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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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鏡山山頂 の佐用姫像




松浦佐用姫(まつらさよひめ)は、
現在の 唐津市厳木町 にいたとされる 豪族の娘で単に
佐用姫(さよひめ)と呼ばれていました
『竹取物語』『羽衣物語』と並んで 日本の三大悲恋 と呼ばれる
『佐用姫伝説』の話があります

《 佐用姫 伝説 》

宣化天皇二年(537年)朝廷の命を受け、
隣国の新羅に侵略されていた 朝鮮半島 の任那、百済を救援するために
兵を率いて唐津へとやってきた
大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は、
出陣のための軍船の建造や 準備の為にしばらくここ 唐津に留まり、
その際、篠原長者の館に滞在することにしました。
篠原長者には、佐用姫というとて も美しい娘がおり、
佐用姫が挟手彦の身の回りの世話をするうち、
二人はお互い惹か れ合って恋仲となり
やがては夫婦の契りを結びました。
やがて軍船は出来上がり、いよいよ船出の日となりました。
別れのとき、挟手彦は 佐用姫に
「これを私と思って待っていて欲しい」と言って、
銅の鏡を手渡しました。
そして、狭手彦の乗った船は松浦の港を出港。
佐用姫は玄界灘を見渡す山に登り
遠ざかり行く狭手彦の船に領巾(ひれ)を振りつづけました。
船が遠ざかるにつれ、狭手彦を慕うあまり 船を追って
山を駆け下りた 佐用姫は、栗川 を一気に飛び渡り、
川岸の岩に飛び移りました。
しかしその時、狭手彦からもらった大事な銅の鏡の緒が切 れ、
鏡は川に落ち川底深く沈んでしまいました。
しかし佐用姫は、遠ざかる船をさらに追い、
途中、川で濡れた衣を乾かし、呼子の浦まで追いかけ、
最後に加部島の天童山に登って船の影を探 します。
しかし海原にはすでにその姿は見えず、
佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣き明かし、
とうとう石になってしまいました。
〈 肥前風土記 〉より


〈世阿弥〉も 『松浦佐用姫』という 演目で物語を残しています
史実にもとずいた話なので 「羽衣」「竹取」のような 隠された話は見えません
だから 今日は 能の話はしません

大伴旅人 と 山上憶良 が 万葉集の中で 歌を残しています

《 海原の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用姫 》
(大伴旅人 万葉集 5-874)  
  
《 遠つびと 松浦佐用姫 夫恋に 領巾振りしより 負へる山の名 》
(山上憶良 万葉集 5-871) 

旅人が この地を訪ねた訳は 祖先の 大伴狭手彦を 追想することによって
大伴氏に流れる DNA を確認するためだったような 気がします



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大伴旅人(菊池容斎・画)






大伴氏 の祖は
高皇産霊神 の子 天忍日命(あめのおしひのみこと)だといわれています
〈記紀〉では 天忍日命 は
天孫降臨の場面に登場し 瓊瓊杵尊(ニニギ)の先導をしたとあり
また 神武東征では 天忍日命(アメノオシヒ)の曾孫 大道臣命(ミチノオミ)が 随伴したとあります
雄略天皇の頃には 大伴室屋が大連を賜わり、
その孫 「大伴 金村 」の頃 自ら武烈天皇の後継に 継体天皇を擁立するなど 絶頂期を迎えます
田川郡糸田町に 「金村神社」があって 『豊前史』には
「 仁賢天皇の御世より 欽明天皇の 御代まで 六御代に仕奉り 」
とあることから 代々 天皇のそばで 権勢をふるっていたのでしょう
おそらく 大伴氏の根拠地は 一般に言われている 摂津 ではなく
豊前(京都郡・田川郡あたり) だったのだろうと思っています
継体21年(527年)に あの 「 磐井の乱 」が起こります
継体天皇 大伴金村は 物部麁鹿火 と共に 磐井を破ります
その後 〈紀〉には 宣化天皇が
「筑紫の那津口に宮家を脩造させよ 筑紫 肥国 豊国 の屯倉もまた 那津口に運ばせよ」
という内容の 詔勅を出したとあります
〈紀〉には 欽明元年(540年) 金村は 「住吉の宅」に疾(やまい)と称して引きこもる ともあります
このことから 大伴の根拠地が 豊前から 那の津(博多) に移っているのがわかります
摂津の住吉ではなく 博多の住吉だったのですね
大伴金村には ふたりの子がいました
兄の「大伴 磐」(いわい) と 弟の「大伴 狭手彦 」です
「狭手彦」は 佐用姫と別れて 任那復興のために 海を渡ります
兄の「磐」は 筑紫 岩屋城にて国政をとったと 紀に書かれています
岩屋城とは あの太宰府政庁の裏手にある 高橋紹運(たかはしじょううん)
が 島津軍 と戦った あの山城です
「岩屋城」の名前は 「磐の城」が訛ったようです


