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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて


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桃中軒雲右衛門




私が生まれて初めて聞いた音楽といえば 母の子守唄でしょうか

昭和30年代 我が家にまだテレビがないころ

ラジオから 流れてきた音の記憶をたどれば

三味線の音の後に聞こえてきた あの 濁声の唄(?)なのかもしれない

『 旅行けば〜 駿河の国に 茶のかおり〜 』

後になってわかったのが これが 〈浪曲〉というもので

二代目広沢虎造 の 「石松三十石道中」だったようです



『日本のリバプール』と呼ばれる 博多の街は

70年代 から 多くの ミュージッシャンが ここを発信地として

上京し やがて スーパースター となっていきました

チューリップ・海援隊・井上陽水・長渕剛・チャゲアス

女性では 高橋真梨子・浜崎あゆみ・MISIA などがいます



さて 明治の終わりから 大正にかけて 好景気に沸く博多の街から

一人の スーパースター が 出て

一世を風靡した事を 知る人は少ないようです

浪曲界では 『浪聖』と呼ばれた人で その名を

《 桃中軒雲右衛門 》(とうちゅうけんくもえもん〉といいます

(以降 雲 と略します)


本名を 岡本峰吉 生まれは 群馬県高崎です

父の 繁吉 は 浪花節の前身である 〈祭文語り〉という 旅芸人でした

父を師匠として 雲 は やがては 吉川亭繁吉 という

父の名を継ぎ メキメキと技量を蓄えていきます

やがて 東京に出て 三河屋梅車の 門下となり


関東一円を廻っていたようです

明治36年 繁吉 が31歳の時でした 運命の罠が 雲を覆います

師匠 梅車の女房であった お浜 と恋に落ちたのでした

お浜 は離縁。繁吉は破門。その上 関東から追放を言い渡されます

仕方なく お浜を連れて 繁吉は 西へ向かいます


この時 お浜 35歳


途中 静岡で 駅前の弁当屋の屋号を真似て

桃中軒雲右衛門 を 名乗ります

京都に入り 一人の男が 雲 の弟子となりました

その男 は かの 孫文の辛亥革命を援助した 熊本菊池の素封家

〈宮崎滔天〉でした ( 柳原白蓮の最後の夫 宮崎龍介の父 )

滔天はすべての財産を社会運動につぎ込み

家は破産 このころ 京都に落ちていたようです


雲は 滔天に 桃中軒牛右衛門 の芸名を与えたようです

こうして 雲 と お浜 と 滔天 の三人の巡業旅は

関西 そして九州へと続きますが 一向に 不入りで 鳴かず飛ばず

やがて 雲達は 滔天のかつての同志 玄洋社の 重鎮

〈末永 節〉を頼って 博多に流れ着いたのでした


末永翁は 雲の後援をする条件を三つ挙げたそうです

ひとつ 雲右衛門が 苦学生を援助して 特待生を出す事

ふたつ 孝子節婦・忠臣義人などを顕彰する事

みっつ 神社仏閣に 手水鉢 、鳥居などを寄進する事

雲はこれを受け入れ 孤児院の寄附興行を皮切りに

多くの興行の利益を 博多の町に還元したのでした

やがて 雲右衛門の浪曲は 博多の町に知れ渡りました

時あたかも 日本は 日露戦争の大勝利に沸き立っている時勢でもあり

雲 の語る 数々の 義士伝 は 全ての劇場を満員にするほどの人気で

博多に 雲右衛門 あり の噂は 全国まで 拡がっていったのでした

雲右衛門流 と呼ばれる「三段流し」の歌唱法というのがあって

30秒ほど息を止めて歌い込むそうですが

聴衆もそれに合わせて息を継げなくなってしまうほどだったと言います

雲 は 薬院に御殿のような 邸宅を建てたのもこの頃でした



明治40年 雲 は 東京の 本郷座で 旗揚げします

東京を追われて 5年目のことでした

それまで 浪曲といえば 下層階級のものだといわれていましたが

武士道鼓吹の波と 雲 の天才的な技量をもって 上流社会にまでも

その人気は不動のものになっていったのでした

松竹 は 雲右衛門と年間10万円で 興行権をかったといいます

(今の金額でいえば 3億円位でしょうか)

横浜在住のドイツ人の貿易商リチャード・ワダマンが

雲 の SP版のレコードを作成しましたが

72000枚のプレスだったといいます 当時の日本の人口が5000万

蓄音機が高額で そんなに普及していなかったということを考え合わせると

今でいえば ミリオンセラー(100万枚) を


はるかに超えるのではないかといわれています


明治45年 雲 の全盛期 でした

博多に戻り 豪遊を続けていたようです

長い間 雲 を支えた お浜 はこの年の春 肺を病み 他界します

これを機に 続いて 雲 も肺を病み 声量も 技量も落ちてしまいます

またたくまに その人気は 落ちていったのでした

かくて 大正5年 11月 7日

浪聖 とよばれた 桃中軒雲右衛門 こと 岡本峰吉は

博多の 借家の二階 で その一生を終えます

享年 わずか 44歳

雲のように湧き

雲のように消えた

博多の町が 育てた スーパースター でした












by nonkei7332 | 2016-07-12 15:19 | ルーツ | Comments(0)


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下鴨神社 糺の森



古代の人々は 鎮守の森で

一年に二度だけ 冬と夏 に 神様から 霊力をもらいました

これが 祭りの始まりです

神は 海の彼方から来るのでしたが いつの間にか

山から来る神や 天から来る神に 変わっていきました

神が降臨(おり)てくるまえに 人々は まず 身を浄めます

神の威霊を 新たな心身で 受け取るための 禊の儀式です

冬の禊を 『年越祓』

夏の禊を 『夏越祓』『名越祓』『水無月祓』などといいます

神が降りてくる目印として〈標山〉(しめやま)という

松や杉で作った高い木の棒に 旗や幟をたてます

この〈標山〉に神霊が降ります

各地の夏まつりで この 標山に 飾りつけしたものが

山車(だし)・鉾(ほこ)・山(やま)・地車(だんじり) と呼ばれました

それとは別に 人の形をした紙人形 人形(ひとがた)に息を吹きかけたり

その紙人形で体を撫でて穢れを人形に移した後

川や海に流すという厄払いも行われていました


これが 人形の起源です



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博多の夏まつり は山笠です

《博多祇園山笠》の起源については 幾つか説がありますが

通説となっているのが 「仁治2(1241)年説」です

博多で疫病が流行り 承天寺の開山の 聖一国師(弁円)が 人々の担ぐ

施餓鬼棚に乗って 祈祷水を撒いて 疫病を鎮めたとされます

これが 櫛田神社の祭神 のひとつ 素戔嗚尊(祇園神) と結びついて

櫛田神社の祭礼になったという説なのです

〈博多祇園山笠振興会〉も この説をとっています


あくまでも 通説なのです おかしなことも幾つかあります

まず一つは 仁治2年頃に 疫病が流行ったという記録がないこと

もう一つは 施餓鬼というのは 仏事の法会であって 神事ではないこと

たしかに 当時は神仏混淆の世相であって 祇園神そのものが

素戔嗚と牛頭天王が神仏習合した 神と考えれば おかしくもないのですが

仏教伝来以前 まだ 櫛田の杜に

社殿が出来る前の 祭りの様子が気になりました

文化4年(1807)に書かれた

『 筑前 櫛田社鑑 』原田種美著 に 思わぬ 記述がありました


昔より 山笠のいはれあり

水無月祓 に 形代とて 茅、麻の葉にて 人形を作り

( 是を賀茂川祭りというなり )

