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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて



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那珂川 と 背振山





遠い記憶です



季節 は 晩秋



朝早く 起きて 庭にでると 霜柱が立っていました



民家の屋根の上から 《背振の山々》が見えます



山頂付近には 雪が降ったのでしょう 白く輝いていました



背振 白くなると 雪が近いぞと 冬支度を急いだものです



背振山 私の原風景のひとつです





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比叡山 延暦寺



これまで 私は



〈比叡山〉〈信貴山〉〈英彦山〉〈国東〉と



神仏習合の霊山を訪ねてきました



いずれも 修験道の霊場でもあり 山の神が御座する



《なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼれる》と



西行法師 が歌ったような 聖地でした



年内 には 白山 (石川県) 行く予定にしています



これらの地を訪れるたびに思うことは



仏教伝来 神仏習合 以前には これらの地には どんな神が



祀られていたのかという 素朴な疑問でした



そんな中でも とても気になる 存在が 在ります



それは 白山 です





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白山市 から見た 白山の山並み




遠い昔 この国の住む人々の前に



南の海を越えて渡来してきた がいました



人々は それらの民を客人(客神) と呼びました



幾たびとなく 訪れる海人達 船を操り わずかな平地で稲を植え



海岸線伝えに 多くの村を作っていったのでした



多くの海の幸をもたらした 《海の神》です



やがて 北の海を渡って 鉄を作る 客人(客神)たちもやってきました



山に入り 鉄をつくり 里に降りてきては 鍬や鎌の農具を



そして 山の幸をもたらした 《山の神》です





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百嶋 系図




白山 とは 白き神の住む山 です



白き神 《菊理姫》(くくりひめ) 《白山姫》(はくさんひめ)と



呼ばれる 女神でした



百嶋説 》は 菊理姫 天御中主神 (アメノミナカヌシノカミ) だとします



古事記 には まだ 天地も定まらず 混沌とした時に



最初に現れた 宇宙根源の神だと書かれています



造化三神 と呼ばれる もっとも最初に出てくる中心神です



それに 続く 二神は



高皇産霊神 (たかみむすひのかみ)



神皇産霊神 (かみむすひのかみ) です



《百嶋説》では 高皇産霊 高麗 大伽耶国の王 高木大神 とします



神皇産霊 倭の奴国王 櫛田の神 大幡主神 とします




系図を見るとわかるように



天御中主 大幡主 の伯母にあたります



主(ぬし)の神々 白族 と呼ばれ



豊玉彦(豊玉主) 大国主 事代主 なども 博多を中心に展開した



あの 奴国 (春日市 那珂川町) の神々 なのです




百嶋研究家 の中には 天御中主 〈中〉は 那珂川の那珂 ではないか



という説を言われる方もいます そうだとすると



天御中主・菊理姫・白山姫 の坐した山とは



那珂川 の水源の 背振山 なのかもしれません





真鍋大覚 さんは 『儺の国の星 拾遺』の中で



〈儺〉或いは 〈奴〉は 夏を知らぬ残雪の形容であり



花の白さの形容である また



倭人伝に出る 奴国、日本書紀に出る 儺縣(なかのあがた)の



“ぬ“ “なか” 韓語 nun(ヌン) 即ち 〈雪〉或いは



霧雲の過冷却状態 即ち 〈霧氷〉のことである



と書かれていて



かつての 背振山 かなり雪深き 白き山であったようです



古い記録によれば 背振の雪が 6月まで残っていたともいいます





石川県の白山連山 朝鮮半島の北にある 長白山(白頭山)



古代 倭人 移り住んだ 土地から見えた だったのかもしれません



故郷 奴国 にそびえる 白き山 背振山 を偲んで



つけた 名前ではなかったのか





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東山魁夷 『 白い朝 』





私の 海馬の奥深く眠る 記憶は



幼き頃の 背振の景色 と 古代 白き神の住む山を



繋いでしまったようです




菊理姫 の里 》それは 背振の山々 だったのです











by nonkei7332 | 2017-10-19 23:46 | 古代史 | Comments(0)


