ブログトップ

《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて



b0325317_05510234.jpg
名島神社から見える 博多湾





カモメ達が 登っていった後から



最後に 神社の階段を登りました



途中 左手に下り曲輪〉と呼ばれる 土俵のある 広場から



遠くに 志賀島が見える 見晴らしのいい場所があります



そこから 見える海が



〈 磯良の海 〉です



そう 名づけたのは 私 です



今では 100年公園 カモメ大橋 にさえぎられて



能古島 志賀島 隠れてしまいますが



ほんの 50年前迄 は



島影 の美しい 景観だったのでしょう




b0325317_06213223.jpg
博多湾屏風図






博多八景 〉という 博多の町の 景勝地がありました



近江八景 金沢八景 というのは 有名ですので



博多八景 なんて 二番煎じゃないの と思われるかもしれませんが



実は 中国北宋時代 元祖八景〈瀟湘八景〉に影響を受けた



日本での 最初の八景は 博多八景 》だったのです



初代八景は 中世 鎌倉末期



聖福寺の僧 〈鉄庵道生〉(てつあんどうしょう)



八つの景観に合わせて 漢詩を作ったのが 初代です





香椎暮雪(かしいぼせつ)


箱崎蚕市(はこざきさんし)


長橋春潮(ながはししゅんちょう)


荘浜泛月(しょうはまはんげつ)


志賀独釣(しかどくちょう)


浦山秋晩(うらやましゅうばん)


一崎松行(いっさきしょうこう)


野古帰帆(のこきはん)





その後 近世 江戸時代 に書かれた『石城志』(せきじょうし)という



博多紹介本には また 違った 八景が 書かれています





濡衣夜雨(ぬれぎぬやう)


箱崎晴嵐(はこざきせいらん)


若杉秋月(わかすぎしゅうげつ)


奈多落雁(なたらくがん)


博多帰帆(はかたきはん)


横岳晩鐘(よこたけばんしょう)


竃山暮雪(かまどやまぼせつ)


名島夕照(なしませきしょう)






余程の 博多通でないと 場所が 特定できませんね



この中で 名島夕照 があります



名島海岸から 見える



島影に沈む 夕陽 朱く染まる海が



絶景だとされたのでしょう






201417 17:03



名島海岸から 落ちていく夕陽を 写していました




b0325317_05533301.jpg




2014928 17:22



夕陽に 飛び込んできた カモメです



カモメ大橋 から写した



お気に入りの 一枚 です




b0325317_05541494.jpg




カモメ達は



拝殿横の 手水舎 囲んで 清めの作法 を習っていました



飲んじゃダメ ! 口をゆすぐだけ ‼︎



キョトン とした 男の子が 私に云いました



どうして 飲んじゃ ダメなの







by nonkei7332 | 2017-04-26 06:45 | 古代史 | Comments(0)



