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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

タグ:古代史 ( 93 ) タグの人気記事


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初烏 (牡丹品種)




夕やけこやけで 日が暮れて

山のお寺の 鐘がなる

お手々つないで みなかえろ

からす と いっしょに かえりましょ


童謡の『夕焼け小焼け』です

日本人なら だれでも目に浮かぶ 原風景がここにあります

烏(からす) は 昔から 山の神のお使い だと言われていました

今では 嫌われ者の カラス も 昔は

人々を導く 御崎(ミサキ)神 と 呼ばれていたのです



初烏(はつがらす) というのは

元日の朝早く鳴く 烏のことを言います

冬の季節を表す 特に 元旦のおめでたい日の 季語 として使われます

元旦の宮内庁の朝賀や 即位式には 紫宸殿の南には

威儀を加える用具として『烏形幢』(うぎょうどう)という幢が

飾られます 三本足の烏 ヤタガラス です


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明治天皇御即位式図屏風
(ネルソン・アトキンス美術館蔵)


全国の神社でも 烏神事 が残っています

〈名古屋の熱田神宮〉〈近江の多賀大社〉〈安芸の厳島神社〉では

カラスに神饌 を供して年占をする 御鳥喰神事(おとぐいしんじ)が

今でも 行われています

神社以外でも東北や越後の 家々では

正月十一日の農立ての日の朝 今年苗代にしようと思う田に行って

初鍬をいれ 三ヶ所に 餅と神酒・洗米とを供えて

これを早稲・中稲・晩稲の三通りに見立てて置きます

そして 大きな声でオミサギ・オミサギと喚ぶと直ぐに烏が飛んで来て

その餅をくわえて行きます どの餅を先に持って行くかを見て

三種いずれの稲が本年は当り作であるかを決めるという

《烏勧請》(からすかんじょう) という 風習が残っているそうです


神々の御崎(ミサキ) としての カラス もまた 神を導く鳥として

人々に 敬われていたのでしょう



こういった 神事や風習 が古代史の謎解きをしてくれます

まずは 熱田神宮をはじめ この神事が残っている神社は

何れも 安曇族(海人族) と縁のある神社ばかりです

海人とカラス の繋がりでいえば

海に出た海人達が

霧の立ち込めた海で 陸を探すとき 舳先から カラスを放って

飛んでいった方を陸地だとした という話があります


海神 八咫烏(ヤタガラス) といえば


安曇の祖神 豊玉彦 です

神武天皇(九州王朝) を 支えた 御崎神 だったのでした


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初烏 (花菖蒲品種)


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初烏 (桜草品種)








by nonkei7332 | 2016-01-14 18:13 | 日記 | Comments(0)


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伏見稲荷大社




京都盆地 の東山の西麓地区 を 伏見深草 と言います

伏見は かつて「伏水」と言われていたように


地下水系が豊富な土地で 昔から 酒造りなどが行われています

深草は 草が深く生い茂る 湿地帯だったようで その後

秦氏が 中心になって ここを 開拓し

豊かな 農地へと 変わっていったのでした

平安の頃には 官人たちの別荘地になり

中世には 京都の中心地として発展していきます


この地に鎮座するのが 『伏見稲荷大社』です


祭神 は 五柱です

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)

佐田彦大神

大宮能売大神

田中大神

四大神(しのおおかみ)


