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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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八代市 鏡町にある 印鑰神社 に行ってきました

印鑰(いんにゃく) という名前は

この地に 八代郡司という役所があって

朝廷から渡された 印 と 租米が集められる倉の 鑰(かぎ) が

神社に納めてあったからだといわれています


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創建は 建久九年(1198年)

肥後の国球磨の地頭 相良三郎名頼 が 弟の八郎為頼に

八代の北三里「鏡ヶ池」の近くに神社を造営させたとされます

祭神は 蘇我石川宿禰

武内宿禰 の 第三子 です 蘇我氏の祖です

第一子の 波多八代宿禰 も 名前からして 八代の領主だったのでしょうか

仲哀天皇のころ 筑紫凶徒を鎮めるために この地に下向し

この地で 亡くなったと 神社の由緒に書かれていました

巨きなクスノキが境内にそびえ立っています

古代はこの辺りの 鎮守の杜だったのでしょう


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神社に側に 八代郡倉跡 の案内文がありました

地名に 条里制の面影が残っています

まるで ここに かつて 王朝があったのごとき内容です

驚きは 「小早川文書」に 徳渕津に 正倉院 があったとの一文です

( 現在残っているのは 東大寺の正倉院だけが 唯一だと思われがちですが

当時は各地に幾つかあったようです)

〈徳渕津〉とは 球磨川の河口支流 前川付近にある 古代から 発展し

大陸貿易の拠点となっていた 港 なのですが 中世には

〈博多津〉とともに 朝鮮遣使 や 渡明船 の 拠点港だったようです

天文14年(1545)には 勅使として 大内義隆 もこの地を訪れています


徳渕 には 有名な 『河童渡来の碑』があります



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「本朝俗諺志」という江戸時代の書物に こんなに書かれています

『 中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て

球磨川に住み着くようになった その後 一族は繁栄して

その数九千匹になったので その頭領を九千坊と呼ぶようになった

その河童どものいたずらが激しく人々をこまらせた

加藤清正はこれを怒り 九州中の猿に命令してこれを攻めさせた

これには河童も降参して 久留米の有馬公の許しを得て

筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった 』


河童 は 古代中国 魏呉蜀の三国時代に 呉から渡ってきた 渡来人

その 渡来地が八代だったようです

そもそも 八代という地名の由来は いくつかあるようですが

『 海からの 神迎えの信仰 が盛んな土地で

巫女が火を焚き常世の国から


神様を迎える儀式が真夜中に行われていた

この神々が往還するところに「社」があり

この「やしろ」から「八代」となった 』

と言われています



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鏡が池




話は戻って 印鑰神社 には 春の大祭(4月7日) に

『 鮒取り神事 』が今も行われています

神社由緒には

『 蘇我石川宿禰が 凶徒平定の為この地に来られた時

悪天候で海が荒れ魚が捕れず地元の若者が「鏡ヶ池」に飛び込み

鮒を献上し石川宿禰をもてなしたと言う故事にならい毎年4月7日

褌一つの若者が池に飛び込み手づかみに鮒を捕り御神前に供え

見物人にも投げ上げる行事は今日も賑わいを伝え継いでいる 』

と書いてありました





私の長男は この地に縁があって この神事にも 何度も参加したようです

動画をよく見ましたが 彼の姿は見つかりませんでした




〈 蘇我氏 と 熊襲 〉〈 河童伝説 と 水天宮 〉

興味は尽きない 八代 ですね

次回は いよいよ 〈 八代妙見宮 と 妙見の謎 〉です







by nonkei7332 | 2016-07-28 12:30 | 古代史 | Comments(0)

