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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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今宮神社 楼門



どんより曇った空だったが


『 お父さん 雨はふらないと思うよ 』という


嫁 の 言葉を信じて 傘を持たずに 出た



地下鉄烏丸線で四条で降り

上賀茂神社行きの4番のバスに乗る 千本木通りを 北へ 向かう

佛教大学キャンパスを過ぎると 右折して 今宮通り

なだらかな坂を下り 下り終わったところが 今宮神社だった

紫野 (むらさきの) と呼ばれた この辺りは

昔から 洛北七野


( 内野・北野・平野・萩野・蓮台野・紫野・上野 )


と 呼ばれた丘陵地で


朝廷の禁野 として 御猟や遊覧の野原だったという



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真っ赤な楼門が ひと際目立つ 『今宮神社』

左右に大きな提灯と 簾が旗めく

なんと なんと 『三階松』の社紋なのだ



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本殿

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この社 の由来をみると

平安京遷都の前には 年代はわからないが

スサノオを祀った 疫神社 だったらしいく八坂神社と同じように

たびたび起こる 疫病や災厄 を鎮める為の 「御霊会」が営まれ

「紫野御霊会」と呼ばれたようだ

祭神は 〈大己貴命〉〈事代主命〉〈奇稲田姫〉の 三柱

今宮というのは 新たに設ける宮 という意味で

何か今宮という神 が 存在するわけではないと教えていただいた

近くの 賀茂社 よりも 八坂神社に近い 神社なようだ

朝廷の 崇敬は厚く 社殿の修復なども繰り返されている

武家からの 崇敬も特に厚く

秀吉は 秀頼公出生の年には 御座所 を設けている

江戸時代には 氏子に中で 西陣の機業 が発展し

この地に生まれた 桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母) は

西陣への愛郷の念が強く 祭事の復興や 神域の整備に 大いに努めたようだ

特に 末社 の 「織姫社」の 祭神は 『栲幡千千姫命』

高皇産霊命 の女で皇祖天之忍穂耳尊の妃であり

天火明命と邇邇芸尊の御母にあたる

豊秋津姫 (とよあきつひめ)だとされる

西陣の人たちには 織物の祖神として強く敬われている



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楼門の右手に 摂社 「宗像社」がある

お目当の 台座には 鯰の彫り物が あった

狗奴国の鯰が ここにも かと 考えると 想いが深い



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左手の斜面には 摂社「月読社」

階段は 朱色い紅葉の絨毯

雨に濡れた 木々も 美しい



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末社 月読社

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社務所で 売られている 御守りの 「やすらい人形(ひとがた)」

朱い 人形には 「蘇民将来子孫也」の文字が書いてある

氏子達の 家々には このお札が 貼られているのだろうか



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婚礼の パンフレット撮影なのか

後を追っかけてみた



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東門前にある 今宮名物 「あぶり餅」の店

かざりや屋さん と 一和さん

「あぶり餅」は 親指大のお餅にきな粉をまぶしてから

炭火であぶり 甘辛い白味噌だれをたっぷり絡ませたもの



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小糠雨に濡れながら

洛北紫野 を 大徳寺に向かった








by nonkei7332 | 2015-11-28 08:30 | 京都 | Comments(2)


