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《 磯 良 の 海 》

hisamitsu.exblog.jp

磯良の海に想いを寄せて

<   2015年 12月 ( 8 )   > この月の画像一覧



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冬の 磯良の海
たそのくれとき(黄昏)




今年も あと三日となりました

一年間 とりとめもない 拙ブログを見ていただいき

ありがとうございました

今月は 記事の投稿も 少なく 反省しております

今 新たな テーマに向けて 充電中です


高齢者にとって 何が大事かという 質問に

ある方は それは 『教育』と『教養』だと言われたそうです

《教育》とは 今日行くとことはあるか ということで

《教養》とは 今日何か用事はあるかということだそうです

確かに 家の中に引き込んでいたら

ますます 老いていくだけですからね

そういう意味で 一年間 ボランティアを 続けられたことは

私にとって 心身にわたって 大きな 幸せでした

京都の旅も 新たな 発見をさせてくれました

そして なによりも 新たな 研究テーマを 私に 与えてくれました

来年は 今年よりも もっと 沢山の用事をつくり

外に出かけるようにしようと思っています


約三年間 ルーツを追いながら 古代史について 学んできました

でも まだまだ 郷土歴史愛好家 の範疇だと思っています

それでも 解らなかったことが 少しずつ 理解できるようになりました

石の上にも三年といいますが まだたったの三年です

長い間 研究なさった方達の ブログ や 書物を 読みながら

その 行動力と 知識には 敬服するばかりです


歴史を読むにしても 今を そして 未来を語るにしても

大事なことは 何が本当で 何が嘘なのか を

しっかりと 見極める力だと思います

愛すべき 子供達の 将来の ためにも

今 を 生きている者としての 務めとして


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松の花



《 松の花 花数にしも我が背子が 思へらなくに もとな咲きつつ 》

万葉集17-3942

( 平群女郎(へぐりのいらつめ)から 大伴家持への歌です )

【 私訳 】

松の花は 花数にも入らぬような 目立たない花です

そんな 私も あなたにとっては 数にも入らない者 でしょうが

しかし いつかは あの松の花 ように

あなたへの思いを咲かせてみせます


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正月用の 玄関飾りを作ってみました








by nonkei7332 | 2015-12-28 20:11 | 日記 | Comments(2)

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冬至の夜 博多駅前



昔は 《冬至》の日を 元旦といって

この日から 一年が 始まる 慣わしとします

柚子湯に浸かり 厄払いの禊(みそぎ)として身を清めたのでした

強い香りで 邪気を遠ざけたのでしょうか

冬至の事を 《 一陽来復 》ともいいます

広辞苑には こう書かれていました

① 陰が極まって陽がかえってくること。陰暦11月または冬至の称。

② 冬が去り春が来ること。

③ 悪い事ばかりあったのがようやく回復して善い方に向いてくること。



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東京新宿 穴八幡宮




東京新宿の地下鉄東西線の早稲田駅の近くに

『穴八幡宮』という神社があります

小高い丘の上に社殿があって

学生時代 近くに住んでいた 私は よく 散歩した場所です

夏には 蝉が鳴き 大木の木陰で 昼寝をしていたのを憶えています

このお宮さん 冬至の日には まだ 日が昇らない明け方から

長い行列ができます

《一陽来復のお札》のお札を求める 人達です


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社伝によれば 康平5年(1062年) 源義家が 奥州からの凱旋の途中

この地に 兜と大刀を納め 八幡神を祀ったとあります

その後 江戸寛永の頃 に 南側の山裾に横穴から

金銅 の御神像が見つかったそうで それ以来 ここを

穴八幡 と呼ぶように なったと いわれています

金運のお札で有名になっています

商魂たくましい のは このお宮さんの方ですね


新たな年に向けて 人々は 《冬至》を祝います

この日から 一日一日 春が 近ずいてくるのです















by nonkei7332 | 2015-12-23 08:43 | 日記 | Comments(0)

