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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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九州国立博物館 の 新年のイベントです

特別展 『 宗像・沖ノ島と大和朝廷 』1月1日~3月5日


沖ノ島が「神宿る島」として


世界遺産のリストに上がっていますので


バックアップのイベントでもあるのでしょう



そもそも 世界遺産とは 三つの遺産に分類されています

〈文化遺産〉

顕著な普遍的価値を有する 記念物・建築物群・遺跡・文化的景観など

〈自然遺産〉

顕著な普遍的価値を有する 地形や地質・生態系・景観・

絶滅の恐れのある動植物の生息,生息地を含む地域

〈複合遺産〉

文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産



ちなみに 日本の世界遺産登録数は20 (文化遺産16、自然遺産4)です

(2016年7月現在)


〈沖ノ島〉の あれだけの国宝を抱えた 文化的遺産としての価値は

誰しもが認めるとこですので 素直に応援したいのですが

今回の特別展示については 開催が決まった時から

何か 引っかかる ものを感じていたのは 私だけでしょうか

引っかかる所は 案内文 にある ここです



『 沖ノ島祭祀を行ったのは古代豪族宗像氏ですが

その規模の大きさから ヤマト王権や律令国家といった

「古代国家」が深く関与した祭祀として


「国家的祭祀」と評価されています』



沖ノ島の祭祀を行なったのは 本当に 宗像氏なのか?

大和朝廷が 当初から 深く関わった国家的祭祀だったのか?


古代九州王朝倭国説 を 信じる私なので


7世紀半ばに立ち上げた畿内大和朝廷 が


4世紀後半だといわれている 沖ノ島祭祀に


関わること自体がナンセンスだと思っていた 矢先のことでした


私の溜飲をさげてくれる 一冊の本に出会いました



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『 太宰府・宝満・沖ノ島 』古代祭祀線と式内社配置の謎

伊藤 まさこ 著



北九州の古代史愛好家 であれば 一度は見た事がある

伊藤さんの 祭祀ラインです

名の知れた神社 や 古墳 は 名の知れた山 と 直線で繋がっていて

それは 弥生の首長達の 太陽祭祀のラインであり

そこから あぶり出されて来たものは 古来 歴史の闇に消されて来た

古代筑紫の倭国だったというのが 伊藤さんのミステリーです


第2章〈倭国の成立〉の最後に

「沖ノ島祭祀の空白が語るもの」という 圧巻の

沖ノ島祭祀論を書かれていました

結論から言うと 沖ノ島祭祀が行われていた 4世紀後半の

岩上祭祀で見つかった 銅鏡などの奉献品 は 宗像氏のではなく

津屋崎古墳群の中の 〈勝浦峯の畑古墳〉から発見された

銅鏡と 同型鏡だった事や 津屋崎古墳群の最南端にある

宮地嶽古墳から出た 多くの 国宝の武具と同じ 首長の物と重なることから

津屋崎・宮地嶽の豪族の盟主こそが 祭祀主だったといわれています

宮地嶽神社の祭神「勝村大神・勝頼大神」の 勝 という字が

勝浦 や 勝島 地名として多く残っていることも それを物語っているし

4世紀後半から 5世紀の倭国は 「倭の五王」の時代でもあったので

その中の王こそが 沖ノ島の祭祀主であり その目的は

「海上航海の安全」というより副葬品からみても 「戦勝祈願」

だったのではないか

倭国王(五王)が 中国の 宋 や 済 に対して

半島の軍事権である 安東大将軍 という進号を常に求めたのも

この時代であったという 背景からも 説明されています


また 沖ノ島の 〈岩上祭祀〉が 〈岩陰祭祀〉にかわるまでに

100年程の 空白があるということについて

伊藤さんは その祭祀の変化の陰に この国にとって

大きな 政変があったとのではと それは

『磐井の乱』(527年) だったといわれています

その後 五王の時代は終わり 倭国は 少しづつ弱体していきます

沖ノ島祭祀 が 宗像三女神 として 祀られていくのも

これ以降の話ではないかといわれていました



という事で 沖ノ島祭祀が 大和朝廷による 国家的祭祀など というのは

後世 造られた 歴史のひとつであるという事を 一人で 納得したのでした

とすれば 国立博物館 としての 今回の展示の裏に

畿内大和朝廷ありき の 国家的洗脳の影を見つけたといえば

ちょっと 言い過ぎになりますでしょうか



博物館では 今回の見どころの一つに こんな事を書かれています


《 神代 からの神話と歴史をまとめた『古事記』『日本書紀』の

記述と 日本各地の 発掘調査の成果を照らし合わせることで

日本古来の神まつりの実像に迫ります。九州国立博物館が

『古事記』『日本書紀』の新しい読み方をご提案いたします。》


新しい読み方 どんな読み方なのか 今から 楽しみです





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三郡山系 に 日が昇ります
手前は 名島神社



話は 変わりますが 先日 の 秋日和の日

伊藤まさこ さん と イベントで ゆっくり お話しする時間がありました

ご自分のルーツの事 祭祀線の事 穏やかな 語り口で

いろんなお話しを聞かせて頂きました

今 一番 興味を持って研究されているのが 《万葉集》とのこと

柿本人麻呂が いかに 持統天皇を愛していたのかとか

私の大好きな 大伴旅人 の話など 熱くお話を聞かせて頂きました

祭祀線で 私達に 歴史のゴーストを見せてくれた伊藤さんでしたが

今度は 万葉集 に 埋もれた ゴーストも見せてくれそうですね

サプライズ が お好きな方のようで

当分は 目が離せません



伊藤さんのブログ 『地図を楽しむ』は

お気に入りのブログにあります

クリックして 伊藤ワールドを お楽しみ下さい










by nonkei7332 | 2016-11-17 17:18 | 古代史 | Comments(0)


