ブログトップ

《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて

タグ:動画あり ( 24 ) タグの人気記事



b0325317_11391047.jpeg



八代市 鏡町にある 印鑰神社 に行ってきました

印鑰(いんにゃく) という名前は

この地に 八代郡司という役所があって

朝廷から渡された 印 と 租米が集められる倉の 鑰(かぎ) が

神社に納めてあったからだといわれています


b0325317_11395643.jpeg


創建は 建久九年(1198年)

肥後の国球磨の地頭 相良三郎名頼 が 弟の八郎為頼に

八代の北三里「鏡ヶ池」の近くに神社を造営させたとされます

祭神は 蘇我石川宿禰

武内宿禰 の 第三子 です 蘇我氏の祖です

第一子の 波多八代宿禰 も 名前からして 八代の領主だったのでしょうか

仲哀天皇のころ 筑紫凶徒を鎮めるために この地に下向し

この地で 亡くなったと 神社の由緒に書かれていました

巨きなクスノキが境内にそびえ立っています

古代はこの辺りの 鎮守の杜だったのでしょう


b0325317_11405400.jpeg



神社に側に 八代郡倉跡 の案内文がありました

地名に 条里制の面影が残っています

まるで ここに かつて 王朝があったのごとき内容です

驚きは 「小早川文書」に 徳渕津に 正倉院 があったとの一文です

( 現在残っているのは 東大寺の正倉院だけが 唯一だと思われがちですが

当時は各地に幾つかあったようです)

〈徳渕津〉とは 球磨川の河口支流 前川付近にある 古代から 発展し

大陸貿易の拠点となっていた 港 なのですが 中世には

〈博多津〉とともに 朝鮮遣使 や 渡明船 の 拠点港だったようです

天文14年(1545)には 勅使として 大内義隆 もこの地を訪れています


徳渕 には 有名な 『河童渡来の碑』があります



b0325317_11433617.jpeg



「本朝俗諺志」という江戸時代の書物に こんなに書かれています

『 中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て

球磨川に住み着くようになった その後 一族は繁栄して

その数九千匹になったので その頭領を九千坊と呼ぶようになった

その河童どものいたずらが激しく人々をこまらせた

加藤清正はこれを怒り 九州中の猿に命令してこれを攻めさせた

これには河童も降参して 久留米の有馬公の許しを得て

筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった 』


河童 は 古代中国 魏呉蜀の三国時代に 呉から渡ってきた 渡来人

その 渡来地が八代だったようです

そもそも 八代という地名の由来は いくつかあるようですが

『 海からの 神迎えの信仰 が盛んな土地で

巫女が火を焚き常世の国から


神様を迎える儀式が真夜中に行われていた

この神々が往還するところに「社」があり

この「やしろ」から「八代」となった 』

と言われています



b0325317_11442143.jpeg
鏡が池




話は戻って 印鑰神社 には 春の大祭(4月7日) に

『 鮒取り神事 』が今も行われています

神社由緒には

『 蘇我石川宿禰が 凶徒平定の為この地に来られた時

悪天候で海が荒れ魚が捕れず地元の若者が「鏡ヶ池」に飛び込み

鮒を献上し石川宿禰をもてなしたと言う故事にならい毎年4月7日

褌一つの若者が池に飛び込み手づかみに鮒を捕り御神前に供え

見物人にも投げ上げる行事は今日も賑わいを伝え継いでいる 』

と書いてありました





私の長男は この地に縁があって この神事にも 何度も参加したようです

動画をよく見ましたが 彼の姿は見つかりませんでした




〈 蘇我氏 と 熊襲 〉〈 河童伝説 と 水天宮 〉

興味は尽きない 八代 ですね

次回は いよいよ 〈 八代妙見宮 と 妙見の謎 〉です







by nonkei7332 | 2016-07-28 12:30 | 古代史 | Comments(0)


b0325317_13284250.jpeg


夏の早い朝

微睡みの中で けたたましく

叫ぶように鳴く 蝉の声で 眼が覚める

梅雨入りを 待ちかねたように 鳴き出したから

下手な 気象予報士よりも 賢いのかもしれない

《 く ま ぜ み 》は ここでは 〈ワシワシ〉ともいう

蝉の中でも 強者(つわもの) の武士(もののふ)のようだ

夏が来たぞと 触れ回るかのように 激しく鳴く

すべての人が 喧しいと思うのかと思えば

そうでも ないようである



《 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 》

( しずけや いわにしみいる せみのこえ)