b0325317_20271279.jpg
名島神社 二の鳥居




名島海岸 を通り過ぎると



名島神社の入り口 に出ます 二の鳥居です



珍しい 両部鳥居です



道路をはさんで 海岸には 一の鳥居が あります



海岸下手 小さな祠があります




b0325317_20283372.jpg
名島神社 古宮





何も知らない 一人の子が その前で手を合わせていると



ぞろぞろと 後から来たカモメ達が



同じように 手を合わせていきます



何とも 不思議な光景を 私は 見入っていました



祠には 何も書かれていませんが



実は ここは 名島神社の 古宮〉 です




古代より この神社は



島(名島は島だった) の頂上に鎮座していましたが



中世 豊前大友氏の庶流



立花家7代の 立花鑑載(たちばなあきとし)が



立花城の出城として 築いたのが 城の始まりで



その後 秀吉が 筑前を 小早川隆景 に与えると 隆景は



名島城を 改修して 居城に仕上げます




その際 頂上の社を 海岸下手に移動させたのが



この祠の場所だったようです




黒田長政が 名島城を廃城にすると




現在の位置に 社殿は移され 古宮は



昔の面影として 小さな祠が残っているだけになっているのです





b0325317_20310643.jpg
庚申塚




二の鳥居の横には 大小数体の 石碑が建っています



石碑というより これらは 〈庚申塚〉です



庚申塔 とも呼ばれる これらの 石塔は



福岡の町のあちらこちらでも 見られます



庚申信仰 の始まりは 古く 奈良時代だと言われています



その後 平安貴族や 武士階級にも拡がり



猿田彦 地域を護る 塞の神 田の神 地蔵尊とも習合した



道祖神信仰として 民間にも 拡がり



江戸から明治にかけて 大流行します




庚申信仰は 中国の道教が起源です



人の体には 〈三尸の虫〉(さんしのむし) という虫が



生まれた時から 誰にでも 住みついていて



60日に一度 庚申の日の夜 人が眠っている間に



天に昇って 人が行なった 悪事を報告しに行くといいます



それによって人の寿命が短くなったり 死んで地獄に落ちたりするので



だったら その夜は 寝ないで過ごそうというのが



〈庚申待ち〉といわれる 行事です 近所で集まって



朝まで呑み明かすという 行事が 全国的に流行したそうです



庚申待ち 3年続けると その記念に 石碑を建てたといいますから



江戸時代には 町中 庚申塚 だらけになったそうです



明治になって 廃仏毀釈にともない 庚申信仰は迷信だとされ



政府は 多くの 石塔を壊します



それ以来 庚申信仰は急速に衰えてしまいました



まだ 未だ 地域によっては 多く 残っている所も あるようですが



町の景観の変化に いつかは 無くなっていくのでしょうか





名島神社脇の 庚申塚 には



「庚申大福神」「青面金剛」と書かれています



〈青面金剛〉は 仏教系の庚申塔の性格が強いとされる



三尸の虫を抑える 神様です





b0325317_20321931.jpg



神社の階段を


若葉が薫る 木洩れ陽の中を


カモメ達は 翔ぶように 登っていきます


危ないぞ 走るな~‼︎


私の声は 全く 無視されていました









by nonkei7332 | 2017-04-24 21:20 | 古代史 | Comments(0)


b0325317_11431182.jpg


毎月 2回 土曜日になると



地域の カモメ(子供)達が 〈カモメの城〉(公民館) に集まってきます



私達(ボランティアスタッフ) 支援団体からいただいた



食材で カモメ達の昼食の準備に取りかかります



今回の 献立は 〈ちゃんぽん〉 〈おにぎり〉



私の役目は いただいた りんご の皮むきです



午前中 公民館の講堂で カモメ達は 自由に遊んでいます



卓球をしたり カードで遊んだり ケンカをしたり 大騒ぎです



昼になると 一転 静かに ランチタイム です



食事が終わると 前回カモメ達と 約束させられていた



近くの公園まで ハイキング です



行く先は 近くの名島城址公園です



総勢21 私一人では とても 引率できないので



お母さんスタッフ2人も 手伝ってくれました





b0325317_11441519.jpg
名島海岸 から 湾岸倉庫街を望む

奥が 背振山系




名島海岸に つきます



白砂の海岸です 開発されるまでは




妙見島という島があって



島に伸びる 砂州が 名島海岸になって残っています



この〈妙見島〉今は陸化して 島の面影はありませんが



いろんな 伝承が残っています





b0325317_11452501.jpg
博多近隣古図 (1812年)

妙見島 弁財天 名島城址




「筑前国続風土記」には 神功皇后 三韓征伐 に出発したのが



黒津(名島)だと言われていて その突端にある 妙見島は



船具や武器が収められていた 倉庫だったと 書かれています



中世 博多の豪商 神屋宗湛 が書いた 「宗湛日記」には



秀吉が 博多に来た時には この島で 茶会が催され



名島城主の 小早川隆景 この島で 度々 茶会を行なったと記され



この海岸でも 何度となく 酒宴も行われていたと書かれています



島跡には 今でも 井戸跡が 残っています





b0325317_11463223.jpg
名跡地 太閤秀吉公茶遊井戸跡

右側が 井戸跡です



b0325317_16521698.jpg
昭和31年 名島付近の航空写真



b0325317_12085349.jpg
昭和34年の妙見島の写真




b0325317_11480503.jpg
現在の鳥居跡




古い写真には 建物の横には 鳥居がみえます



今でも その辺りには 注連縄がはられています



かつては この島には 妙見神 が祀られた 社殿 があって



島自体が 聖地 だったのでは ないかと思えます



〈妙見神〉といえば 北極星と北斗七星の御神霊です



宇宙の中心であり 全ての方位や 人間の運命を左右する



根源の神だといわれています



そして この神は



天之御中主命 同一神 だと 言われています



天之御中主命 主の神 白族の女神 菊理姫



博多の主の神 大幡主命 祖母に当たる 天之御中主命



ここで 子孫の 海神達を見護っていたのではないでしょうか





白砂は 多くを語ってくれます



裸足になったらダメだぞ



私の言うことなど 全く無視して 靴を脱いだ女の子が



嬉しそうな顔をして 叫んでいます



だって こんなに気持ちいいんだよ








by nonkei7332 | 2017-04-24 13:39 | 古代史 | Comments(0)


