神社の境内に移されて現存している。        

                       昭和63年3月31日

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傀儡子(人形遣い達)の祖神 百太夫については
平安時代の文人 大江匡房の『 傀儡子記 』には

《 男は馬に乗り弓を持ち、狩猟で生計を立てる。長剣を持って跳躍し、短剣をもてあそぶ類の者たちである・・・石を魔術で金銭に変じ、草木を鳥獣に変え、よく人目を惑わす》

面白いのは 〈石を魔術で金銭に変える〉ということだが これは 鉄の鋳造技術を持った 鉄の民 であったということであり そして 〈草木を鳥獣に変えよく人目を惑わす〉とは からくり人形 を使って 人びとを驚かせたということだろう
また

《 夜は百神を祀りて 鼓を打ち、舞い、喧嘩し、もって福助を祈る》

百神とは 百太夫のことであり その舞は 傀儡子舞( 細男舞)と呼ばれていることから
傀儡子が祀った神こそ 阿曇磯良 (あづみいそら) にまちがいないようです
傀儡子の魂の在処は、志賀島のようです

少彦名命(海神)の託宣した 事代主命(エビス)を 全国に拡めた 傀儡子(クグツ)
その 傀儡子 が祀る 守護神(祖神)は 安曇磯良(海神) だった
いにしえの魂が繋がったみたいですね (^_^)

次回は からくり人形 について





by nonkei7332 | 2014-09-11 18:55 | 古代史 | Comments(0)

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今日(8日)は 中秋の名月 である
名月だから まんまるお月さん と 思いきや
実は 今日の月は まんまるではない
何故かというと
旧暦の1ヶ月は 月の満ち欠けの周期で 平均すると29.4日となる
しかし、暦は1日単位で数えるから そこに 誤差ができ
満月と暦の上での「中秋の名月」に1〜2日のずれが生じてしまう
まんまるお月さん(満月)は 明日(9日)なのだ

話は変わるが
昔から お月さんで 『ウサギが餅をついている』と聞かされてきた
ほかにも 世界中には いくつかの 月影の伝承 があるが

宮古列島の 多良間島 には 月には
『天秤棒をかついだ 男がいる』
という話がある



太古の昔 月と太陽は夫婦だった
妻である 月の光は 夫の 太陽の光よりはるかに強く明るいものであった。
夫は羨望のあまり 夜歩む人間には目をくらますような光は不必要だという口実で
少し 光を自分に譲るよう しばしば 月に願ってみたが
しかし 妻は夫の願いを聞き入れなかった
そこで夫は 妻が外出した時に 急に後ろから忍び寄り
月を地上に突き落としてしまったのだ
盛装をしていた月はぬかるみに落ちてしまい全身 汚れてしまった。
この時 一人の農夫が水の入った二つの桶を天秤棒にさげて通りかかった
農夫は泥の中で必死にもがいている月の姿をみて 泥の中から出してやり
桶の水で綺麗に洗ってあげた
それから 月は蒼穹に上って世界を照らそうとしたが
この時以来 明るく輝ける光を失ってしまつた。
月はお礼として 農夫を月に招き この農夫は今もなお 月に留まっていて
満月の夜には 二つの天秤棒をさげて運ぶ姿が はっきりと見えるという



もうひとつ 中国から日本に伝わった 『桂男の話』という古い 伝承がある


西河出身の男は 姓は呉、名は剛といった
呉剛は 月に住む前には 天界を飛翔していたが 仙術を学んだ罪で 月にある
月宮殿という 大宮殿で 500丈(約1500メートル)もの高さの 桂木を
切り続ける 罰を受けていた
(斧をふるって桂に伐りつけると 伐るそばからその伐り口がふさがってしまう)
呉剛 を 桂男 といい 満月の夜には 桂男が斧をふるっている姿がみえるという



中国神話の桂(中国の桂は木犀のこと)は月に生えている木とされ
桂男は月の世界に住んでいる伝説上の男になっていく 日本では 物語や
歌のなかで かつらお と詠まれ やがては 神話の「月読命」と 「桂男」は
同一視 されるようになる

今日は 中秋の名月 だから 月の住人となった
〈天秤棒をかついだ農夫〉と〈桂男〉について 話をしぼってみる

京都祇園祭山鉾のひとつに月鉾 』がある(下の写真)
《 月鉾の由来 = 月鉾は、文献によりますと、応仁の乱以前よりあり、
その昔は「 桂男鉾 」と呼ばれていました、鉾頭に“新月”をいただき、
天王座には“月読尊”を祀っていることから、
その後“月鉾”と呼ばれるようになりました 》


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じつは 京都には残っていなかった 「桂男鉾」が
徳島県の 「 宍喰祇園祭の大山鉾 」
いにしえの面影を残している事を知った(下の写真)


