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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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今年も 公園の『 合歓の木 』に花が咲いた
雨が続いたせいか 綿毛のような淡紅色の花は
散ってはいないかと心配していたが
雨の晴れ間の青空に 艶やかに咲いていた
合歓の木は マメ科の落葉高木で
葉は羽状複葉で 互生し 小葉が数十枚並んでつく
夜になると 小葉が手を合わせたように閉じて垂れ下がる
夏になると 淡紅色の約20個からなる頭状の花をつけ
夕方開花し 紅色の長い雄しべが傘状に広がる
名前の由来は 鳥の羽に似た葉が夜には
自然に閉じて木が眠ったように見えることから
ネムノキという名がついたいう
また 漢名の合歓(ごうかん)は
夜になると葉が重なり合うように閉じることから
共寝の象徴として用いられ
万葉集をはじめ 艶っぽい 相聞歌などに
時々 使われたようである

万葉の相聞歌の中でも
合歓の木の歌で 知られるのが

「大伴家持」と「紀女郎」の相聞歌

〈 昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴わけさへに見よ 〉
〈 紀女郎 万葉集 8巻 1461 〉

( 昼に咲いて 夜には恋しい想いを抱いて寝るという合歓(ねむ)の花を
私だけ見てもいいのでしょうか 貴方もここに来て見たらどうですか )

我妹子が 形見の合歓木は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも 〉
〈 大伴家持 万葉集 8巻 1463 〉

(あなたからもらった形身の合歓木は、花が咲くばかりで実にはならないかもしれません・・)


なかなか 意味深な 男と女

さてさて
大伴家持(おおとものやかもち)
あの 大伴旅人(おおとものたびと)の嫡男である
旅人が太宰府に赴任していた時も十四歳まで 一緒に
太宰府にいたが その後 父と共に 奈良に戻り
翌年に 旅人が亡くなると
大伴氏の跡取りとして 高級官僚の生活が始まる
貴族の子弟として必要な学問・教養を早くから身につけ
歌人としての力量も兼ね備えていたようで
家持の歌は『万葉集』の全歌 4516首 のうち なんと 473首 を占めている
その中でも 養母の 坂上郎女(さかのうえのいらつめ)をはじめ
多くの 女性との間で 問答歌や相聞歌を残している
紀女郎 はその中の一人
かなり早熟した若者であったようだ
この歌を残した時は 家持 二十五歳 聖武天皇の恭仁京への遷都に伴って
妻を奈良に残しての単身赴任中のことである

かたや
紀女郎 (きのいらつめ)
紀朝臣鹿人の娘で 名は小鹿(をしか) といった
夫は安貴王(あきのおおきみ)といって
采女(うねめ=後宮で帝の給仕をする女官の職名)
との密通事件を起こして 都を追われたために
その後 離別したようだ
その頃の歌がある

〈 世の中の女(をみな)にしあらば 直(ただ)渡り 痛足(あなし)の川を 渡りかねめや 〉
〈 紀女郎 万葉集 4巻 643 〉

(世の常の女なら たやすく川を渡って 恋しい人の後を追うだろうに 私にはそれが出来ない)

「世の常の女」ではないと 自負する気高さとプライドを持った
女性だったようだ
家持とは 小さい頃から 接していた親族で 一回りも年上の
綺麗な 憧れのお姉さん みたいな存在だったのかもしれない
この頃は 官女として 家持よりも先に都に住んでいて
合歓の歌を交わすような間柄ではあったのだが
どちらかというと
年下の家持が 紀女郎に熱をあげていたというのが真相みたいだ
紀女郎は 惹かれながらも どこか ためらいがちに
この恋を拒んでいるようにも見える 女心
そんな歌がある

〈 神さぶと いなにはあらず はたやはた 如是して後に さぶしけむかも 〉
〈 紀女郎 万葉集 4巻 762 〉

(悟りきって 人並みの恋などしないと言っているのではありません 恋愛関係になった後で 貴方の心が離れてしまうのが辛いのです)


やがて 泡沫(うたかた)の恋にも 終わりがくる
家持の こんな歌がある

〈 撫子は 咲きて散りぬと 人は言へど 我が標めし 野の花にあらめやも 〉
〈 大伴家持 万葉集 8巻 1510 〉

( なでしこは咲いて散ったと人は言うけれど 私が標(し)めをした(自分のものと目印をつけた)野の花のことではないでしょうね )
《 他人は人の心変わりのことを色々と言うけれど あなたは心変わりはしないですよね 》





合歓の花が 匂う
水無月の 昏い夜には b0325317_17193596.jpg
〈ジャックダニエル 〉と
〈KENNY G 〉が よく似合う
















by nonkei7332 | 2014-06-26 17:03 | | Comments(0)