b0325317_00135601.jpg
筑前琵琶師 尾方蝶嘉さん
ホームページより




明治の始め 博多の町に

栗山幽斎という 旧黒田藩士が住んでいました

黒田二十四騎の筆頭 栗山大膳 の ゆかりの人物かどうかはわかませんが

明治3年6月 この旧藩士に 愛くるしいひとり娘が生まれます

この親子に その後何があったのかは 定かではありませんが

両親が やがて亡くなり ひとり残された 娘は

博多の花町の養女となって たくましく 生きていくのでした

娘はやがて 妓名 を 《 金 時 》と 名乗ります

その 生まれ持った 美貌 と 美声 で 若くして

博多の 券番 でも 人気の芸妓の ひとり となりました

金時 は 三味線 と 月琴 の名手でした

引く手数多の贔屓筋の中で 金時 を射止めたのは

博多の富豪 《 加納 熊次郎 》です

酒造家の 加納熊次郎は 金時の奏でる 月琴を聴きながら

その芸才を 誰よりも 理解していましたし

その為なら 財を惜しむことはありませんでした

金時という名に別れを告げ 《 吉 田 竹 子 》と名乗りました

そして 明清楽 や 八雲琴(二弦琴)をも 修めたのでした


b0325317_00150897.jpg
筑前琵琶
尾方蝶嘉さん ホームページより



京都におこった 平家琵琶 は 室町以降 100年の間に 全盛期を迎えます

その後 戦国の世に入り 仕事を無くした 琵琶法師達 は

生活苦のために 京を離れ 多くは 流浪の僧となって

西へと 流れて行きました

琵琶と云えば 太宰府 四王寺山に 居を構えた

筑前琵琶 の 始祖である 玄清法師 は 成就院 を建立し

九州盲僧の中興の祖と仰がれたのですが

法印の 第九世 寿讃(じゅさん) は 博多の 蔵本町に 成就院を移し

〈臨江山 妙音寺〉と 名前を変えます

妙音寺 は 西日本の盲僧院坊の触頭として隆盛を続けますが

天正末期に兵火により灰塵に帰してしまいます

黒田二代藩主 忠之は 福岡城の鬼門除けの霊寺 として

藩の祈祷所として 妙音寺 を 再興したのでした

博多には 妙音寺 の元で いくつかの 盲僧坊がうまれます

妙福坊(橘智定の家祖) 大泉坊(鶴崎賢定の家祖) 観照坊(高野観道の家祖)

これらの盲僧達は 「般若心経」や「地鎮経」を 琵琶に弾じたり

荒神払いといって 家々を回り 布施でなんとか 命を繋いでいたのですが

明治4年 になると 新政府は「盲官廃止令」を発布します

この廃止令 は 盲僧の存在が 治安維持や 戸籍編成 の妨げになると

考えられたからですが 明治5年 には 「修験禁止令 」も 出され

修験道も 禁止されます

仏教寺院にとっては 多難の時代の始まりでした



b0325317_00154271.jpg
明治22年 の 博多地図




荒神琵琶 も 時代の流れには 逆らえません

この流れに危惧した ひとりの 愛琵家 が 動きます

あの 加納熊次郎 でした

加納 は 絶滅寸前の 琵琶再興の志を 二人の人物に委ねます

妙福坊の橘旭翁 と 吉田竹子 でした

二人には 薩摩琵琶の改良研究と 新たな 弾法と音曲の開拓を託します

盲僧琵琶と三味線の折衷を試みた 吉田竹子は

明治26年(1893) 博多の文士 今村外園 が 忠君愛国の軍人を詠った

「谷村計介」の作詞に 自ら 曲を付け弾奏し 大好評を得ます

この音曲が 筑前琵琶の原形 だとも いわれているのです

この流れに 博多の政財界の名士たちも後押しをします

伊藤博文 や 金子堅太郎 その弟 金子辰三郎 そして

玄洋社総帥の 頭山満 など が

橘旭翁 や 吉田竹子 の 東京進出に 力をかします

筑前琵琶の五弦を 提唱したのは 頭山満だったという話も伝わっています

吉田竹子 は 加納熊次郎 が亡くなると 博多に戻り

筑前琵琶後進の育成に 力を注ぎ 多くの名手を育てます


大正12年 11月 博多の町で 多くの弟子に看取られながら

吉田竹子 は 52年 の 波瀾万丈の華やかな 人生を閉じます

竹子は 意識が遠のく中で 熊次郎 の姿を見つけたのでしょうか

『 旦那さん そばに行くのは 早すぎましたか 』

幽かに そう呟いて 目を閉じたと言います



加納熊次郎 と 吉田竹子

筑前琵琶を語るとき 忘れては いけない 二人なのです






by nonkei7332 | 2017-03-15 00:37 | ルーツ | Comments(0)


b0325317_22422376.jpg
尾方蝶嘉 さん




近くの 公民館で行われた

『筑前琵琶の歴史と演奏』という イベントに参加しました

講師と演者は 尾方蝶嘉 さん でした


尾方さんは

福岡県出身 福岡市在住

西南学院大学法学部卒

嶺青流筑前琵琶保存会 師範


日本琵琶楽協会会員

13歳より筑前琵琶を嶺青流流祖:嶺旭蝶、青山旭子に師事

琵琶による現代邦楽を田原順子に師事

洗足学園音楽大学現代邦楽研究所(20期)卒

2014年NHK邦楽オーディション合格

(NHKの邦楽番組に出演するのにふさわしい高度な演奏技術を有する)

(尾方さんの ホームページより)



b0325317_22565222.jpg



福岡が発祥の 筑前琵琶 です

歴史 を追いかけてみました


1200年前の話です 筑前には 琵琶を弾く 盲僧の系統があって

奈良の帝 の勅命で 佐理養 と 麻仁養 という 二人の 盲僧が

地鎮祭に呼ばれ 琵琶を弾奏したという 伝説があります

称徳女帝の頃 神護景雲2年(768)