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博多松囃子





『博多どんたく港まつり』

5月の連休に行われ 200万人もの人が集まる

博多の祭 〈どんたく〉 の 正式名称です

ところが この 〈どんたく〉と言い出したのは 明治以降で

それまでは 『博多松囃子』と言っていました

それも 5月ではなく 正月の行事だったのです

古来から 正月になると 門松をたてます

その年の新しい神様が松に降りてくるといわれていました

松囃子 は その松を伴って それぞれの 領主に年賀挨拶をする

行事として始まったとされます 室町時代だといわれますが

その 起源は 定かではありません もっと古いのかもしれません


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博多町家館 より



謡曲に 『蘆刈』という演目があります

この話は 仁徳天皇のころ 〈津の国難波の都・博多〉の話です

貧困の為 別れた夫婦がいました その後 妻は高貴な家の乳母となり

夫を探しに筑紫の国にきます そこで 蘆売りとなっていた夫と巡り会い

二人で 都に帰って行ったという話ですが

蘆売りの夫が 蘆を売るために 昔からの歌を賑やかに囃して謡います


名に負う梅の花笠、難波女の被く袖笠、

肘笠の雨の蘆辺も乱るるかたを波、彼方へざらりこの方へざらり、

ざらざらざっと風の上げたる古簾、つれづれもなき心よ、



津の国 難波の春は 夢なれや



仁徳天皇善政 と 筑紫の国の華やかさを歌っているのです

その風景こそ 〈博多松囃子〉の いにしえの風景に見えてくるのです

梅 ・ 松 ・ 笠 これは 九州王朝の象徴でもあります


囃子の語源をたどると はやす(生やす) に繋がります

〈囃す〉は 増殖させる 増やす 豊にする の意味でもあります

『松囃子』の意味するものは

松である かつての 九州王朝を 偲び その思いを拡げていく

祭りではなかったのでは ないでしょうか



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京都今宮神社




京都の北に 《今宮神社》があります

ここでは 京都の三大奇祭 と呼ばれる『やすらい祭』があります

因みに あとの二つは 鞍馬寺の「鞍馬の火祭」そして

広隆寺の「太秦の牛祭」ですが ここでは ふれません

「やすらい祭」は 古来より疫神を鎮めるために行われていました

由緒によれば

『 神祇官の「鎮花祭」と「御霊会」が結びついた「花のまつり」で、

花の精にあおられて 飛散する悪魔の精霊を

囃子や 歌舞によって追い立てて 風流傘に宿らせ、

紫野ノ社に送り込んで神威を仰いで降伏させる 』

と 書かれています

元々は 3月に行われていました 花笠や若松もでてきます

博多松囃子 に よく似ています

やすらい を 「夜須礼」と書くそうです

『夜須に礼をつくす』という意味なのでしょうか



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やすらい祭



『夜須』といえば 日本書紀に

「神功皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峽宮に遷りたまふ」

とあります その後 羽白熊鷲を征服した 神功皇后は

「我が心則ち安し(やすし)」といったので

この地を「夜須」というようになったいう 伝承があります

夜須町は 筑前市 と名を変えましたが

松峡宮 とされる 跡地には

松峡八幡宮(まつおはちまんぐう)が鎮座します


明治以前においては 博多の松囃子が

朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もあるのです

( 文献として 残っているかどうか 調査中 )



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松峡八幡宮 ( 空 sora そら さんのブログより)



気になる 都市伝説を ひとつ

京都弁で 「おいでやす」「おこしやす」というように

語尾に 「やす」という言葉を使いますがが 宮廷言葉からきたもので

「やす」は 「夜須」が語源だとの事



京都 今宮神社の 「やすらい祭り」 の 発祥は 博多の「松囃子」

京都 下鴨神社の 「葵祭り」の 発祥は 背振神社の 「賀茂まつり」

あとひとつの 謎解きは

京都 八坂神社の 「祇園祭り」の 発祥は・・・


博多 櫛田神社の 「博多山笠」?。



京都の謎 と 妄想は どこまでも 続いていきます。







by nonkei7332 | 2015-11-23 16:57 | 古代史 | Comments(4)


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下鴨神社





平安遷都 前の 京都 には

筑紫の古代氏族 ・秦氏(宗像) ・土師氏(筑豊) ・賀茂氏(背振)

