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《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて




名島散策② 古宮と庚申塚_b0325317_20271279.jpg
名島神社 二の鳥居




名島海岸 を通り過ぎると



名島神社の入り口 に出ます 二の鳥居です



珍しい 両部鳥居です



道路をはさんで 海岸には 一の鳥居が あります



海岸下手 小さな祠があります




名島散策② 古宮と庚申塚_b0325317_20283372.jpg
名島神社 古宮





何も知らない 一人の子が その前で手を合わせていると



ぞろぞろと 後から来たカモメ達が



同じように 手を合わせていきます



何とも 不思議な光景を 私は 見入っていました



祠には 何も書かれていませんが



実は ここは 名島神社の 古宮〉 です




古代より この神社は



島(名島は島だった) の頂上に鎮座していましたが



中世 豊前大友氏の庶流



立花家7代の 立花鑑載(たちばなあきとし)が



立花城の出城として 築いたのが 城の始まりで



その後 秀吉が 筑前を 小早川隆景 に与えると 隆景は



名島城を 改修して 居城に仕上げます




その際 頂上の社を 海岸下手に移動させたのが



この祠の場所だったようです




黒田長政が 名島城を廃城にすると




現在の位置に 社殿は移され 古宮は



昔の面影として 小さな祠が残っているだけになっているのです





名島散策② 古宮と庚申塚_b0325317_20310643.jpg
庚申塚




二の鳥居の横には 大小数体の 石碑が建っています



石碑というより これらは 〈庚申塚〉です



庚申塔 とも呼ばれる これらの 石塔は



福岡の町のあちらこちらでも 見られます



庚申信仰 の始まりは 古く 奈良時代だと言われています



その後 平安貴族や 武士階級にも拡がり



猿田彦 地域を護る 塞の神 田の神 地蔵尊とも習合した



道祖神信仰として 民間にも 拡がり



江戸から明治にかけて 大流行します




庚申信仰は 中国の道教が起源です



人の体には 〈三尸の虫〉(さんしのむし) という虫が



生まれた時から 誰にでも 住みついていて



60日に一度 庚申の日の夜 人が眠っている間に



天に昇って 人が行なった 悪事を報告しに行くといいます



それによって人の寿命が短くなったり 死んで地獄に落ちたりするので



だったら その夜は 寝ないで過ごそうというのが



〈庚申待ち〉といわれる 行事です 近所で集まって



朝まで呑み明かすという 行事が 全国的に流行したそうです



庚申待ち 3年続けると その記念に 石碑を建てたといいますから



江戸時代には 町中 庚申塚 だらけになったそうです



明治になって 廃仏毀釈にともない 庚申信仰は迷信だとされ



政府は 多くの 石塔を壊します



それ以来 庚申信仰は急速に衰えてしまいました



まだ 未だ 地域によっては 多く 残っている所も あるようですが



町の景観の変化に いつかは 無くなっていくのでしょうか





名島神社脇の 庚申塚 には



「庚申大福神」「青面金剛」と書かれています



〈青面金剛〉は 仏教系の庚申塔の性格が強いとされる



三尸の虫を抑える 神様です





名島散策② 古宮と庚申塚_b0325317_20321931.jpg



神社の階段を


若葉が薫る 木洩れ陽の中を


カモメ達は 翔ぶように 登っていきます


危ないぞ 走るな~‼︎


私の声は 全く 無視されていました









# by nonkei7332 | 2017-04-24 21:20 | 古代史 | Trackback | Comments(0)


名島散策 ① 妙見島_b0325317_11431182.jpg


毎月 2回 土曜日になると



地域の カモメ(子供)達が 〈カモメの城〉(公民館) に集まってきます



私達(ボランティアスタッフ) 支援団体からいただいた



食材で カモメ達の昼食の準備に取りかかります



今回の 献立は 〈ちゃんぽん〉 〈おにぎり〉



私の役目は いただいた りんご の皮むきです



午前中 公民館の講堂で カモメ達は 自由に遊んでいます



卓球をしたり カードで遊んだり ケンカをしたり 大騒ぎです



昼になると 一転 静かに ランチタイム です



食事が終わると 前回カモメ達と 約束させられていた



近くの公園まで ハイキング です



行く先は 近くの名島城址公園です



総勢21 私一人では とても 引率できないので



お母さんスタッフ2人も 手伝ってくれました





名島散策 ① 妙見島_b0325317_11441519.jpg
名島海岸 から 湾岸倉庫街を望む

奥が 背振山系




名島海岸に つきます



白砂の海岸です 開発されるまでは




妙見島という島があって



島に伸びる 砂州が 名島海岸になって残っています



この〈妙見島〉今は陸化して 島の面影はありませんが



いろんな 伝承が残っています





名島散策 ① 妙見島_b0325317_11452501.jpg
博多近隣古図 (1812年)

