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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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写真は 左から 真鍋大覚さん 宮崎康平さん 和子夫人
那珂川町の 裂田の溝 を訪れた時の様子です
「神々のふるさと」宮崎康平著 より




私が語る 二人の賢人 とは

宮崎康平 さん (1917~1980) と

真鍋大覚 さん (1923~1991)


の ことです


宮崎康平さん の 著書「まぼろしの邪馬臺國」(1967年) は

当時 邪馬台国論争の火付け役として 話題になった ベストセラーでしたが

古代史などには まったく興味がなかった私には

知ってはいても 目を通す事はありませんでした

その後 私が どんな人なんだろうと 興味を持ったは

さだまさし の 「邪馬臺」という歌を聴いた時だったのです

( 詳しくは 拙ブログ 1915/7/20 「海の日に」参照下さい )

それこそ 「出逢いは いつでも 偶然の風の中」でした



出逢い と言えば 私を 古代史へと 導いてくれたのは

ブログ「ひもろぎ逍遥」の 〈綾杉るな〉さん でした

綾杉ワールド は 多くの 出会いを私に与えてくれました

私が 記事の中で 《筑紫の賢人》と 勝手に 呼ばせていただいている

真鍋大覚さん との 出会いは 今では 大きな 存在です

図書館を巡って 真鍋さんの 書物を読みあさりました

難解な内容の書物ですので どうしても 自分の物にしたくて

綾杉さんに お聞きしてやっと手に入れたのが 『儺の国の星 拾遺』です

本の中で 度々 出てくるのが あの 宮崎康平さん の 名前でした

先日 数少ない 宮崎さんの著作の中で 『神々のふるさと』という本を

手に入れ 読んで 驚いたのが これまた 度々出てくる

真鍋さんの お名前だったのです



宮崎さんは本の中で こう書かれています


『 真鍋先生は 気象学者で 年輪と気象の関係を研究されている人である

私は その年輪から 古代の歴史を読み取ろうと すでに 何年も

先生について学び かつ 研究しているが おかげで 新しい幾多の事実を

確認することができた 』89p



奇しくも 同じ時代に 生まれた 古代史研究者 と 気象学者 の

お二人が 互いに 大事な存在であったことが

この本の 一行 一行 の 間に 感じることができますが

この 本の あとがき には

和子夫人が こんな 事を書かれていました



『 そもそも 康平 がはじめて『まぼろしの邪馬臺國』を世に問うてから

今日まで 大方の期待を裏切って なぜ 後続の著書を出さなかったかと

かねて先輩や友人からは苦言を呈され しかも 農園の経営や講演に

ひっぱりまわされて ペンを執ることがおろそかになったのではないか

と非難されたのだったが これは あくまで 副次的な現象で ほんとうは

九州大学の 真鍋大覚助教授 との出会いがきっかけで

脱線してしまったようなものである

人間が 自然をゆがめるほどの 巨大な力 を持ちはじめたのは

僅か百年このかたのことで 千七百年 という歳月は 自然界においては

束の間の時間にすぎない だから 古代に最も肉薄することができるのは

自然現象 を通じてだと考えた康平は 九州大学で航空気象学を

研究されている 真鍋大覚博士に教えを乞い 過去三千年にわたる

気象のプリントともいうべき 屋久杉の年輪を研究 を手始めに

〈気象〉〈日蝕〉〈海流〉等々 貴重なデータ や

九大図書館の資料を 提供していただいた 』




二人の賢人が あと10年 長生き されておられれば

新たな 古代史 発見に 大きく 寄与されたに違いないと

私 は 思っています



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by nonkei7332 | 2016-04-28 18:59 | さだまさし | Comments(0)