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博多座の10月公演 『おたふく物語』を観ました


博多座も久し振りです



前回の 博多座は 市村正親 (篠原涼子の旦那) の ミュージカル でした



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こういった 劇場で 演劇などを観ることを 芝居を見ると言いますが


芝居 の 語源は 神社の境内で行われていた 猿楽や神楽 を見るとき


見物客が皆 芝の上で 座って見ていたからだと いわれています


広い意味では 芝居は 神事だったのかもしれません




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「おたふく物語」は



山本周五郎原作 石井ふく子演出の 江戸の人情話です



主演は 上方喜劇王 藤山寛美の娘 『藤山直美』


いわゆる 喜劇 と言われる ジャンルに入るのでしょうか


原作は おそらく 読んだと思います というのも 30歳代の 一年程


『山本周五郎』『藤沢周平』『池波正太郎』といった


人情話の小説を 読みあさった 頃があったからです


今では 内容はほとんど 覚えていません



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さてさて 今日の話題は お芝居ではなく



『 おたふく 』です


あの のっぺらとした 女性のお面で知られている あの 『お多福』です



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おたふく といえば ほっぺたが腫れる〈おたふく風邪〉とか


お好み焼きのソースの名前とかで有名なんでしょうが


本当の 〈おたふく〉を知る 鍵は あの お面 です


そもそも 「面」とは 何なのか 辞典では


顔につける かぶりもの。


多くは人物・動物などの顔をかたどったもの。


神楽・舞楽・能・狂言で使われた。 とあります



その中でも 能面 は よく知られますが 世阿弥 は 「花伝書」の中で


申楽の起源にふれ 能の起源は 神様の話 だといっています


白州正子 は 対談の中で こんな話をしています


『 古い神社では 面 が御神体になっている所がたくさんありますが


私達の祖先が 仮面というものに対して



どのような考え方をしていたかということを暗示していると思います』


どうやら 面をつけている対象は すべてが 神 だったようですね


「翁」や 「鬼」も 神様 だったということは


「おたふく」も 一緒に出てくる「ひょっとこ」も 神様だったのでしょう



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「ひょっとこ」の語源は 「ひおとこ(火男)」で


竃(かまど)の火を 竹筒で吹いている表情です


中には 片目をつぶってる面もありますが


あれは ウインクではなく 片目が潰れた 神話に出てくる


天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を 暗示しているようです


どうやら 「ひょっとこ」は〈火の神〉〈鍛治産鉄の神〉のようです


「おたふく」は 後世「おかめ」という名前ももらっています


「おたふく」は 日本神話の 天岩戸(あめのいわと)伝説 に出てくる


天鈿女(アメノウズメ) だといわれています


岩に隠れてしまった アマテラスを 妖艶な踊りをして 誘きだそうとした


あの 踊り子の神様 です 日本の 初代の 芸能人 なんです


旦那様は 猿田彦 という説があるので


「ひょっとこ」と「おたふく」は夫婦だったのですね




神社考古学 の 百嶋説 によれば


アメノウズメ は 香春神社の主祭神 『辛國息長大姫大目命』だとします


大目 を ウズメ と読んでいるのです


スサノオ と 神大市姫(ミズハノメ)の間に 生まれた娘です


伊勢神宮の下宮様 豊受大神こと 豊受姫 であるとされ


産鉄の神でもあるので 伏見稲荷神社の祭神



宇迦之御魂神 とも 同じ神様だとされています


一方 猿田彦 は 山幸彦 =ニギハヤヒ=彦火火出見 であるという説です



こうして アメノウズメ こと 「おたふく」は


山幸彦 や 海幸彦 を 脇に抱え


アマテラス=卑弥呼 の跡を継ぎ


13歳の宗女 壱与(イヨ)へと 歴史を繋いだ


とてつもない 女神 だったのです



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百嶋系図 一部



(百嶋説は 通説とは異なりますが 注目度急上昇中の神社考古学説です)







by nonkei7332 | 2016-11-13 16:42 | 古代史 | Comments(0)



