「ほっ」と。キャンペーン
ブログトップ

《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて

タグ:古代史 ( 86 ) タグの人気記事


b0325317_17253336.jpeg



木偏に 冬と書いて 柊 (ひいらぎ) と読みます


冬に白い花をつけます

葉先が尖っていて 人の進入を防ぐ為でしょうか 垣根によく使われます

この 柊 は 昔から 邪気を祓うとされて 庭の北東(表鬼門)に 柊 を

南西(裏鬼門) には 南天を植えると 良いと言われています


伝承によれば 昔 山神達は 杖をついて 山から下りてきたと言います

そして 山の戻る時には その杖を 地面に突き刺して帰りました

やがて その杖から 根が生えて 花が咲くと

村 の その年は 豊年満作 になるといわれていたのでした

その杖は 〈柊の木〉だったのです

山神 は 村の土地の精霊に向かって 必ず 根を生やし 花を咲かせよと

祈っていったのでしょうか それとも

鉄の民であった 山神が 多くの木を伐って 麓の田畑を荒らした

償いだったのでしょうか


渡来の神 が 木を植えていったという故事があります

紀の国 の 起源である 佐賀の〈基山〉には

スサノオ が 高天原から追放され 子供の五十猛神 と新羅に行き

持ち帰った木の種を最初に植えたという伝承が残っています

(基山山頂には「日本植林発祥の地碑」があります)


《柊》は 《疼木》という 漢字でも使います

もともと 〈ひいらぐ〉という意味から ついた名前ですが

〈ひいらぐ〉は ヒリヒリ痛む とという意味です

やまいだれ に 冬をいれた〈疼〉の字は

〈うずく〉とか〈いたい〉と読みます

若い頃の 痛みも 疼きも いつかは 消えていきます

柊の葉も 若い頃には 棘だらけですが

必ず いつかは 丸くなっていくといいます

人も 歳を重ねるごとに 丸くなるといいですね



b0325317_17262711.jpeg




by nonkei7332 | 2016-02-17 17:40 | 古代史 | Comments(2)

b0325317_15384615.jpeg


毎年 この時期に 志賀海神社 に詣でます

私にとっての 遅い 初詣で なのです

小雨の降る中を 参道を 歩いていると

町の人々が にこやかに 挨拶をしてくれます

今日は 『歩射祭神事』が行われているからでしょうか

普段より 幾分 参拝の人も多いみたいですが

テレビで見る あの 異様な初詣でとは 全く違う 風景なのです



経済最優先の 物欲に 塗れた この国にしたのは誰なのか

真実の祭神さえも変え

《商売繁盛》の守銭奴 に 堕落した

神社(神社庁) の罪を 私は 嘆きます


少なくとも そんな所には行きたくもない

そんな 頑固な男の 遅い初詣 の理由がここにあります



村の鎮守の神様の

今日はめでたい御祭日

ドンドンヒャララ

ドンヒャララ

ドンドンヒャララ

ドンヒャララ

朝から聞こえる笛太鼓

《 童謡「村祭り」》


自分達の誇れる 祖先神 を 町人が 総出で祝う

昔の 神社の 原風景が ここには まだ 残されています


b0325317_15395543.jpeg


b0325317_15402477.jpeg

b0325317_15410216.jpeg


b0325317_15413448.jpeg


b0325317_15421821.jpeg




志賀海神社の『歩射祭』の起源は

その昔 安曇族が 敵対した 土蜘蛛を退治したことに由来します

奴国 と 狗奴国 が敵対していた時期もあったのでしょうから

それは それで うなずける起源ではあります

その後 多くの 国が 倭国 として 統一 されていきます

倭国王朝(九州王朝) は 仁徳天皇 のころ 全盛期を迎えたのでした

その中心的な存在が 安曇磯良 を始めとする 安曇の民だったのです

そこには 隠されてきた 多くの謎が 横たわっています



b0325317_15424308.jpeg


熱いあめ湯 が 冷え切った身体を 温めてくれました

美味しかったです



b0325317_15442128.jpeg



帰り道 参道の民家に咲く 蝋梅(ろうばい)の花が


春を 呼んでいるかのようでした

昔は 蝋梅の実を 子供たちが競うように取って 食べていたと

本の中で 読んだことがあります

あの緑の実を どんなふうにして 食べたのか どんな味がするのか

知っている人は まだいるのでしょうか


帰りのバスを待っていて 思いがけなく

志賀海神社の 平澤憲子権禰宜 とばったりお会いしました

和かな笑顔で 話しかけてくださいました


《 平澤さん(旧姓安曇) は

五年前に亡くなられた 安曇磯和宮司の妹さんです

55歳から 神職を学ばれたそうです 女性が宮司を継げないために

今は権禰宜として神社を守っておられます

今は 太宰府天満宮の西高辻信良宮司が宮司代行をされていますが

いずれは 御子息である 平澤幸興さんが

宮司を継がれることが 島民の願いでも あるそうです 》



b0325317_15445152.jpeg



安曇の魂 を 誇り高く 護り続ける 志賀海の人達

そして その愛すべき人々を温かく抱く 磯良の海

ここには この国の 記憶の奥に眠る

故郷の風景が まだ 残っています







by nonkei7332 | 2016-01-18 16:10 | 日記 | Comments(0)

