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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて



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〈 天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ 〉
(万葉集七巻:1068)

歌聖(柿本人麻呂)の歌です
「天を詠む」と題詞にあるので 空 を詠んだ歌です

[ 海のように 広い空に雲が波立ち、月の舟が
星の林に 見え隠れしながら 漂っているのが見えます ]


私が見た 朝の海(磯良の海)は
青空が海に映り まるで 天の海 でした
波模様が 沙漠の風紋のように拡がり
月の舟は
波の(雲の)切れ間に見え隠れしながら
どこかに 行ってしまったのでしょうか
まるで「月の沙漠」の唄が
聞こえてきそうな 景色の中を
私の魂は 「 月 読 」に 繋がっていきました



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「 月の沙漠 」
 
 月の沙漠を はるばると 旅の駱駝 (らくだ)が 行きました
 金と銀との 鞍 (くら)置いて 二つならんで 行きました

 金の鞍には 銀の甕(かめ) 銀の鞍には 金の甕(かめ)
 二つの甕は それぞれに 紐(ひも)で結んで ありました

 先の鞍には 王子さま 後の鞍には お姫さま
 乗った二人は おそろいの 白い上着を 着てました

 広い沙漠を ひとすじに 二人はどこへ 行くのでしょう
 朧(おぼろ)にけぶる 月の夜を 対の駱駝は とぼとぼと

  砂丘を 越えて 行きました
  黙って 越えて 行きました




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遠い古(いにしえ)の海を
はるばると越えてやってきた
王子と姫の物語も
「 月 読 」は 見守っていたのでしょう

明日は
満月です。








# by nonkei7332 | 2014-07-11 12:00 | | Comments(2)
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絵馬(えま)とは 神社や寺院に祈願するとき

あるいは祈願した願いが叶ってその謝礼をするときに

寺社に奉納する 絵が描かれた木の板である

天満宮なんかのように

希望する進路をかいたりする 小さなものから

神社を造営した時とか 祈願したことが叶った時などに

特別に絵師にたのんで 書かせて 奉納する

大型のものまで 多種多様の絵馬がある

神社によっては 絵馬を飾りつけるための 

絵馬堂があったりするが

大型の絵馬については 社殿に飾られる事が多い



小堀家十二代 《 小 堀 甚 三 》作 による 絵馬 が

西区の 『 姪 浜 住 吉 神 社 』に奉納されていると知ったのが

去年の夏

見てみたいという 衝動は抑えきれないもので

「絵馬を見れますか」と社務に電話してみた

「いつでもどうぞ」という返事を頂いたので すぐに 出かけた

地下鉄姪浜駅をおりて 歩いて10分

姪浜の古い町並みの中に 姪浜住吉神社は鎮座していた

イザナギの禊の地に関係のある由緒深き 神社なのだと聞く

社務所で 挨拶をすると 宮司が 出てこられ

「社殿を開けますから 自由にみてください」といって頂いた

入り口の上に 四幅の「山笠図」が掛けてあった

その中の一番右端の一枚が 甚三の描いた 絵馬だった

多少 くすんではいるが 壮麗な 山笠の絵だった


「 明治25年奉納 」 「 山笠作人 博多下土居町 小堀甚三 」 


銘板に書いてあった

甚三は 明治34年 58歳で亡くなっているから

49歳 の時の製作となる

絵馬は誰にでも 書けるものとはちがうから

小堀甚三は 世間でも 評価される

絵師の一人だったのだろう


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「博多にわか」という

博多に伝わる話芸の伝統芸能がある

〈博多弁で喋り〉〈面をかぶり〉〈話に落ちをつける〉

これだけの原則さえ守れば 誰にでも出来る 話芸だ

面を 半 面(はんめん)といって

今から350年くらい前は

提灯を半分に切って目の部分だけをくり抜いた提灯半面だったが

それが黒塗りの面に変わり 明治になり白塗りになり

明治10年代20年代になって

今のような半面になったという

井上精三 著 『にわか今昔談義』には


「 明治二十二年頃 下土居町 不思木屋事 人形師小堀甚兵衛作ル 」

とある

小堀甚兵衛 は 半面の作者でもあったようだ




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小堀甚三 小堀甚兵衛 兄弟は

山笠人形という優れた技能を持ちながらも

時代の流れには 勝つことはできなかったが

それでも

細工人形 山笠絵馬 にわか半面 といった

博多の町人文化を

支え続けてきた人でもあったようだ







# by nonkei7332 | 2014-07-07 11:57 | ルーツ | Comments(0)



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山笠の 「流(ながれ)」の起源は

天正15年(1587年)豊臣秀吉のおこなった

「太閤町割り」 である

博多川と御笠川の間の町を南北七つに区割りして 

その単位を「流」とした 

今もその流れは 受け継がれ

「千代流」「恵比寿流」「土居流」「大黒流」


「東流」「中洲流」「西流」

として 残っている

櫛田神社の正面の道は 土居通り と呼ばれ

この通りを囲む町々が 

「土居流」だ

町名改正で 昔の古い町名は 今はほとんど 残っていないが

江戸時代の文献では 十の町に 分かれている 


大乗寺前町(51戸) 上土居町(46戸)中土居町(52戸)


