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《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて



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筑前琵琶師 尾方蝶嘉さん
ホームページより




明治の始め 博多の町に

栗山幽斎という 旧黒田藩士が住んでいました

黒田二十四騎の筆頭 栗山大膳 の ゆかりの人物かどうかはわかませんが

明治3年6月 この旧藩士に 愛くるしいひとり娘が生まれます

この親子に その後何があったのかは 定かではありませんが

両親が やがて亡くなり ひとり残された 娘は

博多の花町の養女となって たくましく 生きていくのでした

娘はやがて 妓名 を 《 金 時 》と 名乗ります

その 生まれ持った 美貌 と 美声 で 若くして

博多の 券番 でも 人気の芸妓の ひとり となりました

金時 は 三味線 と 月琴 の名手でした

引く手数多の贔屓筋の中で 金時 を射止めたのは

博多の富豪 《 加納 熊次郎 》です

酒造家の 加納熊次郎は 金時の奏でる 月琴を聴きながら

その芸才を 誰よりも 理解していましたし

その為なら 財を惜しむことはありませんでした

金時という名に別れを告げ 《 吉 田 竹 子 》と名乗りました

そして 明清楽 や 八雲琴(二弦琴)をも 修めたのでした


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筑前琵琶
尾方蝶嘉さん ホームページより



京都におこった 平家琵琶 は 室町以降 100年の間に 全盛期を迎えます

その後 戦国の世に入り 仕事を無くした 琵琶法師達 は

生活苦のために 京を離れ 多くは 流浪の僧となって

西へと 流れて行きました

琵琶と云えば 太宰府 四王寺山に 居を構えた

筑前琵琶 の 始祖である 玄清法師 は 成就院 を建立し

九州盲僧の中興の祖と仰がれたのですが

法印の 第九世 寿讃(じゅさん) は 博多の 蔵本町に 成就院を移し

〈臨江山 妙音寺〉と 名前を変えます

妙音寺 は 西日本の盲僧院坊の触頭として隆盛を続けますが

天正末期に兵火により灰塵に帰してしまいます

黒田二代藩主 忠之は 福岡城の鬼門除けの霊寺 として

藩の祈祷所として 妙音寺 を 再興したのでした

博多には 妙音寺 の元で いくつかの 盲僧坊がうまれます

妙福坊(橘智定の家祖) 大泉坊(鶴崎賢定の家祖) 観照坊(高野観道の家祖)

これらの盲僧達は 「般若心経」や「地鎮経」を 琵琶に弾じたり

荒神払いといって 家々を回り 布施でなんとか 命を繋いでいたのですが

明治4年 になると 新政府は「盲官廃止令」を発布します

この廃止令 は 盲僧の存在が 治安維持や 戸籍編成 の妨げになると

考えられたからですが 明治5年 には 「修験禁止令 」も 出され

修験道も 禁止されます

仏教寺院にとっては 多難の時代の始まりでした



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明治22年 の 博多地図




荒神琵琶 も 時代の流れには 逆らえません

この流れに危惧した ひとりの 愛琵家 が 動きます

あの 加納熊次郎 でした

加納 は 絶滅寸前の 琵琶再興の志を 二人の人物に委ねます

妙福坊の橘旭翁 と 吉田竹子 でした

二人には 薩摩琵琶の改良研究と 新たな 弾法と音曲の開拓を託します

盲僧琵琶と三味線の折衷を試みた 吉田竹子は

明治26年(1893) 博多の文士 今村外園 が 忠君愛国の軍人を詠った

「谷村計介」の作詞に 自ら 曲を付け弾奏し 大好評を得ます

この音曲が 筑前琵琶の原形 だとも いわれているのです

この流れに 博多の政財界の名士たちも後押しをします

伊藤博文 や 金子堅太郎 その弟 金子辰三郎 そして

玄洋社総帥の 頭山満 など が

橘旭翁 や 吉田竹子 の 東京進出に 力をかします

筑前琵琶の五弦を 提唱したのは 頭山満だったという話も伝わっています

吉田竹子 は 加納熊次郎 が亡くなると 博多に戻り

筑前琵琶後進の育成に 力を注ぎ 多くの名手を育てます


大正12年 11月 博多の町で 多くの弟子に看取られながら

吉田竹子 は 52年 の 波瀾万丈の華やかな 人生を閉じます

竹子は 意識が遠のく中で 熊次郎 の姿を見つけたのでしょうか

『 旦那さん そばに行くのは 早すぎましたか 』

幽かに そう呟いて 目を閉じたと言います



加納熊次郎 と 吉田竹子

筑前琵琶を語るとき 忘れては いけない 二人なのです






by nonkei7332 | 2017-03-15 00:37 | 博多ルーツ | Comments(0)


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尾方蝶嘉 さん




近くの 公民館で行われた

『筑前琵琶の歴史と演奏』という イベントに参加しました

講師と演者は 尾方蝶嘉 さん でした


尾方さんは

福岡県出身 福岡市在住

西南学院大学法学部卒

嶺青流筑前琵琶保存会 師範


日本琵琶楽協会会員

13歳より筑前琵琶を嶺青流流祖:嶺旭蝶、青山旭子に師事

琵琶による現代邦楽を田原順子に師事

洗足学園音楽大学現代邦楽研究所(20期)卒

2014年NHK邦楽オーディション合格

(NHKの邦楽番組に出演するのにふさわしい高度な演奏技術を有する)

(尾方さんの ホームページより)



