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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて



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深まる 午後のひととき



大好きな 筥崎宮花庭園 歩きました



この季節は 牡丹 紫陽花 などの 派手な 花々はありませんが



ひっそりと咲く 可愛い 草花に



わたしの 足は すっかり くぎずけ にされてしまいました




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ホトトギス (杜鵑草)




鳥の ホトトギス の胸の模様が 似ていることから



この名前がつけられました



庭園の中で 三種類の 杜鵑草 を見つけました



白い 杜鵑草 初めての出逢いです





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大文字草 (だいもんじそう)




花の形が の文字に似ているんです



それにしても なんと 可憐な花 なんでしょう







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紫式部 (むらさきしきぶ)




紫色の実をびっしり付けることで



「紫敷き実」と呼ばれていたのですが



いつの間にか 『紫式部』と呼ばれたそうですね





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雪晃木 (せっこうぼく)




別名を 白玉瓢箪木 (しらたまひょうたんぼく〉といいます



白玉のような です



どんな だったんでしょうか





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霜柱 (しもばしら)




別名を 雪寄草 (ゆきよせそう) いいます




不思議な 名前 の 白い花 です







# by nonkei7332 | 2017-10-12 08:00 | | Comments(0)


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明治時代の地図 と 博多灯台



村上義太郎 手がけた事業は



世間を あっと言わせた 仕事ばかりでした




明治133



甘木の富豪 佐野弥平 と組んで 海軍輸送船



「 高 尾 丸 」



政府参議 大隈重信 の斡旋で 買い取り



東京 博多間 海運業 を始めました



博多湾に浮かぶ 蒸気船 から運ばれてくる 新時代の文明を



博多人は誇らしく思ったことでしょう




驚きの ひとつ 「 博 多 灯 台 」です



海運の仕事を通して 博多の港の不備については 誰よりも



義太郎には 解っていました



明治1612 下対馬小路下の波打ち際に



高さ12m 六角木造の灯台を 私財 7千円 を投じて 建てたのでした



灯火は 晴れた夜で 18.5キロ先からでも 見えたと言われています



ところが 翌年から 船舶に入港税を徴収する 県令が出されると



港関係者だけでなく 各方面からの反対運動が拡がり



とうとう 明治236月には 村上の私設灯台は



博多財産区会という 公共団体に譲渡されてしまいます



さらに 同年11月には 全国で 私設灯台の許可が取り消される事となり



博多灯台 永遠にその姿を消したといいます



反射鏡は グラバー商会から購入した フランス製の物でしたが



撤去後 櫛田神社に奉納され そのレプリカが



現在 福岡市博物館に保存されているそうです





灯り と言えば 街路灯 ですが



明治30年に 博多では 博多電灯会社が開業し



本格的な 電灯が 付設されたのですが



さかのぼること 明治25年ごろ



義太郎 博多で 「 ガ ス 灯 」の 会社も 立ち上げています



商家 軒先 を照らす 提灯 ガス灯 変わり



博多の町を 一挙に明るくしたのも 義太郎 だったようです




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今津湾






村上義太郎 語る上で 欠かせない 大事業に



「 今 津 湾 大 築 港 計 画 」があります



ヒントは 西南戦争の折の 荷揚げにあったと言われていますが



今津湾を 九州最大の 石炭輸出港にするのみならず



糸島の船越から 飯塚まで繋ぐ「船越鉄道計画」に乗じて



早良 糸島 両郡に 300万坪の 土地を準備し 博多に隣接する



商工都市をつくるという 壮大な計画でした



計画が 発表されるやいなや 博多の実業家からの



猛反対運動もおこりますが 義太郎



『博多を東京とするなら 今津大築港は さしずめ 横浜港だ』



そう 言って 反対者を説得して回ったといいます



海運 陸運 鉄道 港湾 それらの 多くの 技術専門家を 抱えて



研究の為の 資金 提供していたようです



全ての 私財を投じる つもりでいた 最後の事業でしたが



日清戦争後の恐慌で 船越鉄道 その後できた 九州鉄道 に併合され



計画は 変更され 博多 飯塚間の 飯塚線(現在の福北ゆたか線)



