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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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先週 の 土曜日 1月28日 が 旧暦の 正月でした


太陽暦 を使い始めたのが 明治6年からですから

今の暦は まだ 150年しか たってないんですね

立春(2月4日) を 新年の始まりという 暦の読み方もあります

一年を24に分けた 二十四節季 の 一番目です

季節の始まり〈立春〉〈立夏〉〈立秋〉〈立冬〉があって

その前日を 暦では 節分といいます

本来節分は 年に 4回あるものなんですが

今は 立春の前日だけが 節分とされています




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さて 今年は 酉年 です

日本では

十干 (甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と

十二支 (子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥) を

組み合わせた 《干支》(かんし) という こよみの読み方があります

今年は 丁(ひのと) と 酉(とり) の組み合わせで


丁酉 (ひのと・とり) といいます

干支 は 60年サイクルですので 前回の丁酉の年は 60年前


過去の 丁酉(ひのととり) の 出来事を


私のルーツ を 絡めて 追いかけて見ました





《 1957年 昭和32年 》

私が 5才 の時です

日本で初めて コカコーラ が売られた年です


この頃 うどんが 一杯 20円でした




《 1897年 明治30年(120年前) 》

赤痢が大流行し 東京での死者が2000人を越えた

博多の町では 聖福寺境内で県下初の活動写真が公開された

博多電灯会社が開業し 福岡市内に電灯がともる



小堀家 12代 小堀甚三

この頃 姪浜住吉神社の絵馬 山笠図を描く



《 1837年 天保8年 (180年前) 》

江戸時代 12代将軍 徳川家慶 の頃

元大坂東町奉行所与力の大塩平八郎らが幕政に抗議して

〈大塩平八郎の乱〉を起こす


小堀家 10代 小堀甚次

博多津中からの願い出により

黒田藩から 山笠人形 永代を仰せつけらる


《 1597年 慶長2年 (420年前) 》

安土桃山時代 豊臣秀吉 慶長の役 (二度目の朝鮮出兵) を おこす

翌年秀吉が逝去 すると 戦乱は一気に 収束する

時代は 1600年の関ヶ原の戦い に向けて動きだす




《 1477年 文明8年 (540年前) 》

室町時代 応仁の乱が 終わる

11年に及ぶ大乱の幕を降ろしたが 京都は灰塵と化し 廃墟となった


小堀家 襲名2代 小堀善左衛門

博多の町 戦火により 焼け出され 唐津に居を移す

その後 大内家 (24代政弘) の 招きに応じ 再び博多に戻る



《 1417年 応永24年 (600年前) 》

室町幕府 5代将軍 足利義持 の時代


小堀家 初代小堀善左衛門正直(博多山笠人形始祖)

1437年 永享9年 京都より 博多に下向し

櫛田宮 境内に居を構え 山笠人形を作る

正直については 古文書によれば 若き人形師 と書かれているだけで

幾つであったという記述はない

もしも 博多に来たのが 20歳 の時であれば

1417年 の 生まれとなる

とすれば 今年は

《 小堀善左衛門正直 生誕600年 》

生誕祭 を やらなくては !?







by nonkei7332 | 2017-01-30 17:39 | 日記 | Comments(0)


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下鴨神社 糺の森



古代の人々は 鎮守の森で

一年に二度だけ 冬と夏 に 神様から 霊力をもらいました

これが 祭りの始まりです

神は 海の彼方から来るのでしたが いつの間にか

山から来る神や 天から来る神に 変わっていきました

神が降臨(おり)てくるまえに 人々は まず 身を浄めます

神の威霊を 新たな心身で 受け取るための 禊の儀式です

冬の禊を 『年越祓』

夏の禊を 『夏越祓』『名越祓』『水無月祓』などといいます

神が降りてくる目印として〈標山〉(しめやま)という

松や杉で作った高い木の棒に 旗や幟をたてます

この〈標山〉に神霊が降ります

各地の夏まつりで この 標山に 飾りつけしたものが

山車(だし)・鉾(ほこ)・山(やま)・地車(だんじり) と呼ばれました

それとは別に 人の形をした紙人形 人形(ひとがた)に息を吹きかけたり

その紙人形で体を撫でて穢れを人形に移した後

川や海に流すという厄払いも行われていました


これが 人形の起源です



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博多の夏まつり は山笠です

《博多祇園山笠》の起源については 幾つか説がありますが

通説となっているのが 「仁治2(1241)年説」です

博多で疫病が流行り 承天寺の開山の 聖一国師(弁円)が 人々の担ぐ

施餓鬼棚に乗って 祈祷水を撒いて 疫病を鎮めたとされます

これが 櫛田神社の祭神 のひとつ 素戔嗚尊(祇園神) と結びついて

櫛田神社の祭礼になったという説なのです

〈博多祇園山笠振興会〉も この説をとっています


あくまでも 通説なのです おかしなことも幾つかあります

まず一つは 仁治2年頃に 疫病が流行ったという記録がないこと

もう一つは 施餓鬼というのは 仏事の法会であって 神事ではないこと

たしかに 当時は神仏混淆の世相であって 祇園神そのものが

素戔嗚と牛頭天王が神仏習合した 神と考えれば おかしくもないのですが

仏教伝来以前 まだ 櫛田の杜に

社殿が出来る前の 祭りの様子が気になりました

文化4年(1807)に書かれた

『 筑前 櫛田社鑑 』原田種美著 に 思わぬ 記述がありました


昔より 山笠のいはれあり

水無月祓 に 形代とて 茅、麻の葉にて 人形を作り

( 是を賀茂川祭りというなり )

