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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

タグ:古代史 ( 91 ) タグの人気記事



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山鹿灯籠踊り




山鹿の郷を訪ねました


〈ほおずき〉が 〈鬼灯〉となって

ヤマタノオロチの 紅い目となりました

ヤマタノオロチの 紅い目は 山鹿の金灯籠 でした


《 拙ブログ 7月5日の 「鬼灯」の記事を覗いてみて下さい 》



主は 山鹿の 骨なし灯籠  ヨヘホ ヨヘホ

骨もなけれど 肉も無し ヨヘホ ヨヘホ



ヨヘホ節 に 唄われた 里の主は

骨もなければ 肉もない

八岐大蛇 (ヤマタノオロチ) だったとの 思い込みが

再び 私を 山鹿に連れてきたのでした

〈蛇〉は 神になると 〈龍〉になります

山鹿の里は 昔は 加茂の浦 という 湖でした

この湖に住む 龍神 こそが 山鹿の《主の神》だったのでしょうか


出雲の神話 は 実は 山鹿の神話だったのでしょうか

〈スサノオ〉 や 〈クシイナダヒメ 〉

奇稲田姫の 父母である 〈金山彦〉や 〈埴安姫〉を探しに

私たちは いくつかの 鎮守の杜 を 訪ねました



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山鹿の中心 〈大宮神社〉に 行きました

鬼灯 (ほおずき) の頃

頭に 赤い酸漿(かがち)の 金灯篭 を乗せて

朝まで踊った 女人の姿は もう どこにもありません

灯篭が奉納された 〈 大宮神社 〉は 秋でいっぱいでした

境内 は 七五三の晴れ着を着た 子供達の声が 響き

クスノキを揺らしていました




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50基もの 猿田彦の石塔 は 何を語っているのでしょうか




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神紋は 五七桐 です

阿蘇十二神 や 景行天皇 とは 縁のない

本当の 祭神がかくされているように思えます



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鹿本町 の 《高橋八幡宮》に 行きました

宇佐八幡の分霊を勧請したのが 建久二年(1191年) だと書かれていました

それ以前の祭神 が 姿 を 残されていました



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神紋です

《円天角地十字剣》(えんてんかくちじゅうじけん)

モーゼの嫡流 瀛氏 金山彦 の 紋章 が残されていました




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摂社には 金山彦 と 埴安姫 が仲良く一緒に祀られていました

とすると ここは 二人の娘 奇稲田姫の聖地 なのでしょうか


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拝殿の 欄間に 額絵 がありました

まさしく この女神は 〈クシイナダヒメ〉?




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近くに 小さな かわいい 小学校がありました

なんと 稲田小学校 という 名前でした





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菊鹿町 の 《松尾神社》に 行きました

祭神は 京都松尾大社 日吉神社 と同じ あの 〈大山咋〉です




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驚きの事実が 山門横にある 大きな家

松野鶴平、松野頼三、松野頼久 と続く 政治家 松野一族 の拠点

松野鶴平の生家 だそうです

松野家といえば「松野連系図」(国立国会図書館所蔵)ですが

この 松尾神社と 何かの 繋がりがあるとすれば

山鹿 は 姫氏 熊襲 の中心拠点 になります

系図の中の 「厚鹿文」は 景行天皇によって 暗殺された

熊襲の王だと 日本書紀には書かれていますが

だとすれば 山鹿 熊襲 にとっては 景行天皇は 侵略者 になります



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謎 の 神紋


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謎 の 夫婦像







赤・・・大宮神社
黄・・・高橋八幡宮
黒・・・松尾神社





by nonkei7332 | 2016-11-02 19:30 | 古代史 | Comments(0)


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白花曼珠沙華




〈中秋の名月〉の日

診察に呼ばれました

いつものように レントゲン撮影のあと

『 どうやら 肺に水(血)も 溜ってないようだし

膨らみ具合も昔に近いようですね 』

担当医は 私の肺を まるで 風船 のように 話す

『 肋骨は 3本とも 見事に折れていますから 当分は痛いでしょうね

ただ 痛むたびに 痛さも小さくなっていきますから 我慢して下さい

痛みが 無くなれば ブラジャーは外されてもいいですよ 』

彼は 胸当てバンドの事を いつも こう呼ぶ

あと 二週間もすれば 痛みも無くなるだろうと

いともあっさりと 収束宣言をしてしまったのだ

こうして 二週間足らずの 私の 「方丈記」は いともあっさりと

終わりを告げられたのでした



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帰りに 筥崎宮の『放生会』(ほうじょうや) へ寄りました