敷設に留まった のを 契機に 「今津湾大築港計画」も



それ以上 進むことは なかったようです




大正11430



『今津湾の築港を完成せよ』との遺言を遺し



《博多の怪商村上義太郎 亡くなります



享年 75 でした






《参考資料》

博多風土記 (小田部博美 著)

博多港の歩み (福岡市 編)




# by nonkei7332 | 2017-10-11 16:59 | 博多 | Comments(0)


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戊辰戦争





戊辰戦争に 出征した 村上義太郎



江戸に着くと 木更津 待機します



上野の戦争が始まったと聞き 急ぎ駆けつけるも



時すでに遅く 戦闘は終り 彰義隊も潰滅した後だったのでした



この時 義太郎 将来を決する貴重なヒントを得ます それは



戦時における 迅速な軍備弾薬の輸送がいかに大事かということでした




福岡の文武館に戻ると 藩の参事となった 月形から 藩公からの指示で



大阪教導団に出頭を命ぜられます



教導団 とは 後の 陸軍士官学校 の事で



各藩から 数名の候補を集めてられていたのでした



天にも登る 義太郎の中で あの 海賊大将 の夢がもたげてきます



その大阪で またしても 大きな転機が訪れます



なんと 大阪教導団が東京教導団に 合併されていたのでした



同行した 団員は 福岡に帰ってしまいますが



義太郎は 決断を強いられます



東京へ行くかどうか 迷ってしまいました






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早川 勇



そんな頃 義太郎 一人の 男と出会います



かつて 討幕勤皇の志士であり 薩長同盟の基礎づくりに奔走した



遠賀郡出身の 早川 でした



早川は 義太郎の話を聞き 一冊の本を 彼に読ませます



それは 福沢諭吉の書いた 「西洋事情」でした



早川は 海賊大将の夢を ことごとく 喝破し



文明開化 これからの世は 剣や大砲ではない



武士を捨て その志を 商工業 に尽くせと とくとくと 語ったのでした



早川 後年 奈良府判事や元老院大書記官を勤め



晩年は郷土宗像の育英事業に専念しました






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大八車




自分に 何ができるか 義太郎は 考えました



戊辰の時 物を運ぶ 事がいかに大事かと知らされた事を思い出し



運送事業を興す そう決めると 義太郎は すぐに 行動に移しました



当時の輸送手段といえば 大八車 でした 大八車を操る人を車力といい



大阪には 「車力組」と呼ばれる組織がありました



義太郎は さっそく 元締めを 訪ね 自分で車力をやりながら 研究を重ね



車力の製造法を取得するまでになったのでした





義太郎は 福岡へ戻ります



当時の福博の輸送手段は 馬方が主力でした



そこに 義太郎は 「車力組」を立ち上げます



先ずは 博多の 車力製造に地元の技術者を説き伏せます



それから 失業武士の息子達で その力を持て余している男達を



一人一人 車力運送事業の将来を語り 12名の仲間を集めました



車力の製造資金は 車力一台ごとの出資金25円を一株として出資させ



共同で事務所を出し 自ら 棟梁となって 営業に走りました



やがて 博多の町に 威勢のいい男達が 町中に闊歩していきます



士族青年の車力組の評判は 博多だけに留まらず 甘木 鳥栖 久留米



柳川からも 遠距離輸送の仕事の依頼が多くなり



平民からの 出資参加者も増えて 大成功をおさめます



途中 馬方との軋轢も起こりますが 勢いは止められず



事務所に「萬物運輸所」という 看板を掲げ



村上義太郎 の名前は 新進気鋭の若手事業家として 福博の町に



知られることになったのでした





黒田藩は 「御銀主」と呼ばれる三人の商人が 金融調達を務めていました



奥堂町の酒造家 堺宗平 ・中島町の米屋 熊谷又七・蔵本町の油屋 太田清蔵



博多の商傑 と呼ばれた人達です



廃藩により 藩への用立金 数万両の損害を被ったといわれています



藩庁はその見返りとして 「商会」と呼ばれる 内港の権利を



三人に譲渡しました ところが 誰がやっても 経営が思うようにいきません



そこで 三人が 白羽の矢を立てたのが 村上義太郎 でした



港湾の一切の権利を 期限なしの権利金を払う という条件で