芭蕉






立秋(8月7日)を過ぎると 残暑というが

朝夕の風に秋の気配が漂うようになる頃


七十二候 の 《 寒蟬鳴く》(ひぐらしなく)は

8月12日 から 盆過ぎまで

カナカナ と 夕暮れ近く《 ひ ぐ ら し 》が鳴く

送る 魂 を 惜しむように カナカナと哀しく啼く


《 松風の音あはれなる山里にさびしさ添ふるひぐらしの声 》

西行






二百十日 (9月1日) を過ぎると

暑かった 夏を惜しむように 《 ほ う し ぜ み 》が鳴き出す

白き秋 の 迎え人 のように


《 鳴くあとの やや 淋しさや 秋の蝉 》

子規







《 蛍二十日に蝉三日 》(ほたるはつかにせみみっか)

という言葉があります

それにしても 蛍や蝉は 短い命だということをいったのでしょうが

これは 正確ではありません 実は蝉は 成虫になってから

一ヶ月は生きているといいますから 蝉の方が長く生きています

蛍の方が短命だったのです

都々逸(どどいつ) の中にも

蛍の方が 短命だという歌がありました


《 恋にこがれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ螢が 身をこがす 》






by nonkei7332 | 2016-07-20 14:03 | 日記 | Comments(0)

b0325317_14271155.jpeg
桃中軒雲右衛門




私が生まれて初めて聞いた音楽といえば 母の子守唄でしょうか

昭和30年代 我が家にまだテレビがないころ

ラジオから 流れてきた音の記憶をたどれば

三味線の音の後に聞こえてきた あの 濁声の唄(?)なのかもしれない

『 旅行けば〜 駿河の国に 茶のかおり〜 』

後になってわかったのが これが 〈浪曲〉というもので

二代目広沢虎造 の 「石松三十石道中」だったようです



『日本のリバプール』と呼ばれる 博多の街は

70年代 から 多くの ミュージッシャンが ここを発信地として

上京し やがて スーパースター となっていきました

チューリップ・海援隊・井上陽水・長渕剛・チャゲアス

女性では 高橋真梨子・浜崎あゆみ・MISIA などがいます



さて 明治の終わりから 大正にかけて 好景気に沸く博多の街から

一人の スーパースター が 出て

一世を風靡した事を 知る人は少ないようです

浪曲界では 『浪聖』と呼ばれた人で その名を

《 桃中軒雲右衛門 》(とうちゅうけんくもえもん〉といいます

(以降 雲 と略します)


本名を 岡本峰吉 生まれは 群馬県高崎です

父の 繁吉 は 浪花節の前身である 〈祭文語り〉という 旅芸人でした

父を師匠として 雲 は やがては 吉川亭繁吉 という

父の名を継ぎ メキメキと技量を蓄えていきます

やがて 東京に出て 三河屋梅車の 門下となり


関東一円を廻っていたようです

明治36年 繁吉 が31歳の時でした 運命の罠が 雲を覆います

師匠 梅車の女房であった お浜 と恋に落ちたのでした

お浜 は離縁。繁吉は破門。その上 関東から追放を言い渡されます

仕方なく お浜を連れて 繁吉は 西へ向かいます


この時 お浜 35歳


途中 静岡で 駅前の弁当屋の屋号を真似て

桃中軒雲右衛門 を 名乗ります

京都に入り 一人の男が 雲 の弟子となりました

その男 は かの 孫文の辛亥革命を援助した 熊本菊池の素封家

〈宮崎滔天〉でした ( 柳原白蓮の最後の夫 宮崎龍介の父 )