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筥崎宮 参道



かつて 放生会では 生きた亀が売られ 人々は この亀を買っては

近くの 川や池に放ったという 『放し亀』の風習がありました

八幡宮は 神仏習合 され 全国に広がっていった

日本で最も普及した 神社信仰ですが

神社 及び それ以前の祭神については

古来 謎とされています

海神 でもあり 幡を立ててまつる神 秦氏の氏神 とされた神だとすれば

私は 博多櫛田神社の 『大幡主神』こそが

ここには 隠れておられているような気がします

〈大幡主神〉こと 〈塩土老翁 (しおつちのおじ)〉

山幸彦を龍宮に連れて行った 亀として

記紀には 浦島の伝説として残っています

この《放生会》は 古代神話の入り口といってもいいような

多くの謎に包まれた 祭りなのです

人々は 何もわからず 〈秋が来たから放生会〉といって

ここに 集まってきます 祭りだから それでいいのです

豊饒を祈り 生きている事への 感謝を祈る

祭りだから それでいいのです

それこそが 祖神 への 感謝の祈りでも あるからです



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山保呂志 の 花



庭園で 淡紫色の 清楚 な花を見つけました


 『 山保呂志(やまほろし)』の 花


別名がありました


 『 蔓花茄子(つるはななす)』



花との出逢い

生きていることへの 感謝の一日でした
 



今回 多くの方から

激励のメッセージを頂きました

この場をお借りして 感謝申し上げます

ありがとうございました








by nonkei7332 | 2016-09-16 11:30 | 日記 | Comments(2)



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若宮神社 正面鳥居



福岡市の中央には

東西に走る 三本の大きな通りがあります

北から 〈昭和通り〉〈明治通り〉〈国体通り〉と通称で 呼ばれています

最も新しいのが 国体通り です

昭和23年 福岡市で国体が開催された折に整備された道路なので

その名が今も残っています


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若宮神社 境内




先日 紹介した 警固神社 も この通り沿いにあって

そこから 西に向かって 3分も歩けば

通り沿い左に 鳥居が立っています

この神社が 『 若 宮 神 社 』です

ビルに囲まれた 社務所はあれど 人はおらずの 寂れた社です

ただ 往時の勢いを残すような 楠の巨木が目をみはります


古代 ここに 奴国という国がありました

奴国王 は 大幡の主として 船に帆を立てて 大海を渡っていました

奴国王子は ヤタガラスと呼ばれ 倭国皇帝 神武の 補佐をしていました

王子は 他の種族を取り込むために 婚姻をしました

そして 生まれた 一人の 奴国王女がいました


その王女を祀った神社が 若宮神社 です

祭神は 《 豊 玉 姫 》です



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青木 繁 「わだつみのいろこの宮』 (一部)
桂の木に乗っているのが 山幸彦
赤い衣を着た 女が 豊玉姫




私が 豊玉姫 を知ったのは この絵でした

いつ頃だったのかはよく覚えていません

ただ 場所は 久留米の石橋美術館だったことは覚えています

この絵が 神話を題材にしたものだということも知りませんでした

海幸 山幸の話は知っていたものの 『豊玉姫 って 誰 ?』

そんな私でしたから それ以上の事は知ろうともしなかったようです

ただ 海神のいた 〈いろこの宮〉が

志賀島 だということだけは 誰かに 教えられたのを 憶えています


奴国の王子 豊玉彦(ヤタガラス) の娘

《豊玉姫》と《鴨玉依姫》

母は違う 異母姉妹になるのですが この二人の女神 と

豊玉彦の姉の アカルヒメと スサノオの間に生まれた

《市杵島姫》この三人の女神が 宗像三女神 と呼ばれている 女神です


豊玉姫 は 山幸彦 の 子を宿すのですが 見てはいけない

お産の姿を 見られたとして 山幸彦を捨てます

豊玉姫が 次に選んだのが 伽耶国 出雲族の 王子 大国主命 でした

山幸彦との子供 鵜葺草葺不合(ウガヤフキアエズ) は

神話では 妹の玉依姫が育てたという美談に なっていますが

本当は 玉依姫 は ウガヤ を 夫としています そして

生まれてきた子が 海神 安曇磯良 です


古代社会は 母系社会です 女が男を選びます

婚姻の基本は 女の家族が男を迎え入れるといった

女を中心として婚姻が成立していたようです

三人の女神達の 周りには 多くの男達がうごめいていました

女神達 は それぞれ 違う出自をもって この島に渡ってきた

渡来人達の 心を掴みました

そして 男達は 女神の夢見る 龍宮を 拠り所としながら

倭国という 九州統一王朝を

創りあげていったのかもしれません








by nonkei7332 | 2016-09-02 22:30 | 古代史 | Comments(0)

