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《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて



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菩提樹 の 花




箱崎宮 参道にある 〈恵光院〉の 菩提樹の花 です



黄色い 花の下に立つと 甘い香りに包まれます



お釈迦様 菩提樹の下で 悟りを開いたとされます



その菩提樹は インド北部原産 桑科の熱帯樹で



〈インド菩提樹〉といわれている木です



恵光院 菩提樹 中国原産 科の木(しなのき)科の菩提樹 です



どこで 間違えたかというと



日本で一番古い 禅宗のお寺は 博多の聖福寺 です



ここの開祖が栄西禅師



宋から お茶を持ってきて 背振山に植えて



日本国中に お茶を広めた 人ですが



もう一つ から持ってきたのが 中国原産の菩提樹です



どうやら インド の菩提樹だと 間違って持ってきたみたいです



日本各地の寺院にある 菩提樹 全て この菩提樹 です




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恵光院 菩提樹 樹齢200年だそうです



恵光院 真言宗のお寺さんで



黒田第二代藩主 黒田忠之が 開基しました



本尊は 薬師如来



明治の廃仏棄釈で 筥崎宮系の寺院は



ほとんど 無くなりましたが 唯一 残ったのが 恵光院 です



境内にある 〈燈籠堂〉は もともと 筥崎宮の中に在った堂宇で



秀吉 箱崎に宿陣の折 千利休が 茶を奉ったとされる



由緒ある お堂でした




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釈迦涅槃図 (一部)




本殿 釈迦涅槃図 開帳されていました



室町時代の作だそうです 作者は不明です



15年前に 修復されたそうです



釈迦の横に 木がありますが これは 菩提樹ではありません



この木は 〈沙羅双樹〉といわれる木です



『平家物語』の 冒頭に出てくる あの木です




祗園精舎 鐘の声


諸行無常 響きあり。


〈沙羅双樹〉の 花の色


盛者必滅 理をあらはす。


おごれる人も久しからず


ただ春の夜の夢のごとし。




沙羅双樹 花の色は ?



インド原産の 沙羅双樹 淡黄色 だそうです



これまた 日本では 育たない木だそうで



日本で 沙羅双樹 といわれている木は



椿 》と呼ばれている 木だそうです



真っ白な 花が咲くそうです







by nonkei7332 | 2017-06-08 21:34 | | Comments(0)



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博多区 青木 の 地禄神社
(空 sofa そら) さんの ブログより




福岡市近郊の神社を調べていると



しきりと出てくる



同じ名前の神社があります



それは 《地禄神社》と 《埴安神社》です




《地禄神社》は 博多区に 5



〈堅粕〉・〈上牟田〉・〈竹下〉・〈青木〉・〈上月隈〉



南区に 4



〈塩原〉・〈向野〉・〈三宅〉・〈井尻〉



早良区に 〈野芥〉地禄天神社



春日市に 〈春日〉地禄神社



大野城市には 5



〈仲畑〉・〈畑詰〉・〈釜蓋〉・〈瓦田〉・〈白木原〉



太宰府市には 〈大佐野〉地禄神社



大小合わせて 17 地禄神社 鎮座しています




不思議なことに 中央区や博多区の都心部には無く



都市部近郊に散らばっています



各神社とも 創建は不詳となっていますが



古くは 67世紀前後の古社もあるのではと思われます



その頃の 福岡は 今の海岸線ではなく 内海が拡がっていて



おそらく 地禄神社 建っている辺りが 海岸線であったようです



人々の住む海岸線に 同じように祀られた 祭神 とは



『埴安神』(はにやすしん) です




埴(はに)とは「和名類聚鈔」に



『土薫而細密日埴』(つちかおりてさいみつなるをはにという) とあります



埴安神 土の神様 であり



田畑の土壌に宿り 穀物の豊作をもたらす神様なのです





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早良区 西 の 埴安神社
(空 dora そら)さん の ブログより





