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《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて



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杜鵑草 (ホトトギス)





センテナリアン と呼ばれる人達がいます

一世紀をセンチュリー ということから

一世紀 (100年) 生きてきた人達に 与えられた 言葉です

昭和38年 52年前 には 153人 しかおられませんでしたが

今年は 65692人 の人が センテナリアン になられたそうです

驚くべき 数字 です



健康で 人の手をかりずに 寿命を延ばすのは至難の業です

私の父は 83歳で 母は 89歳で 永眠しました

さほど 家族に負担もかけずに 静かな 臨終でした

天寿とは あらかじめ 決められている寿命のことをいうそうです

誰が決めたのかは知りませんが

私にも 決められた 寿命があるのなら

静かに それを 全うすることを願っています

センテナリアン センチメンタル な 話になりました



実は 今日で 65歳 になりました

地域の子供達に かこまれて 幸せな毎日を過ごしています

決して 孤独な 独居ではないと 自負していますが

息子たちには どう見えているのでしょうか

毎年 正月には 息子二人と 三人で 酒を呑むのが

恒例になっていて 私には 至福の時間なのですが

さてさて いつまで 続くのでしょうか

美味い酒を呑む というのは 楽しい時間を過ごすことをいいますが

日頃 あまり 酒を呑む事がないので

この日ぐらいはと 美味い酒を準備しました


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『百年の孤独』

幻の焼酎とされる 40度の強い 麦焼酎です

ネーミングは コロンビアのノーベル賞作家ガルシア・マルケスの

同名小説 「百年の孤独」からとったといいます

この小説 読んだことはありません

このボトルケースに ジャズミュージシャン


エリック・ドルフィーの言葉が 書かれています




When you have music. after it is over. gone in the air.


You can never capture it again.



音楽とは、ひとたび発せられてしまうと

二度と取り戻すことは出来ない



男三人で しみじみ 呑んでみようと思っています








# by nonkei7332 | 2016-12-10 13:00 | 日記 | Comments(2)


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信貴山から 大和盆地




信 貴 山 (しぎさん)


奈良県生駒郡平群町にある 山です

紅葉が 美しい境内を 多くの参拝者が訪れていました


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神仏習合 の 霊場です

去年訪ねた 比叡山 と 同じなのでしょうが

なぜか 空気の重さが違います

信貴山は 古くは 神の山 だったのでしょうか



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ここの地名は 平群(へぐり) です

平安時代の辞書 『和名類聚抄』によると

《大和国平群郡》には 六ヶ所の 郷名 が 記されています

那珂 ・飽波(あくなみ)・平群(へくり)・夜麻・坂門・額田(ぬかた)

福岡に住んでいる者は 『あれれ これ 福岡だ』 と思っちゃいますね

ちなみに 《筑前国早良郡》の 郷名 には

毘伊(ひい)・能解(のけ)・額田(ぬかだ)・早良(さわら)・

平群(へぐり)・田部(たべ)・曽我(蘇我)

七郷があったと記されています。

新撰姓氏録 (平安初期に書かれた 氏族の出自録) によると

平群氏とは

「河内国 皇別 早良臣 平群朝臣同祖 武内宿禰男平群都久宿禰之後也」

と 記されています

早良 と 平群 は 同祖 みたいですね

早良(福岡)から 平群 (奈良) へ 移動してきたと考えるのが 自然ですよね

そういえば 筑紫の賢人 真鍋大覚 は

『 背振(せふり)の語源は 平群(へぐり)にあった』とも 言っていました



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古事記には

武内宿禰の第四子「平群都久宿禰」(へぐりのつくのすくね)


についての 面白い 話があります

仁徳天皇が生まれた時 仁徳天皇の産屋には

「木菟(ヅク=ミミヅク)」が飛び込んできました

同じ日に生まれた ヅクノスクネの産屋には

「鷦鷯(サザキ=ミソサザイ)」が飛び込んできました

それで飛び込んだ鳥の名を交換して お互いの 本名としたという話です


仁徳天皇=大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)

平群都久宿禰=木菟宿禰(つくのすくね)