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警固神社 ( 天神2丁目 )




福岡市の中心街といえば

《天神》と呼ばれる 地域です

最近は 博多駅界隈も 駅の再開発にともなって

賑やかになりましたが

それでも 天神地区は 多くの商業施設や地下街 市庁舎などがあり

多くの市民が集まる 場所です

天神の明治通り沿いにある 〈水鏡天満宮〉が

天神という名前の出処だと言われています

さて 西鉄福岡駅に隣接する 三越 や ソラリアホテル に囲まれるように

警固公園があり その南に接するのが

『 警 固 神 社 』です

今日は この神社の謎を解いてみます


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祭神は 警固三神と書かれていました


神直昆神 (かんなおびのかみ)

大直昆神 (おおなおびのかみ)

八十渦津日神 (やそまがつひのかみ)


聞いたこともない神様だと思いますが

神直昆神 とは 下鴨神社の祭神 〈鴨玉依姫〉 の事です

大直昆神 とは 日吉神社や松尾神社の神様の 〈大山咋神〉のことです

京都下鴨神社の 〈丹塗り矢神話〉に出てくる お二人ですね ご夫婦です

お二人の子供が 上賀茂神社の祭神の 賀茂別雷神 なのです

さてさて 三番目の 八十渦津日神 とは誰なのか

実は 後世 歴史の闇に 消された 祓いの女神

あの 〈 瀬織津姫(せおりつひめ)〉のことです





警固神社は昔からここ(天神)にあったのではありません

由緒によりますと この神社の元宮は 南区警弥郷三丁目にある

警固神社(上警固神社)だといわれています

扁額には 〈 警固宮 〉と書かれていました。


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上警固神社 (警弥郷)


上警固神社の 由緒 にはこう書かれていました


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赤 (警固神社)
緑 (背振神社)







「筑前国続風土記」で 貝原益軒は

天神の警固神社の事を こう書いています


『 今かんがるに、警固と名付けしは、古、此の地に 警固所ありし故、

其の所にまします神なれば、名付け侍りしにや、

神功皇后の新羅を討ちたまひし時、此の神、

軍衆を警固したまふと云うは

其の名によりて 後の人附会せるなるべし』


すごい内容ですね 上警固神社は

その後 神功皇后が 福崎(福岡城本丸あたり)に祀ったとされていますが

益軒は 警固の名を借りた 後ずけだと言っています

おそらく 真実は いにしえの地図を見れば分かりますが

南区警弥郷近くまで海岸線だったのですが

その後 現在のように陸地が広まっていったので

福崎(黒田城本丸付近) に分社したのではと私は思っています

神功皇后は 国を護った神として 後世 度々 後ずけされていますが

これもその一つだと思います



そもそも 貝原益軒は 天神警固神社の事を

「小烏警固神社」と書いています

この神社の門前辺りは 古い地名で〈小烏馬場〉

と呼ばれていたためでしょうか


『 小烏の神社は、古より 此所に鎮座し給ふ。

城州下加茂の小烏の社と同神にて 建角身命 為。』



下鴨神社と小烏神社の ご祭神は 同じで

建角身命(ヤタガラス) こと 豊玉彦 だといっています

ただ 小烏神社が この場所(天神) にあったように書いていますが

益軒 の勘違いのような気もします

古地図をみると 警固所 と 小烏神社 は ちょっと 離れています


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呉服町路上にある 博多の地図

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鎌倉時代の 博多の古地図 「博多往古図」



鎌倉時代の古地図(上図)には 北警固所の南に〈小烏大明神〉とあります

現在 薬院の近くに 古小烏(ふるこがらす)という 地名があります

おそらく そこに 古い小烏神社 はあったのでこの地名が残ったのでしょう

じつは 現在は 警固三丁目の丘の上に 〈 小烏神社 〉があります

というより 丘の上に移されたようです


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小烏神社 (警固3丁目)



赤 (小烏神社)
緑 (警固神社)
黒 (古小烏町)