が多く住みついていました

桂川流域 の 秦氏の 松尾神社

鴨川流域 の 賀茂氏の 下鴨神社

南部伏見深草 の 土師氏の 伏見稲荷神社

この三つの 神社を通して

遠き 筑紫王朝の 面影を追うのが

今回の京都行きの旅の目的でもあります


下調べで 下鴨神社 の 賀茂氏 を探ってみました


筑紫の賢人(真鍋大覚さん) の

『灘の國の星』にはこんな記述があります


天智天皇 は 662年、筑紫の長洲宮に遷都された。

そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。

天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、

筑紫と同じ「葵祭」を催行された。

こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、

故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。

「背振神社」は京都「賀茂神社」に、

「現人神社」は大阪の「住吉大社」に

生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。

そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、

細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。

これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。

玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。

ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を

模した品にほかならないのと同じです。


土産のおこし や 京都名物「八つ橋」起源が 背振 にあったとは驚きです

もうひとつ 「下鴨神社」の名物に 「みたらし団子」があります

「御手洗」を みたらし と呼びます

綾杉さんの「志賀島歴史講座」で 志賀海神社沖津宮の浜あたりを

〈御手洗〉という地名だと知りました

イザナギが 黄泉の国の穢れを洗い清めた 禊の地 だと聴きました

今では どの神社には 手と口を濯ぐ 〈御手洗〉がありますが

下鴨神社境内には 瀬織津姫を祀る 御手洗社という末社があり

その前にある 御手洗池では 1年ごとに 禊の儀 が行われるそうです

みたらし団子の起源は 後醍醐天皇が参詣の時

この池に浮かぶ五つの泡にちなんで 団子の数が5個になったとも

人の身体の五体から 5個になったとも 言われているそうです

今度 街中で みたらし団子を 食べるときは

ほんとうに 5個 有るのか 確かめてみましょう



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志賀海神社沖津宮 と 御手洗浜




さてさて 下鴨神社の正式名称は 『賀茂御祖神社』

祭神は 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

神武東征の際 八咫烏(やたがらす)に姿を変えて 神武天皇を

導いた あの謎多き 神です


ヤタガラス と言えば 日本サッカー の旗印でもある

三本足の からすです

韓流ドラマ「朱蒙」(チュモン) には

高句麗の国鳥であった 三本足のからす が

画面には たびたび 出てきたのでよく覚えています


この 八咫烏 という鳥 は いったい どういう 鳥だったのでしょう


筑紫の賢人は 『灘の國の星 拾遺』でこう書かれています

烏鵲 (うじゃく) (カササギの別名) は

干潟の冠水の有無遠近を見さだめる鳥として

昔は 旧約聖書のノアの洪水の神話の時代からしられていた

縄文弥生の祖先は 烏鵲と共に干潟の開拓に努めてきたのである

神代には 賀茂の氏族は 八咫烏(やたがらす)を伴として

日々を過ごしていた

今、肥前に棲む 『かちがらす』即ち『かささぎ』は

まさに その生きた化石というべきである

有明の干潟にいる「むつごろう」なる 鯊(はぜ)を餌としていたが

干潟が稲田となった今日では 全く無縁になるまでに

三千五百年以上の歳月をようしたことになる。


八咫烏 は カササギ の事であり

背振山山麓の肥前 に 起源を持つ 賀茂族 の 祖神 だったのです


現在 カササギ は 天然記念物 として

福岡の筑後 や 佐賀県に 生息しています


下鴨神社 は 肥前背振山麓 の 賀茂の祖神

「賀茂建角身命」を 祀る 神社でした

背振神社 の 「葵祭り」が

京都三大祭りの 賀茂社 の「葵祭り」の起源 だったのです



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背振神社 下宮




賀茂建角身命 なる 人物 が 八咫烏 だと言われていますが

安曇磯良 の 母が あの 鴨玉依姫 その父が 『豊玉彦』


この 『豊玉彦』こそが 八咫烏 であったという 説があります


神功皇后 に 仕えた 安曇磯良

神武天皇 に 仕えた 豊玉彦

九州王朝 を 支えた 安曇族


これで すべてが 繋がったみたいですね。















by nonkei7332 | 2015-11-10 20:13 | 古代史 | Comments(2)


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時々 君たちの夢を見ます

いまでは 37才 と 35才 のいい歳の親父になっているのに

夢の中に出てくる 君たちは

いつも 小さな子供だった頃の夢ばかりです

時々 送ってくれる 子供達(孫) との写真を見るたびに

そういえば 私にも こんな頃が あったなと

昔の写真を 探しては 失われていく 記憶を呼び戻しています

君たちが はしゃいでいる 昔の写真です

家族で 阿蘇に旅行に 行った時のスナップです

小さな旅でしたが 覚えていますか?

泊まった宿は 乙姫のペンション村 でしたね

丸太でできた 中二階の部屋を 君たちは 走り回っていました

乙姫ペンション村 なんて 洒落た名前をつけたもんだとしか

あの頃は 思っていませんでしたが

阿蘇の古代を紐解いていて 最近 わかったことがあります

近くに 乙姫神社 があります

祀られている祭神は 阿蘇の神々の母神 『蒲池媛』でした

( 9/30 の ブログ 「蒲池媛の謎」参照 )