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鳥辺野の風景



鳥辺野(とりべの) とは

京都東山 三十六峰の一つ 阿弥陀ヶ峰(鳥辺山) を中心にして

西に広がる山麓一帯のことを いいます

北は 清水寺の南から 北は 稲荷山北麓 の 今熊野に至るまでの

地域を総称しています

徒然草 に

『化野の露消ゆる事なく 鳥辺野の烟(けむり)立ちさらでのみ』

と有名な一節がありますが

平安時代の頃より 北の〈蓮台寺〉西の〈化野〉東の〈鳥辺野〉は

風葬 鳥葬 の地とされていました

「鳥辺野の煙」とあるように 南の今熊野付近には 天皇廟もあり

皇族や貴族らがここで 荼毘に伏せられましたが

一方 北側 の山麓には 身寄りのない 屍 が

あちらこちらに 転がっていたといいます


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三十三間堂



京阪七条駅を降りて 「三十三間堂」に向かいます

120m にも及ぶ堂内には 1001躰にも及ぶ〈千手観音〉が

無言で 私を迎えてくれました

圧倒される 祈りの数と 怨みの数が そこには あって

時の重みと この地が 抱えざるをえなかった

《業》というものを 感ぜざるをえませんでした


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剣神社




楽しみにしていた 「京都国立博物館」が 休館という事で

足は 今熊野を目指します 新幹線をくぐり 町並みの中に

小さな『剣神社』がありました

通称「剣(つるぎ)さん」と親しまれる神社です。

今熊野一帯の産土神です。創建年代は不詳ですが

祭神が 瓊瓊杵命(ニニギ) と 白山姫 。

お二人とも 伽耶から来られた 鉄の神様 です

稲荷の神が ここにお呼びになったのかもしれません




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この 剣神社から 泉涌寺までの山道を 歩きながら

さだまさし が 『鳥辺野』という 曲をつくっています



寂しいからと それだけで


来るはずもない 鳥辺野

山道をゆけば 散り急ぐ様に

遠近(おちこち) に寒椿の紅 道を照らす春まだき


《 アルバム「うつろい」より 》



さだまさし は もう一曲 『鳥辺野心中』という曲も作っています


茨道(いばらみち) 袖を裂く けもの道

陵墓(みさきぎ)づたいに 枯れた竹林


追いかけられるようで おそるおそる振り向けば

しづ心なくはらり 紅い寒椿

《アルバム「さよならにっぽん」より》






青い空に 寒椿の似合う

静かな 山道でした


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山道を抜けるように 北へ 歩いて行きました

途中 民家の軒下に掛けてあった 「蘇民将来のお札」を見つけました


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民家の横にあった 小さな祠の「卍」の お地蔵さん

京都では 亡くなった 子供の為に お地蔵さんを祀ります



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東山五条の交差点横にある 大谷本廟 の横には

山沿いに 多くの 墓石が 並んでいました



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八坂神社




あまりの人の多さに 清水寺には登らず

そのまま 東山通りを 歩いて 八坂神社へ 行きました



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ここでも 「蘇民将来のお札」が売られていました

