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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

<   2016年 02月 ( 8 )   > この月の画像一覧



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沙也可将軍 肖像画





司馬遼太郎 の本に 『街道をゆく』という 紀行集があります

この本との出会いは 40代の頃 でした

某商社の部長さんと お酒を飲んだ時の話で 話題が老後の話になりました

私 が 『 部長は老後はどんな生活をするつもりですか 』と聞くと

彼 は 『 司馬遼太郎の「街道をゆく」という紀行集があってね

彼が行った場所を同じように旅行をしようと思ってます 』と話されました

翌日 本屋に飛び込んで さっそく この本を買った

というのが この本との出会いでした


『街道をゆく』の中の

『韓のくに紀行』という本の中で

《 沙 也 可 》という 人物を知りました


沙 也 可(さやか) (1571年? - 1643年?)は

1592年 豊臣秀吉の 文禄・慶長の役の際 加藤清正の 先鋒隊長として

三千の兵を率いて 朝鮮に渡ったが なぜか 投降して朝鮮軍に加わり

朝鮮には無かった 鉄砲の技術を朝鮮に伝え 豊臣軍と戦います

その後 李朝14代宣祖(ソンジュ)の 臣下となり 功績により

正憲太夫の位と 金海金氏を名乗るよう賜り 号を 慕夏堂とし

名を 金忠善(キム・チュンソン)と改名 します

賜姓金海金氏の始祖として慶尚北道の友鹿里(ウロクリ)に

領土を与えられ 臣下と共に 朝鮮の民として その生涯を閉じます

現在 友鹿里 には 200名位の 沙也可の子孫が暮らし 半島全土には

4000名にもなる 氏族 がおられるようです

毎年 「鹿洞(ノクトン)書院」の「韓日友好館」には 2000人もの

日本人旅行者が訪れるといいます



沙也可 は 何故 反旗を翻したのでしょうか ?

沙也可 は いったい 誰だったのでしょうか ?


諸説ある中で

紀州の雑賀衆 ではないかという説 があります

雑賀衆は鉄砲の軍事傭兵部隊です 秀吉によって滅ぼされました

ただ 三千の兵を動かすだけの カリスマ性を持った

人物名が出て来ませんので 小説にはなりましたが

おそらく 違うでしょう


そこで 今 永年 伊都国糸島の 高祖山城主 であった


原田家の46代当主 原 田 信 種 (はらだのぶたね)


の名前が とりだたされています


原田家の出自は 古代 秦氏の大蔵一門 です

大蔵氏の氏祖は 漢の霊帝4代目の素孫 阿知使主 だと言われています

隋に追われ 百済を経て 倭国にきた 漢人系渡来人 です

応神・仁徳 の頃 呉国より 兄媛・弟媛・穴織・呉織 の 四媛 を連れてきて

養蚕・染色・機織・裁縫の技術を伝えたのも この人達でした


大蔵一党の三大豪族といえば 原田氏・秋月氏・高橋氏

いずれも 筑紫の豪族です 特に 嫡流の 原田家 は

藤原純友の乱を平定した功績により 太宰少弐の官位を与えられ

筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬を管理することになります

当初 基山に拠点を置きましたが 麓の原田に移り 原田家を名乗りました

その後 岩門城(那珂川町)をへて 建仁3年(1203年)