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《 鬼 灯 》 《 酸 漿 》

何と読むのかを知っている人は

かなりの 漢字通 の人ですね

答えは 前回 記事にしました 《 ほおずき 》です


語源をたどると 幾つかの説がありました

紅い実が 人の紅い頬に 似ているから 〈 頬ずき 〉

実の種を取って 口に入れて鳴らす遊びの (頬突く)から 〈 頬突き 〉

「ほう」という カメムシが よく 集まってくるから 〈 ほう着く 〉

紅い実が 火のような色だから 火火(ほほ)が着くで 〈 火火着き 〉

7月の (文月) ふづき が訛って 〈 ほほずき 〉




貝原益軒 は『筑前国続風土記』花譜の中で

酸漿(ほおずき) について こうなふうに書いています


叉 、金灯籠 という。

此草 ほう という 蟲 好んで 葉をくらう。

故に ほうづき というにや。


ほおずき の 新たな語源 『金灯籠』が出てきました

灯籠とは 提灯 のことです

金灯籠 で 思いおこすのは 『山鹿灯籠』です

今も残る 熊本県山鹿地区の 山鹿の提灯まつり は有名です


この祭りの由来は

景行天皇 が 九州を巡幸しているとき

加茂の浦の湖(現山鹿市内)で濃霧が立ちこめ

一行は進路を見失ってしまった

このとき 地元住民が 松明を灯して

一行を 大宮神社 のところまで導いた

この松明がのちに灯籠となって神社に奉納されたとあります



景行天皇の巡行と云えば 聞こえはいいですが

目的は 鬼といわれた 土蜘蛛(熊襲)征伐だったのでしょう

山鹿の里は 大きな湖だったんですね

灯籠は 大宮神社に奉納されたとされていますが

灯籠は 何を意味しているのでしょうか


祭りの中で唄われる 「よへほ節」という 俗謡があります

よへほとは 酔いましょう という意味だといいます

元歌は 男と女の 掛け合いの歌のようです

古代のまつり の起源 「歌垣」を偲ばせます



ほおずき と 金灯籠 の写真です


だぶって見えるのは 私だけでしょうか



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実は ほおずき は 別名があります

『 輝 血 』 かがち と 読みます


この別名の 出処は なんと 「古事記」でした

古事記の出雲神話に出てきます

「其の形は如何(いかに)。」と問ひたまへば、答へ白しけらく、

「彼(そ)の目は 赤加賀智(あかかがち)の如くして、

身一つに八頭八尾(やかしらやを)有り。

亦其の身に蘿(こけ)ち檜椙(ひすぎ)と生(お)ひ、

其の長(たけ)は谿八谷岐八尾(たにやたにをやを)を度(わた)りて、

其の腹を見れば、悉に常に血爛れたり。」とまをしき」


《現代語訳》

「ヤマタノオロチのその姿かたちはどんな風なのか。」と尋ねると、

「その目は赤い ほおづき のようで、身体は一つで、頭が八つ、

尻尾も八つ付いています。

また、その体にコケとヒノキと杉の木が生えて、

その長さは谷が八つ、丘が八つ分あって、その腹を見ると、

いつも血がただれています。」


スサノオ の ヤマタノオロチ退治 の場面です

《出雲神話》には いくつもの 謎があります

ここからは 妄想だといわれるかもしれませんが

「古事記」は 出雲神話で 何を 隠そうとしたのでしょうか

スサノオ 対 ヤマタノオロチ の構図なのですが

私には スサノオ=ヤマタノオロチに見えてきます

スサノオ は 熊襲国の王 です (新羅の王族でもありました)


神話では スサノオは 荒神とされています

ヤマタノオロチ は 大蛇です それは 龍 の化身です

龍 は海人族の 象徴でもあります

ヤマタノオロチの尾からは 三種の神器のひとつ

〈草薙剣〉がでてきたというのも 謎めいています

山鹿の大宮神社に祀られているのは ほんとうに 景行天皇なのか?

私には スサノオ=ヤマタノオロチ(龍神)である

熊襲の祖神こそが 本当の祭神のように思えてきます

妄想は限りなく続くのでこのくらいにしておきます



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〈ほおずき〉が 〈鬼灯〉となって

ヤマタノオロチの 紅い目となりました

ヤマタノオロチの 紅い目は 山鹿の金灯籠 でした


山鹿の里人は 灯籠を鎮守の社に奉納しました

これが 毎年8月 頭上に灯籠を載せた女性たちが

優雅に舞い踊る 「千人灯籠踊り」となりました

幻想に誘う 闇の向こうに

古代山鹿の主の神が 見え隠れしています











by nonkei7332 | 2016-07-05 15:42 | 古代史 | Comments(0)

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地震前の 鯰三神社




《 鯰三神社 》を訪ねました

阿蘇熊本に残る 《大鯰伝説》で

大鯰が流れ着いたとされるところです

今も 〈鯰〉という地名がのこり そこにある 神社です

正式には 〈 三社宮鯰三神社 〉といわれています








嘉島町史 に拠れば

鯰村には 上社 下社 西社 という 三つの 神社があって

それぞれ 違う祭神

《 上社には 四面大菩薩 ( 高木大神?) 》

《 下社には 八幡大菩薩 ( 大幡主神?) 》

《 西社には 国祖大明神 ( 国龍神(草部吉見)?) 》

が祀ってあったのを 習合したとあります

(?は私見です)

とすれば この鯰神社の祭神 はいずれも 鯰をトーテムとした

古代熊本の 祖神 なのでしょうか



菊池の乙姫神社 山鹿の二宮神社など 肥後から 筑後 肥前にかけて

多くの神社で「鯰」が祀られています

各地にある 鯰の宮 の中から 私が この宮を 訪れた目的は

この宮こそが 元宮 だと思ったからでした

そして なによりも この地を 護る 産土神 の

荒ぶる神霊を 鎮めるためです



熊本県神社庁 によれば

今回の地震で 県内の社殿 約130 社

鳥居 約230基が 全壊したといいます



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荒れ果てた 境内には 人の気配はありませんでした

無残にも壊れた 台輪鳥居 と 傾いた 神門 には 近づけません

拝殿に貼られた 危険の赤紙 が 復旧の厳しさを物語っていました

そんな中でも 神木の楠は 青々と繁っていました





40年前 この地を初めて訪れた私でした

思い出と懐かしさの詰まった ふる里です

今でも お世話になった 方々が住んでおられます

傾いた 赤紙の貼られた 母屋のそばで

こんな 私の訪問を 喜んで 頂きました


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2015/10/26 拙ブログ 《 もうひとつのルーツ 》参照
http://hisamitsu.exblog.jp/25029702/




 

by nonkei7332 | 2016-06-23 12:40 | 古代史 | Comments(0)

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甘い香りの 車輪梅 (しゃりんばい)




