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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて



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井尻橋 から 背振山を望む


博多の町は 二つの川にはさまれている

ひとつは 東を流れる 宝満山 を源とする 三笠川 (石堂川)

もうひとつは 西を流れる 背振山 を源とする 那珂川

今日は 那珂川 の話


《 筑前国風土記 》( 貝原益軒著) には


『 日本紀には、儺河 ( なかがわ ) と書り

此川は、その源 早良郡 背振山の麓 又 此郡、五箇山の奥 大野より

流出、那珂郡中を流れて 博多の西 福岡の東に至りて

道程 六里をへて 海に入る。』


( 那珂川は 背振山を水源にして 那珂川町 春日市 福岡市 を通って

博多湾に注ぐ 延長35㎞の 河川 )



私は 5歳の時から 福岡市の南部 (南区) 《 井 尻 》の町に住んでいた

西鉄大牟田線で福岡から 5番目の駅になる 井尻 は

今でこそ 住宅のひしめく郊外住宅地になっているが

50年前は 沿線一面 は 田んぼが 広がっていた

大橋駅 を過ぎると 田んぼの中から 川が見えた この川が 那珂川

鉄橋を渡ると 間もなく 井尻駅に着く 右手の往還道路に 並行して

狭い路地の 井尻商店街があり 左手には 踏切を渡って すぐに

映画にもなった『 しいのみ学園」という 知的障害者の施設がある


《 しいのみ学園は 1954年 創立 。

創立者は 〈 障害者教育の先駆者 〉といわれる

『 曻地三郎先生 』(1906〜2013) 》



小学校には 今みたいに プールなど無かったころで

夏休みになると 私達は 毎日のように 那珂川 の鉄橋付近で

身体が冷えて 唇が 紫色に変わるまで 泳いでいた

当時の 那珂川は 川底は 白砂で 水も澄んでいたし 綺麗だったのだ

真っ黒に日焼けした顔で 私達は川底に 潜っては 魚を捕まえたり

橋の上から 川に飛び込んだり まるで 河童 のように 遊んでいた


《 井尻 》という地名の由来については調べてみると

那珂川 の川沿いには 〈 井尻 〉という地名が 二つある事がわかった

ひとつは 福岡市南区の 井尻であり

もうひとつは 那珂川町 別所 に井尻地区という場所がある



《 筑前国風土記 》には


『 この郡には ふたつの 井尻村がある』


と書かれている


このふたつの井尻に共通しているいる事といえば 共に川沿いにあり

すぐそばに 《 井堰 》(いせき) がある事だ

南区の井尻のそばには番托井堰 (ばんたくいせき)』があり

那珂川町別所には 日本最古の用水路といわれる

「裂田の溝」(さくたのうなで) がある

その 取水口の すぐ上流にある

井尻井堰 (いじりいせき)』がそれである



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番托井堰 (ばんたくいせき)



《 儺の国の星拾遺 》133P で

真鍋大覚 さん はこう書かれている



『 水を祈る氏族、即ち 《みくまりのかみ》は近東に出る。

ISIS ( イシス ) ISRAEL (イスリル) がこれである。

倭人は伝えて 《いしり》と名付け、

もって 水勢の多寡と水温の上下を治す 女神の神とした。

今に残る 井尻 の郷名は その祠が安置されるところであった。』


また 145P には


『 かつて エジプトの祖神なる イシス は ナイル川の灌水に

全身の叡智をそそいだ 女人であったと 伝えられる。

倭人は「ゐがわのやまのかみ」なる 女神を

井出、唐門 のところに必ず祭った。

今の 井尻 なる 郷名が まさにそれであった。』



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エジプト神話 の イシリ女神




《 みくまりのかみ 》とは ウイック によれば


みくまりのかみ ( 水 分 神 ) とは 神名の通り、

水の分配を司る神である。

「くまり」は「配り(くばり)」の意で、

水源地 や 水路の分水点などに祀られる。

日本神話 では 神産みの段で

ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ 両神の子として

天水分神 (あめのみくまりのかみ)

