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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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先週 の 土曜日 1月28日 が 旧暦の 正月でした


太陽暦 を使い始めたのが 明治6年からですから

今の暦は まだ 150年しか たってないんですね

立春(2月4日) を 新年の始まりという 暦の読み方もあります

一年を24に分けた 二十四節季 の 一番目です

季節の始まり〈立春〉〈立夏〉〈立秋〉〈立冬〉があって

その前日を 暦では 節分といいます

本来節分は 年に 4回あるものなんですが

今は 立春の前日だけが 節分とされています




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さて 今年は 酉年 です

日本では

十干 (甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と

十二支 (子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥) を

組み合わせた 《干支》(かんし) という こよみの読み方があります

今年は 丁(ひのと) と 酉(とり) の組み合わせで


丁酉 (ひのと・とり) といいます

干支 は 60年サイクルですので 前回の丁酉の年は 60年前


過去の 丁酉(ひのととり) の 出来事を


私のルーツ を 絡めて 追いかけて見ました





《 1957年 昭和32年 》

私が 5才 の時です

日本で初めて コカコーラ が売られた年です


この頃 うどんが 一杯 20円でした




《 1897年 明治30年(120年前) 》

赤痢が大流行し 東京での死者が2000人を越えた

博多の町では 聖福寺境内で県下初の活動写真が公開された

博多電灯会社が開業し 福岡市内に電灯がともる



小堀家 12代 小堀甚三

この頃 姪浜住吉神社の絵馬 山笠図を描く



《 1837年 天保8年 (180年前) 》

江戸時代 12代将軍 徳川家慶 の頃

元大坂東町奉行所与力の大塩平八郎らが幕政に抗議して

〈大塩平八郎の乱〉を起こす


小堀家 10代 小堀甚次

博多津中からの願い出により

黒田藩から 山笠人形 永代を仰せつけらる


《 1597年 慶長2年 (420年前) 》

安土桃山時代 豊臣秀吉 慶長の役 (二度目の朝鮮出兵) を おこす

翌年秀吉が逝去 すると 戦乱は一気に 収束する

時代は 1600年の関ヶ原の戦い に向けて動きだす




《 1477年 文明8年 (540年前) 》

室町時代 応仁の乱が 終わる

11年に及ぶ大乱の幕を降ろしたが 京都は灰塵と化し 廃墟となった


小堀家 襲名2代 小堀善左衛門

博多の町 戦火により 焼け出され 唐津に居を移す

その後 大内家 (24代政弘) の 招きに応じ 再び博多に戻る



《 1417年 応永24年 (600年前) 》

室町幕府 5代将軍 足利義持 の時代


小堀家 初代小堀善左衛門正直(博多山笠人形始祖)

1437年 永享9年 京都より 博多に下向し

櫛田宮 境内に居を構え 山笠人形を作る

正直については 古文書によれば 若き人形師 と書かれているだけで

幾つであったという記述はない

もしも 博多に来たのが 20歳 の時であれば

1417年 の 生まれとなる

とすれば 今年は

《 小堀善左衛門正直 生誕600年 》

生誕祭 を やらなくては !?







by nonkei7332 | 2017-01-30 17:39 | 日記 | Comments(0)


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福寿草




遊ぶものは神である。

神のみが、遊ぶことができた。

遊は絶対の自由と、ゆたかな想像の世界である。

それは神の世界に外ならない。

この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。

神とともにというよりも、神によりてというべきかもしれない。

祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序をこえた狂気とは、

神に近づき、神とともにあることの証しであり、

またその限られた場における祭祀者の特権である


遊とは動くことである。

常には 動かざるものが 動くときに、

はじめて遊は意味的な行為となる。

動かざるものは神である。


白川静著『文字逍遙』より




久しぶりの 雨の朝になった

遊び心を 雪にまで 凍らせてくれるのなら

子供達の目覚めは もっと 神に近づいただろうに

微睡みの中で 香り強き 蕗の芽は 土に潜り

時雨の 浜では 男達の 千垢離 の白装束に

祈りは 熱く凍りついていく

〈動かざるものは 神 なのか〉

今朝の儀式に


一月の空は あまりにも 闇すぎるのだ

昨日までの あの 煌びやかな

〈かそのあかとき〉も 〈たそのくれとき〉も

白き神 の降臨を 寿ぐ 予感だと信じていたのは

私一人 だけだったのだろうか

睦月 の 空に

《動かざるものは 神なのか》










一月に写した空を (You Tube) に 集めてみました
Music
〈The Shadow of Your Smile〉
By : Kenny・G







by nonkei7332 | 2017-01-20 10:18 | 日記 | Comments(0)