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明治時代の地図 と 博多灯台



村上義太郎 手がけた事業は



世間を あっと言わせた 仕事ばかりでした




明治133



甘木の富豪 佐野弥平 と組んで 海軍輸送船



「 高 尾 丸 」



政府参議 大隈重信 の斡旋で 買い取り



東京 博多間 海運業 を始めました



博多湾に浮かぶ 蒸気船 から運ばれてくる 新時代の文明を



博多人は誇らしく思ったことでしょう




驚きの ひとつ 「 博 多 灯 台 」です



海運の仕事を通して 博多の港の不備については 誰よりも



義太郎には 解っていました



明治1612 下対馬小路下の波打ち際に



高さ12m 六角木造の灯台を 私財 7千円 を投じて 建てたのでした



灯火は 晴れた夜で 18.5キロ先からでも 見えたと言われています



ところが 翌年から 船舶に入港税を徴収する 県令が出されると



港関係者だけでなく 各方面からの反対運動が拡がり



とうとう 明治236月には 村上の私設灯台は



博多財産区会という 公共団体に譲渡されてしまいます



さらに 同年11月には 全国で 私設灯台の許可が取り消される事となり



博多灯台 永遠にその姿を消したといいます



反射鏡は グラバー商会から購入した フランス製の物でしたが



撤去後 櫛田神社に奉納され そのレプリカが



現在 福岡市博物館に保存されているそうです





灯り と言えば 街路灯 ですが



明治30年に 博多では 博多電灯会社が開業し



本格的な 電灯が 付設されたのですが



さかのぼること 明治25年ごろ



義太郎 博多で 「 ガ ス 灯 」の 会社も 立ち上げています



商家 軒先 を照らす 提灯 ガス灯 変わり



博多の町を 一挙に明るくしたのも 義太郎 だったようです




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今津湾






村上義太郎 語る上で 欠かせない 大事業に



「 今 津 湾 大 築 港 計 画 」があります



ヒントは 西南戦争の折の 荷揚げにあったと言われていますが



今津湾を 九州最大の 石炭輸出港にするのみならず



糸島の船越から 飯塚まで繋ぐ「船越鉄道計画」に乗じて



早良 糸島 両郡に 300万坪の 土地を準備し 博多に隣接する



商工都市をつくるという 壮大な計画でした



計画が 発表されるやいなや 博多の実業家からの



猛反対運動もおこりますが 義太郎



『博多を東京とするなら 今津大築港は さしずめ 横浜港だ』



そう 言って 反対者を説得して回ったといいます



海運 陸運 鉄道 港湾 それらの 多くの 技術専門家を 抱えて



研究の為の 資金 提供していたようです



全ての 私財を投じる つもりでいた 最後の事業でしたが



日清戦争後の恐慌で 船越鉄道 その後できた 九州鉄道 に併合され



計画は 変更され 博多 飯塚間の 飯塚線(現在の福北ゆたか線)



敷設に留まった のを 契機に 「今津湾大築港計画」も



それ以上 進むことは なかったようです




大正11430



『今津湾の築港を完成せよ』との遺言を遺し



《博多の怪商村上義太郎 亡くなります



享年 75 でした






《参考資料》

博多風土記 (小田部博美 著)

博多港の歩み (福岡市 編)




by nonkei7332 | 2017-10-11 16:59 | 博多 | Comments(0)