怡土郡五郎丸(三雲)に移り原田種継・種頼親子が 高祖山城を築き

麓に館を構えて 原田氏代々の本拠としました

中世の博多は 戦乱が続きます

原田氏は 西国一の守護大名になった 大内義明 の傘下に入ります

その後 大内家と共に 大友氏と戦い 筑前統一を成し遂げます

大内氏拡大の裏で原田氏の貢献は大きく

1551年 大内義隆が 陶晴賢 の謀反により 討たれるまで

永年に渡る 友好関係は続いたといいます

45代原田隆種 自身も 義隆から「隆」の字を貰い受けた間柄だったので

大内氏への恩義から原田隆種は陶氏の指図に服しなかったといいます

陶氏 は 大友氏 と組みしたので 原田家には 苦難の時代が続きます

やがて時代は 秀吉の時代へと変わっていきます

天正二年(1574年)46代 原田信種 が家督を継ぎます

秀吉が島津征伐で 九州に凱旋すると 島津と同盟を結んでいた 信種は

徹底抗戦するつもりでいましたが その強力な陣立に勝ち目はないと思い

秀吉に降伏します 秀吉が原田家 の 所領を尋ねたところ

広すぎると 没収されるとの考えから少なく報告したことが

秀吉の神経を逆撫でする事となってしまいます

その結果 筑後に三百町歩を与えられ 肥後へ国替えとなってしまいます

高祖山城は破壊され 家臣達は帰農したり 他家へ仕官していって

原田信種 は 全てを失ってしまいます

肥後熊本城主となった加藤清正の 下で 信種 は再起にそなえます


ここからが 原田信種 の謎の歴史です

( 史実にもとずく フィクション です )

秀吉の朝鮮出兵 で 名護屋城 に全国の大名が集まります

その中でも 加藤清正 と 小西行長 が 中心となる 陣立が組まれます

信種は 名護屋城に近い 糸島の地の利を生かし 加藤清正の許しを得て

原田家 再興の のろしを 上げたのです

他家に仕官した臣下も 刀を鍬に変えた 臣下達も 傍に 鉄砲を抱えて

名護屋に集まります

その数 600名 その気勢は 他軍を圧していました

軍議は 半島の海岸沿いに 小西軍 山沿いを加藤軍 が攻め上がるものでした

信種 率いる 3000の兵は 原田隊を先頭に 金海(キメ)近くに上陸し

洛東江(ナクトン川)を北上します

朝鮮軍は 初めて見る鉄砲に驚き 散りじりに 逃げていくばかりです

信種軍は 中流にある 友鹿里(ウロクリ)に陣を建てます

山河は美しく かつての 伽耶の民と言われた 農民達の老いた母を背負い

逃げていくその後ろ姿に 故郷糸島の事を思いだしていました


『 俺はいったい 何をやろうとしているのか

憎き 秀吉の為に 故郷の糸島の匂いのする この美しき山河を

壊してしまう 義 とは何なのだろうか

我を信じて 集まった 原田の民が望んでいるのは 』


海をはさんだ 伽耶 と 伊都 を繋ぐ いにしえの 魂の叫びに

信種 の 想い は 玄海の海 のように 激しく 震えるのでした

戸惑う兵を前にして 原田信種 は 叫びました


『 我が軍 に 義 なし 』


驚いたのは 朝鮮軍でした やがて 沙也可と呼ばれた 原田信種 と

原田軍は 銃砲を 南に向けたのでした。



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司馬遼太郎 さん



司馬遼太郎 は 「韓のくに紀行」の中で こう書いています


『 国家という面倒なものが無いに等しかった 古代を

我々は その洋上の街道をゆく時 懐かしまざるをえない

そういう時代 朝鮮人は日本へ冬に来た、

冬になると 風は 日本に向かって吹くからである

我々 日本人の血に 朝鮮半島通過の血液が混じるのは

この海域を吹く風がそれを 運んで来たのに ちがいない 』



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糸島二見ヶ浦





春の穏やかなる 3月3日 伊都国を訪ねます

女神 が 眠る この里に 海を渡って吹く風は

沙也可の魂 を 運んでくれるでしょうか






by nonkei7332 | 2016-02-29 23:40 | 古代史 | Comments(0)


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「鉄の王キムスロ」で ソクタレ を演じる イ・ピルモ さん