身を撫でし時に となえる歌に

『水無月に名越しの祓する人は 千と世の命延ぶ 』というなり

となへの歌は外に数あり

是を川え流すと言へり

是 我が身の不浄を潔白に解除するの法にて

俗に是を 撫物(なでもの)と言う

( 当社の社宮 祝部家 等 水無月の祓に今是を用う )

山笠も其始めは 茅の形代の例にまなびしが

永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 云々



博多の山笠の起源は

賀茂川祭り(夏越の祓い) だと書かれています

賀茂川祭りとは 京都下鴨神社の 《みたらし祭り》のことでしょう

下鴨神社の祭神は

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)賀茂族の祖神 です

その神こそ ヤタガラス である 古代博多の皇子 《豊玉彦》なのです


2015/11/10 拙ブログ《鴨(賀茂)の流れ》を参照ください
http://hisamitsu.exblog.jp/25076752/


〈 永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 〉と書かれているように

博多の夏越の祓い が 祇園山笠(いかめしき作り山) と 変わったのが

永享年間 だと書かれています

さて 永享年間に 何があったのでしょうか

同じく『 筑前 櫛田社鑑 』には こう書かれていました


永享九年 (1437) 春三月に 博多より

京都の木偶師土偶師 を召かかえんとて上京せしが

小堀善左衛門 とて四条に居住せし木偶師を召抱えて 帰国す

櫛田神社内へ居宅を作りて 扶持米を遣わし

その年の作り山に 甲冑を着せ 旗幡を ささせ さまざまの

模様を作りて 祇園祭礼を勤む



櫛田神社 が 京都から 一人の男を 連れてきます

夏越の祓い祭り を いかめしき作り山 に変える為に連れてきた

若き 人形師 でした

《 小堀善左衛門 正直 》

博多山笠人形の始祖 であり

明治時代まで 13代 続いた 小堀流細工人形の 小堀家でした


2014/4/25 拙ブログ 《ルーツの旅》参照下さい
http://hisamitsu.exblog.jp/22508540/



博多の祭りを

〈夏越の祓い祭り〉から 〈祇園山笠〉へと変えた

張本人 が 私の先祖 だったとは

驚きの ファミリーヒストリー でした


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明治初年
最古の 博多山笠の写真
高さ16m です







by nonkei7332 | 2016-06-16 15:47 | 博多ルーツ | Comments(0)


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博多 出会い橋 にある 「三人舞子像」




博多には 行町 という町があった


古くからの町だったが 今はもう町名も残ってはいない

(現在でいえば 昭和通り(通称50メーター通り) 付近になる)


《806年》空海(弘法大師) が

唐 での修行の帰りついた港は 博多の津であった

空海は 早速 一軒の船宿を買い取り そこに 唐から持ち帰った

仏像や教本や仏具を備えた一寺をこの町に建て

やがては 真言密教が 東へ長く広まるようにと 東長寺となずけた

( 現在は 大博通りに面している 御供所町に移った 南岳山東長寺である )

人々は はじめは 勤行(朝夕の読経)の町 と呼んでいたが いつのまにか

行の町 行町 となったと言われている



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明治25年 博多町図



この 行町 に 大工の 《 成 田 善 兵 衛 》が住んでいた

実は 私の 母方の 高祖父 になる人である

成田家 は 旧藩士だと伝えられてきた 黒田本藩なのか

士藩の直方藩なのか 秋月藩なのかは定かではないが

江戸の頃 扶持を捨て 町人となったようである

土居流沿いの 西方寺前町 に住し 代々 大工を営んできた

幕末の頃 博多史誌『石城遺聞』に 西方寺前町の町年寄として

〈成田宗次郎〉の名前が 残っている 善兵衛との関係は不詳だが

町の重鎮として 大工の棟梁 をしていたのかもしれない



さて 話は 前回の話しに戻るが

相生町に 米倉藤三郎 が建てた料亭『大寿楼』の話をしたが

相生には 大寿楼のほかに 名の売れた料亭が三軒あったといわれている


『松の家』『満月』『長門』がそれである

実は この『松の家』は

明治の中頃 大工の 成田善兵衛 が転業して 始めた 料理屋 だった

大正になると 『満月』も譲り受けたようだ

私は 母から 『 成田 の 本家(ほんや)は 料理屋をしていた 』という話を

〈満月〉の店の名前といっしょに 聞いたことがあった

善兵衛には 後嗣 がおらず 二人の娘 「ルイ」と 「テフ」がいた

ルイ には 善七という婿養子が もらい 料理屋を継いだが

善七がどういう人物であったのかはわからない

一方 『テフ』には 下土井町に住む

山笠人形師 小堀家十二代 〈 小堀甚三 〉の弟


『小堀甚兵衛』を婿養子にもらった

分家すじにあたる この二人こそ

私の 曾祖父 曽祖母 なのだ

『 土居流 の恋 』という 拙ブログの記事があります
( 2015/7/5 http://hisamitsu.exblog.jp/22898770/ )