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ちまたで言われる 美男子の桂男というより
色黒の厳めしい 海人の風貌である
天秤棒を前後に担いでいる その姿は
海神 安曇磯良が 潮盈珠・潮乾珠 の二つの珠を担いでいる姿に見えるといえば
私の妄想になるのだろうか

〈桂男〉〈秦氏〉〈月読命〉〈安曇磯良〉
この流れに 〈少彦名命〉が繋がれば かぜん 面白くなるのだが ⁉︎

いい天気です
今夜はいい月が 見れそうですね
お月見のお団子 どうしよう 😦



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by nonkei7332 | 2014-09-08 14:23 | | Comments(0)


神話には たくさんの 神がいて
それにまつわる 多くの話がある
記紀のなかにも 神社の伝承にも…
まだまだ ビギナーの私ですが
神話を追いかける 日々は楽しいものです (^O^)

その中で 最近 私の前に しきりに 行ったり来たりする
神様がいます その方の名前が

少彦名命(すくなひこなのみこと)

なんと あの 『一寸法師』のモデルになった 小さな 神様なんです

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少彦名命 が 活躍する場所は 「出雲」
相方はなんとあの 「大国主命」(おおくにぬしのみこと)

父親は 「 高産巣日神 」(たかみむすびのみこと)
アマテラスとともに 天孫族の長であり
いわば 日本神話のレジェンド
あの 高良大社の主であった 高木神 のことである
その御曹子だから 天孫族のエリートなのである
(古事記では 神産巣日神の子供になっている)

どんな お話かというと
大国主命が出雲の御大(ミホ)の岬にいるとき、
波頭を伝わって天の羅摩船(ガガイモの殻でできた船)に乗り
鵝(ヒムシ=蛾)の皮を着て現れた。
不思議に思った 大国主命 が家来の神に尋ねたが 誰もその正体を知らなかった。
そのときそばにいた蟇蛙(ガマガエル)が
「クエビコ(山田のかかしのこと)なら知っているでしょう」
というのでクエビコに聞くと、
「 高産巣日神 の 御子で 少彦名神 です」と答えた。
そこで大国主命が 高産巣日神 に伝えると、神は
「これは私の掌の股からこぼれた子である。
これからは兄弟の契りを結び、国を造り固めるがよい」 と二神に申し渡した。
こうして少彦名神は、大国主命とコンビを組んで全国を巡り歩き、国造りを行い、
その任務を果たしたのちに再び 常世の国 に帰っていったという話

かんたんにいうと
天孫族の 小さな 少彦名命 が 常世 の国から 出雲にきて
出雲族の 大きな 大国主命 と一緒に 国づくりをする
少彦名 は 農業技術 や 医薬(薬や酒や温泉)を伝えたとあります
異界から訪れ 人々に幸いをもたらして そして 帰っていく 神 といわれる
来訪神 のひとりでした

常世の国って どこなんだという疑問 ?
少彦名命 は 海からやって来た 海神なので
わかりやすく 海の底の 龍宮城 でいいのでしょうか?
海神といえば わたつみの神 志賀島の安曇族ですね
日本書紀では わたつみの神 を 少童命 と書かれています
この 少童命 と書いてわたつみと読ませていますが
この 少童命 と 少彦名命 どう見ても 同じにみえますね
ということは 少彦名命 は 安曇族 だったのでしょうか?
いまひとり 天孫族で 来訪神の先輩といえば
素戔嗚尊(スサノオ)もそうですね 祇園神社の神様です

少彦名命 を 祖神として 祀っている一族といえば 秦氏 です
全国にある 秦氏 に関わる 多くの神社の祭神には
大国主命=大己貴命(おほなむち)と少彦名命 のセットが多いですね
福津市の 楯崎(たてざき)神社 をはじめ 津屋崎 や 遠賀から 飯塚にかけて
まるで ここが 出雲であるかのように 数多く セットで祭祀されています
秦氏発祥のこの地域は「鉄の民」の伝承も多いところですね

話を 少彦名命に戻しますが
少彦名命が 高産巣日神 の手の間から産まれたので 手間天神 といいますが
この 手間天神が 天満天神となり 天満宮と呼ばれるようになったという話があります
天満宮の元祭神は 少彦名命 であったという話なんですが
その後 少彦名命 と 菅公 の すり替えが行われていったという話も面白いですね

まとめると
① 少彦名命は 安曇族だった
② 北九州の 玄界灘沿岸から 遠賀川沿岸にかけてが 出雲だった
③ 天満宮はもとは 少彦名命がまつられていて いつのまにか 菅公にすり替わっていった

今日のところは 妄想は ここまでとします
切りが無いですからね

次回は 「二人の宿禰」( 「武内宿禰」と 「野見宿禰」)が テーマ です

何も知らなかった時から比べると いろんな事が解りました
古代史は 永遠です!