下土居町(47戸) 行町(71戸)濱小路町(26戸)


西方寺前町(38戸)片土居町(56戸)川口町(34戸)


上新川端町(129戸)

この中で 今も町名として残っているのは 土居町と川端町だけになる


時は明治のころ 「土居流」下土居町の話である

下土居町は商家の町だ

紙屋呉服店(現在のデパート)を中心に 商店が並び 人々が集まり

かなりのにぎあいを見せていて 博多の中心的存在の町であったという

そのほぼ ど真ん中 高山博多織店と新島本家(材木商)の隣りに

「不思木屋」という店があった

表の古い看板には 〈 山笠細工人形製作 〉と書いてあった

店主の名前は 小 堀 甚 三 小堀家十二代目の当主である

小堀家の歴史は古く 永享九年(1437年)四月

京都四条に住む 木偶師(からくり人形師)小堀善左衛門正直は

博多津の招きで下向し 初め櫛田神社境内に住み


津中から扶持を給せられ 山笠人形の制作に従事した

いわば 博多山笠人形の始祖である

十代 甚次 のころになると 博多津中の願い出により

黒田藩より 山笠人形細工の永代を仰せ付けられ

大いに 繁栄したとの記録が残っている

ところが 十二代 甚三 22歳の時


明治維新 廃藩置県がおこり 古例は廃止され

独占していた 山笠人形制作が自由になったのである

その上 明治五年 県令により 明治16年までの10年間


山笠は廃止された

小堀家は またたくまに 不遇の時代を迎える 


甚三には 甚兵衛 と 甚七という弟がいた



場所は変わって 土居流にある 西方寺前町

文献によると 西方寺前町 は 多くの大工とそれに付随する 家々が

集まっていた町だと書いてある

ここに 大工の棟梁をしている 成 田 善 兵 衛 が住んでいた

成田家は 士族であったが 理由はわからないが 博多に住む様になり

幕末のころの博多史誌『石城遺聞』によれば


西方寺前町の 町年寄り として

〈成田宗次郎〉の名前が残っている 善兵衛との関係は不詳だが

町の重鎮としての 役を担っていたことは 間違いないようである

善兵衛には嫡子がいなかったが 娘が二人いた。


「流」の同族意識は強いものがある 小堀甚三 と 成田善兵衛

二人は山笠を通してだけではなく 町は違えど 強い繋がりがあった


明治7年9月24日

小堀甚三の弟 小 堀 甚 兵 衛

成田善兵衛の次女 成 田 テ フ

養子縁組で 夫婦となる


江戸から 明治にかけて 同じ 土居流に住んでいた 

一人の山笠細工人形師の男と 


大工の娘 の間に何があったのかはわからない 

栄枯盛衰のなかで 当主同士がきめた 縁 であったのか

噂に聞く 二人に 燃えるような 恋 があったのかは

誰も知るよしもない


誰も知らない

私 の 曽祖父 と 曽祖母 の 物語である。



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# by nonkei7332 | 2014-07-05 22:55 | ルーツ | Comments(0)


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名前も知らない花でした
いつも 立ち止まって 空を見上げて 見ていました


夢の中で 子供たちに聞きました
(あの花はなんていう名前なの?)
子供たちは言いました
(あの花 ビアンカ の花 って いうんだ)
(白い花 っていう 意味さ)
(だって 夏なのにキラキラ輝いているだろう)
(みんな ビア って呼んでるよ)
私も ビア って呼んでいいのかなと聞くと
(どうかなぁ~ ビア に聞いてみたら)
そう言って 子供たちは どこかに行ってしまいました


目が覚めると 外は雨
雨音だけが聞こえる 静かな朝です
熱い コーヒーを飲みながら
ビア の事を 考えていました
雨が降っているけど 大丈夫かな
ビア の声が聞こえてきました
《 仕方ないですね 思うようにいかないのが人生です
笑いましょう 疫病神も近寄れないようにね 》


雨が 強く 降っています
Kenny.G を 聞いています
《 Over the Rainbow 》
澄み切った サックス🎷の音が 雨音を消してくれます
歌詞をみたくなりました