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戊辰戦争





戊辰戦争に 出征した 村上義太郎



江戸に着くと 木更津 待機します



上野の戦争が始まったと聞き 急ぎ駆けつけるも



時すでに遅く 戦闘は終り 彰義隊も潰滅した後だったのでした



この時 義太郎 将来を決する貴重なヒントを得ます それは



戦時における 迅速な軍備弾薬の輸送がいかに大事かということでした




福岡の文武館に戻ると 藩の参事となった 月形から 藩公からの指示で



大阪教導団に出頭を命ぜられます



教導団 とは 後の 陸軍士官学校 の事で



各藩から 数名の候補を集めてられていたのでした



天にも登る 義太郎の中で あの 海賊大将 の夢がもたげてきます



その大阪で またしても 大きな転機が訪れます



なんと 大阪教導団が東京教導団に 合併されていたのでした



同行した 団員は 福岡に帰ってしまいますが



義太郎は 決断を強いられます



東京へ行くかどうか 迷ってしまいました






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早川 勇



そんな頃 義太郎 一人の 男と出会います



かつて 討幕勤皇の志士であり 薩長同盟の基礎づくりに奔走した



遠賀郡出身の 早川 でした



早川は 義太郎の話を聞き 一冊の本を 彼に読ませます



それは 福沢諭吉の書いた 「西洋事情」でした



早川は 海賊大将の夢を ことごとく 喝破し



文明開化 これからの世は 剣や大砲ではない



武士を捨て その志を 商工業 に尽くせと とくとくと 語ったのでした



早川 後年 奈良府判事や元老院大書記官を勤め



晩年は郷土宗像の育英事業に専念しました






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大八車




自分に 何ができるか 義太郎は 考えました



戊辰の時 物を運ぶ 事がいかに大事かと知らされた事を思い出し



運送事業を興す そう決めると 義太郎は すぐに 行動に移しました



当時の輸送手段といえば 大八車 でした 大八車を操る人を車力といい



大阪には 「車力組」と呼ばれる組織がありました



義太郎は さっそく 元締めを 訪ね 自分で車力をやりながら 研究を重ね



車力の製造法を取得するまでになったのでした





義太郎は 福岡へ戻ります



当時の福博の輸送手段は 馬方が主力でした



そこに 義太郎は 「車力組」を立ち上げます



先ずは 博多の 車力製造に地元の技術者を説き伏せます



それから 失業武士の息子達で その力を持て余している男達を



一人一人 車力運送事業の将来を語り 12名の仲間を集めました



車力の製造資金は 車力一台ごとの出資金25円を一株として出資させ



共同で事務所を出し 自ら 棟梁となって 営業に走りました



やがて 博多の町に 威勢のいい男達が 町中に闊歩していきます



士族青年の車力組の評判は 博多だけに留まらず 甘木 鳥栖 久留米



柳川からも 遠距離輸送の仕事の依頼が多くなり



平民からの 出資参加者も増えて 大成功をおさめます



途中 馬方との軋轢も起こりますが 勢いは止められず



事務所に「萬物運輸所」という 看板を掲げ



村上義太郎 の名前は 新進気鋭の若手事業家として 福博の町に



知られることになったのでした





黒田藩は 「御銀主」と呼ばれる三人の商人が 金融調達を務めていました



奥堂町の酒造家 堺宗平 ・中島町の米屋 熊谷又七・蔵本町の油屋 太田清蔵



博多の商傑 と呼ばれた人達です



廃藩により 藩への用立金 数万両の損害を被ったといわれています



藩庁はその見返りとして 「商会」と呼ばれる 内港の権利を



三人に譲渡しました ところが 誰がやっても 経営が思うようにいきません



そこで 三人が 白羽の矢を立てたのが 村上義太郎 でした



港湾の一切の権利を 期限なしの権利金を払う という条件で



「商会」は 義太郎の物になったのでした



船便の荷下ろし 積荷 配送 総合運輸業として 「商会」は大繁盛します



この時 義太郎 30歳。






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西南の役 田原坂の戦い





明治10 義太郎にとって 人生最大のチャンスが訪れます



西郷隆盛が新政府に反旗を打ち上げた 西南戦争が勃発します



官軍は 御用船で 弾薬 食糧 機材を 博多港 に何十隻と運びます



運ばれた貨物は 「商会」の手で 陸揚げされ 「車力組」で 昼夜の別なく



熊本へと運ばれていったのです



田原坂の激戦の中 数日 風雨が続き 弾薬が陸揚げされずにいると



義太郎は 急遽 御用船を 糸島の今津湾に運びます



今津から 陸揚げされた 弾薬で 官軍は 田原坂の激戦を勝利したといいます



義太郎を幼年育てた 月形 この頃 警察の巡査隊長として



反乱軍の鎮圧に 従事していたことも 追い風だったのでしょうか



西南戦争 義太郎 莫大な財産を築きました



明治13 「商会」の権利を 突然 十七銀行の斡旋で 糸島加布里の船問屋



「東屋」に 売却します 遠浅の博多港 将来を見据えての 決断でしたが



売却益も計算の上でした





生涯 使い切れないほどの 莫大な財産を持った 義太郎が



いよいよ 最後の 事業にとりかかります



それは 誰もが びっくりする 大事業だったのでした。






続く





by nonkei7332 | 2017-10-09 15:30 | 博多 | Comments(0)