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福岡が発祥の 筑前琵琶 です

歴史 を追いかけてみました


1200年前の話です 筑前には 琵琶を弾く 盲僧の系統があって

奈良の帝 の勅命で 佐理養 と 麻仁養 という 二人の 盲僧が

地鎮祭に呼ばれ 琵琶を弾奏したという 伝説があります

称徳女帝の頃 神護景雲2年(768)

四王寺山の麓 坂本に ひとりの男の子が生まれます

この子が17歳の時に 失明し 盲僧となって 修行を重ね

後年 九州盲僧群の中興の祖と仰がれる人となります

名前を 《 玄清法印 》といいます

筑前琵琶 の 始祖だといわれています

玄清法印 は 桓武天皇延暦4年(785)

6人の盲僧の弟子を引き連れて 比叡山に登ります

最澄 が 延暦寺を 開くにあたり 玄清達に「地神陀羅尼経」を

琵琶で奏でる事を 頼んだからだといいます

そして 長年 最澄を悩まし続けていた 悪蛇を 退散させました

三年後 坂本に戻った玄清は 成就院を建立し

嵯峨天皇弘仁14年(823) 58歳で亡くなります

こうして 筑前琵琶 は 盲僧琵琶 と 呼ばれて 後世に続いていきます

明治の中程まで 博多の町 では 人家の表に 荒神を祀っていました

祭りになると 盲僧達は 家々を回って荒神の前で琵琶を弾きながら

荒神の霊を 慰めては お布施をもらっていたようです

『荒神琵琶』とも呼ばれた 筑前琵琶 は


その後 「平家物語」などの 俗曲な 歌が作られていきます

「崩れ琵琶」と呼ばれる 新しい形式の 歌曲が 歌われるようになり

明治37年頃からは 博多の町が 筑前琵琶 一色に染まっていったのでした

博多に いくつかの 家元が生まれます

一丸智定師 (後の橘旭翁) の 〈橘流〉や 鶴崎賢定師の 〈鶴崎流〉

高野観道師 の 〈高野流〉 金時という芸名を持った 芸妓 吉田竹子の

〈吉田流〉など があります

名手と呼ばれた人といえば 高野観道師の娘 高野旭嵐 ・旭芳 姉妹 や

吉田竹子の弟子で 日露戦争後 東京で名を挙げた

高峰筑風 (娘は女優で有名な高峰三枝子)など がいます



尾方蝶嘉さんは 2013年に 旗揚げした

人形浄瑠璃を筑前琵琶で語るという日本で初めての試みである

『筑前艶恋座』の 琵琶浄瑠璃演者として

ますます 活躍の舞台を 拡げておられます










by nonkei7332 | 2017-03-11 23:35 | 日記 | Comments(0)


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博多座の10月公演 『おたふく物語』を観ました


博多座も久し振りです



前回の 博多座は 市村正親 (篠原涼子の旦那) の ミュージカル でした



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こういった 劇場で 演劇などを観ることを 芝居を見ると言いますが


芝居 の 語源は 神社の境内で行われていた 猿楽や神楽 を見るとき


見物客が皆 芝の上で 座って見ていたからだと いわれています


広い意味では 芝居は 神事だったのかもしれません




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「おたふく物語」は



山本周五郎原作 石井ふく子演出の 江戸の人情話です



主演は 上方喜劇王 藤山寛美の娘 『藤山直美』


いわゆる 喜劇 と言われる ジャンルに入るのでしょうか


原作は おそらく 読んだと思います というのも 30歳代の 一年程


『山本周五郎』『藤沢周平』『池波正太郎』といった


人情話の小説を 読みあさった 頃があったからです


今では 内容はほとんど 覚えていません



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さてさて 今日の話題は お芝居ではなく



『 おたふく 』です


あの のっぺらとした 女性のお面で知られている あの 『お多福』です



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おたふく といえば ほっぺたが腫れる〈おたふく風邪〉とか