券番の取締という 男 〈 米倉藤三郎 〉と

料理屋の旦那 だった 〈 成田 善兵衛 〉とに

どういう繋がりであったのかは わからない

旧藩士あがりの この二人の名もなき博多町人が

博多花柳界の 華々しき 一時代を 作っていったことには

間違いない ようだ



座敷で よく 歌われたであろう 〈 黒田節 〉のほかに

〈 正調博多節 〉という 座敷歌がある

有名な 一節 がある


《 博多へ来る時ゃ 一人で来たが 帰りゃ人形と 二人連れ 》



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博多人形 ごとう 提供





参考文献
小田部博実著「博多風土記」


by nonkei7332 | 2016-06-09 09:50 | 博多ルーツ | Comments(0)


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時々 君たちの夢を見ます

いまでは 37才 と 35才 のいい歳の親父になっているのに

夢の中に出てくる 君たちは

いつも 小さな子供だった頃の夢ばかりです

時々 送ってくれる 子供達(孫) との写真を見るたびに

そういえば 私にも こんな頃が あったなと

昔の写真を 探しては 失われていく 記憶を呼び戻しています

君たちが はしゃいでいる 昔の写真です

家族で 阿蘇に旅行に 行った時のスナップです

小さな旅でしたが 覚えていますか?

泊まった宿は 乙姫のペンション村 でしたね

丸太でできた 中二階の部屋を 君たちは 走り回っていました

乙姫ペンション村 なんて 洒落た名前をつけたもんだとしか

あの頃は 思っていませんでしたが

阿蘇の古代を紐解いていて 最近 わかったことがあります

近くに 乙姫神社 があります

祀られている祭神は 阿蘇の神々の母神 『蒲池媛』でした

( 9/30 の ブログ 「蒲池媛の謎」参照 )



ピンクスポット 〈乙姫神社〉ブルースポット 〈乙姫ペンション村〉


阿蘇神話 には 健磐龍命(たけいわたつのみこと) がいます

健磐龍命 は 阿蘇の開拓に携わった 豪族で 神武天皇の孫になります

全国にいくつかある 「蹴裂伝説」が残っています


《 昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であった

健磐龍命は湖の水を流して田畑を拓くことを考えました

満身の力で湖の壁を蹴り壊したのですが 湖の水は流れ出したものの

大鯰 が横たわり水の流れをせき止めてしまいます

健磐龍命はこの大鯰を退治して湖の水を流します

大鯰の流れて行った後は 白川 となり

大鯰は 《上益城郡嘉島町鯰》という

土地に流れ着いたと言われています》


乙姫についても 熊本の各地に 「乙姫伝説」が残っていますが

概ね 乙姫様が鯰に助けられる という ストーリーです

乙姫 といえば 「龍宮城の乙姫様」を思い浮かべるのですが

どこかで 繋がっているのかもしれません

〈熊本〉は 昔は 〈隈本〉といっていました

隈(くま)という字は 狗奴国 の 狗奴(くな)が訛ったものです

熊襲 もそうでしょう

隈 という地名は 熊本だけではなく 福岡の 筑後にも 筑紫にも

たくさん残っています 雑餉隈 月隈 などもそうですね

鯰の伝説 も 佐賀にも 糸島にも 那珂川町 にも 残っています

狗奴国(熊襲) の 勢力は広範囲の九州に及んでいたようです

鯰 の伝説の起源 は 遠く中国の呉の国 からきています

呉人の風俗に「提冠提縫」というものがあります

提とは鯰のことで 呉人は鯰の冠を被っていたとされています

嘉島町の鯰という場所は そういった 謂れがある

今でいう パワースポット でもあるのです

かつて この鯰の村に 戦国時代の 南熊本の守護大名

小西行長 の 陣跡があったときいたことがあります

小西行長は 有名な クリスチャン大名でしたので

南熊本や宇城や八代 の神社などの多くを焼き払ったと言います

おそらく 多くの古代からの歴史遺産 が失われたようです

鯰の地 にも 何かあったのではと 思っています

陣屋跡 を代々守ってきた 庄屋 には いまでも


年老いた 御夫婦 が 住んでおられます


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私が 自分のルーツを追っかけてきた 旅も


まだ 旅の途中 です


それは 君たちにとっての ルーツでもあるのですが


君たちには もうひとつの ルーツがあるのです


ふたつのルーツ は 遠い昔 はひとつのものでした


奴国 と 狗奴国 争いはしましたが


やがて 九州王朝 という きらびやかな


この国の始まりでもあったのです



来月 京都に 孫に会いに行きます


紅葉真っ只中の いい季節をえらびました


1000年の王朝 の煌びやかさの奥に隠された


1500年前の 筑紫の王朝 の面影を探す 旅 になりそうです




熊本県 上益城郡 嘉島町 鯰





by nonkei7332 | 2015-10-26 12:07 | 博多ルーツ | Comments(2)



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小堀流山笠人形の直系といわれている
人形師 白水英章さん と 山笠人形
(西日本新聞)