b0325317_12172407.jpeg
雲仙市 橘神社の 世界一大きい 門松




日本人は嬉しい事があったら

『盆と正月が一緒に来た』という言葉を使います

一年の中に 祝うべき日が二日あったからです

おそらく 冬至(12/22) と 夏至(6/21) の季節の節目を祝ったのが

そもそもの起源でしょうが 何度か 暦や風習が変わっていき

現在のような 祝祭 に変わってしまいました

冬の正月 と 夏の七夕 (仏教に習合され 盆となった) がそれです



特に 正月は昔の村々では 歳神様 という その氏族の祖先神を

迎える行事だったといわれています

その名残が 今ではもう見られる事が少なくなった

「門松」「注連飾り」に残っています

こういった松飾りを飾っておく期間を「松の内」といいます

地方よっては 7日だったり 15日だったりしますが

松飾りは 歳神様が道に迷う事なく 家々に迎えるための目印とも

家に歳神様の滞在を示す印だともいわれていました

その松飾りを焼くことで お送りするのが

「どんと焼き」などと呼ばれる 各地の火祭りです


さてさて 歳神様といわれる 祖先神はどこにおられたのでしょうか

それは 「山」です 歳神様は 「山の神」だったのです

その昔 人とも 神ともいえない 神人(かみびと)が山には住んでいました

冬になると 里に下りてきて 山の幸と里の幸を交換しては

山に帰ったといいます

神人は 赤い顔をしたり 青い顔をしたり 片目が無かったり

鼻が異様に高かったり そんな 顔をしていました

そうです 後の世に 「鬼」とか「天狗」と呼ばれた人達でした

神人は いろんな 山のみやげ物を 麓の村に もってきました

遠い昔 稲作を村に教えたのも 神人でした

山で木を刈り炭を作り その火で鉄を造っていました

その鉄で 鍬(くわ) や 鋤(すき) を造っては 村人を助けました

酒の作り方も 薬も 村人に与えたのでした

そして 神人は 星を読むことができました

星を読んでは 暦を作り 村人にその年の 天地の動きを教え

稲を植える品種 や 時期までも教えていたのです

沢山のみやげを持ってきてくれる 神人を 村人は 正月になると

門松を立て 晴れ着を着て迎えたのでした

平和な 風景 だったのでしょう



b0325317_12183116.jpeg
太宰府天満宮 鬼すべ神事



1月7日に 太宰府天満宮や糸島市の老松神社では

「鬼すべ神事」や「鷽替え神事」が行われます

歳神様(神人)を迎えた 村人の祭りの面影を残しています

ただ 悲しい事に 日本の 偽りの 歴史は

神人(鬼・天狗) を 幸をもたらす者から

災いをもたらす者へと 変えてしまいました

そのもっともひどい行事が 「節分」です

《鬼は外 福は内》といって 鬼に豆を投げつけます

本来の姿は 《鬼は内 福も内》と言って 頂いた土産と交換に

里で取れた 豆を 鬼に献納したのではないかと思います

ちなみに 埼玉県嵐山町の鬼鎮神社 や 奈良県天川村の天河神社など

多くの神社やお寺での 節分には 《鬼は内 福も内》と言っているのです

最近はやりの 節分の 恵方巻 も 歳神様のいる方向(南南西)

を向いて食べないといけないといいます

歳神様(鬼)から頂いた物への感謝のお返しなのです



初春に行われる 風習や神事の起源は

山の神から そして もつと古くは 海の彼方から 来訪すると信じた

祖先神を 祀る事だつたのでしょう


b0325317_12193787.jpeg
沖津宮 御手洗浜




明日 私は 海神の住む 龍の都 志賀海神社に行きます

遠い昔に 海の彼方から 渡ってきた 祖先神 に

今年一年の 感謝の想いを伝えます

今頃 明日の『歩射祭』のために 八人の若者が

沖津宮 の 御手洗浜 の海に入って


禊 (みそぎ) をしている ころでしょうか








by nonkei7332 | 2016-01-16 13:11 | 古代史 | Comments(0)

b0325317_17221906.jpeg
初烏 (牡丹品種)




