明治の始め 博多の町に
栗山幽斎という 旧黒田藩士が住んでいました
黒田二十四騎の筆頭 栗山大膳 の ゆかりの人物かどうかはわかませんが
明治3年6月 この旧藩士に 愛くるしいひとり娘が生まれます
この親子に その後何があったのかは 定かではありませんが
両親が やがて亡くなり ひとり残された 娘は
博多の花町の養女となって たくましく 生きていくのでした
娘はやがて 妓名 を 《 金 時 》と 名乗ります
その 生まれ持った 美貌 と 美声 で 若くして
博多の 券番 でも 人気の芸妓の ひとり となりました
金時 は 三味線 と 月琴 の名手でした
引く手数多の贔屓筋の中で 金時 を射止めたのは
博多の富豪 《 加納 熊次郎 》です
酒造家の 加納熊次郎は 金時の奏でる 月琴を聴きながら
その芸才を 誰よりも 理解していましたし
その為なら 財を惜しむことはありませんでした
金時という名に別れを告げ 《 吉 田 竹 子 》と名乗りました
そして 明清楽 や 八雲琴(二弦琴)をも 修めたのでした
筑前琵琶尾方蝶嘉さん ホームページより
京都におこった 平家琵琶 は 室町以降 100年の間に 全盛期を迎えます
その後 戦国の世に入り 仕事を無くした 琵琶法師達 は
生活苦のために 京を離れ 多くは 流浪の僧となって
西へと 流れて行きました
琵琶と云えば 太宰府 四王寺山に 居を構えた
筑前琵琶 の 始祖である 玄清法師 は 成就院 を建立し
九州盲僧の中興の祖と仰がれたのですが
法印の 第九世 寿讃(じゅさん) は 博多の 蔵本町に 成就院を移し
〈臨江山 妙音寺〉と 名前を変えます
妙音寺 は 西日本の盲僧院坊の触頭として隆盛を続けますが
天正末期に兵火により灰塵に帰してしまいます
黒田二代藩主 忠之は 福岡城の鬼門除けの霊寺 として
藩の祈祷所として 妙音寺 を 再興したのでした
博多には 妙音寺 の元で いくつかの 盲僧坊がうまれます
妙福坊(橘智定の家祖) 大泉坊(鶴崎賢定の家祖) 観照坊(高野観道の家祖)
これらの盲僧達は 「般若心経」や「地鎮経」を 琵琶に弾じたり
荒神払いといって 家々を回り 布施でなんとか 命を繋いでいたのですが
明治4年 になると 新政府は「盲官廃止令」を発布します
この廃止令 は 盲僧の存在が 治安維持や 戸籍編成 の妨げになると
考えられたからですが 明治5年 には 「修験禁止令 」も 出され
修験道も 禁止されます
仏教寺院にとっては 多難の時代の始まりでした
明治22年 の 博多地図
荒神琵琶 も 時代の流れには 逆らえません
この流れに危惧した ひとりの 愛琵家 が 動きます
あの 加納熊次郎 でした
加納 は 絶滅寸前の 琵琶再興の志を 二人の人物に委ねます
妙福坊の橘旭翁 と 吉田竹子 でした
二人には 薩摩琵琶の改良研究と 新たな 弾法と音曲の開拓を託します
盲僧琵琶と三味線の折衷を試みた 吉田竹子は
明治26年(1893) 博多の文士 今村外園 が 忠君愛国の軍人を詠った
「谷村計介」の作詞に 自ら 曲を付け弾奏し 大好評を得ます
この音曲が 筑前琵琶の原形 だとも いわれているのです
この流れに 博多の政財界の名士たちも後押しをします
伊藤博文 や 金子堅太郎 その弟 金子辰三郎 そして
玄洋社総帥の 頭山満 など が
橘旭翁 や 吉田竹子 の 東京進出に 力をかします
筑前琵琶の五弦を 提唱したのは 頭山満だったという話も伝わっています
吉田竹子 は 加納熊次郎 が亡くなると 博多に戻り
筑前琵琶後進の育成に 力を注ぎ 多くの名手を育てます
大正12年 11月 博多の町で 多くの弟子に看取られながら
吉田竹子 は 52年 の 波瀾万丈の華やかな 人生を閉じます
竹子は 意識が遠のく中で 熊次郎 の姿を見つけたのでしょうか
『 旦那さん そばに行くのは 早すぎましたか 』
幽かに そう呟いて 目を閉じたと言います
加納熊次郎 と 吉田竹子
筑前琵琶を語るとき 忘れては いけない 二人なのです