《 Over the Rainbow 》~虹のかなたに~

Somewhere over the rainbow
Way up high
(どこか、虹の向こうの空高くに)
There's a land that I heard of
Once in a lullaby
(昔、子守唄で聞いた国があるはず)
Somewhere over the rainbow
Skies are blue
(どこか、虹の向こうに空がとても青く)
And the dreams that you dare to dream
Really do come true
(信じてた夢がすべて叶う場所がある)
Some day I'll wish upon a star
(あたしはいつか星に願うでしょう)
And wake up where the clouds are far behind me
(そして目覚めると雲ははるかかなたに消えて晴れわたり)
Where troubles melt like lemondrops
(悩みはレモンドロップのようにとけてなくなる)
Away above the chimney tops
(煙突よりもずっと上のほうで)
That's where you'll find me
(あなたはあたしを見つけるわ)



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ビア は 大丈夫だよ
こんなに雨が降っても 笑っているし
いつまでも 白く 輝いているから
顔晴っているから

誰かの 声がした


# by nonkei7332 | 2014-07-03 07:05 | | Comments(0)


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昔から博多の人々に「おくしださん」と呼ばれて親しまれている
「櫛田神社」は 謎多き 神社である

創建は 天平宝字元年だから 奈良時代の757年

祭神は 正殿(中殿)が 『大幡主大神』(おおはたぬしのみこと)
別名『大若子命』
天御中主尊十八世の孫・彦久良伊命の御子であり
倭姫(やまとひめの)命が天照大神を伊勢神宮に鎮座したとき,
南伊勢(三重県)の豪族として協力したため
神国造(かみのくにのみやつこ)と神宮の大神主に任じられた
垂仁天皇から 越の国(北陸)の賊徒阿彦を討伐することを命ぜられ
大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったので大幡主と呼ばれている
『櫛田明神』とよばれることもある

左殿は 『天照皇大神』(アマテラス)
大幡主大神がその側を離れずに奉仕したことから
同じ時期に勧請されたとある

右殿は 『素戔嗚主命』(スサノオ)
藤原純友の乱 平定に際し
京都祇園の八坂神社に祈願したことから その分霊を祀ったのが
天慶四年(941年)だから 創建後 184年後のことである

さて 問題は 左右に 「アマテラス」と「スサノオ」を従えている
「大幡主大神」とは 一体 どんな神様なのかということだ

(アマテラス)( ・・・・) (スサノオ)

まん中の( )の中に神様の 名前を入れなさい との問いに
答えは 果たして ?

(イザナギ)?
〈解説〉アマテラス と スサノオを 作った神様だから

(ツキヨミ)?
〈解説〉 イザナギの作った神様が この三人組だから


話は 変わるが 博多には 社家町という町があった
今の冷泉町の 櫛田表参道の道沿いにあったようだ
社家とは神社に仕える 神職のことで
ここには 代々 櫛田神社に奉仕してきた人々が住んでいた
〈祝部家 〉〈天野家 〉〈八尋家 〉〈梅崎家 〉 この四社家だ
大幡主命に奉仕しているのが 〈祝部家 〉
天照大神に奉仕してきたのが 〈天野家〉
素戔嗚主大神に奉仕してきたのが 〈八尋家〉
巫女で奉仕してきたのが 〈梅崎家〉

この中で 祝部家の祖先は 福津市の『縫殿神社』に祀られている
応神天皇の時代に呉の国から招かれた 四人の織姫と
深い関係があると伝えられている


縫殿神社の説明によれば

応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から
兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)
の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。
この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、
中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。
この神社は日本最初の裁縫の神様であり、
この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます


祝部家は 代々 男性は 櫛田明神の神主として奉仕してきて
女性は 裁縫技術に関する仕事に携わってきたという
祝部家出身の 祝部安子は 明治7年頃より
近くの女性を対象に裁縫塾をひらいていたが
明治42年には私立櫛田女学校が認可を受けこの地に校舎を置いた
その後 櫛田裁縫学校となり 多くの博多の女性達がここで裁縫を学んだ
今は その跡地に 〈博多町家ふるさと館〉ができている

「祝部家」は 秦氏の末裔にちがいないだるう
ちなみに伊勢神宮に代々神官として務めて来た
「度会氏」も秦氏の末裔なようだ

これは あくまでも 妄想だが
櫛田神社の主祭神は 「大幡主命 」
以前があって 秦氏繋がりで
それは 「月読命」であったのではないだろうか
と 私は思いたいが・・・??

「おくしださん」の謎は 深まるばかりだ





# by nonkei7332 | 2014-07-02 11:55 | ルーツ | Comments(0)

by ヒサミツ