身を撫でし時に となえる歌に

『水無月に名越しの祓する人は 千と世の命延ぶ 』というなり

となへの歌は外に数あり

是を川え流すと言へり

是 我が身の不浄を潔白に解除するの法にて

俗に是を 撫物(なでもの)と言う

( 当社の社宮 祝部家 等 水無月の祓に今是を用う )

山笠も其始めは 茅の形代の例にまなびしが

永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 云々



博多の山笠の起源は

賀茂川祭り(夏越の祓い) だと書かれています

賀茂川祭りとは 京都下鴨神社の 《みたらし祭り》のことでしょう

下鴨神社の祭神は

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)賀茂族の祖神 です

その神こそ ヤタガラス である 古代博多の皇子 《豊玉彦》なのです


2015/11/10 拙ブログ《鴨(賀茂)の流れ》を参照ください
http://hisamitsu.exblog.jp/25076752/


〈 永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 〉と書かれているように

博多の夏越の祓い が 祇園山笠(いかめしき作り山) と 変わったのが

永享年間 だと書かれています

さて 永享年間に 何があったのでしょうか

同じく『 筑前 櫛田社鑑 』には こう書かれていました


永享九年 (1437) 春三月に 博多より

京都の木偶師土偶師 を召かかえんとて上京せしが

小堀善左衛門 とて四条に居住せし木偶師を召抱えて 帰国す

櫛田神社内へ居宅を作りて 扶持米を遣わし

その年の作り山に 甲冑を着せ 旗幡を ささせ さまざまの

模様を作りて 祇園祭礼を勤む



櫛田神社 が 京都から 一人の男を 連れてきます

夏越の祓い祭り を いかめしき作り山 に変える為に連れてきた

若き 人形師 でした

《 小堀善左衛門 正直 》

博多山笠人形の始祖 であり

明治時代まで 13代 続いた 小堀流細工人形の 小堀家でした


2014/4/25 拙ブログ 《ルーツの旅》参照下さい
http://hisamitsu.exblog.jp/22508540/



博多の祭りを

〈夏越の祓い祭り〉から 〈祇園山笠〉へと変えた

張本人 が 私の先祖 だったとは

驚きの ファミリーヒストリー でした


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明治初年
最古の 博多山笠の写真
高さ16m です







by nonkei7332 | 2016-06-16 15:47 | ルーツ | Comments(0)


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博多 出会い橋 にある 「三人舞子像」




博多には 行町 という町があった


古くからの町だったが 今はもう町名も残ってはいない

(現在でいえば 昭和通り(通称50メーター通り) 付近になる)


《806年》空海(弘法大師) が

唐 での修行の帰りついた港は 博多の津であった

空海は 早速 一軒の船宿を買い取り そこに 唐から持ち帰った

仏像や教本や仏具を備えた一寺をこの町に建て

やがては 真言密教が 東へ長く広まるようにと 東長寺となずけた

( 現在は 大博通りに面している 御供所町に移った 南岳山東長寺である )

人々は はじめは 勤行(朝夕の読経)の町 と呼んでいたが いつのまにか

行の町 行町 となったと言われている



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明治25年 博多町図



この 行町 に 大工の 《 成 田 善 兵 衛 》が住んでいた

実は 私の 母方の 高祖父 になる人である

成田家 は 旧藩士だと伝えられてきた 黒田本藩なのか

士藩の直方藩なのか 秋月藩なのかは定かではないが

江戸の頃 扶持を捨て 町人となったようである

土居流沿いの 西方寺前町 に住し 代々 大工を営んできた

幕末の頃 博多史誌『石城遺聞』に 西方寺前町の町年寄として

〈成田宗次郎〉の名前が 残っている 善兵衛との関係は不詳だが

町の重鎮として 大工の棟梁 をしていたのかもしれない



さて 話は 前回の話しに戻るが

相生町に 米倉藤三郎 が建てた料亭『大寿楼』の話をしたが

相生には 大寿楼のほかに 名の売れた料亭が三軒あったといわれている


『松の家』『満月』『長門』がそれである

実は この『松の家』は

明治の中頃 大工の 成田善兵衛 が転業して 始めた 料理屋 だった

大正になると 『満月』も譲り受けたようだ

私は 母から 『 成田 の 本家(ほんや)は 料理屋をしていた 』という話を

〈満月〉の店の名前といっしょに 聞いたことがあった

善兵衛には 後嗣 がおらず 二人の娘 「ルイ」と 「テフ」がいた

ルイ には 善七という婿養子が もらい 料理屋を継いだが

善七がどういう人物であったのかはわからない

一方 『テフ』には 下土井町に住む

山笠人形師 小堀家十二代 〈 小堀甚三 〉の弟


『小堀甚兵衛』を婿養子にもらった

分家すじにあたる この二人こそ

私の 曾祖父 曽祖母 なのだ

『 土居流 の恋 』という 拙ブログの記事があります
( 2015/7/5 http://hisamitsu.exblog.jp/22898770/ )



券番の取締という 男 〈 米倉藤三郎 〉と

料理屋の旦那 だった 〈 成田 善兵衛 〉とに

どういう繋がりであったのかは わからない

旧藩士あがりの この二人の名もなき博多町人が

博多花柳界の 華々しき 一時代を 作っていったことには

間違いない ようだ



座敷で よく 歌われたであろう 〈 黒田節 〉のほかに

〈 正調博多節 〉という 座敷歌がある

有名な 一節 がある


《 博多へ来る時ゃ 一人で来たが 帰りゃ人形と 二人連れ 》



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博多人形 ごとう 提供





参考文献
小田部博実著「博多風土記」


by nonkei7332 | 2016-06-09 09:50 | ルーツ | Comments(0)