いったい いつ 誰が 丘の上に 移したのでしょうか

もう一度 上警固神社の由緒を見てください ヒントが書かれています

つまり 福岡城主 黒田長政が 慶長6年(1601年) 黒田城を築城する時に

城の本丸近くにあった 分社された下警固神社を

今の小烏神社のある所に移し

古小烏 にあった 小烏神社も移して 合祀したのでした

小烏神社跡は 藩士の住居にしたと記録には残っています

その後 慶長13年(1608年)二代目藩主忠之が本丸で 生まれると

警固三神こそが 産神だといって 山の上の 小烏の祠だけを残して

警固所があった 今の天神に 警固三神を祀る 警固神社として

神社を造営し 黒田藩主 代々 厚く 祀ってきて 今に続いています


天神警固神社 は 黒田家によって 慶長6年(1608)に


建てられた 社殿 だったのです





さて 私は 去年の11/10 の 記事の中で

京都下鴨神社の葵祭りの起源は

背振山麓に住む 賀茂氏が背振神社で行っていた祭りを

天智天皇が 京都にもってきたものだという

真鍋大覚さんの説を引用して 紹介しました


その後 下鴨神社を訪ね 八咫烏(ヤタガラス)こと豊玉彦と

鴨玉依姫 そして 大山咋神 の三神の繋がりを知り得ました

そして その影で 瀬織津姫が この神様達を

じっと 見守っている事を感じて帰ってきました


警固神社の元宮である 上警固神社のすぐ側には 実は 〈背振神社〉が

鎮座されています。同じ賀茂氏が祀ったものだと思っています

そもそも 背振神社の祭神は 宗像三女神になっていますが

私は 豊玉彦(ヤタガラス)が 隠れておられるような気がしてなりません


天神警固神社のご祭神には 警固三神のほかに 相殿神として


建角身命

豊玉姫命

神功皇后

応神天皇


の四神が 祀られていますが ここでも 建角身命 の名こそあれ

豊玉彦(ヤタガラス)は 表に出ずに 隠されているようにも思えます

神社をよく見て回りましたが

神紋は 黒田家の紋章と同じ「下がり藤」でした

千木 は 間違いなく 男千木 で 男の神様です

拝殿の瓦の上に 烏のような 置物が乗っているではありませんか

間違いなく あれは 八咫烏 (ヤタガラス) です

社務所で確認させて頂くと「その通りです」という答えでした

何か 安心したような 複雑な心境でした

何故に 警固神社の神様が 建角身命 を含めた 四神 ではないのかという

疑問ですが これ以上 突っ込むと 神社に迷惑が かかりますので

口を閉じることにします


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百島系図


ここからは 百島神社考古学 の世界です

百島説によると 祓戸神である 〈瀬織津姫〉と

出雲神話で スサノオ が 嫁にした 〈櫛稲田姫〉そして

「山城国風土記」に出てくる 丹波の姫 〈伊賀古夜姫命〉(イカコヤヒメ)

は 同じ人物だとされています

そして この姫 と 豊玉彦(ヤタガラス)の間に生まれたのが

鴨玉依姫 であり その夫が あの 大山咋神 なのです

私が 下鴨神社でみた あの神々の系譜が

博多の 小烏神社 警固神社の神々の系譜に重なるのです


それは 取りも直さず

豊玉彦の父である 博多の主の神である 櫛田の大幡主神

そして 大国主神 と 続く 白族(主の神の系譜)の中に

出雲族と言われる 秦氏の系譜が 取り込まれていった

出雲神話(国譲り神話) の 隠された 世界なのかもしれません


次は 豊玉彦と 豊秋津姫 と間に生まれた

豊玉姫 (鴨玉依姫とは異母違いの姉妹)を訪ねて


『若宮神社』を訪ねます








by nonkei7332 | 2016-08-30 10:51 | 古代史 | Comments(0)


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八代市 鏡町にある 印鑰神社 に行ってきました

印鑰(いんにゃく) という名前は

この地に 八代郡司という役所があって

朝廷から渡された 印 と 租米が集められる倉の 鑰(かぎ) が

神社に納めてあったからだといわれています


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創建は 建久九年(1198年)

肥後の国球磨の地頭 相良三郎名頼 が 弟の八郎為頼に

八代の北三里「鏡ヶ池」の近くに神社を造営させたとされます

祭神は 蘇我石川宿禰

武内宿禰 の 第三子 です 蘇我氏の祖です

第一子の 波多八代宿禰 も 名前からして 八代の領主だったのでしょうか

仲哀天皇のころ 筑紫凶徒を鎮めるために この地に下向し

この地で 亡くなったと 神社の由緒に書かれていました

巨きなクスノキが境内にそびえ立っています

古代はこの辺りの 鎮守の杜だったのでしょう


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神社に側に 八代郡倉跡 の案内文がありました

地名に 条里制の面影が残っています

まるで ここに かつて 王朝があったのごとき内容です

驚きは 「小早川文書」に 徳渕津に 正倉院 があったとの一文です

( 現在残っているのは 東大寺の正倉院だけが 唯一だと思われがちですが

当時は各地に幾つかあったようです)