お好み焼きのソースの名前とかで有名なんでしょうが


本当の 〈おたふく〉を知る 鍵は あの お面 です


そもそも 「面」とは 何なのか 辞典では


顔につける かぶりもの。


多くは人物・動物などの顔をかたどったもの。


神楽・舞楽・能・狂言で使われた。 とあります



その中でも 能面 は よく知られますが 世阿弥 は 「花伝書」の中で


申楽の起源にふれ 能の起源は 神様の話 だといっています


白州正子 は 対談の中で こんな話をしています


『 古い神社では 面 が御神体になっている所がたくさんありますが


私達の祖先が 仮面というものに対して



どのような考え方をしていたかということを暗示していると思います』


どうやら 面をつけている対象は すべてが 神 だったようですね


「翁」や 「鬼」も 神様 だったということは


「おたふく」も 一緒に出てくる「ひょっとこ」も 神様だったのでしょう



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「ひょっとこ」の語源は 「ひおとこ(火男)」で


竃(かまど)の火を 竹筒で吹いている表情です


中には 片目をつぶってる面もありますが


あれは ウインクではなく 片目が潰れた 神話に出てくる


天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を 暗示しているようです


どうやら 「ひょっとこ」は〈火の神〉〈鍛治産鉄の神〉のようです


「おたふく」は 後世「おかめ」という名前ももらっています


「おたふく」は 日本神話の 天岩戸(あめのいわと)伝説 に出てくる


天鈿女(アメノウズメ) だといわれています


岩に隠れてしまった アマテラスを 妖艶な踊りをして 誘きだそうとした


あの 踊り子の神様 です 日本の 初代の 芸能人 なんです


旦那様は 猿田彦 という説があるので


「ひょっとこ」と「おたふく」は夫婦だったのですね




神社考古学 の 百嶋説 によれば


アメノウズメ は 香春神社の主祭神 『辛國息長大姫大目命』だとします


大目 を ウズメ と読んでいるのです


スサノオ と 神大市姫(ミズハノメ)の間に 生まれた娘です


伊勢神宮の下宮様 豊受大神こと 豊受姫 であるとされ


産鉄の神でもあるので 伏見稲荷神社の祭神



宇迦之御魂神 とも 同じ神様だとされています


一方 猿田彦 は 山幸彦 =ニギハヤヒ=彦火火出見 であるという説です



こうして アメノウズメ こと 「おたふく」は


山幸彦 や 海幸彦 を 脇に抱え


アマテラス=卑弥呼 の跡を継ぎ


13歳の宗女 壱与(イヨ)へと 歴史を繋いだ


とてつもない 女神 だったのです



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百嶋系図 一部



(百嶋説は 通説とは異なりますが 注目度急上昇中の神社考古学説です)







by nonkei7332 | 2016-11-13 16:42 | 古代史 | Comments(0)


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能古島 と 落陽



秋は夕暮れ。

夕日のさして山の端いと近うなりたるに、

烏の、寝どころへ行くとて、

三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへ あはれなり。

まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、

いとをかし。

日入り果てて、風の音、虫の音など、

はた言ふべきにあらず。


〈 いと をかし 〉 = とても 趣き(風情) がある


《現代語訳》


秋は夕暮れが一番だ。

夕陽がさして山の端がとても近くなると

カラスが ねぐらに行こうとして三羽四羽 二羽三羽が

飛び急ぐのさえしみじみとした情感がある

まして 雁などの列が とても小さく見えるのはとても趣きがある

日が落ちて聞こえてくる 風の音 虫の音などは

いうまでもない程 良いものだ



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博多湾 アイランドシティ に沈む夕陽




『 枕 草 子 』(まくらのそうし)

冒頭四季の情景の中から 秋は夕暮れ・・・の部分を抜き出しました

(「枕草子」・・平安中期 清少納言 作「方丈記」鴨長明・

「徒然草」吉田兼好 とともに 日本三大随筆と云われています)


清少納言 が 「いとをかし」と語った 夕暮れの景色とは

いったい どこの 夕暮れ だったのでしょうか



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カモメ香椎大橋 と みなと100年公園




なにしろ 謎多き 清少納言


俗説が 巷に 満ちあふれています

実は 父親の 清原元輔 が 周防守 や 肥後守を歴任しており

太宰府に居た足跡があることが 歌 にも 残っています


《 春はもえ 秋はこかるる かまと山 かすみも霧もけふりとそ見る 》

清原元輔 の宝満山を歌った歌

(宝満山の竈門神社境内に歌碑あり)


世阿弥の謡曲 『 檜 垣 』に描かれた

太宰府の白拍子(遊女) 〈檜垣伝説〉があります

*( 拙ブログ 2014/12/27 『想いも深き 思い川』参照 )



〈清原元輔〉と 大宰府の白拍子 〈檜垣〉の間に生まれた 子供が

清少納言であるということが


鎌倉初期の 随筆集「無明草子」に

「檜垣の子 清少納言」と書かれています



さて ここから 私の妄想は 舞い上がります

とすると 清少納言 は 太宰府に住んでいたことがあったのではないか

清少納言という 女人の記憶に残る いとをかし 夕暮れの風景とは

博多の海 に沈む 秋の夕暮れの景色だったのでは・・・



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磯良の海(博多湾)
右 志賀島 左 能古島



万葉集 も 源氏物語 も 枕草子 も そこに描かれた

宮廷王朝の 原風景 は 九州ではなかったのか・・・




『 いと をかし 』事を 言うな

そんな声 が 聞こえてきます



私が その 美しさに 魅せられて

何百枚も写した 秋の夕暮れの 写真の中から

大好きな 四枚の写真を選んでみました








by nonkei7332 | 2016-10-13 20:53 | 古代史 | Comments(0)


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尾形光琳 『風神雷神屏風図』 東京国立博物館蔵



『 たまに出る子は 風に遭う』

という ことわざ があります

古来 より〈風に遭う〉ということは あまりいいことではないようです

江戸時代に書かれた 『絵本百物語』という 奇談集には

妖怪としての 〈風の神〉が書かれています

それによると

〈風の神〉は いつも黄色い邪気を吐きながら いつも

天空をさまよいながら 地上を見ています

〈風の神〉の持つ 邪気は 隙間が好きで

特に 暖かい と 寒い の 隙間は 大好物のようです

〈風の神〉の黄色い邪気に触れると 人は 病いにかかります

風邪 (かぜ) という字は ここからきたみたいです



人々が 一年中で 最も 風の被害を怖れる

三大厄日 というのがあります


二百十日 (にひゃくとうか)・・・(今年は8/31)

八朔 (はっさく)・・・(今年は9/1)

二百二十日 (にひゃくはつか)・・・(今年は9/10)


