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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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養老改元1300年祭 公式ホームページ より
《 元正天皇 》





日本には 女帝は 8人おられます

皇后や皇太子妃 だった 女人が 天皇になっておられるのですが

歴史上 稀に見る 独身(未婚)の女帝が ひとりだけおられます

44代 天皇 元正天皇 (680~748) がその人です

在位は 715年から 724年 までの 9年でした


今 とっても気になる 女帝 (女神) です

元正天皇の目から 歴史を追ってみます


母は 43代 〈元明天皇〉この方も女帝です

女帝から 女帝への 母から 娘への 譲位だったのですね

このお母さん 天智天皇の娘です

父は 〈草壁皇子〉天武天皇 と 持統天皇 に 生まれた

血統強き 皇太子 だったのですが 皇位を継ぐこともなく

28歳という歳で 夭折します


父と母には 三人の 子供がいました


弟 ・軽皇子(かるのみこ)(のちの文武天皇)

私 ・氷高皇女(ひたかのひめみこ)(のちの元正天皇)

妹 ・吉備内親王(きびのないしんのう)(のちの長屋王の妃)


祖母 持統 は 祖父天武亡き後 父 草壁皇子 を 皇位につけるために

ライバルであった 大津皇子 を 亡き者にします

ところが 皮肉にも 草壁皇子 の 突然の死です

持統は 孫の 軽皇子(文武天皇) をと画策しますが 弟はまだ7歳です

持統は 自ら 41代を即位し 夫 天武天皇の治世の後を継ぎます

弟 軽皇子が15歳になると 42代文武天皇として 即位しますが

持統は上皇として 文武を補佐したのでした

5年後 (703年) 祖母持統上皇は 波乱の人生を閉じます 58歳でした

弟 文武天皇は 藤原不比等の娘 宮子を妃とします

首皇子(おびとのおおじ) が 生まれていましたが

弟文武 も 父(草壁皇子)のDNA を引き継いだのか 25歳で崩御

首皇子 またしても 7歳でした 宮子が心的障害を持っていたため

母 元明天皇 が 弟文武の後を継ぎ 43代天皇に即位します 47歳でした

皇后でない女帝の誕生でした

首皇子(のちの聖武天皇) が14歳になりました

譲位をして 年少天皇という選択もあったのですが

皇太子としての基盤作りを 最優先とした 藤原不比等 と 母元明天皇の

強い要望もあって 私に白羽の矢が立ち

聖武天皇 即位までの 中継として 44代 女帝として 即位したのでした

続日本紀の中には もっとも美しい 未婚の女帝 だと書かれています

氷高皇女(ひたかのひめみこ) 35歳の時でした


なぜ 未婚だったのかって ?


それは 謎ということにしておきましょう






by nonkei7332 | 2017-02-26 11:00 | 古代史 | Comments(2)


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霊峰白山





白山には 女神がすんでいます

なまえを 菊理姫 (くくりひめ)といいます 白山比咩ともいいます


古事記の神話には 《造化の三神》(ぞうかのさんじん) といって

天と地が出来たとき 高天原に成られた三柱の神様がおられました


〈天之御中主神〉(あめのみなかぬしのかみ)

〈高御産巣日神〉(たかみむすひのかみ)

〈神産巣日神〉(かみむすひのかみ)


一番初めに出てくる 最高神だといわれるのが

《 天之御中主神 》

この神様 アマテラス みたいに 有名な神様ではないのですが

みなかのぬし (真ん中におられる 中心におられる 主の神) なのです

主の神 といえば

大幡主命(オクシダサン)・豊国主命(ヤタガラス)

大国主命(ダイコクサマ)・事代主命(エビスサマ) などがおられます

博多から 出雲 越前に至る 領域を治めておたれました

〈主(ぬし)のつく神様 の頂上におられる神様です〉



それから 天(あま)の神様 といえば

天照大神(アマテラス)・天日槍(スサノオ)・天忍穂耳(ウミサチ)

天穂日(トヨタマヒコ)・天鈿女(アメノウズメ・オイナリサン)

などの神様がおられますが

いずれも 海を渡ってきた 神 なんですが

〈天(あま)のつく神様の頂上におられる神様でもあるのです〉



白山の女神 の 正体こそが 実は

《 天之御中主神 》だったのです



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白山平泉寺





今年になって

白山平泉寺 に住む 方と 不思議な縁で知り合えました

昨日 その方から 写真が届きました

2月10日 朝起きて 外を見た時の 雪景色だそうです

雪に埋もれた 霊峰白山

遠い 久遠の記憶を辿る 魂の旅 が

私の中で 始まったようです


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by nonkei7332 | 2017-02-15 13:19 | 古代史 | Comments(0)


