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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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野見宿禰



八百万の神 と言われるように

アマテラス から トイレの神様 まで

この国には たくさんの神様がおられるようです

ここに 二つの神の称号を持った神様がいます

《 野 見 宿 禰 》(のみのすくね) という神様です

〈相撲の神様〉だと言われ 〈埴輪の神様〉といわれました


記紀によると 野見宿禰 は

垂仁天皇のころ

天穂日命(アメノホヒノミコト) の13代目の子孫であり

当麻蹴速(タイマノケハヤ) と力を争って勝ったので

相撲取りの祖とされています

また 皇后の死に際し 殉死の代わりに

陵墓に 埴輪(はにわ)を立てる事を進言して 天皇に大いに喜ばれ

土師臣(はじのおみ) を 拝して 子孫は その後

天皇家の葬儀をつかさどり 古墳造営などにたずさわったあります



百島神社考古学 の説によると

〈天穂日命〉は 博多の櫛田の神様〈大幡主の神〉だとされています

大幡主は 北九州から 出雲に至るまでを 統治していた

先住民だったという説です

同じ主(ぬし)の尊称を持つ 大国主(大黒様)も 事代主(恵比寿様)も

大幡主の配下だったのでしょう だとすれば 当然

野見宿禰 は 大幡主の一族の将として活躍した人物になります

土師氏の遠祖として また 菅原道真の遠祖でもあります

そういえば 太宰府天満宮の 本殿脇には

天穂日命 と 野見宿禰 を祀る分社がありますね



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小堀家略系図 (福岡市博物館所蔵)



野見宿禰 は 私自身の遠祖にもなるのです

( 我が家の先祖 小堀家の系図に 野見宿禰後胤 と書かれています)

1437年 京都から 櫛田神社に招聘された 小堀善左衛門 は

そこが 自分の始祖である 大幡主を祀る 神社であることを

知っていたが故に 博多まで きたのだと 私は思っています



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佐敷諏訪神社



先日 百島神社考古学研究会の 古川さんと話しをした時

熊本の芦北に 佐敷諏訪神社 があるという話を聞きました

行ってきました なるほど 立派な土俵がありました

階段脇 の 段段 は まさしく 桟敷席です

佐敷の地名が 桟敷からきたものだとする 古川説までは

辿り着けませんでしたが 古代ここで

野見宿禰 と 当麻蹶速 が 国を賭けた 死闘を繰り広げたのであれば

その国と国は どこだったのでしょうか


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佐敷神社土俵




土俵は まん丸ですが 古代は 人垣だったそうです

その起源は 〈歌垣〉だったとされます 掛け合いの歌で

男と女の相聞歌がはじまりだったそうです


〈 はないちもんめ 〉の童謡には 歌垣の 面影が残っています




勝ってうれしい はないちもんめ


負けてくやしい はないちもんめ


あの子がほしい あの子じゃわからん


この子がほしい この子じゃわからん


相談しましょ


そうしましょ




そのうち 一人の女をめぐっての 男同士の掛け合いにかわり

男同士の勝負が 相撲にかわっていったのでしょうか

大きな神社には 必ず 土俵があります

特に 熊本の神社には 立派な土俵が多く残っていました





佐敷諏訪神社





by nonkei7332 | 2016-06-28 14:30 | Comments(0)

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地震前の 鯰三神社




《 鯰三神社 》を訪ねました

阿蘇熊本に残る 《大鯰伝説》で

大鯰が流れ着いたとされるところです

今も 〈鯰〉という地名がのこり そこにある 神社です

正式には 〈 三社宮鯰三神社 〉といわれています








嘉島町史 に拠れば

鯰村には 上社 下社 西社 という 三つの 神社があって

それぞれ 違う祭神

《 上社には 四面大菩薩 ( 高木大神?) 》

《 下社には 八幡大菩薩 ( 大幡主神?) 》

《 西社には 国祖大明神 ( 国龍神(草部吉見)?) 》

が祀ってあったのを 習合したとあります

(?は私見です)