四王寺山の麓 坂本に ひとりの男の子が生まれます

この子が17歳の時に 失明し 盲僧となって 修行を重ね

後年 九州盲僧群の中興の祖と仰がれる人となります

名前を 《 玄清法印 》といいます

筑前琵琶 の 始祖だといわれています

玄清法印 は 桓武天皇延暦4年(785)

6人の盲僧の弟子を引き連れて 比叡山に登ります

最澄 が 延暦寺を 開くにあたり 玄清達に「地神陀羅尼経」を

琵琶で奏でる事を 頼んだからだといいます

そして 長年 最澄を悩まし続けていた 悪蛇を 退散させました

三年後 坂本に戻った玄清は 成就院を建立し

嵯峨天皇弘仁14年(823) 58歳で亡くなります

こうして 筑前琵琶 は 盲僧琵琶 と 呼ばれて 後世に続いていきます

明治の中程まで 博多の町 では 人家の表に 荒神を祀っていました

祭りになると 盲僧達は 家々を回って荒神の前で琵琶を弾きながら

荒神の霊を 慰めては お布施をもらっていたようです

『荒神琵琶』とも呼ばれた 筑前琵琶 は


その後 「平家物語」などの 俗曲な 歌が作られていきます

「崩れ琵琶」と呼ばれる 新しい形式の 歌曲が 歌われるようになり

明治37年頃からは 博多の町が 筑前琵琶 一色に染まっていったのでした

博多に いくつかの 家元が生まれます

一丸智定師 (後の橘旭翁) の 〈橘流〉や 鶴崎賢定師の 〈鶴崎流〉

高野観道師 の 〈高野流〉 金時という芸名を持った 芸妓 吉田竹子の

〈吉田流〉など があります

名手と呼ばれた人といえば 高野観道師の娘 高野旭嵐 ・旭芳 姉妹 や

吉田竹子の弟子で 日露戦争後 東京で名を挙げた

高峰筑風 (娘は女優で有名な高峰三枝子)など がいます



尾方蝶嘉さんは 2013年に 旗揚げした

人形浄瑠璃を筑前琵琶で語るという日本で初めての試みである

『筑前艶恋座』の 琵琶浄瑠璃演者として

ますます 活躍の舞台を 拡げておられます










by nonkei7332 | 2017-03-11 23:35 | 日記 | Comments(0)