秦氏の 秦伊呂具が 和銅4年(711年) に建てたと言われていますが

もっと古くは 稲荷山の山そのものが祀られていたようにも思えます

稲荷 とは何なのかに その答えがあるようです

秦氏が行った 低湿地の灌漑や治水には 欠かせない道具がありました

それは 鉄器 です 鉄製の鍬や鋤 があってこそ その事業ができたのです

それは どこで作ったのか

私は この稲荷山 こそ 産鉄の山だったと思っています

伏見稲荷大社の秋の祭り〈火焚祭り〉は

別名「ふいご(鞴)祭り」というそうです

ふいご とは タタラ製鉄において 炉口に風を送る道具です

鍛冶の神を祀った 祭りだったのでしょう


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千本鳥居





秦氏以前 この稲荷山周辺を治めていた

氏族が住んでいたとされています

その氏族とは 紀氏 でした

奈良時代 深草は〈紀伊郡深草郷〉と呼ばれていました

このあたりは 紀氏一族が 拠点としていた土地だったのです

深草の南 に 藤森神社があります

藤森神社は スサノオを初めとする多くの祭神が祀られていますが

紀氏の先祖を祀る神社だともいわれているのです


紀氏 の祖先は 〈姫氏〉とも呼ばれます

中国呉の国を追われた 海人族です

熊本 有明海沿岸 背振山南麓(佐賀武雄から鳥栖市)に流れ着いた

いわゆる 狗奴国 の祖先です

それは 神武・卑弥呼 と続いていく系統です

主に 稲作を伝えました

もうひとつの姫氏の 流れがあって 呉から 黄海を渡り

半島新羅経由で 背振山北麓(糸島)に住み着いた 海人族です

スサノオ(天日鉾)・宇迦之御魂(出雲国造)・野見宿禰 土師氏と流れる

新羅系の出雲族と呼ばれる 人達です

主に 製鉄の技術を伝えました


伏見大社の本殿前に 狐の像が左右二頭 たっています

一匹は稲穂を咥えています

もう一匹は 巻物(暦) を咥えています

鉄の民は 暦をよむ民でもありました

姫(紀)氏が この国に伝えた 稲と鉄 を象徴しているのです


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本殿前の狐像




佐賀県東部の基山町 という町に 基山(404m)という山があります

スサノオが新羅から持ってきた木を植林したとの伝説があります

この周辺の山麓を 〈基の国〉といっていていました

呉狗国 紀氏 の本拠地であったとされ 付近には 多くの墳墓があり

あの 吉野ヶ里遺跡もこの近くなのです

姫の国(呉) が 基の国となり 後世 紀の国 と呼ばれたのでしょう


私には 基山 と 稲荷山が 同じように 見えてきます


基山近くに残る 昔話に 「ふたりの長者」という話があります

田中長者 と 虎丸長者 の話なのですが

伏見大社の謎の祭神 「田中大神」とダブりますね

「田中大神」とは 筑紫の神だったのでしょうか

(詳しくは 拙ブログ 1/19 「ふたりの長者」を見てください)


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基山からの 展望



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稲荷山からの展望





もうひとつの謎は 秦氏とともに この地に住み着いていた

《土師氏》(はじし) の存在です

土師氏については 神話や 記紀には

天日鉾(スサノオ)・野見宿禰 ・土師氏 と繋がる系統だとされています

垂仁天皇の頃の話に

皇后の葬儀の時に 殉死を憂いた 垂仁天皇に 野見宿禰が

埴輪を埋める事を提案したことで 土師臣 の姓を与えられ

土師氏は 代々天皇家の 古墳造営を含めた 葬送儀礼全般に 仕切った

とされています その後は 朝廷が仏教を庇護した為に

古墳造営も無くなり やがては 勢力も衰えていきます

桓武天皇の時に 一族は 土師氏の改名を嘆願し

大江氏・秋篠氏・菅原氏 の姓をうけ 官職につきます

後世 祟りの神として 畏れられた

菅原道真公 の 祖先は 土師氏 だったのです


秦氏と 同じような出自の 氏族でもあり

同じように 歴史から 消えていった 土師氏

土師氏は 秦氏 の裏の顔 かもしれません

山に入り 来る日も来る日も 鉄を造り続けた 鍛冶の民

土蜘蛛と呼ばれ そして 鬼と呼ばれ 殺されていった 悲運の民

〈修羅〉を引きずりながら 偽りの墳墓をつくり続けた 土師の民

やがては 傀儡の民となって 歴史の表舞台から消えた

悲しみの民でした


福岡の 嘉穂郡桂川町には 土師老松神社 があります

土師氏の里としての伝承が 多く残っています

重文の「土師獅子舞」は 海を渡ってきた 獅子が舞われ

呉狗の民の 末裔を 匂わせています

近くには 「出雲」の地名が残っていて

古出雲はこの辺りではなかったのかと 思えてなりません



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伏見人形





深草の地には 多くの 土師の民が住んでいたとされています

深草土師氏は 元来 鉄の民 鍛冶の民 だったのですが

後世 この地で取れる 良質の粘土で 多くの 瓦や土器をつくります

その後 稲荷神社の 参拝者土産に作った 伏見人形は

日本の最古の土人形だと言われ 稲荷信仰の拡大と共に

全国に広まり 全国各地の 郷土人形へと繋がっていったのでした



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稲荷山 山麓





伏見深草 に鎮座する 稲荷の神は

遠く 古代中国の 姫氏 が祀った 神でした

それは 遠き海を渡ってきた 稲穂の神であり

多くの富と戦をもたらした 産鉄の神でもありました

筑紫の民であった 秦氏 そして 土師氏

九州倭国 の 神々 を ここにも 祀ったのでしょう








by nonkei7332 | 2015-12-14 17:27 | 京都 | Comments(0)


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今宮神社 楼門



どんより曇った空だったが


『 お父さん 雨はふらないと思うよ 』という


嫁 の 言葉を信じて 傘を持たずに 出た



地下鉄烏丸線で四条で降り

上賀茂神社行きの4番のバスに乗る 千本木通りを 北へ 向かう

佛教大学キャンパスを過ぎると 右折して 今宮通り

なだらかな坂を下り 下り終わったところが 今宮神社だった

紫野 (むらさきの) と呼ばれた この辺りは

昔から 洛北七野


( 内野・北野・平野・萩野・蓮台野・紫野・上野 )