「商会」は 義太郎の物になったのでした



船便の荷下ろし 積荷 配送 総合運輸業として 「商会」は大繁盛します



この時 義太郎 30歳。






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西南の役 田原坂の戦い





明治10 義太郎にとって 人生最大のチャンスが訪れます



西郷隆盛が新政府に反旗を打ち上げた 西南戦争が勃発します



官軍は 御用船で 弾薬 食糧 機材を 博多港 に何十隻と運びます



運ばれた貨物は 「商会」の手で 陸揚げされ 「車力組」で 昼夜の別なく



熊本へと運ばれていったのです



田原坂の激戦の中 数日 風雨が続き 弾薬が陸揚げされずにいると



義太郎は 急遽 御用船を 糸島の今津湾に運びます



今津から 陸揚げされた 弾薬で 官軍は 田原坂の激戦を勝利したといいます



義太郎を幼年育てた 月形 この頃 警察の巡査隊長として



反乱軍の鎮圧に 従事していたことも 追い風だったのでしょうか



西南戦争 義太郎 莫大な財産を築きました



明治13 「商会」の権利を 突然 十七銀行の斡旋で 糸島加布里の船問屋



「東屋」に 売却します 遠浅の博多港 将来を見据えての 決断でしたが



売却益も計算の上でした





生涯 使い切れないほどの 莫大な財産を持った 義太郎が



いよいよ 最後の 事業にとりかかります



それは 誰もが びっくりする 大事業だったのでした。






続く





# by nonkei7332 | 2017-10-09 15:30 | 博多 | Comments(0)



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村上義太郎 愛車の前で



明治維新は 6000人もいた 黒田藩士にとって



多難の時代の始まりでした



福岡を離れ 帰郷して 鍬を持った者



福岡に残って 慣れない町人の手仕事から 生業を始めた 藩士など



文明開化の流れは



そこに 多くのドラマを生みだしていったのでした




『海賊と呼ばれた男』で 一躍 有名になった 出光の創業者



出光佐三 宗像市赤間の 藍玉問屋の息子でしたが



士族ではありません




福岡には 幕末 の動乱 に乗じて 旧藩士の子弟で



多くの事業を興し やがて 大富豪となり



近年の 福岡の礎を 作ったとされる 一人の人物がいました



〈博多の怪商〉と言われた その



名前を といいます



海賊大将になりたかった男



でも 言っておきましょうか



波乱万丈の 壮絶な 一生を送りながらも



福岡でも あまり 知られてないのが不思議なくらいです





嘉永元年(1848年) 戊申 113



薬院に住む 貧しい 修験道者(山伏) の家に 男の子が産まれます



申年生まれだったので 母親から いつも



「お前は太閤さんの生まれ変わりだ」と いつも言われていました



先祖で海賊大将と呼ばれた 村上水軍の祖 〈村上義弘〉の事を



いつも聞かされ いつか 自分も 海賊大将 になるんだと



夢みていたといいます




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因島水軍まつり





この一家の先祖は



因島に拠点を持つ 因島村上水軍と呼ばれる 武士で



播州に住んでいました



その後 播州出身の 黒田如水 とりたてられ



天正15年の 秀吉九州征伐の時 には 黒田水軍の 参謀をつとめたといいます



豊後の戦いで 島津軍敗退につながる 戦功をあげたので



以来 代々 黒田家の功臣 として 仕えたのでした



ところが 世の中は 無情なもので この一家にまさかの 不幸が訪れます



黒田家 島津家 姻戚関係 ができたのでした



かつて 島津軍を痛め付けた 張本人 である 村上家



黒田の要職から外され とうとう 藩士 からも追われてしまいます



武士を捨てた 村上家は



その頃 武士の次に勢力を持っていた 修験道者 となったのでした



修験者として 権勢をふるうまで のし上がった一家でしたが



世の中は どこまでも 儚いものです やがて 明治になって



修験道廃止令 下され 一家は どん底に落とされます




そんな 一家の中で 義太郎少年は 育っていました



修験者の毎日は 法螺貝を吹きながら



鈴を鳴らして 家々の 軒先きに立つのですが



義太郎 そんな乞食坊主にはなりたくないと 言い張り



とうとう 親からも 勘当されてしまいます



時は 万延元年(1860年)



