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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

<   2015年 11月 ( 11 )   > この月の画像一覧




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大徳寺 山門




臨済宗 総本山 大徳寺

京都でも 有数の規模を持つ 禅宗寺院

とにかく 広い敷地に 多くの 塔頭 が建ち並ぶ



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多くの 文化財が残っていると聞いていたが

なにしろ そのほとんどが 非公開



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綺麗な庭園がいくつもあるが これまた見れない

雨も降っているし 長居は無用と決めて

今宮神社 に戻る事にした



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by nonkei7332 | 2015-11-28 08:40 | 京都 | Comments(0)


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今宮神社 楼門



どんより曇った空だったが


『 お父さん 雨はふらないと思うよ 』という


嫁 の 言葉を信じて 傘を持たずに 出た



地下鉄烏丸線で四条で降り

上賀茂神社行きの4番のバスに乗る 千本木通りを 北へ 向かう

佛教大学キャンパスを過ぎると 右折して 今宮通り

なだらかな坂を下り 下り終わったところが 今宮神社だった

紫野 (むらさきの) と呼ばれた この辺りは

昔から 洛北七野


( 内野・北野・平野・萩野・蓮台野・紫野・上野 )


と 呼ばれた丘陵地で


朝廷の禁野 として 御猟や遊覧の野原だったという



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真っ赤な楼門が ひと際目立つ 『今宮神社』

左右に大きな提灯と 簾が旗めく

なんと なんと 『三階松』の社紋なのだ



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本殿

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この社 の由来をみると

平安京遷都の前には 年代はわからないが

スサノオを祀った 疫神社 だったらしいく八坂神社と同じように

たびたび起こる 疫病や災厄 を鎮める為の 「御霊会」が営まれ

「紫野御霊会」と呼ばれたようだ

祭神は 〈大己貴命〉〈事代主命〉〈奇稲田姫〉の 三柱

今宮というのは 新たに設ける宮 という意味で

何か今宮という神 が 存在するわけではないと教えていただいた

近くの 賀茂社 よりも 八坂神社に近い 神社なようだ

朝廷の 崇敬は厚く 社殿の修復なども繰り返されている

武家からの 崇敬も特に厚く

秀吉は 秀頼公出生の年には 御座所 を設けている

江戸時代には 氏子に中で 西陣の機業 が発展し

この地に生まれた 桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母) は

西陣への愛郷の念が強く 祭事の復興や 神域の整備に 大いに努めたようだ

特に 末社 の 「織姫社」の 祭神は 『栲幡千千姫命』

高皇産霊命 の女で皇祖天之忍穂耳尊の妃であり

天火明命と邇邇芸尊の御母にあたる

豊秋津姫 (とよあきつひめ)だとされる

西陣の人たちには 織物の祖神として強く敬われている



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楼門の右手に 摂社 「宗像社」がある

お目当の 台座には 鯰の彫り物が あった

狗奴国の鯰が ここにも かと 考えると 想いが深い



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左手の斜面には 摂社「月読社」

階段は 朱色い紅葉の絨毯

雨に濡れた 木々も 美しい



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末社 月読社

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社務所で 売られている 御守りの 「やすらい人形(ひとがた)」

朱い 人形には 「蘇民将来子孫也」の文字が書いてある

氏子達の 家々には このお札が 貼られているのだろうか



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婚礼の パンフレット撮影なのか

後を追っかけてみた



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東門前にある 今宮名物 「あぶり餅」の店

かざりや屋さん と 一和さん

「あぶり餅」は 親指大のお餅にきな粉をまぶしてから

炭火であぶり 甘辛い白味噌だれをたっぷり絡ませたもの



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小糠雨に濡れながら

洛北紫野 を 大徳寺に向かった








by nonkei7332 | 2015-11-28 08:30 | 京都 | Comments(2)


