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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて



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沙也可将軍 肖像画





司馬遼太郎 の本に 『街道をゆく』という 紀行集があります

この本との出会いは 40代の頃 でした

某商社の部長さんと お酒を飲んだ時の話で 話題が老後の話になりました

私 が 『 部長は老後はどんな生活をするつもりですか 』と聞くと

彼 は 『 司馬遼太郎の「街道をゆく」という紀行集があってね

彼が行った場所を同じように旅行をしようと思ってます 』と話されました

翌日 本屋に飛び込んで さっそく この本を買った

というのが この本との出会いでした


『街道をゆく』の中の

『韓のくに紀行』という本の中で

《 沙 也 可 》という 人物を知りました


沙 也 可(さやか) (1571年? - 1643年?)は

1592年 豊臣秀吉の 文禄・慶長の役の際 加藤清正の 先鋒隊長として

三千の兵を率いて 朝鮮に渡ったが なぜか 投降して朝鮮軍に加わり

朝鮮には無かった 鉄砲の技術を朝鮮に伝え 豊臣軍と戦います

その後 李朝14代宣祖(ソンジュ)の 臣下となり 功績により

正憲太夫の位と 金海金氏を名乗るよう賜り 号を 慕夏堂とし

名を 金忠善(キム・チュンソン)と改名 します

賜姓金海金氏の始祖として慶尚北道の友鹿里(ウロクリ)に

領土を与えられ 臣下と共に 朝鮮の民として その生涯を閉じます

現在 友鹿里 には 200名位の 沙也可の子孫が暮らし 半島全土には

4000名にもなる 氏族 がおられるようです

毎年 「鹿洞(ノクトン)書院」の「韓日友好館」には 2000人もの

日本人旅行者が訪れるといいます



沙也可 は 何故 反旗を翻したのでしょうか ?

沙也可 は いったい 誰だったのでしょうか ?


諸説ある中で

紀州の雑賀衆 ではないかという説 があります

雑賀衆は鉄砲の軍事傭兵部隊です 秀吉によって滅ぼされました

ただ 三千の兵を動かすだけの カリスマ性を持った

人物名が出て来ませんので 小説にはなりましたが

おそらく 違うでしょう


そこで 今 永年 伊都国糸島の 高祖山城主 であった


原田家の46代当主 原 田 信 種 (はらだのぶたね)


の名前が とりだたされています


原田家の出自は 古代 秦氏の大蔵一門 です

大蔵氏の氏祖は 漢の霊帝4代目の素孫 阿知使主 だと言われています

隋に追われ 百済を経て 倭国にきた 漢人系渡来人 です

応神・仁徳 の頃 呉国より 兄媛・弟媛・穴織・呉織 の 四媛 を連れてきて

養蚕・染色・機織・裁縫の技術を伝えたのも この人達でした


大蔵一党の三大豪族といえば 原田氏・秋月氏・高橋氏

いずれも 筑紫の豪族です 特に 嫡流の 原田家 は

藤原純友の乱を平定した功績により 太宰少弐の官位を与えられ

筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬を管理することになります

当初 基山に拠点を置きましたが 麓の原田に移り 原田家を名乗りました

その後 岩門城(那珂川町)をへて 建仁3年(1203年)

怡土郡五郎丸(三雲)に移り原田種継・種頼親子が 高祖山城を築き

麓に館を構えて 原田氏代々の本拠としました

中世の博多は 戦乱が続きます

原田氏は 西国一の守護大名になった 大内義明 の傘下に入ります

その後 大内家と共に 大友氏と戦い 筑前統一を成し遂げます

大内氏拡大の裏で原田氏の貢献は大きく

1551年 大内義隆が 陶晴賢 の謀反により 討たれるまで

永年に渡る 友好関係は続いたといいます

45代原田隆種 自身も 義隆から「隆」の字を貰い受けた間柄だったので

大内氏への恩義から原田隆種は陶氏の指図に服しなかったといいます

陶氏 は 大友氏 と組みしたので 原田家には 苦難の時代が続きます

やがて時代は 秀吉の時代へと変わっていきます

天正二年(1574年)46代 原田信種 が家督を継ぎます

秀吉が島津征伐で 九州に凱旋すると 島津と同盟を結んでいた 信種は

徹底抗戦するつもりでいましたが その強力な陣立に勝ち目はないと思い

秀吉に降伏します 秀吉が原田家 の 所領を尋ねたところ

広すぎると 没収されるとの考えから少なく報告したことが

秀吉の神経を逆撫でする事となってしまいます

その結果 筑後に三百町歩を与えられ 肥後へ国替えとなってしまいます

高祖山城は破壊され 家臣達は帰農したり 他家へ仕官していって

原田信種 は 全てを失ってしまいます

肥後熊本城主となった加藤清正の 下で 信種 は再起にそなえます


ここからが 原田信種 の謎の歴史です

( 史実にもとずく フィクション です )

