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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて


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博多祇園山笠 の最終日
『 追い山 』は
午前4時59分 一番山笠 の櫛田入りで 始まり
七番山笠 が 廻り止め に到着するのが 午前6時頃
疲れ切った男たちの顔に笑みが戻ると
櫛田神社の 能舞台では 厳かに 最後の神事
『 鎮めの能 』(しずめののう) が はじまります



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この 由緒ある 能楽の奉納が始まったのが
寛永8年(1668年) だといわれています
朝倉甘木の能楽師 梅津太夫 によって 演ぜられました
その後 たびたび 中絶 再興 を繰り返してきましたが
今では 宮総代がその任にあたっておられます

さて ここで 奉納される 能の演目は 『 翁 』です
他の演目が 奉納されることは ありません

『 翁 』は多くの 能の演目の中にあって
特殊な位置をしめています
「 翁は能にして能にあらず 」とよくいわれます
そこには 物語というものはなく ある意味での儀式なのです
五穀豊穣を祈る 農民行事が起源だと いわれています
舞台で 舞うのは 「翁」「千歳」「三番叟」三人の役者です
「翁」は 村の長老 「千歳」は 村の若者
「三番叟」は 村の農民達 を象徴しています
面 を持った 千歳 を先頭に
翁 三番叟 囃子方 が舞台に登場します
まず 千歳 が 足を踏みながら
まるで 大地の神を 呼び出すような
露払いと呼ばれる 舞を舞います
そして その間に 右奥に座した 翁 は
舞台の上で 厳かに 白い 翁面をつけ
村の長老から 翁の神へと 変身します
次に 翁 が舞います
舞が終わり 面を外した 翁と千歳は 舞台から退出します
三番叟 が登場します
舞台は一転 アップテンポな 囃子が 舞台に流れ
黒い面をつけた 三番叟 は 鈴を鳴らしながら 舞います
それは まるで 神を迎えた 農民達 の喜びの舞いのようです


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翁面


老翁の神 とは いったい 誰でしょうか

櫛田神社に縁深き 若松様とよばれる
武内宿禰 の化身 でしょうか?

それとも 山幸彦を竜宮へ案内した
塩土老翁(しおつちのおきな)?

それとも 村の守り神 猿田彦神 ?



「 鎮めの能 」は 山笠を締めくくる 最後の神事でした

博多の町に 祭りの後の 静けさと

暑い 暑い 夏がやってきます






by nonkei7332 | 2015-07-16 07:04 | | Comments(0)


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7月10日 の朝

博多の町の各流の山小屋に納められた 舁き山が
いっせいに それぞれの町内で動き始めるのが
「流れ舁き」であり
これから 12日 の 「追い山ならし」
15日 の 「追い山」と
祭りは ピークを迎えます


山笠の起源とは いったい なんだったのでしょう

全国では 1500件 近い 山鉾 の祭りがあるとされるなかで
山笠と呼ばれる 山鉾は博多を中心とした 北九州に多いのです
そもそも 山鉾のはじまりは 京都の祇園御霊会 (祇園会) だとされます
古来 京都では 川がよく氾濫する土地だったようで
その度に 疫病がおこり 多くの人が 亡くなっていました
祇園会は 都を 襲う 疫病を鎮める祭事 と スサノオ (牛頭天王) 信仰が
習合し 慣例化した 祭礼だったのです

人々は 疫病の 鎮静を願い 山 や 鉾 と呼ばれる 作り物をつくり
厄神を 移しかえ 依り代 ( よりしろ ) として 川に流したとされます
依り代 を 川に流すといえば
ひな祭り の 起源である 流し雛 も
子供の無病息災を願い 人の型をした和紙を
川に流して 穢れを祓ったもので
やがて 人型( ヒトガタ ) は 人形 と 呼ばれるようになったといいます
山鉾 山笠 に多くの人形が使われるのも
依り代 の起源に因るものでしょう
川に流す という行為は
博多の町 の 「 流 」の呼称の起源のようでもあります
旗 や 川 の数え方の単位も 流 といいます
山笠の 舁き手に向かって
水を掛ける 「勢い水」(きおいみず) も
本来は 「浄い水」 から きたのではないかと 考えられます
それは 水によって 穢れを祓う 行為であって
決して 舁き手の身体を冷やす為だけでは なかったのだと思います
雨もまたしかりです
博多の梅雨明けは 平均すると 7月19日頃だと言われていますから
山笠期間は 梅雨の真っ只中です 雨もまた 浄めの雨なのでしょうか