これからは 妄想です
大伴氏 の歴史 は筑紫の歴史だったんですね
旅人の DNA は この 筑紫の地には あちこちに 転がっていることが解りました
朝廷から 外され 同志であった 長屋王も大和で殺され
すでに 大和に戻しても 影響が無いと 判断した朝廷は
再び 旅人を 都に呼び戻します
旅人は 果たして 戻りたかったのでしょうか !?
遠い祖先の地の 筑紫で 妻はなくしましたが ここには 友もできたし
想ってくれる人もいたし 出来れば このままここに住みたかったという
旅人のため息が聞こえてくるようです
私と ほぼ同じ年齢ですから 解るんです
できるなら 旅人の旅は 筑紫で 終らしてあげたかった
それでも 都に戻ったのは
家持の将来のことだったのかもしれませんね

もうひとり 都に 戻らなかったひとがいます
菅原道真公 です じつは 菅公の母は 大伴氏(伴氏)だったのですね
菅公には 輝かしい 筑紫 の 真実の歴史も
大伴氏の歴史も わかっていたのでしょう
だからこそ 筑紫の里に眠ることに決めたのでしょう



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今夜は 天満宮の 『鬼すべ』 です
その年の災難消除や開運招福を願い、
境内東神苑にある鬼すべ堂で行われる勇壮な火祭りです。
寛和2年(986)
道真公の曾孫にあたる 菅原輔正(すがわら すけまさ)
によって始められたと伝えられています
『鷽替え神事』も今日です
「かえましょ かえましょ」の 巫女さんの掛け声が聞こえると
近くにいる人と 持っていた「木うそ」を交換します

巫女さんの声が 菅公の声のように聞こえてきます

どなたか 私の持っている 「木うそ」を変えてくれませんか

『 真実の 筑紫の里 の歴史に 』


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木うそ



   


by nonkei7332 | 2015-01-07 12:27 | 古代史 | Comments(0)

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謡曲高砂



クリスマスです
街には クリスマスソング が流れています
イエスキリストの降誕を祝う お祭り(ハレ)の日
古い 謂れによると 冬至を祝った 祭りが イエスの降誕とかさなって
クリスマスになったという話もあるみたいです
ちなみに 日本で 一番最初にクリスマスを祝ったのは フランシスコザビエルで
場所は あの 大内義隆 の 山口 だと言われています
〈古今東西〉祭り(ハレ)に 歌 と 舞 は 欠かせないもので
日本では 正月や婚礼には 晴れ着(ハレギ)をきて 謡曲を歌いました
歌う謡曲も その月や祭事に合わせて 決まっているようで 元旦は 『鶴亀』
婚礼は 『 高 砂 』が 定番だったようです
今日は クリスマス ですから 祝意を表す意味で『高砂』の話をします
そうです 結婚式の時に どこかの 親戚のおじさんが唸っていた あの
《 高砂や ~ この浦舟に帆を上げて~ 》です

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祝言ソング「謡曲高砂」の 作詞作曲は あの 〈 世阿弥 〉です

この 物語 こんな〈あらすじ〉です

平安時代前期の延喜の頃。
九州阿蘇神社の神主友成(ともなり)は、
都見物の途中、従者を連れて播磨国(兵庫県)の名所高砂の浦に立ち寄ります。
そこで 松の落葉を掃く老夫婦に出会います
友成は、高砂の松について問いかけます
二人は 友成に、この松こそ高砂の松であり、遠い住吉の地にある住の江の松と合わせて
「相生(あいおい)の松」と呼ばれている謂われを教えます。
そして『万葉集』の昔のように今の延喜帝の治世に和歌の道が栄えていることを、
それぞれ高砂、住の江の松にたとえて、賞賛しました。
老翁はさらに、和歌が栄えるのは、草木をはじめ万物に歌心がこもるからだと説き、
樹齢千年を保つ常緑の松は特にめでたいものであるとして、松の由緒を語ります。
やがて老夫婦は、友成に、自分たちは高砂と住吉の「相生の松」の化身であると告げると、
住吉での再会を約して夕波に寄せる岸辺で小船に乗り、
そのまま風にまかせて、沖へと姿を消して行きました。
残された友成の一行は、老夫婦の後を追って、
月の出とともに小舟を出し、高砂の浦から一路、住吉へ向かいます。
住吉の岸に着くと、男体の住吉明神が姿を現しました。
月下の住吉明神は、神々しく颯爽と舞い、悪魔を払いのけ、
君民の長寿を寿ぎ、平安な世を祝福するのでした。


松は、古来、神が宿る木とされ、常緑なところから 長寿のめでたさを表しています
また、雌雄の別があり、夫婦を連想させています
世阿弥は この能を、
「播州高砂、摂津の国住吉と、国を隔てて住みながらも、夫婦として暮らす老人老女」
という人物設定で、長寿や老夫婦の睦まじさを称えるとともに、
松の長寿のめでたさを和歌の道の久しい繁栄になぞらえ、美しい詞章と舞いとで、表現しました


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さてさて 話は ここからです 世阿弥 は この話の中に
日本の 古代史を覆すような 謎 を隠しています
その 謎とは ‥‥‥ ( CMの後で ) ‥‥‥


この シナリオ の目的は 神戸の高砂の松 と 難波の住吉の松 が夫婦である事をいっていて
それを 阿蘇宮司が承認するというものとなっているわけです
とすると 高砂神社と住吉大社に祀られる神が いったい 誰なのか


