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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

タグ:古代史 ( 86 ) タグの人気記事


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岸和田 だんじり祭り




九州では 秋祭り を 「くんち」「おくんち」といいます

秋 の 豊穣収穫祭 です


起源 は 天皇が 五穀の新縠を 天津神 国津神に 捧げ

自らも食しその年の収穫に感謝する

〈新嘗祭〉(にいなめさい) だといわれています

現在でも 11月23日 に宮中や 各地の神社で 祭祀が行われ

「勤労感謝の日」として 国民の祝日 になっています

〈くんち〉の語源は 諸説ありますが

〈九日説〉が 主説でしょう つまり 旧暦の9月9日 (10月21日)

重陽の節句 にあわせて 祭りがおこなわれました

各地によって 多少 日程が ずれたりしますが

これが 元となっているようです


『三大くんち(九州三大秋祭り)』といえば

「長崎くんち」「博多おくんち」「唐津くんち」です


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長崎くんち 龍踊


《 長崎くんち 》(10月7日〜10月10日)


長崎市の諏訪神社の秋季大祭です

見どころは 各町の「奉納踊り」

各町の奉納踊りには 有名な「龍踊(じゃおどり)」や

「鯨の潮吹き」「御朱印船」「阿蘭陀万歳」などがあります

祭(くんち)の始まりは 江戸時代の寛永年間(17世紀)

二人の遊女が諏訪神社に舞を奉納したことだと言われています

その後 年々盛んになっていき さらに長崎という土地柄から

中国や南蛮文化の影響を受けました

この「長崎くんちの奉納踊」は重要無形文化財となっています



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博多おくんち 神輿渡御



《 博多おくんち 》(10月23日〜10月24日)


博多おくんち」は 博多の総鎮守である

櫛田神社の秋の例祭です

かつては収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)でしたが

昭和28年より 名称を変更して新たに祭礼を行うようになりました

神輿渡御や 稚児行列の他 五穀豊穣市 相撲大会などが催されています

昭和28年といえば 6月26日に 〈北九州大水害〉がおきた年で

北九州各地で1000名の死亡者を出しています

4月に起きた阿蘇山の噴火による 土石流と戦中戦後の森林乱伐が

被害を大きくしたと言われています




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唐津 曳山



《 唐津くんち 》(11月2日〜11月4日)


毎年11月に唐津神社で開催される

例祭「唐津くんち」は掛け声とともに

曳山が駆け抜ける勇壮な祭として知られています

その特徴はなんといっても 獅子

漆塗りの獅子頭を被って舞う「カブカブ獅子」の奉納や

大きな赤獅子 青獅子を乗せた曳山の巡行で知られています

唐津くんちは江戸時代に始まったと考えられていますが

この曳山は、文政2年(1819年)に

《石崎嘉兵衛》が伊勢参りの帰途に

京都で見た祇園 山笠をヒントにして仲間たちと

赤獅子をつくり奉納したのが始まりだといわれています

今では14基の曳山があり「唐津くんちの曳山行事」として

重要無形文化財となっています







by nonkei7332 | 2015-10-12 08:30 | 古代史 | Comments(0)

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中秋 の 名月

〈 空 sora そら 〉 さんの ブログ より




10月は 《 神 無 月 》(かんなずき) です

神無月 の 語源は

神を祭る月だから 「神の月」とする説が有力とされています

「無」は 「水無月」(みなずき) と同じく

「の」を意味する格助詞「な」です

中世の俗説には 10月に 全国の神々 が 出雲大社に集まり

諸国には 神がいなくなることから「神無月」になった説があり

出雲国 では 反対に「神有月」(かみありつき) と呼ばれています

その他の説では 雷の鳴らない月で「雷無月」が転じたとする説や

新穀で酒を醸す月なので「醸成月」が転じたとする説もあります


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筑紫の賢人 真鍋大覚さん は

著書 『 玄界灘の海上気象 』で

日本の神話発祥の地を 筑紫 背振山系 の 伊都国 であるとされ

筑紫に残る たたら鍛冶 の 砂鉄選別の 《 かんな流し 》を 示し

神無月 の 起源に言及されています

 

" かんな "