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現在の 〈博多券番〉 の 芸妓衆




明治の維新は

廃藩置県によって 多くの藩士を路頭に迷わせた

福岡黒田藩においても 然り 六千人 に近い藩士がいたが

ある者は帰農し またある者は 町人となって 慣れない手仕事を生業とした


博多には 明治24年 黒田旧藩士のみで組織される 「報古会」という

団体が結成された 藩主はいなくとも 黒田家訓を護り

旧藩士としての連携を密にするという相互扶助の団体であった

初代会長は 初代福岡市長の 山中立木 で 結成当時の会員は

三千人もいたというが ほとんどが 上級藩士出身であったようだ


家柄の低い 下級藩士の中に


米 倉 藤 三 郎 》という男がいた

米倉家については 定かではないが 維新後 一家没落したとされ

辻堂町の 承天寺境内で 仮家住いの赤貧暮らしをしていた

若き 藤三郎も 物心ついた頃には やむもなく 家を出て 渡世人となる



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明治25年の博多の町
市小路小学校(今の博多小学校)の上に
釜屋町 萱堂町 がある





博多には 釜屋町 や 萱堂町 (現在の奈良屋町界隈) という町があり

明治の始めから 多くの町芸妓がたむろする 色街だったという

ここを拠点にした 米倉藤三郎 は 大柄で ドスの効いたその風貌で

いつの間にか この町の顔役となっていったのである

やがて 釜屋町と萱堂町をつなぐ 筋に 多くの 芸妓置屋の連なる 花街

俗称 相生町が できた 〈相生の松〉に因んだ町名だという

当時 61名の芸妓が 相生町には居たが 翌年には 89名に増え

その勢いは 衰えることをしらなかった

町の一角に 相生花街の 顔ともいうべき 木造三階建ての 料理屋

『大寿楼』を 藤三郎 が 建てたころには 相生花街 の顔として

米倉藤三郎 の名前は 博多中に知れ渡っていたようである

明治22年 米倉 は 博多では 初めての 芸妓置屋の 組合組織

『相生券番』をつくり 自らその取締となって 花街を仕切っていった

長崎 丸山検番にヒントを得たという 〈線香代〉という 芸妓の花代と

時間制を創ったのも 米倉だといわれている

博多花柳界の大御所となった 米倉 は 芸妓達からは 恐れられ

その 独断暴君振りは 誰もが知るところであったようだ

そんな中 明治34年 夏 騒動は起きる 相生券番の芸妓総代を務めていた

小三(根本アキ) と 小滝(高橋タキ)が 米倉のワンマン振りに反旗を翻し

28名の名うての芸妓を引き連れて 千代町にあった 水茶屋券番に

移って行ったのだった 米倉の怒りは収まらず すぐに 手を打った

全ての料亭(料理屋) 茶屋待合(料理は作らず場所だけ提供しする座敷) に

もし 水茶屋の芸妓を呼んだ場合は 相生券番と中洲券番からは

芸妓は送り込まないという 報復手段だった

しかし 芸妓達はひるむことはなかった

何故なら 彼女達を後押しする


強力な 旦那衆が 後ろに控えていたからだ

ざっと 名前を挙げると



具島太助 ・・・ ( 当時日本三大財閥といわれた 具島財閥の当主 )

平岡浩太郎 ・・( 政治結社「玄洋社」の初代社長 )

安川敬一郎 ・・( 安川電機・九州工業大学の創始者 )

麻生太吉・・・ ( 現財務大臣 麻生太郎 の曽祖父。麻生グループの創始者 )

中野徳次郎 ・・( 伊藤と共に 筑豊の炭鉱王と呼ばれた )

伊藤伝右衛門 ・・(あの柳原白蓮を妻にした 筑豊の炭鉱王の一人 )

堀三太郎 ・・・( 直方の炭鉱王 )



筑豊の五大炭鉱王 や 福博の名士がこぞって 水茶屋券番に繰り出し

千代町の料理屋を貸し切り 水券芸妓を総揚げするなどして

大尽遊びを競うようにしたものだから 評判は拡がり やがては

相生券番と肩を並べるほどの 大券番となっていったのだった

後世 水茶屋券番の芸妓に『馬賊芸者』という 艶名がついたが

こんな騒動を乗り越えて来た 男まさりの度胸 と 切符の良さが

言わせたものだろう



その後 明治 大正 と 産業革命の波に乗って 博多花街は拡大を続け

空前の好景気に沸く大正時代には

〈相生券番〉〈水茶屋券番〉〈中洲券番〉〈新券番〉〈南券番〉

という五つの券番が 芸を競い 芸妓の数も 二千人に及んだという

博多花街は 東京の 築地や新橋 と並び

全国に 名を馳せるようになっていった


さて その後の 米倉藤三郎 だが

大正の末頃まで 大御所としての 威厳を揮ってはいたが

あまり 人に好かれる こともなく

昭和の初期に 寄る年波には勝てず ひっそり 他界したという


一人の赤貧の若者が築いた 華やかな 花柳界も

あの 戦災で すべてが 消えてしまうことになる



旧藩士 《 米倉藤三郎 》 の名前を 知る者も

今は この街には もう誰もいない






参考文献
小田部博実著「博多風土記」




by nonkei7332 | 2016-06-05 20:27 | ルーツ | Comments(0)