追伸
《 私の古代史のバイブルは 綾杉るな さんの ブログ『ひもろぎ逍遥』と『神功皇后伝承を歩く 上巻』(近日中に下巻も出ます)です 解りやすいです 皆さん 読んで下さい お薦めです 》


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by nonkei7332 | 2014-08-25 13:36 | 古代史 | Comments(0)


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昔から博多の人々に「おくしださん」と呼ばれて親しまれている
「櫛田神社」は 謎多き 神社である

創建は 天平宝字元年だから 奈良時代の757年

祭神は 正殿(中殿)が 『大幡主大神』(おおはたぬしのみこと)
別名『大若子命』
天御中主尊十八世の孫・彦久良伊命の御子であり
倭姫(やまとひめの)命が天照大神を伊勢神宮に鎮座したとき,
南伊勢(三重県)の豪族として協力したため
神国造(かみのくにのみやつこ)と神宮の大神主に任じられた
垂仁天皇から 越の国(北陸)の賊徒阿彦を討伐することを命ぜられ
大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったので大幡主と呼ばれている
『櫛田明神』とよばれることもある

左殿は 『天照皇大神』(アマテラス)
大幡主大神がその側を離れずに奉仕したことから
同じ時期に勧請されたとある

右殿は 『素戔嗚主命』(スサノオ)
藤原純友の乱 平定に際し
京都祇園の八坂神社に祈願したことから その分霊を祀ったのが
天慶四年(941年)だから 創建後 184年後のことである

さて 問題は 左右に 「アマテラス」と「スサノオ」を従えている
「大幡主大神」とは 一体 どんな神様なのかということだ

(アマテラス)( ・・・・) (スサノオ)

まん中の( )の中に神様の 名前を入れなさい との問いに
答えは 果たして ?

(イザナギ)?
〈解説〉アマテラス と スサノオを 作った神様だから

(ツキヨミ)?
〈解説〉 イザナギの作った神様が この三人組だから


話は 変わるが 博多には 社家町という町があった
今の冷泉町の 櫛田表参道の道沿いにあったようだ
社家とは神社に仕える 神職のことで
ここには 代々 櫛田神社に奉仕してきた人々が住んでいた
〈祝部家 〉〈天野家 〉〈八尋家 〉〈梅崎家 〉 この四社家だ
大幡主命に奉仕しているのが 〈祝部家 〉
天照大神に奉仕してきたのが 〈天野家〉
素戔嗚主大神に奉仕してきたのが 〈八尋家〉
巫女で奉仕してきたのが 〈梅崎家〉

この中で 祝部家の祖先は 福津市の『縫殿神社』に祀られている
応神天皇の時代に呉の国から招かれた 四人の織姫と
深い関係があると伝えられている


縫殿神社の説明によれば

応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から
兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)
の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。
この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、
中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。
この神社は日本最初の裁縫の神様であり、
この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます


祝部家は 代々 男性は 櫛田明神の神主として奉仕してきて
女性は 裁縫技術に関する仕事に携わってきたという
祝部家出身の 祝部安子は 明治7年頃より
近くの女性を対象に裁縫塾をひらいていたが
明治42年には私立櫛田女学校が認可を受けこの地に校舎を置いた
その後 櫛田裁縫学校となり 多くの博多の女性達がここで裁縫を学んだ
今は その跡地に 〈博多町家ふるさと館〉ができている

「祝部家」は 秦氏の末裔にちがいないだるう
ちなみに伊勢神宮に代々神官として務めて来た
「度会氏」も秦氏の末裔なようだ

これは あくまでも 妄想だが
櫛田神社の主祭神は 「大幡主命 」
以前があって 秦氏繋がりで
それは 「月読命」であったのではないだろうか
と 私は思いたいが・・・??

「おくしださん」の謎は 深まるばかりだ





by nonkei7332 | 2014-07-02 11:55 | 博多ルーツ | Comments(0)

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花菖蒲(はなしょうぶ)の花




『 いずれ菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)』
菖蒲や 杜若の花がよく似ていて 区別がつかないことから
このようにいわれているが
たしかに 花菖蒲(はなしょうぶ)と菖蒲(あやめ)は違う花だし
杜若(かきつばた)も違う花だし その見分けはとてもつけにくい