鋳物師間の用語で 砂鉄を選別する 水樋(すいひ) のことであり

木工具の " かんな " (鉋) はこれから 暗示されて

平面の削り出しに考案されたものである。

" かんな " は 女子の携わる作業として

かわのおみな(川女) の 転訛であろうか

背振山系の農家は 秋の彼岸に水を落とす。

すなわち 那珂川を堰でとめて水田に送る灌漑用水の

水門、取出口を開くのである。

稲の収穫はそれから始まる。

したがって 多量の河水を必要とする " かんな流し " は、

土砂 が 水田や溝渠 を埋没することを極度に忌避した 古代、

すなわち 素戔嗚尊の溝埋、畦放 以来、

すべての水の使用が出来、かつ 農閑期に入る


十月から ということになる。

これが おそらく 神無月 の 起源であろう。



【 語訳 】

水樋 (すいひ) ・・・ 水を流す管

素戔嗚尊の溝埋、畦放・・・記紀には スサノオ が アマテラスに

多くの 狼藉を働いたと記されています 溝埋(みぞうえ)とは

田に水を引くために設けた溝を埋めることで

水を引けないようにすることで 畦放(あはなち) とは

田に張っている水を、畔を壊すことで流出させることです




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井上陽水 さん



井上陽水 の セカンドアルバム〈陽水Ⅱセンチメンタル〉に

《 神無月にかこまれて 》という曲が 収録されています

ちょうど 私が 二十歳の頃

東京新宿の 三畳一間 の アパート で 飽きるほど 聴いていた曲です

まさしく この曲は 我が青春 の ポートレート でした



人恋しと泣けば 十三夜

月はおぼろ 淡い色具合

雲は月を隠さぬ様に やさしく流れ

丸い月には 流れる雲が

ちぎれた雲が よくにあう



風がさわぐ 今や冬隣り

逃げる様に 渡り鳥がゆく

列についてゆけない者に また来る春が

あるかどうかは誰もしらない

ただひたすらの 風まかせ



神無月に 僕はかこまれて

口笛吹く それはこだまする

青い夜の空気の中に 生きてるものは

涙も見せず 笑いも忘れ

息をひそめて 冬を待つ








by nonkei7332 | 2015-10-02 22:22 | 古代史 | Comments(0)

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西鉄大牟田線 蒲池駅 (かまちえき)