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高砂神社


〈高砂神社〉
社伝によれば 神功皇后の命により大己貴命が当地に祀られたことにより創建されたとつたえられています
とすれば この神社の神とは 《 神 功 皇 后 》 ということです


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住吉大社


〈住吉大社〉
第一本宮:底筒男命 (そこつつのをのみこと)
第二本宮:中筒男命 (なかつつのをのみこと)
第三本宮:表筒男命 (うはつつのをのみこと)
第四本宮: 神功皇后 (じんぐうこうごう)

実は 大阪の住吉大社・福岡の住吉神社・下関の住吉神社 の三社が
日本三大住吉といわれていますが
割と しられていないのが この三社に元宮があって
その元宮とは 福岡 那珂川町にある 「現人神社」だということです


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現人神社



〈現人神社〉
その由来をみてみると

【 〈御祭神〉 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
〈御由緒 並びに御神徳〉
伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて禊祓い給いし時に生れまし
住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社にして、神功皇后(1780年前)三韓遠征の際、
軍船の舳先に御形を現し、玉体を護り進路を導き、無事凱旋せしめた御神として、
皇后いたく畏(かしこ)み奉りて、この住吉の神の鎮まり座す現人宮を訪れ、
神田に水を引かむと山田の一の井堰を築き、裂田の溝を通水して、
五穀豊穣の誠を捧げられ、現人大明神の尊号を授けられ、
供奉の藤原朝臣佐伯宿禰をして祀官せしめられてより、現人大明神と称す。
摂津の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀り、
福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらる。】

誰がどうみても 現人大明神 とは 《 武内宿禰 》ではないでしょうか
とすると 住吉大社 の 深の神とは 《 武 内 宿 禰 》ということです


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世阿弥は 何をいいたかったのか

《 歴史から 抹殺された 武内宿禰 と 神功皇后 は 夫婦であった 》

それじゃ 応神天皇 は 誰の子❓ 仲哀天皇 は❓
謎解きは また 多くの 謎をつくります

そこのところを ゆっくりと クリスマスケーキ を食べながら
〈世阿弥〉さんに 聞くことにしましょう。












by nonkei7332 | 2014-12-25 11:19 | | Comments(0)

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北斗七星と北極星




周防国(山口)の守護大名 大内氏の先祖は、
百済国 第26代聖明王の第3王子・琳聖太子(りんしょうたいし)と言い伝えられている
15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、
琳聖王子は 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。
聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという
その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は大内介と名乗り、
以降歴代の当主もこれを世襲した
鎌倉 室町にかけて 西国一の戦国大名に駆け上がった 大内家は
31代 大 内 義 隆 の時代に絶頂期を迎え 京都に劣らぬ 絢爛たる大内文化が花開き
山口が「西の京」と呼ばれるまでになった
しかし 琳聖太子という人物名が
当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く
琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した 大内家の自作自演との説もあり
真偽は謎である
ただ 多くの戦国大名が 「源平藤橘」やその他の中央の貴族の嫡流を名乗ったなかで
唯一 百済の末裔を名乗った 大内氏の狙いは なんだったのか 興味深い話でもある

『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には 琳聖王子の 『降星伝説』が残っている



《 降 星 伝 説 》
 
 595年推古天皇3年(17年説もあり)、9月18日、
周防国鷲頭庄青柳浦(わしづのしょう・あおやぎのうら)にある
松の大木に突如星がおり、七日七晩輝きました。
里人は不審に思い、巫女に星の精を呼び出させたところ、
「我は北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)である。
これから3年後、百済の国の琳聖太子が、
聖徳太子に合うために来日されるので、お守りするためにやってきたのだ」
と語ったといいます。
 星の予言通り、推古5年、琳聖太子は来日し、聖徳太子に会われました。
この不思議な星の話を聞いた琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、
北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、
日本で初めての星祭りをおこなったとされています。
そして、星が松に下った霊地として、青柳浦は
下松と呼ばれるようになったと伝えられています。

(下松の地名の起こりについては、百済の国への風待ちの港だったことから、「百済待」あるいは「百済津」と呼ばれていたものが訛ってくだまつとなり、下松の字を充てたという説がある)
「下松市史」より引用


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大内家の氏神 氷上山興隆寺・北辰妙見社



古代中国で起こった 北辰妙見信仰が伝わったのが 推古天皇の頃といわれているが
この伝説との関係については わからない
ただ 明日香の高松塚古墳 (被葬者は百済王族説もある) の天井と北壁の壁画には
北斗七星と玄武像が描かれていることから
百済を通して 北辰妙見信仰が伝わったという説はあながち 嘘でもないようである
日本の三代妙見のひとつである 熊本八代の 妙見宮 では 社記などによると
中国渡来説の他に 妙見神は 百済国聖明王の第三皇子 琳聖太子 であるとの
百済渡来説が伝承されているのも興味深い話である


綾杉さんの『ひもろぎ逍遥』によると
百済国のあった 地域は もともと 帯方郡 と呼ばれていて
帯方とは 天の川のことであり 真鍋大覚の記述によれば
【 帯方とは銀河の傾きを見量りて、自らの空間的時間的位置をおさえる
特技ある民族の総称でもありました。】
と述べられています