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博多駅前 大博通り




「 山笠のあるけん 博多たい 」

博多の住む人だけでなく 広く知られるこの 言葉は

かつて 某博多の銘菓が使った TVCM のコピーでした

その中で 博多や 博多町人の気質をこう言っていました


博多には 安泰を祈る 縁起担ぎ や しきたり が 今も息づいている

その中で生まれ育った博多っ子は あけっぴろげ で 人がいい

すこしばかり横行(おうぎょう)で祭り好き


博多出身 の 〈チューリップ〉は 名曲『博多っ子純情』の歌詞の中で

博多の男 をこう歌っています


男たちは とても見栄っ張りで気が強い

海の風に吹かれるから

だけど みんな 貰い泣きするようなやつ

酒を飲んで 肩をたたく


巷に言われる 「博多」のイメージはそんなとこかもしれません


それでは 何故 この町が

博多 と呼ばれるようになったかについては

知っているひとは少ないようです


《 博 多 》(はかた)というの 地名の語源については

Wikipedia では こう書かれています


「ハカタ」の語源は

「土地博(ひろ)く 人・物産多し」という言葉から「博多」

大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」

海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」


射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」

切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」

などの説がある。 
    


Wiki には 書かれていない ハカタ の語源に

『 伯 方 』(はかた) という 名前があります

〈方〉という漢字は 場所とか 国土 という意味があるので

〈伯〉がいた場所 とか 〈伯〉が治めた国土 という意味なのでしょうか

博多駅から 博多港へ一直線に伸びる 大通りがあります

『大博通り』といいます それから この通りから一筋入った 上呉服町には

大正時代に作られた 古き博多人にとっては懐かしい

「大博劇場」と呼ばれる 劇場(後に映画館となった)がありました


神社考古学の 故百嶋由一郎 さんは


この 「大博」(たいはく) という名前について

『太伯』(たいはく)の名残りが残っていると語られていました


魏志倭人伝 には

『 倭 は 呉(中国)の 太伯の子孫である』


と書かれています

呉太伯という 王は どんな人だったのかは

司馬遷が書いた「史記」に詳しく書かれています

それによると


紀元前10世紀ごろ 中国は 周 という国が治めていました

周の先王である〈古王〉には

太伯(たいはく)虞仲(ろちゅう)季歴(きれき)という

三人の息子がいました 古王は後継に 三男の 季歴 を選び

太伯 と 盧仲 は 南の地 に移り 「句呉」(後の呉)という国を興します

やがて 紀元前480年ごろから 〈呉〉は 隣の国 〈越〉と激しく争い

とうとう 紀元前473年 呉の最後の王 「夫差王」の時 呉は滅びます


中国の史書には


「周の元王三年 越は呉を亡し その庶(親族)ともに海に入りて 倭 となる」


と記されています

国を追われた 呉族系海洋民族 (白族・伯族) の一部は 海を渡り

博多湾岸にたどり着き やがて 倭人の国 奴国(なこく)をおこします

安曇族 の祖先 です


百嶋説 によると

古事記神話に出てくる 最初の神

『天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 』の 別名を

『白山姫』又の名を 菊理姫(くくりひめ) といい

全国の水天宮 や 白山姫神社 祀られている 女神 は

伯族の女神であります

その 弟は 奴国 の 先王 である『白川伯王』なのです

百嶋説では その息子こそが

博多の総鎮守 「櫛田神社」の主祭神

『大幡主神』(おおはたぬしのかみ)だと言われています

白川伯王には あと 二人の娘がいました

ひとりは 神武天皇(大白王子) の母 「神玉依姫」であり

もうひとりは 大国主命 の母である 「埴安姫」だと言われています

安曇族の祖神 『豊玉彦』(ヤタガラス) は

「大幡主神」伯族直系の 奴国の王子として

古代九州王朝の 礎を築いていったのでしょう


山笠が近ずくたびに 頭を悩ませていた

「 おくしださん の 謎 」

「 博多 の 主 」

少しは見えてきたような気がします



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百嶋系図 の一部





by nonkei7332 | 2016-04-09 18:42 | 古代史 | Comments(0)

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エントランスの壁




『伊都国歴史博物館』です

本当は 去年 比叡山に行って以来 山岳信仰に興味があったので

今 開催中の

「国境(くにざかい)の山岳信仰ー背振山系の聖地・霊場を巡るー」

を見たかったのですが

この日は 女神の日ですので ぐっと我慢して

3階の 「王墓の部屋」で 館内ガイドさんの

三雲遺跡と平原遺跡 の説明を聞きました


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伊都国歴史博物館 のパンフレットより



博物館の説明によると

平原遺跡は 伊都国の王墓と考えられる1号墓を中心とした墳墓遺跡で

昭和40(1965)年に発見されました。発見は偶然によるもので、

土地の持主がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、

多数の銅鏡の破片が出土しました。

そこで 故 原田大六(はらだだいろく)氏が調査主任となって、

故 大神邦博(おおがみくにひろ)氏とともに発掘調査が行われました。

1号墓は14m×12mの四隅が丸い長方形で

その中央に木棺が埋葬されていました。

この墓は弥生時代終末期(約1800年前)に造られたものです。


副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの

玉類が多数発見されています。

銅鏡のなかには直径46.5cmの 内行花文鏡 が5枚ありますが、

これは日本最大の銅鏡で非常に貴重なものです。

また ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一で、

伊都国王の墓にふさわしい内容です。


この墓に葬られた人物は女王ではないかと考えられています。


その理由は、副葬品の中に武器がほとんどないこと、

ネックレスやブレスレットなどの装身具(アクセサリー)が多いこと、

中国で女性が身につける「耳とう」といわれるイヤリングが

副葬されているからです



孤高 の 発掘考古学者 で有名な 原田大六さん の著書によれば


『 この大女王を葬った木棺は、東南方の日向(ひなた)峠の方角に

正確に合わせ、股間をそちらに向けてあった。こうなると、

日向峠から昇る太陽の光芒は彼女の股間に射しこむことになる。

太陽祭祀を行った大女王が太陽と性的に結ばれている

この事実を解釈すれば、彼女こそが太陽の妻であり、

日本古典のあの大日靈貴(おおひるめのむち)であったことになる。』


大日靈貴(おおひるめのむち)とは 天照大神(アマテラス)のことです

(綾杉さんは方角が正確ではないのではとブログでおっしゃっていましが)


しかし 大胆な発想ですね

原田さんの他の著書によると 卑弥呼は 一人ではなく

「日の御子」で 太陽の妻として君臨する女王の位階名の事で

少なくとも3人の「日の御子」が いたとされています

最初の「日の御子」は 平原弥生古墳に埋葬された人物で

なんと あの 〈玉依姫〉神格化され 〈天照大神〉であるという説です

ところが 何故か〈魏志倭人伝〉の 卑弥呼の墓は 近畿説なんですね?

これが 発掘考古学的な発想なんでしょうか


今 勉強させてもらっている

神社考古学者の 故百島由一郎先生 の説では

〈卑弥呼〉 = 〈天照大神〉

〈神武天皇〉 = 〈卑弥呼の弟〉説 です


古代史を 発掘考古学 から 神社考古学 から いろんな側面から

繋ぎ合わせていくと 真実の伊都国 の姿が見えてくるのも 近いのでしょう


ツアーは 次の目的地 産宮(さんのみや)神社 です



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祭神は

・鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト) 山幸彦と豊玉姫の子

・奈留多姫命(ナルタヒメ)

・玉依姫命(タマヨリヒメ)