すべての 穢れを 水で 祓う 女神といえば
「 瀬 織 津 姫 」ですね
歴史の闇に消された 女神といわれている 謎の女神です
瀬織津姫を祀る 福津市の〈 波折神社 〉も 宗像市の 〈 皐月宮 〉も
川のほとり 川口 に 鎮座しています
川 ( 天の川 ) のほとりにいる 女神といえば
棚機 (たなばた) の 織姫 もまた 瀬織津姫 だとも いわれています
古事記の神産み神話 では イザナギが 黄泉の穢れを 禊いで
アマテラス( 太陽の神) ツキヨミ ( 月の神) スサノオ ( 海の神) の
三貴神 をつくったといわれていますが
ツキヨミ は すべての 生を産む 夜の神 であり 女神 であり
その姿は 瀬織津姫 だとも言われています

櫛田神社 の 主祭神は 大幡大神 ( 櫛田明神 ) という神様 です
よく 櫛稲田姫 と 混同されていますが
櫛稲田姫 と 櫛田明神 とは 全く 別の神様です
実は この神様 も 謎多き神様で 言い伝えによると
その昔は 女性の神様であったという 話が あるそうです


勇壮な 男の祭りとして 知られる 博多祇園山笠

しかし その奥には

男達 の 平和への祈りを

そっと見守る 龍神 ( 女神 ) が いるという

私の妄想は どこまでも 拡がっていくのでした







by nonkei7332 | 2015-07-11 19:13 | 古代史 | Comments(0)


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『 半夏生 』( はんげしょう )

別名 を 『 半化粧 』 とも
片白草 』( かたしろぐさ ) とも いいます
ドクダミ科 の 植物で
この時期 白い 紐状の 花が咲かせます
葉っぱ の半分が ペンキを塗ったように 白くなりますが
夏の盛りを過ぎると
また 元の 緑の葉に もどっていくという
ファンタスティック な 変身をするので 有名です


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田植え が 終わった 三連水車



今年も 早くも 半分過ぎてしまいました

夏至から 数えて 十一日が過ぎると
七十二侯 (しちじゅうにこう)

・・・ 二十四節気(にじゅうしせっき)は
半月毎の季節の変化を示しますが
これをさらに約五日おきに分けて
気象の動きや動植物の変化を知らせる
日本独自の暦です ・・・

の ひとつ
半夏生 ( はんげしょう) と なります

今年は 7月 2日 がその日 に当たります
満月 の日です
昔から 農家では この日までに 田植えを終えて
七夕までの 五日間を休みを取ると されています
ちなみに 気候 という漢字がありますが
〈二十四節気 〉と 〈七十二侯 〉の
最後の漢字を 合わせた 言葉だといいます
日本人の自然と共存する 生活文化 がよく表れています




明日から 七月 です
博多では 祇園山笠の行事が スタートします
各流 では 早朝 から 笹竹や竹串御幣を立てて 注連縄を張り
櫛田神社の神職が 祝詞を奏上し お祓いをする
『 注連下ろし』の神事 が行われます
また 『 ご神入れ 』といって
飾り山笠が この日 一般に公開されますが
櫛田神社 の 飾り山だけは
一日早い 今日 神職がお祓いをして 公開されます
夕方には 今年の当番町が 各流れに 先立ち
筥崎浜で 『 当番町お汐井とり 』をします
全流れの お汐井とり は 9日です
ちなみに 今年の当番町は『 大黒流 』だそうです