〈徳渕津〉とは 球磨川の河口支流 前川付近にある 古代から 発展し

大陸貿易の拠点となっていた 港 なのですが 中世には

〈博多津〉とともに 朝鮮遣使 や 渡明船 の 拠点港だったようです

天文14年(1545)には 勅使として 大内義隆 もこの地を訪れています


徳渕 には 有名な 『河童渡来の碑』があります



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「本朝俗諺志」という江戸時代の書物に こんなに書かれています

『 中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て

球磨川に住み着くようになった その後 一族は繁栄して

その数九千匹になったので その頭領を九千坊と呼ぶようになった

その河童どものいたずらが激しく人々をこまらせた

加藤清正はこれを怒り 九州中の猿に命令してこれを攻めさせた

これには河童も降参して 久留米の有馬公の許しを得て

筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった 』


河童 は 古代中国 魏呉蜀の三国時代に 呉から渡ってきた 渡来人

その 渡来地が八代だったようです

そもそも 八代という地名の由来は いくつかあるようですが

『 海からの 神迎えの信仰 が盛んな土地で

巫女が火を焚き常世の国から


神様を迎える儀式が真夜中に行われていた

この神々が往還するところに「社」があり

この「やしろ」から「八代」となった 』

と言われています



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鏡が池




話は戻って 印鑰神社 には 春の大祭(4月7日) に

『 鮒取り神事 』が今も行われています

神社由緒には

『 蘇我石川宿禰が 凶徒平定の為この地に来られた時

悪天候で海が荒れ魚が捕れず地元の若者が「鏡ヶ池」に飛び込み

鮒を献上し石川宿禰をもてなしたと言う故事にならい毎年4月7日

褌一つの若者が池に飛び込み手づかみに鮒を捕り御神前に供え

見物人にも投げ上げる行事は今日も賑わいを伝え継いでいる 』

と書いてありました





私の長男は この地に縁があって この神事にも 何度も参加したようです

動画をよく見ましたが 彼の姿は見つかりませんでした




〈 蘇我氏 と 熊襲 〉〈 河童伝説 と 水天宮 〉

興味は尽きない 八代 ですね

次回は いよいよ 〈 八代妙見宮 と 妙見の謎 〉です







by nonkei7332 | 2016-07-28 12:30 | 古代史 | Comments(0)