安曇系 神功皇后 ゆかりの安産祈願の神社です

謎 の 奈留多姫命 ウガヤフキアエズの妃であったという説もあります

千木 は 外削ぎ の 男神 ですが 鰹木は四本 女神 を表していました



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《空 sora そら》さん の 2/6 のブログより


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《空 sora そら》さん の 2/6 のブログより





志登神社 に 寄りました

焼失後 去年 総ヒノキ造り の立派な神社になりました

ご祭神は 豊玉姫命

案内板には

『 志登神社は延喜式神名帳(西暦905年醍醐天皇の時代)に記載せられた

式内社で筑前十九社の一社に列せられた由緒ある古社である

この事は延喜年間にこの地方に於ける最も有力な神社として

中央にも認められ 志摩郡の総社として郡民一体の崇敬を集めていた』


iPad の具合が悪かったので 写真は 神社を撮らせたら日本一の

《 空 sora そら 》さんの 先月の写真をお借りしました



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木賊


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櫻井神社 です

入り口の鳥居のそばに 立派な 《 木賊 (とくさ) 》が植えてありました

かつて ここには 古墳 があったそうです

本殿裏は かつては古墳の石室だった場所に 岩戸宮の扁額がありました

二見ヶ浦の夫婦岩の直線上にある神聖な場所だといいます

1610年の大雷雨の日に岩戸神窟の口が開き、

神霊が現われたと知った黒田長政の息子・忠之が、櫻井大神宮の隣に

櫻井神社を造営し 以後 歴代藩主が家宝を奉納するなど

黒田家の崇敬する社となったそうです

拝殿・本殿・楼門は 福岡県の重要文化財にも指定されています


神社そのものの歴史は古くもないのですが

もっと古い 山の神 産鉄の神 の 聖地 だったような気がします


祭神は

《與止日女命 (よどひめのみこと)》

肥前一ノ宮 河上神社の祭神と一緒です

豊姫・淀姫・世田姫 と呼ばれた 神功皇后の妹と言われた 水の女神です

《神直日神》とは 鴨玉依姫のことです

《大直日神》とは 大山咋神のことです

夫婦神 ですね

もう一神の 《八十禍津日神(やそまがつひのかみ)》

イザナギが黄泉の国から帰って 禊を行って 穢れを祓った時に生まれた神

瀬織津姫 と同神だという説もあります



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真新しい 伊勢神宮より 移設された 鳥居を上ると

《 桜井大神宮 》です

祭神は 天照皇大神 (伊勢内宮) と 豊受姫大神 (伊勢外宮)


神明造り三殿の桜井大神宮(創立寛永二年)は

与止姫大明神の御神託で建立され、伊勢皇大神宮の分神が祀られています


神社考古学の百島説によりますと

伊勢の外宮様こと 豊受姫 ( アメノウズメ・稲荷神・辛国息長大姫 ) は

スサノオ と 伊都国の女神 磐長姫 (神大市姫・罔象女) との間に

生まれたの 女神 だといわれています



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筑前二見ヶ浦 です

櫻井神社の宇良宮です 伊弉諾命と伊弉冉命をお祀りしています



もう 50年前になりますが

私の父が大好きだった この浜には 毎年のように

家族で 海水浴にきていました

当時は 鳥居もなく ましてや 素敵なカフェなど ありゃしません

西ノ浦 のバス停を降りて ひたすら 田舎のじゃり道を

スイカ畑 を抜けて この海岸に来たものでした

父は 岩場まで泳ぎ 潜っては 銛で 大きなベラ(魚)を突いていました

私達は 磯岩場で ビナという貝をいっぱい採ってきて

海水で茹でて 爪楊枝で 食べていましたね

その 光景の記憶は 身体に染み付いています

5年前に 伊勢神宮に行った帰りに 伊勢二見ヶ浦に寄ってみたのですが

その ちっぽけな岩 には 唖然とした事を覚えています


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ツアー も いよいよ ラストタイム です

二見ヶ浦を一望できる 素敵なカフェ

『 SURF SIDE CAFE 』


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女神達は

美味しい ショートケーキ を食べながら

楽しかった 一日の思い出に 浸っていました


プロデュース してくれた 綾杉さん スタッフさん

本当に ありがとうございました

冥土の土産 が また一つ 増えたのを 喜ぶ 白髪翁 でした










by nonkei7332 | 2016-03-05 18:25 | 日記 | Comments(0)


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桃の節供 の事を 『ひいなあそび』ともいいます

この日は 3月3日の 桃の節供の日です 雛祭りの原型は

終日 女性や子供たちが外に出て 川辺や 海辺で 手に手に 重箱を下げて

野あそびをする 一日だったようです

この日 集った 26名の女神達 が お隣の 伊都国に向けて

バスの中に鎮座しておられました

私には 女神を訪ねるというよりも この26名の女神達が

祖神 の眠る丘に 野あそびに行くという光景にみえました

そう考えると 私も含めた 4名の男達はというと

間違いなく 完璧な ミスキャスト です

しかし 同じ バスに乗ってしまったからには 腹をくくって

女神達の付き人として 迷惑かけないように 楽しむことにしました

そういえば 古代から 世の中は 女神や巫女が中心であって

男たちは その周りをうろちょろしていたわけですから

それもありということで 納得したのでした

私見によれば 伊都国(伊那国) は 海を隔てた


一支国(壱岐)・対馬国・狗邪韓国 とおなじ氏族だと思っています

大山祗(月読尊) は 山の神 であり 海の神でもあり 産鉄の神でもあります

その娘である 木花咲耶姫 と 磐長姫 こそが 伊都国の女神なのです

この日は 山の女神である この二神が里に降りてこられる日なのです



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バスは 最初の目的地である「三雲南小路遺跡」につきました

国内最大級の弥生王墓だといわれています



糸島市教育委員会の案内には

《 弥生時代中期 (約2000年前) の 伊都国王の墓で

墓の周囲に幅3~4m・深さ0.5~0.7mの溝で東西32m・南北31mの

方形区域を設けた国内最大級の弥生王墓です。

江戸時代(1822年)に発見された時には 甕棺の上には1.5mほどの

盛土があったとされ 墳丘があったと推定されます

墳墓の中央部には 2基の 長特大の合わせ甕棺(全長2.5m)があって

1号甕棺から35面 2号甕棺から22面 合わせて57面にのぼる前漢鏡・

青銅製武器・金銅製四葉座飾り金具・ガラス製壁・装身具など

豪華な副葬品が出土しました 》



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遺跡のそばにある 「細石神社」

祭神は 〈磐長姫〉と 〈木花咲耶姫〉 伊都国の女神が祀られています

由緒は 古いのでしょうが 豊臣秀吉によって 焼失されていました


古事記には この二人の姫について こう書かれています


《 降臨した ニニギ は 木花咲耶姫 という美しい娘に出会い 求婚します

彼女の父 大山祗 は喜んで 木花咲耶姫と 姉の磐長姫の二人を

妻として差し出しました しかしニニギは容姿の醜い磐長姫は送り返し

木花咲耶姫だけを妻としたのです 大山祗 は深く恥じ入り、

『 磐長姫を妻とされれば、天つ神の御子の命は岩のように永遠で

揺らがないものになり 木花咲耶姫を妻とされれば 木の花が

咲き栄えるように繁栄されますようにと祈願いたしましたのに このように

磐長姫だけをお返しになり 木花咲耶姫だけをお留めになりましたから

天つ神の御子の命は、木の花のように儚いものになってしまうでしょう』

と申し送った、そういうわけで 今に至るまで

天皇の寿命は長くはなくなってしまった 》



日本国歌 の一節の中にも そのような 歌詞があります

《さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 》

(小さな小石が やがて 岩となり その岩に苔が生えるまで)