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トン族 の 少女




福山雅治 が 次に訪れた 所は

中国 貴州省 占里村(せんりむら) でした

少数民族『 トン族 』と呼ばれる 人たちが住む

山に囲まれ 鼓楼 と呼ばれる 村の聖地を中心に

700人ほどの 村民からなる 小さな村 です

ここも 独自の文字をもたない 「トン族大歌」という 歌で

村の歴史 や 文化を伝えてきた 人たちでした

幾重にも重なる 棚田 で もち米を作る人たち

古き 日本の 農村をコピーした様な 風景がそこにはありました

人々は 祖神を そして 山の神 地の神を 祭っていました


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村に入るには 川に架かる 「 風 雨 橋 」と呼ばれる

屋根付きの橋を渡らなければならないといいます

その姿を テレビの画面で 見た時

私の中で 幾つかの記憶が 繋がり

それは ひとつの確信に繋がっていったのでした

『 あの橋 と いっしょだ 』

私の記憶は かつて 見たことのある

あの橋を 思い出していました

その橋とは 宇佐神宮 の 寄藻川(よりもがわ)に架かる

「 呉 橋 」(くれはし)です

いつの時代に造られたのか 解らないとされ

ただ 呉の人が造ったと 伝えられる 謎の橋です


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宇佐神宮 呉橋



中国春秋時代 「呉越同舟」と言われる様に

仲の悪かった「呉」も「越」も 同じ風俗 と 文化をもつ

同じ 民族 だったのです

呉越 の 末裔は 海を渡り 倭人となりました

山に追われた人々は 奥へ奥へと 迫害を逃れ

少数民族 となって そこに 山里を築きました

そのひとつが 「トン族」だったのでした



そういえば 倭人もまた

独自の文字をもたない 人達 だったのです

日本における 文字の起源 といえば 万葉仮名 が最初です

やがて そこから 片仮名 平仮名 が生まれます

とすると 万葉以前の人達は 「トン族」と同じように

山の神を祀り 水の女神を祀り


神の使いである カラスに

その年の豊作を 託した 人々だったのでしょうか

そこには 祖神を伝承する 「歌」があったのかもしれません



番組では 300人の トン族の合唱隊 と

「トン族大歌」の代表曲である 「セミの歌」をバックにして

福山雅治 が 自分の歌 「明日へのマーチ」を歌いあげます

ひとつになった 歌声は やがて ひとつの 絆となって

山の木々 山の神々 と繋がり

私の魂の中で ひとつの 感動となっていったのでした



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by nonkei7332 | 2016-04-17 07:11 | 日記 | Comments(0)


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博多駅前 大博通り




「 山笠のあるけん 博多たい 」

博多の住む人だけでなく 広く知られるこの 言葉は

かつて 某博多の銘菓が使った TVCM のコピーでした

その中で 博多や 博多町人の気質をこう言っていました


博多には 安泰を祈る 縁起担ぎ や しきたり が 今も息づいている

その中で生まれ育った博多っ子は あけっぴろげ で 人がいい

すこしばかり横行(おうぎょう)で祭り好き


博多出身 の 〈チューリップ〉は 名曲『博多っ子純情』の歌詞の中で

博多の男 をこう歌っています


男たちは とても見栄っ張りで気が強い

海の風に吹かれるから

だけど みんな 貰い泣きするようなやつ

酒を飲んで 肩をたたく


巷に言われる 「博多」のイメージはそんなとこかもしれません


それでは 何故 この町が

博多 と呼ばれるようになったかについては

知っているひとは少ないようです


《 博 多 》(はかた)というの 地名の語源については

Wikipedia では こう書かれています


「ハカタ」の語源は

「土地博(ひろ)く 人・物産多し」という言葉から「博多」

大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」

海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」


射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」

切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」

などの説がある。 
    


Wiki には 書かれていない ハカタ の語源に

『 伯 方 』(はかた) という 名前があります

〈方〉という漢字は 場所とか 国土 という意味があるので

〈伯〉がいた場所 とか 〈伯〉が治めた国土 という意味なのでしょうか

博多駅から 博多港へ一直線に伸びる 大通りがあります

『大博通り』といいます それから この通りから一筋入った 上呉服町には

大正時代に作られた 古き博多人にとっては懐かしい

「大博劇場」と呼ばれる 劇場(後に映画館となった)がありました


神社考古学の 故百嶋由一郎 さんは


この 「大博」(たいはく) という名前について

『太伯』(たいはく)の名残りが残っていると語られていました


魏志倭人伝 には

『 倭 は 呉(中国)の 太伯の子孫である』


と書かれています

呉太伯という 王は どんな人だったのかは

司馬遷が書いた「史記」に詳しく書かれています

それによると


紀元前10世紀ごろ 中国は 周 という国が治めていました

周の先王である〈古王〉には

太伯(たいはく)虞仲(ろちゅう)季歴(きれき)という

三人の息子がいました 古王は後継に 三男の 季歴 を選び

太伯 と 盧仲 は 南の地 に移り 「句呉」(後の呉)という国を興します

やがて 紀元前480年ごろから 〈呉〉は 隣の国 〈越〉と激しく争い

とうとう 紀元前473年 呉の最後の王 「夫差王」の時 呉は滅びます


中国の史書には


「周の元王三年 越は呉を亡し その庶(親族)ともに海に入りて 倭 となる」


と記されています

国を追われた 呉族系海洋民族 (白族・伯族) の一部は 海を渡り

博多湾岸にたどり着き やがて 倭人の国 奴国(なこく)をおこします

安曇族 の祖先 です


百嶋説 によると

古事記神話に出てくる 最初の神

『天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 』の 別名を

『白山姫』又の名を 菊理姫(くくりひめ) といい

全国の水天宮 や 白山姫神社 祀られている 女神 は

伯族の女神であります

その 弟は 奴国 の 先王 である『白川伯王』なのです

百嶋説では その息子こそが

博多の総鎮守 「櫛田神社」の主祭神

『大幡主神』(おおはたぬしのかみ)だと言われています

白川伯王には あと 二人の娘がいました

ひとりは 神武天皇(大白王子) の母 「神玉依姫」であり

もうひとりは 大国主命 の母である 「埴安姫」だと言われています

安曇族の祖神 『豊玉彦』(ヤタガラス) は

「大幡主神」伯族直系の 奴国の王子として

古代九州王朝の 礎を築いていったのでしょう


山笠が近ずくたびに 頭を悩ませていた

「 おくしださん の 謎 」

「 博多 の 主 」

少しは見えてきたような気がします



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百嶋系図 の一部





by nonkei7332 | 2016-04-09 18:42 | 古代史 | Comments(0)