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千田川土手の 鶏頭




山鹿の里が 加茂の浦 という 湖 だったとすると

その出口 あたりに ある集落が 志々岐 です

その丘の上に鎮座する

『 志々岐阿蘇神社 』に 行きました




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丘の上からは 菊池川をはさんで 大宮神社の杜が見えます

おそらく 同じ 位の 標高でしょうか

ここもまた 大宮神社 と同じように 猿田彦の石碑 が ずらりでした

江戸時代 庚申信仰が 拡まるにつれて 全国では かなりの数の

庚申塚 や 猿田彦の石碑 が 建てられたのでしょう

山鹿では どんな目的があって 一箇所に集めたのでしょうか

阿蘇神社となっていますが


境内には 〈諏訪神社〉 〈八坂神社〉 の社殿が

横並びで鎮座されています その間の奥には 鳥居があって

社殿はありませんが 野ざらしの 〈大国主大神〉の石碑が 建っています

「一宮」の扁額 が 横に置かれているので

おそらく かつてはここに 大きな社殿が あったのでしょう



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出雲の神々の勢揃いみたいな 神社でした




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菊池川 の 支流 千田川沿いにある 古社

『 千田聖母八幡宮 』を 訪ねました

聖母宮(しょうもぐう) なので 神功皇后 が祭神です

後に 八幡が合祀され 応神天皇 仲哀天皇 がそばに 祀られています


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楼門の 扁額は 「霊廟」になっています

「霊廟」といえば 「香椎廟」を思い起こしますが

ここは いったい 誰の「霊廟」なのでしょうか

摂社には 厳島之大神、住吉之大神、

末社には 武内神社、安倍神社、諏訪神社、吉田神社、若宮神社、

赤腹天満宮、亥ミ子嶋、虎御前、天満宮、八嶋八柱神社、日吉神社

解説は省きます


というより よくわかりません




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ただ 拝殿の神紋は 五七桐 でした


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面白いと言ったら 罰当たりますが


末社 のひとつ

赤腹(ひらくち) の神様 には 初めて出会いました

〈ヒラクチ〉とは 蝮(マムシ)のことです 毒を持っています

ちなみに 毒を持っていない 蛇 を 〈クチナワ〉といいます

蛇 は 不思議な霊力を持っています

旺盛な繁殖力、脱皮しては 蘇る 生命力 は 驚異です

やがて その力は 龍 となり 水を操る 水神は 龍神 海神 として

人々に 崇められてきたのでした

『やっぱり 山鹿 は 蛇 なんだ』 と 独り呟いてしまいました


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飛び地末社 「八嶋八柱神社」


千田川を渡ったところにあります

池の中に 八つの嶋があって 橋 で繋がっています

説明文には 雨乞いの神 と書かれています


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まさしく ここは 八岐大蛇 (龍神) を祀った 水神 でした

真ん中の嶋に 祠が ひとつ あります


祠の中には

この神社の 隠された 神 が


青い神像となって 祀られていると聞きましたが



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私の意識は 異次元の 夢の中をさまよっていました

川を渡って吹いてきた一陣の白い風が 緑の水面を揺らします

白い風は 白い道となって 祠まで伸びていきました

祠の扉が開きます


祠からは 乳白色の光が あたり 一面に拡がり

扉の中で 神像が 蒼く輝いていました

そして その足元には 一匹の 紅き眼をした白き蛇が

絡みついていたのでした

『 ギャー 』 誰かが 叫びました

その瞬間 白き道は 白き蛇の脱け殻に変わってしまいました

神像を護っていたのは 白い蛇だったのでしょうか それとも

白い蛇を護っていたのが 神像だったのでしょうか




ヨヘホ の 里 は 龍神の里でした






赤・・・志々岐阿蘇神社
青・・・千田聖母八幡宮









by nonkei7332 | 2016-11-06 11:20 | 古代史 | Comments(0)


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山鹿灯籠踊り




山鹿の郷を訪ねました


〈ほおずき〉が 〈鬼灯〉となって

ヤマタノオロチの 紅い目となりました

ヤマタノオロチの 紅い目は 山鹿の金灯籠 でした


《 拙ブログ 7月5日の 「鬼灯」の記事を覗いてみて下さい 》



主は 山鹿の 骨なし灯籠  ヨヘホ ヨヘホ

骨もなけれど 肉も無し ヨヘホ ヨヘホ



ヨヘホ節 に 唄われた 里の主は

骨もなければ 肉もない

八岐大蛇 (ヤマタノオロチ) だったとの 思い込みが

再び 私を 山鹿に連れてきたのでした

〈蛇〉は 神になると 〈龍〉になります

山鹿の里は 昔は 加茂の浦 という 湖でした

この湖に住む 龍神 こそが 山鹿の《主の神》だったのでしょうか


出雲の神話 は 実は 山鹿の神話だったのでしょうか

〈スサノオ〉 や 〈クシイナダヒメ 〉

奇稲田姫の 父母である 〈金山彦〉や 〈埴安姫〉を探しに

私たちは いくつかの 鎮守の杜 を 訪ねました



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山鹿の中心 〈大宮神社〉に 行きました

鬼灯 (ほおずき) の頃

頭に 赤い酸漿(かがち)の 金灯篭 を乗せて

朝まで踊った 女人の姿は もう どこにもありません

灯篭が奉納された 〈 大宮神社 〉は 秋でいっぱいでした

境内 は 七五三の晴れ着を着た 子供達の声が 響き

クスノキを揺らしていました




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50基もの 猿田彦の石塔 は 何を語っているのでしょうか