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《 鬼 灯 》 《 酸 漿 》

何と読むのかを知っている人は

かなりの 漢字通 の人ですね

答えは 前回 記事にしました 《 ほおずき 》です


語源をたどると 幾つかの説がありました

紅い実が 人の紅い頬に 似ているから 〈 頬ずき 〉

実の種を取って 口に入れて鳴らす遊びの (頬突く)から 〈 頬突き 〉

「ほう」という カメムシが よく 集まってくるから 〈 ほう着く 〉

紅い実が 火のような色だから 火火(ほほ)が着くで 〈 火火着き 〉

7月の (文月) ふづき が訛って 〈 ほほずき 〉




貝原益軒 は『筑前国続風土記』花譜の中で

酸漿(ほおずき) について こうなふうに書いています


叉 、金灯籠 という。

此草 ほう という 蟲 好んで 葉をくらう。

故に ほうづき というにや。


ほおずき の 新たな語源 『金灯籠』が出てきました

灯籠とは 提灯 のことです

金灯籠 で 思いおこすのは 『山鹿灯籠』です

今も残る 熊本県山鹿地区の 山鹿の提灯まつり は有名です


この祭りの由来は

景行天皇 が 九州を巡幸しているとき

加茂の浦の湖(現山鹿市内)で濃霧が立ちこめ

一行は進路を見失ってしまった

このとき 地元住民が 松明を灯して

一行を 大宮神社 のところまで導いた

この松明がのちに灯籠となって神社に奉納されたとあります



景行天皇の巡行と云えば 聞こえはいいですが

目的は 鬼といわれた 土蜘蛛(熊襲)征伐だったのでしょう

山鹿の里は 大きな湖だったんですね

灯籠は 大宮神社に奉納されたとされていますが

灯籠は 何を意味しているのでしょうか


祭りの中で唄われる 「よへほ節」という 俗謡があります

よへほとは 酔いましょう という意味だといいます

元歌は 男と女の 掛け合いの歌のようです

古代のまつり の起源 「歌垣」を偲ばせます



ほおずき と 金灯籠 の写真です


だぶって見えるのは 私だけでしょうか



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実は ほおずき は 別名があります

『 輝 血 』 かがち と 読みます


この別名の 出処は なんと 「古事記」でした

古事記の出雲神話に出てきます

「其の形は如何(いかに)。」と問ひたまへば、答へ白しけらく、

「彼(そ)の目は 赤加賀智(あかかがち)の如くして、

身一つに八頭八尾(やかしらやを)有り。

亦其の身に蘿(こけ)ち檜椙(ひすぎ)と生(お)ひ、

其の長(たけ)は谿八谷岐八尾(たにやたにをやを)を度(わた)りて、

其の腹を見れば、悉に常に血爛れたり。」とまをしき」


《現代語訳》

「ヤマタノオロチのその姿かたちはどんな風なのか。」と尋ねると、

「その目は赤い ほおづき のようで、身体は一つで、頭が八つ、

尻尾も八つ付いています。

また、その体にコケとヒノキと杉の木が生えて、

その長さは谷が八つ、丘が八つ分あって、その腹を見ると、

いつも血がただれています。」


スサノオ の ヤマタノオロチ退治 の場面です

《出雲神話》には いくつもの 謎があります

ここからは 妄想だといわれるかもしれませんが

「古事記」は 出雲神話で 何を 隠そうとしたのでしょうか

スサノオ 対 ヤマタノオロチ の構図なのですが

私には スサノオ=ヤマタノオロチに見えてきます

スサノオ は 熊襲国の王 です (新羅の王族でもありました)


神話では スサノオは 荒神とされています

ヤマタノオロチ は 大蛇です それは 龍 の化身です

龍 は海人族の 象徴でもあります

ヤマタノオロチの尾からは 三種の神器のひとつ

〈草薙剣〉がでてきたというのも 謎めいています

山鹿の大宮神社に祀られているのは ほんとうに 景行天皇なのか?

私には スサノオ=ヤマタノオロチ(龍神)である

熊襲の祖神こそが 本当の祭神のように思えてきます

妄想は限りなく続くのでこのくらいにしておきます



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〈ほおずき〉が 〈鬼灯〉となって

ヤマタノオロチの 紅い目となりました

ヤマタノオロチの 紅い目は 山鹿の金灯籠 でした


山鹿の里人は 灯籠を鎮守の社に奉納しました

これが 毎年8月 頭上に灯籠を載せた女性たちが

優雅に舞い踊る 「千人灯籠踊り」となりました

幻想に誘う 闇の向こうに

古代山鹿の主の神が 見え隠れしています











by nonkei7332 | 2016-07-05 15:42 | 古代史 | Comments(0)

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地震前の 鯰三神社




《 鯰三神社 》を訪ねました

阿蘇熊本に残る 《大鯰伝説》で

大鯰が流れ着いたとされるところです

今も 〈鯰〉という地名がのこり そこにある 神社です

正式には 〈 三社宮鯰三神社 〉といわれています








嘉島町史 に拠れば

鯰村には 上社 下社 西社 という 三つの 神社があって

それぞれ 違う祭神

《 上社には 四面大菩薩 ( 高木大神?) 》

《 下社には 八幡大菩薩 ( 大幡主神?) 》

《 西社には 国祖大明神 ( 国龍神(草部吉見)?) 》

が祀ってあったのを 習合したとあります

(?は私見です)

とすれば この鯰神社の祭神 はいずれも 鯰をトーテムとした

古代熊本の 祖神 なのでしょうか



菊池の乙姫神社 山鹿の二宮神社など 肥後から 筑後 肥前にかけて

多くの神社で「鯰」が祀られています

各地にある 鯰の宮 の中から 私が この宮を 訪れた目的は

この宮こそが 元宮 だと思ったからでした

そして なによりも この地を 護る 産土神 の

荒ぶる神霊を 鎮めるためです



熊本県神社庁 によれば

今回の地震で 県内の社殿 約130 社

鳥居 約230基が 全壊したといいます



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荒れ果てた 境内には 人の気配はありませんでした

無残にも壊れた 台輪鳥居 と 傾いた 神門 には 近づけません

拝殿に貼られた 危険の赤紙 が 復旧の厳しさを物語っていました

そんな中でも 神木の楠は 青々と繁っていました





40年前 この地を初めて訪れた私でした

思い出と懐かしさの詰まった ふる里です

今でも お世話になった 方々が住んでおられます

傾いた 赤紙の貼られた 母屋のそばで

こんな 私の訪問を 喜んで 頂きました


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2015/10/26 拙ブログ 《 もうひとつのルーツ 》参照
http://hisamitsu.exblog.jp/25029702/