〈埴安神〉を祀った 《埴安神社》も 福岡には 8 ありました



早良区に 2 〈次郎丸〉・〈西〉



西区 2 〈姪浜〉・〈今宿〉



糸島市の野北・中央区の鳥飼・南区の柏原



筑紫野市の杉塚 にも 鎮座しておられます




甘木朝倉一帯に 無格社や摂社を含め 40社近く鎮座する



〈田神社〉がありますが



この祭神も 埴安神 なのだと 知りました




〈埴安神〉とは



博多の総鎮守 櫛田神社 の主祭神 である



《大幡主神》なのです




福岡 地禄神社 埴安神社が多く鎮座する 理由がここにありました





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百嶋系図 部分



百嶋神社考古学系図 によれば



大幡主 (埴安神)の妹が 〈埴安姫〉となっていることも



これを証明しています




〈土〉といえば 神話に出てくる 山幸彦を竜宮城に連れて行ったのは



塩土翁(しおつちおじ) でしたが



百嶋説は 大幡主神 塩土翁 同一人物だとします



もう一つ 〈土〉といえば



埴輪 (はにわ) の神様といわれたのは 〈野見宿禰〉(のみのすくね)です



土師氏の 祖神 といわれていますが



百嶋説 〈野見宿禰〉を



出雲神話における 天穂日命(アメノホヒ)の子供である



天夷鳥命(あめのひなとり) = 武夷鳥(たけひなどり) だとします



そして 天穂日命(アメノホヒ)は 豊玉彦 と同一人物ですので



これによって 博多の祖神 三代にわたる 系図が出来上がります




大幡主神 = 埴安神 = 地禄神 = 塩土翁 (初代)



豊玉彦 = 天穂日命 = ヤタガラス (二代)



野見宿禰 = 武夷鳥 = 土師祖神 (三代)





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埼玉県久喜市 の 鷲宮神社



後世 大和朝廷より 関東開拓を命じられた 河内の土師氏が



下総の利根川の上流 久喜市辺りで 祖神 である



〈天穂日命〉と 〈武夷鳥〉そして 〈大己貴命〉(大国主命) を祀ったのが



「関東最古の大社」「お酉様の本社」といわれる



『鷲宮神社』(わしみやじんじゃ) です



出雲族の草創に関わる 神々 といわれていますが



私には 博多の主の 神々 に見えてきます





博多の主の神々(大幡主命・豊国主命・大国主命)



神武天皇 から 代々 続く 九州王朝 を支えていたのでした







by nonkei7332 | 2017-05-19 13:10 | 古代史 | Comments(0)


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御島神社鳥居 と 立花山




御島 とは 神がいた 神の島でした



〈香椎潟〉と呼ばれる 海岸線があって



万葉集に 三首 詠われています




いざ子ども 香椎の潟に 白袴の袖さへ濡れて 朝菜摘みてむ


6956 大伴旅人(おおとものたびと)




時津風 吹くべくなりぬ 香椎潟 干の浦に玉藻刈りてな


6957 小野 老(おののおゆ)




行き帰り 常に我が見し香椎潟 明日ゆ後には 見むよしもなし


6958 宇努 男人(うぬのおひと)