《 星の国 百済 》《 百済王子の伝説 》
そして それを 出自とした 《 戦国大名 大内家 》
興味は ますます 拡がっていく



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by nonkei7332 | 2014-10-31 08:35 | 古代史 | Comments(0)

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時は平安末期

容姿端麗で 将来を大いに嘱望された 若武者がいた

本名 「佐 藤 義 清 (よしきよ)」

藤原氏の家系を継いだのが17歳でした
兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となり
御所の北側を警護する 精鋭部隊「北面の武士」に選ばれ、
同い年の 平清盛 は 友人でもあります
北面生活では歌会が頻繁に催され そこで 義清の歌は高く評価されます
武士としても実力は一流で 疾走する馬上から的を射る
「流鏑馬(やぶさめ)」の達人でもありました
しかし 義清 22歳の若さで出家し 周囲を驚かせてしまいます
死が日常の戦国の世の中で 阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから
「 西 行 」と名乗り 現世の執着を捨てるべく「西方への道 」「死への道」を選んだのでした

【 近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」には 御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして 苦悩から死にそうになり 女院が情けをかけて一度だけ逢ったが「あこぎ」と言われて出家したとある この女院とは 白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった 待賢門院璋子です】


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NHK大河ドラマ「平清盛」で 藤木直人 扮する 佐藤義清(西行) と
檀れい 扮する 鳥羽天皇の中宮で崇徳天皇の母 待賢門院(たいけんもんいん)



私が 西行 に惹かれるのは
執着を すべて捨てたようで しかし どこか悶々としながらも
桜を詠み 月を詠みながら 徐々に 人生の極みに近づいていく姿
列についていけない者の悲哀を 決して周りには見せず かと言って
漂泊の人にもならず 生臭い世俗にも満ちた ふてぶてさも
兼ね備えた人でもあったことです
そして 生涯の 憶い女(ひと)を 死ぬまで 恋した人でもありました



《 好きな歌を四首 》


《 世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいふ 》


(訳) : 出家した人は悟りや救いを求めており 本当に世を捨てたとは言えない
出家しない人こそ自分を捨てているのだ



《 弓はりの 月にはづれて 見しかげの やさしかりしは いつか忘れむ 》


(訳) : 三日月の光をうけずに見た
恋しい人(待賢門院)の姿を生涯忘れることはありません


《 何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 》


(訳) : 伊勢神宮で詠んだ歌だとある

(註釈) : とうてい 超えることができない 絶対的な何かが そこにあって
ただ 「かたじけない」という 神に対して
最も人間らしい言葉で 首を垂れる その姿に
感動さえおぼえるのは 私だけでしょうか



《 願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月の頃 》


(訳) : 願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい

(註釈) : 西行が来世へ旅立ったのは 73歳の 2月16日
如月の望月とは 2月15日の釈迦の命日 であったので
釈迦の後ろを一日遅れてついて行ったと言われている


自分の 最後の 死の姿までも 演出しぬいてみせた 悟りの人でもありました


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by nonkei7332 | 2014-10-08 11:58 | 古代史 | Comments(0)


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博多の祝い唄 《祝い目出度》は 祝いの席で唄われます。

一、 祝いめでたの 若松さまよ 
若松さまよ
    枝も栄ゆりゃ 葉も繁る

  【エーイーショウエー エーイーショウエー
   ショーエ ショーエ ションガネ
   アレワイサソ エーサーソー エー ションガネ】

一、 こちの座敷は 祝いの座敷 
祝いの座敷
    鶴と亀とが 舞い遊ぶ
  
一、 こちのお庭に お井戸を掘れば 
お井戸を掘れば
    水は若水 金が湧く
   
一、 さても見事な 櫛田の銀杏(ぎなん) 
櫛田の銀杏
    枝も栄ゆりゃ 葉も繁る
    
一、 旦那大黒 ごりょさんな恵比寿
    ごりょさんな恵比寿
      でけた子供は 福の神
    
一、 あんた 百まで わしゃ九十九まで
    わしゃ九十九まで
      ともに白髪の生えるまで
    

さてさて この祝い唄 いったい 誰の事を唄ったものなのかを
私なりに 考えてみました
謎解き キーワードが 五つ

〈若松様って誰?〉
昔 仲哀天皇 と 神功皇后 が熊襲征伐に筑紫国においでになった時
洞の海に差し掛かったころに岡県主熊鰐の奏上によって天皇は外海を、
皇后は内海を進まれることになりました。ところが 洞海湾へ向かう皇后の御船が進まず、 武内宿禰 が漁夫に海中を調べさせたところ「海底に光る石」が見つかって、天皇に献上しました。
ご覧になった天皇は「これは海童(えびす)神の心なり」と仰せになられて、
この霊石をお祀りしたのがこの恵比須神社の始まりなんだそうです。
その後 武内宿禰 はここを訪れて 歌をうたいます
「 海原の 溟たる松の青々たる わが心も若し 」
広く青々とした海を背景に青々と繁った松の木を見ると、私の心も若々しくなりますという意味です、そこから若松という地名が興りました
北九州の 若松恵比須神社の由来と若松の地名の由来から