国水分神 (くにのみくまりのかみ) が登場する

水に関わる神ということで 祈雨 の対象ともされ

また、田の神 や 水源地に祀られるものは 山の神 とも結びついた

後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、

子供の守護神、子授け安産の神としても信仰されるようなった 』



思いもしない 井尻 の地名 が エジプト神話 に 繋がることになったが

水分神 (みくまりのかみ) が祀られた 地 を井尻 といったのだろう



那珂川町の井尻地区では 毎年5月31日

井出あげ 』という神事 が今も 行われている

区の人達が 水門を清掃して 御神酒を注ぎ

水の恵みに感謝し 安全を祈願。

その後 水門西側の高台にある 五穀神に

五穀豊穣と田植えの無事をいのるという。



私が 少年期 青年期 を過ごした 井尻 の町には

こんな 地名の由来が あった



梅雨の晴れ間 今日は 真夏日に なりそうだ


田植えも 終わった 農家の人達の


ほっとした 顔が浮かんでくる








by nonkei7332 | 2015-06-29 16:38 | 古代史 | Comments(0)


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博多祇園山笠 飾り山 『 博多の豪商 神屋宗湛 』




博多商人の 三傑 と言えば

〈神屋宗湛〉〈島井宗室〉〈大賀宗九 〉

そのなかでも 博多町人にとって 最も親しみのある 豪商こそ

《 神 屋 宗 湛 》でしょう


神屋家の祖先は 鎌倉幕府の御家人で

宗像の大宮司 宗像氏貞 に仕えた 神人(神職) でした

いわゆる 物部氏の末裔の もののふ だったようです


宗湛は 天文20年 (1551年) 時は 室町時代の終わりに

神屋紹策 の子として 博多に生まれています

幼名は 善四郎貞清

中世の博多は 常に戦乱に巻き込まれ

町は何度も荒廃しました

永禄12年(1570年) 毛利 と 大友 の両軍が

博多で激戦をした時は

宗湛一家は 肥前唐津に難を逃れて移り住みます

宗湛19歳の時でした

( この時 山笠人形の小堀家も 唐津に難を逃れています )


宗湛の祖父 神屋寿貞 は 明国で 冶金術を学び

石見銀山を発掘して 銀鉱の精錬術を成功させた

偉大な 商人でした

その血をひいた 宗湛は 唐津における 17年間

父 紹策の指導の元

海賊松浦党の援護もあり 海外貿易の商才を磨く かたわら

茶道の修行にも励み その道にも 精通したとされます


天正13年(1586年) 宗湛 35歳の時 上洛の志を果たします

茶道の名人であった 京都大徳寺の住職 古渓和尚の弟子になり

宗湛 の名前を 号するようになります

天正15年 堺の茶人 津田宗久 の手引きで

豊臣秀吉と 大阪城の茶会で 謁見します

秀吉は 「筑紫坊主」と宗湛のことを呼んだといいます

その時 宗湛は 島津氏に焼き払われた

博多の町の 再興を願い出たのです

宗湛の先見は 見事に的を得たようです

その年 秀吉は 九州征伐の軍を起こし 自ら 出兵します

九州に戻った 宗湛の活躍は 目を見張るものがありました

兵糧 や 秣(まぐさ: 軍馬の餌) の供給を一手に引き受けたり

秀吉のそばで 戦地に赴き すべての 雑務をこなしたのでした


島津征伐を終えた 秀吉は 博多に戻り 箱崎に本陣を置き

宗湛は 諸大名や千利休も呼んで

盛大な茶会を 催したりすることで

さらに 秀吉の信頼を 得たようです

そして それは 秀吉の 願望だった

朝鮮出兵の補給拠点としての

博多の町の 再興を決意させることにも 繋がっていきます

こうした 政商 神屋宗湛 の 機敏な 行動と働きは

秀吉の 朝鮮出兵の時期を早めたとも 言われているのです


博多の町を 再興させた 豪商 神屋宗湛

秀吉亡き後も 黒田家の 御用職人として 博多に住みつき

博多の人々に愛された 宗湛 は 83歳の長寿を全うしました



宗 湛 と 秀 吉

もののふ の血を引き継いだ

博多那の津の商人 と 尾張の猿楽師のせがれ の 出会いは

ひとつの 歴史を 後世に残したのでした







by nonkei7332 | 2015-05-18 21:31 | 博多ルーツ | Comments(0)



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小堀流山笠人形の直系といわれている
人形師 白水英章さん と 山笠人形
(西日本新聞)