と 呼ばれた丘陵地で


朝廷の禁野 として 御猟や遊覧の野原だったという



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真っ赤な楼門が ひと際目立つ 『今宮神社』

左右に大きな提灯と 簾が旗めく

なんと なんと 『三階松』の社紋なのだ



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本殿

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この社 の由来をみると

平安京遷都の前には 年代はわからないが

スサノオを祀った 疫神社 だったらしいく八坂神社と同じように

たびたび起こる 疫病や災厄 を鎮める為の 「御霊会」が営まれ

「紫野御霊会」と呼ばれたようだ

祭神は 〈大己貴命〉〈事代主命〉〈奇稲田姫〉の 三柱

今宮というのは 新たに設ける宮 という意味で

何か今宮という神 が 存在するわけではないと教えていただいた

近くの 賀茂社 よりも 八坂神社に近い 神社なようだ

朝廷の 崇敬は厚く 社殿の修復なども繰り返されている

武家からの 崇敬も特に厚く

秀吉は 秀頼公出生の年には 御座所 を設けている

江戸時代には 氏子に中で 西陣の機業 が発展し

この地に生まれた 桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母) は

西陣への愛郷の念が強く 祭事の復興や 神域の整備に 大いに努めたようだ

特に 末社 の 「織姫社」の 祭神は 『栲幡千千姫命』

高皇産霊命 の女で皇祖天之忍穂耳尊の妃であり

天火明命と邇邇芸尊の御母にあたる

豊秋津姫 (とよあきつひめ)だとされる

西陣の人たちには 織物の祖神として強く敬われている



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楼門の右手に 摂社 「宗像社」がある

お目当の 台座には 鯰の彫り物が あった

狗奴国の鯰が ここにも かと 考えると 想いが深い



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左手の斜面には 摂社「月読社」

階段は 朱色い紅葉の絨毯

雨に濡れた 木々も 美しい



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末社 月読社

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社務所で 売られている 御守りの 「やすらい人形(ひとがた)」

朱い 人形には 「蘇民将来子孫也」の文字が書いてある

氏子達の 家々には このお札が 貼られているのだろうか



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婚礼の パンフレット撮影なのか

後を追っかけてみた



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東門前にある 今宮名物 「あぶり餅」の店

かざりや屋さん と 一和さん

「あぶり餅」は 親指大のお餅にきな粉をまぶしてから

炭火であぶり 甘辛い白味噌だれをたっぷり絡ませたもの



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小糠雨に濡れながら

洛北紫野 を 大徳寺に向かった








by nonkei7332 | 2015-11-28 08:30 | 京都 | Comments(2)


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博多松囃子





『博多どんたく港まつり』

5月の連休に行われ 200万人もの人が集まる

博多の祭 〈どんたく〉 の 正式名称です

ところが この 〈どんたく〉と言い出したのは 明治以降で

それまでは 『博多松囃子』と言っていました

それも 5月ではなく 正月の行事だったのです

古来から 正月になると 門松をたてます

その年の新しい神様が松に降りてくるといわれていました

松囃子 は その松を伴って それぞれの 領主に年賀挨拶をする

行事として始まったとされます 室町時代だといわれますが

その 起源は 定かではありません もっと古いのかもしれません


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博多町家館 より



謡曲に 『蘆刈』という演目があります

この話は 仁徳天皇のころ 〈津の国難波の都・博多〉の話です

貧困の為 別れた夫婦がいました その後 妻は高貴な家の乳母となり

夫を探しに筑紫の国にきます そこで 蘆売りとなっていた夫と巡り会い

二人で 都に帰って行ったという話ですが

蘆売りの夫が 蘆を売るために 昔からの歌を賑やかに囃して謡います


名に負う梅の花笠、難波女の被く袖笠、

肘笠の雨の蘆辺も乱るるかたを波、彼方へざらりこの方へざらり、

ざらざらざっと風の上げたる古簾、つれづれもなき心よ、



津の国 難波の春は 夢なれや



仁徳天皇善政 と 筑紫の国の華やかさを歌っているのです

その風景こそ 〈博多松囃子〉の いにしえの風景に見えてくるのです

梅 ・ 松 ・ 笠 これは 九州王朝の象徴でもあります


囃子の語源をたどると はやす(生やす) に繋がります

〈囃す〉は 増殖させる 増やす 豊にする の意味でもあります

『松囃子』の意味するものは

松である かつての 九州王朝を 偲び その思いを拡げていく

祭りではなかったのでは ないでしょうか



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京都今宮神社




京都の北に 《今宮神社》があります

ここでは 京都の三大奇祭 と呼ばれる『やすらい祭』があります

因みに あとの二つは 鞍馬寺の「鞍馬の火祭」そして

広隆寺の「太秦の牛祭」ですが ここでは ふれません

「やすらい祭」は 古来より疫神を鎮めるために行われていました

由緒によれば

『 神祇官の「鎮花祭」と「御霊会」が結びついた「花のまつり」で、

花の精にあおられて 飛散する悪魔の精霊を

囃子や 歌舞によって追い立てて 風流傘に宿らせ、

紫野ノ社に送り込んで神威を仰いで降伏させる 』

と 書かれています

元々は 3月に行われていました 花笠や若松もでてきます

博多松囃子 に よく似ています

やすらい を 「夜須礼」と書くそうです

『夜須に礼をつくす』という意味なのでしょうか



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やすらい祭



『夜須』といえば 日本書紀に

「神功皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峽宮に遷りたまふ」

とあります その後 羽白熊鷲を征服した 神功皇后は

「我が心則ち安し(やすし)」といったので

この地を「夜須」というようになったいう 伝承があります

夜須町は 筑前市 と名を変えましたが

松峡宮 とされる 跡地には

松峡八幡宮(まつおはちまんぐう)が鎮座します


明治以前においては 博多の松囃子が

朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もあるのです

( 文献として 残っているかどうか 調査中 )