この三日は 立春から数えて210日目と 旧暦の8/1の朔日

そして 220日目の 三日のことです

この頃は稲が開花する重要な時期なのです それはまた

甚大な影響を与える台風に見舞われることも多い時期でもあるのです

天気予報などなかった 昔の人々にとっては

記憶に残る 何千年にも及ぶ 人々の 記録から

暦の中の 雑節 として この日を 残したのでした



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おはら風の盆





〈風の神〉を 鎮めるために 人々は 祈りました

越中富山のおわらの里では

『 おわら風の盆 』といって

村人達 は 400年もの間

9月1日から 3日迄 三日三晩 踊り続けています



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種山高原 「風の又三郎」の像



宮沢賢治 の書いた 童話の中で

『 風の又三郎 』という 話があります


どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう



奇妙な 風の歌で始まる 童話です

谷川の岸に小さな学校の さわやかな九月一日の朝でした

青ぞらで 風が どう と鳴り 日光は運動場いっぱいでした

そこに奇妙な格好をした 一人の転校生が やってきます

名前は 高田三郎 変てこな ねずみいろのだぶだぶの上着を着て

白い半ずぼんをはいて それに赤い革の半靴をはいていました

顔 は まるで熟したりんごのようで 目はまん丸でまっくろな

男の子でした

村の子達は 「風の又三郎」と呼びました

9月1日から 又三郎がいなくなる 9月12日迄に起こった

子供達と又三郎との 間の日々の物語が この童話のあらすじです

宮沢賢治は この話の最後をこう結んでいました



「そうだないな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」

嘉助が高く叫びました。

 宿直室のほうで何かごとごと鳴る音がしました。

先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。

二人はしばらくだまったまま、

相手がほんとうにどう思っているか探るように

顔を見合わせたまま立ちました。

風はまだやまず、窓ガラスは雨つぶのために曇りながら、

またがたがた鳴りました。



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私にとって 今年の二百十日から 二百二十日迄の 10日間は

〈風の神〉〈又三郎〉と 出遭った 夢のような苦しき 日々でした

旋風(つむじかぜ) は 私の肋骨を折って 肺腑を破り

視えない風の景色を またひとつ 私に見せてくれました

それは 忘れかけようとしていた あの 夢のつづきでした

風と遭遇した 240時間が

私を 新たなる 時空間 に連れてきたようです

ここには 新たな 季節の予感が あるのです

私は 5年程 若返ったのかもしれません

いやいや 5年程 歳を重ねたのかもしれません



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櫛田神社の拝殿


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拝殿 破風 の 風神




今日 9月23日は

秋の社日(しゃにち)といいます

秋分の日に 最も近い 戊(つちのえ)の日の事をいいます

社日 は古代中国に由来し

「社」とは土地の守護神 土の神を意味します

この日は 産土神 (生まれた土地の守護神) を祀る日なのです



私の 産土神は 櫛田神社の 〈大幡主神〉です


今日 櫛田神社の 拝殿前に 私は立ち

拝殿の破風 に ある 風神の彫り物を 頭上にして

風神との 10日の日々を 主の神に 報告しました

そして 小さく 願うことも 忘れませんでした



『 神皇産霊(かみむすび) よ 風の邪気は 我のみに 留めなん

ただただ 家族の そして 人々の 安泰たらんことを 』



( 神皇産霊神 = 大幡主神 )











by nonkei7332 | 2016-09-23 18:48 | 日記 | Comments(0)



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若宮神社 正面鳥居



福岡市の中央には

東西に走る 三本の大きな通りがあります

北から 〈昭和通り〉〈明治通り〉〈国体通り〉と通称で 呼ばれています

最も新しいのが 国体通り です

昭和23年 福岡市で国体が開催された折に整備された道路なので

その名が今も残っています


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若宮神社 境内




先日 紹介した 警固神社 も この通り沿いにあって

そこから 西に向かって 3分も歩けば

通り沿い左に 鳥居が立っています

この神社が 『 若 宮 神 社 』です

ビルに囲まれた 社務所はあれど 人はおらずの 寂れた社です

ただ 往時の勢いを残すような 楠の巨木が目をみはります


古代 ここに 奴国という国がありました

奴国王 は 大幡の主として 船に帆を立てて 大海を渡っていました

奴国王子は ヤタガラスと呼ばれ 倭国皇帝 神武の 補佐をしていました

王子は 他の種族を取り込むために 婚姻をしました

そして 生まれた 一人の 奴国王女がいました


その王女を祀った神社が 若宮神社 です

祭神は 《 豊 玉 姫 》です



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青木 繁 「わだつみのいろこの宮』 (一部)
桂の木に乗っているのが 山幸彦
赤い衣を着た 女が 豊玉姫




私が 豊玉姫 を知ったのは この絵でした

いつ頃だったのかはよく覚えていません

ただ 場所は 久留米の石橋美術館だったことは覚えています

この絵が 神話を題材にしたものだということも知りませんでした

海幸 山幸の話は知っていたものの 『豊玉姫 って 誰 ?』

そんな私でしたから それ以上の事は知ろうともしなかったようです

ただ 海神のいた 〈いろこの宮〉が

志賀島 だということだけは 誰かに 教えられたのを 憶えています


奴国の王子 豊玉彦(ヤタガラス) の娘

《豊玉姫》と《鴨玉依姫》

母は違う 異母姉妹になるのですが この二人の女神 と

豊玉彦の姉の アカルヒメと スサノオの間に生まれた

《市杵島姫》この三人の女神が 宗像三女神 と呼ばれている 女神です


豊玉姫 は 山幸彦 の 子を宿すのですが 見てはいけない

お産の姿を 見られたとして 山幸彦を捨てます

豊玉姫が 次に選んだのが 伽耶国 出雲族の 王子 大国主命 でした

山幸彦との子供 鵜葺草葺不合(ウガヤフキアエズ) は

神話では 妹の玉依姫が育てたという美談に なっていますが

本当は 玉依姫 は ウガヤ を 夫としています そして

生まれてきた子が 海神 安曇磯良 です


古代社会は 母系社会です 女が男を選びます

婚姻の基本は 女の家族が男を迎え入れるといった

女を中心として婚姻が成立していたようです

三人の女神達の 周りには 多くの男達がうごめいていました

女神達 は それぞれ 違う出自をもって この島に渡ってきた

渡来人達の 心を掴みました

そして 男達は 女神の夢見る 龍宮を 拠り所としながら

倭国という 九州統一王朝を

創りあげていったのかもしれません








by nonkei7332 | 2016-09-02 22:30 | 古代史 | Comments(0)