人々が ゴールデンウイーク で 若葉の季節を楽しむ頃

去年から 私の日々は 野草と向き合う 草摘みの日々となりました

一日一時間 という草摘みは

私にとっては 大切な 時間になったのです

私に 『草摘みの呪術』という

こんな 私にもできる 願事成就の方法を教えてくれたのは

文字学者の 白川 静 先生 です

白川さんは 哲学者の梅原猛さんとの対談

『 呪の思想 ー 神と人との間 』


の中でこう話されています




わが国でも 草を摘む時に

そこらを囲ってね 標(しめ)を結うてしますでしょ。


《 明日よりは春菜採まむと標めし野に昨日も今日も雪はふりつつ 》
万葉集巻8-1447


などというのはね、

春の野で草を摘むのに、わざわざこの場所というて区切るわけですね。

草摘むのに区切る必要は何もないんだけどもね、

「昨日も今日も雪は降りつつ」、少々雪が降っても、

野草ぐらい摘めるはずなのにね、なぜ草を摘まんのかおかしいですね。

それは その草摘みがね、この特定の場所の、この草を一時間の内に

この籠にいっぱいきちんと摘みますよという、

神さまに誓いを立ててね

野草摘みをやるんです。それは「誓約」(うけい)です。

だから それに成功すれば、自分の願い事がかなう訳です。

そういう神さまとの約束事をした上で草摘みをする。

だから 草摘みというのは、単にそこらで野遊びをするのではなく

願い事があって、これをやりますから やり遂げたら

願い事聞いて下さいというような、

そういう意味で草摘みをやるんです。



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私の願い事とは 子供達の交通安全 と 無事故です

近所の草摘みと 子供達の登校路の 草摘みは

環境美化だけが 目的ではなく

私と神との 〈誓約〉 願事成就の仕草なのです



今日は 「こどもの日」

明日は雨が降るというから

一袋 多めに 草を摘みました

遠くに住む 我が息子と 孫のために

そして もうひとつ

熊本の地震が 一日も早く

治りますようにと祈りを込めて



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著者の 《 白川 静 》(1910~2006)さん は
中国最古の文字資料である殷・周の甲骨文や金文に対して
体系的な研究を行い 中国および日本の古代文化について
「白川文字学」と呼ばれる 独創的な研究を築き上げられた
立命館大学の名誉教授でした





by nonkei7332 | 2016-05-05 22:45 | 日記 | Comments(0)


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写真は 左から 真鍋大覚さん 宮崎康平さん 和子夫人
那珂川町の 裂田の溝 を訪れた時の様子です
「神々のふるさと」宮崎康平著 より




私が語る 二人の賢人 とは

宮崎康平 さん (1917~1980) と

真鍋大覚 さん (1923~1991)


の ことです


宮崎康平さん の 著書「まぼろしの邪馬臺國」(1967年) は

当時 邪馬台国論争の火付け役として 話題になった ベストセラーでしたが

古代史などには まったく興味がなかった私には

知ってはいても 目を通す事はありませんでした

その後 私が どんな人なんだろうと 興味を持ったは

さだまさし の 「邪馬臺」という歌を聴いた時だったのです

( 詳しくは 拙ブログ 1915/7/20 「海の日に」参照下さい )