滔天はすべての財産を社会運動につぎ込み

家は破産 このころ 京都に落ちていたようです


雲は 滔天に 桃中軒牛右衛門 の芸名を与えたようです

こうして 雲 と お浜 と 滔天 の三人の巡業旅は

関西 そして九州へと続きますが 一向に 不入りで 鳴かず飛ばず

やがて 雲達は 滔天のかつての同志 玄洋社の 重鎮

〈末永 節〉を頼って 博多に流れ着いたのでした


末永翁は 雲の後援をする条件を三つ挙げたそうです

ひとつ 雲右衛門が 苦学生を援助して 特待生を出す事

ふたつ 孝子節婦・忠臣義人などを顕彰する事

みっつ 神社仏閣に 手水鉢 、鳥居などを寄進する事

雲はこれを受け入れ 孤児院の寄附興行を皮切りに

多くの興行の利益を 博多の町に還元したのでした

やがて 雲右衛門の浪曲は 博多の町に知れ渡りました

時あたかも 日本は 日露戦争の大勝利に沸き立っている時勢でもあり

雲 の語る 数々の 義士伝 は 全ての劇場を満員にするほどの人気で

博多に 雲右衛門 あり の噂は 全国まで 拡がっていったのでした

雲右衛門流 と呼ばれる「三段流し」の歌唱法というのがあって

30秒ほど息を止めて歌い込むそうですが

聴衆もそれに合わせて息を継げなくなってしまうほどだったと言います

雲 は 薬院に御殿のような 邸宅を建てたのもこの頃でした



明治40年 雲 は 東京の 本郷座で 旗揚げします

東京を追われて 5年目のことでした

それまで 浪曲といえば 下層階級のものだといわれていましたが

武士道鼓吹の波と 雲 の天才的な技量をもって 上流社会にまでも

その人気は不動のものになっていったのでした

松竹 は 雲右衛門と年間10万円で 興行権をかったといいます

(今の金額でいえば 3億円位でしょうか)

横浜在住のドイツ人の貿易商リチャード・ワダマンが

雲 の SP版のレコードを作成しましたが

72000枚のプレスだったといいます 当時の日本の人口が5000万

蓄音機が高額で そんなに普及していなかったということを考え合わせると

今でいえば ミリオンセラー(100万枚) を


はるかに超えるのではないかといわれています


明治45年 雲 の全盛期 でした

博多に戻り 豪遊を続けていたようです

長い間 雲 を支えた お浜 はこの年の春 肺を病み 他界します

これを機に 続いて 雲 も肺を病み 声量も 技量も落ちてしまいます

またたくまに その人気は 落ちていったのでした

かくて 大正5年 11月 7日

浪聖 とよばれた 桃中軒雲右衛門 こと 岡本峰吉は

博多の 借家の二階 で その一生を終えます

享年 わずか 44歳

雲のように湧き

雲のように消えた

博多の町が 育てた スーパースター でした












by nonkei7332 | 2016-07-12 15:19 | 博多ルーツ | Comments(0)