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九州国立博物館に行きました

特別展という ふれこみにしては 来館者はまばらでした

宗像と沖ノ島 その祭祀と大和朝廷 のかかわり を主張した展示ですが

今ひとつ 焦点のぼけた 展示構成でした

沖ノ島の祭祀 については

4世紀後半から 9世紀末まで 出土した奉献品の数は

約8万点にも及び ほとんどが 国宝になっていて

「海の正倉院」とよばれていますが

大陸や半島との 対外交流によって もたらされた 多くの奉献品は

国家祭祀だったといわれています

そして その 国家というのが 大和朝廷(畿内王朝)だという

前提での 展示には 多くの疑問が残りました

そもそも「謎の4世紀」といわれるくらいです

沖ノ島の祭祀の主体が 最初から 宗像氏だったという事自体も 謎なのです

500年の間には 祭祀の形態も何度も変わっているわけで

宗像氏と大和朝廷が ずっと関わっていた祭祀だと言い切る理由は

どこにも見当たりませんでした

2017年の 世界遺産登録 のための

デモンストレーションなんでしょうか

世界遺産ってなんなのでしょうね

九州唯一の 国立博物館 こんなんでいいんでしょうか




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沖ノ島





出雲の沖にも 隠岐の島があります

宗像の沖にも 沖ノ島があります

字は違っても 同じ〈おきのしま〉です

列島と半島を繋ぐ 中継島 です 海人たちの 辿ったルートです

もうひとつ 中継島が あります 名前はよく似ています

おそらく 最も多くの 海人たちが 通ったであろう 中継島です

その島とは 壱岐の島 です

魏志倭人伝 に出てくる 一大国(壱岐) と 末盧国(唐津)へのルートです



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上の陸地が 九州 です



〈半島〉〜〈おきのしま・いきのしま〉〜〈出雲・宗像・唐津〉



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呼子町 加部島 の 田島神社



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先日 唐津 に 行きました

宗像と出雲の 原風景は 唐津に有りという

大それた真説を求めての 神社巡りです

唐津市湊町の 湊疫神社 と 呼子町加部島の 田島神社 を訪ねました

肥前の古書には 宗像大社の元宮は 田島神社 であると書かれています

宗像大社も田島神社も祭神は 三女神 なのですが

二つの神社の 千木は 男神です

大国主命(おおくにぬしのみこと) が隠れておられます



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風の見える丘公園 からの 展望




加部島 には〈風の見える丘公園〉があります

展望台にあがって 風を見ると

遠く 海の向こうから オモニ の歌が聞こえてきます






by nonkei7332 | 2017-02-12 23:55 | 古代史 | Comments(0)

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唐津の 『久里双水古墳』に行きました

全長 108.5メートル 後円部径 62.2メートル 前方部幅 42.8メートル


の 前方後円墳 です

私が去年見てきた 百舌古墳群などは 5世紀から7世紀のものですが

この古墳は 3世紀に造られたもので

国内でも 最も古い古墳のひとつです



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副葬品 は 後漢時代の「盤龍鏡(ばんりゅうきょう)」

「管玉(くがたま)」「刀子(とうす)」

被葬者は 末盧国 の王族 でしょうか



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墳丘に登りました

鏡山 の向こうに 浮嶽 が見えました

西には 松浦川が流れています 川が二つに別れている地点なので

双水 という地名みたいです

ズカズカと 登っていったので 墓に眠る王様が怒ったみたいです

突然の 驟雨

ビッショリ 濡れてしまいました



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《 おまえが墳丘にのぼれば 》

吉本 隆明




おまえが墳丘にのぼれば

そこは誄(るい)をひく長びいた音吐と幡旗(はた)の

しめやかな殯(あらき)の場にかわる

時間のないものが夢をみている

この首長の葬礼が長びくとして

たった三年くらいのあいだに

葬られた死者は 白鳥に

尾長は ふくろうに

風景は 廃市に

語り部は 乞食に

幡旗(はた)は 雲に

かたつむりは 死魚に

かわるといえる



  
それから疾風のように 夢は

とおい海を襲う

おまえが一瞬眠っているうち

この世界が革まるとしても

死にきれなかった下丁が

高句麗の軍歌などうたって

喜捨を乞う

その道に

千年も前のあせびの白い花が垂れている




けっきょくこれは風景

ほんの小さな安息日

無際限にふりそそぐ夏の炎から

おまえの渇きに送られた訴状だ

それから挨拶だ

かすれた咽喉がありったけ時間を呑みこむとしてわ

とうていおまえに耐えられない この

時間を失った夢を

殺りくの山陽(やまなみひなた)の道の岸べから

まっさおな空と

ひきつった雲に投げかけることは

愛の死を意味している


 