それこそ 「出逢いは いつでも 偶然の風の中」でした



出逢い と言えば 私を 古代史へと 導いてくれたのは

ブログ「ひもろぎ逍遥」の 〈綾杉るな〉さん でした

綾杉ワールド は 多くの 出会いを私に与えてくれました

私が 記事の中で 《筑紫の賢人》と 勝手に 呼ばせていただいている

真鍋大覚さん との 出会いは 今では 大きな 存在です

図書館を巡って 真鍋さんの 書物を読みあさりました

難解な内容の書物ですので どうしても 自分の物にしたくて

綾杉さんに お聞きしてやっと手に入れたのが 『儺の国の星 拾遺』です

本の中で 度々 出てくるのが あの 宮崎康平さん の 名前でした

先日 数少ない 宮崎さんの著作の中で 『神々のふるさと』という本を

手に入れ 読んで 驚いたのが これまた 度々出てくる

真鍋さんの お名前だったのです



宮崎さんは本の中で こう書かれています


『 真鍋先生は 気象学者で 年輪と気象の関係を研究されている人である

私は その年輪から 古代の歴史を読み取ろうと すでに 何年も

先生について学び かつ 研究しているが おかげで 新しい幾多の事実を

確認することができた 』89p



奇しくも 同じ時代に 生まれた 古代史研究者 と 気象学者 の

お二人が 互いに 大事な存在であったことが

この本の 一行 一行 の 間に 感じることができますが

この 本の あとがき には

和子夫人が こんな 事を書かれていました



『 そもそも 康平 がはじめて『まぼろしの邪馬臺國』を世に問うてから

今日まで 大方の期待を裏切って なぜ 後続の著書を出さなかったかと

かねて先輩や友人からは苦言を呈され しかも 農園の経営や講演に

ひっぱりまわされて ペンを執ることがおろそかになったのではないか

と非難されたのだったが これは あくまで 副次的な現象で ほんとうは

九州大学の 真鍋大覚助教授 との出会いがきっかけで

脱線してしまったようなものである

人間が 自然をゆがめるほどの 巨大な力 を持ちはじめたのは

僅か百年このかたのことで 千七百年 という歳月は 自然界においては

束の間の時間にすぎない だから 古代に最も肉薄することができるのは

自然現象 を通じてだと考えた康平は 九州大学で航空気象学を

研究されている 真鍋大覚博士に教えを乞い 過去三千年にわたる

気象のプリントともいうべき 屋久杉の年輪を研究 を手始めに

〈気象〉〈日蝕〉〈海流〉等々 貴重なデータ や

九大図書館の資料を 提供していただいた 』




二人の賢人が あと10年 長生き されておられれば

新たな 古代史 発見に 大きく 寄与されたに違いないと

私 は 思っています



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by nonkei7332 | 2016-04-28 18:59 | 古代史 | Comments(0)


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トン族 の 少女




福山雅治 が 次に訪れた 所は

中国 貴州省 占里村(せんりむら) でした

少数民族『 トン族 』と呼ばれる 人たちが住む

山に囲まれ 鼓楼 と呼ばれる 村の聖地を中心に

700人ほどの 村民からなる 小さな村 です

ここも 独自の文字をもたない 「トン族大歌」という 歌で

村の歴史 や 文化を伝えてきた 人たちでした

幾重にも重なる 棚田 で もち米を作る人たち

古き 日本の 農村をコピーした様な 風景がそこにはありました

人々は 祖神を そして 山の神 地の神を 祭っていました


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村に入るには 川に架かる 「 風 雨 橋 」と呼ばれる

屋根付きの橋を渡らなければならないといいます

その姿を テレビの画面で 見た時

私の中で 幾つかの記憶が 繋がり

それは ひとつの確信に繋がっていったのでした

『 あの橋 と いっしょだ 』

私の記憶は かつて 見たことのある

あの橋を 思い出していました

その橋とは 宇佐神宮 の 寄藻川(よりもがわ)に架かる

「 呉 橋 」(くれはし)です

いつの時代に造られたのか 解らないとされ

ただ 呉の人が造ったと 伝えられる 謎の橋です


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宇佐神宮 呉橋



中国春秋時代 「呉越同舟」と言われる様に

仲の悪かった「呉」も「越」も 同じ風俗 と 文化をもつ

同じ 民族 だったのです

呉越 の 末裔は 海を渡り 倭人となりました

山に追われた人々は 奥へ奥へと 迫害を逃れ

少数民族 となって そこに 山里を築きました

そのひとつが 「トン族」だったのでした



そういえば 倭人もまた

独自の文字をもたない 人達 だったのです

日本における 文字の起源 といえば 万葉仮名 が最初です

やがて そこから 片仮名 平仮名 が生まれます

とすると 万葉以前の人達は 「トン族」と同じように

山の神を祀り 水の女神を祀り


神の使いである カラスに

その年の豊作を 託した 人々だったのでしょうか

そこには 祖神を伝承する 「歌」があったのかもしれません



番組では 300人の トン族の合唱隊 と

「トン族大歌」の代表曲である 「セミの歌」をバックにして

福山雅治 が 自分の歌 「明日へのマーチ」を歌いあげます

ひとつになった 歌声は やがて ひとつの 絆となって

山の木々 山の神々 と繋がり

私の魂の中で ひとつの 感動となっていったのでした



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by nonkei7332 | 2016-04-17 07:11 | 日記 | Comments(0)