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神紋は 五七桐 です

阿蘇十二神 や 景行天皇 とは 縁のない

本当の 祭神がかくされているように思えます



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鹿本町 の 《高橋八幡宮》に 行きました

宇佐八幡の分霊を勧請したのが 建久二年(1191年) だと書かれていました

それ以前の祭神 が 姿 を 残されていました



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神紋です

《円天角地十字剣》(えんてんかくちじゅうじけん)

モーゼの嫡流 瀛氏 金山彦 の 紋章 が残されていました




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摂社には 金山彦 と 埴安姫 が仲良く一緒に祀られていました

とすると ここは 二人の娘 奇稲田姫の聖地 なのでしょうか


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拝殿の 欄間に 額絵 がありました

まさしく この女神は 〈クシイナダヒメ〉?




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近くに 小さな かわいい 小学校がありました

なんと 稲田小学校 という 名前でした





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菊鹿町 の 《松尾神社》に 行きました

祭神は 京都松尾大社 日吉神社 と同じ あの 〈大山咋〉です




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驚きの事実が 山門横にある 大きな家

松野鶴平、松野頼三、松野頼久 と続く 政治家 松野一族 の拠点

松野鶴平の生家 だそうです

松野家といえば「松野連系図」(国立国会図書館所蔵)ですが

この 松尾神社と 何かの 繋がりがあるとすれば

山鹿 は 姫氏 熊襲 の中心拠点 になります

系図の中の 「厚鹿文」は 景行天皇によって 暗殺された

熊襲の王だと 日本書紀には書かれていますが

だとすれば 山鹿 熊襲 にとっては 景行天皇は 侵略者 になります



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謎 の 神紋


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謎 の 夫婦像







赤・・・大宮神社
黄・・・高橋八幡宮
黒・・・松尾神社





by nonkei7332 | 2016-11-02 19:30 | 古代史 | Comments(0)


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白花曼珠沙華




〈中秋の名月〉の日

診察に呼ばれました

いつものように レントゲン撮影のあと

『 どうやら 肺に水(血)も 溜ってないようだし

膨らみ具合も昔に近いようですね 』

担当医は 私の肺を まるで 風船 のように 話す

『 肋骨は 3本とも 見事に折れていますから 当分は痛いでしょうね

ただ 痛むたびに 痛さも小さくなっていきますから 我慢して下さい

痛みが 無くなれば ブラジャーは外されてもいいですよ 』

彼は 胸当てバンドの事を いつも こう呼ぶ

あと 二週間もすれば 痛みも無くなるだろうと

いともあっさりと 収束宣言をしてしまったのだ

こうして 二週間足らずの 私の 「方丈記」は いともあっさりと

終わりを告げられたのでした



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帰りに 筥崎宮の『放生会』(ほうじょうや) へ寄りました


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筥崎宮 参道



かつて 放生会では 生きた亀が売られ 人々は この亀を買っては

近くの 川や池に放ったという 『放し亀』の風習がありました

八幡宮は 神仏習合 され 全国に広がっていった

日本で最も普及した 神社信仰ですが

神社 及び それ以前の祭神については

古来 謎とされています

海神 でもあり 幡を立ててまつる神 秦氏の氏神 とされた神だとすれば

私は 博多櫛田神社の 『大幡主神』こそが

ここには 隠れておられているような気がします

〈大幡主神〉こと 〈塩土老翁 (しおつちのおじ)〉

山幸彦を龍宮に連れて行った 亀として

記紀には 浦島の伝説として残っています

この《放生会》は 古代神話の入り口といってもいいような

多くの謎に包まれた 祭りなのです

人々は 何もわからず 〈秋が来たから放生会〉といって

ここに 集まってきます 祭りだから それでいいのです

豊饒を祈り 生きている事への 感謝を祈る

祭りだから それでいいのです

それこそが 祖神 への 感謝の祈りでも あるからです



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山保呂志 の 花



庭園で 淡紫色の 清楚 な花を見つけました


 『 山保呂志(やまほろし)』の 花


別名がありました


 『 蔓花茄子(つるはななす)』



花との出逢い

生きていることへの 感謝の一日でした
 



今回 多くの方から

激励のメッセージを頂きました

この場をお借りして 感謝申し上げます

ありがとうございました








by nonkei7332 | 2016-09-16 11:30 | 日記 | Comments(2)



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若宮神社 正面鳥居



福岡市の中央には

東西に走る 三本の大きな通りがあります

北から 〈昭和通り〉〈明治通り〉〈国体通り〉と通称で 呼ばれています

最も新しいのが 国体通り です

昭和23年 福岡市で国体が開催された折に整備された道路なので

その名が今も残っています


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若宮神社 境内




先日 紹介した 警固神社 も この通り沿いにあって

そこから 西に向かって 3分も歩けば

通り沿い左に 鳥居が立っています

この神社が 『 若 宮 神 社 』です

ビルに囲まれた 社務所はあれど 人はおらずの 寂れた社です

ただ 往時の勢いを残すような 楠の巨木が目をみはります


古代 ここに 奴国という国がありました

奴国王 は 大幡の主として 船に帆を立てて 大海を渡っていました

奴国王子は ヤタガラスと呼ばれ 倭国皇帝 神武の 補佐をしていました

王子は 他の種族を取り込むために 婚姻をしました

そして 生まれた 一人の 奴国王女がいました


その王女を祀った神社が 若宮神社 です

祭神は 《 豊 玉 姫 》です



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青木 繁 「わだつみのいろこの宮』 (一部)
桂の木に乗っているのが 山幸彦
赤い衣を着た 女が 豊玉姫