b0325317_15473645.jpg

b0325317_20044490.jpg




博多座の10月公演 『おたふく物語』を観ました


博多座も久し振りです



前回の 博多座は 市村正親 (篠原涼子の旦那) の ミュージカル でした



b0325317_15484375.jpg


こういった 劇場で 演劇などを観ることを 芝居を見ると言いますが


芝居 の 語源は 神社の境内で行われていた 猿楽や神楽 を見るとき


見物客が皆 芝の上で 座って見ていたからだと いわれています


広い意味では 芝居は 神事だったのかもしれません




b0325317_15501881.jpg



「おたふく物語」は



山本周五郎原作 石井ふく子演出の 江戸の人情話です



主演は 上方喜劇王 藤山寛美の娘 『藤山直美』


いわゆる 喜劇 と言われる ジャンルに入るのでしょうか


原作は おそらく 読んだと思います というのも 30歳代の 一年程


『山本周五郎』『藤沢周平』『池波正太郎』といった


人情話の小説を 読みあさった 頃があったからです


今では 内容はほとんど 覚えていません



b0325317_15504659.jpg



さてさて 今日の話題は お芝居ではなく



『 おたふく 』です


あの のっぺらとした 女性のお面で知られている あの 『お多福』です



b0325317_15515188.jpg


おたふく といえば ほっぺたが腫れる〈おたふく風邪〉とか


お好み焼きのソースの名前とかで有名なんでしょうが


本当の 〈おたふく〉を知る 鍵は あの お面 です


そもそも 「面」とは 何なのか 辞典では


顔につける かぶりもの。


多くは人物・動物などの顔をかたどったもの。


神楽・舞楽・能・狂言で使われた。 とあります



その中でも 能面 は よく知られますが 世阿弥 は 「花伝書」の中で


申楽の起源にふれ 能の起源は 神様の話 だといっています


白州正子 は 対談の中で こんな話をしています


『 古い神社では 面 が御神体になっている所がたくさんありますが


私達の祖先が 仮面というものに対して



どのような考え方をしていたかということを暗示していると思います』


どうやら 面をつけている対象は すべてが 神 だったようですね


「翁」や 「鬼」も 神様 だったということは


「おたふく」も 一緒に出てくる「ひょっとこ」も 神様だったのでしょう



b0325317_15522661.jpg


「ひょっとこ」の語源は 「ひおとこ(火男)」で


竃(かまど)の火を 竹筒で吹いている表情です


中には 片目をつぶってる面もありますが


あれは ウインクではなく 片目が潰れた 神話に出てくる


天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を 暗示しているようです


どうやら 「ひょっとこ」は〈火の神〉〈鍛治産鉄の神〉のようです


「おたふく」は 後世「おかめ」という名前ももらっています


「おたふく」は 日本神話の 天岩戸(あめのいわと)伝説 に出てくる


天鈿女(アメノウズメ) だといわれています


岩に隠れてしまった アマテラスを 妖艶な踊りをして 誘きだそうとした


あの 踊り子の神様 です 日本の 初代の 芸能人 なんです


旦那様は 猿田彦 という説があるので


「ひょっとこ」と「おたふく」は夫婦だったのですね




神社考古学 の 百嶋説 によれば


アメノウズメ は 香春神社の主祭神 『辛國息長大姫大目命』だとします


大目 を ウズメ と読んでいるのです


スサノオ と 神大市姫(ミズハノメ)の間に 生まれた娘です


伊勢神宮の下宮様 豊受大神こと 豊受姫 であるとされ


産鉄の神でもあるので 伏見稲荷神社の祭神



宇迦之御魂神 とも 同じ神様だとされています


一方 猿田彦 は 山幸彦 =ニギハヤヒ=彦火火出見 であるという説です



こうして アメノウズメ こと 「おたふく」は


山幸彦 や 海幸彦 を 脇に抱え


アマテラス=卑弥呼 の跡を継ぎ


13歳の宗女 壱与(イヨ)へと 歴史を繋いだ


とてつもない 女神 だったのです



b0325317_20203681.png
百嶋系図 一部



(百嶋説は 通説とは異なりますが 注目度急上昇中の神社考古学説です)







by nonkei7332 | 2016-11-13 16:42 | 古代史 | Comments(0)


b0325317_19581941.jpg
能古島 と 落陽



秋は夕暮れ。

夕日のさして山の端いと近うなりたるに、

烏の、寝どころへ行くとて、

三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへ あはれなり。

まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、

いとをかし。

日入り果てて、風の音、虫の音など、

はた言ふべきにあらず。


〈 いと をかし 〉 = とても 趣き(風情) がある


《現代語訳》


秋は夕暮れが一番だ。

夕陽がさして山の端がとても近くなると

カラスが ねぐらに行こうとして三羽四羽 二羽三羽が

飛び急ぐのさえしみじみとした情感がある

まして 雁などの列が とても小さく見えるのはとても趣きがある

日が落ちて聞こえてくる 風の音 虫の音などは

いうまでもない程 良いものだ



b0325317_20051224.png
博多湾 アイランドシティ に沈む夕陽




『 枕 草 子 』(まくらのそうし)

冒頭四季の情景の中から 秋は夕暮れ・・・の部分を抜き出しました

(「枕草子」・・平安中期 清少納言 作「方丈記」鴨長明・

「徒然草」吉田兼好 とともに 日本三大随筆と云われています)


清少納言 が 「いとをかし」と語った 夕暮れの景色とは

いったい どこの 夕暮れ だったのでしょうか



b0325317_20073037.jpg
カモメ香椎大橋 と みなと100年公園




なにしろ 謎多き 清少納言


俗説が 巷に 満ちあふれています

実は 父親の 清原元輔 が 周防守 や 肥後守を歴任しており

太宰府に居た足跡があることが 歌 にも 残っています


《 春はもえ 秋はこかるる かまと山 かすみも霧もけふりとそ見る 》

清原元輔 の宝満山を歌った歌

(宝満山の竈門神社境内に歌碑あり)


世阿弥の謡曲 『 檜 垣 』に描かれた

太宰府の白拍子(遊女) 〈檜垣伝説〉があります

*( 拙ブログ 2014/12/27 『想いも深き 思い川』参照 )



〈清原元輔〉と 大宰府の白拍子 〈檜垣〉の間に生まれた 子供が

清少納言であるということが


鎌倉初期の 随筆集「無明草子」に

「檜垣の子 清少納言」と書かれています



さて ここから 私の妄想は 舞い上がります

とすると 清少納言 は 太宰府に住んでいたことがあったのではないか

清少納言という 女人の記憶に残る いとをかし 夕暮れの風景とは

博多の海 に沈む 秋の夕暮れの景色だったのでは・・・



b0325317_20214144.jpg
磯良の海(博多湾)
右 志賀島 左 能古島



万葉集 も 源氏物語 も 枕草子 も そこに描かれた

宮廷王朝の 原風景 は 九州ではなかったのか・・・




『 いと をかし 』事を 言うな

そんな声 が 聞こえてきます



私が その 美しさに 魅せられて

何百枚も写した 秋の夕暮れの 写真の中から

大好きな 四枚の写真を選んでみました








by nonkei7332 | 2016-10-13 20:53 | 古代史 | Comments(0)


b0325317_17564423.jpeg
尾形光琳 『風神雷神屏風図』 東京国立博物館蔵



『 たまに出る子は 風に遭う』

という ことわざ があります

古来 より〈風に遭う〉ということは あまりいいことではないようです

江戸時代に書かれた 『絵本百物語』という 奇談集には

妖怪としての 〈風の神〉が書かれています

それによると

〈風の神〉は いつも黄色い邪気を吐きながら いつも

天空をさまよいながら 地上を見ています

〈風の神〉の持つ 邪気は 隙間が好きで

特に 暖かい と 寒い の 隙間は 大好物のようです

〈風の神〉の黄色い邪気に触れると 人は 病いにかかります

風邪 (かぜ) という字は ここからきたみたいです



人々が 一年中で 最も 風の被害を怖れる

三大厄日 というのがあります


二百十日 (にひゃくとうか)・・・(今年は8/31)