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博多駅前 大博通り




「 山笠のあるけん 博多たい 」

博多の住む人だけでなく 広く知られるこの 言葉は

かつて 某博多の銘菓が使った TVCM のコピーでした

その中で 博多や 博多町人の気質をこう言っていました


博多には 安泰を祈る 縁起担ぎ や しきたり が 今も息づいている

その中で生まれ育った博多っ子は あけっぴろげ で 人がいい

すこしばかり横行(おうぎょう)で祭り好き


博多出身 の 〈チューリップ〉は 名曲『博多っ子純情』の歌詞の中で

博多の男 をこう歌っています


男たちは とても見栄っ張りで気が強い

海の風に吹かれるから

だけど みんな 貰い泣きするようなやつ

酒を飲んで 肩をたたく


巷に言われる 「博多」のイメージはそんなとこかもしれません


それでは 何故 この町が

博多 と呼ばれるようになったかについては

知っているひとは少ないようです


《 博 多 》(はかた)というの 地名の語源については

Wikipedia では こう書かれています


「ハカタ」の語源は

「土地博(ひろ)く 人・物産多し」という言葉から「博多」

大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」

海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」


射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」

切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」

などの説がある。 
    


Wiki には 書かれていない ハカタ の語源に

『 伯 方 』(はかた) という 名前があります

〈方〉という漢字は 場所とか 国土 という意味があるので

〈伯〉がいた場所 とか 〈伯〉が治めた国土 という意味なのでしょうか

博多駅から 博多港へ一直線に伸びる 大通りがあります

『大博通り』といいます それから この通りから一筋入った 上呉服町には

大正時代に作られた 古き博多人にとっては懐かしい

「大博劇場」と呼ばれる 劇場(後に映画館となった)がありました


神社考古学の 故百嶋由一郎 さんは


この 「大博」(たいはく) という名前について

『太伯』(たいはく)の名残りが残っていると語られていました


魏志倭人伝 には

『 倭 は 呉(中国)の 太伯の子孫である』


と書かれています

呉太伯という 王は どんな人だったのかは

司馬遷が書いた「史記」に詳しく書かれています

それによると


紀元前10世紀ごろ 中国は 周 という国が治めていました

周の先王である〈古王〉には

太伯(たいはく)虞仲(ろちゅう)季歴(きれき)という

三人の息子がいました 古王は後継に 三男の 季歴 を選び

太伯 と 盧仲 は 南の地 に移り 「句呉」(後の呉)という国を興します

やがて 紀元前480年ごろから 〈呉〉は 隣の国 〈越〉と激しく争い

とうとう 紀元前473年 呉の最後の王 「夫差王」の時 呉は滅びます


中国の史書には


「周の元王三年 越は呉を亡し その庶(親族)ともに海に入りて 倭 となる」


と記されています

国を追われた 呉族系海洋民族 (白族・伯族) の一部は 海を渡り

博多湾岸にたどり着き やがて 倭人の国 奴国(なこく)をおこします

安曇族 の祖先 です


百嶋説 によると

古事記神話に出てくる 最初の神

『天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 』の 別名を

『白山姫』又の名を 菊理姫(くくりひめ) といい

全国の水天宮 や 白山姫神社 祀られている 女神 は

伯族の女神であります

その 弟は 奴国 の 先王 である『白川伯王』なのです

百嶋説では その息子こそが

博多の総鎮守 「櫛田神社」の主祭神

『大幡主神』(おおはたぬしのかみ)だと言われています

白川伯王には あと 二人の娘がいました

ひとりは 神武天皇(大白王子) の母 「神玉依姫」であり

もうひとりは 大国主命 の母である 「埴安姫」だと言われています

安曇族の祖神 『豊玉彦』(ヤタガラス) は

「大幡主神」伯族直系の 奴国の王子として

古代九州王朝の 礎を築いていったのでしょう


山笠が近ずくたびに 頭を悩ませていた

「 おくしださん の 謎 」

「 博多 の 主 」

少しは見えてきたような気がします



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百嶋系図 の一部





by nonkei7332 | 2016-04-09 18:42 | 古代史 | Comments(0)


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桃の節供 の事を 『ひいなあそび』ともいいます

この日は 3月3日の 桃の節供の日です 雛祭りの原型は

終日 女性や子供たちが外に出て 川辺や 海辺で 手に手に 重箱を下げて

野あそびをする 一日だったようです

この日 集った 26名の女神達 が お隣の 伊都国に向けて

バスの中に鎮座しておられました

私には 女神を訪ねるというよりも この26名の女神達が

祖神 の眠る丘に 野あそびに行くという光景にみえました

そう考えると 私も含めた 4名の男達はというと

間違いなく 完璧な ミスキャスト です

しかし 同じ バスに乗ってしまったからには 腹をくくって

女神達の付き人として 迷惑かけないように 楽しむことにしました

そういえば 古代から 世の中は 女神や巫女が中心であって

男たちは その周りをうろちょろしていたわけですから

それもありということで 納得したのでした

私見によれば 伊都国(伊那国) は 海を隔てた


一支国(壱岐)・対馬国・狗邪韓国 とおなじ氏族だと思っています

大山祗(月読尊) は 山の神 であり 海の神でもあり 産鉄の神でもあります

その娘である 木花咲耶姫 と 磐長姫 こそが 伊都国の女神なのです

この日は 山の女神である この二神が里に降りてこられる日なのです



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バスは 最初の目的地である「三雲南小路遺跡」につきました

国内最大級の弥生王墓だといわれています



糸島市教育委員会の案内には

《 弥生時代中期 (約2000年前) の 伊都国王の墓で

墓の周囲に幅3~4m・深さ0.5~0.7mの溝で東西32m・南北31mの

方形区域を設けた国内最大級の弥生王墓です。

江戸時代(1822年)に発見された時には 甕棺の上には1.5mほどの

盛土があったとされ 墳丘があったと推定されます

墳墓の中央部には 2基の 長特大の合わせ甕棺(全長2.5m)があって

1号甕棺から35面 2号甕棺から22面 合わせて57面にのぼる前漢鏡・

青銅製武器・金銅製四葉座飾り金具・ガラス製壁・装身具など

豪華な副葬品が出土しました 》



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遺跡のそばにある 「細石神社」

祭神は 〈磐長姫〉と 〈木花咲耶姫〉 伊都国の女神が祀られています

由緒は 古いのでしょうが 豊臣秀吉によって 焼失されていました


古事記には この二人の姫について こう書かれています


《 降臨した ニニギ は 木花咲耶姫 という美しい娘に出会い 求婚します

彼女の父 大山祗 は喜んで 木花咲耶姫と 姉の磐長姫の二人を

妻として差し出しました しかしニニギは容姿の醜い磐長姫は送り返し

木花咲耶姫だけを妻としたのです 大山祗 は深く恥じ入り、

『 磐長姫を妻とされれば、天つ神の御子の命は岩のように永遠で

揺らがないものになり 木花咲耶姫を妻とされれば 木の花が

咲き栄えるように繁栄されますようにと祈願いたしましたのに このように

磐長姫だけをお返しになり 木花咲耶姫だけをお留めになりましたから

天つ神の御子の命は、木の花のように儚いものになってしまうでしょう』

と申し送った、そういうわけで 今に至るまで

天皇の寿命は長くはなくなってしまった 》



日本国歌 の一節の中にも そのような 歌詞があります

《さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 》

(小さな小石が やがて 岩となり その岩に苔が生えるまで)