太宰府の官人達は



香椎宮に詣る ことが 日常であったみたいです



その帰りに 香椎の浜まで来て



遊んだ思い出を詠んだ歌なのでしょう





その 香椎潟 御島 がありました



今は 島の姿はなく そこに鎮座していたであろう



神社の 鳥居 海の中に ぽつんと立っています



その 神社とは 〈御島神社〉です 香椎宮の末社 です



祭神は 綿津見神 です




この神社の由緒が 『八幡本記』には こう書かれています




香椎宮の西、浜男と云ふ所の浜、是即ち橿日浦なり。



ここより八、九町ばかり沖に大岩あり。是を御島と云ふ。



則ち、皇后のいたり給ひて、御髪をすすがせ給ひし処なり。



岩島にて其の上に御島神社の社あり。」




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御島グリーンベイウオーク 全景




香椎潟は 埋め立てや 都市開発で 綺麗になりました



今や 私の お気に入りの ウォーキングコース なのです



最近 名前がつきました 御島グリーンベイウォーク



新緑の 立花連山 眺めながら 2900M のコース






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〈香椎浜北公園〉をスタートして 〈片男佐橋〉を渡り



〈香椎海岸遊歩道〉を歩きます






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海上の人道橋と日本最大級を誇る 〈あいたか橋〉を渡ると



〈アイランドシティ外周緑地〉最後に



〈御島かたらい橋〉を渡ってゴールです




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海岸の欄干に シロツメクサ 作った



髪飾りが掛けてありました




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神功皇后は ここで 髪を洗い 髪を結い上げて



男の髪型にしたという



伝説が残っています 三韓征伐の出発地なのです



女から 男に変わった場所なのです



頭に飾ってあった かずらを外して ここに 掛けたのでしょうか





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今日は 子供の日



戦さなどない



いつまでも 平和な国であって欲しいですね







by nonkei7332 | 2017-05-06 11:20 | 日記 | Comments(0)


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狛 魚




どこの神社でも よく 見られるのが 狛犬 (こまいぬ) です



入り口 辺りに 一対 置かれています



獅子 狛犬 だけではなく 神仏の 守護獣 として



多くの 動物 その役目を果たしています



一般には「神使」といわれています



神の使いですから そこの 祭神と



何らかの縁のある 動物が置かれているわけです



有名なのが 稲荷神社の 〈狐〉であったり



弁財天 〈蛇〉であったり 毘沙門天 〈虎〉だったりします



さて 名島神社 には 全国でも 珍しい



》が あります



ギョ ギョ ギョ~ 初めて見た人は そう云います





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シーラカンス




生きた化石といわれる 深海魚



シーラカンス (coelacanth) によく見ると 似ていますよね



対馬の琴崎にある 胡禄神社の伝承に 海神の姿を



金鱗の蛇 》だという話が残っています



もともと 名島神社は 明治になるまでは 名島弁財天 として



世間に認知されていたわけですから も絡んで 当然です



狛魚 = シーラカンス = 金鱗の蛇 = 海神



名島神社の謎解き こんなところにもありました





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名島神社 の 千木





ところで 名島神社の 祭神はと いえば



宗像三女神 田心姫 ・湍津姫 ・市杵島姫 ) です



ところが 神殿の千木 をみると 男千木 です



もうひとつの



この神社の古祭神 女神ではなく 男神 かもしれません



このパターン いくつか見て来ました



宗像大社 呼子の 田島神社 もそうでした



そこに 隠れて 鎮座する 古祭神 大国主命 でした




神殿の裏に鎮座する 摂社 を見てみると





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妙見宮 (天之御中主神)




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大黒天社 (大国主神)




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恵比須社 (事代主神)




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百嶋系図 より 主の神々




主の神 (ぬしのかみ) の勢揃い ですね



とすると 古祭神は



〈大幡主 = 大若子〉もしくは 〈豊国主 = 小若子 = 豊玉彦) となります



海神といえば 安曇磯良 を思いますが



磯良 もっと 後世の 海人族の主だと考えています



ここでは 豊玉姫の父 豊玉彦 》が 名島神社の 古祭神なのでしょう





名島神社 そうですが 北九州には



神功皇后の伝承 が多く残されています



日本書紀 異様なほど 神功皇后紀 多くの紙面を割かれています



そこには 九州王朝 (神武・懿徳・孝霊・孝元・開化・仁徳)



存在を隠そうとする 畿内王朝の意図を感じます



私的な考えですが 神功皇后の三韓征伐は 作り話だと思っています



『三国史記』にも 史実として 幾たびかの



倭国の新羅への侵攻の記事が書かれていますが



とりわけ 斉明天皇(女帝) 新羅侵攻



だぶらせて 描かれたのではないかと 私は思っています





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本殿四角 の 四神
東 の 青龍


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南 の 朱雀





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西 の 白虎





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北 の 玄武









豊玉彦 別称 八咫烏 (やたがらす) です



同じ 鳥でも カモメ カモメ



海神神社 の中を カモメ達は 自由に 走り回っていました







by nonkei7332 | 2017-04-26 20:48 | 古代史 | Comments(0)