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桃の節供 の事を 『ひいなあそび』ともいいます

この日は 3月3日の 桃の節供の日です 雛祭りの原型は

終日 女性や子供たちが外に出て 川辺や 海辺で 手に手に 重箱を下げて

野あそびをする 一日だったようです

この日 集った 26名の女神達 が お隣の 伊都国に向けて

バスの中に鎮座しておられました

私には 女神を訪ねるというよりも この26名の女神達が

祖神 の眠る丘に 野あそびに行くという光景にみえました

そう考えると 私も含めた 4名の男達はというと

間違いなく 完璧な ミスキャスト です

しかし 同じ バスに乗ってしまったからには 腹をくくって

女神達の付き人として 迷惑かけないように 楽しむことにしました

そういえば 古代から 世の中は 女神や巫女が中心であって

男たちは その周りをうろちょろしていたわけですから

それもありということで 納得したのでした

私見によれば 伊都国(伊那国) は 海を隔てた


一支国(壱岐)・対馬国・狗邪韓国 とおなじ氏族だと思っています

大山祗(月読尊) は 山の神 であり 海の神でもあり 産鉄の神でもあります

その娘である 木花咲耶姫 と 磐長姫 こそが 伊都国の女神なのです

この日は 山の女神である この二神が里に降りてこられる日なのです



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バスは 最初の目的地である「三雲南小路遺跡」につきました

国内最大級の弥生王墓だといわれています



糸島市教育委員会の案内には

《 弥生時代中期 (約2000年前) の 伊都国王の墓で

墓の周囲に幅3~4m・深さ0.5~0.7mの溝で東西32m・南北31mの

方形区域を設けた国内最大級の弥生王墓です。

江戸時代(1822年)に発見された時には 甕棺の上には1.5mほどの

盛土があったとされ 墳丘があったと推定されます

墳墓の中央部には 2基の 長特大の合わせ甕棺(全長2.5m)があって

1号甕棺から35面 2号甕棺から22面 合わせて57面にのぼる前漢鏡・

青銅製武器・金銅製四葉座飾り金具・ガラス製壁・装身具など

豪華な副葬品が出土しました 》



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遺跡のそばにある 「細石神社」

祭神は 〈磐長姫〉と 〈木花咲耶姫〉 伊都国の女神が祀られています

由緒は 古いのでしょうが 豊臣秀吉によって 焼失されていました


古事記には この二人の姫について こう書かれています


《 降臨した ニニギ は 木花咲耶姫 という美しい娘に出会い 求婚します

彼女の父 大山祗 は喜んで 木花咲耶姫と 姉の磐長姫の二人を

妻として差し出しました しかしニニギは容姿の醜い磐長姫は送り返し

木花咲耶姫だけを妻としたのです 大山祗 は深く恥じ入り、

『 磐長姫を妻とされれば、天つ神の御子の命は岩のように永遠で

揺らがないものになり 木花咲耶姫を妻とされれば 木の花が

咲き栄えるように繁栄されますようにと祈願いたしましたのに このように

磐長姫だけをお返しになり 木花咲耶姫だけをお留めになりましたから

天つ神の御子の命は、木の花のように儚いものになってしまうでしょう』

と申し送った、そういうわけで 今に至るまで

天皇の寿命は長くはなくなってしまった 》



日本国歌 の一節の中にも そのような 歌詞があります

《さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 》

(小さな小石が やがて 岩となり その岩に苔が生えるまで)

大山祗の願った 思い があふれています

磐長姫 苔牟須売神(ニニギと木花咲耶姫の娘)

まるで 国歌の原景 がここにあるみたいです


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細石神社の参道から 見た 高祖山 です

まさしく この景観が 伊都国の原風景です


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バスで 高祖山の中腹まで登ると

伊都国の総鎮守 《高祖神社》に着きました

長い坂道の参道を登ると 社殿 です


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高祖神社 (県神社史より)

