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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

<   2015年 09月 ( 11 )   > この月の画像一覧


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西鉄大牟田線 蒲池駅 (かまちえき)



邪馬台国の女神 は 《 卑弥呼 》 だということは 誰でもが知っています

では 邪馬台国に敵対した 狗奴国 の 女神は と聞くと

そんな人 いたの と誰もが言うのではないでしょうか


そもそも 古代は 神代も人代も 何故 か 女神 や 女王ばかりです

男がだらしないというのは 今も 昔も 変わりはないのですが

何か 理由があるとすれば

それは 呉 から 移り住んだ 海人族の男たちは


忙しくて 単身赴任が 多かったからでしょうか

集落に女子供を残して あちらこちらの 海岸に 集落を開拓してまわり

屋根付きの 家船 に のった 漂泊民 となります

その 土地土地に 胤を残して 勢力を拡げるのに 頑張ります

一方 山に登った 鍛冶の男たちは 一心不乱にに 鉄を作ります

鍛冶場は 女人禁制 の場所 だったみたいです

ストレスがたまったのでしょうか いい鉄が作れなくて

イライラがつのると 里に下りては 時々 悪いことを したのでしょう

だから そんな出来事が重なって 鍛冶の男は 鬼 や 蜘蛛 と言われて

恐れられたのかもしれません


こんな 男たちはにとって 怖い存在といえば

《 地震・雷・大風・女房 》だったのでしょうか

とくに 女達の中には 自然を読み取る 憑依体質の 女性がいて

巫女として 占いや 祭祀をたずさわる ようになり

集団の中で 男達からも 一目置かれるようになります

やがて 小国達 をまとめるような 存在となったのが

《 卑弥呼 》では なかったのではないでしょうか

でも 卑弥呼であっても スーパーウーマン ではなかったみたいで

その 霊力が及ばないような 天変 があることもあって

集団の信頼を失っていった と 倭人伝には書かれています

やがて 卑弥呼が 亡くなると 小国家は混乱して 衝突が始まり

これが 《倭国の大乱》といわれる ものだったのではないでしょうか



「後漢書倭伝」に

「会稽の海外に その名は 東鯷人あり 分かれて二十余国を為す」

とあります

呉人 が 流れ着いた 東鯷国 は 八代から 宇土半島 そして

阿蘇 から 菊池地区 有明海対岸の肥前に至るまでの

広い土地を 治めていました

《 狗奴国 》(くなこく) ともよばれ

のちの世 隼人(はやと) や 熊襲 (くまそ) と呼ばれます

景明天皇や ヤマトタケル が征伐しようとした あの熊襲です

鯷 とは 鯰(なまず) のことで 鯰をトーテム とした 海人族でした

多くの神社には 鯰の伝説が残っていますね


この国に 一人の 女神がいました

その名を 《 蒲 池 媛 》といいます

阿蘇の母神 であり

肥前川上では 《 與止日女 》(よどひめ) と呼ばれ


多くの神社で祀られています

〈淀姫〉とも呼ばれ 〈世田姫〉ともよばれました



〈豊姫〉とも呼ばれ 神功皇后の三韓征伐にも 同行し

満珠干珠の玉を使って 勝利に導いたといわれます

まるで 豊玉姫 や 玉依姫 が重なりますね


実は 豊姫は 神功皇后の 妹 だったという説もあるんです



神功皇后の遠征を 満珠干珠の玉を使ったといえば 安曇磯良 です

高良玉垂宮 に 秘される 安曇磯良 の 妃 となった という説があります