秀吉の朝鮮出兵 で 名護屋城 に全国の大名が集まります

その中でも 加藤清正 と 小西行長 が 中心となる 陣立が組まれます

信種は 名護屋城に近い 糸島の地の利を生かし 加藤清正の許しを得て

原田家 再興の のろしを 上げたのです

他家に仕官した臣下も 刀を鍬に変えた 臣下達も 傍に 鉄砲を抱えて

名護屋に集まります

その数 600名 その気勢は 他軍を圧していました

軍議は 半島の海岸沿いに 小西軍 山沿いを加藤軍 が攻め上がるものでした

信種 率いる 3000の兵は 原田隊を先頭に 金海(キメ)近くに上陸し

洛東江(ナクトン川)を北上します

朝鮮軍は 初めて見る鉄砲に驚き 散りじりに 逃げていくばかりです

信種軍は 中流にある 友鹿里(ウロクリ)に陣を建てます

山河は美しく かつての 伽耶の民と言われた 農民達の老いた母を背負い

逃げていくその後ろ姿に 故郷糸島の事を思いだしていました


『 俺はいったい 何をやろうとしているのか

憎き 秀吉の為に 故郷の糸島の匂いのする この美しき山河を

壊してしまう 義 とは何なのだろうか

我を信じて 集まった 原田の民が望んでいるのは 』


海をはさんだ 伽耶 と 伊都 を繋ぐ いにしえの 魂の叫びに

信種 の 想い は 玄海の海 のように 激しく 震えるのでした

戸惑う兵を前にして 原田信種 は 叫びました


『 我が軍 に 義 なし 』


驚いたのは 朝鮮軍でした やがて 沙也可と呼ばれた 原田信種 と

原田軍は 銃砲を 南に向けたのでした。



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司馬遼太郎 さん



司馬遼太郎 は 「韓のくに紀行」の中で こう書いています


『 国家という面倒なものが無いに等しかった 古代を

我々は その洋上の街道をゆく時 懐かしまざるをえない

そういう時代 朝鮮人は日本へ冬に来た、

冬になると 風は 日本に向かって吹くからである

我々 日本人の血に 朝鮮半島通過の血液が混じるのは

この海域を吹く風がそれを 運んで来たのに ちがいない 』



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糸島二見ヶ浦





春の穏やかなる 3月3日 伊都国を訪ねます

女神 が 眠る この里に 海を渡って吹く風は

沙也可の魂 を 運んでくれるでしょうか






by nonkei7332 | 2016-02-29 23:40 | 古代史 | Comments(0)