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《 アーカイブ 》

最近よく聞く 言葉です

テレビ 大好き人間の 私の楽しみは

時々 NHKのアーカイブス番組 を見る事です

歴史や 自然/紀行 の番組は よく見ています


そもそも アーカイブ (archive) って 何なのか 調べてみました


アーカイブ とは

重要記録を 保存・活用し、未来に伝達することをいう。

日本では 一般的に 書庫や保存記録と訳されることが多いが

元来は 公記録保管所、または 公文書の保存所、履歴などを意味し、

記録を保存しておく場所である


放送用語とばかり おもっていましたが

なるほど 国公立の博物館 や 市町村の図書館なども

昔で言えば 正倉院みたいなものも 広い意味で


アーカイブ なんでしょう

「NHKアーカイブス」は 本来は 「アーカイブズ 」と

濁音がつかなくちゃ いけないらしいのですが

読みにくいために NHKによってつくられた


造語だというのも わかりました

はたして 公共放送たるものが

勝手に造語をつくってもいいものかどうかは 別にして

過去の歴史 や まだ行った事のない 未知の世界へ

連れて行ってくれことには 嬉しいことです



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最近の NHK番組での お気に入りは


土曜の夜の『ブラタモリ』

街歩きの達人 タモリさんが ブラブラ 各地の街を歩きながら

その街の歴史や 人々の暮らしの謎 や 痕跡をたどる 番組

オープニングの井上陽水の「女神」という曲もグッドです

最近では 博多の街も面白かったけど 富士山 も良かったですね


それから 金曜の夜の 『ファミリーヒストリー』も面白い

第一線で活躍する著名人の 家族史の ルーツをたどる 番組

本人も知らない 驚きや 涙ありで 今までにない 企画です


毎月 月末と大晦日にある 『今夜も生でさだまさし』

全国各地のリスナーからのハガキと

さだまさしの軽快なトークと歌の生放送番組

始まって10年近くなる長寿番組ですけど

未だに飽きないのは なぜでしょうね


NHKの福岡発地方ドラマもいいですね

拙ブログ3月に 記事にした 『ここにある幸せ』

津屋崎を舞台にした 素敵なドラマでした

次回の 福岡発地方ドラマ は 12月4日 と 11日 です

糸島が舞台の 『 いとの森の家 』というドラマだとか

今から 楽しみですね

津屋崎 糸島 と続きましたから

その次は 朝倉 なんて いいですね


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テーマ から はずれて

最後は NHK の 番組宣伝になってしまいました

受信料 まけてくれないかな (≧∇≦)








by nonkei7332 | 2015-11-24 09:35 | 日記 | Comments(0)