新羅の国の王朝は

朴氏・昔氏・金氏 の族長が 国を治めてきました

特に 卵が絡む王として有名なのが 第4代 昔脱解(ソクタレ)王 です

この王様 倭人の血を引いた 王だったのです

朝鮮の歴史書『三国史記』にはこう書かれています

《 倭国の東北1千里のところにある多婆那国 の王様が

女人国(不明)の王女を妻に迎え王妃としました


大妃は 妊娠してから7年後に大きな卵を産みました

王様は不吉だと言って 捨てるように言います

王妃は捨てるに忍びず 卵を絹に包んで宝物と一緒に

箱に入れて海に流しました

卵は やがて 伽耶国 に流れ着きますが 人々は怪しんで

箱を引き上げようとはしませんでした 箱はさらに流されて

阿珍浦の浜辺(慶州)に打ち上げられました この時 紀元前19年でした

老婆がその箱を開け 中にいた男の子を育てます

男の子は立派に成長し 第二代南解王の娘を娶り

軍事・国政を担う大輔の地位につき

西暦57年 新羅の第4代脱解王 が誕生します 》

また 歴史書『三国遺事』によると

初代からの 朴氏の王族ではないので 姓がわからず

ただ 箱が流れ着いた時にそばに 鵲(かささぎ)がいたことから

鵲の字を略して 「昔」を姓としたとあり

箱を開いて生まれてきたことから「脱解」を名としたと書かれています

西暦57年という年は 漢の光武帝が倭国王に金印を授けた年です


さて 問題なのは 多婆那国 とは何処なのか という事です

丹後国 だったというのが 主流をしめていますが

《多婆那》は 《玉名》(熊本県玉名市) であったという説があります

鵲(かささぎ)がいた国と考えれば 筑後の玉名しか考えられませんし

もともと イザナミ や スサノオ を 昔氏 を名乗っています

二人とも 新羅とは縁のある人物でした

日本書記には スサノオ は 高天原を追われ 新羅の国に行きますが

「私の住む国ではない」といって 息子 五十猛神(イソノタケル)とともに

渡来してきたとありますし

天日槍(アメノヒボコ)は 新羅の王子で

妻のアカル姫を追って 母国伊都国 (糸島) に渡来してきたと

筑前風土記には 書かれています

そう考えれば 多婆那 とは 玉名 であり 狗奴国 だったのかもしれません

脱解王 は 狗奴国 の王子だったのです


話は 韓流ドラマ 「鉄の王 キムスロ」にもどりますが

このドラマの中にも 脱解王 は 《ソクタレ》として

キムスロ の ライバルとして登場します

ここでは 親に捨てられ 伽耶国に流れ着いた ソクタレは

鍛冶職人として 力をつけ キムスロ と鉄器の製造技術を競います

やがて 新羅の将軍となり


伽耶国をめぐって キムスロ と戦いますが 最後は キムスロ を認め

自分は 新羅の王となるというストーリーでした


〈伊都国〉と〈狗奴国〉に 出自をもつ 《金首露》と《昔脱解》が

〈伽耶〉と 〈新羅〉をめぐって 対立する

倭国における 対立が 半島でも繰り広げられたといえば

なんと 興味深い 話なのでしょう







by nonkei7332 | 2016-02-28 15:00 | 古代史 | Comments(0)