とすれば この鯰神社の祭神 はいずれも 鯰をトーテムとした

古代熊本の 祖神 なのでしょうか



菊池の乙姫神社 山鹿の二宮神社など 肥後から 筑後 肥前にかけて

多くの神社で「鯰」が祀られています

各地にある 鯰の宮 の中から 私が この宮を 訪れた目的は

この宮こそが 元宮 だと思ったからでした

そして なによりも この地を 護る 産土神 の

荒ぶる神霊を 鎮めるためです



熊本県神社庁 によれば

今回の地震で 県内の社殿 約130 社

鳥居 約230基が 全壊したといいます



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荒れ果てた 境内には 人の気配はありませんでした

無残にも壊れた 台輪鳥居 と 傾いた 神門 には 近づけません

拝殿に貼られた 危険の赤紙 が 復旧の厳しさを物語っていました

そんな中でも 神木の楠は 青々と繁っていました





40年前 この地を初めて訪れた私でした

思い出と懐かしさの詰まった ふる里です

今でも お世話になった 方々が住んでおられます

傾いた 赤紙の貼られた 母屋のそばで

こんな 私の訪問を 喜んで 頂きました


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2015/10/26 拙ブログ 《 もうひとつのルーツ 》参照
http://hisamitsu.exblog.jp/25029702/




 

by nonkei7332 | 2016-06-23 12:40 | 古代史 | Comments(0)

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やまぼうし




山法師(やまぼうし) という 花です


中央の花穂が 丸坊主の頭みたいなので

比叡山延暦寺の法師になぞえ


山法師と名ずけられたといいます

別名で 山桑(やまぐわ)・柘(つみ) といいます

万葉集では 柘の枝(つみのえ)という 名前で 三首詠まれています



《 この夕 柘のさ枝の流れ来ば 梁(やな) 打たずて取らずかもあらむ 》

万葉集3ー386


【 註釈 】

夕暮れになって もし 仙女に化身するという柘の小枝が流れてきたならば

簗は打たないで 柘の枝を取らずしまいになりはしないだろうか

(簗とは 魚をとるための 仕掛け)



註釈だけでは 何のことなのかは さっぱり解りませんが

《 柘枝仙女伝説 》という話をバックにした歌だそうです


昔々 吉野の里の美稲(うましね)という若者がいました

吉野川に簗(やな)を打って アユをとっていました

ある日の事 上流から 柘の枝 が流れてきて簗にかかったので

家に持ち帰っておいたら 柘の枝 が美しい女性になりました

美稲はびっくりしましたが その女性を妻に迎えて

毎日幸せに暮らしました




美稲(うましね)という 皇子と柘媛 の物語なんでしょうか

いったい誰の事なんでしょうね

開化天皇 と 神功皇后 かも しれませんね

それにしても 川で遊んでいて 柘の枝が流れてきたら

男は ドキドキしますよね 美女に変わるかもしれないですから



まったく 罪(つみ) つくりな 話でした



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by nonkei7332 | 2016-06-18 11:05 | | Comments(0)