b0325317_14022055.jpeg


《 鬼 灯 》 《 酸 漿 》

何と読むのかを知っている人は

かなりの 漢字通 の人ですね

答えは 前回 記事にしました 《 ほおずき 》です


語源をたどると 幾つかの説がありました

紅い実が 人の紅い頬に 似ているから 〈 頬ずき 〉

実の種を取って 口に入れて鳴らす遊びの (頬突く)から 〈 頬突き 〉

「ほう」という カメムシが よく 集まってくるから 〈 ほう着く 〉

紅い実が 火のような色だから 火火(ほほ)が着くで 〈 火火着き 〉

7月の (文月) ふづき が訛って 〈 ほほずき 〉




貝原益軒 は『筑前国続風土記』花譜の中で

酸漿(ほおずき) について こうなふうに書いています


叉 、金灯籠 という。

此草 ほう という 蟲 好んで 葉をくらう。

故に ほうづき というにや。


ほおずき の 新たな語源 『金灯籠』が出てきました

灯籠とは 提灯 のことです

金灯籠 で 思いおこすのは 『山鹿灯籠』です

今も残る 熊本県山鹿地区の 山鹿の提灯まつり は有名です


この祭りの由来は

景行天皇 が 九州を巡幸しているとき

加茂の浦の湖(現山鹿市内)で濃霧が立ちこめ

一行は進路を見失ってしまった

このとき 地元住民が 松明を灯して

一行を 大宮神社 のところまで導いた

この松明がのちに灯籠となって神社に奉納されたとあります



景行天皇の巡行と云えば 聞こえはいいですが

目的は 鬼といわれた 土蜘蛛(熊襲)征伐だったのでしょう

山鹿の里は 大きな湖だったんですね

灯籠は 大宮神社に奉納されたとされていますが

灯籠は 何を意味しているのでしょうか


祭りの中で唄われる 「よへほ節」という 俗謡があります

よへほとは 酔いましょう という意味だといいます

元歌は 男と女の 掛け合いの歌のようです

古代のまつり の起源 「歌垣」を偲ばせます



ほおずき と 金灯籠 の写真です


だぶって見えるのは 私だけでしょうか



b0325317_14412441.jpeg


b0325317_14053461.jpeg




実は ほおずき は 別名があります

『 輝 血 』 かがち と 読みます


この別名の 出処は なんと 「古事記」でした

古事記の出雲神話に出てきます

「其の形は如何(いかに)。」と問ひたまへば、答へ白しけらく、

「彼(そ)の目は 赤加賀智(あかかがち)の如くして、

身一つに八頭八尾(やかしらやを)有り。

亦其の身に蘿(こけ)ち檜椙(ひすぎ)と生(お)ひ、

其の長(たけ)は谿八谷岐八尾(たにやたにをやを)を度(わた)りて、

其の腹を見れば、悉に常に血爛れたり。」とまをしき」


《現代語訳》

「ヤマタノオロチのその姿かたちはどんな風なのか。」と尋ねると、

「その目は赤い ほおづき のようで、身体は一つで、頭が八つ、

尻尾も八つ付いています。

また、その体にコケとヒノキと杉の木が生えて、

その長さは谷が八つ、丘が八つ分あって、その腹を見ると、

いつも血がただれています。」


スサノオ の ヤマタノオロチ退治 の場面です

《出雲神話》には いくつもの 謎があります

ここからは 妄想だといわれるかもしれませんが

「古事記」は 出雲神話で 何を 隠そうとしたのでしょうか

スサノオ 対 ヤマタノオロチ の構図なのですが

私には スサノオ=ヤマタノオロチに見えてきます

スサノオ は 熊襲国の王 です (新羅の王族でもありました)


神話では スサノオは 荒神とされています

ヤマタノオロチ は 大蛇です それは 龍 の化身です

龍 は海人族の 象徴でもあります

ヤマタノオロチの尾からは 三種の神器のひとつ

〈草薙剣〉がでてきたというのも 謎めいています

山鹿の大宮神社に祀られているのは ほんとうに 景行天皇なのか?

私には スサノオ=ヤマタノオロチ(龍神)である

熊襲の祖神こそが 本当の祭神のように思えてきます

妄想は限りなく続くのでこのくらいにしておきます



b0325317_14074991.jpeg



〈ほおずき〉が 〈鬼灯〉となって

ヤマタノオロチの 紅い目となりました

ヤマタノオロチの 紅い目は 山鹿の金灯籠 でした


山鹿の里人は 灯籠を鎮守の社に奉納しました

これが 毎年8月 頭上に灯籠を載せた女性たちが

優雅に舞い踊る 「千人灯籠踊り」となりました

幻想に誘う 闇の向こうに

古代山鹿の主の神が 見え隠れしています











by nonkei7332 | 2016-07-05 15:42 | 古代史 | Comments(0)


b0325317_17430880.jpeg


この 国 では 初夏になると 雨が多く降ります

六月 のことを (水の月)(水無月) (みなずき)といいます

木々 は 若葉に染まり 春の花 が実をつけるころ

人々は 田 に水を張り 稲を植えますので

この月のことを 田無月(たのつき) とも いいます



水の〈女神〉は 水の端の女 (みずはのめ) です

人々は 川の淵に 祠をつくり

躰 と 心 を 浄め 一日の始まりを祈りました

この国の人たちは 今でも 朝起きると まず顔を洗います

水で 穢れを 祓う 禊(みそぎ)の儀式が

今も 魂の記憶として 残っているからでしょうか



〈雨〉という語源は〈天〉だといわれています

〈天水〉(あまみず) は 神の振る舞い でした


雨が 幾月も降らなければ

ひとびとは 水の女神(龍神)に 雨乞いをしました

雨が 幾月も降り続くと

ひとびとは 太陽の神(アマテラス) に 祈りました

また 古代より この国の人たちは 多く恵みをもたらしてくれた

祖先達 を 神として 祀ってきました


祖人 は 遠い 海原を 渡ってきた 海人達です

男達を 〈海士〉といい 女達を 〈海女〉と言って

〈アマ〉とよんだのでした



今日 は 衣更え

いよいよ 暑い夏が やってきます

季節が またひとつ 終わりました




b0325317_17435201.jpeg


《 ひさかたの 雨も降らぬか 蓮葉に 溜まれる水の玉に 似たる見む 》

万葉集 16ー3837


〈 私訳 〉

雨が降ってこないでしょうか 蓮の葉に溜まる水を見たいのに





《 鳴る神の 少し響みてさし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ 》

万葉集 11ー2513 柿本人麻呂


〈 私訳 〉

雷が少し鳴って 曇ってきたわ 雨も降らないかな

そうすれば あなたも もう少しここに いてくれるのに



柿本人麻呂 の この歌 をテーマにしたのが


お気に入りの アニメ『 言の葉の庭 』です

去年 4月『 孤悲(こひ) は 片恋 』という 記事にしました

( 2015 / 4 / 15 http://hisamitsu.exblog.jp/24363195/ )