大山祗の願った 思い があふれています

磐長姫 苔牟須売神(ニニギと木花咲耶姫の娘)

まるで 国歌の原景 がここにあるみたいです


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細石神社の参道から 見た 高祖山 です

まさしく この景観が 伊都国の原風景です


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バスで 高祖山の中腹まで登ると

伊都国の総鎮守 《高祖神社》に着きました

長い坂道の参道を登ると 社殿 です


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高祖神社 (県神社史より)

【祭神】

天津日高彦火々出見命・玉依比売命・息長足姫命・天照皇大御神・

豊受神

【由緒】

社説に曰く 当社創立の起源詳かならざるも怡土県鎮土の社として

上代より鎮座ありて怡土県主の崇敬厚かりし事明かなり。

怡土県主五十述手の勤王、一に当社尊崇に因るものと思惟せらる。

神功皇后三韓御征伐の御時香椎の宮より此処まで御幸ありて、

高祖の神に異国降伏の御惠を仰ぎ給ひけるに

果して冥助特に深くありければ皇后御帰りの後報賽の御祭として

新に御宮を造り乾に向つて御社を建て給ひき。

下つて奈良朝孝謙天皇の御代吉備真備に勅して怡土城を築き給ひしが、

当社を怡土城鎮護の神とし給へり。当社は城内中央の岡の上にあり。

三代実録に元慶元年(877年)九月二十五日癸亥授筑前国

正六位上高礒比咩神従五位下、とあり。


但し正六位を授けられし時代は不詳。

原田氏怡土城の旧跡を修理し高祖城を築き

此の地に威を振ふ事凡そ四百年(建久八年より天正十四年迄)、

その間当社を城中の鎮護の神として崇敬し

毎年正月元日・同十五日・二月初卯・三月三日・五月五日・七月七日

九月九日・十一月初卯 には原田氏祭主となり、

殊に九月二十六日の大祭には原田当主御輿に供奉して御幸をなせり。

原田時代の棟札、古文書等多数現存せり。

黒田氏筑前国主に封ぜらるるに至り、当社を 怡土郡の総社 と定め、

諸事郡中にて辨ぜり。

現今も四月二十六日祈年祭の節には郡内各大字より祭典費を寄進し、

大神楽 を奉納するを例とせり。


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本殿前には 県無形民俗文化財 『高祖神楽』の 神楽殿がありました


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平成元年 三月 高祖神楽殿 落成の時の写真です


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面神楽十二番の中の 七番神楽『磯羅(いそら)』


《 高祖神楽 》は

今から五百数十年前の応仁元年、戦国動乱の時代時の高祖城主、

原田筑前守種親 が明主である周防国山口城主、大内政弘の要請を受けて

京都守護の大任に当たった時、戦陣のつれづれに習得した

「京の能神楽」を郷土に伝えたものとされていますが、

この外にも異説があり、その始めは定かではありません。

永い歴史と伝統に受け継がれて来た高祖神楽は、江戸時代までは

旧怡土郡の神職の奉仕で舞われていました。

明治になってからは高祖神社の氏子の人達によって受け継がれています

(高祖神楽保存会の栞より)



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社殿向かって 左奥に ご神池 の《女池》がありました

澄んだ水に 木立が映り 木洩れ陽 が 霊魂 を揺らす 神域でした

磐長姫 ・神大市姫・罔象女(ミズハノメ)・山姥神

四つの名前を持つ 龍の顔をした 水の精 が 舞っていました

イザナギ・イザナミは この女神に

「山野に含まれる水=地下水は、天の安河原の水なので、

汝らがこれを治めて、外に溢れ出さないように、

植物の生育の助けとなるように管理せよ」と命じたといいます

伊都国の女神 の 神触れ を 一番感じた 場所でした



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平原遺跡に寄りました

昼からは 伊都国博物館 で 詳しい説明を聞けるみたいでした



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さてさて そろそろ 重箱をひろげる 野あそびの楽しい 時間になりました

洒落た カフェレストラン 『集い』です なんと 貸し切りです

まさしく 女神達の集う場所です

綾杉さん 素敵な演出 ありがとう


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「つどい御膳」です



女神達に囲まれて 白髪翁 も 楽しい時間を過ごせました






by nonkei7332 | 2016-03-05 07:23 | 日記 | Comments(2)