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村上義太郎 愛車の前で



明治維新は 6000人もいた 黒田藩士にとって



多難の時代の始まりでした



福岡を離れ 帰郷して 鍬を持った者



福岡に残って 慣れない町人の手仕事から 生業を始めた 藩士など



文明開化の流れは



そこに 多くのドラマを生みだしていったのでした




『海賊と呼ばれた男』で 一躍 有名になった 出光の創業者



出光佐三 宗像市赤間の 藍玉問屋の息子でしたが



士族ではありません




福岡には 幕末 の動乱 に乗じて 旧藩士の子弟で



多くの事業を興し やがて 大富豪となり



近年の 福岡の礎を 作ったとされる 一人の人物がいました



〈博多の怪商〉と言われた その



名前を といいます



海賊大将になりたかった男



でも 言っておきましょうか



波乱万丈の 壮絶な 一生を送りながらも



福岡でも あまり 知られてないのが不思議なくらいです





嘉永元年(1848年) 戊申 113



薬院に住む 貧しい 修験道者(山伏) の家に 男の子が産まれます



申年生まれだったので 母親から いつも



「お前は太閤さんの生まれ変わりだ」と いつも言われていました



先祖で海賊大将と呼ばれた 村上水軍の祖 〈村上義弘〉の事を



いつも聞かされ いつか 自分も 海賊大将 になるんだと



夢みていたといいます




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因島水軍まつり





この一家の先祖は



因島に拠点を持つ 因島村上水軍と呼ばれる 武士で



播州に住んでいました



その後 播州出身の 黒田如水 とりたてられ



天正15年の 秀吉九州征伐の時 には 黒田水軍の 参謀をつとめたといいます



豊後の戦いで 島津軍敗退につながる 戦功をあげたので



以来 代々 黒田家の功臣 として 仕えたのでした



ところが 世の中は 無情なもので この一家にまさかの 不幸が訪れます



黒田家 島津家 姻戚関係 ができたのでした



かつて 島津軍を痛め付けた 張本人 である 村上家



黒田の要職から外され とうとう 藩士 からも追われてしまいます



武士を捨てた 村上家は



その頃 武士の次に勢力を持っていた 修験道者 となったのでした



修験者として 権勢をふるうまで のし上がった一家でしたが



世の中は どこまでも 儚いものです やがて 明治になって



修験道廃止令 下され 一家は どん底に落とされます




そんな 一家の中で 義太郎少年は 育っていました



修験者の毎日は 法螺貝を吹きながら



鈴を鳴らして 家々の 軒先きに立つのですが



義太郎 そんな乞食坊主にはなりたくないと 言い張り



とうとう 親からも 勘当されてしまいます



時は 万延元年(1860年)



この年 江戸では 桜田門外の変 おこりました



義太郎 12 の時でした




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月形 潔





元はといえば 村上家は 黒田藩の功臣



話を聞いた 黒田藩士 月形潔は 黒田藩主11代黒田長溥 の作った



藩校文武館 雑用係として 義太郎を 住み込ませ



子弟達と共に学ばせたといいます



文武館は 明治4年に 藩校修猷館と合併されています



文武館時代の同期には 後の伯爵 金子堅太郎 安川財閥の 安川敬一郎



がいて 安川とは とくに仲が良かったと言います



藩士 月形潔 その後 新政府の官僚となり



後年 内乱反乱者の収容所としての 北海道に作られた



刑務所の初代所長として 収容者と共に 北海道開拓に従事します



現在の 樺戸郡月形町 の町名は 月形潔 の姓が付けられたそうです




世相は 勤皇へと 流れ



村上義太郎 黒田藩隊士として 戊辰戦争で 江戸に出征します



そして 明治維新



この時 義太郎 21 でした





続く






by nonkei7332 | 2017-10-09 01:30 | 博多 | Comments(0)

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筥崎宮 の境外末社となっています

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沖浜恵比須神社 正面から




大きな神社には 頓宮 (とんぐう)とか 御旅所 (おたびしょ)