アニメの エンディングで 秦 基博 が 歌った

『 Rain 』という歌です








by nonkei7332 | 2016-06-01 18:39 | 日記 | Comments(0)

b0325317_18353611.jpeg
居酒屋 みなみ




昭和40年代 高度経済成長期と呼ばれる頃

博多の街には 歓楽街中洲を中心に多くの飲食店が

ひしめき合っていました その中でも ひときわ 際立っていたのが

「キャバレー」というビッグバンドを背景に 歌謡ショウや

ダンスも踊れる 大人の 社交場でした

当時は 中洲を中心に20店舗くらいはあったそうですが

その中でも BIC3 といわれたのが 赤坂門にあった 『キャバレー赤坂』

清川にあった『キャバレー月世界』そして 南天神にあった

『キャバレーミナミ』だったといわれています

十代後半の青き少年だった 私には 近くて 遠い存在の 歓楽街でしたが

そんな妖艶な世界を ある種の 大人への憧れとして 見ていたのでした


今では マンションや ビジネスホテルが立ち並ぶ

南天神(渡辺通り5丁目)にあったのが『キャバレーミナミ』です

常時150人近くの従業員のための 専属食堂があったそうです

やがて いつしか キャバレー も 取り壊され 食堂が 居酒屋となって

「ミナミ」の名前を残しています


前置きが長くなりましたが 私の 二軒目の行きつけが この

『 居酒屋 み な み 』さん です

お付き合いは もう 10年くらいになりますでしょうか

暖簾をくぐると 12.3人が座れるカウンターがあり

奥には 小座敷と 20人はゆっくり座れる 大座敷があります

ほぼ 毎日来られる 常連さんで一杯ですが

その多くが 市役所や 九電や 九電関連の 企業の方が多いようです

厨房は みんなから 「おかあさん」と呼ばれる 女将さん(年齢不詳)

が仕切ってあり 接客は もっぱら 博多美人の娘さんが対応しています

母娘とも 豪放磊落 そのもので 店内は 笑い声が絶えません

最近 ちょっと遠のいている 私ですが 行った日には 奥から おかあさんが

『 ◯◯◯っち~!。どげんしとったと!。元気しとったね!』と

博多弁丸出しの 大きな声が 飛んできます

驚くのは この店のメニューの多さです

柳橋連合市場直の 旬の魚 野菜が カウンターに並んでいます

メニューに無くても 「なんば食べたかね」と言って

おかあさんが すぐに 奥で 作ってくれます

5年前 私が病に倒れた時 真っ先に 病院に駆けつけてくれたのが

お二人でした リハビリ中も 何度も 病院を訪ねてくれて

激励をしていただきました


b0325317_18365444.jpeg


2012年5月 お店にとって 大変な一ヶ月 がありました

福岡市長が 市職員に対して 「禁酒令」を出した時でした

飲酒に絡む職員の不祥事が続いたという理由でしたが

お客さん に 市職員の多い お店は 大打撃だったようです



この「禁酒令」のさなか 西日本新聞の6月6日の朝刊のコラムで

九州大学名誉教授の関先生が こんな記事を書かれています


市長の談話を読んで その真摯さは 正義でも

なにか こう 野暮なのは これにかかわる

子供に夢を与えるのは 年長者たちの 粋なかっこうよさだから

野暮 は すでに 罪の一歩手前でもある。


けれど それが けっして

市長ひとりのものではないところに 根の深さがある

この町全体が どこかに 大切なものを置き忘れて

えらく 野暮な町になろうとしている 虞(おそれ)を感じる

それは 先人たちの 有言無言の教えに背くものではないか

酒をないがしろにすると


天罰ならぬ 酒神の逆襲を受けるだろう

大丈夫か この町 しらふで 千鳥足だが。

【 ( 福岡市「禁酒令」)より一部抜粋】


市長の家庭外禁酒の 激が飛ぼうが


周りの風景が いかように変わろうが

博多の戦後の大衆酒場の流れを


肌で感じてきた 母娘 の 顔には

微塵の ためらい もないようです


『居酒屋 みなみ』に 今日も 暖簾がさがります

いつものように


豪快な おかあさんの 笑い声が 轟いています







私がいつも呑む焼酎の 大好きなTVCMです







by nonkei7332 | 2016-05-20 19:27 | 日記 | Comments(0)