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《 締め込み 》に 《 法被 》姿の 男達が

町ん中を そうつきあるきだすと

博多の町は 祭り本番です







by nonkei7332 | 2015-06-30 11:31 | 日記 | Comments(0)


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貝原益軒



福岡藩の儒学者 『 貝 原 益 軒 』

《 筑前国続風土記 》などの 歴史書 の 他に
健康(養生)についての指南書
養 生 訓 』(ようじょうくん)を 残した
正徳2年(1712年) 益軒 83歳 の 著作である


第8巻 「 老いを養う 」 (中村学園大学 貝原益軒アーカイブ) より


老ての後は、一日を以て十日として日々に楽しむべし。

常に日をおしみて、一日もあだにくらすべからず。

世のなかの人のありさま、わが心にかなはずとも、凡人なれば、
さこそあらめ、と思ひて、わが子弟をはじめ、
人の過悪を、なだめ、ゆるして、とがむべからず。

いかり、うらむべからず。

又、わが身不幸にして福うすく、人われに対して横逆なるも、
うき世のならひ、かくこそあらめ、と思いひ、
天命をやすんじて、うれふべからず。

つねに楽しみて日を送るべし。

人をうらみ、いかり、身をうれひなげきて、心をくるしめ、
楽しまずして、むなしく過ぬるは、愚かなりと云べし。

たとひ家まどしく、幸(さいわい)なくしても、うへて死ぬとも、
死ぬる時までは、
楽しみて過すべし。

貧しきとて、人にむさぼりもとめ、不義にして命をおしむべからず。

年老ては、わが心の楽(たのしみ)の外、
万端、心にさしはさむべからず。

時にしたがひ、自楽しむべし。

自楽むは世俗の楽に非(あら)ず。

只、心にもとよりある楽を楽しみ、
胸中に一物一事のわづらひなく、
天地四時、
山川の好景、
草木の欣栄(きんえい)、
是又、楽しむべし。



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益軒 の墓がある 金龍寺 (福岡市中央区)







by nonkei7332 | 2015-06-29 19:56 | 日記 | Comments(0)


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井尻橋 から 背振山を望む


博多の町は 二つの川にはさまれている

ひとつは 東を流れる 宝満山 を源とする 三笠川 (石堂川)

もうひとつは 西を流れる 背振山 を源とする 那珂川

今日は 那珂川 の話


《 筑前国風土記 》( 貝原益軒著) には


『 日本紀には、儺河 ( なかがわ ) と書り

此川は、その源 早良郡 背振山の麓 又 此郡、五箇山の奥 大野より

流出、那珂郡中を流れて 博多の西 福岡の東に至りて

道程 六里をへて 海に入る。』


( 那珂川は 背振山を水源にして 那珂川町 春日市 福岡市 を通って

博多湾に注ぐ 延長35㎞の 河川 )