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この冬 一番の寒気だといいます

穏やかな 年明けだったんですけどね

毎朝 子供達の 交通誘導 のボランティアを始めて

四度目の冬を迎えています

夏の暑さと 冬の寒さ どちらが辛いかといえば やはり 冬です

風の強い 氷点下の路上に 一時間も立ち尽くすと 骨の髄まで 凍ります

そんな日は 戻ってから 沸かしておいた 風呂にユックリ 浸かります


辛い事もありますが

ここまで 続けてこれた訳は 150人の笑顔です

毎朝 およそ150名の人達に

「おはようございます」と 大きな声で 朝の挨拶をします

小学生 幼稚園児 が 120人 あとは 通勤でお会いする 地域の人たち30人

最初は 返事なしの一方通行も多かったのですが

今では 笑顔付きの 返事が返ってきます

子供達も 4年間も 毎朝みているので

その変化や 成長ぶりがよくわかります

気がついたことは 先生達とも情報は共有します

子供達の名前を ほぼ 全員知っている事は

私の 微かな 誇りでもあります



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嬉しいことに 去年の夏に立ち上げた

子供達の居場所作りの ボランティアも

半年経って 地域の皆さんの協力で 軌道に乗りました



今朝 校長先生から

『 26日は 4年生の 《1/2 成人式》なので 』


と 誘いをうけました

今の 4年生は 1年生の頃から知っている子供達なので

私 にとっても 思い入れも 強い子供達ばかりです

どんな 顔をして この日を迎えるのか 今から楽しみです

この子達 が いてくれたから


今の元気な私がいると言っても 過言ではありません

10歳 の この子達が 20歳の成人式を迎えるまでは

私も この場所に立っていたいと 密かに 思っています



《1/2の成人式》その日 10才になった 君たちに

私は 心の中で こう 伝えます


『 65歳 の ありがとう 』











by nonkei7332 | 2017-01-11 20:17 | 日記 | Comments(2)


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西鉄電車 《旅人》




大伴旅人(たびと)は

天平二年(730)正月

大宰府の帥邸において梅花宴を催しました



梅雪(ばいせつ)残岸(ざんがん)に乱れ

煙霞(えんか)早春(さうしゆん)に接す



《雪のように白い梅の花びらが切り立った岸壁に乱れ散り》

《霞が早春の空にたなびいている》


「初春侍宴」

大伴旅人

『懐風藻』より



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早咲き の 白梅



今年 始めて の 太宰府です

去年の最後が 太宰府の 〈入穴神社〉 でした

今年の最初は 観世音寺 の鎮守 〈日吉神社〉(ひえじんじゃ) です



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日吉神社 扁額




日吉神社 は 観世音寺の鎮守であり

地元では ひよし神社と呼ばれています

鳥居の扁額は 〈山王宮〉になっています

六十六段の急な階段を登ると 本殿

神社誌によれば 創建は 朱鳥大宝年間(686〜703年) とされ

平安時代に 比叡山の日吉大社を分霊したと言われています

とすると 旅人 は ここに 登った事があるのでしょうか



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日吉神社




江戸時代の地誌によると〈豊臣秀吉〉が九州下向の折

この神社に陣を張ったが 時の観世音寺の別当は世情に疎く

秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て

秀吉の怒りをかい 寺領を没収されたと伝えられています

承応元年(1652年) 領主が再興しました

祭神 は 大山咋神 と 大己貴命(大国主命)

日吉神社は山王社とも呼ばれ 観世音寺の守護神とされています



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旭地蔵尊






日吉神社 から 天満宮方面へと 小径を歩いていくと

坂の途中に 旭地蔵尊 があります

この堂 は 〈横岳山崇福寺〉を創建した

湛慧(たんね)禅師の墓と伝えられています

『筑前国続風土記』によれば


「 この地谷間にありて いと 閑寂なる境区なり。

湛慧の墓は 横岳 に行く道の傍にあり、此所入定の地なる故に

石塔を立てそのしるしとする。」とあります


伝承では禅師が正月に観世音寺の前を通りかかった時、

正月最初に門前を通った者を鬼とする 追儺(ついな)があった為

追儺 : (後世 節分となった神事)

捕えられて追儺の鬼にされたそうです

禅師は これを恥じて 後年この地に穴を掘って籠もり

入定したと言われています

土地の人々は手厚くここに葬り石塔を建てて供養し

後に地蔵を祀り 山の名前 朝日山にちなみ朝日 又は日の出の旭をとり

〈旭地蔵〉として、信仰厚く現在に至っています




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崇福寺別院






仁治元年(1240)に

湛慧禅師によって.ここに 創建された 横岳山崇福寺 は

文永9年(1272) 大応国師によって 崇福寺別院として 開山されてから

中世 影響力のある 寺院として 往時には 隆盛を極めましたが

天正14年(1586)の島津氏と大友氏との 岩屋城の合戦によって焼失し

その後・慶長5年(1600)に 福岡藩初代藩主黒田長政 によって

福岡市博多区千代 に移設 再建がなされ 黒田家の菩提寺となって

大きく発展し 今日に 至っています




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崇福寺 朝日地蔵堂





千代の崇福寺 山門横にある 〈朝日地蔵〉何度も見たことがあるのに

太宰府 白川の〈旭地蔵〉が 本家本元 だなんて


知る由もなかった



今年も 知る由もなかった事を


たくさん 探しに行くんでしょうね


旅人の 夢 は 果てしのない 旅です






黄 : 日吉神社
緑 : 旭地蔵尊
赤 : 崇福寺別院



by nonkei7332 | 2017-01-10 21:40 | 菅公・太宰府 | Comments(2)