b0325317_16113047.jpeg
「味秀」さん




私は 酒飲みではありません

晩酌などもしないし 家の中には お酒と名のつくものは

どこを探しても 一つもありません


それじゃあ 下戸(げこ) なのかというと そうではなく

いわゆる 呑める口は もっているからです

いまでも 月に一度は 行きつけの店に行っては

古くからの友人と話したり 焼酎のお湯割りを 四、五杯 呑んでは

カラオケで 好きな歌を 二、三曲 歌っては 楽しい時間を過ごします

行きつけの店は 二軒だけです よほどの事がない限り

他の店には 行く事がありません




一軒目は 東区松香台 (香椎駅近く九州高校前のバス停そば)にある

『 味 秀 』(あじひで) さんです

店を出したのが 平成3年だそうなので 今年で 25年周年です

私は もう 20年近く通っているので 客の中ではかなりの古株でしょう

このお店のお気に入りは なんといっても 料理の美味しさと

ママさんの 家族的な 人柄でしょう

付け出しの小鉢一品も日替わりですが どれもが 満足できる味です

人気は「ロールキャベツ」「ホウレンソウのおひたし」などですが

私のお気に入りは なんといっても 「ポテトサラダ」

刺身も ヒラアジ か カンパチ と 決まっています

近くの九産大のイケメン男子学生のアルバイトも 好評なんです

嬉しいことに 毎年 正月の二日は 二人の息子と

「味秀」さんで 酒を飲むのが 恒例になっていて

いい酒と 息子達の歌を聴きながら 一年のスタートをするのが

私の 至上の喜びでもあるのです


b0325317_16132928.jpeg


『新修 福岡市史 民俗編ニ』(2015年発行) の第四部「歳月」の中で

「味秀」さんの記事が出ていました

日々のお店の様子を 日記みたいに ママさんが 綴ってありました


某月某日

今日の一番目のお客さんは Cさん。はじめての来店が二年ほど前。

脳梗塞で右半身にかなりの麻痺が残り、杖をついての来店。

不自由ながら会話もふえて、月一の来店が週一になり、

一回の時間も長くなり、楽しんで下さっている様子です。

そこへ Dさんが来ました。彼も 同じ病気を二年前に経験しました。

もともと 歌が好きな方で、リハビリ中は「店で歌うぞ !」が

目標だったそうです。病後にはじめて来店された時には

大変だったろうと思いをめぐらすと、涙が出てきました。

すばらしい回復ぶりでした。

合わせたかのように リハビリの仕事をしている E君 来店。

お互いの立場が理解しあえるので 話がはずみます。



ママさんの 暖かな人柄を偲ばせる 記事でした

この中に出てくる Dさん という客は どうやら 私のようです



私がいつも飲む 焼酎の 大好きな TVCM です










by nonkei7332 | 2016-05-19 17:06 | 日記 | Comments(0)


b0325317_11091053.jpeg
白秋詩碑 (柳川市矢留本町)





北原 白秋 (1885~1842)


日本を代表する 詩人・歌人・童謡作家 として

多くの人に 愛された 白秋は

生涯 故郷 柳川 のことを忘れる事はありませんでした



『 帰去来 』


山門は 我が産土

雲謄る 南風のまほら

飛ばまし 今一度


筑紫よ かく呼ばへば

恋ほしよ 潮の落差

火照り沁む夕日の潟


盲ふるに 早やもこの眼

見ざらむ また葦かび

籠飼 や 水かげろう


帰らなむ いざ 鵲

かの空や櫨のたむろ

待つらむぞ 今一度


故郷やそのかの子ら

皆老いて遠きに

何ぞ寄る童ごころ







詩碑苑 の中に「帰去来」の解説文があります



山門(やまと)は自分の生まれ故郷である。

雲は湧き騰り南風(はえ)は常に吹き通う明るい土地柄である。

かって自分は飛行機で訪問したことがあったが、

ああもう一度、あの空を飛びたいものだ。


筑紫よ、国の名を呼び掛けると、もうそれだけで、

落差激しい潟海が思い出のなかに見えてくる。

夕日の反射を受けて光っているあの海が恋しくてならぬ。


だが、今の自分の両眼は早や盲いて、

二度とそれらをうつつに見ることはできないであろう。

あの水辺の葦(あし)の芽だちも、籠飼(ろうげ)も、

水かげろうも・・・


それにしても帰ろう。鵲(かささぎ)よ、

さあ、お前と一緒に帰ろう。

あの空、あの群れ立つ櫨(はぜ)の木が今一度、待っているであろうよ。


ああ、故郷。昔馴染みの誰彼もみな年老いてしまったし、

それに海山を遠くへだてて年ごろ疎遠になっているというのに、

どうしてこうも子供のように頑是なく、

故郷に心ひかれる自分なのであろう。


(解説-藪田義雄氏)