京都には 古くから 〈蘇民将来伝説〉という

説話があり 今でも多くの人に 信じられています


『備後風土記』に残る

〈蘇民将来伝説〉はこんな内容です


昔。北海に坐した スサノオ(牛頭天王)が

南の海の女神に求婚しようと旅に出たとき、日が暮れたので

蘇民将来(そみんしょうらい)と 巨旦将来 (こたんしょうらい)の

二人の兄弟のところへ行って宿を借りようとした。

兄の〈蘇民将来〉は貧しかったが、

弟の〈巨旦将来〉の方は裕福で借家を百戸も持っているほどだった。

そこで スサノオは 先ず弟の方へ行って宿を乞うたが、巨旦は断った。

兄のところへ行くと「どうぞ、どうぞ」と言って歓待してくれた。

彼は貧しかったため粟の柄(茎の藁)で座をつくり、

粟飯でもてなすことしかできなかった。

この後、年を経て スサノオは 八柱の御子を連れて帰って来て、

蘇民将来を訪れ「汝の子孫は家にいるか」とたずねた。

将来は「自分には妻と娘がいます」と答えると、

「茅草で輪を形取ったものをつくり、

それを家族の腰の上につけさせよ」と言った。

将来がその通りにすると、

茅輪をつけた将来一家を除く、その地のものは皆殺しにされていた。

そこで スサノオ は、初めて

「自分はスサノオ神である。後の世に疫病が流行することがあったら、

汝らは蘇民将来の子孫であると唱えるとともに、

茅輪を腰につけよ。そうすれば疫病から免れるであろう。」

と言って立ち去って行った





祇園社(八坂神社) の起こりも

たびたびおこる 災害や疫病をスサノオの仕業と考え

スサノオの化身である 牛頭天王を祀ったところに始まったのですが

謎の多い説話です

蘇民とはいったいどういった人達なのか

何故 スサノオは 自分を助けた 蘇民までも

一人の娘だけを残して 皆殺しにしたのだろうか

何故 将来 茅輪を結び 蘇民の子孫を名乗れば

疾病を逃れられるとしたのだろうか

残った一人の娘のその後は ?

何か 裏 がありそうな話でもあります

秦氏は 遠くは イスラエルから流れてきた 王族だったとも

いわれていますが まるで ユダヤ教イスラエルの

選民思想 の写しみたいでもあります

故郷を追われ 離散した 民族が

《我らこそ 神に選ばれた民》であるとの

近東エレサレムの民の 魂が

こんなところにも 残っているのでしょうか


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祇園




日が暮れてきました 祇園 の人混みを抜け

高瀬川 に辿り着いた時には

川面は もう 一日の終わりを 告げていました


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高瀬川












by nonkei7332 | 2015-12-17 10:55 | 京都 | Comments(2)


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伏見稲荷大社




京都盆地 の東山の西麓地区 を 伏見深草 と言います

伏見は かつて「伏水」と言われていたように


地下水系が豊富な土地で 昔から 酒造りなどが行われています

深草は 草が深く生い茂る 湿地帯だったようで その後

秦氏が 中心になって ここを 開拓し

豊かな 農地へと 変わっていったのでした

平安の頃には 官人たちの別荘地になり

中世には 京都の中心地として発展していきます


この地に鎮座するのが 『伏見稲荷大社』です


祭神 は 五柱です

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)

佐田彦大神

大宮能売大神

田中大神

四大神(しのおおかみ)