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博多松囃子





『博多どんたく港まつり』

5月の連休に行われ 200万人もの人が集まる

博多の祭 〈どんたく〉 の 正式名称です

ところが この 〈どんたく〉と言い出したのは 明治以降で

それまでは 『博多松囃子』と言っていました

それも 5月ではなく 正月の行事だったのです

古来から 正月になると 門松をたてます

その年の新しい神様が松に降りてくるといわれていました

松囃子 は その松を伴って それぞれの 領主に年賀挨拶をする

行事として始まったとされます 室町時代だといわれますが

その 起源は 定かではありません もっと古いのかもしれません


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博多町家館 より



謡曲に 『蘆刈』という演目があります

この話は 仁徳天皇のころ 〈津の国難波の都・博多〉の話です

貧困の為 別れた夫婦がいました その後 妻は高貴な家の乳母となり

夫を探しに筑紫の国にきます そこで 蘆売りとなっていた夫と巡り会い

二人で 都に帰って行ったという話ですが

蘆売りの夫が 蘆を売るために 昔からの歌を賑やかに囃して謡います


名に負う梅の花笠、難波女の被く袖笠、

肘笠の雨の蘆辺も乱るるかたを波、彼方へざらりこの方へざらり、

ざらざらざっと風の上げたる古簾、つれづれもなき心よ、



津の国 難波の春は 夢なれや



仁徳天皇善政 と 筑紫の国の華やかさを歌っているのです

その風景こそ 〈博多松囃子〉の いにしえの風景に見えてくるのです

梅 ・ 松 ・ 笠 これは 九州王朝の象徴でもあります


囃子の語源をたどると はやす(生やす) に繋がります

〈囃す〉は 増殖させる 増やす 豊にする の意味でもあります

『松囃子』の意味するものは

松である かつての 九州王朝を 偲び その思いを拡げていく

祭りではなかったのでは ないでしょうか



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京都今宮神社




京都の北に 《今宮神社》があります

ここでは 京都の三大奇祭 と呼ばれる『やすらい祭』があります

因みに あとの二つは 鞍馬寺の「鞍馬の火祭」そして

広隆寺の「太秦の牛祭」ですが ここでは ふれません

「やすらい祭」は 古来より疫神を鎮めるために行われていました

由緒によれば

『 神祇官の「鎮花祭」と「御霊会」が結びついた「花のまつり」で、

花の精にあおられて 飛散する悪魔の精霊を

囃子や 歌舞によって追い立てて 風流傘に宿らせ、

紫野ノ社に送り込んで神威を仰いで降伏させる 』

と 書かれています

元々は 3月に行われていました 花笠や若松もでてきます

博多松囃子 に よく似ています

やすらい を 「夜須礼」と書くそうです

『夜須に礼をつくす』という意味なのでしょうか



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やすらい祭



『夜須』といえば 日本書紀に

「神功皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峽宮に遷りたまふ」

とあります その後 羽白熊鷲を征服した 神功皇后は

「我が心則ち安し(やすし)」といったので

この地を「夜須」というようになったいう 伝承があります

夜須町は 筑前市 と名を変えましたが

松峡宮 とされる 跡地には

松峡八幡宮(まつおはちまんぐう)が鎮座します


明治以前においては 博多の松囃子が

朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もあるのです

( 文献として 残っているかどうか 調査中 )



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松峡八幡宮 ( 空 sora そら さんのブログより)



気になる 都市伝説を ひとつ

京都弁で 「おいでやす」「おこしやす」というように

語尾に 「やす」という言葉を使いますがが 宮廷言葉からきたもので

「やす」は 「夜須」が語源だとの事



京都 今宮神社の 「やすらい祭り」 の 発祥は 博多の「松囃子」

京都 下鴨神社の 「葵祭り」の 発祥は 背振神社の 「賀茂まつり」

あとひとつの 謎解きは

京都 八坂神社の 「祇園祭り」の 発祥は・・・


博多 櫛田神社の 「博多山笠」?。



京都の謎 と 妄想は どこまでも 続いていきます。







by nonkei7332 | 2015-11-23 16:57 | 古代史 | Comments(4)



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放生会 お神輿行列




『 ほうじょうえ 』

博多では 「ほうじょうや」といいます
博多の三大祭り といえば
5月の〈どんたく〉 7月の〈 山笠 〉そして 9月の〈放生会 〉です
9月12日 から 18日までの期間 参道には 500近い 露天がならび
のべ 100万人の人たちで 賑わいます
『 梨 も 柿 も 放生会 』
博多には こんな 諺 があります 放生会がくると 秋 なのです
博多の子供達の 面白い 会話です

『 なしてや 』・・・( どうして ?)

『 なしもかきも ほうじょうや たい 』・・・( どうしても!! )


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《 放生会 》の由来について 考えてみました

養老4年(720年) 2月28日 太宰府 から 朝廷に
「大隈の国司 陽侯史麻呂 が 隼人族 によって 殺された」
と 報せがあります
朝廷は 律令制を整え 地方支配を強化していきましたが
完全に全国を掌握できたわけではなく
従わない勢力がありました
その一つが 南九州の隼人族だったのです
朝廷は 3月4日 大伴旅人 を 征隼人持節大将軍 に任命し
隼人征伐を命じます
その後 旅人は 藤原不比等 が没したので
朝廷に呼び戻されますが
残った 朝廷軍は 一年半の戦いで 隼人族 を征圧します
隼人族の戦死者・捕虜 は 1500人 にも及んだと言われています
その後 各地 に 疫病や凶作などが続きました
朝廷は 隼人族の霊の祟りだと恐れ
その霊を慰めるために 宇佐八幡宮 で 仏教の殺生戒に基づいて
生き物(蜷貝)を放って供養しました
それが 放生会 の はじまりだと いわれています
やがて 八幡社 を通して 全国各地に広まっていきました

その後 天平12年 (740年) には 太宰少弐 であった 藤原広嗣 が
九州各地から 1万人の兵を集め 朝廷に反乱を起こします
朝廷は 捕虜にした 隼人も含めた 征服軍を起こし 乱を平定します

昌泰4年 ( 901年 )
時の右大臣 菅原道真 は 数々の 政治改革を提唱しますが
それを怖れた 藤原時平の讒言により
醍醐天皇 は 菅公を 失職させ 太宰府に左遷します
延喜3年 (903年) 2月25日 菅公が 薨去 します
その後 菅公 の 左遷にかかわった人物の相次ぐ突然死や 疫病など
次々と降りかかる天災に 菅公 の祟りだとする 怨霊伝説が 広がり
それを 弔うために 全国に 天神社が 広まっていきます

朝廷 が 本当に 畏れたのは
隼人族 や 広嗣 や 菅公 の 祟りだったのでしょうか

そこには 朝廷 ( 畿内藤原王朝 ) が
かつて この国の源であった 筑紫九州王朝 の
すべての 財宝を奪い取り 史書を改ざんしてまで
歴史から 消し去ろうとした 蛮行に 硬く蓋をしようとした
隠された もうひとつの 歴史が みえます
その 恐れ 慄く様は 民の拠り所である 神 をも 変えてしまいます
日本全国 どこにでもある 神社と言えば
八幡社 であり 天満宮 です
何故 これ程まで 多くの 神社 が 必要だったのでしょうか
祟られた神 の 数だけで
無念にも 怨霊となった 死者たちへの 弔いは
終わるとでも 思ったのでしょうか