木偶の坊 (でくのぼう) は 《語源辞典によれば》


「 平安時代の 「くぐつ」という木彫りの操り人形のことである

木偶の坊が 役立たずの意味になった由来は

木の人形を無能な人に喩えたことによるものなのか

人形が手足のない 木の棒のようなものであったことからされる

ただし 「でくのぼう」の「ぼう」は親しみや軽い嘲りを表す

接尾語として用いられている為 「木偶の棒」と書くのは誤りである


人形が「木偶の坊」と呼ばれるようになった由来は

「でくるぼう」とも言われたことから

「出狂坊(でくるひぼう)」を語源とする説。


「手くぐつ」が訛った「でくる(坊)」から

「木偶の坊」になったとする説などが

有力とされるが 正確な語源は未詳。


その他 「泥人形」の「泥偶(でいぐう)」が訛り

「でく」になったという説もあるが

《泥人形》と《木彫りの操り人形》の関連性の薄さや

「でく」から「でくる」になった後で

「でく」に戻ることは 考え難いために

有力視されていない 』


この語源説の中で 私がもっとも 興味深いのは 有力視されていない

「泥人形」と「木彫りの操り人形」の 関連性です





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小堀氏略系図 (福岡市博物館所蔵)




小堀善左衛門正直 《小堀氏略系図》によると

『 京都四条 に 住む 木偶師 』でした

「木彫りの操り人形」を作ることを生業にしていたことは

永享9年(1437年) に 京都から 博多の櫛田神社に 召喚され

博多祇園祭りの 山笠人形の始祖 になったとされています

当初の山笠人形は 木彫りであり

手も足もない 頸だけの木彫りだったことから


博多の山笠人形の 元の形は 京都のからくり人形 だったと考えられます



《追懐松山遺事》山崎藤四郎著 によれば


『小堀家12代 小堀甚三方の古記によれば

同家が 人形の頸 を種々所持していたので

当番町はその中から適当なものを選び

人形一つに 白木綿一反 と 木綿形付きの浴衣

博多織の男帯 に 足袋一足宛をやっておけば

小堀家にて 人形の形態を造り

その浴衣を着せ 人形の男女にかかわらず 右の帯を締めさせ

両足には 黒木綿の脚絆の如き物を作り

足袋をはかせて 人形が出来上がる

しかして 各人形の前には「八つ足」机をすえ 榊 お神酒 お灯明等 を供え

旧5月28日 櫛田神職 天野氏は 小堀甚三方に赴いて

“御祓(ご神入れ)” をする

その夜 小堀家へ 人形を見に行く人が多かった』 とあります




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博多人形 白水英章作



「泥人形」といえば

国内で最も古い 土人形といえば

京都伏見の 「伏見人形」だといわれています

伏見城から伏見稲荷までの一帯 は 深草 と呼ばれ 7世紀の初めには

この地では 土器がつくられ 土師部(はじべ・埴輪や土器を作る職人)が 

奈良の菅原から移住してきたという 文献が残っています

やがて 稲荷信仰の 全国への拡がりと一緒に この人形も全国にひろがり

各地の郷土玩具へと なっていったようです

さて 博多人形 の歴史をたどれば 素焼き人形として 最初に作られたのが

文化5年(1821年) 中ノ子吉兵衛 によるものとされています

九州に於いては 最も古い土人形と言われているのが

長崎の 「古賀人形」です 文録元年(1592年)

京の伏見人形の流れをくんだ土人形をつくるようになったといわれています

実は 博多には 文化年間より もっと古くから

京都の伏見の流れをくんだ 人形が 作られていたという 説があります

貞享元年(1684年) 正徳元年(1711年) 元文3年(1738年) に

没した人の 墓に 土人形が 納められていたという

記録が残っているというのが

その根拠になっています




《 稿本 古博多人形史 》梅林新一著 によれば


『 小堀家が 京都出身である事から 時代の古い 墓地からの出土品が

伏見人形の移入品であるか それとも 小堀家

或いは その系統の人によってつくられた

伏見人形を模索した 土人形であるやもしれない 』



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野見宿禰




その説を 補足するのが 《小堀家略系図》の最初に書かれている

『 野見宿禰 後胤 』の 文字です


野見宿禰 (ノミノスクネ) とは


『天穂日命(アメノホヒノミコト) の子孫で 垂仁天皇の命により

当麻蹴速(タイマノケハヤ) と力を争って勝ち 相撲取りの祖とされている

また 皇后の死に際し 殉死の代わりに 陵墓に 埴輪(はにわ)を立てる事を進言して

土師臣(はじのおみ) を 拝し 子孫は 天皇家の葬儀をつかさどったようだ

土師氏 の 直系が 菅原氏 である 』



文献が見つからず 推論の域をでませんが

小堀家 の祖先は おそらく 菅原家 の流れをくむ 深草の 土師部 であり

伏見人形を 造っていたのではないでしょうか

後三条天皇の延久4年(1072年) には 伏見稲荷社 と 祇園社に 天皇が行幸し

これを 「両社行幸」と称して 歴代の慣例として鎌倉時代まで続いていたようで

おそらく 両社の繋がりは 深いものであったのでしょう

その繋がりで その後 小堀家は

祇園社(八坂神社) の所領である 京都四条に移り住み

その地にて 木彫りの操り人形 をつくるようになったのではないでしょうか




《 泥人形 》と 《 木彫りの操り人形 》

《 博多人形 》と 《 山笠人形 》を 博多の町で 結びつけた

小堀善左衛門正直

彼こそ 正真正銘の 《 木偶の坊 》(でくのぼう) だったのです







by nonkei7332 | 2015-05-11 22:50 | 博多ルーツ | Comments(0)