邪馬台国の女神 は 《 卑弥呼 》 だということは 誰でもが知っています

では 邪馬台国に敵対した 狗奴国 の 女神は と聞くと

そんな人 いたの と誰もが言うのではないでしょうか


そもそも 古代は 神代も人代も 何故 か 女神 や 女王ばかりです

男がだらしないというのは 今も 昔も 変わりはないのですが

何か 理由があるとすれば

それは 呉 から 移り住んだ 海人族の男たちは


忙しくて 単身赴任が 多かったからでしょうか

集落に女子供を残して あちらこちらの 海岸に 集落を開拓してまわり

屋根付きの 家船 に のった 漂泊民 となります

その 土地土地に 胤を残して 勢力を拡げるのに 頑張ります

一方 山に登った 鍛冶の男たちは 一心不乱にに 鉄を作ります

鍛冶場は 女人禁制 の場所 だったみたいです

ストレスがたまったのでしょうか いい鉄が作れなくて

イライラがつのると 里に下りては 時々 悪いことを したのでしょう

だから そんな出来事が重なって 鍛冶の男は 鬼 や 蜘蛛 と言われて

恐れられたのかもしれません


こんな 男たちはにとって 怖い存在といえば

《 地震・雷・大風・女房 》だったのでしょうか

とくに 女達の中には 自然を読み取る 憑依体質の 女性がいて

巫女として 占いや 祭祀をたずさわる ようになり

集団の中で 男達からも 一目置かれるようになります

やがて 小国達 をまとめるような 存在となったのが

《 卑弥呼 》では なかったのではないでしょうか

でも 卑弥呼であっても スーパーウーマン ではなかったみたいで

その 霊力が及ばないような 天変 があることもあって

集団の信頼を失っていった と 倭人伝には書かれています

やがて 卑弥呼が 亡くなると 小国家は混乱して 衝突が始まり

これが 《倭国の大乱》といわれる ものだったのではないでしょうか



「後漢書倭伝」に

「会稽の海外に その名は 東鯷人あり 分かれて二十余国を為す」

とあります

呉人 が 流れ着いた 東鯷国 は 八代から 宇土半島 そして

阿蘇 から 菊池地区 有明海対岸の肥前に至るまでの

広い土地を 治めていました

《 狗奴国 》(くなこく) ともよばれ

のちの世 隼人(はやと) や 熊襲 (くまそ) と呼ばれます

景明天皇や ヤマトタケル が征伐しようとした あの熊襲です

鯷 とは 鯰(なまず) のことで 鯰をトーテム とした 海人族でした

多くの神社には 鯰の伝説が残っていますね


この国に 一人の 女神がいました

その名を 《 蒲 池 媛 》といいます

阿蘇の母神 であり

肥前川上では 《 與止日女 》(よどひめ) と呼ばれ


多くの神社で祀られています

〈淀姫〉とも呼ばれ 〈世田姫〉ともよばれました



〈豊姫〉とも呼ばれ 神功皇后の三韓征伐にも 同行し

満珠干珠の玉を使って 勝利に導いたといわれます

まるで 豊玉姫 や 玉依姫 が重なりますね


実は 豊姫は 神功皇后の 妹 だったという説もあるんです



神功皇后の遠征を 満珠干珠の玉を使ったといえば 安曇磯良 です

高良玉垂宮 に 秘される 安曇磯良 の 妃 となった という説があります

なんと 奴国 の王 と 狗奴国の女王 が 繋がるというわけですから

私とすれば 鳥肌が立つような ゾクゾクする話なのですが

でも よく考えると 両国とも 呉人 を祖とするわけですから

不自然な事ではないないのかもしれませんね


海と川 を治める 女神ということでは

あの 〈瀬織津姫 〉も重なるんですね

〈瀬織津姫〉も 〈蒲池媛〉も 記紀には書かれることがなかった

隠さざるをえなかった 女神 だったのでしょうか


蒲池媛 の 謎 の極め付けは

卑弥呼の 後を継いで 諸国を平定した

13歳の少女《 宗女 台与 》(トヨ) です

蒲池媛 は 実は 卑弥呼宗女 トヨ(豊) だったという 説です

となれば 蒲池媛=トヨ によって その後 安穏な国がつくられ

倭の五王 に 続く 九州王朝 の全盛期 へと つながっていったのでしょうか


これらの 説 は 記紀には書かれていない 風土記 や

神社に遺る縁起 古い家々に遺る 家伝書 にのこる 伝承 なのですが

何が本当なのかは 誰にもわかりません


本当の真実 を 語れる人 は

今 この世には 誰もいないのです

もし 解き明かす人が 未来に 出てきたとすれば

その人は きっと タイムマシン にのって


その時代に 行って見てきた人なのです

これが 古代史の醍醐味 なんですね


《 筑後に 残る 蒲池媛 の謎 》

私が知る限り 現在の 蒲池媛 が 二人 います

ひとりは 名前 を

蒲池法子(かまちのりこ) といいます

もうひとりの名前は


蒲池幸子 (かまちさちこ) といいます


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松田聖子 (まつだせいこ)さん

本名 蒲池法子



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坂井泉水 (さかいいずみ)さん

本名 蒲池幸子

「ZARD」のボーカル

2007年5月 惜しまれながら 40歳の若さで亡くなりました









by nonkei7332 | 2015-09-30 13:30 | 古代史 | Comments(0)