若松様といえば えびす様のことであり

武内宿禰 のことでもあります


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若松恵比須神社




〈こちの座敷 こちのお庭ってどこ?〉
この二番と三番の歌詞から わかるのが
こちの座敷とこちのお庭が同じ場所にあるということです
その場所で鶴と亀が舞い 井戸から 若水が湧き 金が湧く というわけです
この場所とは 香椎宮 のことです
香椎宮は 仲哀天皇が祀ってありますが
神功皇后と武内宿禰がお側でずっと仕えられておら れました
境内側の 武内宿禰の屋敷の庭には 不老水 と呼ばれる 井戸があり
宿禰は 毎日 この水を汲んでは 天皇と皇后のお世話をしたといいます
天皇に仕える水を 若水 といいます
鶴と亀とが舞い遊ぶとは
天下泰平、国家の長久を祈念して舞う『鶴亀』(つるかめ)という
能の演目 のことで 香椎宮で舞われたのでしょう

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香椎宮



〈櫛田の銀杏〉
恵比須神社 や 武内宿禰 に関係する神社には ほとんどの神社の境内には
銀杏(いちょう)の木が植わっています 何故かは わかりませんが


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櫛田の銀杏


〈旦那大黒 ごりょさん恵比寿〉
東公園の中に 十日恵比須神社があります
祭神は 事代主命(えびす様)・大国主命(大黒様)
大黒様とえびす様は夫婦ともいわれています

さて ここの 十日恵比須神社の由来については
天正19年 (1592年) の話 武内五右衛門という 御老人
神功皇后の三韓征伐の 武内宿禰の末裔で 香椎から博多にでて魚類を扱っていた
それがために 漁の神様である 恵比須様を信仰すること すこぶる篤い老人であった
ある日 朝早く 博多の海岸にでて恵比須様を拝していると 潮先に漂う木片があり
古下駄でも浮いているのかと思って拾い上げてみると 豈図らんや
それは 高さ六、七寸の男女二体の、彩色の施してある恵比須の神像であった
これは 本家出雲の国 三保の関の恵比須堂が 高潮か何かで打ち壊され
その御神体が 遥々漂流して来たものに違いない と深く信じて自宅に持ち帰へり
石の祠を造って祀ったという
その後 崇福寺の北側に 松原恵比須という 小社を建てたが
明治になって 東公園に社殿を移し 十日恵比須神社と合祀して 今日に至るという

武内宿禰 ここにも 現れました


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十日恵比須神社


〈白髪〉
白髪は 白髭ともいえます
白髭といえば 神話の中では 300歳も生きた 武内宿禰 が頭に浮かびますね
明治時代には 日本銀行券の紙幣肖像にもなりました
真っ白なお髭でした

ここでも 武内宿禰 ですね


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小島与一作 武内宿禰




櫛田神社 の 祭神の真ん中におられるのは 「 大幡主大神 」です
謎の神様でした
(詳しくは 当ブログ 「おくしださんの謎」
先日 武内宿禰を祀る 宗像市の 「 織幡神社 」に行って来ましたが
「幡」が重なって 妄想が繋がりそうでした


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織幡宮


「大幡主大神」って 「武内宿禰」?

それとも 織姫で 繋がって …… 瀬織 … ?

謎が 謎を呼ぶ 若松様よ !




by nonkei7332 | 2014-09-27 15:10 | ルーツ | Comments(2)


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織幡宮 より 鐘崎港を望む



私の大好きな
心 和ぎる(なぎる) 海沿いの神社に
連れて来ていただいた



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《 織 幡 神 社 》



そこは ちはやぶる 鐘の岬





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この海を そして この国を護る
海神達が 武内宿禰の周りに 勢ぞろいされていた
この宮には それ以上の解釈も注釈もいらない
〈祭神〉
竹内大臣 (武内宿禰)
志賀大神(底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神)
住吉大神 (表筒男、中筒男、底筒男の三柱)
天照大神 (宗像三女神の母神)
宗像大神 (宗像三女神)
香椎大神 (神功皇后)
八幡大神 (応神天皇)
壱岐真根子臣
(武内宿禰の身代わりとなって 自害した壱岐の豪族 娘の豊子はその後 武内宿禰の妻となる)



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楯崎神社



そして
津屋崎 の 《 楯 崎 神 社 》
出雲の神様と
神功皇后の物語が
今も 伝承されていた


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〈祭神〉
大己貴命
少彦名命
飛龍権現(神功皇后)



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〈宗像〉 〈津屋崎〉 〈志賀島〉
この国の神話はこの海岸線から はじまっているみたいだ
ここが 入り口なのだろう
何も知らなかった 古代の神のことを
私は 月の名前(LUNA)を持つ 不思議な一人の女性に出会い
多くを 教えていただいた
そして そこには 私一人ではなく
おなじように 繋がっていた 志賀の男達や早乙女達の笑い声があった
ようやく わたしも ここまで 辿り着いたみたいだ

隠された真実を この海は知っているのなら
わたしも この海に寄り添って 小さく 声を挙げよう
安曇の海人達の 生命の支えであった
優しく 揺り籠をゆらしてくれた
あの 《 月読の女神 》のことを





by nonkei7332 | 2014-09-26 13:08 | 古代史 | Comments(0)