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筥崎宮 楼門の額




《 放生会 》とは

仏教の殺生戒に基づき 文字どおり 生きものを放ち

供養する儀式だといわれます

『 敵国降伏 』 筥崎宮 楼門 に 高く 掲げられている 額の文字です

社記には 醍醐天皇の 御宸筆と伝わっています

「 敵 国 」とは いったい どこの国 だったのでしょう

多くの人が 合わせる掌の中に この国の 未来が見えます

この国 の 真実の祈り とは 何なのでしょうか



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放生会 参道風景






by nonkei7332 | 2015-09-10 08:10 | 古代史 | Comments(2)

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博多祇園山笠 の最終日
『 追い山 』は
午前4時59分 一番山笠 の櫛田入りで 始まり
七番山笠 が 廻り止め に到着するのが 午前6時頃
疲れ切った男たちの顔に笑みが戻ると
櫛田神社の 能舞台では 厳かに 最後の神事
『 鎮めの能 』(しずめののう) が はじまります



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この 由緒ある 能楽の奉納が始まったのが
寛永8年(1668年) だといわれています
朝倉甘木の能楽師 梅津太夫 によって 演ぜられました
その後 たびたび 中絶 再興 を繰り返してきましたが
今では 宮総代がその任にあたっておられます

さて ここで 奉納される 能の演目は 『 翁 』です
他の演目が 奉納されることは ありません

『 翁 』は多くの 能の演目の中にあって
特殊な位置をしめています
「 翁は能にして能にあらず 」とよくいわれます
そこには 物語というものはなく ある意味での儀式なのです
五穀豊穣を祈る 農民行事が起源だと いわれています
舞台で 舞うのは 「翁」「千歳」「三番叟」三人の役者です
「翁」は 村の長老 「千歳」は 村の若者
「三番叟」は 村の農民達 を象徴しています
面 を持った 千歳 を先頭に
翁 三番叟 囃子方 が舞台に登場します
まず 千歳 が 足を踏みながら
まるで 大地の神を 呼び出すような
露払いと呼ばれる 舞を舞います
そして その間に 右奥に座した 翁 は
舞台の上で 厳かに 白い 翁面をつけ
村の長老から 翁の神へと 変身します
次に 翁 が舞います
舞が終わり 面を外した 翁と千歳は 舞台から退出します
三番叟 が登場します
舞台は一転 アップテンポな 囃子が 舞台に流れ
黒い面をつけた 三番叟 は 鈴を鳴らしながら 舞います
それは まるで 神を迎えた 農民達 の喜びの舞いのようです


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翁面


老翁の神 とは いったい 誰でしょうか

櫛田神社に縁深き 若松様とよばれる
武内宿禰 の化身 でしょうか?

それとも 山幸彦を竜宮へ案内した
塩土老翁(しおつちのおきな)?

それとも 村の守り神 猿田彦神 ?



「 鎮めの能 」は 山笠を締めくくる 最後の神事でした

博多の町に 祭りの後の 静けさと

暑い 暑い 夏がやってきます






by nonkei7332 | 2015-07-16 07:04 | | Comments(0)


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7月10日 の朝

博多の町の各流の山小屋に納められた 舁き山が
いっせいに それぞれの町内で動き始めるのが
「流れ舁き」であり
これから 12日 の 「追い山ならし」
15日 の 「追い山」と
祭りは ピークを迎えます


山笠の起源とは いったい なんだったのでしょう

全国では 1500件 近い 山鉾 の祭りがあるとされるなかで
山笠と呼ばれる 山鉾は博多を中心とした 北九州に多いのです
そもそも 山鉾のはじまりは 京都の祇園御霊会 (祇園会) だとされます
古来 京都では 川がよく氾濫する土地だったようで
その度に 疫病がおこり 多くの人が 亡くなっていました
祇園会は 都を 襲う 疫病を鎮める祭事 と スサノオ (牛頭天王) 信仰が
習合し 慣例化した 祭礼だったのです

人々は 疫病の 鎮静を願い 山 や 鉾 と呼ばれる 作り物をつくり
厄神を 移しかえ 依り代 ( よりしろ ) として 川に流したとされます
依り代 を 川に流すといえば
ひな祭り の 起源である 流し雛 も
子供の無病息災を願い 人の型をした和紙を
川に流して 穢れを祓ったもので
やがて 人型( ヒトガタ ) は 人形 と 呼ばれるようになったといいます
山鉾 山笠 に多くの人形が使われるのも
依り代 の起源に因るものでしょう
川に流す という行為は
博多の町 の 「 流 」の呼称の起源のようでもあります
旗 や 川 の数え方の単位も 流 といいます
山笠の 舁き手に向かって
水を掛ける 「勢い水」(きおいみず) も
本来は 「浄い水」 から きたのではないかと 考えられます
それは 水によって 穢れを祓う 行為であって
決して 舁き手の身体を冷やす為だけでは なかったのだと思います
雨もまたしかりです
博多の梅雨明けは 平均すると 7月19日頃だと言われていますから
山笠期間は 梅雨の真っ只中です 雨もまた 浄めの雨なのでしょうか