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観世音寺 参道



行楽の 秋日和 太宰府へ行きました

ただ 天満宮にはいかず 目的地は 迷わず

清水山普門院 の 山號をもつ 九州一の古刹

《 観 世 音 寺 》

ここには 日本一 古いと言われる 国宝の 梵鐘 があります

その鐘の音 は 菅公 が 榎社に幽閉され 失意の中で聴いた

あの鐘の音と同じだということを知る人は少ないのです

造られたのが 681年 糟屋郡の多々良 あたりだと書かれています

作った人は 〈上三毛麿〉この人がどんな人かは 詳しくは残ってませんが

562年 大伴狭手彦が 高句麗を征伐して 多数の珍宝と優秀な工人を

連れ帰った中の一人ではないかという説もあります

同じ鋳型で造られた梵鐘が 京都の妙心寺にあります 兄弟鐘です

なぜ 離れ離れになったのかは 歴史の闇のなせる技でしょうか


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国宝 梵鐘



梵鐘 の事を 別名 〈 鯨 鐘 〉とか 〈 華 鯨 〉といいます

なぜ 鯨なのかについて 考えてみました

対馬海峡は 鯨の通り道で 壱岐には 多くの捕鯨基地がありました

万葉集にも 「いさなとり」(鯨魚取り) という 海を表す 枕詞があります

安曇の海人は 壱岐の港を出て 筑紫の都をめざします

筑紫の賢人 真鍋大覚さんの『 玄界灘の海上気象 』のなかに

こんな記事がありました



『 壱岐島 郷浦 を 出ると


やがて見える 筑紫の山々は

東が 九千部山 中央が 脊振山 西が 鏡山 と

大鯨 が 水平線に浮上した形である 』



三笠川の上流 までが まだ 海だった頃


鯨 の 頭 の 九千部山 の 麓にある


太宰府の都をめざした 海人達にとって

やがて 聞こえてくる 観世音寺 の 鐘の音 は

厳しい 船旅に 終わりを告げる


安堵の 音色だったに 違いありません

だから 海人達は この鐘のことを 《 鯨 鐘 》と呼んだのでしょう

鯨 の 字は 魚偏に 京 (みやこ) と書きます



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参道脇の 萩の花





教科書では 538年に 百済から 仏教が伝来したと教えます

しかし 仏教が 筑紫に 伝わったという 記録が残っています

『雷山縁起』に 418年に 清賀上人が 仏教を伝えたとあります

王朝がある 筑紫に 多くの経典や 仏像や そして 梵鐘も 伝わりました

観世音寺 は


天智天皇が 母斉明天皇(崩御661年)の 追善のため 発願され

746年に落慶供養が行われたとされていますが

その間 80年もの空白の謎は 何を隠そうとしているのでしょうか


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苔むす 樟 の 古木 と 観世音寺講堂





観世音寺の 鐘の音は

筑紫 の 栄華 も そして 哀しみの物語も

すべてを 包み込んで

私 の 魂に 語りかけてくれました



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《 観世音寺 夕べの鐘に 花散れば 身も世も非ず 泣かまほしけれ 》


《 観世音寺 みあかし暗う 唯一人 普門品よむ 声にぬかずく 》


柳原 白蓮 の 歌






by nonkei7332 | 2015-09-24 08:33 | 古代史 | Comments(0)

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安曇目の伝承といわれる 歌舞伎の隈取



倭人の習俗については 『魏志倭人伝』には

《 男子は大小となく 皆 鯨面文身 す 》と書かれています

「鯨面」というのは 顔の入れ墨で

「文身」というのは身体の入れ墨のことです

海に潜ると そこは いつも 死と隣り合わせの世界

鮫がでてきたり 海蛇やウツボ といった 怪魚に出会うかもしれません

安曇族は 安曇目 といわれる 目を大きく見せる 入れ墨でした

胸に 入れ墨を 彫った 海人は むなかた と呼ばれた 宗像族でした

多くの彫り物は 龍 や 蛇 で 中国江南地区の習俗そのものでした

海人たちにとって TATTOO は 身を守る 魔除けだったのでしょう


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揚子江沿岸から 海南島に至る 中国南部の 海人族は

いつも 大きな 耳輪を下げる 風習があって

一部は いまでも 続いているといわれています

『肥前国風土記』には 五島あたりに 「大耳」「垂耳」という

土蜘蛛 の 族長がいて 豊後にも 「鼻垂」「耳垂」がいました

おそらく 土蜘蛛 の族長は 垂れ下がるような 耳輪をしていて

それが ひとつの ステイタス でもあったのでしょう

ミミ といえば 神代の記紀 の中にも

ミミのつく名前が沢山あります

天忍穂耳命 ( アメノオシヒミミ) アマテラスの子

須賀之八耳神 (スガノヤツミミ) 櫛名田比売の父

三島溝杭耳神 (ミゾクイミミ) 神武天皇妃 の 祖父

手研耳命 (タギシミミ) 神武天皇の子

岐須美美命 (キスミミ) 神武天皇の子

神八井耳命 (カムヤイミミ) 神武天皇の子

神沼河耳命 (カムヌナカワミミ) 神武天皇の子・綏靖天皇

日子八井命 (ヒコヤイミミ) 神武天皇の子

弥弥 (ミミ) 投馬国の王 (魏志倭人伝)

豊耳 (トヨミミ) 紀直の祖

味耳命 (ウマシミミ) 久米直の祖


他にも 沢山の 耳の名前や 地名も 各地に 見えますが

銅や鉄の鍛冶に関わる 土蜘蛛系 の 氏族長は ミミの称号を持っていた

とくに 神武系 は 五人の皇子は ミミの称号をもってます

神武妃 の 媛蹈鞴五十鈴姫 (ヒメタタライスズヒメ)

名前からすると タタラの名があるように ミゾクイミミの孫であり

ミミ族 の姫には 間違い無いようです


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神武天皇 の 頃 の この国は

大きな ピアス をした 族長を中心にした

銅 や 鉄 を作る 鍛冶族 (土蜘蛛) の 小国家群でした

そして それは 中国南部 から 渡来して 住み着き

龍 の TATOO を全身に描いた 海人族 でもありました

これらの 小国家群は 倭国 と呼ばれ

やがて 神武東征 (倭国大乱) をへて

卑弥呼を 中心とした 古代九州王朝 へと

歴史 は 動いていきます







 



by nonkei7332 | 2015-09-18 21:46 | 古代史 | Comments(0)