八朔 (はっさく)・・・(今年は9/1)

二百二十日 (にひゃくはつか)・・・(今年は9/10)


この三日は 立春から数えて210日目と 旧暦の8/1の朔日

そして 220日目の 三日のことです

この頃は稲が開花する重要な時期なのです それはまた

甚大な影響を与える台風に見舞われることも多い時期でもあるのです

天気予報などなかった 昔の人々にとっては

記憶に残る 何千年にも及ぶ 人々の 記録から

暦の中の 雑節 として この日を 残したのでした



b0325317_17591161.jpeg
おはら風の盆





〈風の神〉を 鎮めるために 人々は 祈りました

越中富山のおわらの里では

『 おわら風の盆 』といって

村人達 は 400年もの間

9月1日から 3日迄 三日三晩 踊り続けています



b0325317_18002999.jpeg
種山高原 「風の又三郎」の像



宮沢賢治 の書いた 童話の中で

『 風の又三郎 』という 話があります


どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう



奇妙な 風の歌で始まる 童話です

谷川の岸に小さな学校の さわやかな九月一日の朝でした

青ぞらで 風が どう と鳴り 日光は運動場いっぱいでした

そこに奇妙な格好をした 一人の転校生が やってきます

名前は 高田三郎 変てこな ねずみいろのだぶだぶの上着を着て

白い半ずぼんをはいて それに赤い革の半靴をはいていました

顔 は まるで熟したりんごのようで 目はまん丸でまっくろな

男の子でした

村の子達は 「風の又三郎」と呼びました

9月1日から 又三郎がいなくなる 9月12日迄に起こった

子供達と又三郎との 間の日々の物語が この童話のあらすじです

宮沢賢治は この話の最後をこう結んでいました



「そうだないな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」

嘉助が高く叫びました。

 宿直室のほうで何かごとごと鳴る音がしました。

先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。

二人はしばらくだまったまま、

相手がほんとうにどう思っているか探るように

顔を見合わせたまま立ちました。

風はまだやまず、窓ガラスは雨つぶのために曇りながら、

またがたがた鳴りました。



b0325317_18041988.jpeg






私にとって 今年の二百十日から 二百二十日迄の 10日間は

〈風の神〉〈又三郎〉と 出遭った 夢のような苦しき 日々でした

旋風(つむじかぜ) は 私の肋骨を折って 肺腑を破り

視えない風の景色を またひとつ 私に見せてくれました

それは 忘れかけようとしていた あの 夢のつづきでした

風と遭遇した 240時間が

私を 新たなる 時空間 に連れてきたようです

ここには 新たな 季節の予感が あるのです

私は 5年程 若返ったのかもしれません

いやいや 5年程 歳を重ねたのかもしれません



b0325317_18045631.jpeg
櫛田神社の拝殿


b0325317_18053246.jpeg
拝殿 破風 の 風神




今日 9月23日は

秋の社日(しゃにち)といいます

秋分の日に 最も近い 戊(つちのえ)の日の事をいいます

社日 は古代中国に由来し

「社」とは土地の守護神 土の神を意味します

この日は 産土神 (生まれた土地の守護神) を祀る日なのです



私の 産土神は 櫛田神社の 〈大幡主神〉です


今日 櫛田神社の 拝殿前に 私は立ち

拝殿の破風 に ある 風神の彫り物を 頭上にして

風神との 10日の日々を 主の神に 報告しました

そして 小さく 願うことも 忘れませんでした



『 神皇産霊(かみむすび) よ 風の邪気は 我のみに 留めなん

ただただ 家族の そして 人々の 安泰たらんことを 』



( 神皇産霊神 = 大幡主神 )











by nonkei7332 | 2016-09-23 18:48 | 日記 | Comments(0)