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「鉄の王キムスロ」で キムスロ を演じる チソン さん




古代朝鮮の国々は 倭国と密接な関係をもっていました

とくに 伽耶 は 古くは 金海伽耶 と呼ばれ

歴史書(魏志倭人伝)には 狗邪国 狗邪韓国 と書かれ

倭国の中の 一つの国家として 位置づけられています

金海金氏 の 始祖として 伽耶国を建国したのが

『 金 首 露 』です


建国神話によると 金首露は 天降った6個の金の卵の中から生まれ

一番最初に殻を破って世に出てきたので首露と名づけられた

6個の卵からそれぞれ生まれた男の子たちは

伽耶六部族国家の長となり 後にこれらの部族国家が

金首露の下に統合されて 西暦42年 伽耶国が建国されたとされています

そういえば 高句麗も新羅も伽耶も 半島国家の始祖は

神話の中で ほとんどが 卵から 生まれています

いずれも 他国から 流されてきた 王子 だったようです


韓流ドラマ に 『 鉄の王 キム・スロ 』があります

韓流歴史ドラマから 半島の歴史を学んだ 私にとっては

当然 何度も見た ドラマ です


《あらすじ》

狗邪(クヤ)国は優秀な製鉄技術によって栄えているが、

9つの村の部族長たちの合議制で成り立っていて王がいない国だった

北方から来た子が王になるというお告げを受けた祭司長イビガは

乗った船が難破して流れ着いた チョンギョン(スロの母)が

そのお告げに関係すると考え求婚する

チョンギョンも自分の子が王になると信じ

イビガを受け入れて イジンアシ(スロの異父弟)を生み

王になる教育をほどこしていく

だが お告げの主はチョンギョンの前夫との子供で

難破で死んだと思われていた キム・スロ のことであった

浜で拾われたスロは鍛冶長チョバンの子として


優秀な鍛冶職人に成長していく

スロは自分が王になるなどとは思っていない

だが 運命は彼に王への道を示し 数々の試練を乗り越えて

成長していく スロは やがて 王となり

鉄器製造技術を武器に伽耶国を海洋貿易国家へと導いていった



糸島半島 に 可也山(かやさん) という 山があります

綺麗な山で 糸島富士とも呼ばれています

伊都国は 製鉄の技術を持った 国でした

おそらく 伽耶国 と 伊都国 は 海を隔ててはいますが

同じ国だったのかもしれません

キムスロ の 王妃 はインドの豪商の娘 許黄玉(ホ・ファンオク)です

キムスロとの間に10人の子をつくります

10番目に生まれた 娘 が 《卑弥呼》だという説があります

糸島伊都国は

キムスロの娘 女王卑弥呼の治めた 国だったのでしょうか





by nonkei7332 | 2016-02-24 16:30 | 古代史 | Comments(0)

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『 平成28年第5週(2月1日〜2月7日)

感染症発生動向調査に基づく インフルエンザの1定点あたりの

患者報告数は「59.14人」となり、

警報の開始基準値である「30人」を超えました 』

福岡市が発表した

そういえば 子供達のマスク姿も多くなって 咳をしている子もいる

気候も 三寒四温の連続で

大人であっても体調の管理が難しい日が続いていて

用心しなければと思ってはいるものの

外出後の 手洗い うがい をしていたかといえば

はっきり言って NO である

17日朝 眼が覚めると ちょっと 様子が違う

近年 咳き込む事も無かったのに 咳が出る

それも 胸に響くかすかな痛みもある

熱を測ると 平熱だったが ちょっと寒気もする

用心するに越した事はないというから

ボランティアを他の方に お願いし さっそく 主治医の元に駆けつけた

毎月一度は 必ず 訪問するようになって 4年になるから

私の身体の事はよくご存知な先生である

改めて 薬手帳を見ても 風邪の薬を処方された 記録もない

『 先生 口惜しけれど やっちまったみたい 』

『 日頃の慢心が油断を招くと言いますからね 』と笑っておられたが

もし明日になって 熱が 38度をこえたら インフルエンザ感染の

疑いがあるので また来てください 検査しますから と言われて

一応 普通の風邪薬の処方をしていただいた

子供の頃 父がよく言っていた

『 風邪なんてものは 力一杯食べて 力一杯寝たら 治る 』

そう思ってみたものの なぜか 食欲も無く

お粥と白菜の漬物だけで済ませた

悪寒がする ので 熱を測ると 38.3度 。

週末に予定していた イベントに行けないどころではない

そのうちに 腰や背中が痛みだしてきた 満身創痍 だ

考えてみたら 独り住いの病気程 心細いものはない

かといって 救急車を呼ぶほどでもないから ひたすら我慢と決めた

翌朝 熱を測ると 39.1度 すぐに 病院のベットに転がり込んだ

やがて 看護婦さんが来られ 検査しますと言って

鼻の中に 検査棒を突っ込んで 15分ほどでわかりますよと言われた


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先生が来られて 『 インフルエンザA型 です 』と 言われ

注意する事をいくつか言われたが よく覚えていない

『 良くならないなら また来てください 水は飲んでますか 』

と聞かれたが 返事に躊躇していると

『 点滴をしますので それが終わったら帰られていいです 』といわれた

何年ぶりかの点滴だった

一滴一滴 管を通して 私の中に入ってくる ブドウ糖 をみていると

睡魔がやってきて 寝てしまったようだ 眼が覚めると 点滴も終わり

幾分 楽になったような気がした

帰りに 処方された薬が 『 タミフル カプセル 75 』

意識障害などの 副作用もあるといわれた 薬だが

今はこれに頼るしかないと思った


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タミフル



今日は 昼まで 寝ていた 喉の痛みと 咳は 少し残っているが

熱を測ると 平熱 だ タミフル の効用には 驚く

発症して 48時間以内の服用だと 重症化を防ぐ事ができるとあるから

早めの検査が良かったのだろうか

先生に電話で報告すると 『 2、3日 安静にしとくように 』といわれた

日本の諺に

『 禍は 口より出でて 病は 口より入る 』とある

エチケットマスク 忘れないようにしよう












by nonkei7332 | 2016-02-20 18:00 | 日記 | Comments(2)