夕やけこやけで 日が暮れて

山のお寺の 鐘がなる

お手々つないで みなかえろ

からす と いっしょに かえりましょ


童謡の『夕焼け小焼け』です

日本人なら だれでも目に浮かぶ 原風景がここにあります

烏(からす) は 昔から 山の神のお使い だと言われていました

今では 嫌われ者の カラス も 昔は

人々を導く 御崎(ミサキ)神 と 呼ばれていたのです



初烏(はつがらす) というのは

元日の朝早く鳴く 烏のことを言います

冬の季節を表す 特に 元旦のおめでたい日の 季語 として使われます

元旦の宮内庁の朝賀や 即位式には 紫宸殿の南には

威儀を加える用具として『烏形幢』(うぎょうどう)という幢が

飾られます 三本足の烏 ヤタガラス です


b0325317_17193300.jpeg
明治天皇御即位式図屏風
(ネルソン・アトキンス美術館蔵)


全国の神社でも 烏神事 が残っています

〈名古屋の熱田神宮〉〈近江の多賀大社〉〈安芸の厳島神社〉では

カラスに神饌 を供して年占をする 御鳥喰神事(おとぐいしんじ)が

今でも 行われています

神社以外でも東北や越後の 家々では

正月十一日の農立ての日の朝 今年苗代にしようと思う田に行って

初鍬をいれ 三ヶ所に 餅と神酒・洗米とを供えて

これを早稲・中稲・晩稲の三通りに見立てて置きます

そして 大きな声でオミサギ・オミサギと喚ぶと直ぐに烏が飛んで来て

その餅をくわえて行きます どの餅を先に持って行くかを見て

三種いずれの稲が本年は当り作であるかを決めるという

《烏勧請》(からすかんじょう) という 風習が残っているそうです


神々の御崎(ミサキ) としての カラス もまた 神を導く鳥として

人々に 敬われていたのでしょう



こういった 神事や風習 が古代史の謎解きをしてくれます

まずは 熱田神宮をはじめ この神事が残っている神社は

何れも 安曇族(海人族) と縁のある神社ばかりです

海人とカラス の繋がりでいえば

海に出た海人達が

霧の立ち込めた海で 陸を探すとき 舳先から カラスを放って

飛んでいった方を陸地だとした という話があります


海神 八咫烏(ヤタガラス) といえば


安曇の祖神 豊玉彦 です

神武天皇(九州王朝) を 支えた 御崎神 だったのでした


b0325317_17242787.jpeg
初烏 (花菖蒲品種)


b0325317_17252102.jpeg
初烏 (桜草品種)








by nonkei7332 | 2016-01-14 18:13 | 日記 | Comments(0)


b0325317_17331128.jpeg
伏見稲荷大社




京都盆地 の東山の西麓地区 を 伏見深草 と言います

伏見は かつて「伏水」と言われていたように


地下水系が豊富な土地で 昔から 酒造りなどが行われています

深草は 草が深く生い茂る 湿地帯だったようで その後

秦氏が 中心になって ここを 開拓し

豊かな 農地へと 変わっていったのでした

平安の頃には 官人たちの別荘地になり

中世には 京都の中心地として発展していきます


この地に鎮座するのが 『伏見稲荷大社』です


祭神 は 五柱です

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)

佐田彦大神

大宮能売大神

田中大神

四大神(しのおおかみ)


