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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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博多区 青木 の 地禄神社
(空 sofa そら) さんの ブログより




福岡市近郊の神社を調べていると



しきりと出てくる



同じ名前の神社があります



それは 《地禄神社》と 《埴安神社》です




《地禄神社》は 博多区に 5



〈堅粕〉・〈上牟田〉・〈竹下〉・〈青木〉・〈上月隈〉



南区に 4



〈塩原〉・〈向野〉・〈三宅〉・〈井尻〉



早良区に 〈野芥〉地禄天神社



春日市に 〈春日〉地禄神社



大野城市には 5



〈仲畑〉・〈畑詰〉・〈釜蓋〉・〈瓦田〉・〈白木原〉



太宰府市には 〈大佐野〉地禄神社



大小合わせて 17 地禄神社 鎮座しています




不思議なことに 中央区や博多区の都心部には無く



都市部近郊に散らばっています



各神社とも 創建は不詳となっていますが



古くは 67世紀前後の古社もあるのではと思われます



その頃の 福岡は 今の海岸線ではなく 内海が拡がっていて



おそらく 地禄神社 建っている辺りが 海岸線であったようです



人々の住む海岸線に 同じように祀られた 祭神 とは



『埴安神』(はにやすしん) です




埴(はに)とは「和名類聚鈔」に



『土薫而細密日埴』(つちかおりてさいみつなるをはにという) とあります



埴安神 土の神様 であり



田畑の土壌に宿り 穀物の豊作をもたらす神様なのです





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早良区 西 の 埴安神社
(空 dora そら)さん の ブログより





〈埴安神〉を祀った 《埴安神社》も 福岡には 8 ありました



早良区に 2 〈次郎丸〉・〈西〉



西区 2 〈姪浜〉・〈今宿〉



糸島市の野北・中央区の鳥飼・南区の柏原



筑紫野市の杉塚 にも 鎮座しておられます




甘木朝倉一帯に 無格社や摂社を含め 40社近く鎮座する



〈田神社〉がありますが



この祭神も 埴安神 なのだと 知りました




〈埴安神〉とは



博多の総鎮守 櫛田神社 の主祭神 である



《大幡主神》なのです




福岡 地禄神社 埴安神社が多く鎮座する 理由がここにありました





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百嶋系図 部分



百嶋神社考古学系図 によれば



大幡主 (埴安神)の妹が 〈埴安姫〉となっていることも



これを証明しています




〈土〉といえば 神話に出てくる 山幸彦を竜宮城に連れて行ったのは



塩土翁(しおつちおじ) でしたが



百嶋説は 大幡主神 塩土翁 同一人物だとします



もう一つ 〈土〉といえば



埴輪 (はにわ) の神様といわれたのは 〈野見宿禰〉(のみのすくね)です



土師氏の 祖神 といわれていますが



百嶋説 〈野見宿禰〉を



出雲神話における 天穂日命(アメノホヒ)の子供である



天夷鳥命(あめのひなとり) = 武夷鳥(たけひなどり) だとします



そして 天穂日命(アメノホヒ)は 豊玉彦 と同一人物ですので



これによって 博多の祖神 三代にわたる 系図が出来上がります




大幡主神 = 埴安神 = 地禄神 = 塩土翁 (初代)



豊玉彦 = 天穂日命 = ヤタガラス (二代)



野見宿禰 = 武夷鳥 = 土師祖神 (三代)





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埼玉県久喜市 の 鷲宮神社



後世 大和朝廷より 関東開拓を命じられた 河内の土師氏が



下総の利根川の上流 久喜市辺りで 祖神 である



〈天穂日命〉と 〈武夷鳥〉そして 〈大己貴命〉(大国主命) を祀ったのが



「関東最古の大社」「お酉様の本社」といわれる



『鷲宮神社』(わしみやじんじゃ) です



出雲族の草創に関わる 神々 といわれていますが



私には 博多の主の 神々 に見えてきます





博多の主の神々(大幡主命・豊国主命・大国主命)