すべての 穢れを 水で 祓う 女神といえば
「 瀬 織 津 姫 」ですね
歴史の闇に消された 女神といわれている 謎の女神です
瀬織津姫を祀る 福津市の〈 波折神社 〉も 宗像市の 〈 皐月宮 〉も
川のほとり 川口 に 鎮座しています
川 ( 天の川 ) のほとりにいる 女神といえば
棚機 (たなばた) の 織姫 もまた 瀬織津姫 だとも いわれています
古事記の神産み神話 では イザナギが 黄泉の穢れを 禊いで
アマテラス( 太陽の神) ツキヨミ ( 月の神) スサノオ ( 海の神) の
三貴神 をつくったといわれていますが
ツキヨミ は すべての 生を産む 夜の神 であり 女神 であり
その姿は 瀬織津姫 だとも言われています

櫛田神社 の 主祭神は 大幡大神 ( 櫛田明神 ) という神様 です
よく 櫛稲田姫 と 混同されていますが
櫛稲田姫 と 櫛田明神 とは 全く 別の神様です
実は この神様 も 謎多き神様で 言い伝えによると
その昔は 女性の神様であったという 話が あるそうです


勇壮な 男の祭りとして 知られる 博多祇園山笠

しかし その奥には

男達 の 平和への祈りを

そっと見守る 龍神 ( 女神 ) が いるという

私の妄想は どこまでも 拡がっていくのでした







by nonkei7332 | 2015-07-11 19:13 | 古代史 | Comments(0)


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『 半夏生 』( はんげしょう )

別名 を 『 半化粧 』 とも
片白草 』( かたしろぐさ ) とも いいます
ドクダミ科 の 植物で
この時期 白い 紐状の 花が咲かせます
葉っぱ の半分が ペンキを塗ったように 白くなりますが
夏の盛りを過ぎると
また 元の 緑の葉に もどっていくという
ファンタスティック な 変身をするので 有名です


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田植え が 終わった 三連水車



今年も 早くも 半分過ぎてしまいました

夏至から 数えて 十一日が過ぎると
七十二侯 (しちじゅうにこう)

・・・ 二十四節気(にじゅうしせっき)は
半月毎の季節の変化を示しますが
これをさらに約五日おきに分けて
気象の動きや動植物の変化を知らせる
日本独自の暦です ・・・

の ひとつ
半夏生 ( はんげしょう) と なります

今年は 7月 2日 がその日 に当たります
満月 の日です
昔から 農家では この日までに 田植えを終えて
七夕までの 五日間を休みを取ると されています
ちなみに 気候 という漢字がありますが
〈二十四節気 〉と 〈七十二侯 〉の
最後の漢字を 合わせた 言葉だといいます
日本人の自然と共存する 生活文化 がよく表れています




明日から 七月 です
博多では 祇園山笠の行事が スタートします
各流 では 早朝 から 笹竹や竹串御幣を立てて 注連縄を張り
櫛田神社の神職が 祝詞を奏上し お祓いをする
『 注連下ろし』の神事 が行われます
また 『 ご神入れ 』といって
飾り山笠が この日 一般に公開されますが
櫛田神社 の 飾り山だけは
一日早い 今日 神職がお祓いをして 公開されます
夕方には 今年の当番町が 各流れに 先立ち
筥崎浜で 『 当番町お汐井とり 』をします
全流れの お汐井とり は 9日です
ちなみに 今年の当番町は『 大黒流 』だそうです


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《 締め込み 》に 《 法被 》姿の 男達が

町ん中を そうつきあるきだすと

博多の町は 祭り本番です







by nonkei7332 | 2015-06-30 11:31 | 日記 | Comments(0)


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貝原益軒



福岡藩の儒学者 『 貝 原 益 軒 』

《 筑前国続風土記 》などの 歴史書 の 他に
健康(養生)についての指南書
養 生 訓 』(ようじょうくん)を 残した
正徳2年(1712年) 益軒 83歳 の 著作である


第8巻 「 老いを養う 」 (中村学園大学 貝原益軒アーカイブ) より


老ての後は、一日を以て十日として日々に楽しむべし。

常に日をおしみて、一日もあだにくらすべからず。

世のなかの人のありさま、わが心にかなはずとも、凡人なれば、
さこそあらめ、と思ひて、わが子弟をはじめ、
人の過悪を、なだめ、ゆるして、とがむべからず。

いかり、うらむべからず。

又、わが身不幸にして福うすく、人われに対して横逆なるも、
うき世のならひ、かくこそあらめ、と思いひ、
天命をやすんじて、うれふべからず。

つねに楽しみて日を送るべし。

人をうらみ、いかり、身をうれひなげきて、心をくるしめ、
楽しまずして、むなしく過ぬるは、愚かなりと云べし。

たとひ家まどしく、幸(さいわい)なくしても、うへて死ぬとも、
死ぬる時までは、
楽しみて過すべし。

貧しきとて、人にむさぼりもとめ、不義にして命をおしむべからず。

年老ては、わが心の楽(たのしみ)の外、
万端、心にさしはさむべからず。

時にしたがひ、自楽しむべし。

自楽むは世俗の楽に非(あら)ず。

只、心にもとよりある楽を楽しみ、
胸中に一物一事のわづらひなく、
天地四時、
山川の好景、
草木の欣栄(きんえい)、
是又、楽しむべし。



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益軒 の墓がある 金龍寺 (福岡市中央区)







by nonkei7332 | 2015-06-29 19:56 | 日記 | Comments(0)


