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《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて



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正面より


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拝殿





博多には 古くからの町である 「綱輪町」(つなわまち) という町があった

いつのまにか 訛って「綱場町」(つなばちょう) と呼ばれ 今日まで 残っているが

町名の由来は その地に鎮座する 『 綱敷天満宮 』からである

この天満宮に謂れは


菅原道真公 が 筑紫の国への 下向の船旅の終わりの時


津の国 (博多) 『 袖の湊 』に上陸された


そこが 海辺だったので


漁師達が 船の友綱を手繰り上げて


蚊取線香のように 巻いて 輪にして


円座をつくり 道真公 をその座に迎えて


休んでいただいたという話からきている


実は 全く 同じ名前 と 由来の 綱敷天満宮 が

摂津須磨の浦 (神戸市東灘区) と

豊前国築城群高塚村 (福岡県築上町高塚) にもある



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沖の濱 の 南岸に 綱場天神の表記があります




博多の町は しばしば 兵火のため 焦土となっていたので 天満宮も何度か場所を変えたが

落ち着いたところが 「袖の湊」の博多本土 と 大水路 (博多中の道) を隔てた

対岸の 沖の濱地の南岸であった ( 鎌倉時代の博多古図 参照)

その後 袖の湊も やがて 陸地となり 今の 博多の地形になると

天満宮は 綱場通りと呼ばれる 往還沿いに 北向きに建てられたようだ

江戸の元禄の頃の大火で焼失したあとは 土居通り沿いに 西向きに建て直されたようで

再建当時の 境内地の広さは 五、六百坪もあって 土俵場があり

松の木や 梅の木や 多くの樹木が繁っていたといわれている

( 明治22年の博多地図 参照 )


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中央あたりに 綱場天神が 土居通り沿いにあります





昭和の戦災で 社殿も楼門も全焼し しばらく 官有地となっていたが

昭和25年 現在地に 百坪ほどの土地の 無償払下げを受けて

戦後の都市計画で出来た 新道沿いに 南向きに 神殿を 造営し

現在に至っている


天満宮の祭祀は 古来より

綱場町 と 下土居町とが共同で 今日まで奉仕されてきたようだ

去年の山笠の時に 訪れたが 「土居流」の 詰所 として 境内が使われていた

「下土居町」と言えば このブログの〈ルーツのタグ〉で紹介したように

我が家の先祖 「小堀家」があった町で 文献によれば

天満宮の四軒となりに「山笠細工人形店」の看板が出ていたようである

おそらく 先祖達が 子供だった頃 天満宮の 境内で 日が暮れるまで

真っ黒になるまで 汚れて 遊んでいたのだろう

目を閉じて 海馬を覗くと 子供達の唄う声が 聞こえてくる



通りゃんせ 通りゃんせ

ここは どこの細道じゃ

天神様の細道じゃ~




by nonkei7332 | 2015-03-26 12:02 | 博多ルーツ | Comments(0)


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正面から



菅原道真公 の 水鏡伝説 が残る 《 水鏡天満宮 》


福岡市 最大の繁華街「天神」の地名の由来となったのも この 水鏡天満宮です



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本殿




こんな 歌がありました


《 水鏡せると伝ふる 天神の みあしのあとに 千鳥 群れ飛ぶ 》

道真公が 博多に上られた折に
四十川 ( 今の薬院新川 ) の水面にご自分のお姿をご覧になったとされ
当初は「容見天神」(すがたみてんじん) とよばれていました
社殿も 現在地ではなく もっと 上流の 今泉付近だったと言われています
当時は 今の 博多とは ずいぶん違う 地形ですが それでも
浜千鳥が飛んでいる 海岸線では あったようですね ( 鎌倉時代の博多古地図参照 )


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「冷泉津」の右上に 容見天神 の表記があります




その後 500年経って 冷泉津と呼ばれた 干潟も 次第に陸地となり

黒田長政が 福岡城を築城の折には 東北の鬼門に当たる

現在の場所に 移転させたといわれています (江戸時代の博多古地図参照)


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左下が 福岡城 右上の川沿いに 赤い色の鳥居があるのが 「水鏡天満宮」