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名島神社から見える 博多湾





カモメ達が 登っていった後から



最後に 神社の階段を登りました



途中 左手に下り曲輪〉と呼ばれる 土俵のある 広場から



遠くに 志賀島が見える 見晴らしのいい場所があります



そこから 見える海が



〈 磯良の海 〉です



そう 名づけたのは 私 です



今では 100年公園 カモメ大橋 にさえぎられて



能古島 志賀島 隠れてしまいますが



ほんの 50年前迄 は



島影 の美しい 景観だったのでしょう




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博多湾屏風図






博多八景 〉という 博多の町の 景勝地がありました



近江八景 金沢八景 というのは 有名ですので



博多八景 なんて 二番煎じゃないの と思われるかもしれませんが



実は 中国北宋時代 元祖八景〈瀟湘八景〉に影響を受けた



日本での 最初の八景は 博多八景 》だったのです



初代八景は 中世 鎌倉末期



聖福寺の僧 〈鉄庵道生〉(てつあんどうしょう)



八つの景観に合わせて 漢詩を作ったのが 初代です





香椎暮雪(かしいぼせつ)


箱崎蚕市(はこざきさんし)


長橋春潮(ながはししゅんちょう)


荘浜泛月(しょうはまはんげつ)


志賀独釣(しかどくちょう)


浦山秋晩(うらやましゅうばん)


一崎松行(いっさきしょうこう)


野古帰帆(のこきはん)





その後 近世 江戸時代 に書かれた『石城志』(せきじょうし)という



博多紹介本には また 違った 八景が 書かれています





濡衣夜雨(ぬれぎぬやう)


箱崎晴嵐(はこざきせいらん)


若杉秋月(わかすぎしゅうげつ)


奈多落雁(なたらくがん)


博多帰帆(はかたきはん)


横岳晩鐘(よこたけばんしょう)


竃山暮雪(かまどやまぼせつ)


名島夕照(なしませきしょう)






余程の 博多通でないと 場所が 特定できませんね



この中で 名島夕照 があります



名島海岸から 見える



島影に沈む 夕陽 朱く染まる海が



絶景だとされたのでしょう






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名島海岸から 落ちていく夕陽を 写していました




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2014928 17:22



夕陽に 飛び込んできた カモメです



カモメ大橋 から写した



お気に入りの 一枚 です




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カモメ達は



拝殿横の 手水舎 囲んで 清めの作法 を習っていました



飲んじゃダメ ! 口をゆすぐだけ ‼︎



キョトン とした 男の子が 私に云いました



どうして 飲んじゃ ダメなの







by nonkei7332 | 2017-04-26 06:45 | 古代史 | Comments(0)