大国主命と少彦名命については 前回触れてみましたが

もう一人 どうしても 触れなくてはならない 神様がいました


事代主命 (ことしろぬしのみこと)

〈 別名 恵比寿様 〉



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大黒様




大国主命の子供であって

少彦名命が 常世の国に帰った後を託され

少彦名命の意志を継いだ「託宣の神」といわれた為に

少彦名命=事代主神 のイメージが強い神様です


後世 〈七福神信仰〉の中で「 エビス様 」といわれ

大国主命の「 ダイコク様 」と一緒に 多くの神社の祭神となっています


さて この エビス様 いろんな話がありますが

えびす宮総本社の西宮神社で「十日えびす」を前にした正月五日

人形遣い達の祖神、百太夫神を祭る境内末社

百太夫神社(ひゃくだゆう じんじゃ)で

百太夫神社祭という祭りがおこなわれる といいます


その由来については 西宮市の産所町に 史跡がありました


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〈 傀儡師故跡 〉 

                          
この附近は昔〈産所〉といわれた所で

1690年頃には


40軒程の傀儡師(人形操を業とする者)が住んでいた。 
     

傀儡師(くぐつし) は遠く平安末期に現れ


傀儡師、木偶まわし、人形まわしなどと呼ばれ


諸地方を巡廻興業していたが 室町時代にはいると


その一部がこの産所の地に住みつき


西宮神社の雑役奉仕のかたわら 神社のお札を持って諸国を巡り


お得意の人形を踊らせながらご神徳をひろめた。
    
    
1590年頃には


その人形芸が「えびすかき」又は「えびすまわし」といわれて


全国的に知られるようになり


たびたび京都の宮廷で天覧を受けるまでになった。


さらにその後発展して



淡路の人形屋や文楽人形浄瑠璃芝居へと成長していった。

 
 
しかし1850年頃から


彼らはおいおいこの地からなぜか姿を消してしまった


おそらくは世相の変遷や好みの変化によるものと思われる。

   
   傀儡師らは永らくこの産所の地に住み


祖神を信ずる 百大夫 を崇拝して神社にまつり


守護神としたが


その社は産所の地が1840年頃に衰微するに至った時



すぐ近くの西宮神社の境内に移されて現存している。 

       

   昭和63年3月31日

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傀儡子(人形遣い達)の祖神 百太夫については

平安時代の文人 大江匡房の『 傀儡子記 』には


《 男は馬に乗り弓を持ち、狩猟で生計を立てる。

長剣を持って跳躍し、短剣をもてあそぶ類の者たちである

・・・石を魔術で金銭に変じ、

草木を鳥獣に変え、よく人目を惑わす》


面白いのは 〈石を魔術で金銭に変える〉ということだが

これは 鉄の鋳造技術を持った 鉄の民 であったということであり

そして 〈草木を鳥獣に変えよく人目を惑わす〉とは

からくり人形 を使って 人びとを驚かせたということだろう

また


《 夜は百神を祀りて 鼓を打ち 舞い 喧嘩し

もって福助を祈る》


百神とは 百太夫のことであり

その舞は 傀儡子舞( 細男舞)と呼ばれていることから

傀儡子が祀った神こそ

阿曇磯良 (あづみいそら) にまちがいないようです

傀儡子の魂の在処は、志賀島のようです


少彦名命(海神)の託宣した 事代主命(エビス)を

全国に拡めた 傀儡子(クグツ)

その 傀儡子 が祀る 守護神(祖神)は 安曇磯良(海神) だった

いにしえの魂が繋がったみたいですね (^_^)


次回は からくり人形 について








by nonkei7332 | 2014-09-11 18:55 | 古代史 | Comments(0)

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今日(8日)は 中秋の名月 である
名月だから まんまるお月さん と 思いきや
実は 今日の月は まんまるではない
何故かというと
旧暦の1ヶ月は 月の満ち欠けの周期で 平均すると29.4日となる
しかし、暦は1日単位で数えるから そこに 誤差ができ
満月と暦の上での「中秋の名月」に1〜2日のずれが生じてしまう
まんまるお月さん(満月)は 明日(9日)なのだ

話は変わるが
昔から お月さんで 『ウサギが餅をついている』と聞かされてきた
ほかにも 世界中には いくつかの 月影の伝承 があるが

宮古列島の 多良間島 には 月には
『天秤棒をかついだ 男がいる』
という話がある



太古の昔 月と太陽は夫婦だった
妻である 月の光は 夫の 太陽の光よりはるかに強く明るいものであった。
夫は羨望のあまり 夜歩む人間には目をくらますような光は不必要だという口実で
少し 光を自分に譲るよう しばしば 月に願ってみたが
しかし 妻は夫の願いを聞き入れなかった
そこで夫は 妻が外出した時に 急に後ろから忍び寄り
月を地上に突き落としてしまったのだ
盛装をしていた月はぬかるみに落ちてしまい全身 汚れてしまった。
この時 一人の農夫が水の入った二つの桶を天秤棒にさげて通りかかった
農夫は泥の中で必死にもがいている月の姿をみて 泥の中から出してやり
桶の水で綺麗に洗ってあげた
それから 月は蒼穹に上って世界を照らそうとしたが
この時以来 明るく輝ける光を失ってしまつた。
月はお礼として 農夫を月に招き この農夫は今もなお 月に留まっていて
満月の夜には 二つの天秤棒をさげて運ぶ姿が はっきりと見えるという



