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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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八代市 鏡町にある 印鑰神社 に行ってきました

印鑰(いんにゃく) という名前は

この地に 八代郡司という役所があって

朝廷から渡された 印 と 租米が集められる倉の 鑰(かぎ) が

神社に納めてあったからだといわれています


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創建は 建久九年(1198年)

肥後の国球磨の地頭 相良三郎名頼 が 弟の八郎為頼に

八代の北三里「鏡ヶ池」の近くに神社を造営させたとされます

祭神は 蘇我石川宿禰

武内宿禰 の 第三子 です 蘇我氏の祖です

第一子の 波多八代宿禰 も 名前からして 八代の領主だったのでしょうか

仲哀天皇のころ 筑紫凶徒を鎮めるために この地に下向し

この地で 亡くなったと 神社の由緒に書かれていました

巨きなクスノキが境内にそびえ立っています

古代はこの辺りの 鎮守の杜だったのでしょう


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神社に側に 八代郡倉跡 の案内文がありました

地名に 条里制の面影が残っています

まるで ここに かつて 王朝があったのごとき内容です

驚きは 「小早川文書」に 徳渕津に 正倉院 があったとの一文です

( 現在残っているのは 東大寺の正倉院だけが 唯一だと思われがちですが

当時は各地に幾つかあったようです)

〈徳渕津〉とは 球磨川の河口支流 前川付近にある 古代から 発展し

大陸貿易の拠点となっていた 港 なのですが 中世には

〈博多津〉とともに 朝鮮遣使 や 渡明船 の 拠点港だったようです

天文14年(1545)には 勅使として 大内義隆 もこの地を訪れています


徳渕 には 有名な 『河童渡来の碑』があります



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「本朝俗諺志」という江戸時代の書物に こんなに書かれています

『 中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て

球磨川に住み着くようになった その後 一族は繁栄して

その数九千匹になったので その頭領を九千坊と呼ぶようになった

その河童どものいたずらが激しく人々をこまらせた

加藤清正はこれを怒り 九州中の猿に命令してこれを攻めさせた

これには河童も降参して 久留米の有馬公の許しを得て

筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった 』


河童 は 古代中国 魏呉蜀の三国時代に 呉から渡ってきた 渡来人

その 渡来地が八代だったようです

そもそも 八代という地名の由来は いくつかあるようですが

『 海からの 神迎えの信仰 が盛んな土地で

巫女が火を焚き常世の国から


神様を迎える儀式が真夜中に行われていた

この神々が往還するところに「社」があり

この「やしろ」から「八代」となった 』

と言われています



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鏡が池




話は戻って 印鑰神社 には 春の大祭(4月7日) に

『 鮒取り神事 』が今も行われています

神社由緒には

『 蘇我石川宿禰が 凶徒平定の為この地に来られた時

悪天候で海が荒れ魚が捕れず地元の若者が「鏡ヶ池」に飛び込み

鮒を献上し石川宿禰をもてなしたと言う故事にならい毎年4月7日

褌一つの若者が池に飛び込み手づかみに鮒を捕り御神前に供え

見物人にも投げ上げる行事は今日も賑わいを伝え継いでいる 』

と書いてありました





私の長男は この地に縁があって この神事にも 何度も参加したようです

動画をよく見ましたが 彼の姿は見つかりませんでした




〈 蘇我氏 と 熊襲 〉〈 河童伝説 と 水天宮 〉

興味は尽きない 八代 ですね

次回は いよいよ 〈 八代妙見宮 と 妙見の謎 〉です







by nonkei7332 | 2016-07-28 12:30 | 古代史 | Comments(0)