神武天皇 から 代々 続く 九州王朝 を支えていたのでした







by nonkei7332 | 2017-05-19 13:10 | 古代史 | Comments(0)


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興福寺 阿修羅像と八部衆像(一部)




奈良興福寺 阿修羅像 と 八部衆達です



阿修羅 とは



インドにおける 仏教以前の 古代神 八部衆のひとりです



釈迦に帰依して 十大弟子と共に 護身善神となったといいます



ちなみに 八部衆とは



五部浄(ごぶじょう)・沙羯羅(さから)・鳩槃荼(くばんだ)



乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)



緊那羅(きんなら)・畢婆迦羅(ひばから)




本来 闘いの神 荒ぶる神 と言われた 阿修羅



優しい少年の顔をして 合掌している 三面六臂の姿は



何を 物語っているのでしょうか




神亀4年(727年) 待望の男の子 基王(もといおう)の誕生に



光明皇后と聖武天皇の喜びに包まれていました



しかし その 喜びも束の間 愛児は



一歳の誕生日を前にして 亡くなります



失意の中 6年後 亡き基王を偲び 光明皇后によって



阿修羅像 は造られたといわれています




光明皇后 一生も 修羅 の道 だったのでしょう




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光明皇后 小泉淳 作




我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の嬉しからまし


万葉集8-1658 光明皇后



〈通釈〉


あなたと二人で この雪を見たのなら どれほど 嬉しかったでしょう



(あなたとは 夫である 聖武天皇 だと言われていますが



亡き 基王 だともいえるのかもしれませんね)









by nonkei7332 | 2017-04-10 10:30 | 古代史 | Comments(0)