もうひとつ 中国から日本に伝わった 『桂男の話』という古い 伝承がある


西河出身の男は 姓は呉、名は剛といった
呉剛は 月に住む前には 天界を飛翔していたが 仙術を学んだ罪で 月にある
月宮殿という 大宮殿で 500丈(約1500メートル)もの高さの 桂木を
切り続ける 罰を受けていた
(斧をふるって桂に伐りつけると 伐るそばからその伐り口がふさがってしまう)
呉剛 を 桂男 といい 満月の夜には 桂男が斧をふるっている姿がみえるという



中国神話の桂(中国の桂は木犀のこと)は月に生えている木とされ
桂男は月の世界に住んでいる伝説上の男になっていく 日本では 物語や
歌のなかで かつらお と詠まれ やがては 神話の「月読命」と 「桂男」は
同一視 されるようになる

今日は 中秋の名月 だから 月の住人となった
〈天秤棒をかついだ農夫〉と〈桂男〉について 話をしぼってみる

京都祇園祭山鉾のひとつに月鉾 』がある(下の写真)
《 月鉾の由来 = 月鉾は、文献によりますと、応仁の乱以前よりあり、
その昔は「 桂男鉾 」と呼ばれていました、鉾頭に“新月”をいただき、
天王座には“月読尊”を祀っていることから、
その後“月鉾”と呼ばれるようになりました 》


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じつは 京都には残っていなかった 「桂男鉾」が
徳島県の 「 宍喰祇園祭の大山鉾 」
いにしえの面影を残している事を知った(下の写真)


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ちまたで言われる 美男子の桂男というより
色黒の厳めしい 海人の風貌である
天秤棒を前後に担いでいる その姿は
海神 安曇磯良が 潮盈珠・潮乾珠 の二つの珠を担いでいる姿に見えるといえば
私の妄想になるのだろうか

〈桂男〉〈秦氏〉〈月読命〉〈安曇磯良〉
この流れに 〈少彦名命〉が繋がれば かぜん 面白くなるのだが ⁉︎

いい天気です
今夜はいい月が 見れそうですね
お月見のお団子 どうしよう 😦



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by nonkei7332 | 2014-09-08 14:23 | | Comments(0)


神話には たくさんの 神がいて

それにまつわる 多くの話がある

記紀のなかにも 神社の伝承にも…

まだまだ ビギナーの私ですが

神話を追いかける 日々は楽しいものです (^O^)


その中で 最近 私の前に しきりに 行ったり来たりする

神様がいます その方の名前が


少彦名命(すくなひこなのみこと)


なんと あの 『一寸法師』のモデルになった 小さな 神様なんです


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少彦名命 が 活躍する場所は 「出雲」

相方はなんとあの 「大国主命」(おおくにぬしのみこと)


父親は 「 高産巣日神 」(たかみむすびのみこと)

アマテラスとともに 天孫族の長であり

いわば 日本神話のレジェンド

あの 高良大社の主であった 高木神 のことである

その御曹子だから 天孫族のエリートなのである

(古事記では 神産巣日神の子供になっている)


どんな お話かというと

大国主命が出雲の御大(ミホ)の岬にいるとき、

波頭を伝わって天の羅摩船(ガガイモの殻でできた船)に乗り

鵝(ヒムシ=蛾)の皮を着て現れた。

不思議に思った 大国主命 が家来の神に尋ねたが 誰もその正体を知らなかった。

そのときそばにいた蟇蛙(ガマガエル)が

「クエビコ(山田のかかしのこと)なら知っているでしょう」

というのでクエビコに聞くと、

「 高産巣日神 の 御子で 少彦名神 です」と答えた。

そこで大国主命が 高産巣日神 に伝えると、神は

「これは私の掌の股からこぼれた子である。

これからは兄弟の契りを結び、国を造り固めるがよい」 と二神に申し渡した。

こうして少彦名神は、大国主命とコンビを組んで全国を巡り歩き、国造りを行い、

その任務を果たしたのちに再び 常世の国 に帰っていったという話


かんたんにいうと

天孫族の 小さな 少彦名命 が 常世 の国から 出雲にきて

出雲族の 大きな 大国主命 と一緒に 国づくりをする

少彦名 は 農業技術 や 医薬(薬や酒や温泉)を伝えたとあります

異界から訪れ 人々に幸いをもたらして そして 帰っていく 神 といわれる

来訪神 のひとりでした


常世の国って どこなんだという疑問 ?

少彦名命 は 海からやって来た 海神なので

わかりやすく 海の底の 龍宮城 でいいのでしょうか?

海神といえば わたつみの神 志賀島の安曇族ですね

日本書紀では わたつみの神 を 少童命 と書かれています

この 少童命 と書いてわたつみと読ませていますが

この 少童命 と 少彦名命 どう見ても 同じにみえますね

ということは 少彦名命 は 安曇族 だったのでしょうか?