秦氏の 秦伊呂具が 和銅4年(711年) に建てたと言われていますが

もっと古くは 稲荷山の山そのものが祀られていたようにも思えます

稲荷 とは何なのかに その答えがあるようです

秦氏が行った 低湿地の灌漑や治水には 欠かせない道具がありました

それは 鉄器 です 鉄製の鍬や鋤 があってこそ その事業ができたのです

それは どこで作ったのか

私は この稲荷山 こそ 産鉄の山だったと思っています

伏見稲荷大社の秋の祭り〈火焚祭り〉は

別名「ふいご(鞴)祭り」というそうです

ふいご とは タタラ製鉄において 炉口に風を送る道具です

鍛冶の神を祀った 祭りだったのでしょう


b0325317_17323699.jpeg
千本鳥居





秦氏以前 この稲荷山周辺を治めていた

氏族が住んでいたとされています

その氏族とは 紀氏 でした

奈良時代 深草は〈紀伊郡深草郷〉と呼ばれていました

このあたりは 紀氏一族が 拠点としていた土地だったのです

深草の南 に 藤森神社があります

藤森神社は スサノオを初めとする多くの祭神が祀られていますが

紀氏の先祖を祀る神社だともいわれているのです


紀氏 の祖先は 〈姫氏〉とも呼ばれます

中国呉の国を追われた 海人族です

熊本 有明海沿岸 背振山南麓(佐賀武雄から鳥栖市)に流れ着いた

いわゆる 狗奴国 の祖先です

それは 神武・卑弥呼 と続いていく系統です

主に 稲作を伝えました

もうひとつの姫氏の 流れがあって 呉から 黄海を渡り

半島新羅経由で 背振山北麓(糸島)に住み着いた 海人族です

スサノオ(天日鉾)・宇迦之御魂(出雲国造)・野見宿禰 土師氏と流れる

新羅系の出雲族と呼ばれる 人達です

主に 製鉄の技術を伝えました


伏見大社の本殿前に 狐の像が左右二頭 たっています

一匹は稲穂を咥えています

もう一匹は 巻物(暦) を咥えています

鉄の民は 暦をよむ民でもありました

姫(紀)氏が この国に伝えた 稲と鉄 を象徴しているのです


b0325317_17315755.jpeg
本殿前の狐像




佐賀県東部の基山町 という町に 基山(404m)という山があります

スサノオが新羅から持ってきた木を植林したとの伝説があります

この周辺の山麓を 〈基の国〉といっていていました

呉狗国 紀氏 の本拠地であったとされ 付近には 多くの墳墓があり

あの 吉野ヶ里遺跡もこの近くなのです

姫の国(呉) が 基の国となり 後世 紀の国 と呼ばれたのでしょう


私には 基山 と 稲荷山が 同じように 見えてきます


基山近くに残る 昔話に 「ふたりの長者」という話があります

田中長者 と 虎丸長者 の話なのですが

伏見大社の謎の祭神 「田中大神」とダブりますね

「田中大神」とは 筑紫の神だったのでしょうか

(詳しくは 拙ブログ 1/19 「ふたりの長者」を見てください)


b0325317_17341140.jpeg
基山からの 展望



b0325317_17344028.jpeg
稲荷山からの展望





もうひとつの謎は 秦氏とともに この地に住み着いていた

《土師氏》(はじし) の存在です

土師氏については 神話や 記紀には

天日鉾(スサノオ)・野見宿禰 ・土師氏 と繋がる系統だとされています

垂仁天皇の頃の話に

皇后の葬儀の時に 殉死を憂いた 垂仁天皇に 野見宿禰が

埴輪を埋める事を提案したことで 土師臣 の姓を与えられ

土師氏は 代々天皇家の 古墳造営を含めた 葬送儀礼全般に 仕切った

とされています その後は 朝廷が仏教を庇護した為に

古墳造営も無くなり やがては 勢力も衰えていきます

桓武天皇の時に 一族は 土師氏の改名を嘆願し

大江氏・秋篠氏・菅原氏 の姓をうけ 官職につきます

後世 祟りの神として 畏れられた

菅原道真公 の 祖先は 土師氏 だったのです


秦氏と 同じような出自の 氏族でもあり

同じように 歴史から 消えていった 土師氏

土師氏は 秦氏 の裏の顔 かもしれません

山に入り 来る日も来る日も 鉄を造り続けた 鍛冶の民

土蜘蛛と呼ばれ そして 鬼と呼ばれ 殺されていった 悲運の民

〈修羅〉を引きずりながら 偽りの墳墓をつくり続けた 土師の民

やがては 傀儡の民となって 歴史の表舞台から消えた

悲しみの民でした


福岡の 嘉穂郡桂川町には 土師老松神社 があります

土師氏の里としての伝承が 多く残っています

重文の「土師獅子舞」は 海を渡ってきた 獅子が舞われ

呉狗の民の 末裔を 匂わせています

近くには 「出雲」の地名が残っていて

古出雲はこの辺りではなかったのかと 思えてなりません



b0325317_17352161.jpeg
伏見人形





深草の地には 多くの 土師の民が住んでいたとされています

深草土師氏は 元来 鉄の民 鍛冶の民 だったのですが

後世 この地で取れる 良質の粘土で 多くの 瓦や土器をつくります

その後 稲荷神社の 参拝者土産に作った 伏見人形は

日本の最古の土人形だと言われ 稲荷信仰の拡大と共に

全国に広まり 全国各地の 郷土人形へと繋がっていったのでした



b0325317_17355231.jpeg
稲荷山 山麓





伏見深草 に鎮座する 稲荷の神は

遠く 古代中国の 姫氏 が祀った 神でした

それは 遠き海を渡ってきた 稲穂の神であり

多くの富と戦をもたらした 産鉄の神でもありました

筑紫の民であった 秦氏 そして 土師氏

九州倭国 の 神々 を ここにも 祀ったのでしょう








by nonkei7332 | 2015-12-14 17:27 | 京都 | Comments(0)


b0325317_02363057.jpeg
今宮神社 楼門



どんより曇った空だったが


『 お父さん 雨はふらないと思うよ 』という


嫁 の 言葉を信じて 傘を持たずに 出た



地下鉄烏丸線で四条で降り

上賀茂神社行きの4番のバスに乗る 千本木通りを 北へ 向かう

佛教大学キャンパスを過ぎると 右折して 今宮通り

なだらかな坂を下り 下り終わったところが 今宮神社だった

紫野 (むらさきの) と呼ばれた この辺りは

昔から 洛北七野


( 内野・北野・平野・萩野・蓮台野・紫野・上野 )