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学校が 夏休みになりました

朝も ユックリ 遅くまで 寝ることもできるのでしょうが

習慣とは 恐ろしいもので 毎朝 5:30 になると

きっかりと 眼が覚めてしまいます

iPad を のぞくと 今日の予定は

19:00 からの 友人との呑み事 が一件だけで

夜まで ノンビリできるかなとと思うのですが

そうはいかないようで

予定表には載っていない 所用・雑務・雑用 が

かなり 溜まっていることに 気になります


一昨日行った ボランティア講習会の整理。

来週の 校区の夏祭りで配る 風鈴の箱詰め。

図書館から借りてきた まだ目を通していない本が 4冊。

テレビの録画に溜まりきった 韓流ドラマ。

公民館の花壇の水遣り。

そして 気になっている暑中見舞いの返事。


期限があるものから ひとつひとつ こなすしか無いようです

《 雑務を 手を抜かず きっちりやりこなさないと 運が逃げる 》

と いう言葉を聞いた事があります 至言ですよね

アイスコーヒーをがぶりと飲んで まずは 公民館でしょうか


さて 暑中見舞い の事ですが 立秋(8月7日)を過ぎると

残暑見舞いになるという事は知っているので

できれば 今週中には 終えたいとは思っているのですが

今年は 筆頭の挨拶言葉に 《 三伏の候 》を使ってみました

普段使う《 暑中見舞い申し上げます 》では 飽きた訳ではないですが



「三伏」とは

中国古代の陰陽五行説から生まれた暦日の呼び名です

「初伏」「中伏」「末伏」を合わせて「三伏」といいます

夏至の後 3回目の 庚(かのえ)の日を「初伏」

4回目の 庚の日を「中伏」

立秋の後 最初の庚の日を「末伏」とされています

ちなみに 今年の暦だとでいうと

初伏:7月17日・中伏:7月27日・末伏:8月16日

つまり 一年の中で 最も 暑い日々が 「三伏の候」といわれ

昔から 時候の挨拶言葉として よく使われていたようです



「五行説」とは 木・火・土・金・水 のことです

紀元前 古代中国におこった 自然哲学で

万物は五つの元素から成り立っているという 説です


その後 この他に


十干(甲乙丙丁…)・十二支(子丑寅卯…)などの 干支(えと) が加わって


「 陰陽五行説 」が出来上がったようです


一般には 暦 は 日本には 仏教と一緒に伝わったというのが 通説ですが


もっと以前から 存在したのかもしれません


五行説 は 星の名前 や 季節 や 方角 や 色 なども 表しています


季節 : 木(春)・火(夏)・土(土用)・金(秋)・水(冬)

方角 : 木(東)・火(南)・土(中央)・金(西)・水(北)

色彩 : 木(青)・火(朱)・土(黄色)・金(白)・水(黒)


「青春」とか 「白秋」などいう呼び方はここからきています



さて 三伏 についてですが 庚(かのえ)の日をいいますが

庚(金の兄)は 季節で言えば 秋に属します

夏の 火の気 が強く

秋の気配を 伏せられてしまうほどの暑さという意味で

「伏」 という字があてられたのでしょうか

「土用の丑の日」は よく知れ渡っていますね

ウナギを食べる日です

今年は 8月30日 だそうです



〈株価〉という「神」に 全てを委ね

一喜一憂している 人達がいます

かつての 倭人は 空を読み 月を読み 星を読み

日々の生業を 暦という名の「神」に 全てを委ねたのでした



《 筑紫の賢人 》はこう述べられていました


暦とは 本来は 子孫が祖先の祭祀を

忘ることなく、誤ることなく、怠ることなく

勤め継ぐ 必携の書であった








by nonkei7332 | 2016-07-23 13:00 | 日記 | Comments(0)


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夏の早い朝

微睡みの中で けたたましく

叫ぶように鳴く 蝉の声で 眼が覚める

梅雨入りを 待ちかねたように 鳴き出したから

下手な 気象予報士よりも 賢いのかもしれない

《 く ま ぜ み 》は ここでは 〈ワシワシ〉ともいう

蝉の中でも 強者(つわもの) の武士(もののふ)のようだ

夏が来たぞと 触れ回るかのように 激しく鳴く

すべての人が 喧しいと思うのかと思えば

そうでも ないようである



《 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 》

( しずけや いわにしみいる せみのこえ)

芭蕉






立秋(8月7日)を過ぎると 残暑というが

朝夕の風に秋の気配が漂うようになる頃


七十二候 の 《 寒蟬鳴く》(ひぐらしなく)は

8月12日 から 盆過ぎまで

カナカナ と 夕暮れ近く《 ひ ぐ ら し 》が鳴く

送る 魂 を 惜しむように カナカナと哀しく啼く


《 松風の音あはれなる山里にさびしさ添ふるひぐらしの声 》

西行






二百十日 (9月1日) を過ぎると

暑かった 夏を惜しむように 《 ほ う し ぜ み 》が鳴き出す

白き秋 の 迎え人 のように


《 鳴くあとの やや 淋しさや 秋の蝉 》

子規







《 蛍二十日に蝉三日 》(ほたるはつかにせみみっか)