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木偏に 冬と書いて 柊 (ひいらぎ) と読みます


冬に白い花をつけます

葉先が尖っていて 人の進入を防ぐ為でしょうか 垣根によく使われます

この 柊 は 昔から 邪気を祓うとされて 庭の北東(表鬼門)に 柊 を

南西(裏鬼門) には 南天を植えると 良いと言われています


伝承によれば 昔 山神達は 杖をついて 山から下りてきたと言います

そして 山の戻る時には その杖を 地面に突き刺して帰りました

やがて その杖から 根が生えて 花が咲くと

村 の その年は 豊年満作 になるといわれていたのでした

その杖は 〈柊の木〉だったのです

山神 は 村の土地の精霊に向かって 必ず 根を生やし 花を咲かせよと

祈っていったのでしょうか それとも

鉄の民であった 山神が 多くの木を伐って 麓の田畑を荒らした

償いだったのでしょうか


渡来の神 が 木を植えていったという故事があります

紀の国 の 起源である 佐賀の〈基山〉には

スサノオ が 高天原から追放され 子供の五十猛神 と新羅に行き

持ち帰った木の種を最初に植えたという伝承が残っています

(基山山頂には「日本植林発祥の地碑」があります)


《柊》は 《疼木》という 漢字でも使います

もともと 〈ひいらぐ〉という意味から ついた名前ですが

〈ひいらぐ〉は ヒリヒリ痛む とという意味です

やまいだれ に 冬をいれた〈疼〉の字は

〈うずく〉とか〈いたい〉と読みます

若い頃の 痛みも 疼きも いつかは 消えていきます

柊の葉も 若い頃には 棘だらけですが

必ず いつかは 丸くなっていくといいます

人も 歳を重ねるごとに 丸くなるといいですね



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by nonkei7332 | 2016-02-17 17:40 | 古代史 | Comments(2)


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国会予算委員会



日本人は マツリゴトが好きな 人々が多いのでしょうか

テレビでは 朝から イクメン休暇を取った国会議員が 不倫して

『本当に 本当に 申し訳ありません』と頭を下げています

イクメン休暇を取ったのが悪かったのか

国会議員だったのが 悪かったのか

不倫したのが 悪かったのか

見てる ほうも 何と無く 訳が解らなくて 馬鹿らしくなってしまいます

こんなのが 毎日 続くのですから たまったものではありません


マツリゴトの起こりは 古来 祭りの日に

村中の人が集まるので 村の決め事を 神に神託をして決めたのが

始まりだったのです

今の日本の神様は 金神様 だから マツリゴト が決める事も

おおよそ 見当がついてしまいます

いつになったら 改宗してくれるのでしょうか ため息が出てきます



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パチンコ店



日本人は 賭け事が好きな人 多いみたいです

そもそも 賭け事とか 博打 とかは

祭りの中での 吉凶を占った 事が 始まりだったようです

祭りの日には 相撲が行われ 闘犬や闘牛や 綱引きまで


年に 二度だけ

勝った負けたで 村中 大騒ぎできたのが お祭りだったのです

パチンコ 宝くじ 競艇 競馬 毎日 大騒ぎしている人達

全く 困った人たちばかりです


日本人は お酒が好きな人が 多いみたいです

そもそも お酒とは 神様に供える 年に二度だけ 作った

最高級の お供え物だったようです

年に二度だけ 神様のお許しを得て ご相伴に預かるわけであって

いつでも飲めるものではなかったみたいなのです

毎日 晩酌で一杯なんて コンビニに行けば いつでも買えるなんて

昔では 考えられなかったのですけど



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日本人は 晴れ着で 着飾る事が 好きな人が 多いみたいです