と 呼ばれた丘陵地で


朝廷の禁野 として 御猟や遊覧の野原だったという



b0325317_02374825.jpeg



真っ赤な楼門が ひと際目立つ 『今宮神社』

左右に大きな提灯と 簾が旗めく

なんと なんと 『三階松』の社紋なのだ



b0325317_02383253.jpeg
本殿

b0325317_02390464.jpeg



この社 の由来をみると

平安京遷都の前には 年代はわからないが

スサノオを祀った 疫神社 だったらしいく八坂神社と同じように

たびたび起こる 疫病や災厄 を鎮める為の 「御霊会」が営まれ

「紫野御霊会」と呼ばれたようだ

祭神は 〈大己貴命〉〈事代主命〉〈奇稲田姫〉の 三柱

今宮というのは 新たに設ける宮 という意味で

何か今宮という神 が 存在するわけではないと教えていただいた

近くの 賀茂社 よりも 八坂神社に近い 神社なようだ

朝廷の 崇敬は厚く 社殿の修復なども繰り返されている

武家からの 崇敬も特に厚く

秀吉は 秀頼公出生の年には 御座所 を設けている

江戸時代には 氏子に中で 西陣の機業 が発展し

この地に生まれた 桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母) は

西陣への愛郷の念が強く 祭事の復興や 神域の整備に 大いに努めたようだ

特に 末社 の 「織姫社」の 祭神は 『栲幡千千姫命』

高皇産霊命 の女で皇祖天之忍穂耳尊の妃であり

天火明命と邇邇芸尊の御母にあたる

豊秋津姫 (とよあきつひめ)だとされる

西陣の人たちには 織物の祖神として強く敬われている



b0325317_02402790.jpeg



楼門の右手に 摂社 「宗像社」がある

お目当の 台座には 鯰の彫り物が あった

狗奴国の鯰が ここにも かと 考えると 想いが深い



b0325317_02410830.jpeg




左手の斜面には 摂社「月読社」

階段は 朱色い紅葉の絨毯

雨に濡れた 木々も 美しい



b0325317_02420769.jpeg
末社 月読社

b0325317_02424693.jpeg


b0325317_02432350.jpeg




社務所で 売られている 御守りの 「やすらい人形(ひとがた)」

朱い 人形には 「蘇民将来子孫也」の文字が書いてある

氏子達の 家々には このお札が 貼られているのだろうか



b0325317_02440534.jpeg



婚礼の パンフレット撮影なのか

後を追っかけてみた



b0325317_02444006.jpeg


b0325317_02452688.jpeg



東門前にある 今宮名物 「あぶり餅」の店

かざりや屋さん と 一和さん

「あぶり餅」は 親指大のお餅にきな粉をまぶしてから

炭火であぶり 甘辛い白味噌だれをたっぷり絡ませたもの



b0325317_02460808.jpeg

b0325317_02464381.jpeg



小糠雨に濡れながら

洛北紫野 を 大徳寺に向かった








by nonkei7332 | 2015-11-28 08:30 | 京都 | Comments(2)