私は 5歳の時から 福岡市の南部 (南区) 《 井 尻 》の町に住んでいた

西鉄大牟田線で福岡から 5番目の駅になる 井尻 は

今でこそ 住宅のひしめく郊外住宅地になっているが

50年前は 沿線一面 は 田んぼが 広がっていた

大橋駅 を過ぎると 田んぼの中から 川が見えた この川が 那珂川

鉄橋を渡ると 間もなく 井尻駅に着く 右手の往還道路に 並行して

狭い路地の 井尻商店街があり 左手には 踏切を渡って すぐに

映画にもなった『 しいのみ学園」という 知的障害者の施設がある


《 しいのみ学園は 1954年 創立 。

創立者は 〈 障害者教育の先駆者 〉といわれる

『 曻地三郎先生 』(1906〜2013) 》



小学校には 今みたいに プールなど無かったころで

夏休みになると 私達は 毎日のように 那珂川 の鉄橋付近で

身体が冷えて 唇が 紫色に変わるまで 泳いでいた

当時の 那珂川は 川底は 白砂で 水も澄んでいたし 綺麗だったのだ

真っ黒に日焼けした顔で 私達は川底に 潜っては 魚を捕まえたり

橋の上から 川に飛び込んだり まるで 河童 のように 遊んでいた


《 井尻 》という地名の由来については調べてみると

那珂川 の川沿いには 〈 井尻 〉という地名が 二つある事がわかった

ひとつは 福岡市南区の 井尻であり

もうひとつは 那珂川町 別所 に井尻地区という場所がある



《 筑前国風土記 》には


『 この郡には ふたつの 井尻村がある』


と書かれている


このふたつの井尻に共通しているいる事といえば 共に川沿いにあり

すぐそばに 《 井堰 》(いせき) がある事だ

南区の井尻のそばには番托井堰 (ばんたくいせき)』があり

那珂川町別所には 日本最古の用水路といわれる

「裂田の溝」(さくたのうなで) がある

その 取水口の すぐ上流にある

井尻井堰 (いじりいせき)』がそれである



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番托井堰 (ばんたくいせき)



《 儺の国の星拾遺 》133P で

真鍋大覚 さん はこう書かれている



『 水を祈る氏族、即ち 《みくまりのかみ》は近東に出る。

ISIS ( イシス ) ISRAEL (イスリル) がこれである。

倭人は伝えて 《いしり》と名付け、

もって 水勢の多寡と水温の上下を治す 女神の神とした。

今に残る 井尻 の郷名は その祠が安置されるところであった。』


また 145P には


『 かつて エジプトの祖神なる イシス は ナイル川の灌水に

全身の叡智をそそいだ 女人であったと 伝えられる。

倭人は「ゐがわのやまのかみ」なる 女神を

井出、唐門 のところに必ず祭った。

今の 井尻 なる 郷名が まさにそれであった。』



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エジプト神話 の イシリ女神




《 みくまりのかみ 》とは ウイック によれば


みくまりのかみ ( 水 分 神 ) とは 神名の通り、

水の分配を司る神である。

「くまり」は「配り(くばり)」の意で、

水源地 や 水路の分水点などに祀られる。

日本神話 では 神産みの段で

ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ 両神の子として

天水分神 (あめのみくまりのかみ)

国水分神 (くにのみくまりのかみ) が登場する

水に関わる神ということで 祈雨 の対象ともされ

また、田の神 や 水源地に祀られるものは 山の神 とも結びついた

後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、

子供の守護神、子授け安産の神としても信仰されるようなった 』



思いもしない 井尻 の地名 が エジプト神話 に 繋がることになったが

水分神 (みくまりのかみ) が祀られた 地 を井尻 といったのだろう



那珂川町の井尻地区では 毎年5月31日

井出あげ 』という神事 が今も 行われている

区の人達が 水門を清掃して 御神酒を注ぎ

水の恵みに感謝し 安全を祈願。

その後 水門西側の高台にある 五穀神に

五穀豊穣と田植えの無事をいのるという。



私が 少年期 青年期 を過ごした 井尻 の町には

こんな 地名の由来が あった



梅雨の晴れ間 今日は 真夏日に なりそうだ


田植えも 終わった 農家の人達の


ほっとした 顔が浮かんでくる








by nonkei7332 | 2015-06-29 16:38 | 古代史 | Comments(0)


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博多祇園山笠 飾り山 『 博多の豪商 神屋宗湛 』




博多商人の 三傑 と言えば

〈神屋宗湛〉〈島井宗室〉〈大賀宗九 〉

そのなかでも 博多町人にとって 最も親しみのある 豪商こそ

《 神 屋 宗 湛 》でしょう


神屋家の祖先は 鎌倉幕府の御家人で

宗像の大宮司 宗像氏貞 に仕えた 神人(神職) でした

いわゆる 物部氏の末裔の もののふ だったようです


宗湛は 天文20年 (1551年) 時は 室町時代の終わりに

神屋紹策 の子として 博多に生まれています

幼名は 善四郎貞清

中世の博多は 常に戦乱に巻き込まれ

町は何度も荒廃しました

永禄12年(1570年) 毛利 と 大友 の両軍が

博多で激戦をした時は

宗湛一家は 肥前唐津に難を逃れて移り住みます

宗湛19歳の時でした

( この時 山笠人形の小堀家も 唐津に難を逃れています )