私が 豊玉姫 を知ったのは この絵でした

いつ頃だったのかはよく覚えていません

ただ 場所は 久留米の石橋美術館だったことは覚えています

この絵が 神話を題材にしたものだということも知りませんでした

海幸 山幸の話は知っていたものの 『豊玉姫 って 誰 ?』

そんな私でしたから それ以上の事は知ろうともしなかったようです

ただ 海神のいた 〈いろこの宮〉が

志賀島 だということだけは 誰かに 教えられたのを 憶えています


奴国の王子 豊玉彦(ヤタガラス) の娘

《豊玉姫》と《鴨玉依姫》

母は違う 異母姉妹になるのですが この二人の女神 と

豊玉彦の姉の アカルヒメと スサノオの間に生まれた

《市杵島姫》この三人の女神が 宗像三女神 と呼ばれている 女神です


豊玉姫 は 山幸彦 の 子を宿すのですが 見てはいけない

お産の姿を 見られたとして 山幸彦を捨てます

豊玉姫が 次に選んだのが 伽耶国 出雲族の 王子 大国主命 でした

山幸彦との子供 鵜葺草葺不合(ウガヤフキアエズ) は

神話では 妹の玉依姫が育てたという美談に なっていますが

本当は 玉依姫 は ウガヤ を 夫としています そして

生まれてきた子が 海神 安曇磯良 です


古代社会は 母系社会です 女が男を選びます

婚姻の基本は 女の家族が男を迎え入れるといった

女を中心として婚姻が成立していたようです

三人の女神達の 周りには 多くの男達がうごめいていました

女神達 は それぞれ 違う出自をもって この島に渡ってきた

渡来人達の 心を掴みました

そして 男達は 女神の夢見る 龍宮を 拠り所としながら

倭国という 九州統一王朝を

創りあげていったのかもしれません








by nonkei7332 | 2016-09-02 22:30 | 古代史 | Comments(0)

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警固神社 ( 天神2丁目 )




福岡市の中心街といえば

《天神》と呼ばれる 地域です

最近は 博多駅界隈も 駅の再開発にともなって

賑やかになりましたが

それでも 天神地区は 多くの商業施設や地下街 市庁舎などがあり

多くの市民が集まる 場所です

天神の明治通り沿いにある 〈水鏡天満宮〉が

天神という名前の出処だと言われています

さて 西鉄福岡駅に隣接する 三越 や ソラリアホテル に囲まれるように

警固公園があり その南に接するのが

『 警 固 神 社 』です

今日は この神社の謎を解いてみます


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祭神は 警固三神と書かれていました


神直昆神 (かんなおびのかみ)

大直昆神 (おおなおびのかみ)

八十渦津日神 (やそまがつひのかみ)


聞いたこともない神様だと思いますが

神直昆神 とは 下鴨神社の祭神 〈鴨玉依姫〉 の事です

大直昆神 とは 日吉神社や松尾神社の神様の 〈大山咋神〉のことです

京都下鴨神社の 〈丹塗り矢神話〉に出てくる お二人ですね ご夫婦です

お二人の子供が 上賀茂神社の祭神の 賀茂別雷神 なのです

さてさて 三番目の 八十渦津日神 とは誰なのか

実は 後世 歴史の闇に 消された 祓いの女神

あの 〈 瀬織津姫(せおりつひめ)〉のことです





警固神社は昔からここ(天神)にあったのではありません

由緒によりますと この神社の元宮は 南区警弥郷三丁目にある

警固神社(上警固神社)だといわれています

扁額には 〈 警固宮 〉と書かれていました。


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上警固神社 (警弥郷)


上警固神社の 由緒 にはこう書かれていました


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赤 (警固神社)
緑 (背振神社)