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井尻橋 から 背振山を望む


博多の町は 二つの川にはさまれている
ひとつは 東を流れる 宝満山 を源とする 三笠川 (石堂川)
もうひとつは 西を流れる 背振山 を源とする 那珂川
今日は 那珂川 の話

《 筑前国風土記 》( 貝原益軒著) には

『 日本紀には、儺河 ( なかがわ ) と書り
此川は、その源 早良郡 背振山の麓 又 此郡、五箇山の奥 大野より
流出、那珂郡中を流れて 博多の西 福岡の東に至りて
道程 六里をへて 海に入る。』

( 那珂川は 背振山を水源にして 那珂川町 春日市 福岡市 を通って
博多湾に注ぐ 延長35㎞の 河川 )


私は 5歳の時から 福岡市の南部 (南区) 《 井 尻 》の町に住んでいた
西鉄大牟田線で福岡から 5番目の駅になる 井尻 は
今でこそ 住宅のひしめく郊外住宅地になっているが
50年前は 沿線一面 は 田んぼが 広がっていた
大橋駅 を過ぎると 田んぼの中から 川が見えた この川が 那珂川
鉄橋を渡ると 間もなく 井尻駅に着く 右手の往還道路に 並行して
狭い路地の 井尻商店街があり 左手には 踏切を渡って すぐに
映画にもなった『 しいのみ学園」という 知的障害者の施設がある
《 しいのみ学園は 1954年 創立 。
創立者は 〈 障害者教育の先駆者 〉といわれる
『 曻地三郎先生 』(1906〜2013) 》


小学校には 今みたいに プールなど無かったころで
夏休みになると 私達は 毎日のように 那珂川 の鉄橋付近で
身体が冷えて 唇が 紫色に変わるまで 泳いでいた
当時の 那珂川は 川底は 白砂で 水も澄んでいたし 綺麗だったのだ
真っ黒に日焼けした顔で 私達は川底に 潜っては 魚を捕まえたり
橋の上から 川に飛び込んだり まるで 河童 のように 遊んでいた

《 井尻 》という地名の由来については調べてみると
那珂川 の川沿いには 〈 井尻 〉という地名が 二つある事がわかった
ひとつは 福岡市南区の 井尻であり
もうひとつは 那珂川町 別所 に井尻地区という場所がある

《 筑前国風土記 》には

『 この郡には ふたつの 井尻村がある』

と書かれている

このふたつの井尻に共通しているいる事といえば 共に川沿いにあり
すぐそばに 《 井堰 》(いせき) がある事だ
南区の井尻のそばには番托井堰 (ばんたくいせき)』があり
那珂川町別所には 日本最古の用水路といわれる
「裂田の溝」(さくたのうなで) がある
その 取水口の すぐ上流にある
井尻井堰 (いじりいせき)』がそれである


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番托井堰 (ばんたくいせき)



《 儺の国の星拾遺 》133P で
真鍋大覚 さん はこう書かれている


『 水を祈る氏族、即ち 《みくまりのかみ》は近東に出る。
ISIS ( イシス ) ISRAEL (イスリル) がこれである。
倭人は伝えて 《いしり》と名付け、
もって 水勢の多寡と水温の上下を治す 女神の神とした。
今に残る 井尻 の郷名は その祠が安置されるところであった。』

また 145P には

『 かつて エジプトの祖神なる イシス は ナイル川の灌水に
全身の叡智をそそいだ 女人であったと 伝えられる。
倭人は「ゐがわのやまのかみ」なる 女神を
井出、唐門 のところに必ず祭った。
今の 井尻 なる 郷名が まさにそれであった。』


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エジプト神話 の イシリ女神




《 みくまりのかみ 》とは ウイック によれば

みくまりのかみ ( 水 分 神 ) とは 神名の通り、
水の分配を司る神である。
「くまり」は「配り(くばり)」の意で、
水源地 や 水路の分水点などに祀られる。
日本神話 では 神産みの段で
ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ 両神の子として
天水分神 (あめのみくまりのかみ)
国水分神 (くにのみくまりのかみ) が登場する
水に関わる神ということで 祈雨 の対象ともされ
また、田の神 や 水源地に祀られるものは 山の神 とも結びついた
後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、
子供の守護神、子授け安産の神としても信仰されるようなった 』