とか言われる場所があります



年に一度の御神幸の時に 神輿はここで休みます



なぜそういった場所に 決めるかと云えば



そこが


伝承上ゆかりの深い場所であるとか



祭神に近い神が鎮座される場所であるとかだからです



筥崎八幡宮 の頓宮は 浜宮 と呼ばれ 大鳥居 高燈籠のある 側にあります



黒田四代藩主 綱政 が寄進したものです



それまでの頓宮はと云えば



博多大浜の沖浜恵比須神社でした



毎年 盛大な神幸渡りだったようです 毎回 博多の課役として



新船三艘を造り それに三神を乗せ 衣冠の装いをした神官達が



音楽を響かせながら 海を渡っていったといいます




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社殿 正面


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本殿に掛けられた 吊り灯籠
社紋は 〈三つ蔓柏〉
恵比寿紋 です




貝原益軒 筑前国続風土記 の中で



沖浜恵比須神社 のことをこう書いていました




・夷社


博多の北の海辺濱口に在。沖浜の夷の社是なり。



この社も 昔は 今の社地より東南の方に在しならん



今は海辺もはるかに築出したれば



今の社のある所は昔の海中なるべし



昔は 箱崎八幡宮の御旅所にして八月十四日に此所まで



神輿渡りたまひしという。



櫛田祇園の神輿も六月七日此所に渡御ありて



十三日に本社かへり奉りしと云。





筥崎宮 櫛田宮 二つの大社の頓宮 であった



〈 浜沖恵比須神社 〉



今は 朽ちかけ 鉄格子に囲まれた 神社になっていますが



博多の夷 の本家本元は



この 沖浜宮 だったのです



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右上に 浜夷 と書かれているのが 沖浜宮です
江戸時代の 博多古図 です


そもそも 筥崎宮も 八幡宮の元宮 〈大分宮〉の頓宮であったのです



延喜二十年(921年)託宣がおり お汐井とりの場所として



ここに新宮を建てたといわれています



百嶋神社考古学では 正八幡 櫛田の 大幡主神 だとします



大幡主 事代主 深いところで 繋がっていたのでしょう




かたや 近年(昭和27年)出雲大社から 大国主 勧請し



神社庁の看板神社となった 〈十日恵比須神社〉



なんでも揃えれば 良いというものではないでしょうに



かたや 誰も訪れる人も無く 朽ち果てた 〈沖浜恵比須神社〉



時代の流れといえばそれまでですが



何か 間違っているように思えるのは 私だけでしょうか。



櫛田宮も 筥崎宮も どんな風に 考えているのでしょうか










by nonkei7332 | 2017-09-09 21:37 | 古代史 | Comments(0)