という言葉があります

それにしても 蛍や蝉は 短い命だということをいったのでしょうが

これは 正確ではありません 実は蝉は 成虫になってから

一ヶ月は生きているといいますから 蝉の方が長く生きています

蛍の方が短命だったのです

都々逸(どどいつ) の中にも

蛍の方が 短命だという歌がありました


《 恋にこがれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ螢が 身をこがす 》






by nonkei7332 | 2016-07-20 14:03 | 日記 | Comments(0)


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かもめ大橋 から 能古島に沈む夕陽を写していたら

一羽の小さなカモメが 横切っていきました

お気に入りの写真です

遊び疲れて 親の処に 帰る途中なのでしょうか

帰る所はあるのか ?

お腹はすいてないのか ?

その姿を追いながら

私は つぶやいていました



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カモメは 海と航海を護る鳥なのです

古代 海人達は カモメの行く先で 陸地を知りました

海で死んだ 男達の魂が 姿をかえたものともいわれます

志賀海神社では 沢山のカモメが 海神に寄り添うように

磯辺で遊んでいました

刻を忘れて 私はその風景に見入っていました




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私にとって カモメは 子供たちです

驚いたことに 海で泳いだことのない子供が 何人もいました

私には 泳ぐといえば 川 や 海 でしたが

今の子に聞くと プール という答えが返ってきます

悲しい 答えです

ある朝 寒くもないのに ポケットに手を入れて 来る子がいました

『 ポケットから手を出しなさい 』と私が言うと

慌てて 手を出した その時 ポケットから 何かがこぼれました

それは 菓子パン でした

気まずそうに 拾い上げた その子の 悲しそうな目を見て

私は 言葉が詰まってしまいました

『 だいじょうぶだよ 』そう言って

そっと その子の 頭を撫でてやりました



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今年の夏 私達は 『 カモメの城 』という

ボランティア を立ち上げました

子供達の 〈居場所〉〈隠れ家〉〈遊び場〉造りです

今から ボランティア募集のチラシを 配りに行きます


『 決して 無力ではない 微力だけれども 無力ではない 』


そう 自分に言い聞かせながら。






by nonkei7332 | 2016-07-15 13:30 | 日記 | Comments(3)

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桃中軒雲右衛門




私が生まれて初めて聞いた音楽といえば 母の子守唄でしょうか

昭和30年代 我が家にまだテレビがないころ

ラジオから 流れてきた音の記憶をたどれば

三味線の音の後に聞こえてきた あの 濁声の唄(?)なのかもしれない

『 旅行けば〜 駿河の国に 茶のかおり〜 』

後になってわかったのが これが 〈浪曲〉というもので

二代目広沢虎造 の 「石松三十石道中」だったようです



『日本のリバプール』と呼ばれる 博多の街は

70年代 から 多くの ミュージッシャンが ここを発信地として

上京し やがて スーパースター となっていきました

チューリップ・海援隊・井上陽水・長渕剛・チャゲアス

女性では 高橋真梨子・浜崎あゆみ・MISIA などがいます



さて 明治の終わりから 大正にかけて 好景気に沸く博多の街から

一人の スーパースター が 出て

一世を風靡した事を 知る人は少ないようです

浪曲界では 『浪聖』と呼ばれた人で その名を

《 桃中軒雲右衛門 》(とうちゅうけんくもえもん〉といいます

(以降 雲 と略します)


本名を 岡本峰吉 生まれは 群馬県高崎です

父の 繁吉 は 浪花節の前身である 〈祭文語り〉という 旅芸人でした

父を師匠として 雲 は やがては 吉川亭繁吉 という

父の名を継ぎ メキメキと技量を蓄えていきます

やがて 東京に出て 三河屋梅車の 門下となり


関東一円を廻っていたようです

明治36年 繁吉 が31歳の時でした 運命の罠が 雲を覆います

師匠 梅車の女房であった お浜 と恋に落ちたのでした

お浜 は離縁。繁吉は破門。その上 関東から追放を言い渡されます

仕方なく お浜を連れて 繁吉は 西へ向かいます


この時 お浜 35歳


途中 静岡で 駅前の弁当屋の屋号を真似て

桃中軒雲右衛門 を 名乗ります

京都に入り 一人の男が 雲 の弟子となりました

その男 は かの 孫文の辛亥革命を援助した 熊本菊池の素封家

〈宮崎滔天〉でした ( 柳原白蓮の最後の夫 宮崎龍介の父 )