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糸島半島に沈む夕陽 右手前が 能古島 その向こうが 可也山



友 へ



一雨ごとに 春めいてきます


先日 久しぶりに会って 懐かしかったですね


短い時間だったから 話し足らなかったことを 文にします


しげしげと 私の 真っ白な 頭を見ながら 語った 君の一言に


「老いは隠せないからな」とつぶやいた 私の言葉は


答えになっていたでしょうか


五年前の 私しか 知らない 君の目には


全くの 他人のように見えたのだろうからね


そう 自分でも 隠しおせないものは しっかりと自覚しています


花が咲いて 散っていくのは やがてまた 咲くための 生の証しなのだから


もう 花とはみえない 朽ちかけた 私の姿とて


生きている証しだと思ってください



五年前の春の事から 話します


春三月 東北の惨事に 全ての人達が 憂いているころ


私は 病院の中に居ました


車椅子を押しながら 動かぬ 手足を呪いながら


それでも 必ず 自分の意思で動かしてみせると もがいていました


その前の年の大晦日 私の脳の中でおきた 惨事は


私の多くの 身体の機能を止めてしまいました


幸いにも 生命を 繋いでくれた 何かがあったのでしょう


今だから 話せる その 何かの話 をしようと思います


その後の私は 辛いリハビリを乗り越えて


半年後 退院し 職場に復帰することができましたが


残った障害で これ以上 会社に迷惑もかけれないので


その年の暮れに 定年退職をしました


住居を変え 生活も何とか落ち着いたころ


90歳になる 母の認知症がひどくなったので


兄弟で まだ わかるうちにと 持ち物を整理していたら


話には聞いていた でも 見たこともなかった


母方の家系図を見つけたのです


君との 別れ際に話した


拙ブログ《 磯良の海 》もここからが 始まりです


先祖は 《 小堀甚左衛門正直 》と書いてありました


調べてみると


博多祇園山笠 の〈山笠人形の始祖〉だという事がわかりました


思い切って 福岡市博物館を訪ね 見てもらったところ


貴重な資料との事だったので 相談の上 博物館に預けることにしました


〈 12月に 安心したかのように 静かに 母が亡くなりました 〉


翌年 3月に調査委員会をへて 正式に博物館より要請連絡があり


寄贈する事に決めました


思ってもいなかった 私の ルーツ を追いかける旅が 加速したのです


小堀甚左衛門 は〈野見宿弥〉の 後胤 と書かれていて


京都四条に住む 〈木偶師〉 ( からくり人形師 ) でした


櫛田神社の招聘で 永享九年(1437年)に


博多に下向したと系図には書かれていて


周防の〈大内義隆〉 や 〈豊臣秀吉〉とも 交流があったと 書かれています


図書館に行って 何か文献は残ってないかと 調べる日が続き


野見宿禰を知る為に 古事記 日本書紀 を 読みあさり


〈からくり人形の歴史〉を調べる為に


京都の祇園社あたりを DNAを探して 歩き回りました


そんなころ 福岡市博物館から 朗報があったのです


その年の 11月に 博物館で『山笠の力~ハカタウツシ』という展示会があり


〈小堀氏略系〉という資料名で 展示するという報せでした


綺麗に 展示された 家系図を見ながら


博多の町に 室町から 明治に至るまでの


十二代続いた 人形師の魂が 私の中の 何かを 揺さぶってくるようで


母が遺してくれた 私の生命を繋いだ


魂の仕業を 感じずには おられませんでした



年が変わり 去年の 1月 の終り 近くの 〈名島神社〉を散策していて


小さな 石を拾い 不思議な 体験をしました


部屋に戻って ネットであれこれ 調べていると


とても 興味深い ブログを 見つけたのです


『 ひもろぎ逍遥 』管理人が 《綾杉るな》と書かれてありました


とにかく 面白かった


自分でいろいろ調べてきた 答えが


そこには あるから 驚きです


一週間 時間も忘れて そのブログを読むことに 没頭したでしょうか


当然 綾杉さんが 出されている 本


『神功皇后伝承を歩く (上) 』も 出版社から


取り寄せて 読んでみました


〈傀儡〉〈傀儡の神〉 〈安曇磯良〉 〈記紀のからくり〉


断片的な 私の中の 知識が 次々 と見事に 繋がっていくのです


そして 2月15日 その 綾杉さんが 講師となる 研究会が


宮地嶽神社 であるのを知り


立場も弁えず 出向いて行きました


綾杉さんは 穏やかな 中にも 自信にあふれた お話をされる方でした


そして 去年の 2月25日


何かに 導かれるように


拙ブログ 《 磯 良 の 海 》を立ち上げたのでした


それから 3月2日 の アクロス福岡の〈筑紫舞〉のイベントを皮切りに


綾杉さん の 勉強会 講演会には ほとんど 参加させて頂きました


そこで 多くの 安曇連 の方々とも 知り合うことができました


皆さん 素晴らしい 方々 ばかりです



随分 長い話に なりましたが


この一年は 私の人生の中で 最も重要な 一年でした


最も 魂の揺れる そして 多くを学んだ 一年でした


世阿弥 の 言うように 『 初心わすれべからず 』


これからも もっと 多くの人から 多くの事を学び


この国の 真実の姿を繋げる 好好爺 の『語り部』 になりたいものです


これからも 時々は 《 磯 良 の 海 》を 覗いて下さい


それでは MATA-NE.