秦氏の 秦伊呂具が 和銅4年(711年) に建てたと言われていますが

もっと古くは 稲荷山の山そのものが祀られていたようにも思えます

稲荷 とは何なのかに その答えがあるようです

秦氏が行った 低湿地の灌漑や治水には 欠かせない道具がありました

それは 鉄器 です 鉄製の鍬や鋤 があってこそ その事業ができたのです

それは どこで作ったのか

私は この稲荷山 こそ 産鉄の山だったと思っています

伏見稲荷大社の秋の祭り〈火焚祭り〉は

別名「ふいご(鞴)祭り」というそうです

ふいご とは タタラ製鉄において 炉口に風を送る道具です

鍛冶の神を祀った 祭りだったのでしょう


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千本鳥居





秦氏以前 この稲荷山周辺を治めていた

氏族が住んでいたとされています

その氏族とは 紀氏 でした

奈良時代 深草は〈紀伊郡深草郷〉と呼ばれていました

このあたりは 紀氏一族が 拠点としていた土地だったのです

深草の南 に 藤森神社があります

藤森神社は スサノオを初めとする多くの祭神が祀られていますが

紀氏の先祖を祀る神社だともいわれているのです


紀氏 の祖先は 〈姫氏〉とも呼ばれます

中国呉の国を追われた 海人族です

熊本 有明海沿岸 背振山南麓(佐賀武雄から鳥栖市)に流れ着いた

いわゆる 狗奴国 の祖先です

それは 神武・卑弥呼 と続いていく系統です

主に 稲作を伝えました

もうひとつの姫氏の 流れがあって 呉から 黄海を渡り

半島新羅経由で 背振山北麓(糸島)に住み着いた 海人族です

スサノオ(天日鉾)・宇迦之御魂(出雲国造)・野見宿禰 土師氏と流れる

新羅系の出雲族と呼ばれる 人達です

主に 製鉄の技術を伝えました


伏見大社の本殿前に 狐の像が左右二頭 たっています

一匹は稲穂を咥えています

もう一匹は 巻物(暦) を咥えています

鉄の民は 暦をよむ民でもありました

姫(紀)氏が この国に伝えた 稲と鉄 を象徴しているのです


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本殿前の狐像




佐賀県東部の基山町 という町に 基山(404m)という山があります

スサノオが新羅から持ってきた木を植林したとの伝説があります

この周辺の山麓を 〈基の国〉といっていていました

呉狗国 紀氏 の本拠地であったとされ 付近には 多くの墳墓があり

あの 吉野ヶ里遺跡もこの近くなのです

姫の国(呉) が 基の国となり 後世 紀の国 と呼ばれたのでしょう


私には 基山 と 稲荷山が 同じように 見えてきます


基山近くに残る 昔話に 「ふたりの長者」という話があります

田中長者 と 虎丸長者 の話なのですが

伏見大社の謎の祭神 「田中大神」とダブりますね

「田中大神」とは 筑紫の神だったのでしょうか

(詳しくは 拙ブログ 1/19 「ふたりの長者」を見てください)