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筑前国分寺 に 行きました

福岡平野を 南に 走ると 太宰府市の入り口でもある

〈水城跡〉に着きます

そこから 500m 位 先に 国分寺前 という交差点に出ます

左の 四王寺山に向かって 上った辺りが 太宰府市国分地区です

1250年前 このあたりに 聖武天皇が 開基 となる

「筑前国分寺」「筑前国分寺尼寺」が造られました

11世紀の後半には 戦乱で 七重塔も 講堂も焼失しましたが

江戸時代には 草庵跡に 今の国分寺が創建されたとされています



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十一面観世音像




本殿に座ると 正面に 本尊の 薬師如来座像 が


正面に左手に 十一面観世音像 が 配置されています

正面の欄干に 飛天の彫り物が 飾られています

弁財天を思わせるような 琵琶を抱えた 飛天です

古いものではないようですが 見事なものでした



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天平13年(741年) 聖武天皇は 国家鎮護の為

「国分寺建立の詔」をだします


七重塔を建て 今光明教 と 法華経 を写経して 塔に納め

全国 66カ国に 国分僧寺 と 国分尼寺 を 一寺ずつ設置し

僧寺の名は 金光明四天王護国之寺

尼寺の名は 法華滅罪之寺 とすることという


壮大なものでした


この頃 飢饉や天然痘などの 流行などで

国土は疲弊していました

聖武天皇は その救いを 仏教に求めたのですが

実は その裏には 天皇をそこまで導いた 二人の女性がいました

一人は 母である 藤原宮子です


そして もう一人が 皇后の 光明皇后(光明子)でした

宮子 と 光明子 は 共に 藤原不比等の 娘(異母姉妹)です

この二人の 女性に大きな影響を与えた 一人の僧侶がいました

その名を 『 玄 昉 』(げんぼう) と言います

歴史において 大きな功績を残しながらも 闇に書き変えられ

悪人とされた 人物が何人もいますが

玄昉も その一人だと 私は思っています

太宰府に流され そこで亡くなった 菅原道真 は誰もが知る人ですが

同じように 太宰府に流され そして そこで 観世音寺 を作り

落成したその日に 殺された 玄昉 について 知る人は少ないのです

私は 奈良東大寺 も 奈良法華寺 も 全国の国分寺 の建立も

二人の女性を通して


天皇にその気にさせたのは 玄昉 だと思っています



玄昉 は 霊亀2年(716年) 留学僧として 唐に渡ります

18年間の修行を終え 唐の玄宗皇帝から

三品に准ずるとされ 紫衣を許されました

天平7年(735年) 経論五千余巻 や 仏像 を携えて

吉備真備らと共に 帰国します

後世 日本仏教の開祖として伝わる 最澄 や 空海 と雖も

唐での高僧としての評価は 玄昉の方が

上だったのではないでしょうか

持ち込んだ 経巻 の数が それを物語っています

のちの 仏教の拡大には 欠かせない 経典ばかりだったようです

聖武天皇を取り巻く 政局が大きく変わり 藤原仲麻呂は

玄昉を 観世音寺 開設の名目で 太宰府に送り そこで 殺します

史実は 〈藤原広嗣の乱〉の残党達の仕業にされていますが

恐らく それも 嘘です 書き換えられています



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春の穏やかな 陽射しの中

戒壇院 裏にある 玄昉の墓を訪れました


手を合わせ 玄昉 の霊に向かって 私は喋っていました


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お前さんが造った 国分寺に行ってきたぞ

菅公 や 広嗣 の 無念も合わせて 鎮めてやってくれ

阿刀玄昉 物部の血を引く お前の生きてきた道に 嘘はなかったぞ

どうか 安らかに 眠ってくれ



どこから 飛んできたのか 紋白蝶 が 一頭

私の前を 横切っていきました




赤 : 筑前国分寺
緑 : 玄昉の墓










by nonkei7332 | 2017-03-31 11:15 | 菅公・太宰府 | Comments(0)


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羽賀寺 木造十一面観音菩薩像





元正天皇 が モデル の 十一面観音像 です

福井県 小浜市 羽賀寺 の 本尊です

霊亀2年(716) 元正天皇 勅願によって

行基 が 創建したとされる お寺です

観音像は 像高 146.4㎝ 元正天皇の等身大の 御影 だといわれています

数ある 十一面観音像の中でも 艶やかな 美しさは 際立っています



生涯 未婚であった 元正天皇でした

ミステリアス な 生涯 でしたので その影に 見え隠れする

三人の 男性の姿がよぎります



ひとりは 〈長屋王〉であり

ふたりめが 〈橘諸兄〉であり

そして 三人めが 〈泰澄〉です



長屋王は 氷高皇女(元正天皇)にもっとも 近い存在でした

4歳年下になりますが 小さな頃から の幼馴染だったようです

皇女の方が 皇位は上ですが 婿としての 決して不釣り合いな相手ではなく

将来を嘱望された 皇族のサラブレッドだったのです

しかし 運命は 長屋王の相手に 妹の 吉備内親王 を選びます

長屋王は 元正天皇の元で 太政官をつとめ 側近中の側近として

元正治世の中心的役割を担います

神亀6年(729年) 藤原不比等亡き後

その意思を引き継ぐ 藤原四兄弟が 聖武天皇を抱き込み

長屋王を失脚させるという

『長屋王の変』が起こります

長屋王家(長屋王 吉備内親王 そして 子供達) は 殺されてしまいます

運命の人 長屋王との 別離は 悲痛の極みでした



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長屋王墓




《 降る雪の 白髪までに 大君に 仕へ奉れば 貴くもあるか 》

万葉集 3922


【通解】

降り積もった雪のように 髪が白くなるまで

陛下に仕える事が出来たことを思うと

ありがたいものでございます


天平18年(746) 正月 皇宮に雪が降り 雪かきに来た 側近たちに

元正上皇が 雪を題にして 歌を詠ませた時 左大臣 橘諸兄 が歌った歌です

この時 上皇66歳 橘諸兄 62歳

長屋王 亡き後 ずっと 側で 支えてきた もう一人の 男が

橘諸兄(たちばなのもろえ) です

諸兄 も 長屋王と同じ歳でした

氷高皇女の乳母をしていたのが 諸兄の母 橘三千代 でした

おそらく 小さな頃から ずっと側にいて

姉のように 慕っていたのでしょう

そんな 諸兄 を 上皇は 生涯 側に置いたのでした


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橘諸兄 の墓




さて 十一面観音像 が 元正天皇 をモデルとされるのは

そこに 白山信仰の開祖 泰澄 の 存在があります

泰澄 は 21歳の時に 朝廷から 鎮護国家法師 に 任じられていました

おそらく 元正天皇は この頃から 泰澄を知り

帰依していたのではないでしょうか

泰澄 は 霊亀2年(718)