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警固神社 ( 天神2丁目 )




福岡市の中心街といえば

《天神》と呼ばれる 地域です

最近は 博多駅界隈も 駅の再開発にともなって

賑やかになりましたが

それでも 天神地区は 多くの商業施設や地下街 市庁舎などがあり

多くの市民が集まる 場所です

天神の明治通り沿いにある 〈水鏡天満宮〉が

天神という名前の出処だと言われています

さて 西鉄福岡駅に隣接する 三越 や ソラリアホテル に囲まれるように

警固公園があり その南に接するのが

『 警 固 神 社 』です

今日は この神社の謎を解いてみます


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祭神は 警固三神と書かれていました


神直昆神 (かんなおびのかみ)

大直昆神 (おおなおびのかみ)

八十渦津日神 (やそまがつひのかみ)


聞いたこともない神様だと思いますが

神直昆神 とは 下鴨神社の祭神 〈鴨玉依姫〉 の事です

大直昆神 とは 日吉神社や松尾神社の神様の 〈大山咋神〉のことです

京都下鴨神社の 〈丹塗り矢神話〉に出てくる お二人ですね ご夫婦です

お二人の子供が 上賀茂神社の祭神の 賀茂別雷神 なのです

さてさて 三番目の 八十渦津日神 とは誰なのか

実は 後世 歴史の闇に 消された 祓いの女神

あの 〈 瀬織津姫(せおりつひめ)〉のことです





警固神社は昔からここ(天神)にあったのではありません

由緒によりますと この神社の元宮は 南区警弥郷三丁目にある

警固神社(上警固神社)だといわれています

扁額には 〈 警固宮 〉と書かれていました。


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上警固神社 (警弥郷)


上警固神社の 由緒 にはこう書かれていました


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赤 (警固神社)
緑 (背振神社)







「筑前国続風土記」で 貝原益軒は

天神の警固神社の事を こう書いています


『 今かんがるに、警固と名付けしは、古、此の地に 警固所ありし故、

其の所にまします神なれば、名付け侍りしにや、

神功皇后の新羅を討ちたまひし時、此の神、

軍衆を警固したまふと云うは

其の名によりて 後の人附会せるなるべし』


すごい内容ですね 上警固神社は

その後 神功皇后が 福崎(福岡城本丸あたり)に祀ったとされていますが

益軒は 警固の名を借りた 後ずけだと言っています

おそらく 真実は いにしえの地図を見れば分かりますが

南区警弥郷近くまで海岸線だったのですが

その後 現在のように陸地が広まっていったので

福崎(黒田城本丸付近) に分社したのではと私は思っています

神功皇后は 国を護った神として 後世 度々 後ずけされていますが

これもその一つだと思います



そもそも 貝原益軒は 天神警固神社の事を

「小烏警固神社」と書いています

この神社の門前辺りは 古い地名で〈小烏馬場〉

と呼ばれていたためでしょうか


『 小烏の神社は、古より 此所に鎮座し給ふ。

城州下加茂の小烏の社と同神にて 建角身命 為。』



下鴨神社と小烏神社の ご祭神は 同じで

建角身命(ヤタガラス) こと 豊玉彦 だといっています

ただ 小烏神社が この場所(天神) にあったように書いていますが

益軒 の勘違いのような気もします

古地図をみると 警固所 と 小烏神社 は ちょっと 離れています


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呉服町路上にある 博多の地図

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鎌倉時代の 博多の古地図 「博多往古図」



鎌倉時代の古地図(上図)には 北警固所の南に〈小烏大明神〉とあります

現在 薬院の近くに 古小烏(ふるこがらす)という 地名があります

おそらく そこに 古い小烏神社 はあったのでこの地名が残ったのでしょう

じつは 現在は 警固三丁目の丘の上に 〈 小烏神社 〉があります

というより 丘の上に移されたようです


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小烏神社 (警固3丁目)



赤 (小烏神社)
緑 (警固神社)
黒 (古小烏町)