《 氏神 》の定義を 「お宮参り」した神社とすれば

この 水鏡天満宮 が 私の氏神になります

実は 私の両親は 結婚と同時に

水鏡天満宮の社務所の裏にあった 茶室のある 小さな家にすんでいました

(綾杉酒造所跡付近)

というのも 表千家の茶道を教えていた 母の叔母の養子になって 後を継いだからです

綾杉酒造所は 香椎宮そばの 武内家の関係の酒屋さんでしたね

私の想像ですが おそらく この付近には 綺麗な水 があったんでしょうね

そういう訳で 私の兄と姉は 天満宮そばの この家で 生まれています

私はここでは 生まれていませんが 路地の奥にあった 茶室と庭のある 小さな家は

今でも 憶えています




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茶室と庭の写真









by nonkei7332 | 2015-03-25 22:21 | 博多ルーツ | Comments(0)


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聖福寺



博多の町人に 古くから 『 仙厓さん 』と呼ばれ 愛された 和尚がいました
仙厓さんが生きた時代は 江戸の中期 11歳で出家し
40歳になるまで 諸国行脚の旅を続け
兄弟子でもあった 太宰府戒壇院の 太室玄昭(たいしつげんしょう)の勧めで
博多の『 聖福寺 』の第123世住持となります
仙厓さんは 若い時から 非凡であった 書画を多く残していますが
その中に 『 老人六歌仙 』という 詩句があります

1.しわがよる、ほくろができる、腰まがる、頭ははげる、ひげ白くなる。
《 顔に皺がより、肌にほくろができて、腰が曲がり、頭髪は薄くなり、髭が白くなる 》

2.手は振れる、足はよろつく、歯は抜ける、耳は聞こえず、目はうとくなる。 
《 手が震え、脚がよろめき、歯は抜けて、耳が遠くなり、視力が低下する 》

3.身に添うは、頭巾、襟巻、杖、眼鏡、たんぽ、温石(おんじゃく)、しびん、孫の手。
《 身に付けるのは、頭巾や襟巻、杖、老眼鏡、湯たんぽ、かいろ、尿瓶、孫の手 》

4.聞きたがる、死にとむながる、寂しがる、心はまがる、欲ふかくなる。
《 人が話していると間に入って聞きたがり、死を恐れ、寂しがり、心がひねくれ、強欲になる 》

5.くどくなる、気短になる、ぐちになる、出しゃばりたがる、世話やきたがる。 
《 くどくどと、気短になり、愚痴が多くなり、出しゃばりで、人の世話を焼きたがる 》

6.またしても、同じはなしに子を誉める、達者自慢に人は嫌がる。
《 いつも子供の自慢と自分の健康自慢の同じ話を繰り返すので、人に嫌がられる 》


今も昔も 見につまされる 話ばかりです



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仙厓さんの書画



仙厓さんの 逸話のなかで 一番面白いのは 臨終の時の話です
周りの者が 最期に何か一言を と望んだときに 仙厓和尚が ポツリと言った一言です

『 まだ 死にとうない 』

あっけにとられた 周囲の人達の様子が目に見えるようですね
全てを知り尽くした 古老の最期の言葉 いいですね。


by nonkei7332 | 2015-03-21 09:19 | 博多ルーツ | Comments(0)


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博多湾にうかぶ 能古島(左) と 志賀島(右)




淤能碁呂島(おのごろじま) とは 日本神話 や 記紀 に登場する島です
イザナミ イザナギ による 「国生み神話」として知られ
神々が作り出した最初の島だと書かれています
古来より この島は 架空の島だとされたり
いくつかの島が 候補にあがったりしておりますが
未だ 謎だとされておりました



新庄千恵子さん の著書 『 謡曲のなかの九州王朝 』の中で
新庄さんは 謡曲 『淡路』をひもとかれ
『 能古島説 』を展開されておられます
この本を 最近手に入れましたが
もとより 世阿弥を通して 謡曲の謎に関心を寄せていた
私には とても 貴重な一冊の本になりました