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基山からの 展望



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稲荷山からの展望





もうひとつの謎は 秦氏とともに この地に住み着いていた

《土師氏》(はじし) の存在です

土師氏については 神話や 記紀には

天日鉾(スサノオ)・野見宿禰 ・土師氏 と繋がる系統だとされています

垂仁天皇の頃の話に

皇后の葬儀の時に 殉死を憂いた 垂仁天皇に 野見宿禰が

埴輪を埋める事を提案したことで 土師臣 の姓を与えられ

土師氏は 代々天皇家の 古墳造営を含めた 葬送儀礼全般に 仕切った

とされています その後は 朝廷が仏教を庇護した為に

古墳造営も無くなり やがては 勢力も衰えていきます

桓武天皇の時に 一族は 土師氏の改名を嘆願し

大江氏・秋篠氏・菅原氏 の姓をうけ 官職につきます

後世 祟りの神として 畏れられた

菅原道真公 の 祖先は 土師氏 だったのです


秦氏と 同じような出自の 氏族でもあり

同じように 歴史から 消えていった 土師氏

土師氏は 秦氏 の裏の顔 かもしれません

山に入り 来る日も来る日も 鉄を造り続けた 鍛冶の民

土蜘蛛と呼ばれ そして 鬼と呼ばれ 殺されていった 悲運の民

〈修羅〉を引きずりながら 偽りの墳墓をつくり続けた 土師の民

やがては 傀儡の民となって 歴史の表舞台から消えた

悲しみの民でした


福岡の 嘉穂郡桂川町には 土師老松神社 があります

土師氏の里としての伝承が 多く残っています

重文の「土師獅子舞」は 海を渡ってきた 獅子が舞われ

呉狗の民の 末裔を 匂わせています

近くには 「出雲」の地名が残っていて

古出雲はこの辺りではなかったのかと 思えてなりません



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伏見人形





深草の地には 多くの 土師の民が住んでいたとされています

深草土師氏は 元来 鉄の民 鍛冶の民 だったのですが

後世 この地で取れる 良質の粘土で 多くの 瓦や土器をつくります

その後 稲荷神社の 参拝者土産に作った 伏見人形は

日本の最古の土人形だと言われ 稲荷信仰の拡大と共に

全国に広まり 全国各地の 郷土人形へと繋がっていったのでした



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稲荷山 山麓





伏見深草 に鎮座する 稲荷の神は

遠く 古代中国の 姫氏 が祀った 神でした

それは 遠き海を渡ってきた 稲穂の神であり

多くの富と戦をもたらした 産鉄の神でもありました

筑紫の民であった 秦氏 そして 土師氏

九州倭国 の 神々 を ここにも 祀ったのでしょう








by nonkei7332 | 2015-12-14 17:27 | 京都 | Comments(0)


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渡月橋




松尾大社を後にして

阪急嵐山鉄道を 嵐山まで行って 渡月橋に向かいました

いい天気で 最高の散歩日和なのですが

思わぬ 壁にぶち当たりました

夥しいほどの 人の群れ です

そのほとんどが 何と チャイニーズ

太宰府天満宮 で すでに 経験してるとはいえ その比ではない。

歩道で 人が動きません 完全に 嵐山が 占拠されていました

ぐるっと一回りと考えていましたが とうとう 入り口の

《天龍寺》で 身動きが出来なくなってしまいました



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天龍寺の紅葉




前回来た時は 天龍寺の参門前に 藤袴 の花棚 があって

源氏物語 を 追体験出来たのですが

今回は無理 だな と 思っていたら

なんと Miss Purple が 私を こんな形でむかえてくれました

苔庭園の脇で見つけた 初めての出会いでした

名前は 知っていましたが 写真でしか 見たことがなかった

紫色の 小さな 実です

平安宮廷の清楚な美しさが 漂っていますね

紫色の実をびっしり付けることで

「紫敷き実」と呼ばれていたのですが

いつの間にか 『紫式部』と呼ばれるようになったようです



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紫式部の実




裏道を抜けて 京福電鉄の嵐山駅を目指しました

目的地は 太秦 の 『広隆寺』でした

秦氏の氏寺でもあり 日本で最も美しい仏像と呼ばれる

『弥勒菩薩半跏思惟像』を この目で見てみたいという 願望も

駅に着いて その人の多さに いつの間にか消え失せていました

またしても予定変更。JRの 嵯峨嵐山駅 に向かいます



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広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像





あらたな 目的地を 『真言宗総本山 東寺』にしました



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東寺五重塔





南大門から 入り 左手の 八幡宮の前は 銀杏の絨毯

拝観受付をして 池庭園を 散策しながら

目を上げると そこにあるのは 五重塔 です

高さは54.8m 国内では 最古の木造塔だと言われています



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国宝金堂






今は閉鎖されている 国宝金堂の横を通り

講堂へ入りました 二年ぶりになります

厳かな 空気に包まれた 堂内には

国宝と重文 の 二十一軆 の 仏像達が

大日如来を中心にした 立体曼荼羅 の様式で 整然と並んでいます

運良く 人が少なく ゆっくりと 拝観できました




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講堂 大日如来像






桓武天皇 は 都大路の左右に 西寺 東寺 を造ります

奈良の腐敗した 既成仏教 〈 南都六宗 〉をしりぞけ

唐から 帰った 空海 と 最澄 を 保護しました

最澄は 比叡山を中心に 天台宗を

空海は 東寺と 高野山を 拠点に 真言宗を 拡げていきます

〈平安二宗〉と言われています

新たな 日本の仏教の流れが ここから 始まります

やがて 8世紀後半には 神仏習合といって

寺院に関係のある 神 を寺院の〈守護神〉とするようになっていきます

古くは 〈奈良興福寺〉と〈春日大社〉・〈東大寺〉と〈宇佐八幡宮〉

そして 〈比叡山延暦寺〉は〈日吉大社〉

〈東寺〉は〈伏見稲荷大社〉を守護神としたのでした


明日は その 伏見稲荷大社 へ行きます







by nonkei7332 | 2015-12-08 15:17 | 京都 | Comments(0)