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岩代海岸


最近 父の夢をよく見る

父の魂が 近づいているからだろうか

週末は父の日でもあるので 私の最も近いルーツの旅

父のことを追いかけてみた


1912年(大正元年)

和歌山県日高郡岩代村 に父は生まれた

もし 生きていれば 今年で 102歳。

生後まもなくして 両親がチフスの病にて亡くなったために

祖父の元で幼年を過ごしている

1912年といえば 明治天皇が7月30日に崩御され

明治が大正へと年号が変わった年である

海外では中国の清朝が滅亡し 孫文の中華民国が成立している

イギリスの豪華客船 タイタニック号が沈没した年でもある



岩代村は紀伊半島の白浜温泉の近く 海岸線の小さな漁村だ

私は 五歳の時 父に連れられて 一度訪ねているが

遠い記憶では 岩代駅を降りて 坂道を登って行くと


右側に学校があって神社の横を歩いて行った


そんな 風景が かすかに 記憶の中に 残っている


話は 思わぬ所から始まるもので

最近 万葉集を紐解くなかで


ここの 岩代の地が 出てくる歌を見つけた



《 磐代の 浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む 》

( 万葉集二巻 141)


(岩代の浜の松の枝を結んで 幸いにも無事だったら、またここに戻ってきて見よう )


歌人は 有 間 皇 子 』 (アリマノミコ)

36代孝徳天皇 が 后の小足媛(おたらしひめ)とともに

有馬温泉に滞在中に生まれた 待望の皇子で


「有間皇子」と呼ばれた

有間皇子は有力な皇位継承者の一人であったが為に

その後 『有間皇子の変』と呼ばれる

皇位争いに巻き込まれた 悲劇の皇子だという



【 悲劇の皇子: 有間皇子(アリマノミコ)】

和歌山県観光情報より


有間皇子の悲劇、それは大化の改新から始まります。

第34代舒明天皇の後、皇后が皇位につきました。

皇極天皇[女帝]で、都は飛鳥板葺宮です。

大化の改新はその 4年後になります。

皇極4年(645)6月12日、

中大兄皇子 中臣鎌足らによって飛鳥板葺宮の大極殿での

三韓進調(さんかんしんちょう)の儀式の場、

それも皇極天皇の御前で、時の権力者であった


蘇我入鹿が首を切られ

わずか一日で蘇我氏は滅亡します。

世にいう乙巳(いつし)の変です。

皇極天皇の衝撃は大きく、その2日後の14日には

弟の軽皇子(かるのみこ)に皇位を譲りました。


孝徳天皇です。

改新を推進した中大兄皇子は政治的配慮によって皇太子に、

皇后には中大兄皇子の妹の 間人皇女 がなりました。

鎌足は内臣(うちつおみ)<大臣にあたる官職>です。

それが「鎮魂歌集的性格を持つ」万葉の時代の始まりとなりました。

孝徳天皇が 難波長柄豊碕 の宮に都をうつして


8年後の白雉(はくち)4年(653)