丹(に)の土の層 それらしい土器のかけら

あけび色の蔓から第五号墳丘の土面に昇ってくる

さらば 夏の日の

迅速な憩い  








by nonkei7332 | 2017-02-04 11:07 | 古代史 | Comments(0)


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西鉄電車 《旅人》




大伴旅人(たびと)は

天平二年(730)正月

大宰府の帥邸において梅花宴を催しました



梅雪(ばいせつ)残岸(ざんがん)に乱れ

煙霞(えんか)早春(さうしゆん)に接す



《雪のように白い梅の花びらが切り立った岸壁に乱れ散り》

《霞が早春の空にたなびいている》


「初春侍宴」

大伴旅人

『懐風藻』より



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早咲き の 白梅



今年 始めて の 太宰府です

去年の最後が 太宰府の 〈入穴神社〉 でした

今年の最初は 観世音寺 の鎮守 〈日吉神社〉(ひえじんじゃ) です



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日吉神社 扁額




日吉神社 は 観世音寺の鎮守であり

地元では ひよし神社と呼ばれています

鳥居の扁額は 〈山王宮〉になっています

六十六段の急な階段を登ると 本殿

神社誌によれば 創建は 朱鳥大宝年間(686〜703年) とされ

平安時代に 比叡山の日吉大社を分霊したと言われています

とすると 旅人 は ここに 登った事があるのでしょうか



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日吉神社




江戸時代の地誌によると〈豊臣秀吉〉が九州下向の折

この神社に陣を張ったが 時の観世音寺の別当は世情に疎く

秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て

秀吉の怒りをかい 寺領を没収されたと伝えられています

承応元年(1652年) 領主が再興しました

祭神 は 大山咋神 と 大己貴命(大国主命)

日吉神社は山王社とも呼ばれ 観世音寺の守護神とされています



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旭地蔵尊






日吉神社 から 天満宮方面へと 小径を歩いていくと

坂の途中に 旭地蔵尊 があります

この堂 は 〈横岳山崇福寺〉を創建した

湛慧(たんね)禅師の墓と伝えられています

『筑前国続風土記』によれば


「 この地谷間にありて いと 閑寂なる境区なり。

湛慧の墓は 横岳 に行く道の傍にあり、此所入定の地なる故に

石塔を立てそのしるしとする。」とあります


伝承では禅師が正月に観世音寺の前を通りかかった時、

正月最初に門前を通った者を鬼とする 追儺(ついな)があった為

追儺 : (後世 節分となった神事)

捕えられて追儺の鬼にされたそうです

禅師は これを恥じて 後年この地に穴を掘って籠もり

入定したと言われています

土地の人々は手厚くここに葬り石塔を建てて供養し

後に地蔵を祀り 山の名前 朝日山にちなみ朝日 又は日の出の旭をとり

〈旭地蔵〉として、信仰厚く現在に至っています




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崇福寺別院






仁治元年(1240)に

湛慧禅師によって.ここに 創建された 横岳山崇福寺 は

文永9年(1272) 大応国師によって 崇福寺別院として 開山されてから

中世 影響力のある 寺院として 往時には 隆盛を極めましたが

天正14年(1586)の島津氏と大友氏との 岩屋城の合戦によって焼失し

その後・慶長5年(1600)に 福岡藩初代藩主黒田長政 によって

福岡市博多区千代 に移設 再建がなされ 黒田家の菩提寺となって

大きく発展し 今日に 至っています




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崇福寺 朝日地蔵堂





千代の崇福寺 山門横にある 〈朝日地蔵〉何度も見たことがあるのに

太宰府 白川の〈旭地蔵〉が 本家本元 だなんて


知る由もなかった



今年も 知る由もなかった事を


たくさん 探しに行くんでしょうね


旅人の 夢 は 果てしのない 旅です






黄 : 日吉神社
緑 : 旭地蔵尊
赤 : 崇福寺別院



by nonkei7332 | 2017-01-10 21:40 | 菅公・太宰府 | Comments(2)