「筑前国続風土記」で 貝原益軒は

天神の警固神社の事を こう書いています


『 今かんがるに、警固と名付けしは、古、此の地に 警固所ありし故、

其の所にまします神なれば、名付け侍りしにや、

神功皇后の新羅を討ちたまひし時、此の神、

軍衆を警固したまふと云うは

其の名によりて 後の人附会せるなるべし』


すごい内容ですね 上警固神社は

その後 神功皇后が 福崎(福岡城本丸あたり)に祀ったとされていますが

益軒は 警固の名を借りた 後ずけだと言っています

おそらく 真実は いにしえの地図を見れば分かりますが

南区警弥郷近くまで海岸線だったのですが

その後 現在のように陸地が広まっていったので

福崎(黒田城本丸付近) に分社したのではと私は思っています

神功皇后は 国を護った神として 後世 度々 後ずけされていますが

これもその一つだと思います



そもそも 貝原益軒は 天神警固神社の事を

「小烏警固神社」と書いています

この神社の門前辺りは 古い地名で〈小烏馬場〉

と呼ばれていたためでしょうか


『 小烏の神社は、古より 此所に鎮座し給ふ。

城州下加茂の小烏の社と同神にて 建角身命 為。』



下鴨神社と小烏神社の ご祭神は 同じで

建角身命(ヤタガラス) こと 豊玉彦 だといっています

ただ 小烏神社が この場所(天神) にあったように書いていますが

益軒 の勘違いのような気もします

古地図をみると 警固所 と 小烏神社 は ちょっと 離れています


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呉服町路上にある 博多の地図

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鎌倉時代の 博多の古地図 「博多往古図」



鎌倉時代の古地図(上図)には 北警固所の南に〈小烏大明神〉とあります

現在 薬院の近くに 古小烏(ふるこがらす)という 地名があります

おそらく そこに 古い小烏神社 はあったのでこの地名が残ったのでしょう

じつは 現在は 警固三丁目の丘の上に 〈 小烏神社 〉があります

というより 丘の上に移されたようです


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小烏神社 (警固3丁目)



赤 (小烏神社)
緑 (警固神社)
黒 (古小烏町)



いったい いつ 誰が 丘の上に 移したのでしょうか

もう一度 上警固神社の由緒を見てください ヒントが書かれています

つまり 福岡城主 黒田長政が 慶長6年(1601年) 黒田城を築城する時に

城の本丸近くにあった 分社された下警固神社を

今の小烏神社のある所に移し

古小烏 にあった 小烏神社も移して 合祀したのでした

小烏神社跡は 藩士の住居にしたと記録には残っています

その後 慶長13年(1608年)二代目藩主忠之が本丸で 生まれると

警固三神こそが 産神だといって 山の上の 小烏の祠だけを残して

警固所があった 今の天神に 警固三神を祀る 警固神社として

神社を造営し 黒田藩主 代々 厚く 祀ってきて 今に続いています


天神警固神社 は 黒田家によって 慶長6年(1608)に


建てられた 社殿 だったのです





さて 私は 去年の11/10 の 記事の中で

京都下鴨神社の葵祭りの起源は

背振山麓に住む 賀茂氏が背振神社で行っていた祭りを

天智天皇が 京都にもってきたものだという

真鍋大覚さんの説を引用して 紹介しました


その後 下鴨神社を訪ね 八咫烏(ヤタガラス)こと豊玉彦と

鴨玉依姫 そして 大山咋神 の三神の繋がりを知り得ました

そして その影で 瀬織津姫が この神様達を

じっと 見守っている事を感じて帰ってきました


警固神社の元宮である 上警固神社のすぐ側には 実は 〈背振神社〉が

鎮座されています。同じ賀茂氏が祀ったものだと思っています

そもそも 背振神社の祭神は 宗像三女神になっていますが

私は 豊玉彦(ヤタガラス)が 隠れておられるような気がしてなりません


天神警固神社のご祭神には 警固三神のほかに 相殿神として


建角身命

豊玉姫命

神功皇后

応神天皇


の四神が 祀られていますが ここでも 建角身命 の名こそあれ

豊玉彦(ヤタガラス)は 表に出ずに 隠されているようにも思えます

神社をよく見て回りましたが

神紋は 黒田家の紋章と同じ「下がり藤」でした

千木 は 間違いなく 男千木 で 男の神様です

拝殿の瓦の上に 烏のような 置物が乗っているではありませんか

間違いなく あれは 八咫烏 (ヤタガラス) です

社務所で確認させて頂くと「その通りです」という答えでした

何か 安心したような 複雑な心境でした

何故に 警固神社の神様が 建角身命 を含めた 四神 ではないのかという

疑問ですが これ以上 突っ込むと 神社に迷惑が かかりますので

口を閉じることにします


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百島系図


ここからは 百島神社考古学 の世界です

百島説によると 祓戸神である 〈瀬織津姫〉と

出雲神話で スサノオ が 嫁にした 〈櫛稲田姫〉そして

「山城国風土記」に出てくる 丹波の姫 〈伊賀古夜姫命〉(イカコヤヒメ)

は 同じ人物だとされています

そして この姫 と 豊玉彦(ヤタガラス)の間に生まれたのが

鴨玉依姫 であり その夫が あの 大山咋神 なのです

私が 下鴨神社でみた あの神々の系譜が

博多の 小烏神社 警固神社の神々の系譜に重なるのです


それは 取りも直さず

豊玉彦の父である 博多の主の神である 櫛田の大幡主神

そして 大国主神 と 続く 白族(主の神の系譜)の中に

出雲族と言われる 秦氏の系譜が 取り込まれていった

出雲神話(国譲り神話) の 隠された 世界なのかもしれません


次は 豊玉彦と 豊秋津姫 と間に生まれた

豊玉姫 (鴨玉依姫とは異母違いの姉妹)を訪ねて


『若宮神社』を訪ねます








by nonkei7332 | 2016-08-30 10:51 | 古代史 | Comments(0)