《 序文のなかで 新庄さんはこう書かれています 》

『 筑紫舞も、謡曲も、作者は 同一人物、典拠も一つであり、
くぐつの手により 二つに分けたものと知りました。
くぐつ という 特殊な職業人の手に在ったればこそ、
室町の時代まで 官憲の手を逃れて生き延びた歌曲であり、
もし これが権門に在れば、
とうの昔に消されていた運命ではなかったでしょうか。
謡曲は 今では 単なる猿楽、遊芸物として
軽く見られがちの古典ではありますが、
官制の国書や司直の手を経た現存の書物以外、
古代を知る手立てを持たぬ私達には、
謡曲は数少ない文献として価値あるものと私は思うのです。
いっこうに物言わぬ考古学的出土品を待つよりも、
文字あるということは 遥かに納得のゆくものではないでしょうか。』



1919年 お生まれの 新庄智恵子さん
高齢にもかかわらず 84歳の時にこの本を出版され
今年 95歳になられ お元気だと知りました
謡曲(能) を通して 古代史の謎を追いかける者の一人として
頭の下がる思いです



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《 謡曲 『淡路』の中で 老人は イザナミとイザナギの国生みの物語を語ります 》

国土治まり万物出生する所をいざなみと申す。
即ち此の淡路の国を初めとせり。
さればにや二柱の御神の。
おのごろ島と申すも、この一島の事かとよ。
およそ此の島初めて。大八島の国を作り。
紀の国 伊勢志摩、日向並びに。四つの海岸を作り出し。
日神月神蛭子そさのをと申すは。
地神五代の始めにて、皆この島に御出現。
中にも皇孫は。日向の国に。天降り給ひて。
地神第四のほをでみの御子を御出生、げに有難き代々とかや。


【 解 説 】
イザナミとイザナギは まず 淤能碁呂島(おのごろじま)つくります
それを ①淡路島(能古島)といいそれを含めて②紀の国(佐賀県)
③伊勢・志摩(筑紫の糸島のこと : 伊都国と志摩国)
④日向(筑紫の日向(ひなた) 天孫降臨の地) の
四つの国と これに付随する四つの海をつくります
四つの国と四つの海で (大八島 : 大八洲) といっています
それから 日神(アマテラス) 月神(ツクヨミ) 蛭子(事代主命) 素戔嗚(スサノオ) の神々が
地神五代 ( 神武天皇以前にこの国を治めた五注の神の時代 ) の始めに 出現されます
とくに 皇神である アマテラスは 筑紫の日向 に降臨され
彦火火出見尊 【 ニニギとコノハナサクヤヒメの子供 《山幸彦》(豊玉姫の夫)】
もここに生まれ
なんと ありがたき 時代であったのだろう と謡います


《 謡曲の最後に イザナギが登場して こう語ります 》

わたづみのかざしにさせる白玉の。波もてゆへる淡路島。
月春の夜も長閑なる。緑の空も澄み渡る。
天の浮橋の上にして。八島の国を求め得し。
いざなぎの神とは我が事なり。
治まるや。国常たちの始めより。

【 解 説 】
古今和歌集にある 詠み人知らずの歌 を引用します
《 わたつみ の かざしにさせる 白妙の 浪もてゆへる 淡路島山 》
海神(志賀島) の頭にかざる 白い波のように揺れるのは 能古島だといいます
春の月はのどかで 青い空がすみわたっています
天の浮橋 ( 海の中道 )を上にして 八つの国を作った イザナギとは私の事です
国常立尊 (くにのとこたちのかみ) の始めより 平和な国だった

【 海の中道とは】
《 志賀島と九州本土を繋ぐ 全長8kmの巨大砂州 》
【国常立尊 (くにのとこたちのかみ) とは】
《 日本神話の中で あらゆる神に先立って現れた神 ( 国土生成の神 )》



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海の中道から見た 能古島(左) 志賀島(右)



淤能碁呂島(おのごろじま)と呼ばれる 淡路島は

瀬戸内海 に浮かぶ 兵庫県の 淡路島ではなく

礒良の海 ( 博多湾 ) の浮かぶ 能古島 だったと

謡曲 『淡路』は 教えてくれました。








by nonkei7332 | 2015-03-04 18:02 | | Comments(0)