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松峡八幡宮 ( 空 sora そら さんのブログより)



気になる 都市伝説を ひとつ

京都弁で 「おいでやす」「おこしやす」というように

語尾に 「やす」という言葉を使いますがが 宮廷言葉からきたもので

「やす」は 「夜須」が語源だとの事



京都 今宮神社の 「やすらい祭り」 の 発祥は 博多の「松囃子」

京都 下鴨神社の 「葵祭り」の 発祥は 背振神社の 「賀茂まつり」

あとひとつの 謎解きは

京都 八坂神社の 「祇園祭り」の 発祥は・・・


博多 櫛田神社の 「博多山笠」?。



京都の謎 と 妄想は どこまでも 続いていきます。







by nonkei7332 | 2015-11-23 16:57 | 古代史 | Comments(4)


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下鴨神社





平安遷都 前の 京都 には

筑紫の古代氏族 ・秦氏(宗像) ・土師氏(筑豊) ・賀茂氏(背振)

が多く住みついていました

桂川流域 の 秦氏の 松尾神社

鴨川流域 の 賀茂氏の 下鴨神社

南部伏見深草 の 土師氏の 伏見稲荷神社

この三つの 神社を通して

遠き 筑紫王朝の 面影を追うのが

今回の京都行きの旅の目的でもあります


下調べで 下鴨神社 の 賀茂氏 を探ってみました


筑紫の賢人(真鍋大覚さん) の

『灘の國の星』にはこんな記述があります


天智天皇 は 662年、筑紫の長洲宮に遷都された。

そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。

天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、

筑紫と同じ「葵祭」を催行された。

こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、

故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。

「背振神社」は京都「賀茂神社」に、

「現人神社」は大阪の「住吉大社」に

生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。

そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、

細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。

これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。

玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。

ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を

模した品にほかならないのと同じです。


土産のおこし や 京都名物「八つ橋」起源が 背振 にあったとは驚きです

もうひとつ 「下鴨神社」の名物に 「みたらし団子」があります

「御手洗」を みたらし と呼びます

綾杉さんの「志賀島歴史講座」で 志賀海神社沖津宮の浜あたりを

〈御手洗〉という地名だと知りました

イザナギが 黄泉の国の穢れを洗い清めた 禊の地 だと聴きました

今では どの神社には 手と口を濯ぐ 〈御手洗〉がありますが

下鴨神社境内には 瀬織津姫を祀る 御手洗社という末社があり

その前にある 御手洗池では 1年ごとに 禊の儀 が行われるそうです

みたらし団子の起源は 後醍醐天皇が参詣の時

この池に浮かぶ五つの泡にちなんで 団子の数が5個になったとも

人の身体の五体から 5個になったとも 言われているそうです

今度 街中で みたらし団子を 食べるときは

ほんとうに 5個 有るのか 確かめてみましょう



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志賀海神社沖津宮 と 御手洗浜




さてさて 下鴨神社の正式名称は 『賀茂御祖神社』

祭神は 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

神武東征の際 八咫烏(やたがらす)に姿を変えて 神武天皇を

導いた あの謎多き 神です


ヤタガラス と言えば 日本サッカー の旗印でもある

三本足の からすです

韓流ドラマ「朱蒙」(チュモン) には

高句麗の国鳥であった 三本足のからす が

画面には たびたび 出てきたのでよく覚えています


この 八咫烏 という鳥 は いったい どういう 鳥だったのでしょう


筑紫の賢人は 『灘の國の星 拾遺』でこう書かれています

烏鵲 (うじゃく) (カササギの別名) は

干潟の冠水の有無遠近を見さだめる鳥として

昔は 旧約聖書のノアの洪水の神話の時代からしられていた

縄文弥生の祖先は 烏鵲と共に干潟の開拓に努めてきたのである

神代には 賀茂の氏族は 八咫烏(やたがらす)を伴として

日々を過ごしていた

今、肥前に棲む 『かちがらす』即ち『かささぎ』は

まさに その生きた化石というべきである

有明の干潟にいる「むつごろう」なる 鯊(はぜ)を餌としていたが

干潟が稲田となった今日では 全く無縁になるまでに