謎が多いこの 鳥達の話 何が隠されているんでしょうね



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もう一つ 地名でいえば


前回 大阪古代地図に 「河内湖」がありました

この 河内湖 4世紀から 5世紀頃には「草香江」と呼ばれていたのです

「草香江」といえば 博多古図 には 同じ名前の入り海があります


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博多古図



この入り海に注ぎ込む 川を 樋井川 (ひいがわ)といいます

早良郡の郷に 毘伊(ひい) とあったのがこれでしょう

この川の上流に 柏原 という 地区が今も残っています

《 草香江 に 注ぎ込む川 の 上流に 柏原という里がある 》

これは 河内国 の話ではありません 筑前博多 の話なのです。


百舌鳥から 始まった


《 鳥 づくし の 旅 》は まだ 続きます




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信貴山 から 大和を望む









# by nonkei7332 | 2016-12-06 15:45 | 古代史 | Comments(0)


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古代の 大阪平野 河内平野の地形はこうなっていました


二つの川のデルタ地帯からできた 湿地帯でした 二つの川とは


琵琶湖を水源とする 〈淀川水系〉


奈良盆地の全域から幾つかの支流が集まり 香芝辺りで本流となり


生駒山地と金剛山脈の間を 潜り抜け


河内平野から河内湖へと注いでいた 〈大和川水系〉です


青いラインは現在の大和川 です 西に流れ 大阪湾に注いでいますが


古代は 北へ流れ 河内湖へと注いでいました



百舌鳥古墳群 と 古市古墳群 は 現在の大和川の南


河内台地と海沿いの台地付近に 造られているわけですが


築造に従事した 人々は 北へ流れる 大和川の川筋や


生駒山西麓 に集落をつくって いたと思われます




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手前 大和川 と 生駒山系南麓



八尾市に住む 次男が 柏原に用事があるというので


私も 連れていってもらいました


生駒の山麓を 左に見ながら 南に走ります


大和川が 山の間をぬって 河内に出たところが 柏原市です


奈良の 橿原市とよく間違えられるといいますが


私の関心は 柏原 の 地名の起源です


福岡背振山系の油山の山麓にある 柏原という地名がありますが


この二つの地名の共通性についてですが この件は次回にします





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さて 最初に行ったのが 「史跡高井田横穴公園」でした


公園内には 柏原市歴史資料館があります


山の斜面には 国内でも最大規模の 162基の横穴墓が点在します


6世紀中頃から 7世紀前半にかけて造られたものです


興味深いのが そのうちの 27基の横穴には


「人物」「鳥」「船」などの 「線刻壁画」が描かれています




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船 には二人の小さな人物が描かれていて


右側の人物は碇(いかり)を引き上げ


左側の人物はオールを漕いでいるみたいです


真ん中の人物は 正装みたいです 髪型は 耳の横で髪を束ねる


美豆良(みずら)( 日本の上古における貴族男性の髪型)でしょうか




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山の頂上には「高井田山古墳」が あるというので



遊歩道を 息子と孫姫 と どんぐりを拾いながら 登りました




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直径22Mの円墳です


造られたのが 5世紀末 横穴群よりも 前にできています


石積みの玄室の中から 鏡 ガラスの装飾などの 副葬品が出土しています


被葬者は 古墳築造の人々の 族長 だったのかもしれませんね




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大和川を遡り 信貴山に登る途中で 思わぬ神社に遭遇しました


青谷という集落でした


なんと 「金山彦神社」でした


生駒山の西麓や南麓 には 多くの たたら鉄製造の鍛治地があったようです


古墳築造に 欠かせないものが 鉄器でした


人々の食料を確保するための 農地開墾にも 稲作にも


鉄器による 鍬 や 鋤 は 欠かせない道具だったからです


古墳群を見下ろすように 鉱山の神 金山彦が 厳かに鎮座されていました


神紋は 五七桐 でした



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拝殿


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龍王社 と 稲荷社





金山彦神社より道なりに山上へいくと


雁多尾畑(かりんどばた)という集落があって


ここには 金山姫神社 があるということでしたが


見つけることができませんでした


もともとは 金山彦神社も 金山姫神社も 嶽山という頂上に


祀られていたものが 中世になって


今のところに移ったとされています


山道からは 大和盆地 が きれいに見えました




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奈良大和盆地






赤 : 高井田横穴群
黄色 : 金山彦神社
緑 : 金山姫神社




百舌鳥という人々を 追って 古墳群 鎮守の百舌鳥八幡宮


高井田横穴群 金山彦神社 と見てきましたが


縄文末期から 弥生時代の鉄器製造の主流は九州であったこと


鉄器や鍛治工房は 畿内には ほとんど無かった事を考えると


ある時期 九州王朝を支えてきた 金山彦を 祖神とする


鍛治工房集団が 大量に 河内に 移動してきたは間違いないようです


土師氏は 秦氏 は その後 桓武天皇の平安京遷都に


大きな役割を果たしますが 仏教が浸透するにつれ


古墳築造の時代は終わりを告げます


土師氏 秦氏 の名前は 消えて行きますが


土師氏 は 菅原氏 秋篠氏 大江氏 と名前を変えて


朝臣として 新たな時代を生きていくのでした





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# by nonkei7332 | 2016-12-04 11:25 | 古代史 | Comments(0)