宗湛の祖父 神屋寿貞 は 明国で 冶金術を学び

石見銀山を発掘して 銀鉱の精錬術を成功させた

偉大な 商人でした

その血をひいた 宗湛は 唐津における 17年間

父 紹策の指導の元

海賊松浦党の援護もあり 海外貿易の商才を磨く かたわら

茶道の修行にも励み その道にも 精通したとされます


天正13年(1586年) 宗湛 35歳の時 上洛の志を果たします

茶道の名人であった 京都大徳寺の住職 古渓和尚の弟子になり

宗湛 の名前を 号するようになります

天正15年 堺の茶人 津田宗久 の手引きで

豊臣秀吉と 大阪城の茶会で 謁見します

秀吉は 「筑紫坊主」と宗湛のことを呼んだといいます

その時 宗湛は 島津氏に焼き払われた

博多の町の 再興を願い出たのです

宗湛の先見は 見事に的を得たようです

その年 秀吉は 九州征伐の軍を起こし 自ら 出兵します

九州に戻った 宗湛の活躍は 目を見張るものがありました

兵糧 や 秣(まぐさ: 軍馬の餌) の供給を一手に引き受けたり

秀吉のそばで 戦地に赴き すべての 雑務をこなしたのでした


島津征伐を終えた 秀吉は 博多に戻り 箱崎に本陣を置き

宗湛は 諸大名や千利休も呼んで

盛大な茶会を 催したりすることで

さらに 秀吉の信頼を 得たようです

そして それは 秀吉の 願望だった

朝鮮出兵の補給拠点としての

博多の町の 再興を決意させることにも 繋がっていきます

こうした 政商 神屋宗湛 の 機敏な 行動と働きは

秀吉の 朝鮮出兵の時期を早めたとも 言われているのです


博多の町を 再興させた 豪商 神屋宗湛

秀吉亡き後も 黒田家の 御用職人として 博多に住みつき

博多の人々に愛された 宗湛 は 83歳の長寿を全うしました



宗 湛 と 秀 吉

もののふ の血を引き継いだ

博多那の津の商人 と 尾張の猿楽師のせがれ の 出会いは

ひとつの 歴史を 後世に残したのでした







by nonkei7332 | 2015-05-18 21:31 | ルーツ | Comments(0)



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小堀流山笠人形の直系といわれている
人形師 白水英章さん と 山笠人形
(西日本新聞)




木偶の坊 (でくのぼう) は 《語源辞典によれば》


「 平安時代の 「くぐつ」という木彫りの操り人形のことである

木偶の坊が 役立たずの意味になった由来は

木の人形を無能な人に喩えたことによるものなのか

人形が手足のない 木の棒のようなものであったことからされる

ただし 「でくのぼう」の「ぼう」は親しみや軽い嘲りを表す

接尾語として用いられている為 「木偶の棒」と書くのは誤りである


人形が「木偶の坊」と呼ばれるようになった由来は

「でくるぼう」とも言われたことから

「出狂坊(でくるひぼう)」を語源とする説。


「手くぐつ」が訛った「でくる(坊)」から

「木偶の坊」になったとする説などが

有力とされるが 正確な語源は未詳。


その他 「泥人形」の「泥偶(でいぐう)」が訛り

「でく」になったという説もあるが

《泥人形》と《木彫りの操り人形》の関連性の薄さや

「でく」から「でくる」になった後で

「でく」に戻ることは 考え難いために

有力視されていない 』


この語源説の中で 私がもっとも 興味深いのは 有力視されていない

「泥人形」と「木彫りの操り人形」の 関連性です





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小堀氏略系図 (福岡市博物館所蔵)