滔天はすべての財産を社会運動につぎ込み

家は破産 このころ 京都に落ちていたようです


雲は 滔天に 桃中軒牛右衛門 の芸名を与えたようです

こうして 雲 と お浜 と 滔天 の三人の巡業旅は

関西 そして九州へと続きますが 一向に 不入りで 鳴かず飛ばず

やがて 雲達は 滔天のかつての同志 玄洋社の 重鎮

〈末永 節〉を頼って 博多に流れ着いたのでした


末永翁は 雲の後援をする条件を三つ挙げたそうです

ひとつ 雲右衛門が 苦学生を援助して 特待生を出す事

ふたつ 孝子節婦・忠臣義人などを顕彰する事

みっつ 神社仏閣に 手水鉢 、鳥居などを寄進する事

雲はこれを受け入れ 孤児院の寄附興行を皮切りに

多くの興行の利益を 博多の町に還元したのでした

やがて 雲右衛門の浪曲は 博多の町に知れ渡りました

時あたかも 日本は 日露戦争の大勝利に沸き立っている時勢でもあり

雲 の語る 数々の 義士伝 は 全ての劇場を満員にするほどの人気で

博多に 雲右衛門 あり の噂は 全国まで 拡がっていったのでした

雲右衛門流 と呼ばれる「三段流し」の歌唱法というのがあって

30秒ほど息を止めて歌い込むそうですが

聴衆もそれに合わせて息を継げなくなってしまうほどだったと言います

雲 は 薬院に御殿のような 邸宅を建てたのもこの頃でした



明治40年 雲 は 東京の 本郷座で 旗揚げします

東京を追われて 5年目のことでした

それまで 浪曲といえば 下層階級のものだといわれていましたが

武士道鼓吹の波と 雲 の天才的な技量をもって 上流社会にまでも

その人気は不動のものになっていったのでした

松竹 は 雲右衛門と年間10万円で 興行権をかったといいます

(今の金額でいえば 3億円位でしょうか)

横浜在住のドイツ人の貿易商リチャード・ワダマンが

雲 の SP版のレコードを作成しましたが

72000枚のプレスだったといいます 当時の日本の人口が5000万

蓄音機が高額で そんなに普及していなかったということを考え合わせると

今でいえば ミリオンセラー(100万枚) を


はるかに超えるのではないかといわれています


明治45年 雲 の全盛期 でした

博多に戻り 豪遊を続けていたようです

長い間 雲 を支えた お浜 はこの年の春 肺を病み 他界します

これを機に 続いて 雲 も肺を病み 声量も 技量も落ちてしまいます

またたくまに その人気は 落ちていったのでした

かくて 大正5年 11月 7日

浪聖 とよばれた 桃中軒雲右衛門 こと 岡本峰吉は

博多の 借家の二階 で その一生を終えます

享年 わずか 44歳

雲のように湧き

雲のように消えた

博多の町が 育てた スーパースター でした












by nonkei7332 | 2016-07-12 15:19 | 博多ルーツ | Comments(0)

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《 たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける時 》