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八代市 鏡町にある 印鑰神社 に行ってきました

印鑰(いんにゃく) という名前は

この地に 八代郡司という役所があって

朝廷から渡された 印 と 租米が集められる倉の 鑰(かぎ) が

神社に納めてあったからだといわれています


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創建は 建久九年(1198年)

肥後の国球磨の地頭 相良三郎名頼 が 弟の八郎為頼に

八代の北三里「鏡ヶ池」の近くに神社を造営させたとされます

祭神は 蘇我石川宿禰

武内宿禰 の 第三子 です 蘇我氏の祖です

第一子の 波多八代宿禰 も 名前からして 八代の領主だったのでしょうか

仲哀天皇のころ 筑紫凶徒を鎮めるために この地に下向し

この地で 亡くなったと 神社の由緒に書かれていました

巨きなクスノキが境内にそびえ立っています

古代はこの辺りの 鎮守の杜だったのでしょう


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神社に側に 八代郡倉跡 の案内文がありました

地名に 条里制の面影が残っています

まるで ここに かつて 王朝があったのごとき内容です

驚きは 「小早川文書」に 徳渕津に 正倉院 があったとの一文です

( 現在残っているのは 東大寺の正倉院だけが 唯一だと思われがちですが

当時は各地に幾つかあったようです)

〈徳渕津〉とは 球磨川の河口支流 前川付近にある 古代から 発展し

大陸貿易の拠点となっていた 港 なのですが 中世には

〈博多津〉とともに 朝鮮遣使 や 渡明船 の 拠点港だったようです

天文14年(1545)には 勅使として 大内義隆 もこの地を訪れています


徳渕 には 有名な 『河童渡来の碑』があります



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「本朝俗諺志」という江戸時代の書物に こんなに書かれています

『 中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て

球磨川に住み着くようになった その後 一族は繁栄して

その数九千匹になったので その頭領を九千坊と呼ぶようになった

その河童どものいたずらが激しく人々をこまらせた

加藤清正はこれを怒り 九州中の猿に命令してこれを攻めさせた

これには河童も降参して 久留米の有馬公の許しを得て

筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった 』


河童 は 古代中国 魏呉蜀の三国時代に 呉から渡ってきた 渡来人

その 渡来地が八代だったようです

そもそも 八代という地名の由来は いくつかあるようですが

『 海からの 神迎えの信仰 が盛んな土地で

巫女が火を焚き常世の国から


神様を迎える儀式が真夜中に行われていた

この神々が往還するところに「社」があり

この「やしろ」から「八代」となった 』

と言われています



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鏡が池




話は戻って 印鑰神社 には 春の大祭(4月7日) に

『 鮒取り神事 』が今も行われています

神社由緒には

『 蘇我石川宿禰が 凶徒平定の為この地に来られた時

悪天候で海が荒れ魚が捕れず地元の若者が「鏡ヶ池」に飛び込み

鮒を献上し石川宿禰をもてなしたと言う故事にならい毎年4月7日

褌一つの若者が池に飛び込み手づかみに鮒を捕り御神前に供え

見物人にも投げ上げる行事は今日も賑わいを伝え継いでいる 』

と書いてありました





私の長男は この地に縁があって この神事にも 何度も参加したようです

動画をよく見ましたが 彼の姿は見つかりませんでした




〈 蘇我氏 と 熊襲 〉〈 河童伝説 と 水天宮 〉

興味は尽きない 八代 ですね

次回は いよいよ 〈 八代妙見宮 と 妙見の謎 〉です







by nonkei7332 | 2016-07-28 12:30 | 古代史 | Comments(0)