夢の中に現れた貴女(白山神)の呼びかけにより

養老元年(719)

白山へ登拝し 頂上で 白山神の本地仏 十一面観音を体現します

実は この時 元正天皇 は 霊亀元年(717) 2年(718) と 二度にわたり

美濃養老を 行幸されているのです

そこの 美泉 がもつ若返りの効能に感心された元正天皇は

元号を「霊亀」から「養老」へ改元されています

泰澄の白山開山と 元正天皇の養老改元が 同じ年であったのです

偶然なのでしょうか 泰澄 36歳 元正天皇38歳 の時です

ここからは 私の妄想です

泰澄 と 元正天皇 は 何度か 会っていたのではないか

養老7年(722) 元正天皇が病に伏すと 泰澄は 弟子の浄定行者とともに

都に赴いて元正天皇の病の治療にあたります

その効あって和尚は護持僧として禅師の位を授けられ、

諱(いみな)を 神融禅師 と号したといいます

元正天皇 崩御の折には 御自らの髪と歯が 泰澄の元へ 送られたといいます

平泉寺墓地には「御歯髪塚」が今も 残っているそうです



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平泉寺白山神社








by nonkei7332 | 2017-03-05 16:25 | 古代史 | Comments(0)


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養老改元1300年祭 公式ホームページ より
《 元正天皇 》





日本には 女帝は 8人おられます

皇后や皇太子妃 だった 女人が 天皇になっておられるのですが

歴史上 稀に見る 独身(未婚)の女帝が ひとりだけおられます

44代 天皇 元正天皇 (680~748) がその人です

在位は 715年から 724年 までの 9年でした


今 とっても気になる 女帝 (女神) です

元正天皇の目から 歴史を追ってみます


母は 43代 〈元明天皇〉この方も女帝です

女帝から 女帝への 母から 娘への 譲位だったのですね

このお母さん 天智天皇の娘です

父は 〈草壁皇子〉天武天皇 と 持統天皇 に 生まれた

血統強き 皇太子 だったのですが 皇位を継ぐこともなく

28歳という歳で 夭折します


父と母には 三人の 子供がいました


弟 ・軽皇子(かるのみこ)(のちの文武天皇)

私 ・氷高皇女(ひたかのひめみこ)(のちの元正天皇)

妹 ・吉備内親王(きびのないしんのう)(のちの長屋王の妃)


祖母 持統 は 祖父天武亡き後 父 草壁皇子 を 皇位につけるために

ライバルであった 大津皇子 を 亡き者にします

ところが 皮肉にも 草壁皇子 の 突然の死です

持統は 孫の 軽皇子(文武天皇) をと画策しますが 弟はまだ7歳です

持統は 自ら 41代を即位し 夫 天武天皇の治世の後を継ぎます

弟 軽皇子が15歳になると 42代文武天皇として 即位しますが

持統は上皇として 文武を補佐したのでした

5年後 (703年) 祖母持統上皇は 波乱の人生を閉じます 58歳でした

弟 文武天皇は 藤原不比等の娘 宮子を妃とします

首皇子(おびとのおおじ) が 生まれていましたが

弟文武 も 父(草壁皇子)のDNA を引き継いだのか 25歳で崩御

首皇子 またしても 7歳でした 宮子が心的障害を持っていたため

母 元明天皇 が 弟文武の後を継ぎ 43代天皇に即位します 47歳でした

皇后でない女帝の誕生でした

首皇子(のちの聖武天皇) が14歳になりました

譲位をして 年少天皇という選択もあったのですが

皇太子としての基盤作りを 最優先とした 藤原不比等 と 母元明天皇の

強い要望もあって 私に白羽の矢が立ち

聖武天皇 即位までの 中継として 44代 女帝として 即位したのでした

続日本紀の中には もっとも美しい 未婚の女帝 だと書かれています

氷高皇女(ひたかのひめみこ) 35歳の時でした


なぜ 未婚だったのかって ?