木偶の坊 (でくのぼう) は 《語源辞典によれば》


「 平安時代の 「くぐつ」という木彫りの操り人形のことである

木偶の坊が 役立たずの意味になった由来は

木の人形を無能な人に喩えたことによるものなのか

人形が手足のない 木の棒のようなものであったことからされる

ただし 「でくのぼう」の「ぼう」は親しみや軽い嘲りを表す

接尾語として用いられている為 「木偶の棒」と書くのは誤りである


人形が「木偶の坊」と呼ばれるようになった由来は

「でくるぼう」とも言われたことから

「出狂坊(でくるひぼう)」を語源とする説。


「手くぐつ」が訛った「でくる(坊)」から

「木偶の坊」になったとする説などが

有力とされるが 正確な語源は未詳。


その他 「泥人形」の「泥偶(でいぐう)」が訛り

「でく」になったという説もあるが

《泥人形》と《木彫りの操り人形》の関連性の薄さや

「でく」から「でくる」になった後で

「でく」に戻ることは 考え難いために

有力視されていない 』


この語源説の中で 私がもっとも 興味深いのは 有力視されていない

「泥人形」と「木彫りの操り人形」の 関連性です





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小堀氏略系図 (福岡市博物館所蔵)




小堀善左衛門正直 《小堀氏略系図》によると

『 京都四条 に 住む 木偶師 』でした

「木彫りの操り人形」を作ることを生業にしていたことは

永享9年(1437年) に 京都から 博多の櫛田神社に 召喚され

博多祇園祭りの 山笠人形の始祖 になったとされています

当初の山笠人形は 木彫りであり

手も足もない 頸だけの木彫りだったことから


博多の山笠人形の 元の形は 京都のからくり人形 だったと考えられます



《追懐松山遺事》山崎藤四郎著 によれば


『小堀家12代 小堀甚三方の古記によれば

同家が 人形の頸 を種々所持していたので

当番町はその中から適当なものを選び

人形一つに 白木綿一反 と 木綿形付きの浴衣

博多織の男帯 に 足袋一足宛をやっておけば

小堀家にて 人形の形態を造り

その浴衣を着せ 人形の男女にかかわらず 右の帯を締めさせ

両足には 黒木綿の脚絆の如き物を作り

足袋をはかせて 人形が出来上がる

しかして 各人形の前には「八つ足」机をすえ 榊 お神酒 お灯明等 を供え

旧5月28日 櫛田神職 天野氏は 小堀甚三方に赴いて

“御祓(ご神入れ)” をする

その夜 小堀家へ 人形を見に行く人が多かった』 とあります




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博多人形 白水英章作



「泥人形」といえば

国内で最も古い 土人形といえば

京都伏見の 「伏見人形」だといわれています

伏見城から伏見稲荷までの一帯 は 深草 と呼ばれ 7世紀の初めには

この地では 土器がつくられ 土師部(はじべ・埴輪や土器を作る職人)が 

奈良の菅原から移住してきたという 文献が残っています

やがて 稲荷信仰の 全国への拡がりと一緒に この人形も全国にひろがり

各地の郷土玩具へと なっていったようです

さて 博多人形 の歴史をたどれば 素焼き人形として 最初に作られたのが

文化5年(1821年) 中ノ子吉兵衛 によるものとされています

九州に於いては 最も古い土人形と言われているのが

長崎の 「古賀人形」です 文録元年(1592年)