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下鴨神社 糺の森



古代の人々は 鎮守の森で

一年に二度だけ 冬と夏 に 神様から 霊力をもらいました

これが 祭りの始まりです

神は 海の彼方から来るのでしたが いつの間にか

山から来る神や 天から来る神に 変わっていきました

神が降臨(おり)てくるまえに 人々は まず 身を浄めます

神の威霊を 新たな心身で 受け取るための 禊の儀式です

冬の禊を 『年越祓』

夏の禊を 『夏越祓』『名越祓』『水無月祓』などといいます

神が降りてくる目印として〈標山〉(しめやま)という

松や杉で作った高い木の棒に 旗や幟をたてます

この〈標山〉に神霊が降ります

各地の夏まつりで この 標山に 飾りつけしたものが

山車(だし)・鉾(ほこ)・山(やま)・地車(だんじり) と呼ばれました

それとは別に 人の形をした紙人形 人形(ひとがた)に息を吹きかけたり

その紙人形で体を撫でて穢れを人形に移した後

川や海に流すという厄払いも行われていました


これが 人形の起源です



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博多の夏まつり は山笠です

《博多祇園山笠》の起源については 幾つか説がありますが

通説となっているのが 「仁治2(1241)年説」です

博多で疫病が流行り 承天寺の開山の 聖一国師(弁円)が 人々の担ぐ

施餓鬼棚に乗って 祈祷水を撒いて 疫病を鎮めたとされます

これが 櫛田神社の祭神 のひとつ 素戔嗚尊(祇園神) と結びついて

櫛田神社の祭礼になったという説なのです

〈博多祇園山笠振興会〉も この説をとっています


あくまでも 通説なのです おかしなことも幾つかあります

まず一つは 仁治2年頃に 疫病が流行ったという記録がないこと

もう一つは 施餓鬼というのは 仏事の法会であって 神事ではないこと

たしかに 当時は神仏混淆の世相であって 祇園神そのものが

素戔嗚と牛頭天王が神仏習合した 神と考えれば おかしくもないのですが

仏教伝来以前 まだ 櫛田の杜に

社殿が出来る前の 祭りの様子が気になりました

文化4年(1807)に書かれた

『 筑前 櫛田社鑑 』原田種美著 に 思わぬ 記述がありました


昔より 山笠のいはれあり

水無月祓 に 形代とて 茅、麻の葉にて 人形を作り

( 是を賀茂川祭りというなり )

身を撫でし時に となえる歌に

『水無月に名越しの祓する人は 千と世の命延ぶ 』というなり

となへの歌は外に数あり

是を川え流すと言へり

是 我が身の不浄を潔白に解除するの法にて

俗に是を 撫物(なでもの)と言う

( 当社の社宮 祝部家 等 水無月の祓に今是を用う )

山笠も其始めは 茅の形代の例にまなびしが

永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 云々



博多の山笠の起源は

賀茂川祭り(夏越の祓い) だと書かれています

賀茂川祭りとは 京都下鴨神社の 《みたらし祭り》のことでしょう

下鴨神社の祭神は

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)賀茂族の祖神 です

その神こそ ヤタガラス である 古代博多の皇子 《豊玉彦》なのです


2015/11/10 拙ブログ《鴨(賀茂)の流れ》を参照ください
http://hisamitsu.exblog.jp/25076752/


〈 永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 〉と書かれているように

博多の夏越の祓い が 祇園山笠(いかめしき作り山) と 変わったのが

永享年間 だと書かれています

さて 永享年間に 何があったのでしょうか

同じく『 筑前 櫛田社鑑 』には こう書かれていました


永享九年 (1437) 春三月に 博多より

京都の木偶師土偶師 を召かかえんとて上京せしが

小堀善左衛門 とて四条に居住せし木偶師を召抱えて 帰国す

櫛田神社内へ居宅を作りて 扶持米を遣わし

その年の作り山に 甲冑を着せ 旗幡を ささせ さまざまの

模様を作りて 祇園祭礼を勤む



櫛田神社 が 京都から 一人の男を 連れてきます

夏越の祓い祭り を いかめしき作り山 に変える為に連れてきた

若き 人形師 でした

《 小堀善左衛門 正直 》

博多山笠人形の始祖 であり

明治時代まで 13代 続いた 小堀流細工人形の 小堀家でした


2014/4/25 拙ブログ 《ルーツの旅》参照下さい
http://hisamitsu.exblog.jp/22508540/



博多の祭りを

〈夏越の祓い祭り〉から 〈祇園山笠〉へと変えた

張本人 が 私の先祖 だったとは

驚きの ファミリーヒストリー でした


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明治初年
最古の 博多山笠の写真
高さ16m です







by nonkei7332 | 2016-06-16 15:47 | 博多ルーツ | Comments(0)


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久しぶりに 兄弟三人で 大宰府へ行きました

お目当は 九州国立博物館 の 特別展『始皇帝と大兵馬俑』

そして 『花菖蒲』です



まずは 腹ごしらえ

姉が 穴場を見つけていました

姉の家の側にある 《介護付有料老人ホーム アクラス五条》の中にある

食事処「よっと~と」

日替わりランチ 550円(コーヒー・デザート付)