 

by nonkei7332 | 2016-06-23 12:40 | 古代史 | Comments(0)

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甘い香りの 車輪梅 (しゃりんばい)




人々が ゴールデンウイーク で 若葉の季節を楽しむ頃

去年から 私の日々は 野草と向き合う 草摘みの日々となりました

一日一時間 という草摘みは

私にとっては 大切な 時間になったのです

私に 『草摘みの呪術』という

こんな 私にもできる 願事成就の方法を教えてくれたのは

文字学者の 白川 静 先生 です

白川さんは 哲学者の梅原猛さんとの対談

『 呪の思想 ー 神と人との間 』


の中でこう話されています




わが国でも 草を摘む時に

そこらを囲ってね 標(しめ)を結うてしますでしょ。


《 明日よりは春菜採まむと標めし野に昨日も今日も雪はふりつつ 》
万葉集巻8-1447


などというのはね、

春の野で草を摘むのに、わざわざこの場所というて区切るわけですね。

草摘むのに区切る必要は何もないんだけどもね、

「昨日も今日も雪は降りつつ」、少々雪が降っても、

野草ぐらい摘めるはずなのにね、なぜ草を摘まんのかおかしいですね。

それは その草摘みがね、この特定の場所の、この草を一時間の内に

この籠にいっぱいきちんと摘みますよという、

神さまに誓いを立ててね

野草摘みをやるんです。それは「誓約」(うけい)です。

だから それに成功すれば、自分の願い事がかなう訳です。

そういう神さまとの約束事をした上で草摘みをする。

だから 草摘みというのは、単にそこらで野遊びをするのではなく

願い事があって、これをやりますから やり遂げたら

願い事聞いて下さいというような、

そういう意味で草摘みをやるんです。



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私の願い事とは 子供達の交通安全 と 無事故です

近所の草摘みと 子供達の登校路の 草摘みは

環境美化だけが 目的ではなく

私と神との 〈誓約〉 願事成就の仕草なのです



今日は 「こどもの日」

明日は雨が降るというから

一袋 多めに 草を摘みました

遠くに住む 我が息子と 孫のために

そして もうひとつ

熊本の地震が 一日も早く

治りますようにと祈りを込めて



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著者の 《 白川 静 》(1910~2006)さん は
中国最古の文字資料である殷・周の甲骨文や金文に対して
体系的な研究を行い 中国および日本の古代文化について
「白川文字学」と呼ばれる 独創的な研究を築き上げられた
立命館大学の名誉教授でした





by nonkei7332 | 2016-05-05 22:45 | 日記 | Comments(0)


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写真は 左から 真鍋大覚さん 宮崎康平さん 和子夫人
那珂川町の 裂田の溝 を訪れた時の様子です
「神々のふるさと」宮崎康平著 より




私が語る 二人の賢人 とは

宮崎康平 さん (1917~1980) と

真鍋大覚 さん (1923~1991)


の ことです


宮崎康平さん の 著書「まぼろしの邪馬臺國」(1967年) は

当時 邪馬台国論争の火付け役として 話題になった ベストセラーでしたが

古代史などには まったく興味がなかった私には

知ってはいても 目を通す事はありませんでした

その後 私が どんな人なんだろうと 興味を持ったは

さだまさし の 「邪馬臺」という歌を聴いた時だったのです

( 詳しくは 拙ブログ 1915/7/20 「海の日に」参照下さい )