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沙也可将軍 肖像画





司馬遼太郎 の本に 『街道をゆく』という 紀行集があります

この本との出会いは 40代の頃 でした

某商社の部長さんと お酒を飲んだ時の話で 話題が老後の話になりました

私 が 『 部長は老後はどんな生活をするつもりですか 』と聞くと

彼 は 『 司馬遼太郎の「街道をゆく」という紀行集があってね

彼が行った場所を同じように旅行をしようと思ってます 』と話されました

翌日 本屋に飛び込んで さっそく この本を買った

というのが この本との出会いでした


『街道をゆく』の中の

『韓のくに紀行』という本の中で

《 沙 也 可 》という 人物を知りました


沙 也 可(さやか) (1571年? - 1643年?)は

1592年 豊臣秀吉の 文禄・慶長の役の際 加藤清正の 先鋒隊長として

三千の兵を率いて 朝鮮に渡ったが なぜか 投降して朝鮮軍に加わり

朝鮮には無かった 鉄砲の技術を朝鮮に伝え 豊臣軍と戦います

その後 李朝14代宣祖(ソンジュ)の 臣下となり 功績により

正憲太夫の位と 金海金氏を名乗るよう賜り 号を 慕夏堂とし

名を 金忠善(キム・チュンソン)と改名 します

賜姓金海金氏の始祖として慶尚北道の友鹿里(ウロクリ)に

領土を与えられ 臣下と共に 朝鮮の民として その生涯を閉じます

現在 友鹿里 には 200名位の 沙也可の子孫が暮らし 半島全土には

4000名にもなる 氏族 がおられるようです

毎年 「鹿洞(ノクトン)書院」の「韓日友好館」には 2000人もの

日本人旅行者が訪れるといいます



沙也可 は 何故 反旗を翻したのでしょうか ?

沙也可 は いったい 誰だったのでしょうか ?


諸説ある中で

紀州の雑賀衆 ではないかという説 があります

雑賀衆は鉄砲の軍事傭兵部隊です 秀吉によって滅ぼされました

ただ 三千の兵を動かすだけの カリスマ性を持った

人物名が出て来ませんので 小説にはなりましたが

おそらく 違うでしょう


そこで 今 永年 伊都国糸島の 高祖山城主 であった


原田家の46代当主 原 田 信 種 (はらだのぶたね)


の名前が とりだたされています


原田家の出自は 古代 秦氏の大蔵一門 です

大蔵氏の氏祖は 漢の霊帝4代目の素孫 阿知使主 だと言われています

隋に追われ 百済を経て 倭国にきた 漢人系渡来人 です

応神・仁徳 の頃 呉国より 兄媛・弟媛・穴織・呉織 の 四媛 を連れてきて

養蚕・染色・機織・裁縫の技術を伝えたのも この人達でした


大蔵一党の三大豪族といえば 原田氏・秋月氏・高橋氏

いずれも 筑紫の豪族です 特に 嫡流の 原田家 は

藤原純友の乱を平定した功績により 太宰少弐の官位を与えられ

筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬を管理することになります

当初 基山に拠点を置きましたが 麓の原田に移り 原田家を名乗りました

その後 岩門城(那珂川町)をへて 建仁3年(1203年)

怡土郡五郎丸(三雲)に移り原田種継・種頼親子が 高祖山城を築き

麓に館を構えて 原田氏代々の本拠としました

中世の博多は 戦乱が続きます

原田氏は 西国一の守護大名になった 大内義明 の傘下に入ります

その後 大内家と共に 大友氏と戦い 筑前統一を成し遂げます

大内氏拡大の裏で原田氏の貢献は大きく

1551年 大内義隆が 陶晴賢 の謀反により 討たれるまで

永年に渡る 友好関係は続いたといいます

45代原田隆種 自身も 義隆から「隆」の字を貰い受けた間柄だったので

大内氏への恩義から原田隆種は陶氏の指図に服しなかったといいます

陶氏 は 大友氏 と組みしたので 原田家には 苦難の時代が続きます

やがて時代は 秀吉の時代へと変わっていきます

天正二年(1574年)46代 原田信種 が家督を継ぎます

秀吉が島津征伐で 九州に凱旋すると 島津と同盟を結んでいた 信種は

徹底抗戦するつもりでいましたが その強力な陣立に勝ち目はないと思い

秀吉に降伏します 秀吉が原田家 の 所領を尋ねたところ

広すぎると 没収されるとの考えから少なく報告したことが

秀吉の神経を逆撫でする事となってしまいます

その結果 筑後に三百町歩を与えられ 肥後へ国替えとなってしまいます

高祖山城は破壊され 家臣達は帰農したり 他家へ仕官していって

原田信種 は 全てを失ってしまいます

肥後熊本城主となった加藤清正の 下で 信種 は再起にそなえます


ここからが 原田信種 の謎の歴史です

( 史実にもとずく フィクション です )