なんと 奴国 の王 と 狗奴国の女王 が 繋がるというわけですから

私とすれば 鳥肌が立つような ゾクゾクする話なのですが

でも よく考えると 両国とも 呉人 を祖とするわけですから

不自然な事ではないないのかもしれませんね


海と川 を治める 女神ということでは

あの 〈瀬織津姫 〉も重なるんですね

〈瀬織津姫〉も 〈蒲池媛〉も 記紀には書かれることがなかった

隠さざるをえなかった 女神 だったのでしょうか


蒲池媛 の 謎 の極め付けは

卑弥呼の 後を継いで 諸国を平定した

13歳の少女《 宗女 台与 》(トヨ) です

蒲池媛 は 実は 卑弥呼宗女 トヨ(豊) だったという 説です

となれば 蒲池媛=トヨ によって その後 安穏な国がつくられ

倭の五王 に 続く 九州王朝 の全盛期 へと つながっていったのでしょうか


これらの 説 は 記紀には書かれていない 風土記 や

神社に遺る縁起 古い家々に遺る 家伝書 にのこる 伝承 なのですが

何が本当なのかは 誰にもわかりません


本当の真実 を 語れる人 は

今 この世には 誰もいないのです

もし 解き明かす人が 未来に 出てきたとすれば

その人は きっと タイムマシン にのって


その時代に 行って見てきた人なのです

これが 古代史の醍醐味 なんですね


《 筑後に 残る 蒲池媛 の謎 》

私が知る限り 現在の 蒲池媛 が 二人 います

ひとりは 名前 を

蒲池法子(かまちのりこ) といいます

もうひとりの名前は


蒲池幸子 (かまちさちこ) といいます


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松田聖子 (まつだせいこ)さん

本名 蒲池法子



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坂井泉水 (さかいいずみ)さん

本名 蒲池幸子

「ZARD」のボーカル

2007年5月 惜しまれながら 40歳の若さで亡くなりました









by nonkei7332 | 2015-09-30 13:30 | 古代史 | Comments(0)


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つきよのうみに いちまいの

てがみを ながしてやりました

つきのひかりに てらされて

てがみは あおく なるでしょう

ひとが さかなと よぶものは

みんな だれかの てがみです




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かなしくなったときは 海を見にゆく

古本屋のかえりも 海を見にゆく

あなたが病気なら 海を見にゆく

こころ貧しい朝も 海を見にゆく

ああ 海よ

大きな肩と 広い胸よ

どんなつらい朝も どんなむごい夜も

いつかは終わる

人生は いつか終わるが

海だけは 終わらないのだ

かなしくなったときは 海を見にゆく

一人ぼっちの夜も 海を見にゆく


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寺山修司



さみしくなると言ってみる ひとりぼっちの おまじない

わかれた人の 思い出を わすれるための おまじない

だいせんじがけだらなよさ だいせんじがけだらなよさ

さかさに読むとあの人が


おしえてくれた歌になる

さよならだけが じんせいだ

さよならだけが じんせいだ






by nonkei7332 | 2015-09-28 00:11 | 日記 | Comments(0)