大山祗の願った 思い があふれています

磐長姫 苔牟須売神(ニニギと木花咲耶姫の娘)

まるで 国歌の原景 がここにあるみたいです


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細石神社の参道から 見た 高祖山 です

まさしく この景観が 伊都国の原風景です


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バスで 高祖山の中腹まで登ると

伊都国の総鎮守 《高祖神社》に着きました

長い坂道の参道を登ると 社殿 です


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高祖神社 (県神社史より)

【祭神】

天津日高彦火々出見命・玉依比売命・息長足姫命・天照皇大御神・

豊受神

【由緒】

社説に曰く 当社創立の起源詳かならざるも怡土県鎮土の社として

上代より鎮座ありて怡土県主の崇敬厚かりし事明かなり。

怡土県主五十述手の勤王、一に当社尊崇に因るものと思惟せらる。

神功皇后三韓御征伐の御時香椎の宮より此処まで御幸ありて、

高祖の神に異国降伏の御惠を仰ぎ給ひけるに

果して冥助特に深くありければ皇后御帰りの後報賽の御祭として

新に御宮を造り乾に向つて御社を建て給ひき。

下つて奈良朝孝謙天皇の御代吉備真備に勅して怡土城を築き給ひしが、

当社を怡土城鎮護の神とし給へり。当社は城内中央の岡の上にあり。

三代実録に元慶元年(877年)九月二十五日癸亥授筑前国

正六位上高礒比咩神従五位下、とあり。


但し正六位を授けられし時代は不詳。

原田氏怡土城の旧跡を修理し高祖城を築き

此の地に威を振ふ事凡そ四百年(建久八年より天正十四年迄)、

その間当社を城中の鎮護の神として崇敬し

毎年正月元日・同十五日・二月初卯・三月三日・五月五日・七月七日

九月九日・十一月初卯 には原田氏祭主となり、

殊に九月二十六日の大祭には原田当主御輿に供奉して御幸をなせり。

原田時代の棟札、古文書等多数現存せり。

黒田氏筑前国主に封ぜらるるに至り、当社を 怡土郡の総社 と定め、

諸事郡中にて辨ぜり。

現今も四月二十六日祈年祭の節には郡内各大字より祭典費を寄進し、

大神楽 を奉納するを例とせり。


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本殿前には 県無形民俗文化財 『高祖神楽』の 神楽殿がありました


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平成元年 三月 高祖神楽殿 落成の時の写真です


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面神楽十二番の中の 七番神楽『磯羅(いそら)』


《 高祖神楽 》は

今から五百数十年前の応仁元年、戦国動乱の時代時の高祖城主、

原田筑前守種親 が明主である周防国山口城主、大内政弘の要請を受けて

京都守護の大任に当たった時、戦陣のつれづれに習得した

「京の能神楽」を郷土に伝えたものとされていますが、

この外にも異説があり、その始めは定かではありません。

永い歴史と伝統に受け継がれて来た高祖神楽は、江戸時代までは

旧怡土郡の神職の奉仕で舞われていました。

明治になってからは高祖神社の氏子の人達によって受け継がれています

(高祖神楽保存会の栞より)



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社殿向かって 左奥に ご神池 の《女池》がありました

澄んだ水に 木立が映り 木洩れ陽 が 霊魂 を揺らす 神域でした

磐長姫 ・神大市姫・罔象女(ミズハノメ)・山姥神

四つの名前を持つ 龍の顔をした 水の精 が 舞っていました

イザナギ・イザナミは この女神に

「山野に含まれる水=地下水は、天の安河原の水なので、

汝らがこれを治めて、外に溢れ出さないように、

植物の生育の助けとなるように管理せよ」と命じたといいます

伊都国の女神 の 神触れ を 一番感じた 場所でした



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平原遺跡に寄りました

昼からは 伊都国博物館 で 詳しい説明を聞けるみたいでした



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さてさて そろそろ 重箱をひろげる 野あそびの楽しい 時間になりました

洒落た カフェレストラン 『集い』です なんと 貸し切りです

まさしく 女神達の集う場所です

綾杉さん 素敵な演出 ありがとう


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「つどい御膳」です



女神達に囲まれて 白髪翁 も 楽しい時間を過ごせました






by nonkei7332 | 2016-03-05 07:23 | 日記 | Comments(2)


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沙也可将軍 肖像画





司馬遼太郎 の本に 『街道をゆく』という 紀行集があります

この本との出会いは 40代の頃 でした

某商社の部長さんと お酒を飲んだ時の話で 話題が老後の話になりました

私 が 『 部長は老後はどんな生活をするつもりですか 』と聞くと

彼 は 『 司馬遼太郎の「街道をゆく」という紀行集があってね

彼が行った場所を同じように旅行をしようと思ってます 』と話されました

翌日 本屋に飛び込んで さっそく この本を買った

というのが この本との出会いでした


『街道をゆく』の中の

『韓のくに紀行』という本の中で

《 沙 也 可 》という 人物を知りました


沙 也 可(さやか) (1571年? - 1643年?)は

1592年 豊臣秀吉の 文禄・慶長の役の際 加藤清正の 先鋒隊長として

三千の兵を率いて 朝鮮に渡ったが なぜか 投降して朝鮮軍に加わり

朝鮮には無かった 鉄砲の技術を朝鮮に伝え 豊臣軍と戦います

その後 李朝14代宣祖(ソンジュ)の 臣下となり 功績により

正憲太夫の位と 金海金氏を名乗るよう賜り 号を 慕夏堂とし

名を 金忠善(キム・チュンソン)と改名 します

賜姓金海金氏の始祖として慶尚北道の友鹿里(ウロクリ)に

領土を与えられ 臣下と共に 朝鮮の民として その生涯を閉じます

現在 友鹿里 には 200名位の 沙也可の子孫が暮らし 半島全土には

4000名にもなる 氏族 がおられるようです

毎年 「鹿洞(ノクトン)書院」の「韓日友好館」には 2000人もの

日本人旅行者が訪れるといいます



沙也可 は 何故 反旗を翻したのでしょうか ?

沙也可 は いったい 誰だったのでしょうか ?