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七草粥




年末年始 には 多くの しきたり と言われる

日本古来の 風習が 残っています

注連縄・門松 ・おせち・屠蘇・鏡餅・七草 などなど

しかし 悲しいかな 人々の 生活様式の変化によって

そんな しきたり が ひとつずつ なくなって来ているのも事実なのです

お節料理 や 雑煮が終わると 七草粥を食べたものでしたが

「おせちもいいけどカレーもね」という たった一つのTVCM で

七草のしきたりは 消え去りつつあります



七草の起源を たどると

日本では 古来から年の初めに


野に出て芽を出し始めた草を摘み取る「若菜摘み」が行われていました


この風習に 中国から伝わった「七種菜羹」(ななしゅのさいかん)

旧暦1月7日の日に七種類の野菜を入れた


羹(あつもの)(熱く煮た吸い物)を食べて

無病を祈る習慣が結び付き


「七草粥」を食べて邪気を祓い

一年の無病息災と五穀豊穣を祈るとされる

「七草」の風習ができたと言われています



春の七草 は

芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)

仏の座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)ですが



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芹の花




今日は 芹(せり) の話をしましょう


《 なにとなく 芹ときくこそ あわれなれ 摘みけん人の心知られて 》

《 西 行 》の 「山家集」にある 歌です



芹を摘んだ人の気持ちがわかるから 芹と聞いただけで 哀しくなる

という 歌なんですが 現代人には 何のことかよくわかりません

この歌を理解するには ひとつの 物語の存在を知らなければなりません


平安時代後期の 官人であり 歌人でもあった

「 源 俊 頼 」の歌論集 『俊頼髄脳』に書かれている故事です


昔。宮廷に庭の清掃を役目とする身分の低い男がいました。

ある日、宮廷の奥御殿の庭で仕事をしていたら 突然つむじ風が吹いて

御殿に掛けられていた御簾(みす)を吹き上げました。

御殿の中では皇后様がお食事をなさっていて

芹などの野菜を食べておられるところでした。

御簾の吹き上げられていた時間はほんのわずかでしたが

男は皇后様のお顔お姿をはじめて見て その輝くばかりの美しさ

神々しさに魅了されてしまいました。

その後 男はなんとかもう一度皇后様のお顔を見たいと思いましたが

御簾が吹き上げられることもなく お顔は見られませんでした。

それで 皇后様がセリを食べておられたことを思い出して

毎日セリを摘んできて御殿の御簾の近くに置きました。

しかし何年たっても望みの叶う日は来ませんでした。

皇后様への思慕の情が募って男はとうとう病気になりました。

男は 苦しい息の下から 娘を呼んでいうには

『私の病は 皇后様への思いが募り 物思いが高じて死ぬのだ

不憫に思うのであれば 功徳のために 芹を摘んで 欲しい』

と言い残して亡くなりました。

娘は芹を摘んでは仏前に供え 僧たちにも食べさせていました。

その後 この男の娘は身分の低い女官として宮仕えをしました。

この話を同僚たちにしたのが皇后様のお耳に入り

皇后様は哀れに思われてこの女官を召し出し

『私も 芹を食べている時 御簾が舞い上がって 庭の者に見られた事を

覚えていますよ』と話され

その後も娘を常に側に召されて目をかけられるようになりました。


《芹を摘む》の話は

後世「枕草子」や 世阿弥の「綾太鼓」にも書かれ

いつの間にか 物事が叶わぬ 悲恋の話になっていったようです




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待賢門院璋子
(たいけんもんいんたまこ)






さて 話を戻しますと

西行 が どんな想いでこの歌を歌ったのか なのですが

この庭掃きが 恋した相手は 皇后という 好きになってはいけない

やんごとなき相手だったということ です そして

西行 が 生涯想いを寄せた相手も 17歳も年上の 白河法皇の寵妃であり

鳥羽天皇の中宮 で 崇徳・後白河両天皇の母であった

藤原璋子 こと 《待賢門院璋子》という

やんごとなき 相手だったからです

西行 が 出家した理由が 璋子との 一夜の契りを

『あこぎの浦ぞ』と戒められた 失恋であったとの説があります

芹を摘む人の心を 自分の心象として 告白した歌だったのでしょうか



暖かな 穏やかな 正月三が日も過ぎ

七日は 七草 太宰府では 鬼すべの神事 です

この暖かさに 飛梅が 大晦日に20年ぶりに 開花したといいます

今年の春は 早いのでしょうか


《 春ごとの 花に心をなぐさめて 六十路 あまりの年を経にける 》

西行








by nonkei7332 | 2017-01-04 13:57 | 日記 | Comments(2)