この日のメニューは 〈酢鶏〉でした かなり美味しかったです

コーヒーは 場所を変えて となりの 「カフェブリュネ」

さすが 高級老人ホーム アンティークな調度品に囲まれて 至福のひと時


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参道は 平日にもかかわらず


相変わらずの チャイニーズ王国でした


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特別展は 今週一杯ということなのか


花菖蒲満開に合わせてなのかかなりの人の波でした


〈兵馬俑〉については また後日 記事にします


何れにしても 20世紀最大の考古学発見と言われる 〈兵馬俑〉

始皇帝という 一人の男の為せる術の壮大さは

海馬の奥深くに眠る 記憶の魂を 充分に 揺さぶってくれました


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東神苑 の 菖蒲池 には


約55種3万本の 「花菖蒲」が 咲き誇っていました

池のほとりの茶屋に座って 抹茶をすすりながら しばし 無言。

池の向こうに見える 緑濃き 四王寺山 も 美しかったです


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by nonkei7332 | 2016-06-09 13:32 | 菅公・太宰府 | Comments(4)


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博多 出会い橋 にある 「三人舞子像」




博多には 行町 という町があった


古くからの町だったが 今はもう町名も残ってはいない

(現在でいえば 昭和通り(通称50メーター通り) 付近になる)


《806年》空海(弘法大師) が

唐 での修行の帰りついた港は 博多の津であった

空海は 早速 一軒の船宿を買い取り そこに 唐から持ち帰った

仏像や教本や仏具を備えた一寺をこの町に建て

やがては 真言密教が 東へ長く広まるようにと 東長寺となずけた

( 現在は 大博通りに面している 御供所町に移った 南岳山東長寺である )

人々は はじめは 勤行(朝夕の読経)の町 と呼んでいたが いつのまにか

行の町 行町 となったと言われている



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明治25年 博多町図



この 行町 に 大工の 《 成 田 善 兵 衛 》が住んでいた

実は 私の 母方の 高祖父 になる人である

成田家 は 旧藩士だと伝えられてきた 黒田本藩なのか

士藩の直方藩なのか 秋月藩なのかは定かではないが

江戸の頃 扶持を捨て 町人となったようである

土居流沿いの 西方寺前町 に住し 代々 大工を営んできた

幕末の頃 博多史誌『石城遺聞』に 西方寺前町の町年寄として

〈成田宗次郎〉の名前が 残っている 善兵衛との関係は不詳だが

町の重鎮として 大工の棟梁 をしていたのかもしれない



さて 話は 前回の話しに戻るが

相生町に 米倉藤三郎 が建てた料亭『大寿楼』の話をしたが

相生には 大寿楼のほかに 名の売れた料亭が三軒あったといわれている


『松の家』『満月』『長門』がそれである

実は この『松の家』は

明治の中頃 大工の 成田善兵衛 が転業して 始めた 料理屋 だった

大正になると 『満月』も譲り受けたようだ

私は 母から 『 成田 の 本家(ほんや)は 料理屋をしていた 』という話を

〈満月〉の店の名前といっしょに 聞いたことがあった

善兵衛には 後嗣 がおらず 二人の娘 「ルイ」と 「テフ」がいた

ルイ には 善七という婿養子が もらい 料理屋を継いだが

善七がどういう人物であったのかはわからない

一方 『テフ』には 下土井町に住む

山笠人形師 小堀家十二代 〈 小堀甚三 〉の弟


『小堀甚兵衛』を婿養子にもらった

分家すじにあたる この二人こそ

私の 曾祖父 曽祖母 なのだ

『 土居流 の恋 』という 拙ブログの記事があります
( 2015/7/5 http://hisamitsu.exblog.jp/22898770/ )