三千五百年以上の歳月をようしたことになる。


八咫烏 は カササギ の事であり

背振山山麓の肥前 に 起源を持つ 賀茂族 の 祖神 だったのです


現在 カササギ は 天然記念物 として

福岡の筑後 や 佐賀県に 生息しています


下鴨神社 は 肥前背振山麓 の 賀茂の祖神

「賀茂建角身命」を 祀る 神社でした

背振神社 の 「葵祭り」が

京都三大祭りの 賀茂社 の「葵祭り」の起源 だったのです



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背振神社 下宮




賀茂建角身命 なる 人物 が 八咫烏 だと言われていますが

安曇磯良 の 母が あの 鴨玉依姫 その父が 『豊玉彦』


この 『豊玉彦』こそが 八咫烏 であったという 説があります


神功皇后 に 仕えた 安曇磯良

神武天皇 に 仕えた 豊玉彦

九州王朝 を 支えた 安曇族


これで すべてが 繋がったみたいですね。















by nonkei7332 | 2015-11-10 20:13 | 古代史 | Comments(2)


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時々 君たちの夢を見ます

いまでは 37才 と 35才 のいい歳の親父になっているのに

夢の中に出てくる 君たちは

いつも 小さな子供だった頃の夢ばかりです

時々 送ってくれる 子供達(孫) との写真を見るたびに

そういえば 私にも こんな頃が あったなと

昔の写真を 探しては 失われていく 記憶を呼び戻しています

君たちが はしゃいでいる 昔の写真です

家族で 阿蘇に旅行に 行った時のスナップです

小さな旅でしたが 覚えていますか?

泊まった宿は 乙姫のペンション村 でしたね

丸太でできた 中二階の部屋を 君たちは 走り回っていました

乙姫ペンション村 なんて 洒落た名前をつけたもんだとしか

あの頃は 思っていませんでしたが

阿蘇の古代を紐解いていて 最近 わかったことがあります

近くに 乙姫神社 があります

祀られている祭神は 阿蘇の神々の母神 『蒲池媛』でした

( 9/30 の ブログ 「蒲池媛の謎」参照 )



ピンクスポット 〈乙姫神社〉ブルースポット 〈乙姫ペンション村〉


阿蘇神話 には 健磐龍命(たけいわたつのみこと) がいます

健磐龍命 は 阿蘇の開拓に携わった 豪族で 神武天皇の孫になります

全国にいくつかある 「蹴裂伝説」が残っています


《 昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であった

健磐龍命は湖の水を流して田畑を拓くことを考えました

満身の力で湖の壁を蹴り壊したのですが 湖の水は流れ出したものの

大鯰 が横たわり水の流れをせき止めてしまいます

健磐龍命はこの大鯰を退治して湖の水を流します

大鯰の流れて行った後は 白川 となり

大鯰は 《上益城郡嘉島町鯰》という

土地に流れ着いたと言われています》


乙姫についても 熊本の各地に 「乙姫伝説」が残っていますが

概ね 乙姫様が鯰に助けられる という ストーリーです

乙姫 といえば 「龍宮城の乙姫様」を思い浮かべるのですが

どこかで 繋がっているのかもしれません

〈熊本〉は 昔は 〈隈本〉といっていました

隈(くま)という字は 狗奴国 の 狗奴(くな)が訛ったものです

熊襲 もそうでしょう

隈 という地名は 熊本だけではなく 福岡の 筑後にも 筑紫にも

たくさん残っています 雑餉隈 月隈 などもそうですね

鯰の伝説 も 佐賀にも 糸島にも 那珂川町 にも 残っています

狗奴国(熊襲) の 勢力は広範囲の九州に及んでいたようです

鯰 の伝説の起源 は 遠く中国の呉の国 からきています

呉人の風俗に「提冠提縫」というものがあります

提とは鯰のことで 呉人は鯰の冠を被っていたとされています

嘉島町の鯰という場所は そういった 謂れがある

今でいう パワースポット でもあるのです

かつて この鯰の村に 戦国時代の 南熊本の守護大名

小西行長 の 陣跡があったときいたことがあります

小西行長は 有名な クリスチャン大名でしたので

南熊本や宇城や八代 の神社などの多くを焼き払ったと言います

おそらく 多くの古代からの歴史遺産 が失われたようです

鯰の地 にも 何かあったのではと 思っています

陣屋跡 を代々守ってきた 庄屋 には いまでも


年老いた 御夫婦 が 住んでおられます


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私が 自分のルーツを追っかけてきた 旅も


まだ 旅の途中 です


それは 君たちにとっての ルーツでもあるのですが


君たちには もうひとつの ルーツがあるのです


ふたつのルーツ は 遠い昔 はひとつのものでした


奴国 と 狗奴国 争いはしましたが


やがて 九州王朝 という きらびやかな


この国の始まりでもあったのです



来月 京都に 孫に会いに行きます


紅葉真っ只中の いい季節をえらびました


1000年の王朝 の煌びやかさの奥に隠された


1500年前の 筑紫の王朝 の面影を探す 旅 になりそうです




熊本県 上益城郡 嘉島町 鯰





by nonkei7332 | 2015-10-26 12:07 | ルーツ | Comments(2)