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名島神社 二の鳥居




名島海岸 を通り過ぎると



名島神社の入り口 に出ます 二の鳥居です



珍しい 両部鳥居です



道路をはさんで 海岸には 一の鳥居が あります



海岸下手 小さな祠があります




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名島神社 古宮





何も知らない 一人の子が その前で手を合わせていると



ぞろぞろと 後から来たカモメ達が



同じように 手を合わせていきます



何とも 不思議な光景を 私は 見入っていました



祠には 何も書かれていませんが



実は ここは 名島神社の 古宮〉 です




古代より この神社は



島(名島は島だった) の頂上に鎮座していましたが



中世 豊前大友氏の庶流



立花家7代の 立花鑑載(たちばなあきとし)が



立花城の出城として 築いたのが 城の始まりで



その後 秀吉が 筑前を 小早川隆景 に与えると 隆景は



名島城を 改修して 居城に仕上げます




その際 頂上の社を 海岸下手に移動させたのが



この祠の場所だったようです




黒田長政が 名島城を廃城にすると




現在の位置に 社殿は移され 古宮は



昔の面影として 小さな祠が残っているだけになっているのです





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庚申塚




二の鳥居の横には 大小数体の 石碑が建っています



石碑というより これらは 〈庚申塚〉です



庚申塔 とも呼ばれる これらの 石塔は



福岡の町のあちらこちらでも 見られます



庚申信仰 の始まりは 古く 奈良時代だと言われています



その後 平安貴族や 武士階級にも拡がり



猿田彦 地域を護る 塞の神 田の神 地蔵尊とも習合した



道祖神信仰として 民間にも 拡がり



江戸から明治にかけて 大流行します




庚申信仰は 中国の道教が起源です



人の体には 〈三尸の虫〉(さんしのむし) という虫が



生まれた時から 誰にでも 住みついていて



60日に一度 庚申の日の夜 人が眠っている間に



天に昇って 人が行なった 悪事を報告しに行くといいます



それによって人の寿命が短くなったり 死んで地獄に落ちたりするので



だったら その夜は 寝ないで過ごそうというのが



〈庚申待ち〉といわれる 行事です 近所で集まって



朝まで呑み明かすという 行事が 全国的に流行したそうです



庚申待ち 3年続けると その記念に 石碑を建てたといいますから



江戸時代には 町中 庚申塚 だらけになったそうです



明治になって 廃仏毀釈にともない 庚申信仰は迷信だとされ



政府は 多くの 石塔を壊します



それ以来 庚申信仰は急速に衰えてしまいました



まだ 未だ 地域によっては 多く 残っている所も あるようですが



町の景観の変化に いつかは 無くなっていくのでしょうか





名島神社脇の 庚申塚 には



「庚申大福神」「青面金剛」と書かれています



〈青面金剛〉は 仏教系の庚申塔の性格が強いとされる



三尸の虫を抑える 神様です





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神社の階段を


若葉が薫る 木洩れ陽の中を


カモメ達は 翔ぶように 登っていきます


危ないぞ 走るな~‼︎


私の声は 全く 無視されていました









by nonkei7332 | 2017-04-24 21:20 | 古代史 | Comments(0)


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毎月 2回 土曜日になると



地域の カモメ(子供)達が 〈カモメの城〉(公民館) に集まってきます



私達(ボランティアスタッフ) 支援団体からいただいた



食材で カモメ達の昼食の準備に取りかかります



今回の 献立は 〈ちゃんぽん〉 〈おにぎり〉



私の役目は いただいた りんご の皮むきです



午前中 公民館の講堂で カモメ達は 自由に遊んでいます



卓球をしたり カードで遊んだり ケンカをしたり 大騒ぎです



昼になると 一転 静かに ランチタイム です



食事が終わると 前回カモメ達と 約束させられていた



近くの公園まで ハイキング です



行く先は 近くの名島城址公園です



総勢21 私一人では とても 引率できないので



お母さんスタッフ2人も 手伝ってくれました





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名島海岸 から 湾岸倉庫街を望む

奥が 背振山系




名島海岸に つきます



白砂の海岸です 開発されるまでは




妙見島という島があって



島に伸びる 砂州が 名島海岸になって残っています



この〈妙見島〉今は陸化して 島の面影はありませんが



いろんな 伝承が残っています





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博多近隣古図 (1812年)

妙見島 弁財天 名島城址




「筑前国続風土記」には 神功皇后 三韓征伐 に出発したのが



黒津(名島)だと言われていて その突端にある 妙見島は



船具や武器が収められていた 倉庫だったと 書かれています



中世 博多の豪商 神屋宗湛 が書いた 「宗湛日記」には



秀吉が 博多に来た時には この島で 茶会が催され



名島城主の 小早川隆景 この島で 度々 茶会を行なったと記され



この海岸でも 何度となく 酒宴も行われていたと書かれています



島跡には 今でも 井戸跡が 残っています





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名跡地 太閤秀吉公茶遊井戸跡

右側が 井戸跡です



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昭和31年 名島付近の航空写真



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昭和34年の妙見島の写真




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現在の鳥居跡




古い写真には 建物の横には 鳥居がみえます



今でも その辺りには 注連縄がはられています



かつては この島には 妙見神 が祀られた 社殿 があって



島自体が 聖地 だったのでは ないかと思えます



〈妙見神〉といえば 北極星と北斗七星の御神霊です



宇宙の中心であり 全ての方位や 人間の運命を左右する



根源の神だといわれています



そして この神は



天之御中主命 同一神 だと 言われています



天之御中主命 主の神 白族の女神 菊理姫



博多の主の神 大幡主命 祖母に当たる 天之御中主命



ここで 子孫の 海神達を見護っていたのではないでしょうか





白砂は 多くを語ってくれます



裸足になったらダメだぞ



私の言うことなど 全く無視して 靴を脱いだ女の子が



嬉しそうな顔をして 叫んでいます



だって こんなに気持ちいいんだよ








by nonkei7332 | 2017-04-24 13:39 | 古代史 | Comments(0)