b0325317_16480764.jpeg
博多松囃子





『博多どんたく港まつり』

5月の連休に行われ 200万人もの人が集まる

博多の祭 〈どんたく〉 の 正式名称です

ところが この 〈どんたく〉と言い出したのは 明治以降で

それまでは 『博多松囃子』と言っていました

それも 5月ではなく 正月の行事だったのです

古来から 正月になると 門松をたてます

その年の新しい神様が松に降りてくるといわれていました

松囃子 は その松を伴って それぞれの 領主に年賀挨拶をする

行事として始まったとされます 室町時代だといわれますが

その 起源は 定かではありません もっと古いのかもしれません


b0325317_16491700.jpeg
博多町家館 より



謡曲に 『蘆刈』という演目があります

この話は 仁徳天皇のころ 〈津の国難波の都・博多〉の話です

貧困の為 別れた夫婦がいました その後 妻は高貴な家の乳母となり

夫を探しに筑紫の国にきます そこで 蘆売りとなっていた夫と巡り会い

二人で 都に帰って行ったという話ですが

蘆売りの夫が 蘆を売るために 昔からの歌を賑やかに囃して謡います


名に負う梅の花笠、難波女の被く袖笠、

肘笠の雨の蘆辺も乱るるかたを波、彼方へざらりこの方へざらり、

ざらざらざっと風の上げたる古簾、つれづれもなき心よ、



津の国 難波の春は 夢なれや



仁徳天皇善政 と 筑紫の国の華やかさを歌っているのです

その風景こそ 〈博多松囃子〉の いにしえの風景に見えてくるのです

梅 ・ 松 ・ 笠 これは 九州王朝の象徴でもあります


囃子の語源をたどると はやす(生やす) に繋がります

〈囃す〉は 増殖させる 増やす 豊にする の意味でもあります

『松囃子』の意味するものは

松である かつての 九州王朝を 偲び その思いを拡げていく

祭りではなかったのでは ないでしょうか



b0325317_16504276.jpeg
京都今宮神社




京都の北に 《今宮神社》があります

ここでは 京都の三大奇祭 と呼ばれる『やすらい祭』があります

因みに あとの二つは 鞍馬寺の「鞍馬の火祭」そして

広隆寺の「太秦の牛祭」ですが ここでは ふれません

「やすらい祭」は 古来より疫神を鎮めるために行われていました

由緒によれば

『 神祇官の「鎮花祭」と「御霊会」が結びついた「花のまつり」で、

花の精にあおられて 飛散する悪魔の精霊を

囃子や 歌舞によって追い立てて 風流傘に宿らせ、

紫野ノ社に送り込んで神威を仰いで降伏させる 』

と 書かれています

元々は 3月に行われていました 花笠や若松もでてきます

博多松囃子 に よく似ています

やすらい を 「夜須礼」と書くそうです

『夜須に礼をつくす』という意味なのでしょうか



b0325317_16513081.jpeg
やすらい祭



『夜須』といえば 日本書紀に

「神功皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峽宮に遷りたまふ」

とあります その後 羽白熊鷲を征服した 神功皇后は

「我が心則ち安し(やすし)」といったので

この地を「夜須」というようになったいう 伝承があります

夜須町は 筑前市 と名を変えましたが

松峡宮 とされる 跡地には

松峡八幡宮(まつおはちまんぐう)が鎮座します


明治以前においては 博多の松囃子が

朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もあるのです

( 文献として 残っているかどうか 調査中 )



b0325317_16523336.jpeg
松峡八幡宮 ( 空 sora そら さんのブログより)



気になる 都市伝説を ひとつ

京都弁で 「おいでやす」「おこしやす」というように

語尾に 「やす」という言葉を使いますがが 宮廷言葉からきたもので

「やす」は 「夜須」が語源だとの事



京都 今宮神社の 「やすらい祭り」 の 発祥は 博多の「松囃子」

京都 下鴨神社の 「葵祭り」の 発祥は 背振神社の 「賀茂まつり」

あとひとつの 謎解きは

京都 八坂神社の 「祇園祭り」の 発祥は・・・


博多 櫛田神社の 「博多山笠」?。



京都の謎 と 妄想は どこまでも 続いていきます。







by nonkei7332 | 2015-11-23 16:57 | 古代史 | Comments(4)


b0325317_20042792.jpeg
下鴨神社





平安遷都 前の 京都 には

筑紫の古代氏族 ・秦氏(宗像) ・土師氏(筑豊) ・賀茂氏(背振)