【祭神】

天津日高彦火々出見命・玉依比売命・息長足姫命・天照皇大御神・

豊受神

【由緒】

社説に曰く 当社創立の起源詳かならざるも怡土県鎮土の社として

上代より鎮座ありて怡土県主の崇敬厚かりし事明かなり。

怡土県主五十述手の勤王、一に当社尊崇に因るものと思惟せらる。

神功皇后三韓御征伐の御時香椎の宮より此処まで御幸ありて、

高祖の神に異国降伏の御惠を仰ぎ給ひけるに

果して冥助特に深くありければ皇后御帰りの後報賽の御祭として

新に御宮を造り乾に向つて御社を建て給ひき。

下つて奈良朝孝謙天皇の御代吉備真備に勅して怡土城を築き給ひしが、

当社を怡土城鎮護の神とし給へり。当社は城内中央の岡の上にあり。

三代実録に元慶元年(877年)九月二十五日癸亥授筑前国

正六位上高礒比咩神従五位下、とあり。


但し正六位を授けられし時代は不詳。

原田氏怡土城の旧跡を修理し高祖城を築き

此の地に威を振ふ事凡そ四百年(建久八年より天正十四年迄)、

その間当社を城中の鎮護の神として崇敬し

毎年正月元日・同十五日・二月初卯・三月三日・五月五日・七月七日

九月九日・十一月初卯 には原田氏祭主となり、

殊に九月二十六日の大祭には原田当主御輿に供奉して御幸をなせり。

原田時代の棟札、古文書等多数現存せり。

黒田氏筑前国主に封ぜらるるに至り、当社を 怡土郡の総社 と定め、

諸事郡中にて辨ぜり。

現今も四月二十六日祈年祭の節には郡内各大字より祭典費を寄進し、

大神楽 を奉納するを例とせり。


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本殿前には 県無形民俗文化財 『高祖神楽』の 神楽殿がありました


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平成元年 三月 高祖神楽殿 落成の時の写真です


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面神楽十二番の中の 七番神楽『磯羅(いそら)』


《 高祖神楽 》は

今から五百数十年前の応仁元年、戦国動乱の時代時の高祖城主、

原田筑前守種親 が明主である周防国山口城主、大内政弘の要請を受けて

京都守護の大任に当たった時、戦陣のつれづれに習得した

「京の能神楽」を郷土に伝えたものとされていますが、

この外にも異説があり、その始めは定かではありません。

永い歴史と伝統に受け継がれて来た高祖神楽は、江戸時代までは

旧怡土郡の神職の奉仕で舞われていました。

明治になってからは高祖神社の氏子の人達によって受け継がれています

(高祖神楽保存会の栞より)



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社殿向かって 左奥に ご神池 の《女池》がありました

澄んだ水に 木立が映り 木洩れ陽 が 霊魂 を揺らす 神域でした

磐長姫 ・神大市姫・罔象女(ミズハノメ)・山姥神

四つの名前を持つ 龍の顔をした 水の精 が 舞っていました

イザナギ・イザナミは この女神に

「山野に含まれる水=地下水は、天の安河原の水なので、

汝らがこれを治めて、外に溢れ出さないように、

植物の生育の助けとなるように管理せよ」と命じたといいます

伊都国の女神 の 神触れ を 一番感じた 場所でした



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平原遺跡に寄りました

昼からは 伊都国博物館 で 詳しい説明を聞けるみたいでした



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さてさて そろそろ 重箱をひろげる 野あそびの楽しい 時間になりました

洒落た カフェレストラン 『集い』です なんと 貸し切りです

まさしく 女神達の集う場所です

綾杉さん 素敵な演出 ありがとう


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「つどい御膳」です



女神達に囲まれて 白髪翁 も 楽しい時間を過ごせました






by nonkei7332 | 2016-03-05 07:23 | 日記 | Comments(2)


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沙也可将軍 肖像画





司馬遼太郎 の本に 『街道をゆく』という 紀行集があります

この本との出会いは 40代の頃 でした

某商社の部長さんと お酒を飲んだ時の話で 話題が老後の話になりました

私 が 『 部長は老後はどんな生活をするつもりですか 』と聞くと

彼 は 『 司馬遼太郎の「街道をゆく」という紀行集があってね

彼が行った場所を同じように旅行をしようと思ってます 』と話されました

翌日 本屋に飛び込んで さっそく この本を買った

というのが この本との出会いでした


『街道をゆく』の中の

『韓のくに紀行』という本の中で

《 沙 也 可 》という 人物を知りました


沙 也 可(さやか) (1571年? - 1643年?)は

1592年 豊臣秀吉の 文禄・慶長の役の際 加藤清正の 先鋒隊長として

三千の兵を率いて 朝鮮に渡ったが なぜか 投降して朝鮮軍に加わり

朝鮮には無かった 鉄砲の技術を朝鮮に伝え 豊臣軍と戦います

その後 李朝14代宣祖(ソンジュ)の 臣下となり 功績により

正憲太夫の位と 金海金氏を名乗るよう賜り 号を 慕夏堂とし

名を 金忠善(キム・チュンソン)と改名 します

賜姓金海金氏の始祖として慶尚北道の友鹿里(ウロクリ)に

領土を与えられ 臣下と共に 朝鮮の民として その生涯を閉じます

現在 友鹿里 には 200名位の 沙也可の子孫が暮らし 半島全土には

4000名にもなる 氏族 がおられるようです

毎年 「鹿洞(ノクトン)書院」の「韓日友好館」には 2000人もの

日本人旅行者が訪れるといいます



沙也可 は 何故 反旗を翻したのでしょうか ?

沙也可 は いったい 誰だったのでしょうか ?