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一枚の写真が 全世界に 衝撃を与えました
トルコの海岸へ流れ着いたシリア難民の男の子の写真です
家族4人で過激派組織「イスラム国」が台頭するシリアから逃れ
ギリシャへ 向かう途中に ボートが沈没し
父親以外 全員が死亡したといいます


ボートピープル とは

紛争や圧政下にある地から 漁船やヨットなどの小船に乗り
難民となって 外国に乗り出した 人々のことをいいます
近年においては
北朝鮮・韓国・中国・キューバ・南ベトナム(ベトナム戦争以降)
アルバニア・モロッコ などの国で発生して
香港・USA・カナダ・タイ・インドネシア・オーストラリア
日本・イタリア・スペイン などの国への出国でした
祖国を捨て 命を賭け ヨーロッパをめざした
イラン・アフガニスタンの難民達は 何十万人にもなると
ニュース は伝えています


日本という 平和な国に生まれた事に
感謝せずにはおられませんが
私達の遠い祖先が じつは 渡来人 であったこと
何千キロという 海原 の中を 海流に 命をあずけ
ひたすら 新天地を求めて この豊かな山河に たどり着いた
ボートピープル であったことを 忘れてはいけません


紀元前 1200年頃から
中国大陸は 春秋戦国時代と呼ばれ
多くの小国が 覇権を争っていました
揚子江下流沿岸の江南地区に 〈呉〉 という国がありました
船を操り 稲作文化と金属技術にも長けた
平和な国でした やがて
紀元前473年
〈呉〉は 隣の国 〈越〉に滅ぼされてしまいます
行き場を無くした 呉の民 は 東シナ海 へと 逃げ
ボートピープル (漂流民) となります

生き残った一部は 朝鮮半島へ
そして 一部は 日本の 西九州 に 流れ着き
海辺 に いくつかの 集落をつくり 稲作と鉄器を もって
日本の弥生文化をつくる 倭人と呼ばれる
小国家群 を作っていったのでした

後世 南九州へとたどり着き 太平洋側 へと拡がっていった
古代海人族 は 隼人族 と呼ばれ
北九州へとたどり着き 玄界灘を拠点として 北へ 拡がっていった
古代海人族 は 安曇族 と呼ばれたのでした


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安曇族の聖地 志賀島





祖国を追われ 海へと 新天地を求めた 流民の哀しみが
この国の 魂 として 遠い記憶の淵に 漂っています
2400年という 時が過ぎた 今
地中海の海の底に 沈んでいった
難民船 転覆による 3500人にも 人々の哀しみは
日本という この国の生きる 私達に
何を 教えようとしているのでしょうか

人間の 哀しみの 連鎖は 今 この時間も続いています






by nonkei7332 | 2015-09-15 22:47 | 古代史 | Comments(2)



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放生会 お神輿行列




『 ほうじょうえ 』

博多では 「ほうじょうや」といいます
博多の三大祭り といえば
5月の〈どんたく〉 7月の〈 山笠 〉そして 9月の〈放生会 〉です
9月12日 から 18日までの期間 参道には 500近い 露天がならび
のべ 100万人の人たちで 賑わいます
『 梨 も 柿 も 放生会 』
博多には こんな 諺 があります 放生会がくると 秋 なのです
博多の子供達の 面白い 会話です

『 なしてや 』・・・( どうして ?)

『 なしもかきも ほうじょうや たい 』・・・( どうしても!! )


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《 放生会 》の由来について 考えてみました

養老4年(720年) 2月28日 太宰府 から 朝廷に
「大隈の国司 陽侯史麻呂 が 隼人族 によって 殺された」
と 報せがあります
朝廷は 律令制を整え 地方支配を強化していきましたが
完全に全国を掌握できたわけではなく
従わない勢力がありました
その一つが 南九州の隼人族だったのです
朝廷は 3月4日 大伴旅人 を 征隼人持節大将軍 に任命し
隼人征伐を命じます
その後 旅人は 藤原不比等 が没したので
朝廷に呼び戻されますが
残った 朝廷軍は 一年半の戦いで 隼人族 を征圧します
隼人族の戦死者・捕虜 は 1500人 にも及んだと言われています
その後 各地 に 疫病や凶作などが続きました
朝廷は 隼人族の霊の祟りだと恐れ
その霊を慰めるために 宇佐八幡宮 で 仏教の殺生戒に基づいて
生き物(蜷貝)を放って供養しました
それが 放生会 の はじまりだと いわれています
やがて 八幡社 を通して 全国各地に広まっていきました