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松尾橋から見た 桂川




この日は よく晴れた 寒い 日になりました

京都には 比叡おろしという 北風が吹くのだと聞いていましたが

なるほど 風は 冷たさは 九州とは違います


バスで 四条通りを 松尾橋 まで行きました

バスを降りて 橋に出ると 目の前に 桂川 の 河原が広がります

鴨川とは 違って 川幅も広く 度重なる 水害が


この地域 を 悩ませた 面影が 残る 風景でした


秦氏の出自は 秦の始皇帝 の王族 の末裔だと言われています

日本書紀には 弓月君(ユヅキノキミ)が 3世紀末

朝鮮半島より渡来したことが秦氏の 渡来の始めであると記されています

また 各地に残る 《徐福伝説》の 徐福も 始皇帝の家臣であり

多くの 技術者を連れて 不死の薬を求めて 渡来したともいいます

いずれにしても いく世代 をかけて 幾度かにわたって

海を渡ってきた 秦氏は

産鉄を始め 土木 機織 醸造(酒・薬) の 異文化を

この国 にもたらし 国の礎を作っていった 人々でした

それらの人々は 阿蘇山を中心にした

狗奴国(熊襲・隼人)と呼ばれる 小国家群となり

その後 筑後 肥前 豊前 豊後 宗像 にいたるまでの 勢力を拡げ

九州王朝を支え そして その 礎となっていきます

やがて 京都 山科の国に移った 秦氏は

この嵯峨野で 桂川を治水し

紫野では 西陣織をおこし

深草では 産鉄の民となったのでした



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鳥居から 楼門




橋を渡ると 嵐山線 の 松尾大社駅

そして 松尾大社の 赤い 鳥居が見えてきます

良く考えると 四条通り の東の突き当たりが 八坂神社

西の突き当たりが 松尾大社 この意味については また 触れてみます



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秦氏の 氏神 《 松尾大社 》です

祭神は 〈大山咋神〉〈市杵島姫〉の 母子です

大山咋神 (おおやまくいのかみ) とは

賀茂社 では 鴨玉依姫 の夫であり 賀茂別雷命 の父でもありました

〈大年神〉と 〈アメノチカルミヅヒメ〉の 間の子 とあります

〈大年神〉とは 〈天忍穂耳命〉あの 海幸彦 といわれた 神 であり

〈アメノチカルミズヒメ〉とは 宗像三女神 市杵島姫のことです

つまり 秦氏の祀る 遷都以前からの祖神とは

大山咋神 と その母である 市杵島姫だったのです

「古事記」には

「大山咋神 亦の名を山末之大主神 此の神は近淡海国の日枝の山に坐し

また葛野の松尾に座す」とあります

一般には 比叡山の山裾にある 滋賀県大津市にある

全国に 2000社もある 日吉・日枝・山王神社の 総本社

《日吉大社(日枝神社)》の祭神でもあるので

比叡山のことだと思われていますが 最澄が 延暦寺を建立したのは

延暦7年(788年) になるから あとずけになります

名前の「くい(くひ)」は杭のことで 大山に杭を打つ神

すなわち 大きな山の所有者の神 を 意味するといいます

大きな山とは 何処の山なのでしょう

比叡山(838m) は 大きな山ではありません

私は その山とは 阿蘇山 のことではないかと思っています

阿蘇で最も古い『国造神社』の祭神 の

速瓶玉命(はやみかたまのみこと) は 大山咋神 のことです


大山咋神 は 狗奴国(熊襲) の 父神 であり

市杵島姫 は 狗奴国(熊襲) の 母神 です



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本殿



拝殿の裏は 岩がそびえる 崖になっています



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亀の井





松尾大社は 醸造の祖神としてよく知られています

松尾大社の 神使 は亀 です 境内の奥には

「亀の井」と呼ばれる 湧き水がありました


この水が 酒に変わった逸話は 有名だそうです



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水神の滝




〈亀の井〉の 奥には

水神の滝 が有りました「滝御前」と書いてあり

〈 罔象女神 〉(みずはのめのかみ) が 祀ってありました

ここは 間違いなく パワースポット でした



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月読神社





山門から 10分歩いて 摂社の 月読神社 に寄りました

元宮は 壱岐の 月読神社 です