それは 謎ということにしておきましょう






by nonkei7332 | 2017-02-26 11:00 | 古代史 | Comments(2)


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霊峰白山





白山には 女神がすんでいます

なまえを 菊理姫 (くくりひめ)といいます 白山比咩ともいいます


古事記の神話には 《造化の三神》(ぞうかのさんじん) といって

天と地が出来たとき 高天原に成られた三柱の神様がおられました


〈天之御中主神〉(あめのみなかぬしのかみ)

〈高御産巣日神〉(たかみむすひのかみ)

〈神産巣日神〉(かみむすひのかみ)


一番初めに出てくる 最高神だといわれるのが

《 天之御中主神 》

この神様 アマテラス みたいに 有名な神様ではないのですが

みなかのぬし (真ん中におられる 中心におられる 主の神) なのです

主の神 といえば

大幡主命(オクシダサン)・豊国主命(ヤタガラス)

大国主命(ダイコクサマ)・事代主命(エビスサマ) などがおられます

博多から 出雲 越前に至る 領域を治めておたれました

〈主(ぬし)のつく神様 の頂上におられる神様です〉



それから 天(あま)の神様 といえば

天照大神(アマテラス)・天日槍(スサノオ)・天忍穂耳(ウミサチ)

天穂日(トヨタマヒコ)・天鈿女(アメノウズメ・オイナリサン)

などの神様がおられますが

いずれも 海を渡ってきた 神 なんですが

〈天(あま)のつく神様の頂上におられる神様でもあるのです〉



白山の女神 の 正体こそが 実は

《 天之御中主神 》だったのです



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白山平泉寺





今年になって

白山平泉寺 に住む 方と 不思議な縁で知り合えました

昨日 その方から 写真が届きました

2月10日 朝起きて 外を見た時の 雪景色だそうです

雪に埋もれた 霊峰白山

遠い 久遠の記憶を辿る 魂の旅 が

私の中で 始まったようです


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by nonkei7332 | 2017-02-15 13:19 | 古代史 | Comments(0)