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観世音寺 参道



行楽の 秋日和 太宰府へ行きました

ただ 天満宮にはいかず 目的地は 迷わず

清水山普門院 の 山號をもつ 九州一の古刹

《 観 世 音 寺 》

ここには 日本一 古いと言われる 国宝の 梵鐘 があります

その鐘の音 は 菅公 が 榎社に幽閉され 失意の中で聴いた

あの鐘の音と同じだということを知る人は少ないのです

造られたのが 681年 糟屋郡の多々良 あたりだと書かれています

作った人は 〈上三毛麿〉この人がどんな人かは 詳しくは残ってませんが

562年 大伴狭手彦が 高句麗を征伐して 多数の珍宝と優秀な工人を

連れ帰った中の一人ではないかという説もあります

同じ鋳型で造られた梵鐘が 京都の妙心寺にあります 兄弟鐘です

なぜ 離れ離れになったのかは 歴史の闇のなせる技でしょうか


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国宝 梵鐘



梵鐘 の事を 別名 〈 鯨 鐘 〉とか 〈 華 鯨 〉といいます

なぜ 鯨なのかについて 考えてみました

対馬海峡は 鯨の通り道で 壱岐には 多くの捕鯨基地がありました

万葉集にも 「いさなとり」(鯨魚取り) という 海を表す 枕詞があります

安曇の海人は 壱岐の港を出て 筑紫の都をめざします

筑紫の賢人 真鍋大覚さんの『 玄界灘の海上気象 』のなかに

こんな記事がありました



『 壱岐島 郷浦 を 出ると


やがて見える 筑紫の山々は

東が 九千部山 中央が 脊振山 西が 鏡山 と

大鯨 が 水平線に浮上した形である 』



三笠川の上流 までが まだ 海だった頃


鯨 の 頭 の 九千部山 の 麓にある


太宰府の都をめざした 海人達にとって

やがて 聞こえてくる 観世音寺 の 鐘の音 は

厳しい 船旅に 終わりを告げる


安堵の 音色だったに 違いありません

だから 海人達は この鐘のことを 《 鯨 鐘 》と呼んだのでしょう

鯨 の 字は 魚偏に 京 (みやこ) と書きます



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参道脇の 萩の花





教科書では 538年に 百済から 仏教が伝来したと教えます

しかし 仏教が 筑紫に 伝わったという 記録が残っています

『雷山縁起』に 418年に 清賀上人が 仏教を伝えたとあります

王朝がある 筑紫に 多くの経典や 仏像や そして 梵鐘も 伝わりました

観世音寺 は


天智天皇が 母斉明天皇(崩御661年)の 追善のため 発願され

746年に落慶供養が行われたとされていますが

その間 80年もの空白の謎は 何を隠そうとしているのでしょうか


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苔むす 樟 の 古木 と 観世音寺講堂





観世音寺の 鐘の音は

筑紫 の 栄華 も そして 哀しみの物語も

すべてを 包み込んで

私 の 魂に 語りかけてくれました



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《 観世音寺 夕べの鐘に 花散れば 身も世も非ず 泣かまほしけれ 》


《 観世音寺 みあかし暗う 唯一人 普門品よむ 声にぬかずく 》


柳原 白蓮 の 歌






by nonkei7332 | 2015-09-24 08:33 | 古代史 | Comments(0)

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《 死は生の対極としてではなく その一部として存在する 》

村上春樹 「ノルウェイの森」上巻より


敬老の日 です

私は 町内の世話役をさせてもらっている

5月に 世話人をされていた方が 急に 入院されることになり

白羽の矢が 私に向けられることになった

昨日は 町内からの 贈り物を 配って回った

私の担当の 37世帯 の中で 65歳以上の 高齢者が おられる世帯は

18世帯もあるので 高齢化率は なんと 48%である

一般的には 高齢化率 ( 65歳以上の人口が総人口に占める割合 )は

7% ~ 14% で 高齢化社会だといわれ

14% ~ 21% で 高齢社会

21% 以上では 超高齢社会 だとされている

内閣府の調査によると 今年の 高齢化率は 26.8% だそうで

2060年には 39.9% で 最高となり

その後 減少していくことになると予測している

とすると この町内は 50年後に 国が予想する 高齢社会を

はるかに超えた プレミアムな 高齢者地区 なのだ

行政は なんら 対応をすることもない 死角地区になっていて

「安保法制」も「アベノミクス」も ここでは 問題ではない

《 孤独死を出さない 》

これが ここでの 逼近の課題なのだ

18世帯のうちで 一人住まいの世帯が 12世帯と多い

その内 なんらかの 介護サービスを受けておられる方は 7世帯もある

一軒ずつ 訪問させて いただいて 思ったことは

皆さん いい顔をしてある ことだ

嬉しそうに 私の訪問を 喜んで 応対して頂いた

『 困った事があったら 直ぐ 連絡して下さいね 』

そういって 戻ってきたが 考えてみると

私も あと 何年かすると 訪問される 立場になる

その時 訪問してくれる人が いるのだろうか

このことも この地区がかかえる 大きな問題でもあるようだ




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オクラの花




60年 ちかく なるだろうか

いつも 私を 支え 育ててくれた 友が

昨日 この世の 役目を終えて

私の もとを 去っていきました

医師 が いいました『もう 無理みたいです』

私は 絶望と 何もしてやれなかった後悔 の中で

ただ 頷くだけでした

『 長い間 ありがとう お疲れ様でした 』

『 また 次の世でも いっしょに いてくれよな 』

私は 亡骸 にむかって そうつぶやいていました

私の中には

かすかな 痛みと ぽっかり空いた 喪失感だけが 残りました


帰り道 澄みきった 秋の空をながめながら

医師のいった 最後の言葉を 思い出していました

『 明日の 午前中に また来てください 奥歯を抜いたあとは

腫れやすいので 激しい運動とお酒は控えてください 』


死 は いつも そばに あるものです






by nonkei7332 | 2015-09-21 12:07 | 日記 | Comments(0)