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筑前琵琶師 尾方蝶嘉さん
ホームページより




明治の始め 博多の町に

栗山幽斎という 旧黒田藩士が住んでいました

黒田二十四騎の筆頭 栗山大膳 の ゆかりの人物かどうかはわかませんが

明治3年6月 この旧藩士に 愛くるしいひとり娘が生まれます

この親子に その後何があったのかは 定かではありませんが

両親が やがて亡くなり ひとり残された 娘は

博多の花町の養女となって たくましく 生きていくのでした

娘はやがて 妓名 を 《 金 時 》と 名乗ります

その 生まれ持った 美貌 と 美声 で 若くして

博多の 券番 でも 人気の芸妓の ひとり となりました

金時 は 三味線 と 月琴 の名手でした

引く手数多の贔屓筋の中で 金時 を射止めたのは

博多の富豪 《 加納 熊次郎 》です

酒造家の 加納熊次郎は 金時の奏でる 月琴を聴きながら

その芸才を 誰よりも 理解していましたし

その為なら 財を惜しむことはありませんでした

金時という名に別れを告げ 《 吉 田 竹 子 》と名乗りました

そして 明清楽 や 八雲琴(二弦琴)をも 修めたのでした


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筑前琵琶
尾方蝶嘉さん ホームページより



京都におこった 平家琵琶 は 室町以降 100年の間に 全盛期を迎えます

その後 戦国の世に入り 仕事を無くした 琵琶法師達 は

生活苦のために 京を離れ 多くは 流浪の僧となって

西へと 流れて行きました

琵琶と云えば 太宰府 四王寺山に 居を構えた

筑前琵琶 の 始祖である 玄清法師 は 成就院 を建立し

九州盲僧の中興の祖と仰がれたのですが

法印の 第九世 寿讃(じゅさん) は 博多の 蔵本町に 成就院を移し

〈臨江山 妙音寺〉と 名前を変えます

妙音寺 は 西日本の盲僧院坊の触頭として隆盛を続けますが

天正末期に兵火により灰塵に帰してしまいます

黒田二代藩主 忠之は 福岡城の鬼門除けの霊寺 として

藩の祈祷所として 妙音寺 を 再興したのでした

博多には 妙音寺 の元で いくつかの 盲僧坊がうまれます

妙福坊(橘智定の家祖) 大泉坊(鶴崎賢定の家祖) 観照坊(高野観道の家祖)