京の伏見人形の流れをくんだ土人形をつくるようになったといわれています

実は 博多には 文化年間より もっと古くから

京都の伏見の流れをくんだ 人形が 作られていたという 説があります

貞享元年(1684年) 正徳元年(1711年) 元文3年(1738年) に

没した人の 墓に 土人形が 納められていたという

記録が残っているというのが

その根拠になっています




《 稿本 古博多人形史 》梅林新一著 によれば


『 小堀家が 京都出身である事から 時代の古い 墓地からの出土品が

伏見人形の移入品であるか それとも 小堀家

或いは その系統の人によってつくられた

伏見人形を模索した 土人形であるやもしれない 』



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野見宿禰




その説を 補足するのが 《小堀家略系図》の最初に書かれている

『 野見宿禰 後胤 』の 文字です


野見宿禰 (ノミノスクネ) とは


『天穂日命(アメノホヒノミコト) の子孫で 垂仁天皇の命により

当麻蹴速(タイマノケハヤ) と力を争って勝ち 相撲取りの祖とされている

また 皇后の死に際し 殉死の代わりに 陵墓に 埴輪(はにわ)を立てる事を進言して

土師臣(はじのおみ) を 拝し 子孫は 天皇家の葬儀をつかさどったようだ

土師氏 の 直系が 菅原氏 である 』



文献が見つからず 推論の域をでませんが

小堀家 の祖先は おそらく 菅原家 の流れをくむ 深草の 土師部 であり

伏見人形を 造っていたのではないでしょうか

後三条天皇の延久4年(1072年) には 伏見稲荷社 と 祇園社に 天皇が行幸し

これを 「両社行幸」と称して 歴代の慣例として鎌倉時代まで続いていたようで

おそらく 両社の繋がりは 深いものであったのでしょう

その繋がりで その後 小堀家は

祇園社(八坂神社) の所領である 京都四条に移り住み

その地にて 木彫りの操り人形 をつくるようになったのではないでしょうか




《 泥人形 》と 《 木彫りの操り人形 》

《 博多人形 》と 《 山笠人形 》を 博多の町で 結びつけた

小堀善左衛門正直

彼こそ 正真正銘の 《 木偶の坊 》(でくのぼう) だったのです







by nonkei7332 | 2015-05-11 22:50 | 博多ルーツ | Comments(0)


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正面より


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拝殿





博多には 古くからの町である 「綱輪町」(つなわまち) という町があった

いつのまにか 訛って「綱場町」(つなばちょう) と呼ばれ 今日まで 残っているが

町名の由来は その地に鎮座する 『 綱敷天満宮 』からである

この天満宮に謂れは


菅原道真公 が 筑紫の国への 下向の船旅の終わりの時


津の国 (博多) 『 袖の湊 』に上陸された


そこが 海辺だったので


漁師達が 船の友綱を手繰り上げて


蚊取線香のように 巻いて 輪にして


円座をつくり 道真公 をその座に迎えて


休んでいただいたという話からきている


実は 全く 同じ名前 と 由来の 綱敷天満宮 が

摂津須磨の浦 (神戸市東灘区) と

豊前国築城群高塚村 (福岡県築上町高塚) にもある



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沖の濱 の 南岸に 綱場天神の表記があります




博多の町は しばしば 兵火のため 焦土となっていたので 天満宮も何度か場所を変えたが

落ち着いたところが 「袖の湊」の博多本土 と 大水路 (博多中の道) を隔てた

対岸の 沖の濱地の南岸であった ( 鎌倉時代の博多古図 参照)

その後 袖の湊も やがて 陸地となり 今の 博多の地形になると

天満宮は 綱場通りと呼ばれる 往還沿いに 北向きに建てられたようだ

江戸の元禄の頃の大火で焼失したあとは 土居通り沿いに 西向きに建て直されたようで

再建当時の 境内地の広さは 五、六百坪もあって 土俵場があり

松の木や 梅の木や 多くの樹木が繁っていたといわれている

( 明治22年の博多地図 参照 )


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中央あたりに 綱場天神が 土居通り沿いにあります





昭和の戦災で 社殿も楼門も全焼し しばらく 官有地となっていたが

昭和25年 現在地に 百坪ほどの土地の 無償払下げを受けて

戦後の都市計画で出来た 新道沿いに 南向きに 神殿を 造営し

現在に至っている


天満宮の祭祀は 古来より

綱場町 と 下土居町とが共同で 今日まで奉仕されてきたようだ

去年の山笠の時に 訪れたが 「土居流」の 詰所 として 境内が使われていた

「下土居町」と言えば このブログの〈ルーツのタグ〉で紹介したように

我が家の先祖 「小堀家」があった町で 文献によれば

天満宮の四軒となりに「山笠細工人形店」の看板が出ていたようである

おそらく 先祖達が 子供だった頃 天満宮の 境内で 日が暮れるまで

真っ黒になるまで 汚れて 遊んでいたのだろう

目を閉じて 海馬を覗くと 子供達の唄う声が 聞こえてくる



通りゃんせ 通りゃんせ

ここは どこの細道じゃ

天神様の細道じゃ~




by nonkei7332 | 2015-03-26 12:02 | 博多ルーツ | Comments(0)


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正面から



菅原道真公 の 水鏡伝説 が残る 《 水鏡天満宮 》


福岡市 最大の繁華街「天神」の地名の由来となったのも この 水鏡天満宮です



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本殿




こんな 歌がありました


《 水鏡せると伝ふる 天神の みあしのあとに 千鳥 群れ飛ぶ 》

道真公が 博多に上られた折に
四十川 ( 今の薬院新川 ) の水面にご自分のお姿をご覧になったとされ
当初は「容見天神」(すがたみてんじん) とよばれていました
社殿も 現在地ではなく もっと 上流の 今泉付近だったと言われています
当時は 今の 博多とは ずいぶん違う 地形ですが それでも
浜千鳥が飛んでいる 海岸線では あったようですね ( 鎌倉時代の博多古地図参照 )