ピンクスポット 〈乙姫神社〉ブルースポット 〈乙姫ペンション村〉


阿蘇神話 には 健磐龍命(たけいわたつのみこと) がいます

健磐龍命 は 阿蘇の開拓に携わった 豪族で 神武天皇の孫になります

全国にいくつかある 「蹴裂伝説」が残っています


《 昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であった

健磐龍命は湖の水を流して田畑を拓くことを考えました

満身の力で湖の壁を蹴り壊したのですが 湖の水は流れ出したものの

大鯰 が横たわり水の流れをせき止めてしまいます

健磐龍命はこの大鯰を退治して湖の水を流します

大鯰の流れて行った後は 白川 となり

大鯰は 《上益城郡嘉島町鯰》という

土地に流れ着いたと言われています》


乙姫についても 熊本の各地に 「乙姫伝説」が残っていますが

概ね 乙姫様が鯰に助けられる という ストーリーです

乙姫 といえば 「龍宮城の乙姫様」を思い浮かべるのですが

どこかで 繋がっているのかもしれません

〈熊本〉は 昔は 〈隈本〉といっていました

隈(くま)という字は 狗奴国 の 狗奴(くな)が訛ったものです

熊襲 もそうでしょう

隈 という地名は 熊本だけではなく 福岡の 筑後にも 筑紫にも

たくさん残っています 雑餉隈 月隈 などもそうですね

鯰の伝説 も 佐賀にも 糸島にも 那珂川町 にも 残っています

狗奴国(熊襲) の 勢力は広範囲の九州に及んでいたようです

鯰 の伝説の起源 は 遠く中国の呉の国 からきています

呉人の風俗に「提冠提縫」というものがあります

提とは鯰のことで 呉人は鯰の冠を被っていたとされています

嘉島町の鯰という場所は そういった 謂れがある

今でいう パワースポット でもあるのです

かつて この鯰の村に 戦国時代の 南熊本の守護大名

小西行長 の 陣跡があったときいたことがあります

小西行長は 有名な クリスチャン大名でしたので

南熊本や宇城や八代 の神社などの多くを焼き払ったと言います

おそらく 多くの古代からの歴史遺産 が失われたようです

鯰の地 にも 何かあったのではと 思っています

陣屋跡 を代々守ってきた 庄屋 には いまでも


年老いた 御夫婦 が 住んでおられます


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私が 自分のルーツを追っかけてきた 旅も


まだ 旅の途中 です


それは 君たちにとっての ルーツでもあるのですが


君たちには もうひとつの ルーツがあるのです


ふたつのルーツ は 遠い昔 はひとつのものでした


奴国 と 狗奴国 争いはしましたが


やがて 九州王朝 という きらびやかな


この国の始まりでもあったのです



来月 京都に 孫に会いに行きます


紅葉真っ只中の いい季節をえらびました


1000年の王朝 の煌びやかさの奥に隠された


1500年前の 筑紫の王朝 の面影を探す 旅 になりそうです




熊本県 上益城郡 嘉島町 鯰





by nonkei7332 | 2015-10-26 12:07 | 博多ルーツ | Comments(2)


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今津湾岸 のヨット




博多湾沿い 唐津街道 を 西に向かう

姪浜をすぎると 今津湾沿いの

生の松原 長垂海岸と 白砂青松の 綺麗な海岸線 が続く

唐津街道 は 今宿から は 海岸線をはなれ 前原へと

糸島半島の田園地帯を 突き抜けるように 西へ 道が伸びていく

このあたり かつては 海峡であったといわれ

糸島の名前は 海を隔てた 怡土国 と 志摩国 から

怡土志磨 (いとしま) と呼ばれるようになったといわれている

伊勢・志摩(イセ・シマ)は この地の名前が 移ったものだ

天照大神が降臨したとされる(天の)岩戸が 天ケ岳の傍にある

桜井神社(岩戸宮)の裏手にある


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今津北崎 から 志賀島がみえる


『魏志倭人伝』には、伊都国と呼ばれた このあたり

「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。

そこの長官を爾支(にし)といい、

副官は泄謨觚(せつもこ)・柄渠觚(ひょうごこ)という。

1000余戸の家がある。世々に王があるも、

みな女王國に統べて属する

帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、

ここに常にとどまる場所である。」

また

「 女王国より北には、特別に一つの大率(だいそつ)を置いて

諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。

大率はいつも伊都国で政務を執り、

それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割を持っている。

王が京都(洛陽)や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、

帯方郡が倭国へ使者を遣わすときは、

いつも津(港)で、文書や賜与された物品を点検して、

伝送して女王のもとへ到着する時に、間違いがないようにする」

と書かれている


大率 と呼ばれた 王が 代々 この国の 政務を執行したとあるが

女王とは 卑弥呼 であって 大率の王は 神武天皇 だったのだろうか

この二人が 兄妹 であったという 説もある

とすると アマテラス は 卑弥呼であったというのも

おかしくもない


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北崎海岸より 能古島が見える 手前は 海釣り公園


そんなことを 考えながら 今宿から 海岸線を 北にむかった

入海にかかる 橋のたもとには ヨットが停泊し

今津 北崎 唐泊 に続く 白砂の綺麗な 海沿いを 楽しんだ


《 韓亭能許の浦 波立たぬ日はあれども 家に恋ひぬ日なし 》

万葉集 15巻 3670 遣新羅使

《 訳 》

韓亭(からとまり) の沖の 能古島の海に波が立たない日はあっても

家のことを恋しく想わない日はない


《解説》

韓亭 と 呼ばれた 唐泊の港は

遣隋使 遣唐使 遣新羅使 との 要港だった

沖の波が高いと 舟人は 何日も この場所に停泊し

海の鎮まるのをまったという 韓人が多く泊まる 宿もあり

人々は ここを 韓亭 と呼んだ


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半島の先端の町が 唐泊


志賀島 能古島 が 沖に見える 今津の浜・唐泊

ここは 磯良の海の 入り口だったのだ









by nonkei7332 | 2015-10-22 15:06 | 古代史 | Comments(0)