b0325317_02220202.jpeg
若宮神社 正面鳥居



福岡市の中央には

東西に走る 三本の大きな通りがあります

北から 〈昭和通り〉〈明治通り〉〈国体通り〉と通称で 呼ばれています

最も新しいのが 国体通り です

昭和23年 福岡市で国体が開催された折に整備された道路なので

その名が今も残っています


b0325317_02224383.jpeg
若宮神社 境内




先日 紹介した 警固神社 も この通り沿いにあって

そこから 西に向かって 3分も歩けば

通り沿い左に 鳥居が立っています

この神社が 『 若 宮 神 社 』です

ビルに囲まれた 社務所はあれど 人はおらずの 寂れた社です

ただ 往時の勢いを残すような 楠の巨木が目をみはります


古代 ここに 奴国という国がありました

奴国王 は 大幡の主として 船に帆を立てて 大海を渡っていました

奴国王子は ヤタガラスと呼ばれ 倭国皇帝 神武の 補佐をしていました

王子は 他の種族を取り込むために 婚姻をしました

そして 生まれた 一人の 奴国王女がいました


その王女を祀った神社が 若宮神社 です

祭神は 《 豊 玉 姫 》です



b0325317_02234331.jpeg
青木 繁 「わだつみのいろこの宮』 (一部)
桂の木に乗っているのが 山幸彦
赤い衣を着た 女が 豊玉姫




私が 豊玉姫 を知ったのは この絵でした

いつ頃だったのかはよく覚えていません

ただ 場所は 久留米の石橋美術館だったことは覚えています

この絵が 神話を題材にしたものだということも知りませんでした

海幸 山幸の話は知っていたものの 『豊玉姫 って 誰 ?』

そんな私でしたから それ以上の事は知ろうともしなかったようです

ただ 海神のいた 〈いろこの宮〉が

志賀島 だということだけは 誰かに 教えられたのを 憶えています


奴国の王子 豊玉彦(ヤタガラス) の娘

《豊玉姫》と《鴨玉依姫》

母は違う 異母姉妹になるのですが この二人の女神 と

豊玉彦の姉の アカルヒメと スサノオの間に生まれた

《市杵島姫》この三人の女神が 宗像三女神 と呼ばれている 女神です


豊玉姫 は 山幸彦 の 子を宿すのですが 見てはいけない

お産の姿を 見られたとして 山幸彦を捨てます

豊玉姫が 次に選んだのが 伽耶国 出雲族の 王子 大国主命 でした

山幸彦との子供 鵜葺草葺不合(ウガヤフキアエズ) は

神話では 妹の玉依姫が育てたという美談に なっていますが

本当は 玉依姫 は ウガヤ を 夫としています そして

生まれてきた子が 海神 安曇磯良 です


古代社会は 母系社会です 女が男を選びます

婚姻の基本は 女の家族が男を迎え入れるといった

女を中心として婚姻が成立していたようです

三人の女神達の 周りには 多くの男達がうごめいていました

女神達 は それぞれ 違う出自をもって この島に渡ってきた

渡来人達の 心を掴みました

そして 男達は 女神の夢見る 龍宮を 拠り所としながら

倭国という 九州統一王朝を

創りあげていったのかもしれません








by nonkei7332 | 2016-09-02 22:30 | 古代史 | Comments(0)

b0325317_09033550.jpeg
警固神社 ( 天神2丁目 )




福岡市の中心街といえば

《天神》と呼ばれる 地域です

最近は 博多駅界隈も 駅の再開発にともなって

賑やかになりましたが

それでも 天神地区は 多くの商業施設や地下街 市庁舎などがあり

多くの市民が集まる 場所です

天神の明治通り沿いにある 〈水鏡天満宮〉が

天神という名前の出処だと言われています

さて 西鉄福岡駅に隣接する 三越 や ソラリアホテル に囲まれるように

警固公園があり その南に接するのが

『 警 固 神 社 』です

今日は この神社の謎を解いてみます


b0325317_09063085.jpeg


祭神は 警固三神と書かれていました


神直昆神 (かんなおびのかみ)

大直昆神 (おおなおびのかみ)

八十渦津日神 (やそまがつひのかみ)


聞いたこともない神様だと思いますが

神直昆神 とは 下鴨神社の祭神 〈鴨玉依姫〉 の事です

大直昆神 とは 日吉神社や松尾神社の神様の 〈大山咋神〉のことです

京都下鴨神社の 〈丹塗り矢神話〉に出てくる お二人ですね ご夫婦です

お二人の子供が 上賀茂神社の祭神の 賀茂別雷神 なのです

さてさて 三番目の 八十渦津日神 とは誰なのか

実は 後世 歴史の闇に 消された 祓いの女神

あの 〈 瀬織津姫(せおりつひめ)〉のことです





警固神社は昔からここ(天神)にあったのではありません

由緒によりますと この神社の元宮は 南区警弥郷三丁目にある

警固神社(上警固神社)だといわれています

扁額には 〈 警固宮 〉と書かれていました。


b0325317_09074182.jpeg
上警固神社 (警弥郷)


上警固神社の 由緒 にはこう書かれていました


b0325317_09094705.jpeg


赤 (警固神社)
緑 (背振神社)