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「冷泉津」の右上に 容見天神 の表記があります




その後 500年経って 冷泉津と呼ばれた 干潟も 次第に陸地となり

黒田長政が 福岡城を築城の折には 東北の鬼門に当たる

現在の場所に 移転させたといわれています (江戸時代の博多古地図参照)


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左下が 福岡城 右上の川沿いに 赤い色の鳥居があるのが 「水鏡天満宮」




《 氏神 》の定義を 「お宮参り」した神社とすれば

この 水鏡天満宮 が 私の氏神になります

実は 私の両親は 結婚と同時に

水鏡天満宮の社務所の裏にあった 茶室のある 小さな家にすんでいました

(綾杉酒造所跡付近)

というのも 表千家の茶道を教えていた 母の叔母の養子になって 後を継いだからです

綾杉酒造所は 香椎宮そばの 武内家の関係の酒屋さんでしたね

私の想像ですが おそらく この付近には 綺麗な水 があったんでしょうね

そういう訳で 私の兄と姉は 天満宮そばの この家で 生まれています

私はここでは 生まれていませんが 路地の奥にあった 茶室と庭のある 小さな家は

今でも 憶えています




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茶室と庭の写真









by nonkei7332 | 2015-03-25 22:21 | 博多ルーツ | Comments(0)


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聖福寺



博多の町人に 古くから 『 仙厓さん 』と呼ばれ 愛された 和尚がいました

仙厓さんが生きた時代は 江戸の中期 11歳で出家し

40歳になるまで 諸国行脚の旅を続け

兄弟子でもあった 太宰府戒壇院の 太室玄昭(たいしつげんしょう)の勧めで

博多の『 聖福寺 』の第123世住持となります

仙厓さんは 若い時から 非凡であった 書画を多く残していますが

その中に 『 老人六歌仙 』という 詩句があります



1.しわがよる、ほくろができる、腰まがる、頭ははげる、ひげ白くなる。

《 顔に皺がより、肌にほくろができて、腰が曲がり、頭髪は薄くなり、髭が白くなる 》


2.手は振れる、足はよろつく、歯は抜ける、耳は聞こえず、目はうとくなる。 
《 手が震え、脚がよろめき、歯は抜けて、耳が遠くなり、視力が低下する 》


3.身に添うは、頭巾、襟巻、杖、眼鏡、たんぽ、温石(おんじゃく)、しびん、孫の手。

《 身に付けるのは、頭巾や襟巻、杖、老眼鏡、湯たんぽ、かいろ、尿瓶、孫の手 》


4.聞きたがる、死にとむながる、寂しがる、心はまがる、欲ふかくなる。

《 人が話していると間に入って聞きたがり、死を恐れ、寂しがり、心がひねくれ、強欲になる 》


5.くどくなる、気短になる、ぐちになる、出しゃばりたがる、世話やきたがる。 

《 くどくどと、気短になり、愚痴が多くなり、出しゃばりで、人の世話を焼きたがる 》


6.またしても、同じはなしに子を誉める、達者自慢に人は嫌がる。

《 いつも子供の自慢と自分の健康自慢の同じ話を繰り返すので、人に嫌がられる 》



今も昔も 見につまされる 話ばかりです



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仙厓さんの書画



仙厓さんの 逸話のなかで 一番面白いのは 臨終の時の話です

周りの者が 最期に何か一言を と望んだときに 仙厓和尚が ポツリと言った一言です


『 まだ 死にとうない 』


あっけにとられた 周囲の人達の様子が目に見えるようですね

全てを知り尽くした 古老の最期の言葉 いいですね。






by nonkei7332 | 2015-03-21 09:19 | 博多ルーツ | Comments(0)


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博多湾にうかぶ 能古島(左) と 志賀島(右)




淤能碁呂島(おのごろじま) とは 日本神話 や 記紀 に登場する島です
イザナミ イザナギ による 「国生み神話」として知られ
神々が作り出した最初の島だと書かれています
古来より この島は 架空の島だとされたり
いくつかの島が 候補にあがったりしておりますが
未だ 謎だとされておりました



新庄千恵子さん の著書 『 謡曲のなかの九州王朝 』の中で
新庄さんは 謡曲 『淡路』をひもとかれ
『 能古島説 』を展開されておられます
この本を 最近手に入れましたが
もとより 世阿弥を通して 謡曲の謎に関心を寄せていた
私には とても 貴重な一冊の本になりました