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岸和田 だんじり祭り




九州では 秋祭り を 「くんち」「おくんち」といいます

秋 の 豊穣収穫祭 です


起源 は 天皇が 五穀の新縠を 天津神 国津神に 捧げ

自らも食しその年の収穫に感謝する

〈新嘗祭〉(にいなめさい) だといわれています

現在でも 11月23日 に宮中や 各地の神社で 祭祀が行われ

「勤労感謝の日」として 国民の祝日 になっています

〈くんち〉の語源は 諸説ありますが

〈九日説〉が 主説でしょう つまり 旧暦の9月9日 (10月21日)

重陽の節句 にあわせて 祭りがおこなわれました

各地によって 多少 日程が ずれたりしますが

これが 元となっているようです


『三大くんち(九州三大秋祭り)』といえば

「長崎くんち」「博多おくんち」「唐津くんち」です


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長崎くんち 龍踊


《 長崎くんち 》(10月7日〜10月10日)


長崎市の諏訪神社の秋季大祭です

見どころは 各町の「奉納踊り」

各町の奉納踊りには 有名な「龍踊(じゃおどり)」や

「鯨の潮吹き」「御朱印船」「阿蘭陀万歳」などがあります

祭(くんち)の始まりは 江戸時代の寛永年間(17世紀)

二人の遊女が諏訪神社に舞を奉納したことだと言われています

その後 年々盛んになっていき さらに長崎という土地柄から

中国や南蛮文化の影響を受けました

この「長崎くんちの奉納踊」は重要無形文化財となっています



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博多おくんち 神輿渡御



《 博多おくんち 》(10月23日〜10月24日)


博多おくんち」は 博多の総鎮守である

櫛田神社の秋の例祭です

かつては収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)でしたが

昭和28年より 名称を変更して新たに祭礼を行うようになりました

神輿渡御や 稚児行列の他 五穀豊穣市 相撲大会などが催されています

昭和28年といえば 6月26日に 〈北九州大水害〉がおきた年で

北九州各地で1000名の死亡者を出しています

4月に起きた阿蘇山の噴火による 土石流と戦中戦後の森林乱伐が

被害を大きくしたと言われています




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唐津 曳山



《 唐津くんち 》(11月2日〜11月4日)


毎年11月に唐津神社で開催される

例祭「唐津くんち」は掛け声とともに

曳山が駆け抜ける勇壮な祭として知られています

その特徴はなんといっても 獅子

漆塗りの獅子頭を被って舞う「カブカブ獅子」の奉納や

大きな赤獅子 青獅子を乗せた曳山の巡行で知られています

唐津くんちは江戸時代に始まったと考えられていますが

この曳山は、文政2年(1819年)に

《石崎嘉兵衛》が伊勢参りの帰途に

京都で見た祇園 山笠をヒントにして仲間たちと

赤獅子をつくり奉納したのが始まりだといわれています

今では14基の曳山があり「唐津くんちの曳山行事」として

重要無形文化財となっています







by nonkei7332 | 2015-10-12 08:30 | 古代史 | Comments(0)

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中秋 の 名月

〈 空 sora そら 〉 さんの ブログ より




10月は 《 神 無 月 》(かんなずき) です

神無月 の 語源は

神を祭る月だから 「神の月」とする説が有力とされています

「無」は 「水無月」(みなずき) と同じく

「の」を意味する格助詞「な」です

中世の俗説には 10月に 全国の神々 が 出雲大社に集まり

諸国には 神がいなくなることから「神無月」になった説があり

出雲国 では 反対に「神有月」(かみありつき) と呼ばれています

その他の説では 雷の鳴らない月で「雷無月」が転じたとする説や

新穀で酒を醸す月なので「醸成月」が転じたとする説もあります


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筑紫の賢人 真鍋大覚さん は

著書 『 玄界灘の海上気象 』で

日本の神話発祥の地を 筑紫 背振山系 の 伊都国 であるとされ

筑紫に残る たたら鍛冶 の 砂鉄選別の 《 かんな流し 》を 示し

神無月 の 起源に言及されています

 

" かんな "