そもそも ハレという 祭りの日にだけ 着られたのが 晴れ着だったのです

帯閉めて 着物を着る事が 自分でできない人が 多いのですが

着物を 着る事だけが ハレ着ではなく

普通の日とは違って 着飾ることが 晴れ着の本質ですから

やたらと 毎日 着飾っていたら

昔は おかしな奴だと思われていたのでしょう


こうやって考えてみると

日本人ほど 祭りが 大好きな 人々は いないようです

毎日が お祭りなんでしょうね

年に 二度だけ 神様をお迎へ していたのが 祭りだったのですが

毎日 毎日 来る日も来る日 神様を 呼んでいたのでは

最近では 神様も 疲れて ストレスを溜めておられるのではないかと

それだけが 心配です








by nonkei7332 | 2016-02-14 08:10 | 日記 | Comments(0)


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《比叡山延暦寺》の根本中堂の脇を歩いていた 私は

ひとつの 歌碑の前で 足が止まりました

しばらくの間 私の頭の中は 小さな驚きに包まれてました

・・・宮沢賢治 が ここにも 来ていたんだ ・・・


《 ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨 成らしめたまえ 》


( 最澄 の 教えである 法華経が あまねく 人々の心に届く事を祈る )

という意味なのでしょうか この歌碑の背景にはこんな事がありました


この歌を詠んだのは 賢治 25歳の時でした

宮沢家の家業は質屋で


代々 熱心な 浄土真宗の信者でしたので

賢治も仏教には 幼い頃から興味を持っていました

そういった環境の中で 法華経 に強く惹かれるものがあり

多くの経本 を 読みあさります やがて その想いは 行動へと変わります

法華経を信奉する日蓮宗の在家教団「国柱会」に入信したのでした

賢治 24歳の時でした

家族にも改宗を勧めますが 反対され ギクシャクとした親子関係の中

賢治は家を出て 上京します

東京では 家からの仕送りを拒否し 布教活動に のめり込みます

そんな 賢治の状況を心配した 父は 賢治を関西への旅行へ誘ったのです

伊勢・京都・奈良 を 訪ねたようです

賢治を関西旅行に連れて行った 父親の目的は何だったのでしょうか

それは 比叡山延暦寺は 日本仏教の聖地であり

親鸞(浄土真宗)も日蓮(日蓮宗)もこの地で 修行した事を通して

仏教はひとつなんだと 知って欲しかったのでしょうか


最澄(伝教大師)は日本に於ける 天台法華宗の開祖です

天台大師と呼ばれた 唐僧の智顗(ちぎ) が 法華経を根本として起こした

天台教義を 唐に渡り 学びました そして 最澄は 帰国後 延暦寺において

天台教義に加えて 禅・念仏・密教 をも含めた四宗兼学 を目指し

日本に於ける 総合仏教の建立を目指したのでした




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延暦寺 大講堂




宮沢賢治が 比叡山で詠んだ 歌は 他にもあります


《 われもまた 大講堂に鐘つくなり その像法の日は去りしぞと 》


〈像法の日は去り〉とは 仏教の歴史観に 〈三時〉という考えがあります

釈迦は自らの入滅後の未来について正法・像法・末法という三つの時代が

くる事を予言します

正法・・釈迦滅後1000年迄 (教え・修行・悟りが備わっている時代)

像法・・釈迦滅後2000年迄 (教え・修行だけの時代)

末法・・それ以降10000年 (教えだけが残る時代)

一般には 末法の始まりは 1052年だと言われていますので

最澄の時代は まだ 像法の時代だったのです(最澄入滅 822年)