《 序文のなかで 新庄さんはこう書かれています 》

『 筑紫舞も、謡曲も、作者は 同一人物、典拠も一つであり、
くぐつの手により 二つに分けたものと知りました。
くぐつ という 特殊な職業人の手に在ったればこそ、
室町の時代まで 官憲の手を逃れて生き延びた歌曲であり、
もし これが権門に在れば、
とうの昔に消されていた運命ではなかったでしょうか。
謡曲は 今では 単なる猿楽、遊芸物として
軽く見られがちの古典ではありますが、
官制の国書や司直の手を経た現存の書物以外、
古代を知る手立てを持たぬ私達には、
謡曲は数少ない文献として価値あるものと私は思うのです。
いっこうに物言わぬ考古学的出土品を待つよりも、
文字あるということは 遥かに納得のゆくものではないでしょうか。』



1919年 お生まれの 新庄智恵子さん
高齢にもかかわらず 84歳の時にこの本を出版され
今年 95歳になられ お元気だと知りました
謡曲(能) を通して 古代史の謎を追いかける者の一人として
頭の下がる思いです



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《 謡曲 『淡路』の中で 老人は イザナミとイザナギの国生みの物語を語ります 》

国土治まり万物出生する所をいざなみと申す。
即ち此の淡路の国を初めとせり。
さればにや二柱の御神の。
おのごろ島と申すも、この一島の事かとよ。
およそ此の島初めて。大八島の国を作り。
紀の国 伊勢志摩、日向並びに。四つの海岸を作り出し。
日神月神蛭子そさのをと申すは。
地神五代の始めにて、皆この島に御出現。
中にも皇孫は。日向の国に。天降り給ひて。
地神第四のほをでみの御子を御出生、げに有難き代々とかや。


【 解 説 】
イザナミとイザナギは まず 淤能碁呂島(おのごろじま)つくります
それを ①淡路島(能古島)といいそれを含めて②紀の国(佐賀県)
③伊勢・志摩(筑紫の糸島のこと : 伊都国と志摩国)
④日向(筑紫の日向(ひなた) 天孫降臨の地) の
四つの国と これに付随する四つの海をつくります
四つの国と四つの海で (大八島 : 大八洲) といっています
それから 日神(アマテラス) 月神(ツクヨミ) 蛭子(事代主命) 素戔嗚(スサノオ) の神々が
地神五代 ( 神武天皇以前にこの国を治めた五注の神の時代 ) の始めに 出現されます
とくに 皇神である アマテラスは 筑紫の日向 に降臨され
彦火火出見尊 【 ニニギとコノハナサクヤヒメの子供 《山幸彦》(豊玉姫の夫)】
もここに生まれ
なんと ありがたき 時代であったのだろう と謡います


《 謡曲の最後に イザナギが登場して こう語ります 》

わたづみのかざしにさせる白玉の。波もてゆへる淡路島。
月春の夜も長閑なる。緑の空も澄み渡る。
天の浮橋の上にして。八島の国を求め得し。
いざなぎの神とは我が事なり。
治まるや。国常たちの始めより。

【 解 説 】
古今和歌集にある 詠み人知らずの歌 を引用します
《 わたつみ の かざしにさせる 白妙の 浪もてゆへる 淡路島山 》
海神(志賀島) の頭にかざる 白い波のように揺れるのは 能古島だといいます
春の月はのどかで 青い空がすみわたっています
天の浮橋 ( 海の中道 )を上にして 八つの国を作った イザナギとは私の事です
国常立尊 (くにのとこたちのかみ) の始めより 平和な国だった

【 海の中道とは】
《 志賀島と九州本土を繋ぐ 全長8kmの巨大砂州 》
【国常立尊 (くにのとこたちのかみ) とは】
《 日本神話の中で あらゆる神に先立って現れた神 ( 国土生成の神 )》



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海の中道から見た 能古島(左) 志賀島(右)



淤能碁呂島(おのごろじま)と呼ばれる 淡路島は

瀬戸内海 に浮かぶ 兵庫県の 淡路島ではなく

礒良の海 ( 博多湾 ) の浮かぶ 能古島 だったと

謡曲 『淡路』は 教えてくれました。








by nonkei7332 | 2015-03-04 18:02 | | Comments(0)

名島神社 本殿
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神功皇后との 繋がり 多き 名島神社 の沖に