鋳物師間の用語で 砂鉄を選別する 水樋(すいひ) のことであり

木工具の " かんな " (鉋) はこれから 暗示されて

平面の削り出しに考案されたものである。

" かんな " は 女子の携わる作業として

かわのおみな(川女) の 転訛であろうか

背振山系の農家は 秋の彼岸に水を落とす。

すなわち 那珂川を堰でとめて水田に送る灌漑用水の

水門、取出口を開くのである。

稲の収穫はそれから始まる。

したがって 多量の河水を必要とする " かんな流し " は、

土砂 が 水田や溝渠 を埋没することを極度に忌避した 古代、

すなわち 素戔嗚尊の溝埋、畦放 以来、

すべての水の使用が出来、かつ 農閑期に入る


十月から ということになる。

これが おそらく 神無月 の 起源であろう。



【 語訳 】

水樋 (すいひ) ・・・ 水を流す管

素戔嗚尊の溝埋、畦放・・・記紀には スサノオ が アマテラスに

多くの 狼藉を働いたと記されています 溝埋(みぞうえ)とは

田に水を引くために設けた溝を埋めることで

水を引けないようにすることで 畦放(あはなち) とは

田に張っている水を、畔を壊すことで流出させることです




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井上陽水 さん



井上陽水 の セカンドアルバム〈陽水Ⅱセンチメンタル〉に

《 神無月にかこまれて 》という曲が 収録されています

ちょうど 私が 二十歳の頃

東京新宿の 三畳一間 の アパート で 飽きるほど 聴いていた曲です

まさしく この曲は 我が青春 の ポートレート でした



人恋しと泣けば 十三夜

月はおぼろ 淡い色具合

雲は月を隠さぬ様に やさしく流れ

丸い月には 流れる雲が

ちぎれた雲が よくにあう



風がさわぐ 今や冬隣り

逃げる様に 渡り鳥がゆく

列についてゆけない者に また来る春が

あるかどうかは誰もしらない

ただひたすらの 風まかせ



神無月に 僕はかこまれて

口笛吹く それはこだまする

青い夜の空気の中に 生きてるものは

涙も見せず 笑いも忘れ

息をひそめて 冬を待つ








by nonkei7332 | 2015-10-02 22:22 | 古代史 | Comments(0)

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西鉄大牟田線 蒲池駅 (かまちえき)