券番の取締という 男 〈 米倉藤三郎 〉と

料理屋の旦那 だった 〈 成田 善兵衛 〉とに

どういう繋がりであったのかは わからない

旧藩士あがりの この二人の名もなき博多町人が

博多花柳界の 華々しき 一時代を 作っていったことには

間違いない ようだ



座敷で よく 歌われたであろう 〈 黒田節 〉のほかに

〈 正調博多節 〉という 座敷歌がある

有名な 一節 がある


《 博多へ来る時ゃ 一人で来たが 帰りゃ人形と 二人連れ 》



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博多人形 ごとう 提供





参考文献
小田部博実著「博多風土記」


by nonkei7332 | 2016-06-09 09:50 | 博多ルーツ | Comments(0)


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現在の 〈博多券番〉 の 芸妓衆




明治の維新は

廃藩置県によって 多くの藩士を路頭に迷わせた

福岡黒田藩においても 然り 六千人 に近い藩士がいたが

ある者は帰農し またある者は 町人となって 慣れない手仕事を生業とした


博多には 明治24年 黒田旧藩士のみで組織される 「報古会」という

団体が結成された 藩主はいなくとも 黒田家訓を護り

旧藩士としての連携を密にするという相互扶助の団体であった

初代会長は 初代福岡市長の 山中立木 で 結成当時の会員は

三千人もいたというが ほとんどが 上級藩士出身であったようだ


家柄の低い 下級藩士の中に


米 倉 藤 三 郎 》という男がいた

米倉家については 定かではないが 維新後 一家没落したとされ

辻堂町の 承天寺境内で 仮家住いの赤貧暮らしをしていた

若き 藤三郎も 物心ついた頃には やむもなく 家を出て 渡世人となる



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明治25年の博多の町
市小路小学校(今の博多小学校)の上に
釜屋町 萱堂町 がある





博多には 釜屋町 や 萱堂町 (現在の奈良屋町界隈) という町があり

明治の始めから 多くの町芸妓がたむろする 色街だったという

ここを拠点にした 米倉藤三郎 は 大柄で ドスの効いたその風貌で

いつの間にか この町の顔役となっていったのである

やがて 釜屋町と萱堂町をつなぐ 筋に 多くの 芸妓置屋の連なる 花街

俗称 相生町が できた 〈相生の松〉に因んだ町名だという

当時 61名の芸妓が 相生町には居たが 翌年には 89名に増え

その勢いは 衰えることをしらなかった

町の一角に 相生花街の 顔ともいうべき 木造三階建ての 料理屋

『大寿楼』を 藤三郎 が 建てたころには 相生花街 の顔として

米倉藤三郎 の名前は 博多中に知れ渡っていたようである

明治22年 米倉 は 博多では 初めての 芸妓置屋の 組合組織

『相生券番』をつくり 自らその取締となって 花街を仕切っていった

長崎 丸山検番にヒントを得たという 〈線香代〉という 芸妓の花代と

時間制を創ったのも 米倉だといわれている

博多花柳界の大御所となった 米倉 は 芸妓達からは 恐れられ

その 独断暴君振りは 誰もが知るところであったようだ

そんな中 明治34年 夏 騒動は起きる 相生券番の芸妓総代を務めていた

小三(根本アキ) と 小滝(高橋タキ)が 米倉のワンマン振りに反旗を翻し

28名の名うての芸妓を引き連れて 千代町にあった 水茶屋券番に

移って行ったのだった 米倉の怒りは収まらず すぐに 手を打った

全ての料亭(料理屋) 茶屋待合(料理は作らず場所だけ提供しする座敷) に

もし 水茶屋の芸妓を呼んだ場合は 相生券番と中洲券番からは

芸妓は送り込まないという 報復手段だった

しかし 芸妓達はひるむことはなかった

何故なら 彼女達を後押しする


強力な 旦那衆が 後ろに控えていたからだ

ざっと 名前を挙げると



具島太助 ・・・ ( 当時日本三大財閥といわれた 具島財閥の当主 )

平岡浩太郎 ・・( 政治結社「玄洋社」の初代社長 )

安川敬一郎 ・・( 安川電機・九州工業大学の創始者 )

麻生太吉・・・ ( 現財務大臣 麻生太郎 の曽祖父。麻生グループの創始者 )

中野徳次郎 ・・( 伊藤と共に 筑豊の炭鉱王と呼ばれた )