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白山連峰




NHKBSプレミアム

『 八百万の神がすむ山河~村治佳織・白洲正子祈りの道を往く』

(初回放送:2011年)の再放送を見ました


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白洲正子



白洲正子 (しらすまさこ)

1910-1998 昭和・平成時代の随筆家

明治43年1月7日生まれ。伯爵樺山愛輔の次女。

夫は 吉田茂の側近で活躍した 白洲次郎。

女人禁制の能舞台に演者としてはじめてたつ。

昭和18年「お能」を刊行し

「能面」「かくれ里」で 読売文学賞を二度受賞

古美術 古典文学 紀行 など 幅広い分野で活躍。

平成10年12月26日死去。88歳。東京出身。



この一年 多くの書籍を読みましたが

誰の本が一番多かったかといえば

〈白洲正子〉の本 だったかもしれません

絞って選んだというより いく先々で 白洲正子に 出くわした

というのが 正しい答えなんです

テーマでいえば 最初は〈能・謡曲〉で出逢いました

それから〈西行〉〈明恵上人〉〈河合隼雄〉〈神仏習合〉

と 続きました


肌触りがいい文章を書かれる方です




この番組は 白洲さんが 歩いた

神の宿る日本の山河 〈美濃〉・〈越前〉・〈吉野〉・〈河内〉を

ギターリスト《村治佳織》さんが 辿る旅でした


白山とは 一つの山の名前ではないのです

加賀・越前・美濃 にまたがる

最高峰の 御前峰(2,702m)・剣ヶ峰(2,677m) ・大汝峰 (2,684m) の

「白山三峰」を中心とした 連峰を 白山と呼びます

白洲さんは 『かくれ里』『十一面観音巡礼』で

白山信仰を開いた 泰澄上人 の跡をたどりました


『 泰澄大師 は 山岳信仰の創始者で

神仏習合の元祖であるといっていい

私は この思想が 日本のすべての文化にわたる 母体だと思っている

明日には 白山の日の出を拝み

夕べには 落日に染まる日本海を眺めたに違いない

十一面観音が現れたのは そういった 瞬間ではなかったか 』




緑 : 越知山
赤 : 平泉白山神社
黒 : 白山




泰澄 は 越智山で 修行を積み ここで 十一面観音を夢見

早く来るべしと お告げを受けたといいます

途中 〈平泉寺白山神社〉により 真東に鎮座する

白山山頂をめざしたのが 泰澄36歳の春でした

御前峰の池のほとりで

十一面観音に化身した 白山の神に出会うのでした


白洲さんは 本の中で こう書かれています


『 周知のとおり 〈本地垂迹〉とは

仏が 仮に神の姿に現じて 衆生を済度するという考え方だが

それは仏教の方からいうことで、日本人の本来の心情からいえば、

逆に神が仏にのりうつって影向したと解すべきであろう。

その方が自然であるし、実際にもそういう過程を経て発達した。

泰澄の場合でいえば、

白山信仰の長い伝統があったから、仏教が無理なく吸収され、

神仏は極めて自然に合体することを得たのである 』


そして


『 神仏混淆の思想では、天竺の仏が衆生を済度するために、

かりに神の形に現じて、垂迹したことになっているが、

事実はそれと反対で、仏教を広めるには、

神の助けを必要としたのではないだろうか。

その差は紙一重でも、意味は大いに違う。

言葉をかえていうなら、

日本の神を経糸に、仏教を横糸にして織りあげたのが、

いわゆる本地垂迹説であった。

ただ相手が黙して語らぬ木や石であったため、


証明することは不可能だが、

日本の自然が私に、そういうことを物語る 』



神仏習合について 私自身 今ひとつ解りにくかったことを

すっきりと 解決してくれたのでした




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百嶋神社系図 一部



白山神社は 日本各地に 2,700社余り鎮座しています

ほとんどの祭神は 菊理媛神(白山比咩大神)・

伊邪那美尊(イザナギ)・伊邪那美尊(イザナミ) の三柱です


主祭神の 菊理媛(白山姫) は くぐり姫 ともいわれます

《百嶋神社考古学》では この白山姫 は

造化三神のひとり 天御中主(アメノナカヌシ)とします

水天宮の神 でもあります

主(ぬし)の神の母であり 大幡主・豊玉彦(ヤタガラス)・大国主・事代主

と続く 白族の祖でもあります

そして 白山姫の 婿は 金海伽耶の 〈金越智〉です

記紀では 〈ウマシアシカビヒコチ〉と呼ばれている神で

越智族の頭領です

越智族の男と 白族の姫の 恋物語が ここにはあります

越智山 と 白山神社 そして 白山頂上を 地図で結ぶと

東西一直線に 繋がっているといいます




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村治佳織さん




村治佳織 (むらじかおり)