それこそ 「出逢いは いつでも 偶然の風の中」でした



出逢い と言えば 私を 古代史へと 導いてくれたのは

ブログ「ひもろぎ逍遥」の 〈綾杉るな〉さん でした

綾杉ワールド は 多くの 出会いを私に与えてくれました

私が 記事の中で 《筑紫の賢人》と 勝手に 呼ばせていただいている

真鍋大覚さん との 出会いは 今では 大きな 存在です

図書館を巡って 真鍋さんの 書物を読みあさりました

難解な内容の書物ですので どうしても 自分の物にしたくて

綾杉さんに お聞きしてやっと手に入れたのが 『儺の国の星 拾遺』です

本の中で 度々 出てくるのが あの 宮崎康平さん の 名前でした

先日 数少ない 宮崎さんの著作の中で 『神々のふるさと』という本を

手に入れ 読んで 驚いたのが これまた 度々出てくる

真鍋さんの お名前だったのです



宮崎さんは本の中で こう書かれています


『 真鍋先生は 気象学者で 年輪と気象の関係を研究されている人である

私は その年輪から 古代の歴史を読み取ろうと すでに 何年も

先生について学び かつ 研究しているが おかげで 新しい幾多の事実を

確認することができた 』89p



奇しくも 同じ時代に 生まれた 古代史研究者 と 気象学者 の

お二人が 互いに 大事な存在であったことが

この本の 一行 一行 の 間に 感じることができますが

この 本の あとがき には

和子夫人が こんな 事を書かれていました



『 そもそも 康平 がはじめて『まぼろしの邪馬臺國』を世に問うてから

今日まで 大方の期待を裏切って なぜ 後続の著書を出さなかったかと

かねて先輩や友人からは苦言を呈され しかも 農園の経営や講演に

ひっぱりまわされて ペンを執ることがおろそかになったのではないか

と非難されたのだったが これは あくまで 副次的な現象で ほんとうは

九州大学の 真鍋大覚助教授 との出会いがきっかけで

脱線してしまったようなものである

人間が 自然をゆがめるほどの 巨大な力 を持ちはじめたのは

僅か百年このかたのことで 千七百年 という歳月は 自然界においては

束の間の時間にすぎない だから 古代に最も肉薄することができるのは

自然現象 を通じてだと考えた康平は 九州大学で航空気象学を

研究されている 真鍋大覚博士に教えを乞い 過去三千年にわたる

気象のプリントともいうべき 屋久杉の年輪を研究 を手始めに

〈気象〉〈日蝕〉〈海流〉等々 貴重なデータ や

九大図書館の資料を 提供していただいた 』




二人の賢人が あと10年 長生き されておられれば

新たな 古代史 発見に 大きく 寄与されたに違いないと

私 は 思っています



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by nonkei7332 | 2016-04-28 18:59 | 古代史 | Comments(0)


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トン族 の 少女




福山雅治 が 次に訪れた 所は

中国 貴州省 占里村(せんりむら) でした

少数民族『 トン族 』と呼ばれる 人たちが住む

山に囲まれ 鼓楼 と呼ばれる 村の聖地を中心に

700人ほどの 村民からなる 小さな村 です

ここも 独自の文字をもたない 「トン族大歌」という 歌で

村の歴史 や 文化を伝えてきた 人たちでした

幾重にも重なる 棚田 で もち米を作る人たち

古き 日本の 農村をコピーした様な 風景がそこにはありました

人々は 祖神を そして 山の神 地の神を 祭っていました


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村に入るには 川に架かる 「 風 雨 橋 」と呼ばれる

屋根付きの橋を渡らなければならないといいます

その姿を テレビの画面で 見た時

私の中で 幾つかの記憶が 繋がり

それは ひとつの確信に繋がっていったのでした

『 あの橋 と いっしょだ 』

私の記憶は かつて 見たことのある

あの橋を 思い出していました

その橋とは 宇佐神宮 の 寄藻川(よりもがわ)に架かる

「 呉 橋 」(くれはし)です

いつの時代に造られたのか 解らないとされ

ただ 呉の人が造ったと 伝えられる 謎の橋です


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宇佐神宮 呉橋



中国春秋時代 「呉越同舟」と言われる様に

仲の悪かった「呉」も「越」も 同じ風俗 と 文化をもつ

同じ 民族 だったのです

呉越 の 末裔は 海を渡り 倭人となりました

山に追われた人々は 奥へ奥へと 迫害を逃れ

少数民族 となって そこに 山里を築きました

そのひとつが 「トン族」だったのでした



そういえば 倭人もまた

独自の文字をもたない 人達 だったのです

日本における 文字の起源 といえば 万葉仮名 が最初です

やがて そこから 片仮名 平仮名 が生まれます

とすると 万葉以前の人達は 「トン族」と同じように

山の神を祀り 水の女神を祀り


神の使いである カラスに

その年の豊作を 託した 人々だったのでしょうか

そこには 祖神を伝承する 「歌」があったのかもしれません



番組では 300人の トン族の合唱隊 と

「トン族大歌」の代表曲である 「セミの歌」をバックにして

福山雅治 が 自分の歌 「明日へのマーチ」を歌いあげます

ひとつになった 歌声は やがて ひとつの 絆となって

山の木々 山の神々 と繋がり

私の魂の中で ひとつの 感動となっていったのでした



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by nonkei7332 | 2016-04-17 07:11 | 日記 | Comments(0)

by ヒサミツ