かつて 《 妙 見 島 》と呼ばれた 島があった



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名島神社 より 妙見島を見る



この島は 干潮になれば 200m程の距離を 歩いて 渡れた
島の規模は 東西約100m 南北約50m 標高10数mで
ふたこぶの小さな 峰がある
写真には 鳥居があるのを 確認できます
かつては この島には 妙見を祀った神社があって
那の国の宮殿といわれた 名島の 北方の守り神として
その役目を果たしていたのであろうか



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大正時代の妙見島




『 筑前国続風土記附録 』には
【 妙見島は 神功皇后の三韓より 御帰陣の時に 船具を納めし所也。
故に今も 波濤 列しき時は 鉾 及び 矢の根 など 砂中よりでる 】
という記述がなされている



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当時の航空図



天正十五年(1587)秀吉の九州征伐の後
筑前太守に毛利の 小早川隆景(こばやかわたかかげ)が任ぜられた
隆景は それまでの筑前支配の拠点・立花山城へは入らず 名島城を改築して入った
ともかく 名島 が 筑前の政治の中心となったのである
秀吉も淀君を伴って 名島城に滞在したという 記録がある
安土桃山時代 から 江戸時代の始めに 活躍した 博多の豪商 神屋宗湛
が記した『宗湛日記』と呼ばれる 自身が出席した 茶会の記録文がある
この日記によると 天正16年(1588)2月25日に始まった
小早川隆景の名島城普請の見舞いに
翌月6日 日本酒(練り酒)と肴を持って参上し
この島と名島の間の浜辺で酒宴を 開いた
また 同月27日には 隆景主催の茶会がこの島で開催され
質素な 茶席で茶を点てた様子や隆景が上機嫌だったことが 記されているという



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『軍師 官兵衛』
鶴見辰吾 扮する
小早川隆景




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妙見島跡に豊臣秀吉が使ったと言われる井戸が今も残ってる



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名島海岸から 妙見島跡を望む
白いマンションの裏手が妙見島跡



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百年公園側から 妙見島跡を望む


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名島海岸 の 夕日




神功皇后の三韓征伐の時も

豊臣秀吉の朝鮮出兵の時も

この島の 北辰妙見の神は

この国の行く末を じっと見守って くれていたのだろう












by nonkei7332 | 2014-11-09 05:42 | 古代史 | Comments(0)


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秋空の下

龍の国 と呼ばれた 志賀海神社 付近を 散策しました



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海岸を見ると たったひとり 老いた男が とぼとぼと歩いている
絵には なりませんね!

波の音 と 風の神 シナツヒコ の 囁きが
心良く 鼓膜を振るわせてくれました



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志賀島は 島なんですよね 志賀島橋 が掛かっています


遠い日の花火

あれは 40年前の夏の日でした

麦わら帽子をかぶった あの女(ひと)は

まだ 木の橋だった この橋の下から

泳ぐ私を 見て 微笑んでいました



橋の向こうは 博多湾 能古島が見えます

あの頃は 二つの海は まだ しっかり 繋がっていました



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海から 参道に抜ける 途中に 小さな祠がありました

大黒と恵比須 の 海の神
漁に行く前に 海の民が 手を合わせる 姿が 観えます



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柿 の 実 が綺麗です



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この花は何だろう 気になる花 です



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境内の参道に ツワブキの花が さいてました



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なんとなく そんな気がしていたら やっぱり また 現れましたね



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境内 奥 の 木漏れ陽



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一の鳥居付近で 「こんにちは」と声を掛けてくれました

皆んな かっこいい 笑顔が素敵な 若者たち でした





by nonkei7332 | 2014-11-04 11:55 | 博多ルーツ | Comments(0)