名島神社 本殿
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神功皇后との 繋がり 多き 名島神社 の沖に

かつて 《 妙 見 島 》と呼ばれた 島があった



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名島神社 より 妙見島を見る



この島は 干潮になれば 200m程の距離を 歩いて 渡れた
島の規模は 東西約100m 南北約50m 標高10数mで
ふたこぶの小さな 峰がある
写真には 鳥居があるのを 確認できます
かつては この島には 妙見を祀った神社があって
那の国の宮殿といわれた 名島の 北方の守り神として
その役目を果たしていたのであろうか



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大正時代の妙見島




『 筑前国続風土記附録 』には
【 妙見島は 神功皇后の三韓より 御帰陣の時に 船具を納めし所也。
故に今も 波濤 列しき時は 鉾 及び 矢の根 など 砂中よりでる 】
という記述がなされている



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当時の航空図



天正十五年(1587)秀吉の九州征伐の後
筑前太守に毛利の 小早川隆景(こばやかわたかかげ)が任ぜられた
隆景は それまでの筑前支配の拠点・立花山城へは入らず 名島城を改築して入った
ともかく 名島 が 筑前の政治の中心となったのである
秀吉も淀君を伴って 名島城に滞在したという 記録がある
安土桃山時代 から 江戸時代の始めに 活躍した 博多の豪商 神屋宗湛
が記した『宗湛日記』と呼ばれる 自身が出席した 茶会の記録文がある
この日記によると 天正16年(1588)2月25日に始まった
小早川隆景の名島城普請の見舞いに
翌月6日 日本酒(練り酒)と肴を持って参上し
この島と名島の間の浜辺で酒宴を 開いた
また 同月27日には 隆景主催の茶会がこの島で開催され
質素な 茶席で茶を点てた様子や隆景が上機嫌だったことが 記されているという



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『軍師 官兵衛』
鶴見辰吾 扮する
小早川隆景




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妙見島跡に豊臣秀吉が使ったと言われる井戸が今も残ってる



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名島海岸から 妙見島跡を望む
白いマンションの裏手が妙見島跡



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百年公園側から 妙見島跡を望む


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名島海岸 の 夕日




神功皇后の三韓征伐の時も

豊臣秀吉の朝鮮出兵の時も

この島の 北辰妙見の神は

この国の行く末を じっと見守って くれていたのだろう












by nonkei7332 | 2014-11-09 05:42 | 古代史 | Comments(0)


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秋空の下

龍の国 と呼ばれた 志賀海神社 付近を 散策しました



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海岸を見ると たったひとり 老いた男が とぼとぼと歩いている
絵には なりませんね!

波の音 と 風の神 シナツヒコ の 囁きが
心良く 鼓膜を振るわせてくれました



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志賀島は 島なんですよね 志賀島橋 が掛かっています


遠い日の花火

あれは 40年前の夏の日でした

麦わら帽子をかぶった あの女(ひと)は

まだ 木の橋だった この橋の下から

泳ぐ私を 見て 微笑んでいました



橋の向こうは 博多湾 能古島が見えます

あの頃は 二つの海は まだ しっかり 繋がっていました



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海から 参道に抜ける 途中に 小さな祠がありました

大黒と恵比須 の 海の神
漁に行く前に 海の民が 手を合わせる 姿が 観えます



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柿 の 実 が綺麗です



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この花は何だろう 気になる花 です



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境内の参道に ツワブキの花が さいてました



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なんとなく そんな気がしていたら やっぱり また 現れましたね



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境内 奥 の 木漏れ陽



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一の鳥居付近で 「こんにちは」と声を掛けてくれました

皆んな かっこいい 笑顔が素敵な 若者たち でした





by nonkei7332 | 2014-11-04 11:55 | 博多ルーツ | Comments(0)