橘 曙覧


先日 近所のご夫婦に 青唐辛子の苗をいただきました

ベランダで 鉢に植え替えていましたが

今朝 白い花が ひとつ咲いているのを見つけました


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《 唐辛子・番椒 》

南アメリカの熱帯原産。コロンブスが発見したとされる

日本には近世初期に渡来。

高さ60センチメートル 内外。夏,葉腋に白色の花を開く。

果実の形は細長いもの,丸いもの,大小様々あり、一般に辛味が強く,

香辛料や薬用とする。変種のシシトウガラシやピーマンは食用に,

ゴシキトウガラシは観賞用にする。辛味の強いタカノツメなどは

南蛮辛子・南蛮・高麗胡椒とも呼ばれる。


さて この唐辛子

唐という字があるので 多くの人が 中国から渡ってきたと思っていますが

本当は ポルトガル人が日本に伝えて それが 朝鮮半島に伝わった

というのが 《 通 説 》になっています

韓国の学会でも その説を支持していましたが

近年 いろんな 《 異 説 》が でてきています

そもそも 通説によると 秀吉の朝鮮出兵の際

加藤清正が 寒さ対策の為に 兵士にもたせたとか

目潰しの兵器として使ったというのが文献に残っているようですが

朝鮮には もともと 〈椒醤〉というコチュジャンを意味する単語が

1400年代の文献に多く出てきます 中国にも 850年に書かれた

「食医心鑑」という文献にも 〈椒醤〉という表現がされていることから

中国から朝鮮そして日本という説が 盛んに議論されているといいます

しかし コロンブスがアメリカ大陸から持ち帰ったとされるのが


1490年代ですので


唐辛子 と 椒醤 は 違う植物だったとも言えますね



実は 紛らわしいことに

江戸時代に 書かれた 貝原益軒の 『筑前続国土風土記』〈大和本草〉には

「 昔は日本に無く 秀吉公の朝鮮伐の時 彼の国より種子を取り来る故に

俗に高麗胡椒と云う」と書かれていますし

〈花譜〉には「 番椒(とうがらし) 近世 朝鮮より来たれり ゆえに

高麗胡椒と称す 」と書かれているのです


通説 異説 入り乱れての 定説さがしみたいですが

白い可憐な花を見てると そんなもの どっちでもいいよ というのが

私の 本音みたいですね



さてさて 話は 拡がって

《 通 説 》とは

世間に広く通用している説のことであり

いくつかの 《仮説》のうち多数が 支持しているものをさす

ただし 確定的であるとされる《定説》とは異なると書かれています


通説は 英語では Myth (ミス) といいます

ミステリーはここから来ています

意味は 神話・作り話・(根拠のない)社会通念 だそうです

一方 異説は 英語では Heresy (ヘルシィ) といいます

意味は 異教・異端 だそうです

日本語と英語 多少ニュアンスが違いますね


古代史歴史研究に いそしむ 私にとって の 問題は

可笑しな 定説 が世の中に いくつもはびこっていることです

本来 通説=仮説 であるものが 定説とされ 教科書に載って

これが日本の歴史だとされ 子供達に教えられていることです

「日記に嘘はかけるけど 書いてる自分に嘘はつけない」と

誰かが言っていました

〈古事記〉・〈日本書紀〉全てが嘘と言わないまでも

自分の立場を正当化するために 過去の歴史を改ざんしたとされる

記紀 は その最たるものでしょう

嘘か本当か まさに ミステリー の世界ですね



唐辛子の白い花が いつしか

辛い話になってしまいました


明日は選挙です 〈通説〉に 惑わされないようにしましょう







by nonkei7332 | 2016-07-09 14:00 | | Comments(2)