ちなみに この末法思想は 人々に大きな 不安を与え

鎌倉時代に起こる 新仏教の萌芽を呼び起こします

法然・親鸞は 念仏(南無阿弥陀仏)を唱える事で

人々は 死後西方浄土へ行けると説きます

日蓮は 法華経の題目(南無妙法蓮華経)を唱える事で

この世で 即身成仏できると 説きます

宮沢賢治 が 選んだのは 日蓮仏教でした

賢治は 比叡山で 最澄の法華経の魂を感じながらも

今はもうあなたの生きた 良き時代ではない

末法の濁悪の世に生きる者として 新たな思いを込めて

大講堂の側にある 梵鐘の鐘を突いたのでしょう


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梵鐘を撞く 親子
《 我が息子と孫の後ろ姿 》




その後の賢治は 東京へ戻るのですが

妹トシが 病に伏した事をきっかけに 故郷に戻り 農学校の教諭となります


妹 トシ は 賢治にとって ただ一人の理解者だったのでしょう


トシ は 家族が 反対する中 ただ一人


国柱会 への 改宗 をしていたのでした

翌年 大正11年11月27日

宮沢賢治の人生の中で最も悲しい日となります

最愛の妹 トシ が 亡くなります

賢治 の 第一詩集《 春と修羅 》の中に

私が 今まで 読んだ詩の中で 最も悲しい詩だと思う 三編の詩があります


〈永訣の朝〉〈松の針〉〈無声慟哭〉


《 無声慟哭 》


こんなに みんなに みまもられながら

おまへはまだここでくるしまなければならないか

ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ

また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき

おまへはじぶんにさだめられたみちを

ひとりさびしく往かうとするか

信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが

あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて

毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき

おまへはひとりどこへ行かうとするのだ ・・・




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賢治 の 修羅の道 が ここからまた始まるのでした





〈参照〉拙ブログ《宮沢賢治と木偶の坊》 (2015/5/13)

http://hisamitsu.exblog.jp/24472037/







by nonkei7332 | 2016-02-07 19:15 | 京都 | Comments(0)


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能面 「般若」「山姥」 (福岡市博物館所蔵)




今日は 《節分》です

そもそも 〈季節を分ける〉日のことを言ったので

年に四回の節分があるのですが そのうち 一年の始まりとされる

〈立春〉の前日だけが 節分として 残っています

暦の上では 今日は 大みそか みたいなものですね


さて 先日は 《 鬼 》の話をしました

鬼は 山の幸を麓の村にもたらす 山の神の使いだといいましたが

もう一人 山に棲む 怖い 妖怪 の姿をした 山の神がいます

それは 《 山 姥 》(やまんば) です

昔ばなしには 鬼や山姥の話が多く残っています

そんな昔ばなし の中には こんな お話がありました



《 節分の鬼 (岩手の話) 》


昔、ある山里に、

妻も子供にも先立たれた一人暮らしの貧乏な爺さんがいました。

爺さんは毎日二人の息子のお墓にお参りすることだけが楽しみでした。

やがて冬になり、村はすっぽりと深い雪に埋もれ、

爺さんもじっと家の中に閉じこもっていました。

節分の日、寂しさに耐えられず、爺さんは雪に埋まりながら

二人の墓参りに出かけました。村のどの家からも

『鬼は外、福は内』と楽しそうな家族の声が聞こえてきました。

爺さんはしみじみ一人ぼっちが身に染みて、

涙があふれて止まりませんでした。

墓参りから帰った爺さんは、息子が生きていた頃に作ってくれた

鬼のお面を取り出して、昔の楽しかった時を思い出していました。

『妻も子供ももういない、ましてや福の神など どこにもいやしねえ』

そう思った爺さんは、鬼の面をかぶり、

わざとあべこべに叫びながら豆をまき始めました。

『鬼は内!福は外!』

すると、爺さんの家に誰かが訪ねてきました。

それは、節分の豆に追われた鬼たちでした。

この家に客人とは何年ぶりでしょう、

たとえ鬼でも爺さんは嬉しくなりました。

鬼たちはみんな爺さんの家に集まり、持ってきた甘酒やご馳走で

大宴会が始まりました。やがて朝になると、鬼たちは

「来年も来るから」と上機嫌で帰って行きました。

やがて春になった頃、爺さんは鬼の置いて行ったお金で

二人の墓を立派に作り直しました。そして

『おら、もう少し長生きすることにしただ』

『来年も鬼を呼ばないといけないからなぁ』

と晴れ晴れした顔で言いました。

(日本昔ばなし より)





《 ちょうふく山 の 山んば (秋田の話) 》


ちょうふく山に住む 山んば が子どもを産みました。

ふもとに住む村人に祝いの餅をもって来いといいつけると

村人は餅をついたものの、誰も怖がって持っていこうとしません

村一番の乱暴者のカモ安と権六に頼むことになりましたが

二人とも山んばが怖くて、道を知らないから行けないとごねました。

そこで、村一番の年寄りの杉山の 大ばんば が

道案内役としてついていくことになりました

山を登っていく途中で山んばの声が聞こえると、

カモ安と権六は 大ばんば と餅を置いて逃げていってしまいました

大ばんば は しかたなく餅をその場において、頂上まで行き、

山んばの家を訪ねて、事情を話しました

すると昨日産まれたばかりの まる という子どもが

ひとっ飛びで餅を担いで帰ってきました

その後 大ばんば は 山んば に引き留められて二十一日間

山んばの世話をして、そのお礼にと錦の反物を貰って帰ってきました

村に戻ると おばんば が死んだものと思われていて

ちょうど おばんばの葬式をしているところだったのです

大ばんば は事情を話して、

山んばからもらった錦をみんなにも分けてあげました

不思議なことにこの錦の反物は

いくら使っても なくなることがなかったといわれています

(日本昔ばなし より)