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十日恵比須神社





夷神社・戎神社・胡神社・蛭子神社・恵比須神社・恵比寿神社



恵美須神社・恵毘須神社



みんな (えびすじんじゃ) と呼びます



祀っている祭神は 事代主神 (ことしろぬしのかみ)です



いろんな 書き方が あるのは この神 出自 のせいでしょうか




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十日恵比須神社 社殿



博多で 恵比須神社と云えば



〈十日恵比須〉と誰もが 言います



毎年 18日から11 まで 正月大祭 では



かなりの人出で 賑わいを見せます



夷(えびす)と呼ばれる神が



いつの間にか 商売繁昌の神様に 成り下がってしまっています



真実の 博多の夷 とは 何なのか



まずは 十日恵比須神社の真実から 調べてみました





福岡神社参拝帳 に 由来と沿革 がこう書かれています



十日恵比須神社は、



天正十九年(1591年)正月三日、



香椎宮大宮司武内家隠居、五右衛門と申す者、



香椎宮、筥崎宮に参拝し、浜辺通り潮先において



ゆくりなく夫婦恵比須神の御尊像を拝し



恐懼奉戴して自宅に奉斎せしが、



これより武内五右衛門商売繁昌するに至り、



いよいよ御神徳をかしこみ、翌文禄元年正月十日新社殿を営み、



十日恵比須と称し祭祀を厳修す。



これより世人聞き伝え庶民の賽詣年と共に殷盛となり、



天和元年(1681年)には更に御社殿を壮麗にし、



益々社運の隆昌を見る事と相成った。



更に明治四十年(1907年)、広く崇敬者の浄財に依り御社殿の改築、



同四十三年に閑院宮御台臨の建物を買収し、開運殿と名付け



開運お座を開きしより御神徳を仰ぐ参拝者激増の一途をたどり、



ついで昭和二十七年十月、御父神、大国主大神を出雲大社より勧請。



昭和四十三年に宏大な現社殿を新築。同年七月神社本庁より



「別表に掲げる神社」に加列相成り、



現今西日本屈指のえびす祭りとして暄伝せられるに至った。




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拝殿




武内家 武内宿禰 の末裔だといわれています



香椎から 博多の橋口町に移り 古くから 漁業を営んでいました



漁の神様である 恵比須様への 信仰心が篤かったのでしょう



さて 十日恵比須神社 現在 県庁に隣接する東公園の脇にあります



沿革を読むと



あたかも 創設から この地に鎮座しているかのように書かれていますが



それは 間違いです



五右衛門が 祠を祀ったのは もっと海寄りの 筥崎の松原あたりでした



寛政年間の古書にはこう書かれています




『この 夷社は 〈松原恵比須〉と 呼ばれ 元来 博多澳の恵比須なる由。


櫛田社人が支配せし博多七社の恵比須の内の一つなり。


当村(那珂郡)神主の支配なり云々』



また 貝原益軒 筑前国続風土記 には



『崇福寺の東にあり 澳の恵比須とは事代主命を祭る小社』



と書いています


つまり 社殿は 200年近く あまり目立たない



崇福寺東の松原の中にあって 参詣するものも



一部の漁業関係者だけだったのだろうと思われます



明治9 東公園が できた頃 博多の実業者達のはからいで



松原恵比須 小社今の場所に移されました



無資格社 だったので 正月十日の祭典以外は



ほとんど 参拝者もいなかったといいます



恵比須像も 普段は 武内家に安置され 正月祭典の時だけ



運ばれていたようです その後 武内本家が潰れたりして



博多の人は 貧乏恵比須 などと 悪口を叩いたといいます



明治34年ごろ 東公園に 元冦記念碑ができたころ になって



ようやく 社務所もでき 社殿も整い



恵比須像も常時安置することができたといいます



今の賑わいは つい最近(大正以降) になってからの事なのです




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手水舎





博多の夷 の話



今度は 筥崎八幡宮もからんだ



もうひとつの 夷社の話 に進みます






by nonkei7332 | 2017-09-08 10:42 | 古代史 | Comments(0)


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この浮世絵の作者 》です



広重 江戸時代後期



あの 有名な 東海道五拾三次 』を描いた 浮世絵師 です



ゴッホ セザンヌ にも 影響を与えたと言われています



さて この浮世絵画 広重 描いたとされる



六十余州名所図会 』と言われる 連作のひとつです



全国の名所 描いたものですが



場所は 筑前 筥崎海中の道 〉と書かれています




いくつか があります



おそらく 広重 全国六十余州 を旅して 描いたものとは違って



いろんな人から聞いたり 書物を題材にして描いたものでしょう



航空写真 ドローン がなかった時代ですので



この絵は 志賀島の展望台(潮見公園) りから



海の中道を見て描いた 風景が 原画なのでしょうか



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とすると 手前の鳥居の神社は



〈志賀海神社〉か 西戸崎の〈大岳神社〉ということになります



題名は 筥崎 になっていますが



この絵の中には 筥崎 どこにも見当たりません



実際の 筥崎八幡宮 はこの絵でいうと



上部の 松原のもっと 右側になります



ひょっとすると 広重 手前にある 鳥居を



筥崎宮 勘違いしていたんじゃないかという



憶測をしてしまいます



憶測ついでに この絵は 筑前博多の名所を描いたものです



海の中道 誰もが認める 博多の名所ですが



この絵には もう一つの 名所が隠されています





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上部に 描かれた 小山と その沖に浮かぶ小島です



ここは 名島弁財天社 が 鎮座する



〈名島山〉と 〈妙見島〉ではないかと 推測します



時は 江戸時代 博多の町に 弁財天信仰が 拡がってました



六月の祭日には 町人は こぞって 博多の港から 船に乗って



名島の浜に上り 神社に押し寄せたと いいます



絵に描かれた 帆掛船 名島を目指しているように見えます



貝原益軒 「筑前国続風土記」の中で



『名島弁財天社』のことを



むかしは 大社なり、参詣の人多し 》と書いています



『妙見島』は 豊臣秀吉 朝鮮出兵の時に



淀君 を連れて 茶会を 催したとされる として 有名です




私の 憶測なのか 妄想なのか



タイムマシーン 江戸時代に戻って



広重 聞いてみたいものです




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『原安三郎コレクション 広重ビビッド』



日本財閥の重鎮として活躍した原安三郎氏の



秘蔵の浮世絵コレクション 北九州美術館 初公開されます



歌川広重晩年の代表作を中心に



葛飾北斎や歌川国芳まで約250点を展示されるそうです



916日(土)~ 1029日(日)



