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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

<   2015年 05月 ( 15 )   > この月の画像一覧




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昔、あるところに、お宮がありました。
お宮のそばには塚があって、その脇にはお地蔵様が祀ってあります。
そのお地蔵様のうしろにには小さな洞があり、
狐の一家が住みついていました。
ある年の春の、とても天気の良い日のことです。
突然、そのお宮で結婚式が始まりました。
お宮での結婚式はとても珍しかったので、
大勢の村の人達が見物に集まってきました。
ところが不思議なことに花嫁さん 花婿さん 親族、
誰一人として知った顔がありません
雅楽や祝詞に合わせて、おはらいや三々九度もありました。
それからまもなく、日が照っているのに雨が降り出しました。
けれども、村の人達はこの結婚式を不思議に思い、
雨宿りもしないで見物しています。
花嫁の母親は、式の初めからずっと泣いていました。
式が終わると一行は、村の人達に頭を下げ、
泣きくずれる母親と花嫁を包むようにして引き上げていきました。
お宮の鳥居をくぐり、竹やぶの脇を過ぎ、堀を渡り、
そこから六体(ろくて)さんと呼ばれる 竹林の横を 通り抜けて、
その先の小さな塚に着きました。そのとたん
一行の姿がぱっと消え、
キャンキャンと狐の鳴き声が聞こえてきました。
そこで初めて村の人達は、
さっきの結婚式が『狐の嫁入り』だったとわかりました。
地蔵さん裏の娘狐が、六体さんの竹林の横の狐に、
お嫁入りをしたのです。
それからというもの、この村では 日の照り雨が降ると、
子供たちは人差し指を耳の上に立て、
狐の真似をしてピョンピョンはねながら

日の照り雨に 狐さんの 嫁らす
母さんな 泣ぁかす

といって、歌うようになったということです。

出典 : 『民話瀬高むかしむかし』松尾静雄著


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口之永良部島新岳噴火5月29日AM10:08 高久至さん撮影



『 天 泣 』(てんきゅう) とは「天気雨」のことです

雲ひとつない 空から 雨がふることです

原因は 地下の振動が 大気の振動につながって 湿度を変え

雨や雪がふってくる 自然現象だそうです

「無雲の雨」とか 「狐日和」とか の別名で呼ばれています

この雨が降ると

地震や 火山噴火が おこっているとの 記録があります。


最近 の 地震 や 火山噴火

どこかで 『狐の嫁入り』を見た人はいませんか?








by nonkei7332 | 2015-05-31 09:58 | 古代史 | Comments(0)

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香椎宮秋季大祭での 踏歌奉納




香椎宮には 古くから
踏歌(とうか)と呼ばれる 歌と舞 が 伝承されています

この 踏歌 の起源を辿ると
中国の《詩経》における漢詩表現の六種の形態(六儀)
《「風」「賦」「比」「興」「雅」「頌」》を
紀貫之 (868〜945) (古今和歌集の撰者) が 古今和歌集仮名序において
それを転用し 和歌 の 六種の様式
「そえ歌」「かぞえ歌」「なずらえ歌」
「たとえ歌」「ただごと歌」「いわい歌」
に分けたことから始まります

この 頌歌(いわい歌) が 香椎宮踏歌 でした

頌歌 (いわい歌) については 古今和歌集仮名序 では 次のように書かれています

六つには 頌歌 (いわい歌)
《 此の宮は 宜も富みけり 草の 三つ葉四つ葉に 殿堂造りせり 》
《 このとのは むべにとみけり さきくさの みつばよつばに とのつくりせり 》
これは 世をほめて神につぐる也。



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香椎造り


この歌は 香椎宮の荘厳な造りの様を讃えた歌です
そもそも 香椎宮は 仲哀天皇 神功皇后の霊を祀る
「廟」として建てられたものですから
他の神社とは違い 「香椎造」といわれる 独特な社の造りになっています
〈三つ葉四つ葉〉とは 軒端が三つも四つも重なっている様を形容した言葉です
〈世をほめて神につぐる〉とあるように 建物だけではなく
天皇の世を讃え 神に捧げる 祝いの歌 だったのでしょう