中大兄皇子は、都を飛鳥にかえすことを勧めましたが、

孝徳天皇は聞き入れず、それならばと天皇を残して、

皇后を始め多くの人々を引き連れて飛鳥へ帰ってしまいました。

孤立した孝徳天皇は煩悶のあまり1年後に

妃の小足媛(おたらしひめ)と有間皇子を残して


崩御(ほうぎょ)されます。

そのあと皇極天皇が重祚(ちょうそ)して斉明天皇となるのです。


中大兄皇子は依然として皇太子にとどまっていました。

時に有間皇子6歳、幼いとはいえ天皇の皇子でありました。

当然、皇太子中大兄皇子と並ぶ皇位継承の有力者として

ライバル関係が生じ、世の注目を集めることとなりました。

それが何を意味するかは自明の事、悲劇の幕開けです。

中大兄皇子は蘇我入鹿を討った後、大化元年(645)9月には

兄である古人大兄皇子を謀反を企てたとして死罪に処していますし、

同5年(649)には妃の一人である遠智娘の父、

蘇我倉山田石川麻呂をも讒言によって自殺に追いやっています。

有間皇子に累が及ぶのは時間の問題でありました。

「日本書紀」斉明3年(657)9月の条には

「有間皇子性黠(ひととなりさと)くして陽狂(うはりくるひ)す云々」、

利口な性格で病であるように装ったといいます。

常に身を危険にさらされ、

こうした保身までしなければならなかったことも辛いけれど、

いつまでも病人のまねをし続けることは

もっと辛いことであったに違いありません。

皇子は牟婁の温湯<和歌山県白浜湯崎温泉>に出かけて

療養してきたように見せかけ、かの地のありさまを誉めて

「あのあたりの風光に接しただけでおのずから病気が癒されました。

天皇も是非お出かけになられてはいかがですか」と奏上したところ、


孫の建王をわずか8歳で亡くして哀しみに沈んでいた 天皇は

大いに喜び、翌4年10月皇太子以下を引き連れて

牟婁の温湯に行幸しました。事件はその留守中に起こりました。

11月3日蘇我馬子の孫にあたる 留守官の蘇我赤兄が

有間皇子邸を訪れ、

天皇の三つの失政をあげて謀反をそそのかしたのです。

「大きな倉庫(くら)を建てて、人民の財物を集積すること」


「延々と水路を掘って、公の食料を消費すること」


「舟に石を乗せて運び、それを丘のように積み上げること」

皇子は赤兄の言を信じ、心を許したのでしょうか、

5日には赤兄の家に行き、謀議をめぐらしました。

その時、有間皇子の脇息が折れたのを不吉の前兆として、

挙兵することを断念しました。その夜半、生駒の市経にある

皇子の邸を赤兄の兵が取り囲み、皇子は捕らえられ、

共謀者4人とともに牟婁の温湯に護送されてしまいました。

「謀反の心あり」として赤兄から報告があり、

既に討伐の命が出されていたのでしょう。

9日、護送の途中

磐代(いわしろ)<岩代、和歌山県日高郡みなべ町>の浜で

詠んだのが 万葉集中白眉といわれる短歌二首であります。


磐代の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む

(万・巻2-141)


(岩代の浜松の枝を今、引き結んで幸を祈るのだが、

もし命があった時には再び帰ってこれを見よう)


家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る

(万・巻2-142)


(家にいると器に盛って神に供えるご飯を、こうして

心にまかせぬ旅にいるので椎の葉に盛ってお供えすることだ)

一見、騎旅の歌のようであるのに、

どうして万葉集の「挽歌」の部の、

それもその冒頭に載せてあるのでしょうか。

題詞に「有間皇子 自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」とある

「自傷」とはいったい何を悲しんでいるというのでしょうか。

それがこの「日本書紀」の斉明天皇3年9月から同4年11月の

わずか一年余りの出来事と深い関わりがあるのです。

松の枝を引き結ぶのは、草の根や衣の紐などと同様、

それらに自らの魂を封じ込めて旅の安全を祈る

古代人の風習であり、

作者有間皇子が反逆の罪で捕らえられ、

護送されてゆく途中の作でありますから、

淡々とした中にも、異常な運命に耐えつつ、

道の神に対して一縷の望みを託そうとする心情があわれでなりません

こうしてみると一首目の「飯」も手向けの神饌であり、

旅の途中であるから椎の葉に盛って食べなければならない

というような単純な悲しみではないのです。

11月9日の夕べ、牟婁の温湯に到着した有間皇子を待っていたのは

中大兄皇子の厳しい尋問でありました。

「なぜ謀反を企てたのか」との問いに有間皇子はただ一言

「天と赤兄と知らむ 吾(われ)全(もは)ら知らず」

(天と赤兄に聞いてくれ 私は何も知らない)


とだけ答えました。

11月11日には再び都へ送還され、

途中自ら結んだ松の枝は目にしたものの、

藤白の坂<和歌山県海南市藤白>で絞首させられ、

あたら19歳の若い命を、あたかも赤い椿の花を手折るように

散らしたのでありました。





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この岩代の浜に 二つの 八幡社がある

東岩代八幡神社 と 西岩代八幡神社である

元々は ひとつの社殿だったのかも知れないが

真実は定かではない

東岩代の祭神は 〈 譽田別命 〉

西岩代の祭神は 〈 品陀別命、足仲彦命、氣長足姫命 〉

ともに 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 を祀っておられる


神社庁の由来をみると


古来の伝承によると、当社は現在地の約4㎞東


岩代川最上流、旧南部川村、印南町との境界に近い

小字神出に鎮座していた。

中古(年代不明)に現在地の東南約300mの小字古茂谷の山腹に遷座、

桜の宮と称した。

その後(年代不明あるいは大宝年間かという)


現在地の小字宮ノ久保に遷座した。

当社境内に藤の大木があったことから「藤の森」とか、

水田地帯の森の中に社殿があったことから

「田中の森」(小字宮ノ久保の北側が小字 田中 になる)と称した。

当社は、日高地方の神社の中でも最古の棟札と、多くの棟札の残る神社である。


神社の由来を追うことによって 思わぬ発見をすることがある


父の先祖は 間違いなく 神社の氏子としてこの地に住んでいたことがわかる

私の中に流れる 海人族の魂は 父の魂の故郷でもあったようだ



(つづく)





by nonkei7332 | 2014-06-09 13:20 | ルーツ | Comments(0)

博多湾に浮かぶ 能古島に
韓紅(からくれない)の夕陽が落ちていく

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      つきせぬ波のざわめく声に 今夜は眠れそうにない