いまひとり 天孫族で 来訪神の先輩といえば

素戔嗚尊(スサノオ)もそうですね 祇園神社の神様です


少彦名命 を 祖神として 祀っている一族といえば 秦氏 です

全国にある 秦氏 に関わる 多くの神社の祭神には

大国主命=大己貴命(おほなむち)と少彦名命 のセットが多いですね

福津市の 楯崎(たてざき)神社 をはじめ 津屋崎 や 遠賀から 飯塚にかけて

まるで ここが 出雲であるかのように 数多く セットで祭祀されています

秦氏発祥のこの地域は「鉄の民」の伝承も多いところですね


話を 少彦名命に戻しますが

少彦名命が 高産巣日神 の手の間から産まれたので 手間天神 といいますが

この 手間天神が 天満天神となり 天満宮と呼ばれるようになったという話があります

天満宮の元祭神は 少彦名命 であったという話なんですが

その後 少彦名命 と 菅公 の すり替えが行われていったという話も面白いですね



まとめると

① 少彦名命は 安曇族だった

② 北九州の 玄界灘沿岸から 遠賀川沿岸にかけてが 出雲だった

③ 天満宮はもとは 少彦名命がまつられていて いつのまにか 菅公にすり替わっていった


今日のところは 妄想は ここまでとします

切りが無いですからね




何も知らなかった時から比べると いろんな事が解りました

古代史は 永遠です!








by nonkei7332 | 2014-08-25 13:36 | 古代史 | Comments(0)


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昔から博多の人々に「おくしださん」と呼ばれて親しまれている
「櫛田神社」は 謎多き 神社である

創建は 天平宝字元年だから 奈良時代の757年

祭神は 正殿(中殿)が 『大幡主大神』(おおはたぬしのみこと)
別名『大若子命』
天御中主尊十八世の孫・彦久良伊命の御子であり
倭姫(やまとひめの)命が天照大神を伊勢神宮に鎮座したとき,
南伊勢(三重県)の豪族として協力したため
神国造(かみのくにのみやつこ)と神宮の大神主に任じられた
垂仁天皇から 越の国(北陸)の賊徒阿彦を討伐することを命ぜられ
大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったので大幡主と呼ばれている
『櫛田明神』とよばれることもある

左殿は 『天照皇大神』(アマテラス)
大幡主大神がその側を離れずに奉仕したことから
同じ時期に勧請されたとある

右殿は 『素戔嗚主命』(スサノオ)
藤原純友の乱 平定に際し
京都祇園の八坂神社に祈願したことから その分霊を祀ったのが
天慶四年(941年)だから 創建後 184年後のことである

さて 問題は 左右に 「アマテラス」と「スサノオ」を従えている
「大幡主大神」とは 一体 どんな神様なのかということだ

(アマテラス)( ・・・・) (スサノオ)

まん中の( )の中に神様の 名前を入れなさい との問いに
答えは 果たして ?

(イザナギ)?
〈解説〉アマテラス と スサノオを 作った神様だから

(ツキヨミ)?
〈解説〉 イザナギの作った神様が この三人組だから


話は 変わるが 博多には 社家町という町があった
今の冷泉町の 櫛田表参道の道沿いにあったようだ
社家とは神社に仕える 神職のことで
ここには 代々 櫛田神社に奉仕してきた人々が住んでいた
〈祝部家 〉〈天野家 〉〈八尋家 〉〈梅崎家 〉 この四社家だ
大幡主命に奉仕しているのが 〈祝部家 〉
天照大神に奉仕してきたのが 〈天野家〉
素戔嗚主大神に奉仕してきたのが 〈八尋家〉
巫女で奉仕してきたのが 〈梅崎家〉

この中で 祝部家の祖先は 福津市の『縫殿神社』に祀られている
応神天皇の時代に呉の国から招かれた 四人の織姫と
深い関係があると伝えられている


縫殿神社の説明によれば

応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から
兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)
の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。
この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、
中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。
この神社は日本最初の裁縫の神様であり、
この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます


祝部家は 代々 男性は 櫛田明神の神主として奉仕してきて
女性は 裁縫技術に関する仕事に携わってきたという
祝部家出身の 祝部安子は 明治7年頃より
近くの女性を対象に裁縫塾をひらいていたが
明治42年には私立櫛田女学校が認可を受けこの地に校舎を置いた
その後 櫛田裁縫学校となり 多くの博多の女性達がここで裁縫を学んだ
今は その跡地に 〈博多町家ふるさと館〉ができている

「祝部家」は 秦氏の末裔にちがいないだるう
ちなみに伊勢神宮に代々神官として務めて来た
「度会氏」も秦氏の末裔なようだ

これは あくまでも 妄想だが
櫛田神社の主祭神は 「大幡主命 」
以前があって 秦氏繋がりで
それは 「月読命」であったのではないだろうか
と 私は思いたいが・・・??

「おくしださん」の謎は 深まるばかりだ





by nonkei7332 | 2014-07-02 11:55 | ルーツ | Comments(0)

by ヒサミツ