(註) 籠飼(魚などを捕るカゴ)



b0325317_11131800.jpeg
北原白秋





白秋 52歳のころ 糖尿病 腎臓病により眼底出血のため視力を失います

「帰去来」は 薄明の中 故郷柳川への激しい憧憬を歌った詩です

母校 矢留小学校に隣接する詩碑は

同郷で 芥川賞作家の 長谷 健(1904~1957) が建設委員長をつとめました

長谷健と古くからの友人だった 作家 宮崎康平 は 夫人と共に

白秋詩碑に訪れた時のことを こんな風に綴っていました




からたちの若葉は バルサムのような香気を発散していた。

私は犬のように鼻をクンクン鳴らして あたりの葉先を

行きつ戻りつ しばらく嗅いでまわった。

雨上がりの空は底知れず澄んでいるらしく 雲雀が何羽もさえずっている。

詩碑の周囲に植えられた からたちの幹は

思ったよりがっしりと育っていた。

程よく剪定された枝の棘を気にしながら 私があちこちを触っていると

背後で妻が 碑面の朗読をはじめた。・・・(中略)・・・

「盲ふるに早やもこの眼、見ざるむまた葦かび、籠飼や水かげろう」

と、私も思わず 妻の声に和していた。

「盲ふるに早もこの眼」という言葉が

棘のようにグサリと喉に突き刺さる。

こらえようとしたが われ知らず、熱いものがこみ上げてきて、

どうする事もできなかった。





視えないものを 必死に 観ようとした

三人の作家 の 想いのむこうに

古代国 邪馬臺 が 横たわっています












by nonkei7332 | 2016-05-10 12:01 | 日記 | Comments(0)


b0325317_18045252.jpeg

写真は 左から 真鍋大覚さん 宮崎康平さん 和子夫人
那珂川町の 裂田の溝 を訪れた時の様子です
「神々のふるさと」宮崎康平著 より




私が語る 二人の賢人 とは

宮崎康平 さん (1917~1980) と

真鍋大覚 さん (1923~1991)


の ことです


宮崎康平さん の 著書「まぼろしの邪馬臺國」(1967年) は

当時 邪馬台国論争の火付け役として 話題になった ベストセラーでしたが

古代史などには まったく興味がなかった私には

知ってはいても 目を通す事はありませんでした

その後 私が どんな人なんだろうと 興味を持ったは

さだまさし の 「邪馬臺」という歌を聴いた時だったのです

( 詳しくは 拙ブログ 1915/7/20 「海の日に」参照下さい )