秀吉の朝鮮出兵 で 名護屋城 に全国の大名が集まります

その中でも 加藤清正 と 小西行長 が 中心となる 陣立が組まれます

信種は 名護屋城に近い 糸島の地の利を生かし 加藤清正の許しを得て

原田家 再興の のろしを 上げたのです

他家に仕官した臣下も 刀を鍬に変えた 臣下達も 傍に 鉄砲を抱えて

名護屋に集まります

その数 600名 その気勢は 他軍を圧していました

軍議は 半島の海岸沿いに 小西軍 山沿いを加藤軍 が攻め上がるものでした

信種 率いる 3000の兵は 原田隊を先頭に 金海(キメ)近くに上陸し

洛東江(ナクトン川)を北上します

朝鮮軍は 初めて見る鉄砲に驚き 散りじりに 逃げていくばかりです

信種軍は 中流にある 友鹿里(ウロクリ)に陣を建てます

山河は美しく かつての 伽耶の民と言われた 農民達の老いた母を背負い

逃げていくその後ろ姿に 故郷糸島の事を思いだしていました


『 俺はいったい 何をやろうとしているのか

憎き 秀吉の為に 故郷の糸島の匂いのする この美しき山河を

壊してしまう 義 とは何なのだろうか

我を信じて 集まった 原田の民が望んでいるのは 』


海をはさんだ 伽耶 と 伊都 を繋ぐ いにしえの 魂の叫びに

信種 の 想い は 玄海の海 のように 激しく 震えるのでした

戸惑う兵を前にして 原田信種 は 叫びました


『 我が軍 に 義 なし 』


驚いたのは 朝鮮軍でした やがて 沙也可と呼ばれた 原田信種 と

原田軍は 銃砲を 南に向けたのでした。



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司馬遼太郎 さん



司馬遼太郎 は 「韓のくに紀行」の中で こう書いています


『 国家という面倒なものが無いに等しかった 古代を

我々は その洋上の街道をゆく時 懐かしまざるをえない

そういう時代 朝鮮人は日本へ冬に来た、

冬になると 風は 日本に向かって吹くからである

我々 日本人の血に 朝鮮半島通過の血液が混じるのは

この海域を吹く風がそれを 運んで来たのに ちがいない 』



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糸島二見ヶ浦





春の穏やかなる 3月3日 伊都国を訪ねます

女神 が 眠る この里に 海を渡って吹く風は

沙也可の魂 を 運んでくれるでしょうか






by nonkei7332 | 2016-02-29 23:40 | 古代史 | Comments(0)


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「鉄の王キムスロ」で ソクタレ を演じる イ・ピルモ さん




新羅の国の王朝は

朴氏・昔氏・金氏 の族長が 国を治めてきました

特に 卵が絡む王として有名なのが 第4代 昔脱解(ソクタレ)王 です

この王様 倭人の血を引いた 王だったのです

朝鮮の歴史書『三国史記』にはこう書かれています

《 倭国の東北1千里のところにある多婆那国 の王様が

女人国(不明)の王女を妻に迎え王妃としました


大妃は 妊娠してから7年後に大きな卵を産みました

王様は不吉だと言って 捨てるように言います

王妃は捨てるに忍びず 卵を絹に包んで宝物と一緒に

箱に入れて海に流しました

卵は やがて 伽耶国 に流れ着きますが 人々は怪しんで

箱を引き上げようとはしませんでした 箱はさらに流されて

阿珍浦の浜辺(慶州)に打ち上げられました この時 紀元前19年でした

老婆がその箱を開け 中にいた男の子を育てます

男の子は立派に成長し 第二代南解王の娘を娶り

軍事・国政を担う大輔の地位につき

西暦57年 新羅の第4代脱解王 が誕生します 》

また 歴史書『三国遺事』によると

初代からの 朴氏の王族ではないので 姓がわからず

ただ 箱が流れ着いた時にそばに 鵲(かささぎ)がいたことから

鵲の字を略して 「昔」を姓としたとあり

箱を開いて生まれてきたことから「脱解」を名としたと書かれています

西暦57年という年は 漢の光武帝が倭国王に金印を授けた年です


さて 問題なのは 多婆那国 とは何処なのか という事です

丹後国 だったというのが 主流をしめていますが

《多婆那》は 《玉名》(熊本県玉名市) であったという説があります

鵲(かささぎ)がいた国と考えれば 筑後の玉名しか考えられませんし

もともと イザナミ や スサノオ を 昔氏 を名乗っています

二人とも 新羅とは縁のある人物でした

日本書記には スサノオ は 高天原を追われ 新羅の国に行きますが

「私の住む国ではない」といって 息子 五十猛神(イソノタケル)とともに

渡来してきたとありますし

天日槍(アメノヒボコ)は 新羅の王子で

妻のアカル姫を追って 母国伊都国 (糸島) に渡来してきたと

筑前風土記には 書かれています

そう考えれば 多婆那 とは 玉名 であり 狗奴国 だったのかもしれません

脱解王 は 狗奴国 の王子だったのです


話は 韓流ドラマ 「鉄の王 キムスロ」にもどりますが

このドラマの中にも 脱解王 は 《ソクタレ》として

キムスロ の ライバルとして登場します

ここでは 親に捨てられ 伽耶国に流れ着いた ソクタレは

鍛冶職人として 力をつけ キムスロ と鉄器の製造技術を競います

やがて 新羅の将軍となり


伽耶国をめぐって キムスロ と戦いますが 最後は キムスロ を認め

自分は 新羅の王となるというストーリーでした


〈伊都国〉と〈狗奴国〉に 出自をもつ 《金首露》と《昔脱解》が

〈伽耶〉と 〈新羅〉をめぐって 対立する

倭国における 対立が 半島でも繰り広げられたといえば

なんと 興味深い 話なのでしょう







by nonkei7332 | 2016-02-28 15:00 | 古代史 | Comments(0)