これらの盲僧達は 「般若心経」や「地鎮経」を 琵琶に弾じたり

荒神払いといって 家々を回り 布施でなんとか 命を繋いでいたのですが

明治4年 になると 新政府は「盲官廃止令」を発布します

この廃止令 は 盲僧の存在が 治安維持や 戸籍編成 の妨げになると

考えられたからですが 明治5年 には 「修験禁止令 」も 出され

修験道も 禁止されます

仏教寺院にとっては 多難の時代の始まりでした



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明治22年 の 博多地図




荒神琵琶 も 時代の流れには 逆らえません

この流れに危惧した ひとりの 愛琵家 が 動きます

あの 加納熊次郎 でした

加納 は 絶滅寸前の 琵琶再興の志を 二人の人物に委ねます

妙福坊の橘旭翁 と 吉田竹子 でした

二人には 薩摩琵琶の改良研究と 新たな 弾法と音曲の開拓を託します

盲僧琵琶と三味線の折衷を試みた 吉田竹子は

明治26年(1893) 博多の文士 今村外園 が 忠君愛国の軍人を詠った

「谷村計介」の作詞に 自ら 曲を付け弾奏し 大好評を得ます

この音曲が 筑前琵琶の原形 だとも いわれているのです

この流れに 博多の政財界の名士たちも後押しをします

伊藤博文 や 金子堅太郎 その弟 金子辰三郎 そして

玄洋社総帥の 頭山満 など が

橘旭翁 や 吉田竹子 の 東京進出に 力をかします

筑前琵琶の五弦を 提唱したのは 頭山満だったという話も伝わっています

吉田竹子 は 加納熊次郎 が亡くなると 博多に戻り

筑前琵琶後進の育成に 力を注ぎ 多くの名手を育てます


大正12年 11月 博多の町で 多くの弟子に看取られながら

吉田竹子 は 52年 の 波瀾万丈の華やかな 人生を閉じます

竹子は 意識が遠のく中で 熊次郎 の姿を見つけたのでしょうか

『 旦那さん そばに行くのは 早すぎましたか 』

幽かに そう呟いて 目を閉じたと言います



加納熊次郎 と 吉田竹子

筑前琵琶を語るとき 忘れては いけない 二人なのです






by nonkei7332 | 2017-03-15 00:37 | ルーツ | Comments(0)


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尾方蝶嘉 さん




近くの 公民館で行われた

『筑前琵琶の歴史と演奏』という イベントに参加しました

講師と演者は 尾方蝶嘉 さん でした


尾方さんは

福岡県出身 福岡市在住

西南学院大学法学部卒

嶺青流筑前琵琶保存会 師範


日本琵琶楽協会会員

13歳より筑前琵琶を嶺青流流祖:嶺旭蝶、青山旭子に師事

琵琶による現代邦楽を田原順子に師事

洗足学園音楽大学現代邦楽研究所(20期)卒

2014年NHK邦楽オーディション合格

(NHKの邦楽番組に出演するのにふさわしい高度な演奏技術を有する)

(尾方さんの ホームページより)



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福岡が発祥の 筑前琵琶 です

歴史 を追いかけてみました


1200年前の話です 筑前には 琵琶を弾く 盲僧の系統があって

奈良の帝 の勅命で 佐理養 と 麻仁養 という 二人の 盲僧が

地鎮祭に呼ばれ 琵琶を弾奏したという 伝説があります

称徳女帝の頃 神護景雲2年(768)

四王寺山の麓 坂本に ひとりの男の子が生まれます

この子が17歳の時に 失明し 盲僧となって 修行を重ね

後年 九州盲僧群の中興の祖と仰がれる人となります

名前を 《 玄清法印 》といいます

筑前琵琶 の 始祖だといわれています

玄清法印 は 桓武天皇延暦4年(785)

6人の盲僧の弟子を引き連れて 比叡山に登ります

最澄 が 延暦寺を 開くにあたり 玄清達に「地神陀羅尼経」を

琵琶で奏でる事を 頼んだからだといいます

そして 長年 最澄を悩まし続けていた 悪蛇を 退散させました

三年後 坂本に戻った玄清は 成就院を建立し

嵯峨天皇弘仁14年(823) 58歳で亡くなります

こうして 筑前琵琶 は 盲僧琵琶 と 呼ばれて 後世に続いていきます

明治の中程まで 博多の町 では 人家の表に 荒神を祀っていました

祭りになると 盲僧達は 家々を回って荒神の前で琵琶を弾きながら

荒神の霊を 慰めては お布施をもらっていたようです

『荒神琵琶』とも呼ばれた 筑前琵琶 は


その後 「平家物語」などの 俗曲な 歌が作られていきます

「崩れ琵琶」と呼ばれる 新しい形式の 歌曲が 歌われるようになり

明治37年頃からは 博多の町が 筑前琵琶 一色に染まっていったのでした

博多に いくつかの 家元が生まれます

一丸智定師 (後の橘旭翁) の 〈橘流〉や 鶴崎賢定師の 〈鶴崎流〉

高野観道師 の 〈高野流〉 金時という芸名を持った 芸妓 吉田竹子の

〈吉田流〉など があります

名手と呼ばれた人といえば 高野観道師の娘 高野旭嵐 ・旭芳 姉妹 や

吉田竹子の弟子で 日露戦争後 東京で名を挙げた

高峰筑風 (娘は女優で有名な高峰三枝子)など がいます



尾方蝶嘉さんは 2013年に 旗揚げした

人形浄瑠璃を筑前琵琶で語るという日本で初めての試みである

『筑前艶恋座』の 琵琶浄瑠璃演者として

ますます 活躍の舞台を 拡げておられます










by nonkei7332 | 2017-03-11 23:35 | 日記 | Comments(0)