諸説ある中で

紀州の雑賀衆 ではないかという説 があります

雑賀衆は鉄砲の軍事傭兵部隊です 秀吉によって滅ぼされました

ただ 三千の兵を動かすだけの カリスマ性を持った

人物名が出て来ませんので 小説にはなりましたが

おそらく 違うでしょう


そこで 今 永年 伊都国糸島の 高祖山城主 であった


原田家の46代当主 原 田 信 種 (はらだのぶたね)


の名前が とりだたされています


原田家の出自は 古代 秦氏の大蔵一門 です

大蔵氏の氏祖は 漢の霊帝4代目の素孫 阿知使主 だと言われています

隋に追われ 百済を経て 倭国にきた 漢人系渡来人 です

応神・仁徳 の頃 呉国より 兄媛・弟媛・穴織・呉織 の 四媛 を連れてきて

養蚕・染色・機織・裁縫の技術を伝えたのも この人達でした


大蔵一党の三大豪族といえば 原田氏・秋月氏・高橋氏

いずれも 筑紫の豪族です 特に 嫡流の 原田家 は

藤原純友の乱を平定した功績により 太宰少弐の官位を与えられ

筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬を管理することになります

当初 基山に拠点を置きましたが 麓の原田に移り 原田家を名乗りました

その後 岩門城(那珂川町)をへて 建仁3年(1203年)

怡土郡五郎丸(三雲)に移り原田種継・種頼親子が 高祖山城を築き

麓に館を構えて 原田氏代々の本拠としました

中世の博多は 戦乱が続きます

原田氏は 西国一の守護大名になった 大内義明 の傘下に入ります

その後 大内家と共に 大友氏と戦い 筑前統一を成し遂げます

大内氏拡大の裏で原田氏の貢献は大きく

1551年 大内義隆が 陶晴賢 の謀反により 討たれるまで

永年に渡る 友好関係は続いたといいます

45代原田隆種 自身も 義隆から「隆」の字を貰い受けた間柄だったので

大内氏への恩義から原田隆種は陶氏の指図に服しなかったといいます

陶氏 は 大友氏 と組みしたので 原田家には 苦難の時代が続きます

やがて時代は 秀吉の時代へと変わっていきます

天正二年(1574年)46代 原田信種 が家督を継ぎます

秀吉が島津征伐で 九州に凱旋すると 島津と同盟を結んでいた 信種は

徹底抗戦するつもりでいましたが その強力な陣立に勝ち目はないと思い

秀吉に降伏します 秀吉が原田家 の 所領を尋ねたところ

広すぎると 没収されるとの考えから少なく報告したことが

秀吉の神経を逆撫でする事となってしまいます

その結果 筑後に三百町歩を与えられ 肥後へ国替えとなってしまいます

高祖山城は破壊され 家臣達は帰農したり 他家へ仕官していって

原田信種 は 全てを失ってしまいます

肥後熊本城主となった加藤清正の 下で 信種 は再起にそなえます


ここからが 原田信種 の謎の歴史です

( 史実にもとずく フィクション です )

秀吉の朝鮮出兵 で 名護屋城 に全国の大名が集まります

その中でも 加藤清正 と 小西行長 が 中心となる 陣立が組まれます

信種は 名護屋城に近い 糸島の地の利を生かし 加藤清正の許しを得て

原田家 再興の のろしを 上げたのです

他家に仕官した臣下も 刀を鍬に変えた 臣下達も 傍に 鉄砲を抱えて

名護屋に集まります

その数 600名 その気勢は 他軍を圧していました

軍議は 半島の海岸沿いに 小西軍 山沿いを加藤軍 が攻め上がるものでした

信種 率いる 3000の兵は 原田隊を先頭に 金海(キメ)近くに上陸し

洛東江(ナクトン川)を北上します

朝鮮軍は 初めて見る鉄砲に驚き 散りじりに 逃げていくばかりです

信種軍は 中流にある 友鹿里(ウロクリ)に陣を建てます

山河は美しく かつての 伽耶の民と言われた 農民達の老いた母を背負い

逃げていくその後ろ姿に 故郷糸島の事を思いだしていました


『 俺はいったい 何をやろうとしているのか

憎き 秀吉の為に 故郷の糸島の匂いのする この美しき山河を

壊してしまう 義 とは何なのだろうか

我を信じて 集まった 原田の民が望んでいるのは 』


海をはさんだ 伽耶 と 伊都 を繋ぐ いにしえの 魂の叫びに

信種 の 想い は 玄海の海 のように 激しく 震えるのでした

戸惑う兵を前にして 原田信種 は 叫びました


『 我が軍 に 義 なし 』


驚いたのは 朝鮮軍でした やがて 沙也可と呼ばれた 原田信種 と

原田軍は 銃砲を 南に向けたのでした。



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司馬遼太郎 さん



司馬遼太郎 は 「韓のくに紀行」の中で こう書いています


『 国家という面倒なものが無いに等しかった 古代を

我々は その洋上の街道をゆく時 懐かしまざるをえない

そういう時代 朝鮮人は日本へ冬に来た、

冬になると 風は 日本に向かって吹くからである

我々 日本人の血に 朝鮮半島通過の血液が混じるのは

この海域を吹く風がそれを 運んで来たのに ちがいない 』



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糸島二見ヶ浦





春の穏やかなる 3月3日 伊都国を訪ねます

女神 が 眠る この里に 海を渡って吹く風は

沙也可の魂 を 運んでくれるでしょうか






by nonkei7332 | 2016-02-29 23:40 | 古代史 | Comments(0)