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安曇目の伝承といわれる 歌舞伎の隈取



倭人の習俗については 『魏志倭人伝』には

《 男子は大小となく 皆 鯨面文身 す 》と書かれています

「鯨面」というのは 顔の入れ墨で

「文身」というのは身体の入れ墨のことです

海に潜ると そこは いつも 死と隣り合わせの世界

鮫がでてきたり 海蛇やウツボ といった 怪魚に出会うかもしれません

安曇族は 安曇目 といわれる 目を大きく見せる 入れ墨でした

胸に 入れ墨を 彫った 海人は むなかた と呼ばれた 宗像族でした

多くの彫り物は 龍 や 蛇 で 中国江南地区の習俗そのものでした

海人たちにとって TATTOO は 身を守る 魔除けだったのでしょう


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揚子江沿岸から 海南島に至る 中国南部の 海人族は

いつも 大きな 耳輪を下げる 風習があって

一部は いまでも 続いているといわれています

『肥前国風土記』には 五島あたりに 「大耳」「垂耳」という

土蜘蛛 の 族長がいて 豊後にも 「鼻垂」「耳垂」がいました

おそらく 土蜘蛛 の族長は 垂れ下がるような 耳輪をしていて

それが ひとつの ステイタス でもあったのでしょう

ミミ といえば 神代の記紀 の中にも

ミミのつく名前が沢山あります

天忍穂耳命 ( アメノオシヒミミ) アマテラスの子

須賀之八耳神 (スガノヤツミミ) 櫛名田比売の父

三島溝杭耳神 (ミゾクイミミ) 神武天皇妃 の 祖父

手研耳命 (タギシミミ) 神武天皇の子

岐須美美命 (キスミミ) 神武天皇の子

神八井耳命 (カムヤイミミ) 神武天皇の子

神沼河耳命 (カムヌナカワミミ) 神武天皇の子・綏靖天皇

日子八井命 (ヒコヤイミミ) 神武天皇の子

弥弥 (ミミ) 投馬国の王 (魏志倭人伝)

豊耳 (トヨミミ) 紀直の祖

味耳命 (ウマシミミ) 久米直の祖


他にも 沢山の 耳の名前や 地名も 各地に 見えますが

銅や鉄の鍛冶に関わる 土蜘蛛系 の 氏族長は ミミの称号を持っていた

とくに 神武系 は 五人の皇子は ミミの称号をもってます

神武妃 の 媛蹈鞴五十鈴姫 (ヒメタタライスズヒメ)

名前からすると タタラの名があるように ミゾクイミミの孫であり

ミミ族 の姫には 間違い無いようです


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神武天皇 の 頃 の この国は

大きな ピアス をした 族長を中心にした

銅 や 鉄 を作る 鍛冶族 (土蜘蛛) の 小国家群でした

そして それは 中国南部 から 渡来して 住み着き

龍 の TATOO を全身に描いた 海人族 でもありました

これらの 小国家群は 倭国 と呼ばれ

やがて 神武東征 (倭国大乱) をへて

卑弥呼を 中心とした 古代九州王朝 へと

歴史 は 動いていきます







 



by nonkei7332 | 2015-09-18 21:46 | 古代史 | Comments(0)



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一枚の写真が 全世界に 衝撃を与えました
トルコの海岸へ流れ着いたシリア難民の男の子の写真です
家族4人で過激派組織「イスラム国」が台頭するシリアから逃れ
ギリシャへ 向かう途中に ボートが沈没し
父親以外 全員が死亡したといいます


ボートピープル とは

紛争や圧政下にある地から 漁船やヨットなどの小船に乗り
難民となって 外国に乗り出した 人々のことをいいます
近年においては
北朝鮮・韓国・中国・キューバ・南ベトナム(ベトナム戦争以降)
アルバニア・モロッコ などの国で発生して
香港・USA・カナダ・タイ・インドネシア・オーストラリア
日本・イタリア・スペイン などの国への出国でした
祖国を捨て 命を賭け ヨーロッパをめざした
イラン・アフガニスタンの難民達は 何十万人にもなると
ニュース は伝えています


日本という 平和な国に生まれた事に
感謝せずにはおられませんが
私達の遠い祖先が じつは 渡来人 であったこと
何千キロという 海原 の中を 海流に 命をあずけ
ひたすら 新天地を求めて この豊かな山河に たどり着いた
ボートピープル であったことを 忘れてはいけません


紀元前 1200年頃から
中国大陸は 春秋戦国時代と呼ばれ
多くの小国が 覇権を争っていました
揚子江下流沿岸の江南地区に 〈呉〉 という国がありました
船を操り 稲作文化と金属技術にも長けた
平和な国でした やがて
紀元前473年
〈呉〉は 隣の国 〈越〉に滅ぼされてしまいます
行き場を無くした 呉の民 は 東シナ海 へと 逃げ
ボートピープル (漂流民) となります