小堀善左衛門正直 《小堀氏略系図》によると

『 京都四条 に 住む 木偶師 』でした

「木彫りの操り人形」を作ることを生業にしていたことは

永享9年(1437年) に 京都から 博多の櫛田神社に 召喚され

博多祇園祭りの 山笠人形の始祖 になったとされています

当初の山笠人形は 木彫りであり

手も足もない 頸だけの木彫りだったことから


博多の山笠人形の 元の形は 京都のからくり人形 だったと考えられます



《追懐松山遺事》山崎藤四郎著 によれば


『小堀家12代 小堀甚三方の古記によれば

同家が 人形の頸 を種々所持していたので

当番町はその中から適当なものを選び

人形一つに 白木綿一反 と 木綿形付きの浴衣

博多織の男帯 に 足袋一足宛をやっておけば

小堀家にて 人形の形態を造り

その浴衣を着せ 人形の男女にかかわらず 右の帯を締めさせ

両足には 黒木綿の脚絆の如き物を作り

足袋をはかせて 人形が出来上がる

しかして 各人形の前には「八つ足」机をすえ 榊 お神酒 お灯明等 を供え

旧5月28日 櫛田神職 天野氏は 小堀甚三方に赴いて

“御祓(ご神入れ)” をする

その夜 小堀家へ 人形を見に行く人が多かった』 とあります




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博多人形 白水英章作



「泥人形」といえば

国内で最も古い 土人形といえば

京都伏見の 「伏見人形」だといわれています

伏見城から伏見稲荷までの一帯 は 深草 と呼ばれ 7世紀の初めには

この地では 土器がつくられ 土師部(はじべ・埴輪や土器を作る職人)が 

奈良の菅原から移住してきたという 文献が残っています

やがて 稲荷信仰の 全国への拡がりと一緒に この人形も全国にひろがり

各地の郷土玩具へと なっていったようです

さて 博多人形 の歴史をたどれば 素焼き人形として 最初に作られたのが

文化5年(1821年) 中ノ子吉兵衛 によるものとされています

九州に於いては 最も古い土人形と言われているのが

長崎の 「古賀人形」です 文録元年(1592年)

京の伏見人形の流れをくんだ土人形をつくるようになったといわれています

実は 博多には 文化年間より もっと古くから

京都の伏見の流れをくんだ 人形が 作られていたという 説があります

貞享元年(1684年) 正徳元年(1711年) 元文3年(1738年) に

没した人の 墓に 土人形が 納められていたという

記録が残っているというのが

その根拠になっています




《 稿本 古博多人形史 》梅林新一著 によれば


『 小堀家が 京都出身である事から 時代の古い 墓地からの出土品が

伏見人形の移入品であるか それとも 小堀家

或いは その系統の人によってつくられた

伏見人形を模索した 土人形であるやもしれない 』



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野見宿禰




その説を 補足するのが 《小堀家略系図》の最初に書かれている

『 野見宿禰 後胤 』の 文字です


野見宿禰 (ノミノスクネ) とは


『天穂日命(アメノホヒノミコト) の子孫で 垂仁天皇の命により

当麻蹴速(タイマノケハヤ) と力を争って勝ち 相撲取りの祖とされている

また 皇后の死に際し 殉死の代わりに 陵墓に 埴輪(はにわ)を立てる事を進言して

土師臣(はじのおみ) を 拝し 子孫は 天皇家の葬儀をつかさどったようだ

土師氏 の 直系が 菅原氏 である 』



文献が見つからず 推論の域をでませんが

小堀家 の祖先は おそらく 菅原家 の流れをくむ 深草の 土師部 であり

伏見人形を 造っていたのではないでしょうか

後三条天皇の延久4年(1072年) には 伏見稲荷社 と 祇園社に 天皇が行幸し

これを 「両社行幸」と称して 歴代の慣例として鎌倉時代まで続いていたようで

おそらく 両社の繋がりは 深いものであったのでしょう

その繋がりで その後 小堀家は

祇園社(八坂神社) の所領である 京都四条に移り住み

その地にて 木彫りの操り人形 をつくるようになったのではないでしょうか




《 泥人形 》と 《 木彫りの操り人形 》

《 博多人形 》と 《 山笠人形 》を 博多の町で 結びつけた

小堀善左衛門正直

彼こそ 正真正銘の 《 木偶の坊 》(でくのぼう) だったのです







by nonkei7332 | 2015-05-11 22:50 | ルーツ | Comments(0)