1978年4月14日日本のギターリスト 東京都出身

3歳から ギターを習い


1994年に 日本フィルハーモニー交響楽団と共演し


1995年イタリア国立放送交響楽団の日本ツアーにソリストとして同行

翌年には村松賞を受賞

第19回日本ゴールドディスク大賞

クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー(洋楽)を受賞

女性ギタリスト 日本ギタリストとして

世界で活躍する一流ギタープレイヤーと名高い





番組の中で 白山の麓での
ギター演奏 です










by nonkei7332 | 2016-12-20 14:49 | 古代史 | Comments(0)


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古墳時代の高低差地図に現在地図を重ねたものです
赤色 : 住吉大社
青色 : 高津宮




「 大坂 は 凡そ 日本一の境地なり 」

織田信長 は そう いったそうです

境地とは 何処だといえば それは 上山台地 だと言われています

その言葉を 引き継いだ 秀吉が


その 北端に 大阪城を 築城しました


それ以降の商都としての 大阪の繁栄は 歴史の示すとうり


難波宮(なにわのみや) が台地の北部に造られたのが

652年 孝徳天皇 の頃 その後 天皇一人残されて

飛鳥に遷都されるなど 出たり入ったりの 存在感のうすい都です

発掘されたのも 戦後になってからです

最近はおもむろに 公園などを整備しているようです


《 難波津に 咲くやこの花冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花 》


百人一首の序歌とされるこの歌

仁徳天皇の即位を祝った 王仁の作だといわれています

出典は 万葉集ではなく 古今和歌集の仮名序です

謎が多いこの歌

最大の謎は 難波津 は はたして 何処だったのかです


その謎を求めて この台地の 南端に 鎮座する


『住吉大社』

そして 仁徳天皇ゆかりの宮と言われる


『高津宮』を訪ねました



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住吉大社 正面 鳥居




博多に住む者にとって 住吉は馴染みの深い宮です

全国に 2129社 ある 住吉神社の中で

大阪の住吉大社 下関にある 住吉神社 そして 博多にある 住吉神社が

三大住吉といわれています



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住吉大社 は 摂津国一の宮 です

創建は 神功皇后に絡めた話になっていますが

何故か 説得力に欠ける話になっています

(神功皇后に絡む話に 違和感を持つようになったのは何故でしょうか)

文献として残るものからして 8世紀になってからの創建でしょう

綺麗な神社ですが なぜか 魂を揺さぶるような 霊験を感じませんでした



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第一本宮






路面電車に乗って 北へ


途中 谷町線に乗り換え 9丁目で降りて 坂を下ると


『高津宮』の 一の鳥居です


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北に向かって参道を下ると 注連柱(しめばしら)が建っています


文字が刻まれていました


「仁風敷宇宙」「徳化洽乾坤」


仁徳天皇の 治世を表しているのでしょうか



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階段を登ると 本殿に出ます 思ってたよりも小さく


こじんまりとした お宮さんです



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お目当の一つ 狛犬 です


尻尾の数に 意味があるそうですが

どんな意味があるのかは 聞きそびれました



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創建は 866年 です 勅命だそうです


直感で 前が あるなと思いました

摂社 の前で 足が止まります 「これか」思わず声をあげました

比売古曽神社(ひめこそじんじゃ)


〈比売古曽神〉別名 〈阿加流比売神〉(あかるひめ)といいます



〈アカルヒメ〉と 〈スサノオ〉の話は こんな 話です

倭国の主の王 《大幡主》は 新羅の王子でもある

天日穂(アメノヒボコ)こと スサノオ に手を焼いていました

そこで 自分の娘 阿加流比売神(アカルヒメ)を 新羅に嫁がせたのですが

スサノオのヤンチャは収まりません アカル姫 も とうとう

「私はあなたの妻となるべき女ではない 祖国へ帰ります」と言って

小舟を操り 倭国に戻ってきました

大幡主は アカル姫を 豊後の姫島に隠し アカル姫 はそこで

スサノオとの間の娘 市杵島姫を産みます

スサノオは 形相を変え アカル姫を追って 大幡主のもとにやってきました

大幡主は 妹の 埴安姫と 金山彦との娘 櫛稲田姫(クシイナダヒメ)に

スサノオ の 悪行を 治めるようにと 一緒にさせます(出雲神話)