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九州国立博物館に行きました

特別展という ふれこみにしては 来館者はまばらでした

宗像と沖ノ島 その祭祀と大和朝廷 のかかわり を主張した展示ですが

今ひとつ 焦点のぼけた 展示構成でした

沖ノ島の祭祀 については

4世紀後半から 9世紀末まで 出土した奉献品の数は

約8万点にも及び ほとんどが 国宝になっていて

「海の正倉院」とよばれていますが

大陸や半島との 対外交流によって もたらされた 多くの奉献品は

国家祭祀だったといわれています

そして その 国家というのが 大和朝廷(畿内王朝)だという

前提での 展示には 多くの疑問が残りました

そもそも「謎の4世紀」といわれるくらいです

沖ノ島の祭祀の主体が 最初から 宗像氏だったという事自体も 謎なのです

500年の間には 祭祀の形態も何度も変わっているわけで

宗像氏と大和朝廷が ずっと関わっていた祭祀だと言い切る理由は

どこにも見当たりませんでした

2017年の 世界遺産登録 のための

デモンストレーションなんでしょうか

世界遺産ってなんなのでしょうね

九州唯一の 国立博物館 こんなんでいいんでしょうか




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沖ノ島





出雲の沖にも 隠岐の島があります

宗像の沖にも 沖ノ島があります

字は違っても 同じ〈おきのしま〉です

列島と半島を繋ぐ 中継島 です 海人たちの 辿ったルートです

もうひとつ 中継島が あります 名前はよく似ています

おそらく 最も多くの 海人たちが 通ったであろう 中継島です

その島とは 壱岐の島 です

魏志倭人伝 に出てくる 一大国(壱岐) と 末盧国(唐津)へのルートです



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上の陸地が 九州 です



〈半島〉〜〈おきのしま・いきのしま〉〜〈出雲・宗像・唐津〉



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呼子町 加部島 の 田島神社



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先日 唐津 に 行きました

宗像と出雲の 原風景は 唐津に有りという

大それた真説を求めての 神社巡りです

唐津市湊町の 湊疫神社 と 呼子町加部島の 田島神社 を訪ねました

肥前の古書には 宗像大社の元宮は 田島神社 であると書かれています

宗像大社も田島神社も祭神は 三女神 なのですが

二つの神社の 千木は 男神です

大国主命(おおくにぬしのみこと) が隠れておられます



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風の見える丘公園 からの 展望




加部島 には〈風の見える丘公園〉があります

展望台にあがって 風を見ると

遠く 海の向こうから オモニ の歌が聞こえてきます






by nonkei7332 | 2017-02-12 23:55 | 古代史 | Comments(0)

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唐津の 『久里双水古墳』に行きました

全長 108.5メートル 後円部径 62.2メートル 前方部幅 42.8メートル


の 前方後円墳 です

私が去年見てきた 百舌古墳群などは 5世紀から7世紀のものですが

この古墳は 3世紀に造られたもので

国内でも 最も古い古墳のひとつです



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副葬品 は 後漢時代の「盤龍鏡(ばんりゅうきょう)」

「管玉(くがたま)」「刀子(とうす)」

被葬者は 末盧国 の王族 でしょうか



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墳丘に登りました

鏡山 の向こうに 浮嶽 が見えました

西には 松浦川が流れています 川が二つに別れている地点なので

双水 という地名みたいです

ズカズカと 登っていったので 墓に眠る王様が怒ったみたいです

突然の 驟雨

ビッショリ 濡れてしまいました



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《 おまえが墳丘にのぼれば 》

吉本 隆明




おまえが墳丘にのぼれば

そこは誄(るい)をひく長びいた音吐と幡旗(はた)の

しめやかな殯(あらき)の場にかわる

時間のないものが夢をみている

この首長の葬礼が長びくとして

たった三年くらいのあいだに

葬られた死者は 白鳥に

尾長は ふくろうに

風景は 廃市に

語り部は 乞食に

幡旗(はた)は 雲に

かたつむりは 死魚に

かわるといえる



  
それから疾風のように 夢は

とおい海を襲う

おまえが一瞬眠っているうち

この世界が革まるとしても

死にきれなかった下丁が

高句麗の軍歌などうたって

喜捨を乞う

その道に

千年も前のあせびの白い花が垂れている




けっきょくこれは風景

ほんの小さな安息日

無際限にふりそそぐ夏の炎から

おまえの渇きに送られた訴状だ

それから挨拶だ

かすれた咽喉がありったけ時間を呑みこむとしてわ

とうていおまえに耐えられない この

時間を失った夢を

殺りくの山陽(やまなみひなた)の道の岸べから

まっさおな空と

ひきつった雲に投げかけることは

愛の死を意味している


 

丹(に)の土の層 それらしい土器のかけら

あけび色の蔓から第五号墳丘の土面に昇ってくる

さらば 夏の日の

迅速な憩い  








by nonkei7332 | 2017-02-04 11:07 | 古代史 | Comments(0)