いったい いつ 誰が 丘の上に 移したのでしょうか

もう一度 上警固神社の由緒を見てください ヒントが書かれています

つまり 福岡城主 黒田長政が 慶長6年(1601年) 黒田城を築城する時に

城の本丸近くにあった 分社された下警固神社を

今の小烏神社のある所に移し

古小烏 にあった 小烏神社も移して 合祀したのでした

小烏神社跡は 藩士の住居にしたと記録には残っています

その後 慶長13年(1608年)二代目藩主忠之が本丸で 生まれると

警固三神こそが 産神だといって 山の上の 小烏の祠だけを残して

警固所があった 今の天神に 警固三神を祀る 警固神社として

神社を造営し 黒田藩主 代々 厚く 祀ってきて 今に続いています


天神警固神社 は 黒田家によって 慶長6年(1608)に


建てられた 社殿 だったのです





さて 私は 去年の11/10 の 記事の中で

京都下鴨神社の葵祭りの起源は

背振山麓に住む 賀茂氏が背振神社で行っていた祭りを

天智天皇が 京都にもってきたものだという

真鍋大覚さんの説を引用して 紹介しました


その後 下鴨神社を訪ね 八咫烏(ヤタガラス)こと豊玉彦と

鴨玉依姫 そして 大山咋神 の三神の繋がりを知り得ました

そして その影で 瀬織津姫が この神様達を

じっと 見守っている事を感じて帰ってきました


警固神社の元宮である 上警固神社のすぐ側には 実は 〈背振神社〉が

鎮座されています。同じ賀茂氏が祀ったものだと思っています

そもそも 背振神社の祭神は 宗像三女神になっていますが

私は 豊玉彦(ヤタガラス)が 隠れておられるような気がしてなりません


天神警固神社のご祭神には 警固三神のほかに 相殿神として


建角身命

豊玉姫命

神功皇后

応神天皇


の四神が 祀られていますが ここでも 建角身命 の名こそあれ

豊玉彦(ヤタガラス)は 表に出ずに 隠されているようにも思えます

神社をよく見て回りましたが

神紋は 黒田家の紋章と同じ「下がり藤」でした

千木 は 間違いなく 男千木 で 男の神様です

拝殿の瓦の上に 烏のような 置物が乗っているではありませんか

間違いなく あれは 八咫烏 (ヤタガラス) です

社務所で確認させて頂くと「その通りです」という答えでした

何か 安心したような 複雑な心境でした

何故に 警固神社の神様が 建角身命 を含めた 四神 ではないのかという

疑問ですが これ以上 突っ込むと 神社に迷惑が かかりますので

口を閉じることにします


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百島系図


ここからは 百島神社考古学 の世界です

百島説によると 祓戸神である 〈瀬織津姫〉と

出雲神話で スサノオ が 嫁にした 〈櫛稲田姫〉そして

「山城国風土記」に出てくる 丹波の姫 〈伊賀古夜姫命〉(イカコヤヒメ)

は 同じ人物だとされています

そして この姫 と 豊玉彦(ヤタガラス)の間に生まれたのが

鴨玉依姫 であり その夫が あの 大山咋神 なのです

私が 下鴨神社でみた あの神々の系譜が

博多の 小烏神社 警固神社の神々の系譜に重なるのです


それは 取りも直さず

豊玉彦の父である 博多の主の神である 櫛田の大幡主神

そして 大国主神 と 続く 白族(主の神の系譜)の中に

出雲族と言われる 秦氏の系譜が 取り込まれていった

出雲神話(国譲り神話) の 隠された 世界なのかもしれません


次は 豊玉彦と 豊秋津姫 と間に生まれた

豊玉姫 (鴨玉依姫とは異母違いの姉妹)を訪ねて


『若宮神社』を訪ねます








by nonkei7332 | 2016-08-30 10:51 | 古代史 | Comments(0)

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桃中軒雲右衛門




私が生まれて初めて聞いた音楽といえば 母の子守唄でしょうか

昭和30年代 我が家にまだテレビがないころ

ラジオから 流れてきた音の記憶をたどれば

三味線の音の後に聞こえてきた あの 濁声の唄(?)なのかもしれない

『 旅行けば〜 駿河の国に 茶のかおり〜 』

後になってわかったのが これが 〈浪曲〉というもので

二代目広沢虎造 の 「石松三十石道中」だったようです



『日本のリバプール』と呼ばれる 博多の街は

70年代 から 多くの ミュージッシャンが ここを発信地として

上京し やがて スーパースター となっていきました

チューリップ・海援隊・井上陽水・長渕剛・チャゲアス

女性では 高橋真梨子・浜崎あゆみ・MISIA などがいます



さて 明治の終わりから 大正にかけて 好景気に沸く博多の街から

一人の スーパースター が 出て

一世を風靡した事を 知る人は少ないようです

浪曲界では 『浪聖』と呼ばれた人で その名を

《 桃中軒雲右衛門 》(とうちゅうけんくもえもん〉といいます

(以降 雲 と略します)


本名を 岡本峰吉 生まれは 群馬県高崎です

父の 繁吉 は 浪花節の前身である 〈祭文語り〉という 旅芸人でした

父を師匠として 雲 は やがては 吉川亭繁吉 という

父の名を継ぎ メキメキと技量を蓄えていきます

やがて 東京に出て 三河屋梅車の 門下となり


関東一円を廻っていたようです

明治36年 繁吉 が31歳の時でした 運命の罠が 雲を覆います

師匠 梅車の女房であった お浜 と恋に落ちたのでした

お浜 は離縁。繁吉は破門。その上 関東から追放を言い渡されます

仕方なく お浜を連れて 繁吉は 西へ向かいます


この時 お浜 35歳


途中 静岡で 駅前の弁当屋の屋号を真似て

桃中軒雲右衛門 を 名乗ります

京都に入り 一人の男が 雲 の弟子となりました

その男 は かの 孫文の辛亥革命を援助した 熊本菊池の素封家

〈宮崎滔天〉でした ( 柳原白蓮の最後の夫 宮崎龍介の父 )