鬼と山姥 は 昔ばなしの中では 温かい心をを持った

麓の村に 多くの幸を届けた 神々として生きていました

特に 山姥伝説は 山の神は 女神だったことを 教えてくれます

そういえば 富士山の神は 浅間神社の 祭神

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)でしたし

脊振山の脊振神社の神は 市杵島姫(いちきしまひめ)でした

宝満山の竈門神社の神は 玉依姫(たまよりひめ)

香春岳の香春神社の神は 辛国息長大姫(からくにおきながおおひめ)

別名を 宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ) あの 稲荷の女神です


このように 山の神は 女神 ばかりです


だとすれば 山姥 は どんな 女神だったのでしょう


昔ばなしの中には 餅と反物 を交換していましたね

機を織るといえば 七夕の起源とされる

《棚機津女(たなばたつめ)の伝説》があります

棚機津女とは 七月七日に訪れる神様を迎えて祀るため

町や村の乙女が水辺の機屋に籠もって機を織るというものです

七月六日に訪れた神様は 翌日の七日に帰ります

このとき水辺で禊ぎ(みそぎ) を行うと

災難とのかかわりを取り去ってくれると考えられています

もう一つ《山姥の洗濯日》という 伝説があります

北九州では 暮れの十三日 または 二十日には 必ず雨が降るから

水を使ってはいけないとか 洗濯をしてはいけないとする日があります

雨を司る山姥(山神の巫女)の禊の日であったものだといわれています


山の幸と麓の村の幸を交換するのが 《市》の起源だとされていますが

この〈市〉の 名前がついた 女神が 一人 おられます

《 神大市姫 》(かむおおいちひめ)

別名を 大歳御祖神(おおとしおやのかみ)とも呼ばれています

この女神は 木花咲耶姫 のお姉さんです

あの 醜い 磐長姫(いわながひめ) と呼ばれた 女神です

龍神 とも呼ばれていて

辛国息長大姫(稲荷神) のお母さんです

実は 去年 京都の松尾大社の奥宮 松尾山から流れる 滝のそばで

この女神にお会いしました

そこは 身震いがするほどの 霊域でした

山姥の女神の名前が 書かれていました


《 罔象女神 》(みずはのめのかみ)



水の全ての禊を司る 女神


あの 《 瀬織津姫 》(せおりつひめ) ともいわれています


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松尾大社 滝御前



小さな頃の 我が家の慣例 元旦の朝 銭湯へ行く理由を

兄が言ったように 「正月だから」という意味で

なんとなく そんなものだと思っていました

最近 そのより深い 理由を知る事ができました

町の銭湯も少なくなりましたので 若い人は知らないでしょうが

昔の銭湯の 壁絵には 必ずといっていいほど

《富士山の絵》が描かれていました

長年 この富士山 だけの絵 を描かれていた人がこんな話をされていました


『この絵は 海でも 花でもいいわけではない

何故なら この絵は 宗教画だからです

富士山は 神の山です

山から流れ出る 神水で 心身ともに 浄めることは

禊(みそぎ) の儀式なんです 』


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銭湯富士山絵


今日は 節分の日 暦の上での 大晦日 だと いいました

昔のように 富士山の描かれた銭湯で

新しい季節の始めに 家族揃って身を浄めたいものですが

家族も 銭湯も もう 私のそばには ありません

時は いつのまにか ひとつの昔ばなしを 消そうとしています


妖怪にされてしまった 鬼 や 山姥 の 神

よみがえれ !! 祓い浄め の 水の女神よ !!

この 汚れきった 世の中を 洗い流すために








by nonkei7332 | 2016-02-03 12:09 | 古代史 | Comments(2)