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博多松囃子





『博多どんたく港まつり』

5月の連休に行われ 200万人もの人が集まる

博多の祭 〈どんたく〉 の 正式名称です

ところが この 〈どんたく〉と言い出したのは 明治以降で

それまでは 『博多松囃子』と言っていました

それも 5月ではなく 正月の行事だったのです

古来から 正月になると 門松をたてます

その年の新しい神様が松に降りてくるといわれていました

松囃子 は その松を伴って それぞれの 領主に年賀挨拶をする

行事として始まったとされます 室町時代だといわれますが

その 起源は 定かではありません もっと古いのかもしれません


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博多町家館 より



謡曲に 『蘆刈』という演目があります

この話は 仁徳天皇のころ 〈津の国難波の都・博多〉の話です

貧困の為 別れた夫婦がいました その後 妻は高貴な家の乳母となり

夫を探しに筑紫の国にきます そこで 蘆売りとなっていた夫と巡り会い

二人で 都に帰って行ったという話ですが

蘆売りの夫が 蘆を売るために 昔からの歌を賑やかに囃して謡います


名に負う梅の花笠、難波女の被く袖笠、

肘笠の雨の蘆辺も乱るるかたを波、彼方へざらりこの方へざらり、

ざらざらざっと風の上げたる古簾、つれづれもなき心よ、



津の国 難波の春は 夢なれや



仁徳天皇善政 と 筑紫の国の華やかさを歌っているのです

その風景こそ 〈博多松囃子〉の いにしえの風景に見えてくるのです

梅 ・ 松 ・ 笠 これは 九州王朝の象徴でもあります


囃子の語源をたどると はやす(生やす) に繋がります

〈囃す〉は 増殖させる 増やす 豊にする の意味でもあります

『松囃子』の意味するものは

松である かつての 九州王朝を 偲び その思いを拡げていく

祭りではなかったのでは ないでしょうか



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京都今宮神社




京都の北に 《今宮神社》があります

ここでは 京都の三大奇祭 と呼ばれる『やすらい祭』があります

因みに あとの二つは 鞍馬寺の「鞍馬の火祭」そして

広隆寺の「太秦の牛祭」ですが ここでは ふれません

「やすらい祭」は 古来より疫神を鎮めるために行われていました

由緒によれば

『 神祇官の「鎮花祭」と「御霊会」が結びついた「花のまつり」で、

花の精にあおられて 飛散する悪魔の精霊を

囃子や 歌舞によって追い立てて 風流傘に宿らせ、

紫野ノ社に送り込んで神威を仰いで降伏させる 』

と 書かれています

元々は 3月に行われていました 花笠や若松もでてきます

博多松囃子 に よく似ています

やすらい を 「夜須礼」と書くそうです

『夜須に礼をつくす』という意味なのでしょうか



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やすらい祭



『夜須』といえば 日本書紀に

「神功皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峽宮に遷りたまふ」

とあります その後 羽白熊鷲を征服した 神功皇后は

「我が心則ち安し(やすし)」といったので

この地を「夜須」というようになったいう 伝承があります

夜須町は 筑前市 と名を変えましたが

松峡宮 とされる 跡地には

松峡八幡宮(まつおはちまんぐう)が鎮座します


明治以前においては 博多の松囃子が

朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もあるのです

( 文献として 残っているかどうか 調査中 )



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松峡八幡宮 ( 空 sora そら さんのブログより)



気になる 都市伝説を ひとつ

京都弁で 「おいでやす」「おこしやす」というように

語尾に 「やす」という言葉を使いますがが 宮廷言葉からきたもので

「やす」は 「夜須」が語源だとの事



京都 今宮神社の 「やすらい祭り」 の 発祥は 博多の「松囃子」

京都 下鴨神社の 「葵祭り」の 発祥は 背振神社の 「賀茂まつり」

あとひとつの 謎解きは

京都 八坂神社の 「祇園祭り」の 発祥は・・・


博多 櫛田神社の 「博多山笠」?。



京都の謎 と 妄想は どこまでも 続いていきます。







by nonkei7332 | 2015-11-23 16:57 | 古代史 | Comments(5)