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七草粥




年末年始 には 多くの しきたり と言われる

日本古来の 風習が 残っています

注連縄・門松 ・おせち・屠蘇・鏡餅・七草 などなど

しかし 悲しいかな 人々の 生活様式の変化によって

そんな しきたり が ひとつずつ なくなって来ているのも事実なのです

お節料理 や 雑煮が終わると 七草粥を食べたものでしたが

「おせちもいいけどカレーもね」という たった一つのTVCM で

七草のしきたりは 消え去りつつあります



七草の起源を たどると

日本では 古来から年の初めに


野に出て芽を出し始めた草を摘み取る「若菜摘み」が行われていました


この風習に 中国から伝わった「七種菜羹」(ななしゅのさいかん)

旧暦1月7日の日に七種類の野菜を入れた


羹(あつもの)(熱く煮た吸い物)を食べて

無病を祈る習慣が結び付き


「七草粥」を食べて邪気を祓い

一年の無病息災と五穀豊穣を祈るとされる

「七草」の風習ができたと言われています



春の七草 は

芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)

仏の座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)ですが



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芹の花




今日は 芹(せり) の話をしましょう


《 なにとなく 芹ときくこそ あわれなれ 摘みけん人の心知られて 》

《 西 行 》の 「山家集」にある 歌です



芹を摘んだ人の気持ちがわかるから 芹と聞いただけで 哀しくなる

という 歌なんですが 現代人には 何のことかよくわかりません

この歌を理解するには ひとつの 物語の存在を知らなければなりません


平安時代後期の 官人であり 歌人でもあった

「 源 俊 頼 」の歌論集 『俊頼髄脳』に書かれている故事です


昔。宮廷に庭の清掃を役目とする身分の低い男がいました。

ある日、宮廷の奥御殿の庭で仕事をしていたら 突然つむじ風が吹いて

御殿に掛けられていた御簾(みす)を吹き上げました。

御殿の中では皇后様がお食事をなさっていて

芹などの野菜を食べておられるところでした。

御簾の吹き上げられていた時間はほんのわずかでしたが

男は皇后様のお顔お姿をはじめて見て その輝くばかりの美しさ

神々しさに魅了されてしまいました。

その後 男はなんとかもう一度皇后様のお顔を見たいと思いましたが

御簾が吹き上げられることもなく お顔は見られませんでした。

それで 皇后様がセリを食べておられたことを思い出して

毎日セリを摘んできて御殿の御簾の近くに置きました。

しかし何年たっても望みの叶う日は来ませんでした。

皇后様への思慕の情が募って男はとうとう病気になりました。

男は 苦しい息の下から 娘を呼んでいうには

『私の病は 皇后様への思いが募り 物思いが高じて死ぬのだ

不憫に思うのであれば 功徳のために 芹を摘んで 欲しい』

と言い残して亡くなりました。

娘は芹を摘んでは仏前に供え 僧たちにも食べさせていました。

その後 この男の娘は身分の低い女官として宮仕えをしました。

この話を同僚たちにしたのが皇后様のお耳に入り

皇后様は哀れに思われてこの女官を召し出し

『私も 芹を食べている時 御簾が舞い上がって 庭の者に見られた事を

覚えていますよ』と話され

その後も娘を常に側に召されて目をかけられるようになりました。


《芹を摘む》の話は

後世「枕草子」や 世阿弥の「綾太鼓」にも書かれ

いつの間にか 物事が叶わぬ 悲恋の話になっていったようです




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待賢門院璋子
(たいけんもんいんたまこ)






さて 話を戻しますと

西行 が どんな想いでこの歌を歌ったのか なのですが

この庭掃きが 恋した相手は 皇后という 好きになってはいけない

やんごとなき相手だったということ です そして

西行 が 生涯想いを寄せた相手も 17歳も年上の 白河法皇の寵妃であり

鳥羽天皇の中宮 で 崇徳・後白河両天皇の母であった

藤原璋子 こと 《待賢門院璋子》という

やんごとなき 相手だったからです

西行 が 出家した理由が 璋子との 一夜の契りを

『あこぎの浦ぞ』と戒められた 失恋であったとの説があります

芹を摘む人の心を 自分の心象として 告白した歌だったのでしょうか



暖かな 穏やかな 正月三が日も過ぎ

七日は 七草 太宰府では 鬼すべの神事 です

この暖かさに 飛梅が 大晦日に20年ぶりに 開花したといいます

今年の春は 早いのでしょうか


《 春ごとの 花に心をなぐさめて 六十路 あまりの年を経にける 》

西行








by nonkei7332 | 2017-01-04 13:57 | 日記 | Comments(2)