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正面より


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拝殿





博多には 古くからの町である 「綱輪町」(つなわまち) という町があった

いつのまにか 訛って「綱場町」(つなばちょう) と呼ばれ 今日まで 残っているが

町名の由来は その地に鎮座する 『 綱敷天満宮 』からである

この天満宮に謂れは


菅原道真公 が 筑紫の国への 下向の船旅の終わりの時


津の国 (博多) 『 袖の湊 』に上陸された


そこが 海辺だったので


漁師達が 船の友綱を手繰り上げて


蚊取線香のように 巻いて 輪にして


円座をつくり 道真公 をその座に迎えて


休んでいただいたという話からきている


実は 全く 同じ名前 と 由来の 綱敷天満宮 が

摂津須磨の浦 (神戸市東灘区) と

豊前国築城群高塚村 (福岡県築上町高塚) にもある



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沖の濱 の 南岸に 綱場天神の表記があります




博多の町は しばしば 兵火のため 焦土となっていたので 天満宮も何度か場所を変えたが

落ち着いたところが 「袖の湊」の博多本土 と 大水路 (博多中の道) を隔てた

対岸の 沖の濱地の南岸であった ( 鎌倉時代の博多古図 参照)

その後 袖の湊も やがて 陸地となり 今の 博多の地形になると

天満宮は 綱場通りと呼ばれる 往還沿いに 北向きに建てられたようだ

江戸の元禄の頃の大火で焼失したあとは 土居通り沿いに 西向きに建て直されたようで

再建当時の 境内地の広さは 五、六百坪もあって 土俵場があり

松の木や 梅の木や 多くの樹木が繁っていたといわれている

( 明治22年の博多地図 参照 )


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中央あたりに 綱場天神が 土居通り沿いにあります





昭和の戦災で 社殿も楼門も全焼し しばらく 官有地となっていたが

昭和25年 現在地に 百坪ほどの土地の 無償払下げを受けて

戦後の都市計画で出来た 新道沿いに 南向きに 神殿を 造営し

現在に至っている


天満宮の祭祀は 古来より

綱場町 と 下土居町とが共同で 今日まで奉仕されてきたようだ

去年の山笠の時に 訪れたが 「土居流」の 詰所 として 境内が使われていた

「下土居町」と言えば このブログの〈ルーツのタグ〉で紹介したように

我が家の先祖 「小堀家」があった町で 文献によれば

天満宮の四軒となりに「山笠細工人形店」の看板が出ていたようである

おそらく 先祖達が 子供だった頃 天満宮の 境内で 日が暮れるまで

真っ黒になるまで 汚れて 遊んでいたのだろう

目を閉じて 海馬を覗くと 子供達の唄う声が 聞こえてくる



通りゃんせ 通りゃんせ

ここは どこの細道じゃ

天神様の細道じゃ~




by nonkei7332 | 2015-03-26 12:02 | ルーツ | Comments(0)


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正面から



菅原道真公 の 水鏡伝説 が残る 《 水鏡天満宮 》


福岡市 最大の繁華街「天神」の地名の由来となったのも この 水鏡天満宮です



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本殿




こんな 歌がありました


《 水鏡せると伝ふる 天神の みあしのあとに 千鳥 群れ飛ぶ 》

道真公が 博多に上られた折に
四十川 ( 今の薬院新川 ) の水面にご自分のお姿をご覧になったとされ
当初は「容見天神」(すがたみてんじん) とよばれていました
社殿も 現在地ではなく もっと 上流の 今泉付近だったと言われています
当時は 今の 博多とは ずいぶん違う 地形ですが それでも
浜千鳥が飛んでいる 海岸線では あったようですね ( 鎌倉時代の博多古地図参照 )