悪行の DNAは 間に生まれた 長髄彦(ナガスネヒコ)が 引き継ぎ

大きな 問題を起こすのでした (神武への謀叛)


大幡主 は 妹の埴安姫の 二番めの旦那 伽倻国大山祇(月読尊)

との間の長女の 神大市姫(かみおちひめ) に スサノオ を託します

神大市姫こと ミズハノメ の霊力により とうとう スサノオ の悪霊は

静めることができたのでした。


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高津宮 灯篭





河内 大阪 を回って 見たいものを 見てきましたが

感じたものは ここは 〈商都〉だということでした

少なくとも 歴史の都 では ないようです

私には アカルヒメ も 仁徳天皇 も 難波津 も 九州筑前倭国の話が

後世 畿内に飛び火しているように思えます

まるで 後出しじゃんけんに 勝った 場所のようだといえば

怒られますでしょうね

古代史の真実は 未だに ふたをされたままのようです




by nonkei7332 | 2016-12-12 12:16 | 古代史 | Comments(0)


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信貴山から 大和盆地




信 貴 山 (しぎさん)


奈良県生駒郡平群町にある 山です

紅葉が 美しい境内を 多くの参拝者が訪れていました


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神仏習合 の 霊場です

去年訪ねた 比叡山 と 同じなのでしょうが

なぜか 空気の重さが違います

信貴山は 古くは 神の山 だったのでしょうか



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ここの地名は 平群(へぐり) です

平安時代の辞書 『和名類聚抄』によると

《大和国平群郡》には 六ヶ所の 郷名 が 記されています

那珂 ・飽波(あくなみ)・平群(へくり)・夜麻・坂門・額田(ぬかた)

福岡に住んでいる者は 『あれれ これ 福岡だ』 と思っちゃいますね

ちなみに 《筑前国早良郡》の 郷名 には

毘伊(ひい)・能解(のけ)・額田(ぬかだ)・早良(さわら)・

平群(へぐり)・田部(たべ)・曽我(蘇我)

七郷があったと記されています。

新撰姓氏録 (平安初期に書かれた 氏族の出自録) によると

平群氏とは

「河内国 皇別 早良臣 平群朝臣同祖 武内宿禰男平群都久宿禰之後也」

と 記されています

早良 と 平群 は 同祖 みたいですね

早良(福岡)から 平群 (奈良) へ 移動してきたと考えるのが 自然ですよね

そういえば 筑紫の賢人 真鍋大覚 は

『 背振(せふり)の語源は 平群(へぐり)にあった』とも 言っていました



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古事記には

武内宿禰の第四子「平群都久宿禰」(へぐりのつくのすくね)


についての 面白い 話があります

仁徳天皇が生まれた時 仁徳天皇の産屋には

「木菟(ヅク=ミミヅク)」が飛び込んできました

同じ日に生まれた ヅクノスクネの産屋には

「鷦鷯(サザキ=ミソサザイ)」が飛び込んできました

それで飛び込んだ鳥の名を交換して お互いの 本名としたという話です


仁徳天皇=大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)

平群都久宿禰=木菟宿禰(つくのすくね)


謎が多いこの 鳥達の話 何が隠されているんでしょうね



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もう一つ 地名でいえば


前回 大阪古代地図に 「河内湖」がありました

この 河内湖 4世紀から 5世紀頃には「草香江」と呼ばれていたのです

「草香江」といえば 博多古図 には 同じ名前の入り海があります


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博多古図



この入り海に注ぎ込む 川を 樋井川 (ひいがわ)といいます

早良郡の郷に 毘伊(ひい) とあったのがこれでしょう

この川の上流に 柏原 という 地区が今も残っています

《 草香江 に 注ぎ込む川 の 上流に 柏原という里がある 》

これは 河内国 の話ではありません 筑前博多 の話なのです。


百舌鳥から 始まった


《 鳥 づくし の 旅 》は まだ 続きます




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信貴山 から 大和を望む









by nonkei7332 | 2016-12-06 15:45 | 古代史 | Comments(0)