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博多松囃子





『博多どんたく港まつり』

5月の連休に行われ 200万人もの人が集まる

博多の祭 〈どんたく〉 の 正式名称です

ところが この 〈どんたく〉と言い出したのは 明治以降で

それまでは 『博多松囃子』と言っていました

それも 5月ではなく 正月の行事だったのです

古来から 正月になると 門松をたてます

その年の新しい神様が松に降りてくるといわれていました

松囃子 は その松を伴って それぞれの 領主に年賀挨拶をする

行事として始まったとされます 室町時代だといわれますが

その 起源は 定かではありません もっと古いのかもしれません


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博多町家館 より



謡曲に 『蘆刈』という演目があります

この話は 仁徳天皇のころ 〈津の国難波の都・博多〉の話です

貧困の為 別れた夫婦がいました その後 妻は高貴な家の乳母となり

夫を探しに筑紫の国にきます そこで 蘆売りとなっていた夫と巡り会い

二人で 都に帰って行ったという話ですが

蘆売りの夫が 蘆を売るために 昔からの歌を賑やかに囃して謡います


名に負う梅の花笠、難波女の被く袖笠、

肘笠の雨の蘆辺も乱るるかたを波、彼方へざらりこの方へざらり、

ざらざらざっと風の上げたる古簾、つれづれもなき心よ、



津の国 難波の春は 夢なれや



仁徳天皇善政 と 筑紫の国の華やかさを歌っているのです

その風景こそ 〈博多松囃子〉の いにしえの風景に見えてくるのです

梅 ・ 松 ・ 笠 これは 九州王朝の象徴でもあります


囃子の語源をたどると はやす(生やす) に繋がります

〈囃す〉は 増殖させる 増やす 豊にする の意味でもあります

『松囃子』の意味するものは

松である かつての 九州王朝を 偲び その思いを拡げていく

祭りではなかったのでは ないでしょうか



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京都今宮神社




京都の北に 《今宮神社》があります

ここでは 京都の三大奇祭 と呼ばれる『やすらい祭』があります

因みに あとの二つは 鞍馬寺の「鞍馬の火祭」そして

広隆寺の「太秦の牛祭」ですが ここでは ふれません

「やすらい祭」は 古来より疫神を鎮めるために行われていました

由緒によれば

『 神祇官の「鎮花祭」と「御霊会」が結びついた「花のまつり」で、

花の精にあおられて 飛散する悪魔の精霊を

囃子や 歌舞によって追い立てて 風流傘に宿らせ、

紫野ノ社に送り込んで神威を仰いで降伏させる 』

と 書かれています

元々は 3月に行われていました 花笠や若松もでてきます

博多松囃子 に よく似ています

やすらい を 「夜須礼」と書くそうです

『夜須に礼をつくす』という意味なのでしょうか



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やすらい祭



『夜須』といえば 日本書紀に

「神功皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峽宮に遷りたまふ」

とあります その後 羽白熊鷲を征服した 神功皇后は

「我が心則ち安し(やすし)」といったので

この地を「夜須」というようになったいう 伝承があります

夜須町は 筑前市 と名を変えましたが

松峡宮 とされる 跡地には

松峡八幡宮(まつおはちまんぐう)が鎮座します


明治以前においては 博多の松囃子が

朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もあるのです

( 文献として 残っているかどうか 調査中 )



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松峡八幡宮 ( 空 sora そら さんのブログより)



気になる 都市伝説を ひとつ

京都弁で 「おいでやす」「おこしやす」というように

語尾に 「やす」という言葉を使いますがが 宮廷言葉からきたもので

「やす」は 「夜須」が語源だとの事



京都 今宮神社の 「やすらい祭り」 の 発祥は 博多の「松囃子」

京都 下鴨神社の 「葵祭り」の 発祥は 背振神社の 「賀茂まつり」

あとひとつの 謎解きは

京都 八坂神社の 「祇園祭り」の 発祥は・・・


博多 櫛田神社の 「博多山笠」?。



京都の謎 と 妄想は どこまでも 続いていきます。







by nonkei7332 | 2015-11-23 16:57 | 古代史 | Comments(5)



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放生会 お神輿行列




『 ほうじょうえ 』

博多では 「ほうじょうや」といいます
博多の三大祭り といえば
5月の〈どんたく〉 7月の〈 山笠 〉そして 9月の〈放生会 〉です
9月12日 から 18日までの期間 参道には 500近い 露天がならび
のべ 100万人の人たちで 賑わいます
『 梨 も 柿 も 放生会 』
博多には こんな 諺 があります 放生会がくると 秋 なのです
博多の子供達の 面白い 会話です

『 なしてや 』・・・( どうして ?)

『 なしもかきも ほうじょうや たい 』・・・( どうしても!! )


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《 放生会 》の由来について 考えてみました

養老4年(720年) 2月28日 太宰府 から 朝廷に
「大隈の国司 陽侯史麻呂 が 隼人族 によって 殺された」
と 報せがあります
朝廷は 律令制を整え 地方支配を強化していきましたが
完全に全国を掌握できたわけではなく
従わない勢力がありました
その一つが 南九州の隼人族だったのです
朝廷は 3月4日 大伴旅人 を 征隼人持節大将軍 に任命し
隼人征伐を命じます
その後 旅人は 藤原不比等 が没したので
朝廷に呼び戻されますが
残った 朝廷軍は 一年半の戦いで 隼人族 を征圧します
隼人族の戦死者・捕虜 は 1500人 にも及んだと言われています
その後 各地 に 疫病や凶作などが続きました
朝廷は 隼人族の霊の祟りだと恐れ
その霊を慰めるために 宇佐八幡宮 で 仏教の殺生戒に基づいて
生き物(蜷貝)を放って供養しました
それが 放生会 の はじまりだと いわれています
やがて 八幡社 を通して 全国各地に広まっていきました

その後 天平12年 (740年) には 太宰少弐 であった 藤原広嗣 が
九州各地から 1万人の兵を集め 朝廷に反乱を起こします
朝廷は 捕虜にした 隼人も含めた 征服軍を起こし 乱を平定します

昌泰4年 ( 901年 )
時の右大臣 菅原道真 は 数々の 政治改革を提唱しますが
それを怖れた 藤原時平の讒言により
醍醐天皇 は 菅公を 失職させ 太宰府に左遷します
延喜3年 (903年) 2月25日 菅公が 薨去 します
その後 菅公 の 左遷にかかわった人物の相次ぐ突然死や 疫病など
次々と降りかかる天災に 菅公 の祟りだとする 怨霊伝説が 広がり
それを 弔うために 全国に 天神社が 広まっていきます

朝廷 が 本当に 畏れたのは
隼人族 や 広嗣 や 菅公 の 祟りだったのでしょうか

そこには 朝廷 ( 畿内藤原王朝 ) が
かつて この国の源であった 筑紫九州王朝 の
すべての 財宝を奪い取り 史書を改ざんしてまで
歴史から 消し去ろうとした 蛮行に 硬く蓋をしようとした
隠された もうひとつの 歴史が みえます
その 恐れ 慄く様は 民の拠り所である 神 をも 変えてしまいます
日本全国 どこにでもある 神社と言えば
八幡社 であり 天満宮 です
何故 これ程まで 多くの 神社 が 必要だったのでしょうか
祟られた神 の 数だけで
無念にも 怨霊となった 死者たちへの 弔いは
終わるとでも 思ったのでしょうか




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筥崎宮 楼門の額




《 放生会 》とは

仏教の殺生戒に基づき 文字どおり 生きものを放ち

供養する儀式だといわれます

『 敵国降伏 』 筥崎宮 楼門 に 高く 掲げられている 額の文字です

社記には 醍醐天皇の 御宸筆と伝わっています

「 敵 国 」とは いったい どこの国 だったのでしょう

多くの人が 合わせる掌の中に この国の 未来が見えます

この国 の 真実の祈り とは 何なのでしょうか



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放生会 参道風景






by nonkei7332 | 2015-09-10 08:10 | 古代史 | Comments(2)

by ヒサミツ