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「冷泉津」の右上に 容見天神 の表記があります




その後 500年経って 冷泉津と呼ばれた 干潟も 次第に陸地となり

黒田長政が 福岡城を築城の折には 東北の鬼門に当たる

現在の場所に 移転させたといわれています (江戸時代の博多古地図参照)


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左下が 福岡城 右上の川沿いに 赤い色の鳥居があるのが 「水鏡天満宮」




《 氏神 》の定義を 「お宮参り」した神社とすれば

この 水鏡天満宮 が 私の氏神になります

実は 私の両親は 結婚と同時に

水鏡天満宮の社務所の裏にあった 茶室のある 小さな家にすんでいました

(綾杉酒造所跡付近)

というのも 表千家の茶道を教えていた 母の叔母の養子になって 後を継いだからです

綾杉酒造所は 香椎宮そばの 武内家の関係の酒屋さんでしたね

私の想像ですが おそらく この付近には 綺麗な水 があったんでしょうね

そういう訳で 私の兄と姉は 天満宮そばの この家で 生まれています

私はここでは 生まれていませんが 路地の奥にあった 茶室と庭のある 小さな家は

今でも 憶えています




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茶室と庭の写真









by nonkei7332 | 2015-03-25 22:21 | ルーツ | Comments(0)


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聖福寺



博多の町人に 古くから 『 仙厓さん 』と呼ばれ 愛された 和尚がいました

仙厓さんが生きた時代は 江戸の中期 11歳で出家し

40歳になるまで 諸国行脚の旅を続け

兄弟子でもあった 太宰府戒壇院の 太室玄昭(たいしつげんしょう)の勧めで

博多の『 聖福寺 』の第123世住持となります

仙厓さんは 若い時から 非凡であった 書画を多く残していますが

その中に 『 老人六歌仙 』という 詩句があります



1.しわがよる、ほくろができる、腰まがる、頭ははげる、ひげ白くなる。

《 顔に皺がより、肌にほくろができて、腰が曲がり、頭髪は薄くなり、髭が白くなる 》


2.手は振れる、足はよろつく、歯は抜ける、耳は聞こえず、目はうとくなる。 
《 手が震え、脚がよろめき、歯は抜けて、耳が遠くなり、視力が低下する 》


3.身に添うは、頭巾、襟巻、杖、眼鏡、たんぽ、温石(おんじゃく)、しびん、孫の手。

《 身に付けるのは、頭巾や襟巻、杖、老眼鏡、湯たんぽ、かいろ、尿瓶、孫の手 》


4.聞きたがる、死にとむながる、寂しがる、心はまがる、欲ふかくなる。

《 人が話していると間に入って聞きたがり、死を恐れ、寂しがり、心がひねくれ、強欲になる 》


5.くどくなる、気短になる、ぐちになる、出しゃばりたがる、世話やきたがる。 

《 くどくどと、気短になり、愚痴が多くなり、出しゃばりで、人の世話を焼きたがる 》


6.またしても、同じはなしに子を誉める、達者自慢に人は嫌がる。

《 いつも子供の自慢と自分の健康自慢の同じ話を繰り返すので、人に嫌がられる 》



今も昔も 見につまされる 話ばかりです



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仙厓さんの書画



仙厓さんの 逸話のなかで 一番面白いのは 臨終の時の話です

周りの者が 最期に何か一言を と望んだときに 仙厓和尚が ポツリと言った一言です


『 まだ 死にとうない 』


あっけにとられた 周囲の人達の様子が目に見えるようですね

全てを知り尽くした 古老の最期の言葉 いいですね。






by nonkei7332 | 2015-03-21 09:19 | ルーツ | Comments(0)

by ヒサミツ