滔天はすべての財産を社会運動につぎ込み

家は破産 このころ 京都に落ちていたようです


雲は 滔天に 桃中軒牛右衛門 の芸名を与えたようです

こうして 雲 と お浜 と 滔天 の三人の巡業旅は

関西 そして九州へと続きますが 一向に 不入りで 鳴かず飛ばず

やがて 雲達は 滔天のかつての同志 玄洋社の 重鎮

〈末永 節〉を頼って 博多に流れ着いたのでした


末永翁は 雲の後援をする条件を三つ挙げたそうです

ひとつ 雲右衛門が 苦学生を援助して 特待生を出す事

ふたつ 孝子節婦・忠臣義人などを顕彰する事

みっつ 神社仏閣に 手水鉢 、鳥居などを寄進する事

雲はこれを受け入れ 孤児院の寄附興行を皮切りに

多くの興行の利益を 博多の町に還元したのでした

やがて 雲右衛門の浪曲は 博多の町に知れ渡りました

時あたかも 日本は 日露戦争の大勝利に沸き立っている時勢でもあり

雲 の語る 数々の 義士伝 は 全ての劇場を満員にするほどの人気で

博多に 雲右衛門 あり の噂は 全国まで 拡がっていったのでした

雲右衛門流 と呼ばれる「三段流し」の歌唱法というのがあって

30秒ほど息を止めて歌い込むそうですが

聴衆もそれに合わせて息を継げなくなってしまうほどだったと言います

雲 は 薬院に御殿のような 邸宅を建てたのもこの頃でした



明治40年 雲 は 東京の 本郷座で 旗揚げします

東京を追われて 5年目のことでした

それまで 浪曲といえば 下層階級のものだといわれていましたが

武士道鼓吹の波と 雲 の天才的な技量をもって 上流社会にまでも

その人気は不動のものになっていったのでした

松竹 は 雲右衛門と年間10万円で 興行権をかったといいます

(今の金額でいえば 3億円位でしょうか)

横浜在住のドイツ人の貿易商リチャード・ワダマンが

雲 の SP版のレコードを作成しましたが

72000枚のプレスだったといいます 当時の日本の人口が5000万

蓄音機が高額で そんなに普及していなかったということを考え合わせると

今でいえば ミリオンセラー(100万枚) を


はるかに超えるのではないかといわれています


明治45年 雲 の全盛期 でした

博多に戻り 豪遊を続けていたようです

長い間 雲 を支えた お浜 はこの年の春 肺を病み 他界します

これを機に 続いて 雲 も肺を病み 声量も 技量も落ちてしまいます

またたくまに その人気は 落ちていったのでした

かくて 大正5年 11月 7日

浪聖 とよばれた 桃中軒雲右衛門 こと 岡本峰吉は

博多の 借家の二階 で その一生を終えます

享年 わずか 44歳

雲のように湧き

雲のように消えた

博多の町が 育てた スーパースター でした












by nonkei7332 | 2016-07-12 15:19 | 博多ルーツ | Comments(0)


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下鴨神社 糺の森



古代の人々は 鎮守の森で

一年に二度だけ 冬と夏 に 神様から 霊力をもらいました

これが 祭りの始まりです

神は 海の彼方から来るのでしたが いつの間にか

山から来る神や 天から来る神に 変わっていきました

神が降臨(おり)てくるまえに 人々は まず 身を浄めます

神の威霊を 新たな心身で 受け取るための 禊の儀式です

冬の禊を 『年越祓』

夏の禊を 『夏越祓』『名越祓』『水無月祓』などといいます

神が降りてくる目印として〈標山〉(しめやま)という

松や杉で作った高い木の棒に 旗や幟をたてます

この〈標山〉に神霊が降ります

各地の夏まつりで この 標山に 飾りつけしたものが

山車(だし)・鉾(ほこ)・山(やま)・地車(だんじり) と呼ばれました

それとは別に 人の形をした紙人形 人形(ひとがた)に息を吹きかけたり

その紙人形で体を撫でて穢れを人形に移した後

川や海に流すという厄払いも行われていました


これが 人形の起源です



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博多の夏まつり は山笠です

《博多祇園山笠》の起源については 幾つか説がありますが

通説となっているのが 「仁治2(1241)年説」です

博多で疫病が流行り 承天寺の開山の 聖一国師(弁円)が 人々の担ぐ

施餓鬼棚に乗って 祈祷水を撒いて 疫病を鎮めたとされます

これが 櫛田神社の祭神 のひとつ 素戔嗚尊(祇園神) と結びついて

櫛田神社の祭礼になったという説なのです

〈博多祇園山笠振興会〉も この説をとっています


あくまでも 通説なのです おかしなことも幾つかあります

まず一つは 仁治2年頃に 疫病が流行ったという記録がないこと

もう一つは 施餓鬼というのは 仏事の法会であって 神事ではないこと

たしかに 当時は神仏混淆の世相であって 祇園神そのものが

素戔嗚と牛頭天王が神仏習合した 神と考えれば おかしくもないのですが

仏教伝来以前 まだ 櫛田の杜に

社殿が出来る前の 祭りの様子が気になりました

文化4年(1807)に書かれた

『 筑前 櫛田社鑑 』原田種美著 に 思わぬ 記述がありました


昔より 山笠のいはれあり

水無月祓 に 形代とて 茅、麻の葉にて 人形を作り

( 是を賀茂川祭りというなり )

身を撫でし時に となえる歌に

『水無月に名越しの祓する人は 千と世の命延ぶ 』というなり

となへの歌は外に数あり

是を川え流すと言へり

是 我が身の不浄を潔白に解除するの法にて

俗に是を 撫物(なでもの)と言う

( 当社の社宮 祝部家 等 水無月の祓に今是を用う )