生き残った一部は 朝鮮半島へ
そして 一部は 日本の 西九州 に 流れ着き
海辺 に いくつかの 集落をつくり 稲作と鉄器を もって
日本の弥生文化をつくる 倭人と呼ばれる
小国家群 を作っていったのでした

後世 南九州へとたどり着き 太平洋側 へと拡がっていった
古代海人族 は 隼人族 と呼ばれ
北九州へとたどり着き 玄界灘を拠点として 北へ 拡がっていった
古代海人族 は 安曇族 と呼ばれたのでした


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安曇族の聖地 志賀島





祖国を追われ 海へと 新天地を求めた 流民の哀しみが
この国の 魂 として 遠い記憶の淵に 漂っています
2400年という 時が過ぎた 今
地中海の海の底に 沈んでいった
難民船 転覆による 3500人にも 人々の哀しみは
日本という この国の生きる 私達に
何を 教えようとしているのでしょうか

人間の 哀しみの 連鎖は 今 この時間も続いています






by nonkei7332 | 2015-09-15 22:47 | 古代史 | Comments(2)



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放生会 お神輿行列




『 ほうじょうえ 』

博多では 「ほうじょうや」といいます
博多の三大祭り といえば
5月の〈どんたく〉 7月の〈 山笠 〉そして 9月の〈放生会 〉です
9月12日 から 18日までの期間 参道には 500近い 露天がならび
のべ 100万人の人たちで 賑わいます
『 梨 も 柿 も 放生会 』
博多には こんな 諺 があります 放生会がくると 秋 なのです
博多の子供達の 面白い 会話です

『 なしてや 』・・・( どうして ?)

『 なしもかきも ほうじょうや たい 』・・・( どうしても!! )


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《 放生会 》の由来について 考えてみました

養老4年(720年) 2月28日 太宰府 から 朝廷に
「大隈の国司 陽侯史麻呂 が 隼人族 によって 殺された」
と 報せがあります
朝廷は 律令制を整え 地方支配を強化していきましたが
完全に全国を掌握できたわけではなく
従わない勢力がありました
その一つが 南九州の隼人族だったのです
朝廷は 3月4日 大伴旅人 を 征隼人持節大将軍 に任命し
隼人征伐を命じます
その後 旅人は 藤原不比等 が没したので
朝廷に呼び戻されますが
残った 朝廷軍は 一年半の戦いで 隼人族 を征圧します
隼人族の戦死者・捕虜 は 1500人 にも及んだと言われています
その後 各地 に 疫病や凶作などが続きました
朝廷は 隼人族の霊の祟りだと恐れ
その霊を慰めるために 宇佐八幡宮 で 仏教の殺生戒に基づいて
生き物(蜷貝)を放って供養しました
それが 放生会 の はじまりだと いわれています
やがて 八幡社 を通して 全国各地に広まっていきました

その後 天平12年 (740年) には 太宰少弐 であった 藤原広嗣 が
九州各地から 1万人の兵を集め 朝廷に反乱を起こします
朝廷は 捕虜にした 隼人も含めた 征服軍を起こし 乱を平定します

昌泰4年 ( 901年 )
時の右大臣 菅原道真 は 数々の 政治改革を提唱しますが
それを怖れた 藤原時平の讒言により
醍醐天皇 は 菅公を 失職させ 太宰府に左遷します
延喜3年 (903年) 2月25日 菅公が 薨去 します
その後 菅公 の 左遷にかかわった人物の相次ぐ突然死や 疫病など
次々と降りかかる天災に 菅公 の祟りだとする 怨霊伝説が 広がり
それを 弔うために 全国に 天神社が 広まっていきます

朝廷 が 本当に 畏れたのは
隼人族 や 広嗣 や 菅公 の 祟りだったのでしょうか

そこには 朝廷 ( 畿内藤原王朝 ) が
かつて この国の源であった 筑紫九州王朝 の
すべての 財宝を奪い取り 史書を改ざんしてまで
歴史から 消し去ろうとした 蛮行に 硬く蓋をしようとした
隠された もうひとつの 歴史が みえます
その 恐れ 慄く様は 民の拠り所である 神 をも 変えてしまいます
日本全国 どこにでもある 神社と言えば
八幡社 であり 天満宮 です
何故 これ程まで 多くの 神社 が 必要だったのでしょうか
祟られた神 の 数だけで
無念にも 怨霊となった 死者たちへの 弔いは
終わるとでも 思ったのでしょうか