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古代の 大阪平野 河内平野の地形はこうなっていました


二つの川のデルタ地帯からできた 湿地帯でした 二つの川とは


琵琶湖を水源とする 〈淀川水系〉


奈良盆地の全域から幾つかの支流が集まり 香芝辺りで本流となり


生駒山地と金剛山脈の間を 潜り抜け


河内平野から河内湖へと注いでいた 〈大和川水系〉です


青いラインは現在の大和川 です 西に流れ 大阪湾に注いでいますが


古代は 北へ流れ 河内湖へと注いでいました



百舌鳥古墳群 と 古市古墳群 は 現在の大和川の南


河内台地と海沿いの台地付近に 造られているわけですが


築造に従事した 人々は 北へ流れる 大和川の川筋や


生駒山西麓 に集落をつくって いたと思われます




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手前 大和川 と 生駒山系南麓



八尾市に住む 次男が 柏原に用事があるというので


私も 連れていってもらいました


生駒の山麓を 左に見ながら 南に走ります


大和川が 山の間をぬって 河内に出たところが 柏原市です


奈良の 橿原市とよく間違えられるといいますが


私の関心は 柏原 の 地名の起源です


福岡背振山系の油山の山麓にある 柏原という地名がありますが


この二つの地名の共通性についてですが この件は次回にします





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さて 最初に行ったのが 「史跡高井田横穴公園」でした


公園内には 柏原市歴史資料館があります


山の斜面には 国内でも最大規模の 162基の横穴墓が点在します


6世紀中頃から 7世紀前半にかけて造られたものです


興味深いのが そのうちの 27基の横穴には


「人物」「鳥」「船」などの 「線刻壁画」が描かれています




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船 には二人の小さな人物が描かれていて


右側の人物は碇(いかり)を引き上げ


左側の人物はオールを漕いでいるみたいです


真ん中の人物は 正装みたいです 髪型は 耳の横で髪を束ねる


美豆良(みずら)( 日本の上古における貴族男性の髪型)でしょうか




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山の頂上には「高井田山古墳」が あるというので



遊歩道を 息子と孫姫 と どんぐりを拾いながら 登りました




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直径22Mの円墳です


造られたのが 5世紀末 横穴群よりも 前にできています


石積みの玄室の中から 鏡 ガラスの装飾などの 副葬品が出土しています


被葬者は 古墳築造の人々の 族長 だったのかもしれませんね




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大和川を遡り 信貴山に登る途中で 思わぬ神社に遭遇しました


青谷という集落でした


なんと 「金山彦神社」でした


生駒山の西麓や南麓 には 多くの たたら鉄製造の鍛治地があったようです


古墳築造に 欠かせないものが 鉄器でした


人々の食料を確保するための 農地開墾にも 稲作にも


鉄器による 鍬 や 鋤 は 欠かせない道具だったからです


古墳群を見下ろすように 鉱山の神 金山彦が 厳かに鎮座されていました


神紋は 五七桐 でした



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拝殿


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龍王社 と 稲荷社





金山彦神社より道なりに山上へいくと


雁多尾畑(かりんどばた)という集落があって


ここには 金山姫神社 があるということでしたが


見つけることができませんでした


もともとは 金山彦神社も 金山姫神社も 嶽山という頂上に


祀られていたものが 中世になって


今のところに移ったとされています


山道からは 大和盆地 が きれいに見えました




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奈良大和盆地






赤 : 高井田横穴群
黄色 : 金山彦神社
緑 : 金山姫神社




百舌鳥という人々を 追って 古墳群 鎮守の百舌鳥八幡宮


高井田横穴群 金山彦神社 と見てきましたが


縄文末期から 弥生時代の鉄器製造の主流は九州であったこと


鉄器や鍛治工房は 畿内には ほとんど無かった事を考えると


ある時期 九州王朝を支えてきた 金山彦を 祖神とする


鍛治工房集団が 大量に 河内に 移動してきたは間違いないようです


土師氏は 秦氏 は その後 桓武天皇の平安京遷都に


大きな役割を果たしますが 仏教が浸透するにつれ


古墳築造の時代は終わりを告げます


土師氏 秦氏 の名前は 消えて行きますが


土師氏 は 菅原氏 秋篠氏 大江氏 と名前を変えて


朝臣として 新たな時代を生きていくのでした





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by nonkei7332 | 2016-12-04 11:25 | 古代史 | Comments(0)