友 へ




2015年 2月 24日





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『 小堀氏略系 』 福岡市博物館所蔵














by nonkei7332 | 2015-02-24 17:58 | 博多ルーツ | Comments(1)


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『筑紫舞』を伝承する 宮地巌神社の 浄見譲宮司




豊臣秀吉

文禄2年(1592年) 名護屋城内に入ってからの 五年間
〈 能 〉を自ら稽古し始め 憑かれたように その世界に没頭します

その場所こそ 遠く 〈 魏 〉の使者が 最初に上陸した 〈 末盧国 〉でした
その 〈 倭人伝 〉には

《 海を渡ること千余里 末盧國に至る 》 とあります

そして 秀吉の舞う 能舞 こそが
かつて 呉の民 が 荒波を乗り越え いのしえの 九州王朝をつくり
宮廷舞 『 筑 紫 舞 』として 1000年もの間
傀儡子達によって 隠し伝えられた 《祖神の舞》 だったことを
秀吉は 知っていたはずです

享楽ではなく 今 滅亡の淵に立つ 尊き 山河 と 民 を護る為に
猿楽師 秀吉は 祈るように 舞い続けたのでした

秀吉は 死の間際 東山の麓に立てた 方広寺の大仏の鎮守として
自らを 《 八 幡 》として祀るよう遺言します

そして 辞世の句を遺します


《 露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢 》


『 難波のこと 』とは 決して 摂津の国 (大阪) のことではありません

秀吉は 謡曲 『 蘆 刈 』の 笠の段
《 津の国の 難波の春は夢なれや 名に負う梅の花笠 》
この 一節の奥に 世阿弥 が 隠そうとした
九州王朝の 博多の海の物語 だということを 知っていたのでしょう

九州王朝の復興を 『 夢のまた夢 』と 偲びつつ

息を引き取る 最期まで

《 猿楽師のせがれ 》

秀吉は 猿 だった のでした



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那の津(難波の津) 博多湾 磯良の海 の夕暮れ


by nonkei7332 | 2015-01-26 13:38 | 博多ルーツ | Comments(0)


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フェリペ2世 (スペイン最強王)



『 秀吉の 朝鮮出兵の 本当の動機は

《 スペインのアジア侵略の対抗手段》

だったって 知ってる?』


この質問に 友人の答えは こうでした


『 そんなの 初めて聞いたけど

秀吉の天下統一 によって 恩賞をめぐり

家臣の中には 不満が高まっていて

狭い国土には 与えるべく領地も乏しいために

家臣達の不満のはけ口として

朝鮮出兵を行ったんじゃ ないの 』


確かに 私も 学校では そう 習ったような気もします



『太陽の沈まない帝国』と称された スペイン は

最盛期(16~17世紀前半)には 世界中の 8割 の国を 植民地にしていました

アジアにおいても フィリピンを侵略して

残るのは 明 (朝鮮半島を含む) と 日本 だけでした

スペイン の 軍事侵略 は

中南米の インカ帝国 や マヤ文明が滅ぼされたように

カトリックの布教活動と植民地獲得の軍事侵略が

一体化した形で遂行されてきたようです

日本にも イエズス会の フランシスコザビエルに はじまり

多くの 宣教師が 布教活動をやっていましたし

その中で 改宗した キリシタン大名も数多くいました


《 キリシタン大名 》


有馬義貞(肥前領主)

大村純忠(日本で最初のキリシタン大名)

大友宗麟(豊後領主)

織田有楽斎(織田信長の弟)

織田秀信(信長の孫)

蒲生氏郷(会津領主)