この年 江戸では 桜田門外の変 おこりました



義太郎 12 の時でした




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月形 潔





元はといえば 村上家は 黒田藩の功臣



話を聞いた 黒田藩士 月形潔は 黒田藩主11代黒田長溥 の作った



藩校文武館 雑用係として 義太郎を 住み込ませ



子弟達と共に学ばせたといいます



文武館は 明治4年に 藩校修猷館と合併されています



文武館時代の同期には 後の伯爵 金子堅太郎 安川財閥の 安川敬一郎



がいて 安川とは とくに仲が良かったと言います



藩士 月形潔 その後 新政府の官僚となり



後年 内乱反乱者の収容所としての 北海道に作られた



刑務所の初代所長として 収容者と共に 北海道開拓に従事します



現在の 樺戸郡月形町 の町名は 月形潔 の姓が付けられたそうです




世相は 勤皇へと 流れ



村上義太郎 黒田藩隊士として 戊辰戦争で 江戸に出征します



そして 明治維新



この時 義太郎 21 でした





続く






# by nonkei7332 | 2017-10-09 01:30 | 博多 | Comments(0)

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有明の月の海 宮地浜
〈 空 そら sora 〉さんの ブログより




せっかくの 月見の季節なのに



博多の町は 秋雨 降ります



なんだか 一雨ごとに 寒くなりそうです




月齢 基礎 です



新月から始まり 満ちて 満月となり やがて 欠けていって



新月 に戻ると 1ヶ月 です



今日は 新月から 12番目の です



15番目 満月ですので 106日(金) まんまるお月さんです



一年の中で 一番 月がきれいだとされる日を〈中秋の名月〉といいます



一般に 〈十五夜お月さん〉と呼ばれていますが



だったら 6日の満月の日が その日だと思ってしまいそうですね



実は 旧暦の815 の事を 十五夜 と言いますので



今年は 104日(木) 中秋の名月 なんです



二番目に きれいなお月さんは 〈十三夜〉と言われています



旧暦の913 のことです 今年は 111日(水) です




月の名前は 毎日変わります 誰が付けたんでしょうね



三日月 上弦の月 など 月齢や が名前になったものがありますが



満月 からあとの 陰暦の 16日以後になると



夜が明けてからも まだ 西の空には 月が残っています



そんな 月を 有明の月 といいます





16日目



十六夜と書いて 〈いざよい〉と呼びます



いざよう とは ためらう 躊躇するという意味です



十五夜よりしばらく遅れて 月は 上る事から



月がためらっているように 見えたからでしょうか



17日目



立待月 (たちまちづき) と言います



日が沈んで 立ちながら待っていたら そんなにくたびれないうちに



月が上ってくるから そう 呼ばれています




18日目



居待月 (いまちづき) と言います



月の出を 立って待っていたら くたびれたので



座って待ったから そう呼ばれました




19日目



寝待月 (ねまちづき) と言います



月がなかなか出て来ないので その名の通り



寝ころんで 待ったから そう呼ばれました



20日目



更待月 (ふけまちづき)といいます



この頃になると 10時位になって やっと 月が上ります



夜がふけてようやく上ってくるので こう 呼ばれました





今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな


百人一首21 素性法師



: 『今から行くから』そう言ってくれた 貴方を



ずっと待っていたのに 貴方は来てくれません



九月の 有明の月 待つ事になってしまいました






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頑張って 萩餅 (おはぎ) を作りました



なのに お月様 は 出てくれません



天気予報 が 恨めしい 毎日です







# by nonkei7332 | 2017-10-03 14:54 | | Comments(0)