妙見島 弁財天 名島城址




「筑前国続風土記」には 神功皇后 三韓征伐 に出発したのが



黒津(名島)だと言われていて その突端にある 妙見島は



船具や武器が収められていた 倉庫だったと 書かれています



中世 博多の豪商 神屋宗湛 が書いた 「宗湛日記」には



秀吉が 博多に来た時には この島で 茶会が催され



名島城主の 小早川隆景 この島で 度々 茶会を行なったと記され



この海岸でも 何度となく 酒宴も行われていたと書かれています



島跡には 今でも 井戸跡が 残っています





名島散策 ① 妙見島_b0325317_11463223.jpg
名跡地 太閤秀吉公茶遊井戸跡

右側が 井戸跡です



名島散策 ① 妙見島_b0325317_16521698.jpg
昭和31年 名島付近の航空写真



名島散策 ① 妙見島_b0325317_12085349.jpg
昭和34年の妙見島の写真




名島散策 ① 妙見島_b0325317_11480503.jpg
現在の鳥居跡




古い写真には 建物の横には 鳥居がみえます



今でも その辺りには 注連縄がはられています



かつては この島には 妙見神 が祀られた 社殿 があって



島自体が 聖地 だったのでは ないかと思えます



〈妙見神〉といえば 北極星と北斗七星の御神霊です



宇宙の中心であり 全ての方位や 人間の運命を左右する



根源の神だといわれています



そして この神は



天之御中主命 同一神 だと 言われています



天之御中主命 主の神 白族の女神 菊理姫



博多の主の神 大幡主命 祖母に当たる 天之御中主命



ここで 子孫の 海神達を見護っていたのではないでしょうか





白砂は 多くを語ってくれます



裸足になったらダメだぞ



私の言うことなど 全く無視して 靴を脱いだ女の子が



嬉しそうな顔をして 叫んでいます



だって こんなに気持ちいいんだよ








# by nonkei7332 | 2017-04-24 13:39 | 古代史 | Trackback | Comments(0)



卯花月(うのはなづき)_b0325317_13314901.jpg
卯の花




桜が終わると それが合図のように



四月の中頃から



多くの花々 一斉に 花をつけ始めます



その筆頭が 卯月(4月) の名前にもなった



卯の花 でしょう



万葉集では ほととぎすと合わせた 歌が 21 あります





卯花月(うのはなづき)_b0325317_13322813.jpg
つつじ



つつじ(躑躅) もこの頃から 咲き始めます






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白藤



藤棚では 白や紫の 藤の花 も もうすぐ 満開です







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春牡丹



先週の 筥崎花庭園 では 春牡丹 見頃でした







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木香薔薇 (モッコウバラ) です






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名前を調べ中の花です


(わかる人教えてください)







# by nonkei7332 | 2017-04-20 14:28 | | Trackback | Comments(0)


阿修羅像_b0325317_10102507.jpg
興福寺 阿修羅像と八部衆像(一部)




奈良興福寺 阿修羅像 と 八部衆達です



阿修羅 とは



インドにおける 仏教以前の 古代神 八部衆のひとりです



釈迦に帰依して 十大弟子と共に 護身善神となったといいます



ちなみに 八部衆とは



五部浄(ごぶじょう)・沙羯羅(さから)・鳩槃荼(くばんだ)



乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)



緊那羅(きんなら)・畢婆迦羅(ひばから)




本来 闘いの神 荒ぶる神 と言われた 阿修羅



優しい少年の顔をして 合掌している 三面六臂の姿は



何を 物語っているのでしょうか




神亀4年(727年) 待望の男の子 基王(もといおう)の誕生に



光明皇后と聖武天皇の喜びに包まれていました



しかし その 喜びも束の間 愛児は



一歳の誕生日を前にして 亡くなります



失意の中 6年後 亡き基王を偲び 光明皇后によって



阿修羅像 は造られたといわれています




光明皇后 一生も 修羅 の道 だったのでしょう




阿修羅像_b0325317_10121947.jpg
光明皇后 小泉淳 作




我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の嬉しからまし


万葉集8-1658 光明皇后



〈通釈〉


あなたと二人で この雪を見たのなら どれほど 嬉しかったでしょう



(あなたとは 夫である 聖武天皇 だと言われていますが



亡き 基王 だともいえるのかもしれませんね)









# by nonkei7332 | 2017-04-10 10:30 | 古代史 | Trackback | Comments(0)


春と修羅_b0325317_12180915.jpg
興福寺 阿修羅像




1922年(大正10年) 48


詩人は 浅い春の北の大地を とぼとぼと 歩きながら


自らの 心模様を 言葉に変えました





心象の はいいろはがねから


あけびのつるは くもにからまり


のばらのやぶ や 腐植の濕地


いちめんのいちめんの 諂曲(てんごく)模様


(正午の管楽(くわんがく)よりもしげく


 琥珀のかけらがそそぐとき)


いかりの にがさ また青さ


四月の気層のひかりの底を唾(つばき)し


はぎしり ゆききする


おれは ひとりの修羅 なのだ


・・・・





もう 何度も読んだ


宮澤賢治 『春と修羅』の詩です



ひとりの修羅として この世に立ち向かう時


憤り 怒り 口惜しさ 反芻しながら


唾を吐き 歯ぎしりをしながら 歩くしかない


そんな 心象が描かれています





冬は必ず春となります しかし 来る春は



いつも 明るい希望に満ちた春ばかり とはいえません


5年前 4


私は リハビリ病棟の窓の外から


桜の散りそめる風の姿を追っていました


テレビでは 連日 311 悲しみが伝えられていました


慣れない車椅子を右手で引きずりながら


まがりなりにも 生きている自分と


大切な人を失くし 哀切の日々を送る人達のはざまで


私も ひとりの修羅だったのでした





春と修羅_b0325317_12205115.jpg




遅い桜が 満開となりましたが


福岡は 連日の雨です



見る人に 花も昔を思ひ出てて 恋しかるべし 雨にしをるる



西行の歌です


桜目線で この歌を解釈すると こうなります



今年も また 私に会いに来てくれたのですね


私も あの頃のことを 想い出しています


雨に濡れているのではありません


これは 私の涙です








# by nonkei7332 | 2017-04-07 13:12 | 日記 | Trackback | Comments(0)

by イソラ