さっそく 予定表に入れました



広重 に 会ってきます






by nonkei7332 | 2017-08-20 13:12 | 日記 | Comments(0)


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ジリジリと灼けるような陽射しの中



夏越しの祓い の 山笠神事を終え



〈鎮めの能〉の余韻が 幽かに 境内に残る



博多の総鎮守 《櫛田神社》に 寄りました




神社の宝物 として残る 一枚の 〈山笠絵馬〉を



確認したくて 社務に寄ったのですが



残念なことに 今後は 門外不出 だと言われました



福岡市博物館 5年前の イベントに展示されていたんですが



何か トラブルでもあったのでしょうか



そんな事を 匂わすような 答えでした




時間があったので 境内 歩いてみました



神社には 拝殿 本殿の他に 小さな祠に納められた があります



〈摂社〉とか 〈末社〉と呼ばれています



かつては 摂社 末社 区別する 基準というのがあったようで



神社庁によれば 摂社に該当する条件とは



本社御祭神の荒魂(あらみたま)や 后神・御子神 を祀った社のほか



御祭神と関係のある神 現社地の地主神(じぬしがみ)など



特別な由緒がある社となっています



こうした基準に当てはまらないのが末社です



摂社は 末社より上位に置かれていたようです



今では そんな基準も無く 総じて 境内社 と呼ばれ ています



櫛田神社 境内には 社務所奥の 注連掛稲荷社 をはじめ



十三の境内社があります




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豊宇気毘売神 は いくつもの 名前を持っています

伊勢の下宮様 であり 辛国息長大姫

アメノウズメ だとも云われています



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櫛田神社 主祭神 大幡主命 》です



その左右にアマテラス〉 スサノオ〉 祀られています



境内社に祀られる 祭神達 大幡主 との関係を



百嶋系図 の中で見つけてみました




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百嶋神代系図




天御中主 (白山姫) ・大幡主 ・豊玉主(豊玉彦)



大国主 ・事代主 ・大物主(大山咋) などの



主の神 (ヌシノカミ) の神々 筑紫 倭国 海人族 祖神 なのです



これが〈おくしださま〉と 博多の民に 慕われてきた 神々の系譜です



やがて 志賀海神社 安曇族 繋がり



この国の 礎を 各地に 拡げていくことになります









by nonkei7332 | 2017-07-24 23:58 | 古代史 | Comments(0)