それこそ 「出逢いは いつでも 偶然の風の中」でした



出逢い と言えば 私を 古代史へと 導いてくれたのは

ブログ「ひもろぎ逍遥」の 〈綾杉るな〉さん でした

綾杉ワールド は 多くの 出会いを私に与えてくれました

私が 記事の中で 《筑紫の賢人》と 勝手に 呼ばせていただいている

真鍋大覚さん との 出会いは 今では 大きな 存在です

図書館を巡って 真鍋さんの 書物を読みあさりました

難解な内容の書物ですので どうしても 自分の物にしたくて

綾杉さんに お聞きしてやっと手に入れたのが 『儺の国の星 拾遺』です

本の中で 度々 出てくるのが あの 宮崎康平さん の 名前でした

先日 数少ない 宮崎さんの著作の中で 『神々のふるさと』という本を

手に入れ 読んで 驚いたのが これまた 度々出てくる

真鍋さんの お名前だったのです



宮崎さんは本の中で こう書かれています


『 真鍋先生は 気象学者で 年輪と気象の関係を研究されている人である

私は その年輪から 古代の歴史を読み取ろうと すでに 何年も

先生について学び かつ 研究しているが おかげで 新しい幾多の事実を

確認することができた 』89p



奇しくも 同じ時代に 生まれた 古代史研究者 と 気象学者 の

お二人が 互いに 大事な存在であったことが

この本の 一行 一行 の 間に 感じることができますが

この 本の あとがき には

和子夫人が こんな 事を書かれていました



『 そもそも 康平 がはじめて『まぼろしの邪馬臺國』を世に問うてから

今日まで 大方の期待を裏切って なぜ 後続の著書を出さなかったかと

かねて先輩や友人からは苦言を呈され しかも 農園の経営や講演に

ひっぱりまわされて ペンを執ることがおろそかになったのではないか

と非難されたのだったが これは あくまで 副次的な現象で ほんとうは

九州大学の 真鍋大覚助教授 との出会いがきっかけで

脱線してしまったようなものである

人間が 自然をゆがめるほどの 巨大な力 を持ちはじめたのは

僅か百年このかたのことで 千七百年 という歳月は 自然界においては

束の間の時間にすぎない だから 古代に最も肉薄することができるのは

自然現象 を通じてだと考えた康平は 九州大学で航空気象学を

研究されている 真鍋大覚博士に教えを乞い 過去三千年にわたる

気象のプリントともいうべき 屋久杉の年輪を研究 を手始めに

〈気象〉〈日蝕〉〈海流〉等々 貴重なデータ や

九大図書館の資料を 提供していただいた 』




二人の賢人が あと10年 長生き されておられれば

新たな 古代史 発見に 大きく 寄与されたに違いないと

私 は 思っています



b0325317_18053532.jpeg












by nonkei7332 | 2016-04-28 18:59 | 古代史 | Comments(0)



b0325317_11144983.jpeg


この 季節 は

たくさんの 『ありがとう』の言葉に包まれます

その 最たる 場所といえば 小学校の卒業式 かもしれません

今年も 私は その場所にいました

子供達は 両親や 先生達や 友達に 『ありがとう』の言葉を残して

学び舎を巣立って行きました

その 一人ひとりの 後ろ姿に 私が かけた言葉も やっぱり


「毎朝 元気をくれて 『ありがとう』」でした

日本語で もっとも 美しい言葉といわれる


『ありがとう』という言葉は

人として 生まれて 最初に 覚える言葉のひとつでもあります



『ありがとう』の 言葉の意味を 語源辞典にはこう書かれていました


《 ありがとうの語源は 形容詞「有り難し(ありがたし)」の連用形

「有り難く(ありがたく)」が ウ音便化して ありがとうになった

「有り難し」は「有る(ある)」ことが「難い(かたい)」という意味で

本来は「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味を表した

『枕草子』の「ありがたきもの」では「この世にあることが難しい」

という意味 つまり「過ごしにくい」といった意味でも用いられている

中世になり 仏の慈悲など貴重で得難いものを自分は得ている

というところから 宗教的な感謝の気持ちを言うようになり

近世以降 感謝の意味として 一般にもひろがった 》


おそらく 『有り難し』とは

原始においては 人知人力を 超越した 自然神に対しての

畏敬の念をこめた 祈りの 言葉だったのかも知れません

古代神 は 多くの恵みをもたらす 《山の神》でした

山の神とは 〈火の神〉でもあり〈水の神〉でもありました

〈火〉は 産鉄の神であり 〈水〉は 農地を潤す 水源の神 でした

そして 人々は この神が「荒ぶる神」だという事 も知っていました

〈神の火〉は ある時は 火を噴く山となって 全ての大地を消し去り

〈神の水〉は 山を崩す 山津波となって ある時は 全てを飲み込む

津波 となって 全てを流していったのでした

『有り難し』神の両刃の剣に 人々は 一喜一憂 したのでしょう

人は 荒ぶる神 の 鎮魂 するために 神を《祀り》(まつり)ます

《祭り》はこうして生まれました それは 吉兆を占う場所であり

〈火〉や〈水〉で 穢れを祓う 禊の場所でもありました



この国は 近年 《荒ぶる神の火》の恐怖を二度も体験しました

最初の 体験は 《 原爆 》でした 人類が初めて 体験した 惨事でした

人知人力を超越した 〈神の火〉である 《原子の火》でした

それは 決して 人が 踏み越えてはならぬ 〈神の火〉の 領域だったのです

そして 二度目の恐怖は 《 原発 》です

5年前 の 3月 封じ込めたはずの 〈神の火〉が メルトダウン した

あの 88時間の恐怖は 人類が初めて体験した 恐怖だったのでした

原子力が 《荒ぶる神の火》だと 知った私達が

今 すみやかに とりあえず やらなければならない事は

〈原爆〉も 〈原発〉 も『止める』という事です

そして その次にやらなければならない事とは

〈神の火〉への 鎮魂 の祈りなのです



井上陽水 が歌った 『 最後のニュース 』という歌があります

1989年につくられた 歌ですが その中で 彼は こう 歌っています



原子力 と 水 と 石油達の為に

私達は 何をしてあげられるの


今 あなたに Good Night

ただ あなたに Good Bye



彼が歌う「あなた」という 相手が「神」だとすれば

この歌は 鎮魂の歌 なのかも知れません











by nonkei7332 | 2016-03-20 11:43 | 日記 | Comments(0)