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JR阪和線の 百舌鳥駅で降りました

路をはさんで 左に大仙公園 園内に 堺市博物館があります

右手には 〈百舌鳥古墳群〉の中で 最大の大きさを誇る

前方後円墳 〈大仙陵古墳〉があります


実は 被葬者は定かではないのとされています

宮内庁は 《仁徳天皇百舌鳥耳原中陵〉として 治定しています




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拝所



5世紀前半から 築造されたといわれています

10年前までは 仁徳天皇陵として 教科書に載っていたのですが

今の教科書には 仁徳天皇の名前はありません

いつ頃 できたものなのかが 考古学的に証明できないからだそうです

調査すればいいものなのに 宮内庁が 蓋をしています

立ち入り禁止です。



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陵墓としての大きさは ピラミッドや始皇帝陵よりも大きく

世界一だそうです

全長485メートル 円形部の高さ36メートル、

方形部の高さ34メ-トル 三重の濠をめぐらし

その広さは 46万4千平方メートル

築造当時の復原形状の土量は140万5866立方メートル

10トントラック27万台分に当たるそうです

2000人の人が働いても 15年はかかっただろうと言われています



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百舌鳥(もず) と呼ばれた 陵墓築造集団は

土木技術 と 鉄製造技術 を併せ持った 渡来人達でした

この大集団を動かした 力の源は 何だったのでしょうか

何のために これほどの墳墓を作らなければいけなかったのか

謎は 消されていった 歴史の影なのでしょうか

ここに(畿内) から この国の王朝が始まったと見せかけるために

後世の権力が 描いた 強大な カモフラージュ だったとも思えます



百舌鳥と呼ばれ 土師氏 と呼ばれた 人々が

かつての 大王(おおきみ)を偲んだ


哀しみと 歓びの 叫び声が

この丘のあちらこちらに 染み付いています




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百舌鳥八幡宮





陵墓から東へ二キロ程歩いたでしょうか

樹齢800年の巨大クスノキに囲まれた 鎮守の杜を見つけました

《百舌鳥八幡宮》

一万坪の広い境内は 古来 この丘に住む 墓守の民の魂が眠っています

平安後期には 京都石清水八幡宮の別宮とされています

南北朝の頃の 新葉和歌集には この宮を歌った歌がありました


《 民安く 国治まれと祈るかな 人の世よりも わが君の為 》

探勝親王








創建は 古く 6世紀の中頃とされています

八幡宮は後の世の 合祀とみていいでしょう

三霊社という名前で 古の祭神が 隠れておられました

正面鳥居のてまえの池の中に


水天宮(天御中主)が祀られていました



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その横に 弁財天(市杵島姫)が祀られています


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鳥居の横には 稲荷社も ありました


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九州王朝を 支えた 主(ぬし)の神々 です

まぎれもなく この百舌鳥野の丘は

九州王朝 最後の天皇といわれる 仁徳天皇のそばで

主(ぬし)の神々と 主の民 (百舌鳥氏・土師氏) が

寄り添うように 生きておられた 場所だったようです






# by nonkei7332 | 2016-11-30 20:18 | 古代史 | Comments(0)


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百舌鳥





〈百舌鳥〉と書いて もず と読みます

『モズが枯木で鳴いている』という 唄がありましたね

あれは唱歌だったのでしょうか 反戦歌だったのでしょうか

百舌鳥は いろんな鳥の鳴き真似をするそうです

だから 百も 舌を持ってる鳥で モズ というそうです

モズ は〈はやにえ〉という習性をもっています

捕獲した昆虫などを 枝に刺して 保存します

子供の頃 近くの藪の中で 枝に刺さった 干からびたカエルを