黒田如水

小西行長

高山右近



秀吉が 九州平定を終え

博多湾岸の 箱崎 にいる時に 事件は起こります

当時 イエズス会初代準管区長 の 〈 ガスパール・コエリョ 〉が

秀吉に謁見し大砲を装備したスペイン船 を 秀吉 に見せたのですが

その船の動力源である 船漕ぎが 全て日本人であったのを

コエリョに聞くと『 皆犯罪者だと 』と平気で言ったことや

スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく 誇示したことに対して

秀吉は 激怒します

そして 1587年7月24日《 バテレン追放令 》 を出したのです


秀吉は こんなふうに 考えたのでは ないでしょうか


『 もし 〈スペイン〉 と 〈キリシタン大名〉 が

手を組んで 反旗を掲げれば

神国 日本 は たちまち 異教徒に侵略されてしまうだろう

よしんば 〈明〉が先に 征服されたとしても

明の軍兵を使って いずれは

〈スペイン〉は 我が国を襲い

あの 元寇の役 のようになるかもしれない

とすれば 方法はひとつ

〈スペイン〉より先に 〈明〉を奪うしかない 』



文禄元年(1592年〉4月12日

秀吉は (小西行長) 率いる一万八千 の 一番隊 を 釜山浦に上陸させます

これが 〈 文禄の役 〉です

当初 快進撃をした 日本軍でしたが

縦に伸びた戦線の食糧補給路を

朝鮮水軍に絶たれ 苦戦し やむ無く撤退することになります

その後 明との講話交渉も決裂した為 に

慶長2年(1597年) 再度の出兵を決意します

これが 〈 慶長の役 〉です

総力戦 で臨んだ 秀吉軍でしたが

1958年 8月 秀吉の 突然の病死により

退却を決め 7年に及んだ 戦いは幕をとじます


秀吉の 朝鮮出兵とは いったい なんだったのか 評価は二分します


多くの 負の遺産 は残した戦いでしたが

歴史を 一元的に見るのではなく

結果として スペイン植民地政策 という 脅威から 国を護り抜いた 評価も

私は 忘れてはならないと 思っています




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NHK「軍師官兵衛」 秀吉の最期






by nonkei7332 | 2015-01-26 10:12 | 博多ルーツ | Comments(0)


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NHK『軍師官兵衛』豊臣秀吉 役 竹中直人さん



《 豊臣秀吉 》(とよとみのひでよし)

尾張の国 中村 (名古屋市 中村区) の 生まれです

織田信長に仕え 《 木下藤吉郎 》と名乗りました

その後 織田家の有力武将だった 丹羽長秀 と

柴田勝家 から一字ずつをもらい受け

《 羽柴秀吉 》 改名します

信長は 秀吉に「筑前守」(ちくぜんのかみ) という 官職を与えますので

『 羽柴 筑前守 秀吉 』と呼ばれていたようです

信長は通常は 秀吉のことを 「筑前」とよんでいたみたいですね

ちなみに 明智光秀は 「日向守」でした

それにしても 二人の側近に 九州を護らせた

信長の意図は なんだったんでしょうか

やがて 本能寺の変で

信長から 秀吉の時代に変わります

天下統一を目指した 秀吉は 信長に習って 《 平氏 》を名乗ります


姓 には 必ず 最後に 「の」がつきます

平氏(たいらの) 源氏(みなもとの) 藤原氏(ふじわらの) 菅原氏(すがわらの)


貴族にとって 特に 『 源 平 藤(藤原) 橘 』の 四姓 を名乗ることは

血筋や家系を明らかにする 権威ずけの 常套手段 だったようです

賎民あがりの 秀吉にとっては 見え見えの 詐称 になりますが

しかし 信長の 織田氏は 〈平氏〉

島津氏は 〈源氏〉と自称していましたが

実際のところは 織田氏は 〈忌部氏〉

島津氏は 〈惟宗氏〉だったみたいですので

まあ そんなもんだったんでしょう

ただ 秀吉が 関白 になる時は 簡単には いかなかったみたいです

あれこれ 考えた挙句 前関白の 近衛前久 の 猶子(ゆうし)になります

(猶子 とは 養子ではなく 後見人 みたいなものです)

この時 に 平氏 の姓から 近衛家の《 藤原氏 》に変わることになるわけです

藤原氏というと 中臣鎌足が天智天皇から藤原の氏姓を賜ったのが始まりで

鎌足の次男 〈 藤原不比等 〉は 朝廷に大きな勢力を築き

代々皇室の強固な外戚となります

聖武天皇から今上天皇まで85人の天皇の母方の中で 実に 78.8% が

藤原氏の出自なのですから まるで 藤原王朝 と言ってもいいでしょう


さてさて この事は 秀吉にとって 大きな 決断を迫られることになります

藤原を名乗る訳にはいかない 理由が 秀吉には あったからです


それは 秀吉を 影で支える 『同朋衆』の先祖達が ことごとく

〈不比等〉を始めとする 藤原朝廷に


消された過去の事実を 知っていたからです

「古事記」や「日本書紀」を編纂することで

九州にあった 古の王朝の姿を

史実から消しました そして 「神」さえも 変えてしまったのでした

菅原道真公も 藤原時平の讒言により 祟り神にされました

『同朋衆』達 は 鬼と呼ばれ ある時は 漂泊の民 といわれ

長い年月を ひたすら耐えてきたのでした

その無念の魂を いにしえの 祖神の姿を 神社の伝承の中に 封じ込め

猿楽を始め 多くの芸能のなかに 隠してきたのでした


秀吉は 幼い頃から その事を 知っていたのではないでしょうか


やがて 秀吉は 朝廷に対し 『 豊 臣 』の 姓を 上申します


『関白任官記』では 秀吉の言葉が残っています


「 古姓 を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし 」


「 われ天下を保ち末代に名あり ただ新たに別姓を定め 濫觴 たるべし 」

( 濫觴とは : 今一度起源にもどるという意味 )


天正14年(1586年)


12月19日の太政大臣任官を契機に 豊臣家が誕生します

豊臣の語源については 諸説ありますが

臣(おみ)とは 古代の姓 (かばね) の一つで 地名を名としたので

豊臣を名乗るということは

《 豊の国を先祖とする氏族である 》

との 意味ではなかったのかと 思います

豊国とは 福岡の豊前から 大分にかけての 地域をさしていますが

(ここでは 総称して 北九州にあった 倭国を中心にした 九州王朝と呼ぶことにします)