邪馬台国の女神 は 《 卑弥呼 》 だということは 誰でもが知っています

では 邪馬台国に敵対した 狗奴国 の 女神は と聞くと

そんな人 いたの と誰もが言うのではないでしょうか


そもそも 古代は 神代も人代も 何故 か 女神 や 女王ばかりです

男がだらしないというのは 今も 昔も 変わりはないのですが

何か 理由があるとすれば

それは 呉 から 移り住んだ 海人族の男たちは


忙しくて 単身赴任が 多かったからでしょうか

集落に女子供を残して あちらこちらの 海岸に 集落を開拓してまわり

屋根付きの 家船 に のった 漂泊民 となります

その 土地土地に 胤を残して 勢力を拡げるのに 頑張ります

一方 山に登った 鍛冶の男たちは 一心不乱にに 鉄を作ります

鍛冶場は 女人禁制 の場所 だったみたいです

ストレスがたまったのでしょうか いい鉄が作れなくて

イライラがつのると 里に下りては 時々 悪いことを したのでしょう

だから そんな出来事が重なって 鍛冶の男は 鬼 や 蜘蛛 と言われて

恐れられたのかもしれません


こんな 男たちはにとって 怖い存在といえば

《 地震・雷・大風・女房 》だったのでしょうか

とくに 女達の中には 自然を読み取る 憑依体質の 女性がいて

巫女として 占いや 祭祀をたずさわる ようになり

集団の中で 男達からも 一目置かれるようになります

やがて 小国達 をまとめるような 存在となったのが

《 卑弥呼 》では なかったのではないでしょうか

でも 卑弥呼であっても スーパーウーマン ではなかったみたいで

その 霊力が及ばないような 天変 があることもあって

集団の信頼を失っていった と 倭人伝には書かれています

やがて 卑弥呼が 亡くなると 小国家は混乱して 衝突が始まり

これが 《倭国の大乱》といわれる ものだったのではないでしょうか



「後漢書倭伝」に

「会稽の海外に その名は 東鯷人あり 分かれて二十余国を為す」

とあります

呉人 が 流れ着いた 東鯷国 は 八代から 宇土半島 そして

阿蘇 から 菊池地区 有明海対岸の肥前に至るまでの

広い土地を 治めていました

《 狗奴国 》(くなこく) ともよばれ

のちの世 隼人(はやと) や 熊襲 (くまそ) と呼ばれます

景明天皇や ヤマトタケル が征伐しようとした あの熊襲です

鯷 とは 鯰(なまず) のことで 鯰をトーテム とした 海人族でした

多くの神社には 鯰の伝説が残っていますね


この国に 一人の 女神がいました

その名を 《 蒲 池 媛 》といいます

阿蘇の母神 であり

肥前川上では 《 與止日女 》(よどひめ) と呼ばれ


多くの神社で祀られています

〈淀姫〉とも呼ばれ 〈世田姫〉ともよばれました



〈豊姫〉とも呼ばれ 神功皇后の三韓征伐にも 同行し

満珠干珠の玉を使って 勝利に導いたといわれます

まるで 豊玉姫 や 玉依姫 が重なりますね


実は 豊姫は 神功皇后の 妹 だったという説もあるんです



神功皇后の遠征を 満珠干珠の玉を使ったといえば 安曇磯良 です

高良玉垂宮 に 秘される 安曇磯良 の 妃 となった という説があります

なんと 奴国 の王 と 狗奴国の女王 が 繋がるというわけですから

私とすれば 鳥肌が立つような ゾクゾクする話なのですが

でも よく考えると 両国とも 呉人 を祖とするわけですから

不自然な事ではないないのかもしれませんね


海と川 を治める 女神ということでは

あの 〈瀬織津姫 〉も重なるんですね

〈瀬織津姫〉も 〈蒲池媛〉も 記紀には書かれることがなかった

隠さざるをえなかった 女神 だったのでしょうか


蒲池媛 の 謎 の極め付けは

卑弥呼の 後を継いで 諸国を平定した

13歳の少女《 宗女 台与 》(トヨ) です

蒲池媛 は 実は 卑弥呼宗女 トヨ(豊) だったという 説です

となれば 蒲池媛=トヨ によって その後 安穏な国がつくられ

倭の五王 に 続く 九州王朝 の全盛期 へと つながっていったのでしょうか


これらの 説 は 記紀には書かれていない 風土記 や

神社に遺る縁起 古い家々に遺る 家伝書 にのこる 伝承 なのですが

何が本当なのかは 誰にもわかりません


本当の真実 を 語れる人 は

今 この世には 誰もいないのです

もし 解き明かす人が 未来に 出てきたとすれば

その人は きっと タイムマシン にのって


その時代に 行って見てきた人なのです

これが 古代史の醍醐味 なんですね


《 筑後に 残る 蒲池媛 の謎 》

私が知る限り 現在の 蒲池媛 が 二人 います

ひとりは 名前 を

蒲池法子(かまちのりこ) といいます

もうひとりの名前は


蒲池幸子 (かまちさちこ) といいます


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松田聖子 (まつだせいこ)さん

本名 蒲池法子



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坂井泉水 (さかいいずみ)さん

本名 蒲池幸子

「ZARD」のボーカル

2007年5月 惜しまれながら 40歳の若さで亡くなりました









by nonkei7332 | 2015-09-30 13:30 | 古代史 | Comments(0)