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香椎宮参道 で見つけた かたつむり





〈キレる〉の 反対語 は 〈繋ぐ〉だろう

今 子供達が キレている

最近こんなことがあった

いつもニコニコして 元気な 2年生の男の子が

二、三日 様子が変だった 挨拶はしないし 横断歩道は無視するし

思い余って 『ダメだ 危ないじゃないかと』叱りつけると

『俺に楯突くな 楯突く奴は許さん』と悪態が返ってきた

いつもの 対応ではない 明らかに キレていた

日頃から 子供達の変化には 気を配っていたが

担任の先生に 変化の報告をして

家庭と連絡をとって 対応してみますということになった

二日後 その子と母親が 私の部屋を訪ねてきた

『ゴメンナサイ』と謝る その子には 元の笑顔が戻っていた

『大丈夫だよ 心配しなくてもいいよ』とだけ 私は言ってあげた

母親から 手紙を戴いたが 何か起こさなければいいがと

子供の変化には 気が付いてはいたようだった

『ダメ』と『我慢』と『大丈夫』を

本気になって言ってやれる 親が少なくなっている

父性の欠如が キレる 子供達が増えた 原因でもあるのだろう

母子家庭という 物理的不在もあるが

父性を全く発揮できない 父親のもとでは 心理的不在も起こりうる

《大丈夫だ 決して 一人じゃないよ》の

声には出さない 声掛けを始めて もう 一年が過ぎた

ただ 《おはよう》というだけでなく

今では 《 ○○ちゃん ○○くん おはよう 》と

ひとりひとりの 名前も覚えて 呼べるようになった

朝起きて ひとりで 朝食を食べ 最初に挨拶をする相手が

私である子供も 何人か いることも知っている

そんな子供達の 代理父 いや 代理爺 として

キレかかった 子供達の 心と身体を 《繋ぐ》

私の 使命 がそこにある


怒りを覚える ニュース には

必ずといっていいほど キレてしまった 人間の姿がある

人の命を そして自分の命をも 奪うことを 悪だと思わず

神の代行などと 洗脳されてしまった テロを起こす 若者がいる

誰でもよかった と 無差別殺人を してしまった 孤独な青年もいた

とんでもない奴らだと 罵しり 非難することは誰にでもできる

ただ そんな 彼等の周りには 誰もいなかったのだろうか

見て見ぬ振りをしていた 人達が そこにはいたのかも知れない

『ダメだ』『我慢しろ』『大丈夫だ』の ひと言を

彼等は 待っていたのかもしれない

〈キレかけた〉心を キレてしまう前に

〈繋いであげる〉人に 私達は なり得たのかもしれない


人間とは 人の間(あいだ) と書く

その間を 繋ぐ事の 大事さを 忘れずにいたいものだ

間(あいだ) に生きる 人として




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by nonkei7332 | 2015-11-22 01:49 | 日記 | Comments(0)



霜月だというのに 温かい日が続く

月の平均温度が 三度位高いといっていた

秋霖(ながあめ) のあと 小春日和に誘われて

花を探しに 外に出た




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ブーゲンビリア



紅い ブーゲンビリア が 今年も 艶やかだ

ブーゲンビリア は 別名 筏蔓(いかだかずら) とも言うが

ながい 蔦 で筏を組んでいたのだろうか

とても 珍しい お気に入りの 深紅の ブーゲンビリア



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杜鵑草(ホトトギス)



もう遅いかなと思っていたが

杜鵑草 (ホトトギス) が 残っていた

残っていたというより これからみたいだ

暖秋のせいだろう



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木立ダリア



木立ダリア が 青空に負けじと 咲いている

負けず嫌いの 目立ちがりの花みたいで

いつも 高いところに咲いている

皇帝ダリア とも言うが

なるほど そんな意味なのかと 思った


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オキザレス




オキザレス という花 だ

酢漿(かたばみ) の仲間で 別名 紫酢漿(むらさきかたばみ)

葉が三枚で しその葉みたいな紫色をしている品種だとわかった

ピンクの花が 紫の葉に 艶やかに 咲いている




少しずつ 寒くなってきたみたい

来週の 今頃は


紅葉 の 嵐山 辺りか







by nonkei7332 | 2015-11-19 16:44 | | Comments(0)