諸説ある中で

紀州の雑賀衆 ではないかという説 があります

雑賀衆は鉄砲の軍事傭兵部隊です 秀吉によって滅ぼされました

ただ 三千の兵を動かすだけの カリスマ性を持った

人物名が出て来ませんので 小説にはなりましたが

おそらく 違うでしょう


そこで 今 永年 伊都国糸島の 高祖山城主 であった


原田家の46代当主 原 田 信 種 (はらだのぶたね)


の名前が とりだたされています


原田家の出自は 古代 秦氏の大蔵一門 です

大蔵氏の氏祖は 漢の霊帝4代目の素孫 阿知使主 だと言われています

隋に追われ 百済を経て 倭国にきた 漢人系渡来人 です

応神・仁徳 の頃 呉国より 兄媛・弟媛・穴織・呉織 の 四媛 を連れてきて

養蚕・染色・機織・裁縫の技術を伝えたのも この人達でした


大蔵一党の三大豪族といえば 原田氏・秋月氏・高橋氏

いずれも 筑紫の豪族です 特に 嫡流の 原田家 は

藤原純友の乱を平定した功績により 太宰少弐の官位を与えられ

筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬を管理することになります

当初 基山に拠点を置きましたが 麓の原田に移り 原田家を名乗りました

その後 岩門城(那珂川町)をへて 建仁3年(1203年)

怡土郡五郎丸(三雲)に移り原田種継・種頼親子が 高祖山城を築き

麓に館を構えて 原田氏代々の本拠としました

中世の博多は 戦乱が続きます

原田氏は 西国一の守護大名になった 大内義明 の傘下に入ります

その後 大内家と共に 大友氏と戦い 筑前統一を成し遂げます

大内氏拡大の裏で原田氏の貢献は大きく

1551年 大内義隆が 陶晴賢 の謀反により 討たれるまで

永年に渡る 友好関係は続いたといいます

45代原田隆種 自身も 義隆から「隆」の字を貰い受けた間柄だったので

大内氏への恩義から原田隆種は陶氏の指図に服しなかったといいます

陶氏 は 大友氏 と組みしたので 原田家には 苦難の時代が続きます

やがて時代は 秀吉の時代へと変わっていきます

天正二年(1574年)46代 原田信種 が家督を継ぎます

秀吉が島津征伐で 九州に凱旋すると 島津と同盟を結んでいた 信種は

徹底抗戦するつもりでいましたが その強力な陣立に勝ち目はないと思い

秀吉に降伏します 秀吉が原田家 の 所領を尋ねたところ

広すぎると 没収されるとの考えから少なく報告したことが

秀吉の神経を逆撫でする事となってしまいます

その結果 筑後に三百町歩を与えられ 肥後へ国替えとなってしまいます

高祖山城は破壊され 家臣達は帰農したり 他家へ仕官していって

原田信種 は 全てを失ってしまいます

肥後熊本城主となった加藤清正の 下で 信種 は再起にそなえます


ここからが 原田信種 の謎の歴史です

( 史実にもとずく フィクション です )

秀吉の朝鮮出兵 で 名護屋城 に全国の大名が集まります

その中でも 加藤清正 と 小西行長 が 中心となる 陣立が組まれます

信種は 名護屋城に近い 糸島の地の利を生かし 加藤清正の許しを得て

原田家 再興の のろしを 上げたのです

他家に仕官した臣下も 刀を鍬に変えた 臣下達も 傍に 鉄砲を抱えて

名護屋に集まります

その数 600名 その気勢は 他軍を圧していました

軍議は 半島の海岸沿いに 小西軍 山沿いを加藤軍 が攻め上がるものでした

信種 率いる 3000の兵は 原田隊を先頭に 金海(キメ)近くに上陸し

洛東江(ナクトン川)を北上します

朝鮮軍は 初めて見る鉄砲に驚き 散りじりに 逃げていくばかりです

信種軍は 中流にある 友鹿里(ウロクリ)に陣を建てます

山河は美しく かつての 伽耶の民と言われた 農民達の老いた母を背負い

逃げていくその後ろ姿に 故郷糸島の事を思いだしていました


『 俺はいったい 何をやろうとしているのか

憎き 秀吉の為に 故郷の糸島の匂いのする この美しき山河を

壊してしまう 義 とは何なのだろうか

我を信じて 集まった 原田の民が望んでいるのは 』


海をはさんだ 伽耶 と 伊都 を繋ぐ いにしえの 魂の叫びに

信種 の 想い は 玄海の海 のように 激しく 震えるのでした

戸惑う兵を前にして 原田信種 は 叫びました


『 我が軍 に 義 なし 』


驚いたのは 朝鮮軍でした やがて 沙也可と呼ばれた 原田信種 と

原田軍は 銃砲を 南に向けたのでした。



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司馬遼太郎 さん



司馬遼太郎 は 「韓のくに紀行」の中で こう書いています


『 国家という面倒なものが無いに等しかった 古代を

我々は その洋上の街道をゆく時 懐かしまざるをえない

そういう時代 朝鮮人は日本へ冬に来た、

冬になると 風は 日本に向かって吹くからである

我々 日本人の血に 朝鮮半島通過の血液が混じるのは

この海域を吹く風がそれを 運んで来たのに ちがいない 』



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糸島二見ヶ浦





春の穏やかなる 3月3日 伊都国を訪ねます

女神 が 眠る この里に 海を渡って吹く風は

沙也可の魂 を 運んでくれるでしょうか






by nonkei7332 | 2016-02-29 23:40 | 古代史 | Comments(0)