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博多の祝い唄 《祝い目出度》は 祝いの席で唄われます。

一、 祝いめでたの 若松さまよ 
若松さまよ
    枝も栄ゆりゃ 葉も繁る

  【エーイーショウエー エーイーショウエー
   ショーエ ショーエ ションガネ
   アレワイサソ エーサーソー エー ションガネ】

一、 こちの座敷は 祝いの座敷 
祝いの座敷
    鶴と亀とが 舞い遊ぶ
  
一、 こちのお庭に お井戸を掘れば 
お井戸を掘れば
    水は若水 金が湧く
   
一、 さても見事な 櫛田の銀杏(ぎなん) 
櫛田の銀杏
    枝も栄ゆりゃ 葉も繁る
    
一、 旦那大黒 ごりょさんな恵比寿
    ごりょさんな恵比寿
      でけた子供は 福の神
    
一、 あんた 百まで わしゃ九十九まで
    わしゃ九十九まで
      ともに白髪の生えるまで
    

さてさて この祝い唄 いったい 誰の事を唄ったものなのかを
私なりに 考えてみました
謎解き キーワードが 五つ

〈若松様って誰?〉
昔 仲哀天皇 と 神功皇后 が熊襲征伐に筑紫国においでになった時
洞の海に差し掛かったころに岡県主熊鰐の奏上によって天皇は外海を、
皇后は内海を進まれることになりました。ところが 洞海湾へ向かう皇后の御船が進まず、 武内宿禰 が漁夫に海中を調べさせたところ「海底に光る石」が見つかって、天皇に献上しました。
ご覧になった天皇は「これは海童(えびす)神の心なり」と仰せになられて、
この霊石をお祀りしたのがこの恵比須神社の始まりなんだそうです。
その後 武内宿禰 はここを訪れて 歌をうたいます
「 海原の 溟たる松の青々たる わが心も若し 」
広く青々とした海を背景に青々と繁った松の木を見ると、私の心も若々しくなりますという意味です、そこから若松という地名が興りました
北九州の 若松恵比須神社の由来と若松の地名の由来から

若松様といえば えびす様のことであり

武内宿禰 のことでもあります


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若松恵比須神社




〈こちの座敷 こちのお庭ってどこ?〉
この二番と三番の歌詞から わかるのが
こちの座敷とこちのお庭が同じ場所にあるということです
その場所で鶴と亀が舞い 井戸から 若水が湧き 金が湧く というわけです
この場所とは 香椎宮 のことです
香椎宮は 仲哀天皇が祀ってありますが
神功皇后と武内宿禰がお側でずっと仕えられておら れました
境内側の 武内宿禰の屋敷の庭には 不老水 と呼ばれる 井戸があり
宿禰は 毎日 この水を汲んでは 天皇と皇后のお世話をしたといいます
天皇に仕える水を 若水 といいます
鶴と亀とが舞い遊ぶとは
天下泰平、国家の長久を祈念して舞う『鶴亀』(つるかめ)という
能の演目 のことで 香椎宮で舞われたのでしょう

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香椎宮



〈櫛田の銀杏〉
恵比須神社 や 武内宿禰 に関係する神社には ほとんどの神社の境内には
銀杏(いちょう)の木が植わっています 何故かは わかりませんが


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櫛田の銀杏


〈旦那大黒 ごりょさん恵比寿〉
東公園の中に 十日恵比須神社があります
祭神は 事代主命(えびす様)・大国主命(大黒様)
大黒様とえびす様は夫婦ともいわれています

さて ここの 十日恵比須神社の由来については
天正19年 (1592年) の話 武内五右衛門という 御老人
神功皇后の三韓征伐の 武内宿禰の末裔で 香椎から博多にでて魚類を扱っていた
それがために 漁の神様である 恵比須様を信仰すること すこぶる篤い老人であった
ある日 朝早く 博多の海岸にでて恵比須様を拝していると 潮先に漂う木片があり
古下駄でも浮いているのかと思って拾い上げてみると 豈図らんや
それは 高さ六、七寸の男女二体の、彩色の施してある恵比須の神像であった
これは 本家出雲の国 三保の関の恵比須堂が 高潮か何かで打ち壊され
その御神体が 遥々漂流して来たものに違いない と深く信じて自宅に持ち帰へり
石の祠を造って祀ったという
その後 崇福寺の北側に 松原恵比須という 小社を建てたが
明治になって 東公園に社殿を移し 十日恵比須神社と合祀して 今日に至るという