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白水英章 さん




博多 人形の町 なんです



有名なのが 〈博多人形〉そして 博多祇園山笠 〈山笠人形〉



それと 張子虎などの 細工人形など




独特の人形文化 の発祥の町なのです




特に 有名なのが 〈博多人形〉でしょうか




Wikipedia 博多人形 についてこう書かれています




発祥には諸説があり、



・陶師(すえし)の〈中ノ子家〉



・博多祇園山笠の小堀流山笠人形の流れを汲む〈白水家〉



・瓦職人の〈正木宗七(惣七)〉



三説が有力とされていたが 現在では学術的研究が進み



1600年代に博多の町で陶師を営んでいた中ノ子家より転業した



中ノ子安兵衛・吉兵衛親子と、



小堀流山笠人形の流れを汲む 白水家との



複合的要因が最も有力とされている ・・・中略・・・



白水家は小堀家の流れを汲む家である



小堀家は京都の細工人形師 (初代小堀善左衛門正直) であり



現在より500年以上前(永享91437年) 櫛田神社の招聘により



博多櫛田神社境内に移り住んだ



小堀家は山笠人形の独占制作を 代々 行ってきたが



明治維新と共にその制作権も自然消滅し



13代目善之助の時 山笠人形の制作を廃業した



なお 博多祇園山笠で用いる山笠人形は



博多人形師が代々制作していたものと思われているが



実際には (少なくとも明治以前では) 小堀家のみが



独占的に制作を許されたもので 他のものによる制作は許されなかった



その小堀家細工人形の流れを汲むのが〈初代白水仁作〉で



白水家直系の人形師は




現在 では 博多人形師の〈白水英章〉が居る




博多人形の 起源には 山笠人形の 小堀流細工人形が



大きな影響を与えていることがわかります



博多の 人形文化の 起源とも言える 小堀流細工人形を



今に伝えているのが 初代白水仁作 の白水家 であり



白水英章 さんが その伝統を今も繋いでいるのです




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今回 〈山笠の顔〉として



天神1丁目の 飾り山の 作成中の 白水英章さんに お会いしました



山笠人形師としての 白水英章さんは 現在



東流の 舁山と 天神1丁目の飾り山を担当されています



現場には 飾り山の下絵が展示されています



下絵が描けてこそ 人形師だとされています



下絵の左下の署名には



小堀流人形司 英章 書かれていました






東流 舁山 毎年楽しみです



その中で 私の お気に入りの 人形達 です




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いよいよ 東流 今年の人形のお披露目が



2日だと教えていただきました



身体の中を流れる 小堀家 の血が 騒いでいるのでしょうか



そこには 紛れもなく〈のぼせもん〉の がいます









by nonkei7332 | 2017-06-30 11:58 | ルーツ | Comments(0)



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ソラリアプラザ 正面




博多んもんが 〈テンプラ〉といえば



食べ物の 〈天麩羅〉ではなく



訳もなく 天神界隈を ウロウロすることをいいます



50年前に タイムスリップ してみましょう



天神は 岩田屋(デパート)と 新天町 が中心の 店舗街で



西鉄大牟田線の終点と繋がって いて 多くの人が集まる



福博一番の 繁華街でした



明治通り 渡辺通り には 路面電車 も走っていて



明治通り 中洲 (玉屋) 呉服町 (大丸) という デパートもあり



人の流れは 天神に集まり 四方に流れていくといった風でした



南区(井尻) に住んでいた私達にとっては



電車に乗って 遊びに行くという



数少ない娯楽地の場所だったのです



当時 私も小学生高学年 。一年に何度かは 友達と連れ立って



〈テンプラ〉したものでした



所持金は 150円位でした 大牟田線の電車賃が 往復50



味のタウン 因幡うどんの丸天うどん(25円) を食べて



残ったお金で スポーツセンター スケートするか



センターシネマ 映画を観るか コースは ほぼ決まっていたようです



当時 福岡には



大きなイベント会場が スポーツセンター しかなかったので



コンサートや大相撲の九州場所も ここで行われていました



50年の月日は この国を 考えられない世界へと変えてしまいました



この街も 変わってしまいました



スポーツセンター センターシネマも無くなりました



路面電車 いなくなり 玉屋デパートも無くなりました



大丸が 呉服町から 移ってきて パルコ 三越 出店しました





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味のタウン 因幡うどん




と同じ コースをと思い まず因幡うどん〉 を探しました


ありました ありました お昼時だったので 満席5人待ち


待つのが嫌でしたので 元スポーツセンター



ソラリアプラザ に行ってみました


ホテル・ 専門店 が入った 商業ビルへと 変身しています


7階には トーホーシネマが 入っていますが



昔の センターシネマ の 面影は ありません


観たい映画まで 時間があったので



同じフロアの レストランで 食事をする事にしました





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ソラリア 7階 たから





和食の店 たから



美味しそうだったので 『和食ランチ御膳』を注文しました



九種類の お番菜 (左上から 玉子焼き・糖みつ煮・さばの塩焼



しろなのおしたし・えびの大葉天ぷら・茄子のあげびたし



赤こんにゃく・鰹のねぎまぶし・燻製ポテトサラダ)



豚汁・麦飯・ とろろ汁 付きで 1300 でした



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センターシネマ で観た 映画 一番覚えているのが



ダスティホフマン 『卒業』でしょう



今日見たのが 話題の テレビドラマのリメイク版



上戸彩 『昼顔』でした



映画評論は 今回は やりません







久し振りの 〈テンプラ〉に 使ったお金は 3500



昔は 150円で済んだんですけどね・・・








by nonkei7332 | 2017-06-27 09:48 | 日記 | Comments(2)