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今津湾岸 のヨット




博多湾沿い 唐津街道 を 西に向かう

姪浜をすぎると 今津湾沿いの

生の松原 長垂海岸と 白砂青松の 綺麗な海岸線 が続く

唐津街道 は 今宿から は 海岸線をはなれ 前原へと

糸島半島の田園地帯を 突き抜けるように 西へ 道が伸びていく

このあたり かつては 海峡であったといわれ

糸島の名前は 海を隔てた 怡土国 と 志摩国 から

怡土志磨 (いとしま) と呼ばれるようになったといわれている

伊勢・志摩(イセ・シマ)は この地の名前が 移ったものだ

天照大神が降臨したとされる(天の)岩戸が 天ケ岳の傍にある

桜井神社(岩戸宮)の裏手にある


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今津北崎 から 志賀島がみえる


『魏志倭人伝』には、伊都国と呼ばれた このあたり

「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。

そこの長官を爾支(にし)といい、

副官は泄謨觚(せつもこ)・柄渠觚(ひょうごこ)という。

1000余戸の家がある。世々に王があるも、

みな女王國に統べて属する

帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、

ここに常にとどまる場所である。」

また

「 女王国より北には、特別に一つの大率(だいそつ)を置いて

諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。

大率はいつも伊都国で政務を執り、

それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割を持っている。

王が京都(洛陽)や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、

帯方郡が倭国へ使者を遣わすときは、

いつも津(港)で、文書や賜与された物品を点検して、

伝送して女王のもとへ到着する時に、間違いがないようにする」

と書かれている


大率 と呼ばれた 王が 代々 この国の 政務を執行したとあるが

女王とは 卑弥呼 であって 大率の王は 神武天皇 だったのだろうか

この二人が 兄妹 であったという 説もある

とすると アマテラス は 卑弥呼であったというのも

おかしくもない


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北崎海岸より 能古島が見える 手前は 海釣り公園


そんなことを 考えながら 今宿から 海岸線を 北にむかった

入海にかかる 橋のたもとには ヨットが停泊し

今津 北崎 唐泊 に続く 白砂の綺麗な 海沿いを 楽しんだ


《 韓亭能許の浦 波立たぬ日はあれども 家に恋ひぬ日なし 》

万葉集 15巻 3670 遣新羅使

《 訳 》

韓亭(からとまり) の沖の 能古島の海に波が立たない日はあっても

家のことを恋しく想わない日はない


《解説》

韓亭 と 呼ばれた 唐泊の港は

遣隋使 遣唐使 遣新羅使 との 要港だった

沖の波が高いと 舟人は 何日も この場所に停泊し

海の鎮まるのをまったという 韓人が多く泊まる 宿もあり

人々は ここを 韓亭 と呼んだ


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半島の先端の町が 唐泊


志賀島 能古島 が 沖に見える 今津の浜・唐泊

ここは 磯良の海の 入り口だったのだ









by nonkei7332 | 2015-10-22 15:06 | 古代史 | Comments(0)

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岸和田 だんじり祭り




九州では 秋祭り を 「くんち」「おくんち」といいます

秋 の 豊穣収穫祭 です


起源 は 天皇が 五穀の新縠を 天津神 国津神に 捧げ

自らも食しその年の収穫に感謝する

〈新嘗祭〉(にいなめさい) だといわれています

現在でも 11月23日 に宮中や 各地の神社で 祭祀が行われ

「勤労感謝の日」として 国民の祝日 になっています

〈くんち〉の語源は 諸説ありますが

〈九日説〉が 主説でしょう つまり 旧暦の9月9日 (10月21日)

重陽の節句 にあわせて 祭りがおこなわれました

各地によって 多少 日程が ずれたりしますが

これが 元となっているようです


『三大くんち(九州三大秋祭り)』といえば

「長崎くんち」「博多おくんち」「唐津くんち」です


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長崎くんち 龍踊


《 長崎くんち 》(10月7日〜10月10日)


長崎市の諏訪神社の秋季大祭です

見どころは 各町の「奉納踊り」

各町の奉納踊りには 有名な「龍踊(じゃおどり)」や

「鯨の潮吹き」「御朱印船」「阿蘭陀万歳」などがあります

祭(くんち)の始まりは 江戸時代の寛永年間(17世紀)

二人の遊女が諏訪神社に舞を奉納したことだと言われています

その後 年々盛んになっていき さらに長崎という土地柄から

中国や南蛮文化の影響を受けました

この「長崎くんちの奉納踊」は重要無形文化財となっています



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博多おくんち 神輿渡御



《 博多おくんち 》(10月23日〜10月24日)