結論から言えば 秀吉は 8世紀前半から 途絶えた


《 九州王朝 の 復活 を 宣言した 》


というのが 私の推論です


やがて 秀吉は 1587年に 島津攻めで 九州を 平定し

1590年には 小田原城を落とし 全国を統一を果たします


落ち着く暇もなく 1592年 文禄の役 (朝鮮出兵) を おこします

秀吉は 肥前に名護屋城を築きますが

明の征服 と 朝鮮の服属を 目論んだ 最後の戦でした

そこには 領土の拡大だけとは言えない

世界の列強国 スペイン の影 が見え隠れしています

隠された 謎は まだまだ 続きます。





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名護屋城 の模型








by nonkei7332 | 2015-01-23 21:45 | 博多ルーツ | Comments(0)


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『 豊 臣 秀 吉 』ほど

波乱の人生を送った 戦国武将はいません

草履取りから 太閤 まで上り詰め 立身出世の旗頭として

多くの日本人から 愛されてきた人でもあります

ただ その 人 たる 全容はまだ

明らかには されていないような気がします

秀吉は どこで産まれ どのように育ち 何をしようとしてきたのか

私には ただ 目先の欲望に駆られ 人たらし と言われ

人身術に長けた 能力があったから だけとは到底思えないのです


そこには 誰も知らない 何かが 隠されていたように 思えます


秀吉の出自には 諸説ありますが 最も まともといわれている

土屋知貞という武士が書き残した


『太閤素性記』という書物があります

そこには


秀吉 は 其母 野合の子なり、

その いとけなかりしとき、つれ子にして

木下彌右衞門に嫁したるに、

彌右衞門早く世を去りければ、

其の頃 織田家の茶坊主にて 筑阿彌 といひしもの、

浪人して近村にあるをもつて、すなはち之を入夫したり、

此の故に彌右衞門は秀吉の繼父にして、

筑阿彌は假父なり、

秀吉も亦此を悟りて、吾には父なしと云はれしなり、

若し彌右衞門にもせよ、筑阿彌にもあれ、生の父ならんには、

はや世を去りて年を經るとも、

秀吉武運比類なく富四海をたもつに至りて、

父の廟を建立し贈官の追福あるべし、

然るに其事なかりしは、

野合の子なりしなれば也



「野合の子」とは 父が誰だかわからないということです

木下彌右衞門にしても 筑阿弥 にしても

自分のほんとうの父ではないと秀吉は知っていました


その 証拠に もし 父だとすれば


あれだけ 上り詰めた秀吉ならば


陵墓 を建て 後世まで祀ったであろうし


そういった記録も 説話さえも残っていないから と


ここには書いてあります



彌右衞門は 秀吉 八歳の時に死んでいます

おそらく 少年時代の 秀吉に 最も影響を与えたのは

二人目の義父 阿 弥 〉であったであろうと 私は 思っています

「織田家の茶坊主 筑阿弥」とは 一体 どんな人物だったんでしょう

茶坊主(ちゃぼうず)とは

大名家の城中のあらゆる雑用に従事し

刀を帯びず 剃髪していたため「坊主」と呼ばれていますが

僧ではなく また 『同胞衆』


とも いわれていたといいます


その中でも 芸能に優れた 同朋衆 を 阿弥衆と言って

阿弥号 を用いたといわれていますから

筑阿弥 は 織田家 専属の 「猿楽師」だったのではないでしょうか

〈 猿楽(能)の歴史については http://hisamitsu.exblog.jp/23738288/

織田信長が 桶狭間の戦い出陣前に舞ったといわれる


みやま市(瀬高町)〈大江天満神社〉に伝わる


「幸若舞」の 『敦盛』(あつもり)

『 人間五十年 下天の内を 比ぶれば 夢幻の如く也 』

の一説で有名ですが

〈筑阿弥〉と 〈大江天満神社〉 何か 繋がりそうですね


話をもどします

秀吉は いろんな 経緯があって 信長に仕えるのですが おそらく

信長は『猿楽師のせがれ』として 秀吉を知り

『猿』『猿』と言って

秀吉を呼んでいたのではないでしょうか

もうひとつ 推論を重ねると


その当時『同朋衆』のネットワークは

影の組織のようにして 神社を中心に全国に拡っていたようです


( 歴史から消されていった 秦氏 安曇氏 の渡来系ネットワーク )


( 神社で言えば 八幡系 稲荷系 天神系 )


信長は その事を知っていて 情報網のパイプとして

秀吉の存在価値を高めるために

他の武将よりも 重用していったのではないか

また 秀吉も そのネットワークを巧みに使って


力を蓄えていったのではないかと思っています




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大阪城



信長のあと 天下統一を果たした 秀吉は

五十歳の時 太政大臣となり 朝廷から豊臣姓を 授かります


何故 『 豊 臣 』だったのか


『 豊 臣 』とは 何なのか


何故 朝鮮出兵にこだわったのか


辞世の句に残る 謎 は


隠れた謎は まだまだ 続きます。






by nonkei7332 | 2015-01-22 18:29 | 博多ルーツ | Comments(0)

by ヒサミツ