が多く住みついていました

桂川流域 の 秦氏の 松尾神社

鴨川流域 の 賀茂氏の 下鴨神社

南部伏見深草 の 土師氏の 伏見稲荷神社

この三つの 神社を通して

遠き 筑紫王朝の 面影を追うのが

今回の京都行きの旅の目的でもあります


下調べで 下鴨神社 の 賀茂氏 を探ってみました


筑紫の賢人(真鍋大覚さん) の

『灘の國の星』にはこんな記述があります


天智天皇 は 662年、筑紫の長洲宮に遷都された。

そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。

天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、

筑紫と同じ「葵祭」を催行された。

こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、

故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。

「背振神社」は京都「賀茂神社」に、

「現人神社」は大阪の「住吉大社」に

生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。

そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、

細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。

これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。

玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。

ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を

模した品にほかならないのと同じです。


土産のおこし や 京都名物「八つ橋」起源が 背振 にあったとは驚きです

もうひとつ 「下鴨神社」の名物に 「みたらし団子」があります

「御手洗」を みたらし と呼びます

綾杉さんの「志賀島歴史講座」で 志賀海神社沖津宮の浜あたりを

〈御手洗〉という地名だと知りました

イザナギが 黄泉の国の穢れを洗い清めた 禊の地 だと聴きました

今では どの神社には 手と口を濯ぐ 〈御手洗〉がありますが

下鴨神社境内には 瀬織津姫を祀る 御手洗社という末社があり

その前にある 御手洗池では 1年ごとに 禊の儀 が行われるそうです

みたらし団子の起源は 後醍醐天皇が参詣の時

この池に浮かぶ五つの泡にちなんで 団子の数が5個になったとも

人の身体の五体から 5個になったとも 言われているそうです

今度 街中で みたらし団子を 食べるときは

ほんとうに 5個 有るのか 確かめてみましょう



b0325317_20064919.jpeg
志賀海神社沖津宮 と 御手洗浜




さてさて 下鴨神社の正式名称は 『賀茂御祖神社』

祭神は 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

神武東征の際 八咫烏(やたがらす)に姿を変えて 神武天皇を

導いた あの謎多き 神です


ヤタガラス と言えば 日本サッカー の旗印でもある

三本足の からすです

韓流ドラマ「朱蒙」(チュモン) には

高句麗の国鳥であった 三本足のからす が

画面には たびたび 出てきたのでよく覚えています


この 八咫烏 という鳥 は いったい どういう 鳥だったのでしょう


筑紫の賢人は 『灘の國の星 拾遺』でこう書かれています

烏鵲 (うじゃく) (カササギの別名) は

干潟の冠水の有無遠近を見さだめる鳥として

昔は 旧約聖書のノアの洪水の神話の時代からしられていた

縄文弥生の祖先は 烏鵲と共に干潟の開拓に努めてきたのである

神代には 賀茂の氏族は 八咫烏(やたがらす)を伴として

日々を過ごしていた

今、肥前に棲む 『かちがらす』即ち『かささぎ』は

まさに その生きた化石というべきである

有明の干潟にいる「むつごろう」なる 鯊(はぜ)を餌としていたが

干潟が稲田となった今日では 全く無縁になるまでに

三千五百年以上の歳月をようしたことになる。


八咫烏 は カササギ の事であり

背振山山麓の肥前 に 起源を持つ 賀茂族 の 祖神 だったのです


現在 カササギ は 天然記念物 として

福岡の筑後 や 佐賀県に 生息しています


下鴨神社 は 肥前背振山麓 の 賀茂の祖神

「賀茂建角身命」を 祀る 神社でした

背振神社 の 「葵祭り」が

京都三大祭りの 賀茂社 の「葵祭り」の起源 だったのです



b0325317_20082448.jpeg
背振神社 下宮




賀茂建角身命 なる 人物 が 八咫烏 だと言われていますが

安曇磯良 の 母が あの 鴨玉依姫 その父が 『豊玉彦』


この 『豊玉彦』こそが 八咫烏 であったという 説があります


神功皇后 に 仕えた 安曇磯良

神武天皇 に 仕えた 豊玉彦

九州王朝 を 支えた 安曇族


これで すべてが 繋がったみたいですね。















by nonkei7332 | 2015-11-10 20:13 | 古代史 | Comments(2)


b0325317_12012532.jpeg




時々 君たちの夢を見ます

いまでは 37才 と 35才 のいい歳の親父になっているのに

夢の中に出てくる 君たちは

いつも 小さな子供だった頃の夢ばかりです

時々 送ってくれる 子供達(孫) との写真を見るたびに

そういえば 私にも こんな頃が あったなと

昔の写真を 探しては 失われていく 記憶を呼び戻しています

君たちが はしゃいでいる 昔の写真です

家族で 阿蘇に旅行に 行った時のスナップです

小さな旅でしたが 覚えていますか?

泊まった宿は 乙姫のペンション村 でしたね

丸太でできた 中二階の部屋を 君たちは 走り回っていました

乙姫ペンション村 なんて 洒落た名前をつけたもんだとしか

あの頃は 思っていませんでしたが

阿蘇の古代を紐解いていて 最近 わかったことがあります

近くに 乙姫神社 があります

祀られている祭神は 阿蘇の神々の母神 『蒲池媛』でした

( 9/30 の ブログ 「蒲池媛の謎」参照 )