山笠も其始めは 茅の形代の例にまなびしが

永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 云々



博多の山笠の起源は

賀茂川祭り(夏越の祓い) だと書かれています

賀茂川祭りとは 京都下鴨神社の 《みたらし祭り》のことでしょう

下鴨神社の祭神は

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)賀茂族の祖神 です

その神こそ ヤタガラス である 古代博多の皇子 《豊玉彦》なのです


2015/11/10 拙ブログ《鴨(賀茂)の流れ》を参照ください
http://hisamitsu.exblog.jp/25076752/


〈 永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 〉と書かれているように

博多の夏越の祓い が 祇園山笠(いかめしき作り山) と 変わったのが

永享年間 だと書かれています

さて 永享年間に 何があったのでしょうか

同じく『 筑前 櫛田社鑑 』には こう書かれていました


永享九年 (1437) 春三月に 博多より

京都の木偶師土偶師 を召かかえんとて上京せしが

小堀善左衛門 とて四条に居住せし木偶師を召抱えて 帰国す

櫛田神社内へ居宅を作りて 扶持米を遣わし

その年の作り山に 甲冑を着せ 旗幡を ささせ さまざまの

模様を作りて 祇園祭礼を勤む



櫛田神社 が 京都から 一人の男を 連れてきます

夏越の祓い祭り を いかめしき作り山 に変える為に連れてきた

若き 人形師 でした

《 小堀善左衛門 正直 》

博多山笠人形の始祖 であり

明治時代まで 13代 続いた 小堀流細工人形の 小堀家でした


2014/4/25 拙ブログ 《ルーツの旅》参照下さい
http://hisamitsu.exblog.jp/22508540/



博多の祭りを

〈夏越の祓い祭り〉から 〈祇園山笠〉へと変えた

張本人 が 私の先祖 だったとは

驚きの ファミリーヒストリー でした


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明治初年
最古の 博多山笠の写真
高さ16m です







by nonkei7332 | 2016-06-16 15:47 | 博多ルーツ | Comments(0)


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博多 出会い橋 にある 「三人舞子像」




博多には 行町 という町があった


古くからの町だったが 今はもう町名も残ってはいない

(現在でいえば 昭和通り(通称50メーター通り) 付近になる)


《806年》空海(弘法大師) が

唐 での修行の帰りついた港は 博多の津であった

空海は 早速 一軒の船宿を買い取り そこに 唐から持ち帰った

仏像や教本や仏具を備えた一寺をこの町に建て

やがては 真言密教が 東へ長く広まるようにと 東長寺となずけた

( 現在は 大博通りに面している 御供所町に移った 南岳山東長寺である )

人々は はじめは 勤行(朝夕の読経)の町 と呼んでいたが いつのまにか

行の町 行町 となったと言われている



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明治25年 博多町図



この 行町 に 大工の 《 成 田 善 兵 衛 》が住んでいた

実は 私の 母方の 高祖父 になる人である

成田家 は 旧藩士だと伝えられてきた 黒田本藩なのか

士藩の直方藩なのか 秋月藩なのかは定かではないが

江戸の頃 扶持を捨て 町人となったようである

土居流沿いの 西方寺前町 に住し 代々 大工を営んできた

幕末の頃 博多史誌『石城遺聞』に 西方寺前町の町年寄として

〈成田宗次郎〉の名前が 残っている 善兵衛との関係は不詳だが

町の重鎮として 大工の棟梁 をしていたのかもしれない



さて 話は 前回の話しに戻るが

相生町に 米倉藤三郎 が建てた料亭『大寿楼』の話をしたが

相生には 大寿楼のほかに 名の売れた料亭が三軒あったといわれている


『松の家』『満月』『長門』がそれである

実は この『松の家』は

明治の中頃 大工の 成田善兵衛 が転業して 始めた 料理屋 だった

大正になると 『満月』も譲り受けたようだ

私は 母から 『 成田 の 本家(ほんや)は 料理屋をしていた 』という話を

〈満月〉の店の名前といっしょに 聞いたことがあった

善兵衛には 後嗣 がおらず 二人の娘 「ルイ」と 「テフ」がいた

ルイ には 善七という婿養子が もらい 料理屋を継いだが

善七がどういう人物であったのかはわからない

一方 『テフ』には 下土井町に住む

山笠人形師 小堀家十二代 〈 小堀甚三 〉の弟


『小堀甚兵衛』を婿養子にもらった

分家すじにあたる この二人こそ

私の 曾祖父 曽祖母 なのだ

『 土居流 の恋 』という 拙ブログの記事があります
( 2015/7/5 http://hisamitsu.exblog.jp/22898770/ )



券番の取締という 男 〈 米倉藤三郎 〉と

料理屋の旦那 だった 〈 成田 善兵衛 〉とに

どういう繋がりであったのかは わからない

旧藩士あがりの この二人の名もなき博多町人が

博多花柳界の 華々しき 一時代を 作っていったことには

間違いない ようだ



座敷で よく 歌われたであろう 〈 黒田節 〉のほかに

〈 正調博多節 〉という 座敷歌がある

有名な 一節 がある


《 博多へ来る時ゃ 一人で来たが 帰りゃ人形と 二人連れ 》



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博多人形 ごとう 提供





参考文献
小田部博実著「博多風土記」


by nonkei7332 | 2016-06-09 09:50 | 博多ルーツ | Comments(0)