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悲しい出来事が 週末のパリの街で起こりました

コンサートホールに集った 多くの若者が

なんの 理由もなく 血に染まりました


青い地球は 怒っています

人類は 何をしているのでしょうか

地球は 人類のものでは ありません

私たちは 間借りしているだけなのに

すべての神々が 月も 太陽も 星々も そして この地球も

いつまで こんな事ばかり やっているんだと

あきれ果てて いるのではないでしょうか


自分たちの 創造神 がすべてなら

違う神が有るのを 許すことができないという

一神教 の 怖さを 我々 日本人には 理解できません

創造神が 人類を 地球を 月を 太陽を 星々を造ったという

思い上がりが 人々の魂を狂わせています

なんども言いますが


私たちは この星に 間借りさせてもらっているだけの

幸運な 生物 なのですから


八百神 と言われる 日本人の宗教観です

正月や 七五三 には 神社に詣で

盆や彼岸には 寺に行って 祖先を敬い

結婚式や クリスマスには 教会に行くという

なんでもありの日本人なのですが

いい加減な 民族なのでしょうか



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思想家の 《 内田 樹 》 さんは 講演で

日本人の美意識について こんな話をされています


日本語には 《無情》という言葉があります。

この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、

全ては とどまる事なく形を変え続ける。

永遠の安定とか不変、不滅のものなどどこにもないということです。

これは仏教からきた世界観ですが、

この無情という考え方は宗教とは少し別の脈絡で

日本人の精神性に強く焼き付けられ、

古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

全てはただ過ぎ去っていくという視点は言わばあきらめの世界観です。

人が自然の流れに逆らっても無駄だということにもなります。

しかし、日本人はそのようなあきらめの中に

むしろ積極的に意義のあり方を見出してきました。

自然について言えば我々は

春になると桜を、夏には蛍を、秋には紅葉を見られます。

それも習慣的に、集団的に。言うなれば、

そうすることがけじめであるかのようにそれらを熱心に鑑賞します。

桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所はその季節になれば

人々で混み合い、ホテルの予約を取るのも難しくなります。

どうしてでしょう。

桜も蛍も紅葉もほんの僅かな時間の内に

その美しさを失ってしまうからです。

私たちはその一時の栄光を目撃するために遠くまで足を運びます。

そして、それらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、

小さな光を失い、鮮やかな色を奪われていくのを確認し、

そのことでむしろほっとするのです。そのような精神性に


自然災害が影響を及ぼしたかどうか僕には分かりません。しかし、

私たちが次々に押し寄せる自然災害を

ある意味では仕方ないものとして受け止め、

その被害を集団的に克服していくことで

生き延びてきたことは確かなところです。

あるいはその体験は私たちの美意識に影響を及ぼしたかもしれません。



宗教学者で 私の知人でもある

九州大学名誉教授 の 関 一敏 先生 の 講演会があります


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《 中東を中心に勢力を拡張し始めた
ISIL(自称イスラム国)の問題をはじめとして、
最近のニュースで宗教に関係する報道が目に入らない日はありません。
キリスト教徒やヒンズー教徒とイスラム教徒の争いなど、
世界各地で宗教をきっかけにした紛争も数多く発生しています。
一神教と多神教の違いとは? 世界宗教と比較した日本人の宗教観とは? など、日常生活でふと感じる疑問から宗教の根源である
「信じる」とは一体どういう行為なのかまで、
少し立ち止まって「宗教とは何か」について考えてみます》


日時:2015年12月12日(土) 13:30〜16:00
会場:天神ビル10号ホール(福岡市中央区天神2丁目)
テーマ:「宗教とは何か-日本から世界を見る」
講師:関 一敏(せき・かずとし、九州大学名誉教授)
料金:一般1,000円(当日1,200円学生・留学生500円(事前・当日とも)
お申し込み方法
1.催し名(「関一敏講演会」)
2.お名前(参加ご希望の方全員)
3.連絡先(FAXまたはメールアドレス)
4.一般/サポーター/学生等の別
上記を明記の上
メール(fuunesco2014@gmail.com)か
FAX(‪092-733-1291‬)でお申し込みください。



関先生は 〈福岡市史〉の 民俗専門部会長 も務めておられる

いつも 豪快に 行きつけのお店で 酒を楽しまれ

気さくに 周りの人に声をかけられ 楽しい話をして下さる

私が お会いするときは いつも ハレ状態 の先生だが

『宗教とは何か』という講演会だ

私にとっては 非日常ハレ状態 の 関先生が

どんな話をされるのか いまから 楽しみでもある







by nonkei7332 | 2015-11-15 13:51 | 日記 | Comments(0)


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下鴨神社





平安遷都 前の 京都 には

筑紫の古代氏族 ・秦氏(宗像) ・土師氏(筑豊) ・賀茂氏(背振)