博多おくんち」は 博多の総鎮守である

櫛田神社の秋の例祭です

かつては収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)でしたが

昭和28年より 名称を変更して新たに祭礼を行うようになりました

神輿渡御や 稚児行列の他 五穀豊穣市 相撲大会などが催されています

昭和28年といえば 6月26日に 〈北九州大水害〉がおきた年で

北九州各地で1000名の死亡者を出しています

4月に起きた阿蘇山の噴火による 土石流と戦中戦後の森林乱伐が

被害を大きくしたと言われています




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唐津 曳山



《 唐津くんち 》(11月2日〜11月4日)


毎年11月に唐津神社で開催される

例祭「唐津くんち」は掛け声とともに

曳山が駆け抜ける勇壮な祭として知られています

その特徴はなんといっても 獅子

漆塗りの獅子頭を被って舞う「カブカブ獅子」の奉納や

大きな赤獅子 青獅子を乗せた曳山の巡行で知られています

唐津くんちは江戸時代に始まったと考えられていますが

この曳山は、文政2年(1819年)に

《石崎嘉兵衛》が伊勢参りの帰途に

京都で見た祇園 山笠をヒントにして仲間たちと

赤獅子をつくり奉納したのが始まりだといわれています

今では14基の曳山があり「唐津くんちの曳山行事」として

重要無形文化財となっています







by nonkei7332 | 2015-10-12 08:30 | 古代史 | Comments(0)

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中秋 の 名月

〈 空 sora そら 〉 さんの ブログ より




10月は 《 神 無 月 》(かんなずき) です

神無月 の 語源は

神を祭る月だから 「神の月」とする説が有力とされています

「無」は 「水無月」(みなずき) と同じく

「の」を意味する格助詞「な」です

中世の俗説には 10月に 全国の神々 が 出雲大社に集まり

諸国には 神がいなくなることから「神無月」になった説があり

出雲国 では 反対に「神有月」(かみありつき) と呼ばれています

その他の説では 雷の鳴らない月で「雷無月」が転じたとする説や

新穀で酒を醸す月なので「醸成月」が転じたとする説もあります


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筑紫の賢人 真鍋大覚さん は

著書 『 玄界灘の海上気象 』で

日本の神話発祥の地を 筑紫 背振山系 の 伊都国 であるとされ

筑紫に残る たたら鍛冶 の 砂鉄選別の 《 かんな流し 》を 示し

神無月 の 起源に言及されています

 

" かんな "

鋳物師間の用語で 砂鉄を選別する 水樋(すいひ) のことであり

木工具の " かんな " (鉋) はこれから 暗示されて

平面の削り出しに考案されたものである。

" かんな " は 女子の携わる作業として

かわのおみな(川女) の 転訛であろうか

背振山系の農家は 秋の彼岸に水を落とす。

すなわち 那珂川を堰でとめて水田に送る灌漑用水の

水門、取出口を開くのである。

稲の収穫はそれから始まる。

したがって 多量の河水を必要とする " かんな流し " は、

土砂 が 水田や溝渠 を埋没することを極度に忌避した 古代、

すなわち 素戔嗚尊の溝埋、畦放 以来、

すべての水の使用が出来、かつ 農閑期に入る


十月から ということになる。

これが おそらく 神無月 の 起源であろう。



【 語訳 】

水樋 (すいひ) ・・・ 水を流す管

素戔嗚尊の溝埋、畦放・・・記紀には スサノオ が アマテラスに

多くの 狼藉を働いたと記されています 溝埋(みぞうえ)とは

田に水を引くために設けた溝を埋めることで

水を引けないようにすることで 畦放(あはなち) とは

田に張っている水を、畔を壊すことで流出させることです




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井上陽水 さん



井上陽水 の セカンドアルバム〈陽水Ⅱセンチメンタル〉に

《 神無月にかこまれて 》という曲が 収録されています

ちょうど 私が 二十歳の頃

東京新宿の 三畳一間 の アパート で 飽きるほど 聴いていた曲です

まさしく この曲は 我が青春 の ポートレート でした



人恋しと泣けば 十三夜

月はおぼろ 淡い色具合

雲は月を隠さぬ様に やさしく流れ

丸い月には 流れる雲が

ちぎれた雲が よくにあう



風がさわぐ 今や冬隣り

逃げる様に 渡り鳥がゆく

列についてゆけない者に また来る春が

あるかどうかは誰もしらない

ただひたすらの 風まかせ



神無月に 僕はかこまれて

口笛吹く それはこだまする

青い夜の空気の中に 生きてるものは

涙も見せず 笑いも忘れ

息をひそめて 冬を待つ








by nonkei7332 | 2015-10-02 22:22 | 古代史 | Comments(0)

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西鉄大牟田線 蒲池駅 (かまちえき)