思いもしない 井尻 の地名 が エジプト神話 に 繋がることになったが
水分神 (みくまりのかみ) が祀られた 地 を井尻 といったのだろう

那珂川町の井尻地区では 毎年5月31日
井出あげ 』という神事 が今も 行われている
区の人達が 水門を清掃して 御神酒を注ぎ
水の恵みに感謝し 安全を祈願。
その後 水門西側の高台にある 五穀神に
五穀豊穣と田植えの無事をいのるという。


私が 少年期 青年期 を過ごした 井尻 の町には
こんな 地名の由来が あった


梅雨の晴れ間 今日は 真夏日に なりそうだ

田植えも 終わった 農家の人達の

ほっとした 顔が浮かんでくる








by nonkei7332 | 2015-06-29 16:38 | 古代史 | Comments(0)


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博多祇園山笠 飾り山 『 博多の豪商 神屋宗湛 』




博多商人の 三傑 と言えば
〈神屋宗湛〉〈島井宗室〉〈大賀宗九 〉
そのなかでも 博多町人にとって 最も親しみのある 豪商こそ
《 神 屋 宗 湛 》でしょう

神屋家の祖先は 鎌倉幕府の御家人で
宗像の大宮司 宗像氏貞 に仕えた 神人(神職) でした
いわゆる 物部氏の末裔の もののふ だったようです

宗湛は 天文20年 (1551年) 時は 室町時代の終わりに
神屋紹策 の子として 博多に生まれています
幼名は 善四郎貞清
中世の博多は 常に戦乱に巻き込まれ
町は何度も荒廃しました
永禄12年(1570年) 毛利 と 大友 の両軍が
博多で激戦をした時は
宗湛一家は 肥前唐津に難を逃れて移り住みます
宗湛19歳の時でした
( この時 山笠人形の小堀家も 唐津に難を逃れています )

宗湛の祖父 神屋寿貞 は 明国で 冶金術を学び
石見銀山を発掘して 銀鉱の精錬術を成功させた
偉大な 商人でした
その血をひいた 宗湛は 唐津における 17年間
父 紹策の指導の元
海賊松浦党の援護もあり 海外貿易の商才を磨く かたわら
茶道の修行にも励み その道にも 精通したとされます

天正13年(1586年) 宗湛 35歳の時 上洛の志を果たします
茶道の名人であった 京都大徳寺の住職 古渓和尚の弟子になり
宗湛 の名前を 号するようになります
天正15年 堺の茶人 津田宗久 の手引きで
豊臣秀吉と 大阪城の茶会で 謁見します
秀吉は 「筑紫坊主」と宗湛のことを呼んだといいます
その時 宗湛は 島津氏に焼き払われた
博多の町の 再興を願い出たのです
宗湛の先見は 見事に的を得たようです
その年 秀吉は 九州征伐の軍を起こし 自ら 出兵します
九州に戻った 宗湛の活躍は 目を見張るものがありました
兵糧 や 秣(まぐさ: 軍馬の餌) の供給を一手に引き受けたり
秀吉のそばで 戦地に赴き すべての 雑務をこなしたのでした

島津征伐を終えた 秀吉は 博多に戻り 箱崎に本陣を置き
宗湛は 諸大名や千利休も呼んで
盛大な茶会を 催したりすることで
さらに 秀吉の信頼を 得たようです
そして それは 秀吉の 願望だった
朝鮮出兵の補給拠点としての
博多の町の 再興を決意させることにも 繋がっていきます
こうした 政商 神屋宗湛 の 機敏な 行動と働きは
秀吉の 朝鮮出兵の時期を早めたとも 言われているのです

博多の町を 再興させた 豪商 神屋宗湛
秀吉亡き後も 黒田家の 御用職人として 博多に住みつき
博多の人々に愛された 宗湛 は 83歳の長寿を全うしました


宗 湛 と 秀 吉

もののふ の血を引き継いだ

博多那の津の商人 と 尾張の猿楽師のせがれ の 出会いは

ひとつの 歴史を 後世に残したのでした







by nonkei7332 | 2015-05-18 21:31 | 博多ルーツ | Comments(0)


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小堀流山笠人形の直系といわれている
人形師 白水英章さん と 山笠人形
(西日本新聞)



木偶の坊 (でくのぼう) は 《語源辞典によれば》

「 平安時代の 「くぐつ」という木彫りの操り人形のことである
木偶の坊が 役立たずの意味になった由来は
木の人形を無能な人に喩えたことによるものなのか
人形が手足のない 木の棒のようなものであったことからされる
ただし 「でくのぼう」の「ぼう」は親しみや軽い嘲りを表す
接尾語として用いられている為 「木偶の棒」と書くのは誤りである