が多く住みついていました

桂川流域 の 秦氏の 松尾神社

鴨川流域 の 賀茂氏の 下鴨神社

南部伏見深草 の 土師氏の 伏見稲荷神社

この三つの 神社を通して

遠き 筑紫王朝の 面影を追うのが

今回の京都行きの旅の目的でもあります


下調べで 下鴨神社 の 賀茂氏 を探ってみました


筑紫の賢人(真鍋大覚さん) の

『灘の國の星』にはこんな記述があります


天智天皇 は 662年、筑紫の長洲宮に遷都された。

そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。

天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、

筑紫と同じ「葵祭」を催行された。

こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、

故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。

「背振神社」は京都「賀茂神社」に、

「現人神社」は大阪の「住吉大社」に

生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。

そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、

細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。

これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。

玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。

ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を

模した品にほかならないのと同じです。


土産のおこし や 京都名物「八つ橋」起源が 背振 にあったとは驚きです

もうひとつ 「下鴨神社」の名物に 「みたらし団子」があります

「御手洗」を みたらし と呼びます

綾杉さんの「志賀島歴史講座」で 志賀海神社沖津宮の浜あたりを

〈御手洗〉という地名だと知りました

イザナギが 黄泉の国の穢れを洗い清めた 禊の地 だと聴きました

今では どの神社には 手と口を濯ぐ 〈御手洗〉がありますが

下鴨神社境内には 瀬織津姫を祀る 御手洗社という末社があり

その前にある 御手洗池では 1年ごとに 禊の儀 が行われるそうです

みたらし団子の起源は 後醍醐天皇が参詣の時

この池に浮かぶ五つの泡にちなんで 団子の数が5個になったとも

人の身体の五体から 5個になったとも 言われているそうです

今度 街中で みたらし団子を 食べるときは

ほんとうに 5個 有るのか 確かめてみましょう



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志賀海神社沖津宮 と 御手洗浜




さてさて 下鴨神社の正式名称は 『賀茂御祖神社』

祭神は 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

神武東征の際 八咫烏(やたがらす)に姿を変えて 神武天皇を

導いた あの謎多き 神です


ヤタガラス と言えば 日本サッカー の旗印でもある

三本足の からすです

韓流ドラマ「朱蒙」(チュモン) には

高句麗の国鳥であった 三本足のからす が

画面には たびたび 出てきたのでよく覚えています


この 八咫烏 という鳥 は いったい どういう 鳥だったのでしょう


筑紫の賢人は 『灘の國の星 拾遺』でこう書かれています

烏鵲 (うじゃく) (カササギの別名) は

干潟の冠水の有無遠近を見さだめる鳥として

昔は 旧約聖書のノアの洪水の神話の時代からしられていた

縄文弥生の祖先は 烏鵲と共に干潟の開拓に努めてきたのである

神代には 賀茂の氏族は 八咫烏(やたがらす)を伴として

日々を過ごしていた

今、肥前に棲む 『かちがらす』即ち『かささぎ』は

まさに その生きた化石というべきである

有明の干潟にいる「むつごろう」なる 鯊(はぜ)を餌としていたが

干潟が稲田となった今日では 全く無縁になるまでに

三千五百年以上の歳月をようしたことになる。


八咫烏 は カササギ の事であり

背振山山麓の肥前 に 起源を持つ 賀茂族 の 祖神 だったのです


現在 カササギ は 天然記念物 として

福岡の筑後 や 佐賀県に 生息しています


下鴨神社 は 肥前背振山麓 の 賀茂の祖神

「賀茂建角身命」を 祀る 神社でした

背振神社 の 「葵祭り」が

京都三大祭りの 賀茂社 の「葵祭り」の起源 だったのです



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背振神社 下宮




賀茂建角身命 なる 人物 が 八咫烏 だと言われていますが

安曇磯良 の 母が あの 鴨玉依姫 その父が 『豊玉彦』


この 『豊玉彦』こそが 八咫烏 であったという 説があります


神功皇后 に 仕えた 安曇磯良

神武天皇 に 仕えた 豊玉彦

九州王朝 を 支えた 安曇族


これで すべてが 繋がったみたいですね。















by nonkei7332 | 2015-11-10 20:13 | 古代史 | Comments(2)