      浜辺におりて裸足になれば 届かぬ波のもどかしさ


僕の声が 君に届いたら すてきなのに


 



井上陽水は この島を片想いの島にしてしまったが
多くの若者達 は この島で一日を遊び
そして 散りゆく花を惜しむように
短い春の中で 恋に落ちていった




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《 沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の防人 早く告げこそ 》
(万葉集16巻3866)

〈訳〉: 沖に棲む鳥の鴨という名の船が帰って来たら、也良の崎守りよ、
早く知らせておくれ。

也良の崎守りとは 能古島の東端の 也良岬にあった
防人(さきもり)の駐屯地のことである
この歌は、
対馬への防人の食料運搬中に遭難した志賀島の船乗り・荒雄の死を悲しみ
筑前守 山上憶良がつくった 歌だといわれている



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《 風吹けば 沖つ白波 恐みと 能許の亭に 数多夜ぞ寝る 》
(万葉集15巻3673)

〈訳〉 : 沖では風が吹いて白波がたち、この白波が恐ろしく能許の泊りに何日も
泊まっている

天平八年(736)、新羅を目指した遣新羅使一行は、
筑紫館(後の鴻臚館)を出発したが 荒れ狂う海の前に
韓亭(別称能許の亭、現在の唐泊)で
何日も風待ちの不安な夜を過ごしたという


写真は
香椎かもめ大橋の上から 能古島を写した 夕暮れの海三景である

わたつみ(海神)の海に横たわる この島はいつも美しい
多くの悲しみと祈りを 紅く染めて
やがて 磯良の海は静かに 夜の帳(とばり)に下りていく








by nonkei7332 | 2014-03-24 12:36 | 万葉集 | Comments(0)
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《 我がやどに 盛りに咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも 》
(万葉集五巻851)

(訳) : 我が家の、今を盛りと咲いている梅の花が散りそうです。
見てくれる人がいればいいのに


梅は別名を 好文木 とも 春待草 とも言われ
春を告げる花である
花見といえば 桜 だが
それも 江戸時代以降の話であって
奈良時代以前は 花といえば 梅の事だったらしい


大伴旅人(おおとものたびと)
万葉集の中で 赴任地の太宰府の梅を多く詠んだ
菅公がまだ太宰府にくる前の話だから 飛梅以前より
ここは 梅の名所だったのだろう


《 梅の花 夢に語らく みやびたる 花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ 》
(万葉集五巻852)

(訳) : 梅の花が夢に出てきて語ることには
「みやびな花だと(私自身は)思っています
ですから、酒に浮かべてくださいな」と。


夢に出てきた梅の花は 遠い都に住む妻なのだろうか
遠い地に住む 酒好きな主人を心配しつつも
梅の花を 私と想って 酒の器に浮かべて飲んでください
こんな 夢を見た 単身赴任族の男たちの夜は哀しい
酒に浮かんだ梅の花は 涙でかすみ
ついつい 深酒してしまうのだろう
こんな 風情を持ち合わせた 男や女は
もう 今の世には 居ないのかも しれないが…

そんな雅(みやび)な 夢を見てみたいものだ




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名づけ親は、第39代太宰府天満宮宮司・西高辻信良氏。
名前の由来は、万葉集の代表的な歌人・大伴旅人(おおとものたびと) 。
大宰帥(だざいのそち)として大宰府に赴任した旅人は、
この地で多くの歌を残しとされています。
また旅人は"たびびと" と読めるため、
太宰府を旅する列車という意味も込められています。
(西鉄ホームページより)



by nonkei7332 | 2014-03-15 07:59 | 万葉集 | Comments(0)

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磯良の海に 今日も 陽が落ちていく

海人は たそがれの空に立ち昇る

夕餉の煙をめざして 帆をむける

幾度となく 繰り返される 生業を

綿津見の神は

千代に八千代に 見守ってくれていたのか





鯨魚取り(いさなとり) 海や死にする 山や死にする 

死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ

(万葉集巻十六旋頭歌読み人知らず)


鯨魚取りとは

鯨(くじら)を取る漁師のこと 

ここでは海をあらわす 枕詞

(訳)【海は死にますか? 山は死にますか?(いいえ 海も山も死ぬんです)

死ぬからこそ 海は潮が干いて 山は枯れるのです】


万葉の世の誰が詠んだかわからない

この旋頭歌を

さだまさし は 防人の詩

こんなにもせつなく

歌っている



おしえてください


この世に生きとし生けるものの


すべての命に限りがあるのならば


海は死にますか 山は死にますか


風はどうですか 空もそうですか


おしえてください



耳をすますと 遠い海のむこうから

いさなとり達 の歌う声が

西風に乗って 聞こえてきます


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by nonkei7332 | 2014-02-28 11:42 | 万葉集 | Comments(0)