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観世音寺 参道



行楽の 秋日和 太宰府へ行きました

ただ 天満宮にはいかず 目的地は 迷わず

清水山普門院 の 山號をもつ 九州一の古刹

《 観 世 音 寺 》

ここには 日本一 古いと言われる 国宝の 梵鐘 があります

その鐘の音 は 菅公 が 榎社に幽閉され 失意の中で聴いた

あの鐘の音と同じだということを知る人は少ないのです

造られたのが 681年 糟屋郡の多々良 あたりだと書かれています

作った人は 〈上三毛麿〉この人がどんな人かは 詳しくは残ってませんが

562年 大伴狭手彦が 高句麗を征伐して 多数の珍宝と優秀な工人を

連れ帰った中の一人ではないかという説もあります

同じ鋳型で造られた梵鐘が 京都の妙心寺にあります 兄弟鐘です

なぜ 離れ離れになったのかは 歴史の闇のなせる技でしょうか


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国宝 梵鐘



梵鐘 の事を 別名 〈 鯨 鐘 〉とか 〈 華 鯨 〉といいます

なぜ 鯨なのかについて 考えてみました

対馬海峡は 鯨の通り道で 壱岐には 多くの捕鯨基地がありました

万葉集にも 「いさなとり」(鯨魚取り) という 海を表す 枕詞があります

安曇の海人は 壱岐の港を出て 筑紫の都をめざします

筑紫の賢人 真鍋大覚さんの『 玄界灘の海上気象 』のなかに

こんな記事がありました



『 壱岐島 郷浦 を 出ると


やがて見える 筑紫の山々は

東が 九千部山 中央が 脊振山 西が 鏡山 と

大鯨 が 水平線に浮上した形である 』



三笠川の上流 までが まだ 海だった頃


鯨 の 頭 の 九千部山 の 麓にある


太宰府の都をめざした 海人達にとって

やがて 聞こえてくる 観世音寺 の 鐘の音 は

厳しい 船旅に 終わりを告げる


安堵の 音色だったに 違いありません

だから 海人達は この鐘のことを 《 鯨 鐘 》と呼んだのでしょう

鯨 の 字は 魚偏に 京 (みやこ) と書きます



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参道脇の 萩の花





教科書では 538年に 百済から 仏教が伝来したと教えます

しかし 仏教が 筑紫に 伝わったという 記録が残っています

『雷山縁起』に 418年に 清賀上人が 仏教を伝えたとあります

王朝がある 筑紫に 多くの経典や 仏像や そして 梵鐘も 伝わりました

観世音寺 は


天智天皇が 母斉明天皇(崩御661年)の 追善のため 発願され

746年に落慶供養が行われたとされていますが

その間 80年もの空白の謎は 何を隠そうとしているのでしょうか


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苔むす 樟 の 古木 と 観世音寺講堂





観世音寺の 鐘の音は

筑紫 の 栄華 も そして 哀しみの物語も

すべてを 包み込んで

私 の 魂に 語りかけてくれました



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《 観世音寺 夕べの鐘に 花散れば 身も世も非ず 泣かまほしけれ 》


《 観世音寺 みあかし暗う 唯一人 普門品よむ 声にぬかずく 》


柳原 白蓮 の 歌






by nonkei7332 | 2015-09-24 08:33 | 古代史 | Comments(0)

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安曇目の伝承といわれる 歌舞伎の隈取



倭人の習俗については 『魏志倭人伝』には

《 男子は大小となく 皆 鯨面文身 す 》と書かれています

「鯨面」というのは 顔の入れ墨で

「文身」というのは身体の入れ墨のことです

海に潜ると そこは いつも 死と隣り合わせの世界

鮫がでてきたり 海蛇やウツボ といった 怪魚に出会うかもしれません

安曇族は 安曇目 といわれる 目を大きく見せる 入れ墨でした

胸に 入れ墨を 彫った 海人は むなかた と呼ばれた 宗像族でした

多くの彫り物は 龍 や 蛇 で 中国江南地区の習俗そのものでした

海人たちにとって TATTOO は 身を守る 魔除けだったのでしょう


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揚子江沿岸から 海南島に至る 中国南部の 海人族は

いつも 大きな 耳輪を下げる 風習があって

一部は いまでも 続いているといわれています

『肥前国風土記』には 五島あたりに 「大耳」「垂耳」という

土蜘蛛 の 族長がいて 豊後にも 「鼻垂」「耳垂」がいました

おそらく 土蜘蛛 の族長は 垂れ下がるような 耳輪をしていて

それが ひとつの ステイタス でもあったのでしょう

ミミ といえば 神代の記紀 の中にも

ミミのつく名前が沢山あります

天忍穂耳命 ( アメノオシヒミミ) アマテラスの子

須賀之八耳神 (スガノヤツミミ) 櫛名田比売の父

三島溝杭耳神 (ミゾクイミミ) 神武天皇妃 の 祖父

手研耳命 (タギシミミ) 神武天皇の子

岐須美美命 (キスミミ) 神武天皇の子

神八井耳命 (カムヤイミミ) 神武天皇の子

神沼河耳命 (カムヌナカワミミ) 神武天皇の子・綏靖天皇

日子八井命 (ヒコヤイミミ) 神武天皇の子

弥弥 (ミミ) 投馬国の王 (魏志倭人伝)

豊耳 (トヨミミ) 紀直の祖

味耳命 (ウマシミミ) 久米直の祖


他にも 沢山の 耳の名前や 地名も 各地に 見えますが

銅や鉄の鍛冶に関わる 土蜘蛛系 の 氏族長は ミミの称号を持っていた

とくに 神武系 は 五人の皇子は ミミの称号をもってます

神武妃 の 媛蹈鞴五十鈴姫 (ヒメタタライスズヒメ)

名前からすると タタラの名があるように ミゾクイミミの孫であり

ミミ族 の姫には 間違い無いようです


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神武天皇 の 頃 の この国は

大きな ピアス をした 族長を中心にした

銅 や 鉄 を作る 鍛冶族 (土蜘蛛) の 小国家群でした

そして それは 中国南部 から 渡来して 住み着き

龍 の TATOO を全身に描いた 海人族 でもありました

これらの 小国家群は 倭国 と呼ばれ

やがて 神武東征 (倭国大乱) をへて

卑弥呼を 中心とした 古代九州王朝 へと

歴史 は 動いていきます







 



by nonkei7332 | 2015-09-18 21:46 | 古代史 | Comments(0)

by ヒサミツ