武内宿禰 ここにも 現れました


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十日恵比須神社


〈白髪〉
白髪は 白髭ともいえます
白髭といえば 神話の中では 300歳も生きた 武内宿禰 が頭に浮かびますね
明治時代には 日本銀行券の紙幣肖像にもなりました
真っ白なお髭でした

ここでも 武内宿禰 ですね


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小島与一作 武内宿禰




櫛田神社 の 祭神の真ん中におられるのは 「 大幡主大神 」です
謎の神様でした
(詳しくは 当ブログ 「おくしださんの謎」
先日 武内宿禰を祀る 宗像市の 「 織幡神社 」に行って来ましたが
「幡」が重なって 妄想が繋がりそうでした


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織幡宮


「大幡主大神」って 「武内宿禰」?

それとも 織姫で 繋がって …… 瀬織 … ?

謎が 謎を呼ぶ 若松様よ !




by nonkei7332 | 2014-09-27 15:10 | 博多ルーツ | Comments(2)


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昔から博多の人々に「おくしださん」と呼ばれて親しまれている
「櫛田神社」は 謎多き 神社である

創建は 天平宝字元年だから 奈良時代の757年

祭神は 正殿(中殿)が 『大幡主大神』(おおはたぬしのみこと)
別名『大若子命』
天御中主尊十八世の孫・彦久良伊命の御子であり
倭姫(やまとひめの)命が天照大神を伊勢神宮に鎮座したとき,
南伊勢(三重県)の豪族として協力したため
神国造(かみのくにのみやつこ)と神宮の大神主に任じられた
垂仁天皇から 越の国(北陸)の賊徒阿彦を討伐することを命ぜられ
大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったので大幡主と呼ばれている
『櫛田明神』とよばれることもある

左殿は 『天照皇大神』(アマテラス)
大幡主大神がその側を離れずに奉仕したことから
同じ時期に勧請されたとある

右殿は 『素戔嗚主命』(スサノオ)
藤原純友の乱 平定に際し
京都祇園の八坂神社に祈願したことから その分霊を祀ったのが
天慶四年(941年)だから 創建後 184年後のことである

さて 問題は 左右に 「アマテラス」と「スサノオ」を従えている
「大幡主大神」とは 一体 どんな神様なのかということだ

(アマテラス)( ・・・・) (スサノオ)

まん中の( )の中に神様の 名前を入れなさい との問いに
答えは 果たして ?

(イザナギ)?
〈解説〉アマテラス と スサノオを 作った神様だから

(ツキヨミ)?
〈解説〉 イザナギの作った神様が この三人組だから


話は 変わるが 博多には 社家町という町があった
今の冷泉町の 櫛田表参道の道沿いにあったようだ
社家とは神社に仕える 神職のことで
ここには 代々 櫛田神社に奉仕してきた人々が住んでいた
〈祝部家 〉〈天野家 〉〈八尋家 〉〈梅崎家 〉 この四社家だ
大幡主命に奉仕しているのが 〈祝部家 〉
天照大神に奉仕してきたのが 〈天野家〉
素戔嗚主大神に奉仕してきたのが 〈八尋家〉
巫女で奉仕してきたのが 〈梅崎家〉

この中で 祝部家の祖先は 福津市の『縫殿神社』に祀られている
応神天皇の時代に呉の国から招かれた 四人の織姫と
深い関係があると伝えられている


縫殿神社の説明によれば

応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から
兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)
の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。
この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、
中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。
この神社は日本最初の裁縫の神様であり、
この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます


祝部家は 代々 男性は 櫛田明神の神主として奉仕してきて
女性は 裁縫技術に関する仕事に携わってきたという
祝部家出身の 祝部安子は 明治7年頃より
近くの女性を対象に裁縫塾をひらいていたが
明治42年には私立櫛田女学校が認可を受けこの地に校舎を置いた
その後 櫛田裁縫学校となり 多くの博多の女性達がここで裁縫を学んだ
今は その跡地に 〈博多町家ふるさと館〉ができている

「祝部家」は 秦氏の末裔にちがいないだるう
ちなみに伊勢神宮に代々神官として務めて来た
「度会氏」も秦氏の末裔なようだ

これは あくまでも 妄想だが
櫛田神社の主祭神は 「大幡主命 」
以前があって 秦氏繋がりで
それは 「月読命」であったのではないだろうか
と 私は思いたいが・・・??