邪馬台国の女神 は 《 卑弥呼 》 だということは 誰でもが知っています

では 邪馬台国に敵対した 狗奴国 の 女神は と聞くと

そんな人 いたの と誰もが言うのではないでしょうか


そもそも 古代は 神代も人代も 何故 か 女神 や 女王ばかりです

男がだらしないというのは 今も 昔も 変わりはないのですが

何か 理由があるとすれば

それは 呉 から 移り住んだ 海人族の男たちは


忙しくて 単身赴任が 多かったからでしょうか

集落に女子供を残して あちらこちらの 海岸に 集落を開拓してまわり

屋根付きの 家船 に のった 漂泊民 となります

その 土地土地に 胤を残して 勢力を拡げるのに 頑張ります

一方 山に登った 鍛冶の男たちは 一心不乱にに 鉄を作ります

鍛冶場は 女人禁制 の場所 だったみたいです

ストレスがたまったのでしょうか いい鉄が作れなくて

イライラがつのると 里に下りては 時々 悪いことを したのでしょう

だから そんな出来事が重なって 鍛冶の男は 鬼 や 蜘蛛 と言われて

恐れられたのかもしれません


こんな 男たちはにとって 怖い存在といえば

《 地震・雷・大風・女房 》だったのでしょうか

とくに 女達の中には 自然を読み取る 憑依体質の 女性がいて

巫女として 占いや 祭祀をたずさわる ようになり

集団の中で 男達からも 一目置かれるようになります

やがて 小国達 をまとめるような 存在となったのが

《 卑弥呼 》では なかったのではないでしょうか

でも 卑弥呼であっても スーパーウーマン ではなかったみたいで

その 霊力が及ばないような 天変 があることもあって

集団の信頼を失っていった と 倭人伝には書かれています

やがて 卑弥呼が 亡くなると 小国家は混乱して 衝突が始まり

これが 《倭国の大乱》といわれる ものだったのではないでしょうか



「後漢書倭伝」に

「会稽の海外に その名は 東鯷人あり 分かれて二十余国を為す」

とあります

呉人 が 流れ着いた 東鯷国 は 八代から 宇土半島 そして

阿蘇 から 菊池地区 有明海対岸の肥前に至るまでの

広い土地を 治めていました

《 狗奴国 》(くなこく) ともよばれ

のちの世 隼人(はやと) や 熊襲 (くまそ) と呼ばれます

景明天皇や ヤマトタケル が征伐しようとした あの熊襲です

鯷 とは 鯰(なまず) のことで 鯰をトーテム とした 海人族でした

多くの神社には 鯰の伝説が残っていますね


この国に 一人の 女神がいました

その名を 《 蒲 池 媛 》といいます

阿蘇の母神 であり

肥前川上では 《 與止日女 》(よどひめ) と呼ばれ


多くの神社で祀られています

〈淀姫〉とも呼ばれ 〈世田姫〉ともよばれました



〈豊姫〉とも呼ばれ 神功皇后の三韓征伐にも 同行し

満珠干珠の玉を使って 勝利に導いたといわれます

まるで 豊玉姫 や 玉依姫 が重なりますね


実は 豊姫は 神功皇后の 妹 だったという説もあるんです



神功皇后の遠征を 満珠干珠の玉を使ったといえば 安曇磯良 です

高良玉垂宮 に 秘される 安曇磯良 の 妃 となった という説があります

なんと 奴国 の王 と 狗奴国の女王 が 繋がるというわけですから

私とすれば 鳥肌が立つような ゾクゾクする話なのですが

でも よく考えると 両国とも 呉人 を祖とするわけですから

不自然な事ではないないのかもしれませんね


海と川 を治める 女神ということでは

あの 〈瀬織津姫 〉も重なるんですね

〈瀬織津姫〉も 〈蒲池媛〉も 記紀には書かれることがなかった

隠さざるをえなかった 女神 だったのでしょうか


蒲池媛 の 謎 の極め付けは

卑弥呼の 後を継いで 諸国を平定した

13歳の少女《 宗女 台与 》(トヨ) です

蒲池媛 は 実は 卑弥呼宗女 トヨ(豊) だったという 説です

となれば 蒲池媛=トヨ によって その後 安穏な国がつくられ

倭の五王 に 続く 九州王朝 の全盛期 へと つながっていったのでしょうか


これらの 説 は 記紀には書かれていない 風土記 や

神社に遺る縁起 古い家々に遺る 家伝書 にのこる 伝承 なのですが

何が本当なのかは 誰にもわかりません


本当の真実 を 語れる人 は

今 この世には 誰もいないのです

もし 解き明かす人が 未来に 出てきたとすれば

その人は きっと タイムマシン にのって


その時代に 行って見てきた人なのです

これが 古代史の醍醐味 なんですね


《 筑後に 残る 蒲池媛 の謎 》

私が知る限り 現在の 蒲池媛 が 二人 います

ひとりは 名前 を

蒲池法子(かまちのりこ) といいます

もうひとりの名前は


蒲池幸子 (かまちさちこ) といいます


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松田聖子 (まつだせいこ)さん

本名 蒲池法子



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坂井泉水 (さかいいずみ)さん

本名 蒲池幸子

「ZARD」のボーカル

2007年5月 惜しまれながら 40歳の若さで亡くなりました









by nonkei7332 | 2015-09-30 13:30 | 古代史 | Comments(0)

by ヒサミツ