秦氏 と 月 との関係 も 深い繋がりがあります

弓月国の末裔 ・月と桂 (中国伝説) ・桂川と渡月橋




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鈴虫寺





そこから さらに 10分 ほど歩くと

去年の4/5の拙ブログ で紹介した「一願成就」の鈴虫寺 があります

今回は寄りませんでした


松尾大社 には まだまだ いろんなものが隠されています

大山咋神 意味深 な 神様でした








by nonkei7332 | 2015-12-08 08:37 | 京都 | Comments(0)


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鴨川 と 高野川 に挟まれるように

下鴨神社 は 鎮座していますが その大半の部分は

『糺の森』(ただすのもり) と呼ばれる 原生林 に覆われています

広さは かつては 約495万平方メートル(約150万坪)もあったそうですが

重なる戦乱などで 現在は 約12万4千平方メートル

東京ドーム約3倍の広さだそうです



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幾筋にも流れる 小川の淵を歩いているうちに

私は 異空間の中にいました

私の中で 遠い記憶 が 蘇ります

そこには 遠い昔 この森を 歩いている 私がいました

静けさの向こうからは 牛車の音とともに

都人の ざわめきの声が 聞こえていたのでした



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参道




森の中を 縫うように 長い参道が 伸びています

千年という 時のなかで いったい どれだけの 人々が

何を思い 何を希って ここを 通って 行ったのでしょうか


『糺の森』の語源については

〈諸社根源記〉には 《浮島の里 直澄》

直澄(ただす) とは水の湧く 禊の聖地 御手洗の地

そこは 浮島の里 だったと書かれているのでした

水にかこまれた 浮島の里 とは どこなのか

私は その場所がどこなのかを 知っています

そこは 磯良の海 に かこまれた

海神の里 志賀海神社のある 志賀島 です

長く続く 参道は

まるで 志賀島に向かってのびる

海の中道のようにも 見えてきます



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海の中道 と 右が 志賀島 左が 能古島






参道の入り口には 摂社の 河合神社 があります

高野川 と 鴨川 が 合流する場所 という意味でしょうか

今は 下鴨神社の境内の中に祀られていますが

おそらく 古くは 下鴨神社とは 全く別の社であって

もっと南の 合流地点近くに 鎮座していたとも言われています

祭神は 玉依姫 ですが 下鴨神社の祭神の 鴨玉依姫 ではなく

神武天皇の母である 玉依姫 なのです

河合神社 の存在は 下鴨神社の隠された真実を探る上で

大事な意味を持っているようにも思えます



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河合神社






参道の入り口を出て

地方裁判所に沿って 歩いて行くと

ふたつの川の合流点に出ました


右が 高野川 左が 鴨川 です



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合流点


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高野川に 置かれている 飛石の中に

亀の置き石がありました



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飛石を渡って 合流した 鴨川の河原に出ます

河原の遊歩道を ひたすら 南へ 歩いていきました

白鷺が 遊んでいます

千年前も 同じ景色だったのでしょう



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歩き疲れて 四条大橋 にたどり着いた頃には

日も暮れようとしていました

鞍馬の山は 夕陽に紅く 染まっていきます




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京都一日目


紫野の今宮神社 そして 賀茂河原の賀茂社

秦氏 賀茂氏 の祖先が 追い求めた 神々 とは

遠い 筑紫 の 海神 の 神々 でした

明日は 洛西 の 桂川 です





by nonkei7332 | 2015-12-04 11:17 | 京都 | Comments(0)