その後 天平12年 (740年) には 太宰少弐 であった 藤原広嗣 が
九州各地から 1万人の兵を集め 朝廷に反乱を起こします
朝廷は 捕虜にした 隼人も含めた 征服軍を起こし 乱を平定します

昌泰4年 ( 901年 )
時の右大臣 菅原道真 は 数々の 政治改革を提唱しますが
それを怖れた 藤原時平の讒言により
醍醐天皇 は 菅公を 失職させ 太宰府に左遷します
延喜3年 (903年) 2月25日 菅公が 薨去 します
その後 菅公 の 左遷にかかわった人物の相次ぐ突然死や 疫病など
次々と降りかかる天災に 菅公 の祟りだとする 怨霊伝説が 広がり
それを 弔うために 全国に 天神社が 広まっていきます

朝廷 が 本当に 畏れたのは
隼人族 や 広嗣 や 菅公 の 祟りだったのでしょうか

そこには 朝廷 ( 畿内藤原王朝 ) が
かつて この国の源であった 筑紫九州王朝 の
すべての 財宝を奪い取り 史書を改ざんしてまで
歴史から 消し去ろうとした 蛮行に 硬く蓋をしようとした
隠された もうひとつの 歴史が みえます
その 恐れ 慄く様は 民の拠り所である 神 をも 変えてしまいます
日本全国 どこにでもある 神社と言えば
八幡社 であり 天満宮 です
何故 これ程まで 多くの 神社 が 必要だったのでしょうか
祟られた神 の 数だけで
無念にも 怨霊となった 死者たちへの 弔いは
終わるとでも 思ったのでしょうか




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筥崎宮 楼門の額




《 放生会 》とは

仏教の殺生戒に基づき 文字どおり 生きものを放ち

供養する儀式だといわれます

『 敵国降伏 』 筥崎宮 楼門 に 高く 掲げられている 額の文字です

社記には 醍醐天皇の 御宸筆と伝わっています

「 敵 国 」とは いったい どこの国 だったのでしょう

多くの人が 合わせる掌の中に この国の 未来が見えます

この国 の 真実の祈り とは 何なのでしょうか



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放生会 参道風景






by nonkei7332 | 2015-09-10 08:10 | 古代史 | Comments(2)




お便り ありがとうございました

毎日 お元気で お忙しくされている 御様子 安心しております

いつも 多くの事を 教えて頂き 感謝しております
学びながら 最近 つくづく 思う事があります
それは この国の 古代史は
多くの 悲しみ に満ちていたんだ という事です

昨日 NHKの 番組 「Switch インタビュー 達人達(たち)」で
コピーライターの 糸井重里さん が

『 蜘蛛の事を知ろうと思えば 蜘蛛の巣ごと蜘蛛を見ないと
本当の蜘蛛の事は わからない 』

こんな お話を して おられました 。

蜘蛛 といえば
殺されていった 多くの 〈土蜘蛛〉の 悲しみの向こうには
同じ 土蜘蛛 でありながら、殺さざるをえなかった
〈景行天皇〉や 〈神功皇后〉の 悲しみが 見えてきます
同じように
同じ 筑紫の民でありながら
消されていった 〈九州王朝〉 の そして
長い間 その 怨霊に怯え続けた
〈畿内王朝〉の苦しみも見えてきます

いにしえの 多くの 悲しみの 戦争と
父母が 語ってくれた あの 悲しみの戦争とは
いったい 何が違うと言うのでしょうか

悲しみを乗り越えて 今は この国は
こんなに 平和だと 誰かが言っています
それを聞いた ある 外国の人が こんな事を言っていたそうです

『 10年間 に 30万人もの人が 自ら命を落とす この国の 異常さを
この国の人達は ほんとうに わかっているのだろうか
この国では まだ あの 戦争が 続いている 』と

形は違えど この国の 悲しみの連鎖 は 今も 続いているようです

私達が 本当に知らなくてはいけない
この国の 魂とは 何なのでしょうね

先日 ブログの中に載せた 越後伝説 〈松山鏡〉
鏡の中に 映った 自分の姿を
母だと思って 健気に生きた少女の姿は
私達が 今 忘れかけようとしている
何かを教えてくれたような気がしています
糸井さんが いう 蜘蛛の巣が
見えなかった 蜘蛛の糸 が
少しだけ 見えたような気もしています

明後日 から 新学期 が 始まります
朝起きて 子供達を見護る 私のささやかな 幸せ が
やがて いつか 誰かに 繋がっていくことを祈りながら の
私の 一日が また 始まります