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博多座の10月公演 『おたふく物語』を観ました


博多座も久し振りです



前回の 博多座は 市村正親 (篠原涼子の旦那) の ミュージカル でした



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こういった 劇場で 演劇などを観ることを 芝居を見ると言いますが


芝居 の 語源は 神社の境内で行われていた 猿楽や神楽 を見るとき


見物客が皆 芝の上で 座って見ていたからだと いわれています


広い意味では 芝居は 神事だったのかもしれません




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「おたふく物語」は



山本周五郎原作 石井ふく子演出の 江戸の人情話です



主演は 上方喜劇王 藤山寛美の娘 『藤山直美』


いわゆる 喜劇 と言われる ジャンルに入るのでしょうか


原作は おそらく 読んだと思います というのも 30歳代の 一年程


『山本周五郎』『藤沢周平』『池波正太郎』といった


人情話の小説を 読みあさった 頃があったからです


今では 内容はほとんど 覚えていません



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さてさて 今日の話題は お芝居ではなく



『 おたふく 』です


あの のっぺらとした 女性のお面で知られている あの 『お多福』です



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おたふく といえば ほっぺたが腫れる〈おたふく風邪〉とか


お好み焼きのソースの名前とかで有名なんでしょうが


本当の 〈おたふく〉を知る 鍵は あの お面 です


そもそも 「面」とは 何なのか 辞典では


顔につける かぶりもの。


多くは人物・動物などの顔をかたどったもの。


神楽・舞楽・能・狂言で使われた。 とあります



その中でも 能面 は よく知られますが 世阿弥 は 「花伝書」の中で


申楽の起源にふれ 能の起源は 神様の話 だといっています


白州正子 は 対談の中で こんな話をしています


『 古い神社では 面 が御神体になっている所がたくさんありますが


私達の祖先が 仮面というものに対して



どのような考え方をしていたかということを暗示していると思います』


どうやら 面をつけている対象は すべてが 神 だったようですね


「翁」や 「鬼」も 神様 だったということは


「おたふく」も 一緒に出てくる「ひょっとこ」も 神様だったのでしょう



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「ひょっとこ」の語源は 「ひおとこ(火男)」で


竃(かまど)の火を 竹筒で吹いている表情です


中には 片目をつぶってる面もありますが


あれは ウインクではなく 片目が潰れた 神話に出てくる


天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を 暗示しているようです


どうやら 「ひょっとこ」は〈火の神〉〈鍛治産鉄の神〉のようです


「おたふく」は 後世「おかめ」という名前ももらっています


「おたふく」は 日本神話の 天岩戸(あめのいわと)伝説 に出てくる


天鈿女(アメノウズメ) だといわれています


岩に隠れてしまった アマテラスを 妖艶な踊りをして 誘きだそうとした


あの 踊り子の神様 です 日本の 初代の 芸能人 なんです


旦那様は 猿田彦 という説があるので


「ひょっとこ」と「おたふく」は夫婦だったのですね




神社考古学 の 百嶋説 によれば


アメノウズメ は 香春神社の主祭神 『辛國息長大姫大目命』だとします


大目 を ウズメ と読んでいるのです


スサノオ と 神大市姫(ミズハノメ)の間に 生まれた娘です


伊勢神宮の下宮様 豊受大神こと 豊受姫 であるとされ


産鉄の神でもあるので 伏見稲荷神社の祭神



宇迦之御魂神 とも 同じ神様だとされています


一方 猿田彦 は 山幸彦 =ニギハヤヒ=彦火火出見 であるという説です



こうして アメノウズメ こと 「おたふく」は


山幸彦 や 海幸彦 を 脇に抱え


アマテラス=卑弥呼 の跡を継ぎ


13歳の宗女 壱与(イヨ)へと 歴史を繋いだ


とてつもない 女神 だったのです



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百嶋系図 一部



(百嶋説は 通説とは異なりますが 注目度急上昇中の神社考古学説です)







by nonkei7332 | 2016-11-13 16:42 | 古代史 | Comments(0)