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《 鬼 灯 》 《 酸 漿 》

何と読むのかを知っている人は

かなりの 漢字通 の人ですね

答えは 前回 記事にしました 《 ほおずき 》です


語源をたどると 幾つかの説がありました

紅い実が 人の紅い頬に 似ているから 〈 頬ずき 〉

実の種を取って 口に入れて鳴らす遊びの (頬突く)から 〈 頬突き 〉

「ほう」という カメムシが よく 集まってくるから 〈 ほう着く 〉

紅い実が 火のような色だから 火火(ほほ)が着くで 〈 火火着き 〉

7月の (文月) ふづき が訛って 〈 ほほずき 〉




貝原益軒 は『筑前国続風土記』花譜の中で

酸漿(ほおずき) について こうなふうに書いています


叉 、金灯籠 という。

此草 ほう という 蟲 好んで 葉をくらう。

故に ほうづき というにや。


ほおずき の 新たな語源 『金灯籠』が出てきました

灯籠とは 提灯 のことです

金灯籠 で 思いおこすのは 『山鹿灯籠』です

今も残る 熊本県山鹿地区の 山鹿の提灯まつり は有名です


この祭りの由来は

景行天皇 が 九州を巡幸しているとき

加茂の浦の湖(現山鹿市内)で濃霧が立ちこめ

一行は進路を見失ってしまった

このとき 地元住民が 松明を灯して

一行を 大宮神社 のところまで導いた

この松明がのちに灯籠となって神社に奉納されたとあります



景行天皇の巡行と云えば 聞こえはいいですが

目的は 鬼といわれた 土蜘蛛(熊襲)征伐だったのでしょう

山鹿の里は 大きな湖だったんですね

灯籠は 大宮神社に奉納されたとされていますが

灯籠は 何を意味しているのでしょうか


祭りの中で唄われる 「よへほ節」という 俗謡があります

よへほとは 酔いましょう という意味だといいます

元歌は 男と女の 掛け合いの歌のようです

古代のまつり の起源 「歌垣」を偲ばせます



ほおずき と 金灯籠 の写真です


だぶって見えるのは 私だけでしょうか



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実は ほおずき は 別名があります

『 輝 血 』 かがち と 読みます


この別名の 出処は なんと 「古事記」でした

古事記の出雲神話に出てきます

「其の形は如何(いかに)。」と問ひたまへば、答へ白しけらく、

「彼(そ)の目は 赤加賀智(あかかがち)の如くして、

身一つに八頭八尾(やかしらやを)有り。

亦其の身に蘿(こけ)ち檜椙(ひすぎ)と生(お)ひ、

其の長(たけ)は谿八谷岐八尾(たにやたにをやを)を度(わた)りて、

其の腹を見れば、悉に常に血爛れたり。」とまをしき」


《現代語訳》

「ヤマタノオロチのその姿かたちはどんな風なのか。」と尋ねると、

「その目は赤い ほおづき のようで、身体は一つで、頭が八つ、

尻尾も八つ付いています。

また、その体にコケとヒノキと杉の木が生えて、

その長さは谷が八つ、丘が八つ分あって、その腹を見ると、

いつも血がただれています。」


スサノオ の ヤマタノオロチ退治 の場面です

《出雲神話》には いくつもの 謎があります

ここからは 妄想だといわれるかもしれませんが

「古事記」は 出雲神話で 何を 隠そうとしたのでしょうか

スサノオ 対 ヤマタノオロチ の構図なのですが

私には スサノオ=ヤマタノオロチに見えてきます

スサノオ は 熊襲国の王 です (新羅の王族でもありました)


神話では スサノオは 荒神とされています

ヤマタノオロチ は 大蛇です それは 龍 の化身です

龍 は海人族の 象徴でもあります

ヤマタノオロチの尾からは 三種の神器のひとつ

〈草薙剣〉がでてきたというのも 謎めいています

山鹿の大宮神社に祀られているのは ほんとうに 景行天皇なのか?

私には スサノオ=ヤマタノオロチ(龍神)である

熊襲の祖神こそが 本当の祭神のように思えてきます

妄想は限りなく続くのでこのくらいにしておきます



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〈ほおずき〉が 〈鬼灯〉となって

ヤマタノオロチの 紅い目となりました

ヤマタノオロチの 紅い目は 山鹿の金灯籠 でした


山鹿の里人は 灯籠を鎮守の社に奉納しました

これが 毎年8月 頭上に灯籠を載せた女性たちが

優雅に舞い踊る 「千人灯籠踊り」となりました

幻想に誘う 闇の向こうに

古代山鹿の主の神が 見え隠れしています











by nonkei7332 | 2016-07-05 15:42 | 古代史 | Comments(0)

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くちなしの花




《 やはらかに 夏のおもひも老いゆきぬ 中年の日の君がまなざし 》

北原白秋『桐の花』より



夏の朝が 好きだ

それも かなり 早い 朝が好きだ

ひんやりと 朝の冷気 に包まれて

小鳥の さえずりだけが 聞こえてくる



今日から 7月 半夏生。

昔から この五日間は 井戸に蓋をして

田植えで疲れた 身体を休める日だったとか

乙女たちは みずの上に 棚をつくり 機をおりながら

神が降りてくるのをひたすら待つ

やがては 神の精を孕み 巫女になっていく

棚機津女(たなばたつめ)は 七夕の起源だ



毎月最初の土曜日は

子供達と一緒に作った 畑に行く

きゅうり 茄子 そして 誰かが植えた ほおずき

さっきから 軍手を探しているのだが

どこになおしたのか わからない 困ったものだ

去年の夏祭りには 子供達に 風車を配ったが

今年は何にしようかと 考えていた

紅い ほおずき を配ろうか とも考えてみたが

今の子は ほおずきを鳴らして遊ぶことを知らない

そうだ 今年は 風鈴にしよう

そう決めて 靴を履く

子供達の声が聞こえてくる

軍手は とうとう 見つからずじまいだ

梅雨の 晴れ間の

静かな 朝だ










by nonkei7332 | 2016-07-02 08:20 | 日記 | Comments(2)

by ヒサミツ