今日は 五月五日の端午の節句
今は「こどもの日」になっているが
もともと 端午の節句は 奈良時代に中国から伝わった風習で
季節の変わり目である端午の日に薬草摘みをしたり
蘭を入れた湯を浴びたり 菖蒲を浸した酒を飲んだり
厄よけに菖蒲や蓬で作った人形を軒下に下げたりして
邪気を祓ったりしたという
この時使った菖蒲は
実は 綺麗な花をつける これらの花とはまた違う種類の植物なのだ
一般には菖蒲草(しょうぶぐさ)といわれている
万葉集にでてくる「アヤメグサ」もこれと同じものだ
整理すると 四種類の あやめ になる
・はなしょうぶ(花弁の元が黄色の目型模様)
・かきつばた (花弁の元が白の目型模様)
・あやめ(花弁の元が網目模様)
・しょうぶくさ(節句用、花は黄色で筒状)
かなりややこしい話だ

奈良時代に中国から渡来した女性たちが朝廷に仕えていて
漢女(あやめ)と呼ばれていた
彼女たちが端午の節供に用いた草を
「あやめ」と呼ぶようになったと言う説もある
漢女をあやめと呼んだもうひとつの理由は
花弁の元の濃い黄色の美しい目型模様からきていて
これは 彼女たちの目尻を強調したアイシャドウのような化粧が
「あやめ」の花のように見えたからだという

漢女達は 機織や養蚕 染織などの貴重な技術を
この国にもたらしてくれた恩人達なのだ

遠く故郷を離れて
荒海を越えて来た 漢女(あやめ)達の魂は
今もなお 女神となって 祀られていて
この国の子供達を護ってくれている
菖蒲(あやめ)の花を見る度に
私達は 報恩と感謝の祈りを忘れてはならない。

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菖蒲(あやめ)の花






by nonkei7332 | 2014-05-05 18:48 | | Comments(0)

筑紫舞再興三十周年記念
国宝大神社展
「 宮地嶽 黄金伝説 」

アクロス福岡にて 開催されたイベントに参加させて頂いた。

講演は 九州国立博物館の展示課長の 赤司善彦氏の
『 よみがえった宮地嶽古墳黄金の太刀 』
そして
古代史研究家の 古田武彦氏による
『筑紫舞と九州王朝』
そして 最後に 宮地嶽神社の皆様による
筑紫舞 『笹の露』「神無月の舞』が 披露された


まぼろしの秘舞 『 筑紫舞 』

シルクロードの文化は韓半島を経て北部九州にも伝えられました。
彫刻や工芸、そして音楽も伝えられ、幾多の舞も伝えられたと思われます。
現存する楽器や音調等、韓国にて伝承される音楽と我が国の雅楽等は
非常に 酷似しています
海を渡って伝えられた 楽 や 舞 は、時代と共に日本独自に発展していきます。
海人族、安曇一族の安曇磯良は芸能の名手とされ、細能を舞ったといわれてますが、
細能は田楽舞に変遷、後の猿楽となり、能楽へと発展していきます。
そして 筑紫地方に根ずいた舞、それを 筑紫舞 と申します。
続日本記 巻十(天平三年731年)の冒頭に筑紫舞が出てきますが、
筑紫地方で舞われていたので、九州王朝の宮廷舞とも言われています。
今日では消えかけている幻の筑紫舞、宮地嶽神社で復興、伝承しています。
昭和十一年にこの舞が当社奥の宮巨石古墳で舞われていたとの史実があり
その様な所から昭和五十七年、唯一無二の伝承者 西山村光寿斎が 当時の
宮司、故浄見 学に伝授、西山村光寿(現鵬扇流宗家) 筑紫(現鵬扇流家元代行)
両氏の指導により約三十曲が今日まで伝承されています。
筑紫舞の所作には跳躍や回転等、独自な振りがあり、
ルソン足やナバエ、ナンバと称される舞振り等各所に出てまいります。
王朝に伝わる “秘舞” や神に仕える者が舞う “神舞(かんめえ)”
正に幻の秘と言われる珍しい舞です
当宮地嶽神社では毎年十月二十二日 御遷座記念大祭にて 奉納されますが
舞の復興伝承以来 三十年が経過しました。
この 三十年を記念し 筑紫舞の会を開催させていただくものです。

宮地嶽神社


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荘厳な趣をそなえた 九州王朝に伝わる 秘舞の前で
私は 時間と空間を超えて 安曇磯良の世界を堪能する事ができた
二千年もの間 歴史の裏世界の中を ひたすら伝承されてこられた多くの
伝承者達《筑紫傀儡子(ちくしくぐつし)》の悲壮なまでの想いは一つであった
「おやかたさま の為に」

宮地嶽古墳に 眠っていた 3mにもおよぶ 国宝 「金銅装頭椎大刀」
(こんごうそうかぶつちたち)いったい 誰が こんなにも大きな太刀を
何のために作ったのか そして それが納められた この古墳に眠る
真実の被葬者とは・・・
古代九州王朝の真実が やがて 明かされる日も近いみたいだ。

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by nonkei7332 | 2014-03-05 05:43 | 古代史 | Comments(0)

by ヒサミツ