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西鉄電車 《旅人》




大伴旅人(たびと)は

天平二年(730)正月

大宰府の帥邸において梅花宴を催しました



梅雪(ばいせつ)残岸(ざんがん)に乱れ

煙霞(えんか)早春(さうしゆん)に接す



《雪のように白い梅の花びらが切り立った岸壁に乱れ散り》

《霞が早春の空にたなびいている》


「初春侍宴」

大伴旅人

『懐風藻』より



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早咲き の 白梅



今年 始めて の 太宰府です

去年の最後が 太宰府の 〈入穴神社〉 でした

今年の最初は 観世音寺 の鎮守 〈日吉神社〉(ひえじんじゃ) です



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日吉神社 扁額




日吉神社 は 観世音寺の鎮守であり

地元では ひよし神社と呼ばれています

鳥居の扁額は 〈山王宮〉になっています

六十六段の急な階段を登ると 本殿

神社誌によれば 創建は 朱鳥大宝年間(686〜703年) とされ

平安時代に 比叡山の日吉大社を分霊したと言われています

とすると 旅人 は ここに 登った事があるのでしょうか



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日吉神社




江戸時代の地誌によると〈豊臣秀吉〉が九州下向の折

この神社に陣を張ったが 時の観世音寺の別当は世情に疎く

秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て

秀吉の怒りをかい 寺領を没収されたと伝えられています

承応元年(1652年) 領主が再興しました

祭神 は 大山咋神 と 大己貴命(大国主命)

日吉神社は山王社とも呼ばれ 観世音寺の守護神とされています



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旭地蔵尊






日吉神社 から 天満宮方面へと 小径を歩いていくと

坂の途中に 旭地蔵尊 があります

この堂 は 〈横岳山崇福寺〉を創建した

湛慧(たんね)禅師の墓と伝えられています

『筑前国続風土記』によれば


「 この地谷間にありて いと 閑寂なる境区なり。

湛慧の墓は 横岳 に行く道の傍にあり、此所入定の地なる故に

石塔を立てそのしるしとする。」とあります


伝承では禅師が正月に観世音寺の前を通りかかった時、

正月最初に門前を通った者を鬼とする 追儺(ついな)があった為

追儺 : (後世 節分となった神事)

捕えられて追儺の鬼にされたそうです

禅師は これを恥じて 後年この地に穴を掘って籠もり

入定したと言われています

土地の人々は手厚くここに葬り石塔を建てて供養し

後に地蔵を祀り 山の名前 朝日山にちなみ朝日 又は日の出の旭をとり

〈旭地蔵〉として、信仰厚く現在に至っています




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崇福寺別院






仁治元年(1240)に

湛慧禅師によって.ここに 創建された 横岳山崇福寺 は

文永9年(1272) 大応国師によって 崇福寺別院として 開山されてから

中世 影響力のある 寺院として 往時には 隆盛を極めましたが

天正14年(1586)の島津氏と大友氏との 岩屋城の合戦によって焼失し

その後・慶長5年(1600)に 福岡藩初代藩主黒田長政 によって

福岡市博多区千代 に移設 再建がなされ 黒田家の菩提寺となって

大きく発展し 今日に 至っています




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崇福寺 朝日地蔵堂





千代の崇福寺 山門横にある 〈朝日地蔵〉何度も見たことがあるのに

太宰府 白川の〈旭地蔵〉が 本家本元 だなんて


知る由もなかった



今年も 知る由もなかった事を


たくさん 探しに行くんでしょうね


旅人の 夢 は 果てしのない 旅です






黄 : 日吉神社
緑 : 旭地蔵尊
赤 : 崇福寺別院



by nonkei7332 | 2017-01-10 21:40 | 菅公・太宰府 | Comments(2)


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七草粥




年末年始 には 多くの しきたり と言われる

日本古来の 風習が 残っています

注連縄・門松 ・おせち・屠蘇・鏡餅・七草 などなど

しかし 悲しいかな 人々の 生活様式の変化によって

そんな しきたり が ひとつずつ なくなって来ているのも事実なのです

お節料理 や 雑煮が終わると 七草粥を食べたものでしたが

「おせちもいいけどカレーもね」という たった一つのTVCM で

七草のしきたりは 消え去りつつあります



七草の起源を たどると

日本では 古来から年の初めに


野に出て芽を出し始めた草を摘み取る「若菜摘み」が行われていました


この風習に 中国から伝わった「七種菜羹」(ななしゅのさいかん)