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柿の葉




暦 は 立冬

そろそろ 冬支度 でしょうか

頂いた 柿を 剥きながら

夕方から降り出した 激しい雨音に

季節の移ろいを 感じながら 万葉集をひろげています

そもそも 万葉 とはどういう 意味なのか

『よろずの言の葉』とか言われていますが

いまひとつ しっくり こない

〈萬葉〉〈言葉〉〈葉書〉

〈葉〉の意味が解ればと 思いながら 調べてみると



タラヨウ(多羅葉) という 木がありました

日本では この木の葉の裏面に経文を書いたり

葉をあぶって占いに使用したりしていたといいます

そのために 多くは寺社に植樹されているそうです

葉の裏面に傷をつけるとその部分のみが黒く変色し

長期にわたって残るため 字を書いておくことができるらしく

別名を〈ジカキシバ〉又は〈エカキシバ〉ともいうそうです

葉っぱ が 紙 の代用だったのですね

葉書 の 語源なのでしょうか


もうひとつ 面白い話がありました

《今昔物語集》の 第10巻-8 にある こんな話です

今は昔 中国での話

帝からの 召しがなく 後宮で空しく日を送る女がいました

女は 柿の葉に詩を書き 宮中の川に流しました

葉は 宮中から流れ出て 川下にいた 呉の招孝(しょうこう)という

男が この葉を拾いました

紹孝は 別の葉に 返詩を書いて 川上まで持って行って 流しました

葉は 後宮に流れ着いて 女の手許に届いたのです

その後 不思議な巡り合わせが あって 二人は 夫婦になりました



「曲水の宴」の原形みたいな 話でした


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寒椿 と 山茶花



暦 の 七十二候 で言えば

『 山茶始めて開く』とあります

山茶花(さざんか) もしくは 椿(つばき) が 咲き始める頃です


《 あしひきの 山椿咲く 八つ峰越え 鹿待つ君が妻かも 》

万葉集7ー1262

〈語訳〉

山椿が咲いている 山々を越えて あなたが鹿を捕らえに行っています

そんな あなたが 帰ってくるのを 私は 忍んで待っていますよ

( 浮気をする 夫への 怨恨歌 なのでしょうか )



去年の11月26日 の拙ブログ

『 侘助(わびすけ)椿 と 寒椿 』

山茶花 と 椿 の違いを 記事にしています




by nonkei7332 | 2015-11-08 23:07 | 万葉集 | Comments(0)