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筥崎宮 楼門の額




《 放生会 》とは

仏教の殺生戒に基づき 文字どおり 生きものを放ち

供養する儀式だといわれます

『 敵国降伏 』 筥崎宮 楼門 に 高く 掲げられている 額の文字です

社記には 醍醐天皇の 御宸筆と伝わっています

「 敵 国 」とは いったい どこの国 だったのでしょう

多くの人が 合わせる掌の中に この国の 未来が見えます

この国 の 真実の祈り とは 何なのでしょうか



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放生会 参道風景






by nonkei7332 | 2015-09-10 08:10 | 古代史 | Comments(2)



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キントラノオ (金虎の尾) 》


原産地 は 熱帯アメリカ だそうです



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《 ゲンペイシモツケ(源平下野) 》

名前の由来は、

赤と白が混ざり合って咲くので

源氏 平氏 の色から とっています

シモツケ は 栃木の下野(シモツケ) という地名です



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カリガネソウ (雁金草) 》


ホカケソウ(帆掛草)とも呼ばれます



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《 キキョウ (桔梗) 》


秋の七草の中の最初に 「朝顔」とありますが

一般的には 桔梗 の事だと言われています




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《 ゼフィランサス 》


乾燥の後の 雨が降って 球根が潤うと

花茎を伸ばし 開花するので

レインリリー とも 呼ばれています



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《 アセビ (馬酔木) の 葉 》


アセビ は 春になると 白いピンクの花が咲きます

馬が この草を食べると 酔って 足が萎えてしまいますので

馬酔木 ( あしび ・あせび ) と呼ばれます

奈良の春日大社あたりは 鹿はこの草を食べないので

参道に 馬酔木 が群生しています

さだまさし は 「まほろば」という 歌の中で

馬酔木 のことを 馬酔木 ( まよいぎ ) と詠いました



春日山から 飛火野辺り

ゆらゆらと影ばかり 泥む夕暮れ

馬酔木(あせび)の森の 馬酔木(まよいぎ) に

たずね たずねた 帰り道







by nonkei7332 | 2015-09-09 09:17 | | Comments(0)


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《 白色曼珠沙華 》



リコリス ( Lycoris ) の花が 咲き乱れていました



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《 鍾馗水仙 (ショウキズイセン) 》



リコリス とは ヒガンバナ科ヒガンバナ属の総称です

紅い 彼岸花 ( 曼珠沙華 ) も 白色曼珠沙華 も

黄色の 鍾馗水仙 も リコリス なのです

Lycoris の 名前の由来は

ギリシャ神話 に出てくる 50人の 海の精(ニンフ) のひとり

金色の髪を持つ Lycorias ( リコリアス ) だそうです




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《 リコリス スプレンゲリー 》



この花も リコリス です

リコリスの女王 スプレンゲリー ( sprengeri ) です

和名 を

「 夏水仙 」とも 「 狐の剃刀 (きつねのかみそり) とも言います

とにかく 美しい 花です




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《 萩 》

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《 白萩 》




秋の花といえば

くさかんむり に 秋 と書く です

万葉集で 最も多く 詠われた 花で 142首 もあります

ちなみに 二番目は 梅 で 119首 です




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《 すすき (薄) 》


薄 (すすき) 秋の七草のひとつです

花穂の形から 万葉集では 尾花 という名で 詠われました




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《 ナンバンギセル (南蛮煙管) 》



ナンバンギセル ( 南蛮煙管 ) という 珍しい 花を見つけました

すすきの根元に 隠れるように 咲いています

イネ科 の 植物の 根から

栄養分を吸収して 生育する 寄生植物 です









by nonkei7332 | 2015-09-08 21:20 | | Comments(0)


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公園から 子供達の声がきこえてきました

保育園の運動会の練習でした




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今朝までの 雨も止んで

秋の日差しのなかを

松葉牡丹の花が 目を覚ましたようです




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心地よい 風が吹いています

昨日は遅くまで 本を読んでいたので

多少眠いのですが

秋を見つけに 外に でました

太宰府の姉から 白い彼岸花が咲いてるよと

メールがきていたからです

黄色い 鍾馗水仙 (ショウキズイセン) と

赤い彼岸花を交配してできたのが

白い 彼岸花

今年も 綺麗に 咲いていました









by nonkei7332 | 2015-09-07 11:18 | | Comments(0)