所用があって
本日のシンポジウム 参加できなくなりましたが
今後 ますますの ご活躍を お祈りしております
季節の変わり目 くれぐれも ご自愛を

満月の日に 感謝を添えて

磯良 より



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今年も デュランタの花 が綺麗です









by nonkei7332 | 2015-08-30 10:40 | 日記 | Comments(0)


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《 神功皇后 》の新羅出兵の際に訪れた

末盧国( 佐賀県唐津付近) での伝説に

『 鮎釣り伝説 』 があります

こんな内容です


『 新羅遠征を前にして 皇后は占いました
「新羅救援が成功するのであれば、魚よこれに食いつけ!」  
そう叫んで、飯粒のついた釣り針を川に投げ入れたところ、
アユ(鮎)が釣れまたので、神功皇后は確信しました。
「神々は我々に味方した!
必ずや、新羅救援は成功するであろう!」』



最初にこの話を聞いた時の 素直な疑問がありました
「なんで 魚釣りなの ?」
「なんで 鮎でなくちゃ いけないの 鯉ではだめなの?」
そんな折 綾杉さんの「ひもろぎ逍遥」の
〈 志登神社 2 〉の中で
賢人のこんな記事を見つけたのです

昔の人は外界の波に動じない海淵を沼津、或は志登と呼び、
星影のゆらめきを見て海の異変を察しておりました。
やがてこれが倭語の鯰(なまず)
即ち漢名の鮎魚(せんぎょ)と結び付き
地震鯰の説が通りだしたのかもしれません。』

なるほど なるほど
鮎 は 鯰 の事なんだ
だから 新羅に上陸した時に 大津波が起こり
皇后軍は 新羅に勝利したんだ
皇后 は 津波を予言したんだな
こんな理解で正解なんでしょうが どこか 納得できないものを
引きずったままだったのでした



柳田国男 の 『 海上の道 』という記事を文庫で読んで
新たな発見をしました


二十年も前に、
私は一時熱心に風の名の集録を心がけたことがある。
農民も決して風に無関心ではないが、その呼称の多くは
海の生活からの感化を受けている。・・・・
「万葉集」の末二巻の中には アユノカゼ に
東風の二字を宛ている
多くの国語辞典には この語を東風と註し、
それを ほかの方角の風とするものを方言と見下すらしいが、
アユ は 後世の アイノカゼ も同様に、
海岸に向いてまともに吹いてくる風、
すなわち 数々の渡航の船を安らかに港入りさせ、
または 種々の珍らかなる物を、
渚に向かって吹き寄せる風の事だった。
海から種々の好ましい物を、日本人に寄与した風の名を
〈アユ〉と呼んだ理由はこうして 説明し得られるが、
是が 日本海沿岸だけに広く伝わって
東や南に面した海辺には知られてないのは、
やはり海運史の問題であろう
一つの例として心づくのは、尾張の アユチガタ、
後には郡となりまた県の名にもなったが、
古くは年魚市(アユチ)とも字には書いて、
越中と同じにアユと発音していた。」


鮎 とは 東風 (アユ) であって

魚でも 鯰でも なく 『風の名前』だったのでした

おそらく 新羅遠征 の 先頭に立った 安曇族達の話を聞いた 皇后が

『 東風(アユ) は まだか ! 』といった言葉が

『 鮎 (アユ) はまだか !』 と 誰かが 聞き違えたのでしょう

愛知 は 年魚市(アユチ) が 訛った 地名だったのですね



《 東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉の海人(あま)の
釣りする小船(おぶね) 漕ぎ隠れ見ゆ 》

万葉集17巻4017 大伴家持


〈訳〉
東風(あゆのかぜ)が 強く吹くみたいです
奈呉(なご=地名)の海人たちの
釣り船が波間にゆらゆらと見え隠れしています




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祇園祭り 「 鮎釣山 」



祇園祭りの 山鉾には『鮎釣山』という鉾があります

神功皇后が 肥前国松浦で 鮎を釣って

戦勝の兆としたという説話によるものだと言われています



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福岡市出身 『 浜崎あゆみ 』さん





アユ が ナマズ だなんて 誰が言ったんだ !!









by nonkei7332 | 2015-08-28 15:24 | 古代史 | Comments(2)


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土蜘蛛草紙絵巻 東京国立博物館




『「九十九」を 筑紫では「つくも」と読ませる
昔は《土蜘蛛》を尊敬して 親分を太白、子分を小白と呼んだ
「つくも」とは九を重合対立させた形で「つちくも」の略だった 』