「筑前国続風土記」で 貝原益軒は

天神の警固神社の事を こう書いています


『 今かんがるに、警固と名付けしは、古、此の地に 警固所ありし故、

其の所にまします神なれば、名付け侍りしにや、

神功皇后の新羅を討ちたまひし時、此の神、

軍衆を警固したまふと云うは

其の名によりて 後の人附会せるなるべし』


すごい内容ですね 上警固神社は

その後 神功皇后が 福崎(福岡城本丸あたり)に祀ったとされていますが

益軒は 警固の名を借りた 後ずけだと言っています

おそらく 真実は いにしえの地図を見れば分かりますが

南区警弥郷近くまで海岸線だったのですが

その後 現在のように陸地が広まっていったので

福崎(黒田城本丸付近) に分社したのではと私は思っています

神功皇后は 国を護った神として 後世 度々 後ずけされていますが

これもその一つだと思います



そもそも 貝原益軒は 天神警固神社の事を

「小烏警固神社」と書いています

この神社の門前辺りは 古い地名で〈小烏馬場〉

と呼ばれていたためでしょうか


『 小烏の神社は、古より 此所に鎮座し給ふ。

城州下加茂の小烏の社と同神にて 建角身命 為。』



下鴨神社と小烏神社の ご祭神は 同じで

建角身命(ヤタガラス) こと 豊玉彦 だといっています

ただ 小烏神社が この場所(天神) にあったように書いていますが

益軒 の勘違いのような気もします

古地図をみると 警固所 と 小烏神社 は ちょっと 離れています


b0325317_09204733.jpeg
呉服町路上にある 博多の地図

b0325317_09220227.jpeg
鎌倉時代の 博多の古地図 「博多往古図」



鎌倉時代の古地図(上図)には 北警固所の南に〈小烏大明神〉とあります

現在 薬院の近くに 古小烏(ふるこがらす)という 地名があります

おそらく そこに 古い小烏神社 はあったのでこの地名が残ったのでしょう

じつは 現在は 警固三丁目の丘の上に 〈 小烏神社 〉があります

というより 丘の上に移されたようです


b0325317_09252087.jpeg
小烏神社 (警固3丁目)



赤 (小烏神社)
緑 (警固神社)
黒 (古小烏町)



いったい いつ 誰が 丘の上に 移したのでしょうか

もう一度 上警固神社の由緒を見てください ヒントが書かれています

つまり 福岡城主 黒田長政が 慶長6年(1601年) 黒田城を築城する時に

城の本丸近くにあった 分社された下警固神社を

今の小烏神社のある所に移し

古小烏 にあった 小烏神社も移して 合祀したのでした

小烏神社跡は 藩士の住居にしたと記録には残っています

その後 慶長13年(1608年)二代目藩主忠之が本丸で 生まれると

警固三神こそが 産神だといって 山の上の 小烏の祠だけを残して

警固所があった 今の天神に 警固三神を祀る 警固神社として

神社を造営し 黒田藩主 代々 厚く 祀ってきて 今に続いています


天神警固神社 は 黒田家によって 慶長6年(1608)に


建てられた 社殿 だったのです





さて 私は 去年の11/10 の 記事の中で

京都下鴨神社の葵祭りの起源は

背振山麓に住む 賀茂氏が背振神社で行っていた祭りを

天智天皇が 京都にもってきたものだという

真鍋大覚さんの説を引用して 紹介しました


その後 下鴨神社を訪ね 八咫烏(ヤタガラス)こと豊玉彦と

鴨玉依姫 そして 大山咋神 の三神の繋がりを知り得ました

そして その影で 瀬織津姫が この神様達を

じっと 見守っている事を感じて帰ってきました


警固神社の元宮である 上警固神社のすぐ側には 実は 〈背振神社〉が

鎮座されています。同じ賀茂氏が祀ったものだと思っています

そもそも 背振神社の祭神は 宗像三女神になっていますが

私は 豊玉彦(ヤタガラス)が 隠れておられるような気がしてなりません


天神警固神社のご祭神には 警固三神のほかに 相殿神として


建角身命

豊玉姫命

神功皇后

応神天皇


の四神が 祀られていますが ここでも 建角身命 の名こそあれ

豊玉彦(ヤタガラス)は 表に出ずに 隠されているようにも思えます

神社をよく見て回りましたが

神紋は 黒田家の紋章と同じ「下がり藤」でした

千木 は 間違いなく 男千木 で 男の神様です

拝殿の瓦の上に 烏のような 置物が乗っているではありませんか

間違いなく あれは 八咫烏 (ヤタガラス) です

社務所で確認させて頂くと「その通りです」という答えでした

何か 安心したような 複雑な心境でした

何故に 警固神社の神様が 建角身命 を含めた 四神 ではないのかという

疑問ですが これ以上 突っ込むと 神社に迷惑が かかりますので

口を閉じることにします


b0325317_09465653.jpeg
百島系図


ここからは 百島神社考古学 の世界です

百島説によると 祓戸神である 〈瀬織津姫〉と

出雲神話で スサノオ が 嫁にした 〈櫛稲田姫〉そして

「山城国風土記」に出てくる 丹波の姫 〈伊賀古夜姫命〉(イカコヤヒメ)

は 同じ人物だとされています

そして この姫 と 豊玉彦(ヤタガラス)の間に生まれたのが

鴨玉依姫 であり その夫が あの 大山咋神 なのです

私が 下鴨神社でみた あの神々の系譜が

博多の 小烏神社 警固神社の神々の系譜に重なるのです


それは 取りも直さず

豊玉彦の父である 博多の主の神である 櫛田の大幡主神

そして 大国主神 と 続く 白族(主の神の系譜)の中に

出雲族と言われる 秦氏の系譜が 取り込まれていった

出雲神話(国譲り神話) の 隠された 世界なのかもしれません


次は 豊玉彦と 豊秋津姫 と間に生まれた

豊玉姫 (鴨玉依姫とは異母違いの姉妹)を訪ねて


『若宮神社』を訪ねます








by nonkei7332 | 2016-08-30 10:51 | 古代史 | Comments(0)

by ヒサミツ