人形が「木偶の坊」と呼ばれるようになった由来は
「でくるぼう」とも言われたことから
「出狂坊(でくるひぼう)」を語源とする説。

「手くぐつ」が訛った「でくる(坊)」から
「木偶の坊」になったとする説などが
有力とされるが 正確な語源は未詳。

その他 「泥人形」の「泥偶(でいぐう)」が訛り
「でく」になったという説もあるが
《泥人形》と《木彫りの操り人形》の関連性の薄さや
「でく」から「でくる」になった後で
「でく」に戻ることは 考え難いために
有力視されていない 』

この語源説の中で 私がもっとも 興味深いのは 有力視されていない
「泥人形」と「木彫りの操り人形」の 関連性です




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小堀氏略系図 (福岡市博物館所蔵)



小堀善左衛門正直 《小堀氏略系図》によると
『 京都四条 に 住む 木偶師 』でした
「木彫りの操り人形」を作ることを生業にしていたことは
永享9年(1437年) に 京都から 博多の櫛田神社に 召喚され
博多祇園祭りの 山笠人形の始祖 になったとされています
当初の山笠人形は 木彫りであり 手も足もない 頸だけの木彫りだったことから

博多の山笠人形の 元の形は 京都のからくり人形 だったと考えられます


《追懐松山遺事》山崎藤四郎著 によれば

『小堀家12代 小堀甚三方の古記によれば 同家が 人形の頸 を種々所持していたので
当番町はその中から適当なものを選び 人形一つに 白木綿一反 と 木綿形付きの浴衣
博多織の男帯 に 足袋一足宛をやっておけば 小堀家にて 人形の形態を造り
その浴衣を着せ 人形の男女にかかわらず 右の帯を締めさせ
両足には 黒木綿の脚絆の如き物を作り 足袋をはかせて 人形が出来上がる
しかして 各人形の前には「八つ足」机をすえ 榊 お神酒 お灯明等 を供え
旧5月28日 櫛田神職 天野氏は 小堀甚三方に赴いて “御祓(ご神入れ)” をする
その夜 小堀家へ 人形を見に行く人が多かった』 とあります



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博多人形 白水英章作



「泥人形」といえば
国内で最も古い 土人形といえば 京都伏見の 「伏見人形」だといわれています
伏見城から伏見稲荷までの一帯 は 深草 と呼ばれ 7世紀の初めには
この地では 土器がつくられ 土師部(はじべ・埴輪や土器を作る職人)が 
奈良の菅原から移住してきたという 文献が残っています
やがて 稲荷信仰の 全国への拡がりと一緒に この人形も全国にひろがり
各地の郷土玩具へと なっていったようです
さて 博多人形 の歴史をたどれば 素焼き人形として 最初に作られたのが
文化5年(1821年) 中ノ子吉兵衛 によるものとされています
九州に於いては 最も古い土人形と言われているのが 長崎の 「古賀人形」です
文録元年(1592年)京の伏見人形の流れをくんだ土人形をつくるようになったといわれています
実は 博多には 文化年間より もっと古くから 京都の伏見の流れをくんだ
人形が 作られていたという 説があります
貞享元年(1684年) 正徳元年(1711年) 元文3年(1738年) に 没した人の 墓に
土人形が 納められていたという記録が残っているというのが
その根拠になっています


《 稿本 古博多人形史 》梅林新一著 によれば

『 小堀家が 京都出身である事から 時代の古い 墓地からの出土品が
伏見人形の移入品であるか それとも 小堀家
或いは その系統の人によってつくられた
伏見人形を模索した 土人形であるやもしれない 』



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野見宿禰




その説を 補足するのが 《小堀家略系図》の最初に書かれている
『 野見宿禰 後胤 』の 文字です

野見宿禰 (ノミノスクネ) とは

『天穂日命(アメノホヒノミコト) の子孫で 垂仁天皇の命により
当麻蹴速(タイマノケハヤ) と力を争って勝ち 相撲取りの祖とされている
また 皇后の死に際し 殉死の代わりに 陵墓に 埴輪(はにわ)を立てる事を進言して
土師臣(はじのおみ) を 拝し 子孫は 天皇家の葬儀をつかさどったようだ
土師氏 の 直系が 菅原氏 である 』

文献が見つからず 推論の域をでませんが
小堀家 の祖先は おそらく 菅原家 の流れをくむ 深草の 土師部 であり
伏見人形を 造っていたのではないでしょうか
後三条天皇の延久4年(1072年) には 伏見稲荷社 と 祇園社に 天皇が行幸し
これを 「両社行幸」と称して 歴代の慣例として鎌倉時代まで続いていたようで
おそらく 両社の繋がりは 深いものであったのでしょう
その繋がりで その後 小堀家は 祇園社(八坂神社) の所領である 京都四条に移り住み
その地にて 木彫りの操り人形 をつくるようになったのではないでしょうか


《 泥人形 》と 《 木彫りの操り人形 》

《 博多人形 》と 《 山笠人形 》を 博多の町で 結びつけた

小堀善左衛門正直

彼こそ 正真正銘の 《 木偶の坊 》(でくのぼう) だったのです







by nonkei7332 | 2015-05-11 22:50 | 博多ルーツ | Comments(0)