「おくしださん」の謎は 深まるばかりだ





by nonkei7332 | 2014-07-02 11:55 | 博多ルーツ | Comments(0)

博多湾に浮かぶ 能古島に
韓紅(からくれない)の夕陽が落ちていく

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      つきせぬ波のざわめく声に 今夜は眠れそうにない


      浜辺におりて裸足になれば 届かぬ波のもどかしさ


僕の声が 君に届いたら すてきなのに


 



井上陽水は この島を片想いの島にしてしまったが
多くの若者達 は この島で一日を遊び
そして 散りゆく花を惜しむように
短い春の中で 恋に落ちていった




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《 沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の防人 早く告げこそ 》
(万葉集16巻3866)

〈訳〉: 沖に棲む鳥の鴨という名の船が帰って来たら、也良の崎守りよ、
早く知らせておくれ。

也良の崎守りとは 能古島の東端の 也良岬にあった
防人(さきもり)の駐屯地のことである
この歌は、
対馬への防人の食料運搬中に遭難した志賀島の船乗り・荒雄の死を悲しみ
筑前守 山上憶良がつくった 歌だといわれている



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《 風吹けば 沖つ白波 恐みと 能許の亭に 数多夜ぞ寝る 》
(万葉集15巻3673)

〈訳〉 : 沖では風が吹いて白波がたち、この白波が恐ろしく能許の泊りに何日も
泊まっている

天平八年(736)、新羅を目指した遣新羅使一行は、
筑紫館(後の鴻臚館)を出発したが 荒れ狂う海の前に
韓亭(別称能許の亭、現在の唐泊)で
何日も風待ちの不安な夜を過ごしたという


写真は
香椎かもめ大橋の上から 能古島を写した 夕暮れの海三景である

わたつみ(海神)の海に横たわる この島はいつも美しい
多くの悲しみと祈りを 紅く染めて
やがて 磯良の海は静かに 夜の帳(とばり)に下りていく








by nonkei7332 | 2014-03-24 12:36 | 万葉集 | Comments(0)
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《 我がやどに 盛りに咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも 》
(万葉集五巻851)

(訳) : 我が家の、今を盛りと咲いている梅の花が散りそうです。
見てくれる人がいればいいのに


梅は別名を 好文木 とも 春待草 とも言われ
春を告げる花である
花見といえば 桜 だが
それも 江戸時代以降の話であって
奈良時代以前は 花といえば 梅の事だったらしい


大伴旅人(おおとものたびと)
万葉集の中で 赴任地の太宰府の梅を多く詠んだ
菅公がまだ太宰府にくる前の話だから 飛梅以前より
ここは 梅の名所だったのだろう


《 梅の花 夢に語らく みやびたる 花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ 》
(万葉集五巻852)

(訳) : 梅の花が夢に出てきて語ることには
「みやびな花だと(私自身は)思っています
ですから、酒に浮かべてくださいな」と。


夢に出てきた梅の花は 遠い都に住む妻なのだろうか
遠い地に住む 酒好きな主人を心配しつつも
梅の花を 私と想って 酒の器に浮かべて飲んでください
こんな 夢を見た 単身赴任族の男たちの夜は哀しい
酒に浮かんだ梅の花は 涙でかすみ
ついつい 深酒してしまうのだろう
こんな 風情を持ち合わせた 男や女は
もう 今の世には 居ないのかも しれないが…

そんな雅(みやび)な 夢を見てみたいものだ




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名づけ親は、第39代太宰府天満宮宮司・西高辻信良氏。
名前の由来は、万葉集の代表的な歌人・大伴旅人(おおとものたびと) 。
大宰帥(だざいのそち)として大宰府に赴任した旅人は、
この地で多くの歌を残しとされています。
また旅人は"たびびと" と読めるため、
太宰府を旅する列車という意味も込められています。
(西鉄ホームページより)



by nonkei7332 | 2014-03-15 07:59 | 万葉集 | Comments(0)