旧暦1月7日の日に七種類の野菜を入れた


羹(あつもの)(熱く煮た吸い物)を食べて

無病を祈る習慣が結び付き


「七草粥」を食べて邪気を祓い

一年の無病息災と五穀豊穣を祈るとされる

「七草」の風習ができたと言われています



春の七草 は

芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)

仏の座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)ですが



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芹の花




今日は 芹(せり) の話をしましょう


《 なにとなく 芹ときくこそ あわれなれ 摘みけん人の心知られて 》

《 西 行 》の 「山家集」にある 歌です



芹を摘んだ人の気持ちがわかるから 芹と聞いただけで 哀しくなる

という 歌なんですが 現代人には 何のことかよくわかりません

この歌を理解するには ひとつの 物語の存在を知らなければなりません


平安時代後期の 官人であり 歌人でもあった

「 源 俊 頼 」の歌論集 『俊頼髄脳』に書かれている故事です


昔。宮廷に庭の清掃を役目とする身分の低い男がいました。

ある日、宮廷の奥御殿の庭で仕事をしていたら 突然つむじ風が吹いて

御殿に掛けられていた御簾(みす)を吹き上げました。

御殿の中では皇后様がお食事をなさっていて

芹などの野菜を食べておられるところでした。

御簾の吹き上げられていた時間はほんのわずかでしたが

男は皇后様のお顔お姿をはじめて見て その輝くばかりの美しさ

神々しさに魅了されてしまいました。

その後 男はなんとかもう一度皇后様のお顔を見たいと思いましたが

御簾が吹き上げられることもなく お顔は見られませんでした。

それで 皇后様がセリを食べておられたことを思い出して

毎日セリを摘んできて御殿の御簾の近くに置きました。

しかし何年たっても望みの叶う日は来ませんでした。

皇后様への思慕の情が募って男はとうとう病気になりました。

男は 苦しい息の下から 娘を呼んでいうには

『私の病は 皇后様への思いが募り 物思いが高じて死ぬのだ

不憫に思うのであれば 功徳のために 芹を摘んで 欲しい』

と言い残して亡くなりました。

娘は芹を摘んでは仏前に供え 僧たちにも食べさせていました。

その後 この男の娘は身分の低い女官として宮仕えをしました。

この話を同僚たちにしたのが皇后様のお耳に入り

皇后様は哀れに思われてこの女官を召し出し

『私も 芹を食べている時 御簾が舞い上がって 庭の者に見られた事を

覚えていますよ』と話され

その後も娘を常に側に召されて目をかけられるようになりました。


《芹を摘む》の話は

後世「枕草子」や 世阿弥の「綾太鼓」にも書かれ

いつの間にか 物事が叶わぬ 悲恋の話になっていったようです




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待賢門院璋子
(たいけんもんいんたまこ)






さて 話を戻しますと

西行 が どんな想いでこの歌を歌ったのか なのですが

この庭掃きが 恋した相手は 皇后という 好きになってはいけない

やんごとなき相手だったということ です そして

西行 が 生涯想いを寄せた相手も 17歳も年上の 白河法皇の寵妃であり

鳥羽天皇の中宮 で 崇徳・後白河両天皇の母であった

藤原璋子 こと 《待賢門院璋子》という

やんごとなき 相手だったからです

西行 が 出家した理由が 璋子との 一夜の契りを

『あこぎの浦ぞ』と戒められた 失恋であったとの説があります

芹を摘む人の心を 自分の心象として 告白した歌だったのでしょうか



暖かな 穏やかな 正月三が日も過ぎ

七日は 七草 太宰府では 鬼すべの神事 です

この暖かさに 飛梅が 大晦日に20年ぶりに 開花したといいます

今年の春は 早いのでしょうか


《 春ごとの 花に心をなぐさめて 六十路 あまりの年を経にける 》

西行








by nonkei7332 | 2017-01-04 13:57 | 日記 | Comments(2)