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今宮神社から バスは北へ向かう

鴨川の 御薗橋 を渡ると 《 上賀茂神社 》に着きます

参道は サッカーグランドが 二面も できる位の広場になっていて

開放感に溢れていました

この辺りは 平安京遷都以前の 賀茂氏族の居住地だったようです

境内 は 質素な 趣きで 古き社を 思わせます

祭神の 賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)

「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味らしい


『山城国風土記』には こんな記述があります


《 賀茂建角身命 の娘の 玉依姫が 石川の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいると

川上から 丹塗矢 が流れてきた。それを持ち帰って

寝床の近くに置いたところ 玉依日売は懐妊し男の子が生まれた。

これが賀茂別雷命である。》


果たして 丹塗矢 の正体は ? 賀茂別雷命の 父は誰だったのか

いろんな説があるようですが

大山咋神 (松尾大社の祭神) が本命みたいです


松尾大社でも触れてみます



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境内の中には 二つの川が流れています

西に 御手洗川 東に 御物忌川 楼門付近で合流して

〈ならの小川〉と名前を変えて 境内の東を流れていきます

川沿いは 散歩道 最高の癒しの空間でした


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川沿いを歩いて 社外に出ると 川は 明神川と名前を変えて

神官達の住む 社家町を流れていきます

室町時代から あるという この社家町 「社家町七家」といって

今も 書院造の低い屋根の古い家々が残っています

川沿いのギャラリーで ひとやすみ。


再び バスに乗って 《 下鴨神社 》


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正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」といいます

祭神 は

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

その娘 玉依媛命(たまよりひめのみこと)

ということは 賀茂社(下鴨神社・上賀茂神社) に祀られている

賀茂氏の 祖神 は 親子三代ということになります


賀茂建角身命 ー 鴨玉依姫 ー 賀茂別雷命

ここでは 賀茂建角身命 とは 誰なのかということですが

玉依姫 の 父と言えば 豊玉彦 です

賀茂建角身命 = 豊玉彦 = ヤタガラス ということでした


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ヤタガラスの像


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御手洗 は 舟形の磐座石 でした

賀茂氏 は 海人族 だったというのがわかります



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輪橋


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光琳の梅



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御手洗社




「足つけ神事」や「矢取の神事」などの祓の神事が行なわれる所で

常には水は流れないが土用になると池底から水が湧き出てくるという

鴨の七不思議 のひとつだといわれています

御手洗池 には 瀬織津姫 の 魂魄が漂っていました


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ちょっと 寄り道

国歌「君が代」は

古今和歌集巻七 賀歌(がのうた)にある歌です


わがきみは 千代にやちよに さざれいしの

いはほとなりて こけのむすまで


詠み人知らずの歌です 平安歌人の歌ではないようです

そもそも 万葉集にしても 古今和歌集にしても

詠み人知らずの歌の多くは

倭歌 (筑紫の歌)だと思って間違いないようです


この元歌があります


志賀海神社の 神事の中で 歌われています


君が代(我が君)は 千代に八千代に 

さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで

あれはや あれこそは我君のめしのみふねかや

志賀の浜長きを見れば幾世経(へ)ぬらん

香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代に

今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船になりにける

あれはやあれこそや安曇の君のめしたまふ御船になりけるよ



私達の王様 安曇の君 が 舟に乗って こられる

そんな 民の王を讃える様子を歌った 喜びの歌です

安曇の王と 呼ばれたのは 九州王朝の君主のことです



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境内を 一回りして 楽しみにしていた

『烏の縄手』といわれる


参道 糺の森(ただすのもり) へ








by nonkei7332 | 2015-12-02 23:21 | 京都 | Comments(0)