筑紫の賢人 (真鍋大覚氏) は こう述べています

《 土蜘蛛 》と呼ばれた 古代氏族 が この国にはいました
というより 新たな新天地を求めて 海を渡ってきたのでしょう
彼等は 高度な鉱山技術をもった 産鉄の民でした
どこから 来たのかというと それは
「九十九の国」「白の国」「斯蘆国」 つまり「新羅国」です
新羅から来たといえば 出雲の スサノオ ですが
「雲」と「蜘蛛」同じ 出自 をもった氏族だったのでしょう
やがて 古出雲 と呼ばれる 筑豊の香春岳付近 に
この氏族は住み着くことになります
土蜘蛛 の里は 倭国 筑紫の国 だったのです
産鉄の民 は 新たな文化をこの国にもたらします
と同時に これらの技術を 背景とした 国ができ
やがて その支配権を争奪せんとする
国同士の争いとなっていくのでした
この国の 古代史 のすべてがここにあると言ってもいいでしょう

〈土蜘蛛〉〈鉄の民〉の
悲しみの歴史が始まります

12代天皇といわれる 景行天皇 は
九州各地の 土蜘蛛 を我が物にせんと
各部族に 過大な要求を押し付けますが
拒否した 土蜘蛛たちの多くを殺していきます
〈日本書記〉や 〈豊後風土記〉〈 肥前風土記〉 などには
土蜘蛛の名が記述されています

《豊前国》
神夏磯姫(かみなつそひめ)・鼻垂(はなたり)・耳垂(みみたり)・
麻剝(あさはぎ)・土折猪折(つちおりいおり)・ 葛築目(くずめち)

《豊後国》
速津姫(はやつひめ)・ 青 ・ 白 ・打猴(うちさる) ・八田(やた)
・國摩侶 ・小竹鹿奥(しのかおさ) ・ 小竹鹿臣(しのかおみ)

《肥前国》
大山田女 ・狭山田女 ・打猴(うちさる)・海松橿姫(みるかしひめ)
大身・ 大耳・垂耳(たりみみ)・八十女(やそめ)
大白・中白(なかしろ)・小白(おしろ)・速来津姫(ハヤキツヒメ)
浮穴沫姫(うきあなわひめ)・鬱比表麻呂(ウツヒオマロ)

これらの 土蜘蛛 のなかには 神夏磯姫 や 速津姫 のように
仲間を裏切り 苦しみの中で 生き残る事を選んだ 族長もいました

やがて 14代 仲哀天皇の頃になると
生き残った 土蜘蛛族が 勢力を取り戻していきます
熊襲の後胤 《羽白熊鷲》(はじろくまわし) は
秋月を本拠地とする「白の国」の族長でしたが
仲哀天皇に 反旗を翻し 仲哀天皇を 矢で倒したのですが
仲哀の皇后だった 神功皇后 に 滅ぼされてしまいます
筑後の土蜘蛛族の首長であった 葛築目の後を継いだのは
香春岳の 《田油津姫》(たぶらつひめ) でした
神夏磯姫 の後胤 〈夏羽〉の妹でした
神功皇后軍 は 田油津姫 を たおし 応援に駆けつけた 夏羽をも
滅ぼしてしまったのです

こうして 王朝の基盤は 落ち着き 土蜘蛛族は朝廷の中に組み込まれて
独自の地位を占めていきます
朝廷も 産鉄の資源を国内から 国外に求めるようになり
半島をめぐって 新たな 争いに 巻き込まれていくのでした



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老松神社 蜘蛛塚
「空 sora そら」さんのブログより



土蜘蛛の 悲しみの霊魂は 各地の神社に祀られ ます
みやま市瀬高町にある 『老松神社』には
田油津姫の墓といわれる 「蜘蛛塚」があります
説明板によると 往時は「女王塚」と呼ばれていたとあります
葛築目の墓だったのかもしれません
土蜘蛛族 の首長には 女性が多いのは なぜでしょうか
記紀等に伝わる 古代朝鮮からの渡来人または渡来神といえば
「天之日矛」(アメノヒホコ)ですが
伝説によれば
その妻であった「阿加流比売」(アカルヒメ) は
日の神に仕える 巫女であったといいます
鬼道をつかって 倭国を治めた 卑弥呼 も 巫女でした
「土蜘蛛の女王」であった 田油津姫 と だぶって見えるのは
私だけでしょうか

民俗学者 柳田國男 は

人が 神になるには 二つの条件を満たさねばならない
一つは その人が 生前人並みはずれた 存在であること
もう一つは その人が怨念を残すような不運な死に方をすること 』

と 述べています


やがて この国の 歴史は

土蜘蛛の 怨念を 畏れ

多くの 『神』をつくることになります










by nonkei7332 | 2015-08-23 00:21 | 古代史 | Comments(0)