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博多の祝い唄 《祝い目出度》は 祝いの席で唄われます。

一、 祝いめでたの 若松さまよ 
若松さまよ
    枝も栄ゆりゃ 葉も繁る

  【エーイーショウエー エーイーショウエー
   ショーエ ショーエ ションガネ
   アレワイサソ エーサーソー エー ションガネ】

一、 こちの座敷は 祝いの座敷 
祝いの座敷
    鶴と亀とが 舞い遊ぶ
  
一、 こちのお庭に お井戸を掘れば 
お井戸を掘れば
    水は若水 金が湧く
   
一、 さても見事な 櫛田の銀杏(ぎなん) 
櫛田の銀杏
    枝も栄ゆりゃ 葉も繁る
    
一、 旦那大黒 ごりょさんな恵比寿
    ごりょさんな恵比寿
      でけた子供は 福の神
    
一、 あんた 百まで わしゃ九十九まで
    わしゃ九十九まで
      ともに白髪の生えるまで
    

さてさて この祝い唄 いったい 誰の事を唄ったものなのかを
私なりに 考えてみました
謎解き キーワードが 五つ

〈若松様って誰?〉
昔 仲哀天皇 と 神功皇后 が熊襲征伐に筑紫国においでになった時
洞の海に差し掛かったころに岡県主熊鰐の奏上によって天皇は外海を、
皇后は内海を進まれることになりました。ところが 洞海湾へ向かう皇后の御船が進まず、 武内宿禰 が漁夫に海中を調べさせたところ「海底に光る石」が見つかって、天皇に献上しました。
ご覧になった天皇は「これは海童(えびす)神の心なり」と仰せになられて、
この霊石をお祀りしたのがこの恵比須神社の始まりなんだそうです。
その後 武内宿禰 はここを訪れて 歌をうたいます
「 海原の 溟たる松の青々たる わが心も若し 」
広く青々とした海を背景に青々と繁った松の木を見ると、私の心も若々しくなりますという意味です、そこから若松という地名が興りました
北九州の 若松恵比須神社の由来と若松の地名の由来から

若松様といえば えびす様のことであり

武内宿禰 のことでもあります


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若松恵比須神社




〈こちの座敷 こちのお庭ってどこ?〉
この二番と三番の歌詞から わかるのが
こちの座敷とこちのお庭が同じ場所にあるということです
その場所で鶴と亀が舞い 井戸から 若水が湧き 金が湧く というわけです
この場所とは 香椎宮 のことです
香椎宮は 仲哀天皇が祀ってありますが
神功皇后と武内宿禰がお側でずっと仕えられておら れました
境内側の 武内宿禰の屋敷の庭には 不老水 と呼ばれる 井戸があり
宿禰は 毎日 この水を汲んでは 天皇と皇后のお世話をしたといいます
天皇に仕える水を 若水 といいます
鶴と亀とが舞い遊ぶとは
天下泰平、国家の長久を祈念して舞う『鶴亀』(つるかめ)という
能の演目 のことで 香椎宮で舞われたのでしょう

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香椎宮



〈櫛田の銀杏〉
恵比須神社 や 武内宿禰 に関係する神社には ほとんどの神社の境内には
銀杏(いちょう)の木が植わっています 何故かは わかりませんが


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櫛田の銀杏


〈旦那大黒 ごりょさん恵比寿〉
東公園の中に 十日恵比須神社があります
祭神は 事代主命(えびす様)・大国主命(大黒様)
大黒様とえびす様は夫婦ともいわれています

さて ここの 十日恵比須神社の由来については
天正19年 (1592年) の話 武内五右衛門という 御老人
神功皇后の三韓征伐の 武内宿禰の末裔で 香椎から博多にでて魚類を扱っていた
それがために 漁の神様である 恵比須様を信仰すること すこぶる篤い老人であった
ある日 朝早く 博多の海岸にでて恵比須様を拝していると 潮先に漂う木片があり
古下駄でも浮いているのかと思って拾い上げてみると 豈図らんや
それは 高さ六、七寸の男女二体の、彩色の施してある恵比須の神像であった
これは 本家出雲の国 三保の関の恵比須堂が 高潮か何かで打ち壊され
その御神体が 遥々漂流して来たものに違いない と深く信じて自宅に持ち帰へり
石の祠を造って祀ったという
その後 崇福寺の北側に 松原恵比須という 小社を建てたが
明治になって 東公園に社殿を移し 十日恵比須神社と合祀して 今日に至るという

武内宿禰 ここにも 現れました


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十日恵比須神社


〈白髪〉
白髪は 白髭ともいえます
白髭といえば 神話の中では 300歳も生きた 武内宿禰 が頭に浮かびますね
明治時代には 日本銀行券の紙幣肖像にもなりました
真っ白なお髭でした

ここでも 武内宿禰 ですね


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小島与一作 武内宿禰




櫛田神社 の 祭神の真ん中におられるのは 「 大幡主大神 」です
謎の神様でした
(詳しくは 当ブログ 「おくしださんの謎」
先日 武内宿禰を祀る 宗像市の 「 織幡神社 」に行って来ましたが
「幡」が重なって 妄想が繋がりそうでした


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織幡宮


「大幡主大神」って 「武内宿禰」?

それとも 織姫で 繋がって …… 瀬織 … ?

謎が 謎を呼ぶ 若松様よ !




by nonkei7332 | 2014-09-27 15:10 | 博多ルーツ | Comments(2)

by ヒサミツ