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「鉄の王キムスロ」で ソクタレ を演じる イ・ピルモ さん




新羅の国の王朝は

朴氏・昔氏・金氏 の族長が 国を治めてきました

特に 卵が絡む王として有名なのが 第4代 昔脱解(ソクタレ)王 です

この王様 倭人の血を引いた 王だったのです

朝鮮の歴史書『三国史記』にはこう書かれています

《 倭国の東北1千里のところにある多婆那国 の王様が

女人国(不明)の王女を妻に迎え王妃としました


大妃は 妊娠してから7年後に大きな卵を産みました

王様は不吉だと言って 捨てるように言います

王妃は捨てるに忍びず 卵を絹に包んで宝物と一緒に

箱に入れて海に流しました

卵は やがて 伽耶国 に流れ着きますが 人々は怪しんで

箱を引き上げようとはしませんでした 箱はさらに流されて

阿珍浦の浜辺(慶州)に打ち上げられました この時 紀元前19年でした

老婆がその箱を開け 中にいた男の子を育てます

男の子は立派に成長し 第二代南解王の娘を娶り

軍事・国政を担う大輔の地位につき

西暦57年 新羅の第4代脱解王 が誕生します 》

また 歴史書『三国遺事』によると

初代からの 朴氏の王族ではないので 姓がわからず

ただ 箱が流れ着いた時にそばに 鵲(かささぎ)がいたことから

鵲の字を略して 「昔」を姓としたとあり

箱を開いて生まれてきたことから「脱解」を名としたと書かれています

西暦57年という年は 漢の光武帝が倭国王に金印を授けた年です


さて 問題なのは 多婆那国 とは何処なのか という事です

丹後国 だったというのが 主流をしめていますが

《多婆那》は 《玉名》(熊本県玉名市) であったという説があります

鵲(かささぎ)がいた国と考えれば 筑後の玉名しか考えられませんし

もともと イザナミ や スサノオ を 昔氏 を名乗っています

二人とも 新羅とは縁のある人物でした

日本書記には スサノオ は 高天原を追われ 新羅の国に行きますが

「私の住む国ではない」といって 息子 五十猛神(イソノタケル)とともに

渡来してきたとありますし

天日槍(アメノヒボコ)は 新羅の王子で

妻のアカル姫を追って 母国伊都国 (糸島) に渡来してきたと

筑前風土記には 書かれています

そう考えれば 多婆那 とは 玉名 であり 狗奴国 だったのかもしれません

脱解王 は 狗奴国 の王子だったのです


話は 韓流ドラマ 「鉄の王 キムスロ」にもどりますが

このドラマの中にも 脱解王 は 《ソクタレ》として

キムスロ の ライバルとして登場します

ここでは 親に捨てられ 伽耶国に流れ着いた ソクタレは

鍛冶職人として 力をつけ キムスロ と鉄器の製造技術を競います

やがて 新羅の将軍となり


伽耶国をめぐって キムスロ と戦いますが 最後は キムスロ を認め

自分は 新羅の王となるというストーリーでした


〈伊都国〉と〈狗奴国〉に 出自をもつ 《金首露》と《昔脱解》が

〈伽耶〉と 〈新羅〉をめぐって 対立する

倭国における 対立が 半島でも繰り広げられたといえば

なんと 興味深い 話なのでしょう







by nonkei7332 | 2016-02-28 15:00 | 古代史 | Comments(0)