伊藤伝右衛門 ・・(あの柳原白蓮を妻にした 筑豊の炭鉱王の一人 )

堀三太郎 ・・・( 直方の炭鉱王 )



筑豊の五大炭鉱王 や 福博の名士がこぞって 水茶屋券番に繰り出し

千代町の料理屋を貸し切り 水券芸妓を総揚げするなどして

大尽遊びを競うようにしたものだから 評判は拡がり やがては

相生券番と肩を並べるほどの 大券番となっていったのだった

後世 水茶屋券番の芸妓に『馬賊芸者』という 艶名がついたが

こんな騒動を乗り越えて来た 男まさりの度胸 と 切符の良さが

言わせたものだろう



その後 明治 大正 と 産業革命の波に乗って 博多花街は拡大を続け

空前の好景気に沸く大正時代には

〈相生券番〉〈水茶屋券番〉〈中洲券番〉〈新券番〉〈南券番〉

という五つの券番が 芸を競い 芸妓の数も 二千人に及んだという

博多花街は 東京の 築地や新橋 と並び

全国に 名を馳せるようになっていった


さて その後の 米倉藤三郎 だが

大正の末頃まで 大御所としての 威厳を揮ってはいたが

あまり 人に好かれる こともなく

昭和の初期に 寄る年波には勝てず ひっそり 他界したという


一人の赤貧の若者が築いた 華やかな 花柳界も

あの 戦災で すべてが 消えてしまうことになる



旧藩士 《 米倉藤三郎 》 の名前を 知る者も

今は この街には もう誰もいない






参考文献
小田部博実著「博多風土記」




by nonkei7332 | 2016-06-05 20:27 | 博多ルーツ | Comments(0)


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この 国 では 初夏になると 雨が多く降ります

六月 のことを (水の月)(水無月) (みなずき)といいます

木々 は 若葉に染まり 春の花 が実をつけるころ

人々は 田 に水を張り 稲を植えますので

この月のことを 田無月(たのつき) とも いいます



水の〈女神〉は 水の端の女 (みずはのめ) です

人々は 川の淵に 祠をつくり

躰 と 心 を 浄め 一日の始まりを祈りました

この国の人たちは 今でも 朝起きると まず顔を洗います

水で 穢れを 祓う 禊(みそぎ)の儀式が

今も 魂の記憶として 残っているからでしょうか



〈雨〉という語源は〈天〉だといわれています

〈天水〉(あまみず) は 神の振る舞い でした


雨が 幾月も降らなければ

ひとびとは 水の女神(龍神)に 雨乞いをしました

雨が 幾月も降り続くと

ひとびとは 太陽の神(アマテラス) に 祈りました

また 古代より この国の人たちは 多く恵みをもたらしてくれた

祖先達 を 神として 祀ってきました


祖人 は 遠い 海原を 渡ってきた 海人達です

男達を 〈海士〉といい 女達を 〈海女〉と言って

〈アマ〉とよんだのでした



今日 は 衣更え

いよいよ 暑い夏が やってきます

季節が またひとつ 終わりました




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《 ひさかたの 雨も降らぬか 蓮葉に 溜まれる水の玉に 似たる見む 》

万葉集 16ー3837


〈 私訳 〉

雨が降ってこないでしょうか 蓮の葉に溜まる水を見たいのに





《 鳴る神の 少し響みてさし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ 》

万葉集 11ー2513 柿本人麻呂


〈 私訳 〉

雷が少し鳴って 曇ってきたわ 雨も降らないかな

そうすれば あなたも もう少しここに いてくれるのに



柿本人麻呂 の この歌 をテーマにしたのが


お気に入りの アニメ『 言の葉の庭 』です

去年 4月『 孤悲(こひ) は 片恋 』という 記事にしました

( 2015 / 4 / 15 http://hisamitsu.exblog.jp/24363195/ )





アニメの エンディングで 秦 基博 が 歌った

『 Rain 』という歌です








by nonkei7332 | 2016-06-01 18:39 | 日記 | Comments(0)