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《 鬼 灯 》 《 酸 漿 》

何と読むのかを知っている人は

かなりの 漢字通 の人ですね

答えは 前回 記事にしました 《 ほおずき 》です


語源をたどると 幾つかの説がありました

紅い実が 人の紅い頬に 似ているから 〈 頬ずき 〉

実の種を取って 口に入れて鳴らす遊びの (頬突く)から 〈 頬突き 〉

「ほう」という カメムシが よく 集まってくるから 〈 ほう着く 〉

紅い実が 火のような色だから 火火(ほほ)が着くで 〈 火火着き 〉

7月の (文月) ふづき が訛って 〈 ほほずき 〉




貝原益軒 は『筑前国続風土記』花譜の中で

酸漿(ほおずき) について こうなふうに書いています


叉 、金灯籠 という。

此草 ほう という 蟲 好んで 葉をくらう。

故に ほうづき というにや。


ほおずき の 新たな語源 『金灯籠』が出てきました

灯籠とは 提灯 のことです

金灯籠 で 思いおこすのは 『山鹿灯籠』です

今も残る 熊本県山鹿地区の 山鹿の提灯まつり は有名です


この祭りの由来は

景行天皇 が 九州を巡幸しているとき

加茂の浦の湖(現山鹿市内)で濃霧が立ちこめ

一行は進路を見失ってしまった

このとき 地元住民が 松明を灯して

一行を 大宮神社 のところまで導いた

この松明がのちに灯籠となって神社に奉納されたとあります



景行天皇の巡行と云えば 聞こえはいいですが

目的は 鬼といわれた 土蜘蛛(熊襲)征伐だったのでしょう

山鹿の里は 大きな湖だったんですね

灯籠は 大宮神社に奉納されたとされていますが

灯籠は 何を意味しているのでしょうか


祭りの中で唄われる 「よへほ節」という 俗謡があります

よへほとは 酔いましょう という意味だといいます

元歌は 男と女の 掛け合いの歌のようです

古代のまつり の起源 「歌垣」を偲ばせます



ほおずき と 金灯籠 の写真です


だぶって見えるのは 私だけでしょうか



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実は ほおずき は 別名があります

『 輝 血 』 かがち と 読みます


この別名の 出処は なんと 「古事記」でした

古事記の出雲神話に出てきます

「其の形は如何(いかに)。」と問ひたまへば、答へ白しけらく、

「彼(そ)の目は 赤加賀智(あかかがち)の如くして、

身一つに八頭八尾(やかしらやを)有り。

亦其の身に蘿(こけ)ち檜椙(ひすぎ)と生(お)ひ、

其の長(たけ)は谿八谷岐八尾(たにやたにをやを)を度(わた)りて、

其の腹を見れば、悉に常に血爛れたり。」とまをしき」


《現代語訳》

「ヤマタノオロチのその姿かたちはどんな風なのか。」と尋ねると、

「その目は赤い ほおづき のようで、身体は一つで、頭が八つ、

尻尾も八つ付いています。

また、その体にコケとヒノキと杉の木が生えて、

その長さは谷が八つ、丘が八つ分あって、その腹を見ると、

いつも血がただれています。」


スサノオ の ヤマタノオロチ退治 の場面です

《出雲神話》には いくつもの 謎があります

ここからは 妄想だといわれるかもしれませんが

「古事記」は 出雲神話で 何を 隠そうとしたのでしょうか

スサノオ 対 ヤマタノオロチ の構図なのですが

私には スサノオ=ヤマタノオロチに見えてきます

スサノオ は 熊襲国の王 です (新羅の王族でもありました)


神話では スサノオは 荒神とされています

ヤマタノオロチ は 大蛇です それは 龍 の化身です

龍 は海人族の 象徴でもあります

ヤマタノオロチの尾からは 三種の神器のひとつ

〈草薙剣〉がでてきたというのも 謎めいています

山鹿の大宮神社に祀られているのは ほんとうに 景行天皇なのか?

私には スサノオ=ヤマタノオロチ(龍神)である

熊襲の祖神こそが 本当の祭神のように思えてきます

妄想は限りなく続くのでこのくらいにしておきます



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〈ほおずき〉が 〈鬼灯〉となって

ヤマタノオロチの 紅い目となりました

ヤマタノオロチの 紅い目は 山鹿の金灯籠 でした


山鹿の里人は 灯籠を鎮守の社に奉納しました

これが 毎年8月 頭上に灯籠を載せた女性たちが

優雅に舞い踊る 「千人灯籠踊り」となりました

幻想に誘う 闇の向こうに

古代山鹿の主の神が 見え隠れしています











by nonkei7332 | 2016-07-05 15:42 | 古代史 | Comments(0)

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地震前の 鯰三神社




《 鯰三神社 》を訪ねました

阿蘇熊本に残る 《大鯰伝説》で

大鯰が流れ着いたとされるところです

今も 〈鯰〉という地名がのこり そこにある 神社です

正式には 〈 三社宮鯰三神社 〉といわれています








嘉島町史 に拠れば

鯰村には 上社 下社 西社 という 三つの 神社があって

それぞれ 違う祭神

《 上社には 四面大菩薩 ( 高木大神?) 》

《 下社には 八幡大菩薩 ( 大幡主神?) 》

《 西社には 国祖大明神 ( 国龍神(草部吉見)?) 》

が祀ってあったのを 習合したとあります

(?は私見です)

とすれば この鯰神社の祭神 はいずれも 鯰をトーテムとした

古代熊本の 祖神 なのでしょうか



菊池の乙姫神社 山鹿の二宮神社など 肥後から 筑後 肥前にかけて

多くの神社で「鯰」が祀られています

各地にある 鯰の宮 の中から 私が この宮を 訪れた目的は

この宮こそが 元宮 だと思ったからでした

そして なによりも この地を 護る 産土神 の

荒ぶる神霊を 鎮めるためです



熊本県神社庁 によれば

今回の地震で 県内の社殿 約130 社

鳥居 約230基が 全壊したといいます



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荒れ果てた 境内には 人の気配はありませんでした

無残にも壊れた 台輪鳥居 と 傾いた 神門 には 近づけません

拝殿に貼られた 危険の赤紙 が 復旧の厳しさを物語っていました

そんな中でも 神木の楠は 青々と繁っていました





40年前 この地を初めて訪れた私でした

思い出と懐かしさの詰まった ふる里です

今でも お世話になった 方々が住んでおられます

傾いた 赤紙の貼られた 母屋のそばで

こんな 私の訪問を 喜んで 頂きました


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2015/10/26 拙ブログ 《 もうひとつのルーツ 》参照
http://hisamitsu.exblog.jp/25029702/




 

by nonkei7332 | 2016-06-23 12:40 | 古代史 | Comments(0)