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「鉄の王キムスロ」で キムスロ を演じる チソン さん




古代朝鮮の国々は 倭国と密接な関係をもっていました

とくに 伽耶 は 古くは 金海伽耶 と呼ばれ

歴史書(魏志倭人伝)には 狗邪国 狗邪韓国 と書かれ

倭国の中の 一つの国家として 位置づけられています

金海金氏 の 始祖として 伽耶国を建国したのが

『 金 首 露 』です


建国神話によると 金首露は 天降った6個の金の卵の中から生まれ

一番最初に殻を破って世に出てきたので首露と名づけられた

6個の卵からそれぞれ生まれた男の子たちは

伽耶六部族国家の長となり 後にこれらの部族国家が

金首露の下に統合されて 西暦42年 伽耶国が建国されたとされています

そういえば 高句麗も新羅も伽耶も 半島国家の始祖は

神話の中で ほとんどが 卵から 生まれています

いずれも 他国から 流されてきた 王子 だったようです


韓流ドラマ に 『 鉄の王 キム・スロ 』があります

韓流歴史ドラマから 半島の歴史を学んだ 私にとっては

当然 何度も見た ドラマ です


《あらすじ》

狗邪(クヤ)国は優秀な製鉄技術によって栄えているが、

9つの村の部族長たちの合議制で成り立っていて王がいない国だった

北方から来た子が王になるというお告げを受けた祭司長イビガは

乗った船が難破して流れ着いた チョンギョン(スロの母)が

そのお告げに関係すると考え求婚する

チョンギョンも自分の子が王になると信じ

イビガを受け入れて イジンアシ(スロの異父弟)を生み

王になる教育をほどこしていく

だが お告げの主はチョンギョンの前夫との子供で

難破で死んだと思われていた キム・スロ のことであった

浜で拾われたスロは鍛冶長チョバンの子として


優秀な鍛冶職人に成長していく

スロは自分が王になるなどとは思っていない

だが 運命は彼に王への道を示し 数々の試練を乗り越えて

成長していく スロは やがて 王となり

鉄器製造技術を武器に伽耶国を海洋貿易国家へと導いていった



糸島半島 に 可也山(かやさん) という 山があります

綺麗な山で 糸島富士とも呼ばれています

伊都国は 製鉄の技術を持った 国でした

おそらく 伽耶国 と 伊都国 は 海を隔ててはいますが

同じ国だったのかもしれません

キムスロ の 王妃 はインドの豪商の娘 許黄玉(ホ・ファンオク)です

キムスロとの間に10人の子をつくります

10番目に生まれた 娘 が 《卑弥呼》だという説があります

糸島伊都国は

キムスロの娘 女王卑弥呼の治めた 国だったのでしょうか





by nonkei7332 | 2016-02-24 16:30 | 古代史 | Comments(0)

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木偏に 冬と書いて 柊 (ひいらぎ) と読みます


冬に白い花をつけます

葉先が尖っていて 人の進入を防ぐ為でしょうか 垣根によく使われます

この 柊 は 昔から 邪気を祓うとされて 庭の北東(表鬼門)に 柊 を

南西(裏鬼門) には 南天を植えると 良いと言われています


伝承によれば 昔 山神達は 杖をついて 山から下りてきたと言います

そして 山の戻る時には その杖を 地面に突き刺して帰りました

やがて その杖から 根が生えて 花が咲くと

村 の その年は 豊年満作 になるといわれていたのでした

その杖は 〈柊の木〉だったのです

山神 は 村の土地の精霊に向かって 必ず 根を生やし 花を咲かせよと

祈っていったのでしょうか それとも

鉄の民であった 山神が 多くの木を伐って 麓の田畑を荒らした

償いだったのでしょうか


渡来の神 が 木を植えていったという故事があります

紀の国 の 起源である 佐賀の〈基山〉には

スサノオ が 高天原から追放され 子供の五十猛神 と新羅に行き

持ち帰った木の種を最初に植えたという伝承が残っています

(基山山頂には「日本植林発祥の地碑」があります)


《柊》は 《疼木》という 漢字でも使います

もともと 〈ひいらぐ〉という意味から ついた名前ですが

〈ひいらぐ〉は ヒリヒリ痛む とという意味です

やまいだれ に 冬をいれた〈疼〉の字は

〈うずく〉とか〈いたい〉と読みます

若い頃の 痛みも 疼きも いつかは 消えていきます

柊の葉も 若い頃には 棘だらけですが

必ず いつかは 丸くなっていくといいます

人も 歳を重ねるごとに 丸くなるといいですね



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by nonkei7332 | 2016-02-17 17:40 | 古代史 | Comments(2)