何度も見たことがあります あれは モズの仕業だったのです

クチバシは 鷹のようです 見た目より獰猛な鳥なのでしょう

秋も深まると 縄張りを争う モズの甲高い声が聞こえて来ます

〈モズの高鳴き〉といいます








さて 古代において 百舌鳥と呼ばれた氏族がいたというのが

今回のテーマなのです

そっくり それが 地名として残っている所があります

大阪 の泉州国 堺市です 地下鉄御堂筋線の終点 〈なかもず〉でしたね

堺市には 百舌鳥○○町という町名が今も多くあります

ここは 有名な 仁徳天皇陵 をはじめ 多くの 天皇陵を抱える

百舌鳥古墳群・古市古墳群 があります いわゆる 陵墓の町なのです

ほとんどの陵墓は 畿内(山城、大和、摂津、河内、和泉)にあります

例外は 75代の崇徳天皇陵は香川県坂出市

そして 81代の安徳天皇陵の山口県下関市 だけです

全ての 陵墓は 宮内庁管轄ですので 聖域にされています

触れてはいけないものとして 蓋をされています

封建社会でもない 民主主義の 現在でも まるで

明かされると まずい事でも あるのでしょうか

まったくの 時代錯誤 です



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仁徳天皇陵



話を 古代に戻します

途轍もないも大きさの 陵墓を作った人々がいました

百舌鳥 と呼ばれた人々でした 鳥をトーテムとした氏族です

古墳造営や葬送儀礼に関わり 土木技術を持ち 鍛治の技術をも

兼ね備えた 渡来氏族だったのです

一般には 土師氏 (はじし) と呼ばれている謎の氏族です

書記の中では 土師氏の出自は 出雲です

神話に出てくる 天穂日命(アメノホヒ)の14世である 野見宿禰 が

垂仁天皇の頃に それまで行われていた 殉死の 風習に代わる

埴輪の制を案出した功績により 土師氏 と呼ばれたとされています




出雲は九州だった


大国主も事代主も 倭国王 大幡主の下で

九州王朝を支えたという 百嶋考古学 をベースに

百舌鳥 という 氏族を追って見ます



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土師老松神社



香春町の古い史跡図に 〈百舌鳥原金山跡〉という名前がありました

香春町 田川市 飯塚市 桂川町 という 遠賀川流域には

百舌鳥氏 こと 土師氏 の里があったようです

上流の桂川町に 《土師老松神社》という神社があります

古くは 桂川一帯は 土師郷 といい この宮は〈土師宮〉と呼ばれていました

その後 土師氏の子孫とされる 菅原道真を合祀して老松神社 と名を変え

土師庄十二ヶ村の 総鎮守として隆盛を極めた 古宮です

祭神は 大国主命・大物主神・事代主命・菅原道真 です

主(ぬし)の神の勢揃いです 土師氏とは 出雲繋がりでしょうか


神社の由緒をみてみると


《 人皇11代垂仁天皇の時 出雲の國の造 野見宿禰が 埴輪を造りて 

殉死の者の代わりにしたという功を賞して 土師臣の姓を賜い 

又諸国に於て鍛地(かじち)を賜うや 当庄をも其の一つに加え

宿禰に与えられた されば出雲より 土師連来たりて当庄を住み

出雲杵築の大社に鎮座の大国主命(大己貴命)を神代の時 

暫くこの地に 勧請して 土師宮と称し齊き祀る 

これ当社の始まりなりと。》




土師氏の祖である 〈野見宿禰〉を追いかけて見ます

垂仁天皇の頃 埴輪の神 相撲の神 として 称えられていますが

古事記には 天穂日命の子は 武夷鳥命(たけひなどり)だと書かれています

この 武夷鳥命(たけひなどり) こそが 野見宿禰 なのです


百嶋説では アメノホヒ は 豊玉彦(ヤタガラス) だとしますので


豊玉彦(ヤタガラス) → 野見宿禰(タケヒナドリ) → 土師氏(モズ)


よく見ると ひとつのトーテムで 繋がっているのがわかります

それは 鳥(とり) です


八咫烏(ヤタガラス) → 武夷鳥(タケヒナドリ) → 百舌鳥(モズ)


百舌鳥と呼ばれた人々は

主(ぬし)の血を引く 豊玉彦の手足となって

九州王朝を支える 技術者集団 だったのでした

やがて 九州王朝が滅び 畿内へと 権力が移っていきます

百舌鳥と呼ばれた人々の苦悩がここから始まったようです



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私 は 明日 泉州に行きます

ちょっと 寒くなってきました






# by nonkei7332 | 2016-11-23 17:58 | 古代史 | Comments(0)