ピンクスポット 〈乙姫神社〉ブルースポット 〈乙姫ペンション村〉


阿蘇神話 には 健磐龍命(たけいわたつのみこと) がいます

健磐龍命 は 阿蘇の開拓に携わった 豪族で 神武天皇の孫になります

全国にいくつかある 「蹴裂伝説」が残っています


《 昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であった

健磐龍命は湖の水を流して田畑を拓くことを考えました

満身の力で湖の壁を蹴り壊したのですが 湖の水は流れ出したものの

大鯰 が横たわり水の流れをせき止めてしまいます

健磐龍命はこの大鯰を退治して湖の水を流します

大鯰の流れて行った後は 白川 となり

大鯰は 《上益城郡嘉島町鯰》という

土地に流れ着いたと言われています》


乙姫についても 熊本の各地に 「乙姫伝説」が残っていますが

概ね 乙姫様が鯰に助けられる という ストーリーです

乙姫 といえば 「龍宮城の乙姫様」を思い浮かべるのですが

どこかで 繋がっているのかもしれません

〈熊本〉は 昔は 〈隈本〉といっていました

隈(くま)という字は 狗奴国 の 狗奴(くな)が訛ったものです

熊襲 もそうでしょう

隈 という地名は 熊本だけではなく 福岡の 筑後にも 筑紫にも

たくさん残っています 雑餉隈 月隈 などもそうですね

鯰の伝説 も 佐賀にも 糸島にも 那珂川町 にも 残っています

狗奴国(熊襲) の 勢力は広範囲の九州に及んでいたようです

鯰 の伝説の起源 は 遠く中国の呉の国 からきています

呉人の風俗に「提冠提縫」というものがあります

提とは鯰のことで 呉人は鯰の冠を被っていたとされています

嘉島町の鯰という場所は そういった 謂れがある

今でいう パワースポット でもあるのです

かつて この鯰の村に 戦国時代の 南熊本の守護大名

小西行長 の 陣跡があったときいたことがあります

小西行長は 有名な クリスチャン大名でしたので

南熊本や宇城や八代 の神社などの多くを焼き払ったと言います

おそらく 多くの古代からの歴史遺産 が失われたようです

鯰の地 にも 何かあったのではと 思っています

陣屋跡 を代々守ってきた 庄屋 には いまでも


年老いた 御夫婦 が 住んでおられます


b0325317_12004089.jpeg



私が 自分のルーツを追っかけてきた 旅も


まだ 旅の途中 です


それは 君たちにとっての ルーツでもあるのですが


君たちには もうひとつの ルーツがあるのです


ふたつのルーツ は 遠い昔 はひとつのものでした


奴国 と 狗奴国 争いはしましたが


やがて 九州王朝 という きらびやかな


この国の始まりでもあったのです



来月 京都に 孫に会いに行きます


紅葉真っ只中の いい季節をえらびました


1000年の王朝 の煌びやかさの奥に隠された


1500年前の 筑紫の王朝 の面影を探す 旅 になりそうです




熊本県 上益城郡 嘉島町 鯰





by nonkei7332 | 2015-10-26 12:07 | 博多ルーツ | Comments(2)


b0325317_14465008.jpeg
今津湾岸 のヨット




博多湾沿い 唐津街道 を 西に向かう

姪浜をすぎると 今津湾沿いの

生の松原 長垂海岸と 白砂青松の 綺麗な海岸線 が続く

唐津街道 は 今宿から は 海岸線をはなれ 前原へと

糸島半島の田園地帯を 突き抜けるように 西へ 道が伸びていく

このあたり かつては 海峡であったといわれ

糸島の名前は 海を隔てた 怡土国 と 志摩国 から

怡土志磨 (いとしま) と呼ばれるようになったといわれている

伊勢・志摩(イセ・シマ)は この地の名前が 移ったものだ

天照大神が降臨したとされる(天の)岩戸が 天ケ岳の傍にある

桜井神社(岩戸宮)の裏手にある


b0325317_14495193.jpeg
今津北崎 から 志賀島がみえる


『魏志倭人伝』には、伊都国と呼ばれた このあたり

「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。

そこの長官を爾支(にし)といい、

副官は泄謨觚(せつもこ)・柄渠觚(ひょうごこ)という。

1000余戸の家がある。世々に王があるも、

みな女王國に統べて属する

帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、

ここに常にとどまる場所である。」

また

「 女王国より北には、特別に一つの大率(だいそつ)を置いて

諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。

大率はいつも伊都国で政務を執り、

それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割を持っている。

王が京都(洛陽)や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、

帯方郡が倭国へ使者を遣わすときは、

いつも津(港)で、文書や賜与された物品を点検して、

伝送して女王のもとへ到着する時に、間違いがないようにする」

と書かれている


大率 と呼ばれた 王が 代々 この国の 政務を執行したとあるが

女王とは 卑弥呼 であって 大率の王は 神武天皇 だったのだろうか

この二人が 兄妹 であったという 説もある

とすると アマテラス は 卑弥呼であったというのも

おかしくもない


b0325317_14513484.jpeg
北崎海岸より 能古島が見える 手前は 海釣り公園


そんなことを 考えながら 今宿から 海岸線を 北にむかった

入海にかかる 橋のたもとには ヨットが停泊し

今津 北崎 唐泊 に続く 白砂の綺麗な 海沿いを 楽しんだ


《 韓亭能許の浦 波立たぬ日はあれども 家に恋ひぬ日なし 》

万葉集 15巻 3670 遣新羅使

《 訳 》

韓亭(からとまり) の沖の 能古島の海に波が立たない日はあっても

家のことを恋しく想わない日はない


《解説》

韓亭 と 呼ばれた 唐泊の港は

遣隋使 遣唐使 遣新羅使 との 要港だった

沖の波が高いと 舟人は 何日も この場所に停泊し

海の鎮まるのをまったという 韓人が多く泊まる 宿もあり

人々は ここを 韓亭 と呼んだ


b0325317_14573978.jpeg
半島の先端の町が 唐泊


志賀島 能古島 が 沖に見える 今津の浜・唐泊

ここは 磯良の海の 入り口だったのだ









by nonkei7332 | 2015-10-22 15:06 | 古代史 | Comments(0)