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毎年 この時期に 志賀海神社 に詣でます

私にとっての 遅い 初詣で なのです

小雨の降る中を 参道を 歩いていると

町の人々が にこやかに 挨拶をしてくれます

今日は 『歩射祭神事』が行われているからでしょうか

普段より 幾分 参拝の人も多いみたいですが

テレビで見る あの 異様な初詣でとは 全く違う 風景なのです



経済最優先の 物欲に 塗れた この国にしたのは誰なのか

真実の祭神さえも変え

《商売繁盛》の守銭奴 に 堕落した

神社(神社庁) の罪を 私は 嘆きます


少なくとも そんな所には行きたくもない

そんな 頑固な男の 遅い初詣 の理由がここにあります



村の鎮守の神様の

今日はめでたい御祭日

ドンドンヒャララ

ドンヒャララ

ドンドンヒャララ

ドンヒャララ

朝から聞こえる笛太鼓

《 童謡「村祭り」》


自分達の誇れる 祖先神 を 町人が 総出で祝う

昔の 神社の 原風景が ここには まだ 残されています


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志賀海神社の『歩射祭』の起源は

その昔 安曇族が 敵対した 土蜘蛛を退治したことに由来します

奴国 と 狗奴国 が敵対していた時期もあったのでしょうから

それは それで うなずける起源ではあります

その後 多くの 国が 倭国 として 統一 されていきます

倭国王朝(九州王朝) は 仁徳天皇 のころ 全盛期を迎えたのでした

その中心的な存在が 安曇磯良 を始めとする 安曇の民だったのです

そこには 隠されてきた 多くの謎が 横たわっています



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熱いあめ湯 が 冷え切った身体を 温めてくれました

美味しかったです



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帰り道 参道の民家に咲く 蝋梅(ろうばい)の花が


春を 呼んでいるかのようでした

昔は 蝋梅の実を 子供たちが競うように取って 食べていたと

本の中で 読んだことがあります

あの緑の実を どんなふうにして 食べたのか どんな味がするのか

知っている人は まだいるのでしょうか


帰りのバスを待っていて 思いがけなく

志賀海神社の 平澤憲子権禰宜 とばったりお会いしました

和かな笑顔で 話しかけてくださいました


《 平澤さん(旧姓安曇) は

五年前に亡くなられた 安曇磯和宮司の妹さんです

55歳から 神職を学ばれたそうです 女性が宮司を継げないために

今は権禰宜として神社を守っておられます

今は 太宰府天満宮の西高辻信良宮司が宮司代行をされていますが

いずれは 御子息である 平澤幸興さんが

宮司を継がれることが 島民の願いでも あるそうです 》



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安曇の魂 を 誇り高く 護り続ける 志賀海の人達

そして その愛すべき人々を温かく抱く 磯良の海

ここには この国の 記憶の奥に眠る

故郷の風景が まだ 残っています







by nonkei7332 | 2016-01-18 16:10 | 日記 | Comments(0)

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雲仙市 橘神社の 世界一大きい 門松




日本人は嬉しい事があったら

『盆と正月が一緒に来た』という言葉を使います

一年の中に 祝うべき日が二日あったからです

おそらく 冬至(12/22) と 夏至(6/21) の季節の節目を祝ったのが

そもそもの起源でしょうが 何度か 暦や風習が変わっていき

現在のような 祝祭 に変わってしまいました

冬の正月 と 夏の七夕 (仏教に習合され 盆となった) がそれです



特に 正月は昔の村々では 歳神様 という その氏族の祖先神を

迎える行事だったといわれています

その名残が 今ではもう見られる事が少なくなった

「門松」「注連飾り」に残っています

こういった松飾りを飾っておく期間を「松の内」といいます

地方よっては 7日だったり 15日だったりしますが

松飾りは 歳神様が道に迷う事なく 家々に迎えるための目印とも

家に歳神様の滞在を示す印だともいわれていました

その松飾りを焼くことで お送りするのが

「どんと焼き」などと呼ばれる 各地の火祭りです


さてさて 歳神様といわれる 祖先神はどこにおられたのでしょうか

それは 「山」です 歳神様は 「山の神」だったのです

その昔 人とも 神ともいえない 神人(かみびと)が山には住んでいました

冬になると 里に下りてきて 山の幸と里の幸を交換しては

山に帰ったといいます

神人は 赤い顔をしたり 青い顔をしたり 片目が無かったり

鼻が異様に高かったり そんな 顔をしていました

そうです 後の世に 「鬼」とか「天狗」と呼ばれた人達でした

神人は いろんな 山のみやげ物を 麓の村に もってきました

遠い昔 稲作を村に教えたのも 神人でした

山で木を刈り炭を作り その火で鉄を造っていました

その鉄で 鍬(くわ) や 鋤(すき) を造っては 村人を助けました

酒の作り方も 薬も 村人に与えたのでした

そして 神人は 星を読むことができました

星を読んでは 暦を作り 村人にその年の 天地の動きを教え

稲を植える品種 や 時期までも教えていたのです

沢山のみやげを持ってきてくれる 神人を 村人は 正月になると

門松を立て 晴れ着を着て迎えたのでした

平和な 風景 だったのでしょう



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太宰府天満宮 鬼すべ神事



1月7日に 太宰府天満宮や糸島市の老松神社では

「鬼すべ神事」や「鷽替え神事」が行われます

歳神様(神人)を迎えた 村人の祭りの面影を残しています

ただ 悲しい事に 日本の 偽りの 歴史は

神人(鬼・天狗) を 幸をもたらす者から

災いをもたらす者へと 変えてしまいました

そのもっともひどい行事が 「節分」です

《鬼は外 福は内》といって 鬼に豆を投げつけます

本来の姿は 《鬼は内 福も内》と言って 頂いた土産と交換に

里で取れた 豆を 鬼に献納したのではないかと思います

ちなみに 埼玉県嵐山町の鬼鎮神社 や 奈良県天川村の天河神社など

多くの神社やお寺での 節分には 《鬼は内 福も内》と言っているのです

最近はやりの 節分の 恵方巻 も 歳神様のいる方向(南南西)

を向いて食べないといけないといいます

歳神様(鬼)から頂いた物への感謝のお返しなのです



初春に行われる 風習や神事の起源は

山の神から そして もつと古くは 海の彼方から 来訪すると信じた

祖先神を 祀る事だつたのでしょう


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沖津宮 御手洗浜




明日 私は 海神の住む 龍の都 志賀海神社に行きます

遠い昔に 海の彼方から 渡ってきた 祖先神 に

今年一年の 感謝の想いを伝えます

今頃 明日の『歩射祭』のために 八人の若者が

沖津宮 の 御手洗浜 の海に入って


禊 (みそぎ) をしている ころでしょうか








by nonkei7332 | 2016-01-16 13:11 | 古代史 | Comments(0)

by ヒサミツ