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九州国立博物館



『 10年は 一昔 』といいます

九州国立博物館 ができて 10年

開館記念展 の 名称 は 『 美の国日本 』でした

そして 10周年の今回も 『 美の国日本 』


渡来人で溢れる 参道を抜けて 博物館に上る

何時ものように 虹のトンネルを抜けると 目の前に

青い空を映した 鏡張りの 博物館が 目の前に 現れる


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今回の目当ては 『正倉院宝物』

正倉院は 奈良東大寺にある 校倉造(あぜくらづくり)の高床式倉庫

奈良天平の宝物が納められている と教科書で習った

パンフレットを覗くと 全国の国立博物館から取り寄せた

展示品がほとんどで 正倉院宝物 は たったの 6点だけ

あたかも 正倉院宝物展 のごとき メディア の紹介だったので

またしても 上げ底展の感を歪めない


『螺鈿紫檀五絃琵琶』今回の目玉がこれだ




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聖武天皇の愛玩品だったというが 日本の工芸ではない

ラクダに乗って琵琶を奏でる ペルシャ人からしてみると

唐に渡り 遣唐使によって 日本にもたらされて物のようだ

紫檀の上に貝の螺鈿の美しさは 目を瞠るものがある




気になった 宝物が 『筑前国嶋郡川辺里戸籍』


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説明を読むと

《大宝2年(702)の筑前国嶋郡川辺里

(今の福岡県糸島市および福岡市西区の一部あたり)住民の戸籍で、

現存する 日本最古の戸籍として知られています。

戸主とその家族の名前、年齢などが一行一名ずつ記録され、

その上から「筑前国印」が丁寧に捺されています。》

この文書は 『正倉院文書』とよばれる 一万数千点にもなる

古文書の一部だといわれているが 戸籍 天皇への献上品 などの

様々な文書群であり 今も その解析研究が進んでいるといわれる


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「九州王朝説」の 故 古田武彦さん は


講演の中でこんな話をなさっていた


『 正倉院文書の問題である。

私はあれ!と思ったのは筑後だけが献上品が全然違う。

他の地方は醤油や味噌など非常に分かり易い地方の特産物等である。

しかし筑後だけが全然違う。

まず天平10年(738年)に、

銅の竈(かまど)を作る工人を献上させられている。

次は轆轤(ろくろ)の職人を献上させられる。

轆轤(ろくろ)の職人も重要な技術である。

更におかしいのは、鷹狩りの技術者を30人献上させられている。

30人と書いて有る。先ほどの銅の竈を作る工人の数は書いていない。

もっと多いみたいだ。さらに犬を献上させられている。

犬というのは御鷹犬です。鷹狩りには人間だけいても駄 目。犬がいる。

特殊技術を持った犬を筑後から献上させられている。

奈良の犬では駄 目だったみたいだ。

( 中略 )

一番の問題は玉類。玉というのは玻璃製・ガラス製品。

現代では安っぽく見えるが、当時ガラスは最高の工業製品。

15・16世紀に西洋で大量 生産の方法が発明されるまでは、

尊い宝玉のトップの位置にあったのが玻璃製・ガラス製品。

その玻璃製品を930枚、「賣」という名目で献上させられている。

どうせ買い上げたと言っても大した金は出していない。

さらに今度は真珠。白玉 113枚、これもすごい数。

その他にもいろいろ竹玉・ガラスの勾玉・管玉とか献上させられている。

要するに弥生時代に博多湾岸にあった物が皆筑後の方に有ったらしく、

それを献上させられている。そういうことがありました。

それで今度の古田史学会報に少し皮肉を書いたのですが、

従来の正倉院文書の研究者は多いが、

どうして九州王朝論者にならなかったのか。

あれを見れば筑後は他の国と違って、

最高権力者の土地であることが 明確ではないか。

それから天平10年から14年後に東大寺の奈良の大仏が建立されている。

これは銅の製品ですよ。そうであれば今の数が書いていないほど

「銅の竈の工人」が献上させられている。その彼らが

奈良の東大寺の大仏の建立の中心になったことはまず疑いがない。

そういうことは教科書では教えていないでしょう。

天平10年以前の権力の中心地は福岡県でした。

王朝はそこにありました。

正倉院文書の研究者がみんな言わなければいけない。

言わなかったのが後世から見ると謎になるのではないか。

こういう皮肉を書いた。そこから始まった問題は

(近畿に)献上する前のおびただしい宝玉はどこに有ったのか。

そういう疑問を持っていた。そこへ東京の高木さんから、

筑後国に「正倉院」が有ったと言われたので、本当にビックリした。

天平10年に献上させられた膨大な宝玉 はどこに入ったか。

おそらく奈良の正倉院に入ったことはまず間違いがない。

我々は今奈良の正倉院の宝物を見ていますが、

何処からきたか知らずに見ています。』


古田武彦さん 古代史研究の第一人者であられました

先月14日 亡くなられました 89歳でした

歴史は 必ず 彼が遺した偉業を 称賛するでしょう

元気なお姿を 知っている 私には 想いも深きおひとりでした

日本の賢人が またひとり 亡くなられました

御冥福をお祈り致します

拙ブログ 2/22 の記事に 《孤高の魂ー古田武彦さん》として

紹介させて頂きました




歴史に 隠された 正倉院の謎

歴史に消された 九州王朝の真実

秋の太宰府は どこまでも 青き空に包まれ

宝満から下りてくる 澄みきった神の風に

ひたすら 身をゆだねているようでもありました









by nonkei7332 | 2015-11-03 10:08 | 菅公・太宰府 | Comments(2)