霊廟である 香椎宮に 唯一 永く奉納されてきた 踏歌も
1586年の島津氏の侵攻を受け 香椎宮社殿が 焼失
さらにその後 秀吉に社領までも没収された為に その後永く絶えていましたが
昭和54年 木下祝夫宮司により再興され
現在では 春と秋の大祭で奉納されています


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うばゆり



この踏歌のなかに 《 さきくさ 》という 植物がでてきます

真鍋大覚さん は この草を 七夕百合 ( 姥百合 ) だと いわれ
白鳥座の中に輝く 朱卵星(みかのほし) のことだと 解釈されました

『儺の国の星拾遺』(266p) に次のように 書かれています


『 朱卵星 (みかのほし)
三伏の大暑を遣ってから、空の色は日増しに高く遠くなります。
玄天はすでに秋の深まりにはまってくる頃、
時おり 夏草の上をわたる風にも 秋の気配が感ぜられる頃
白鳥座に淀む 酸漿(ほおずき)の色の星が これでありました。
昔はもっと 色があざやかであったと語られております。
三枝星 (さきくさのほし) の名のごとく 神殿の色彩に この星を写して
人と神の相和し相睦むところと したのであります。
七夕の 雅な 幻映 でありました。』


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白鳥座の星雲



また 『香椎宮踏歌由来略記』真鍋大覚著 には

これは 天の川の中央、夏の七夕の夜を飾る 牽牛と織姫の間にある
白鳥座に輝いておりました 巨大 かつ 華麗な 変光星雲のことでありました。
今は X線だけを放射する 暗黒星雲でありまして、豪州天文台の H.Cミンネット
J.Hピッデイトン博士 両博士が昭和26年(1951年)の X線写真撮影によると
その位置は 赤緯30度52.0分、赤経20時49.75分、光度等級 10.2 であります
今から 400年程昔までは まだ時折りその光芒をみることが出来ておりました。
季節は 那珂川で 七夕百合 が白く ほのかに香る
旧暦七月七日の頃に 天頂に光っていたとききます。』



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うばゆりの実



七夕百合については

『 この歌の頃の星の色は 赤や白 、又、紅や朱や紫に 三つ四つと
花弁のごとき光の延びの美しさをよく描写しております。
七夕百合 は 牧野富太郎博士の植物図鑑に 「うばゆり」とでております。
那珂川で 「とんぼゆり」或は
「からすのぜんぜん」の名で親しまれております。
正式には 「烏幡石菖 (とばゆり)」と書いていたものと見えます。
秋 10月を過ぎると縦に長い楕円形 即ち
この星雲の形そのままの殻が三つに割れ、
各二房一対の網目の中に50〜100以上の薄い翅をつけた種子が風に乗って
長く列をなして次々に飛び散っています。
おそらく 「さきくさ」とは
実の先が裂けて分かれるところから出る名かも知れません。』



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うばゆり


香椎宮踏歌 と

「さきくさ」と 呼ばれた 「七夕百合」

そして 「朱卵星」と呼ばれる 白鳥座の変光星雲

天 と 地 と 人 が 繋がって

ひとつの 神話 がうまれたようです。






by nonkei7332 | 2015-05-30 22:01 | 古代史 | Comments(0)


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図書館帰りに 久しぶりに
筥崎宮の 花庭園 に寄ってみた
《初夏の百合まつり》の旗があったが
見頃は 6月の中旬なので まだ 早い。
のんびり と 花散策 。
前に来たのが 2月の冬牡丹の頃
4月の 芍薬 ( しゃくやく ) を 見損なったが 悔やまれる



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前回 素通りした
オープンテラスの《 筥カフェ 》に 寄ってみる
喧騒 を 離れた 静かな 平日の午後
小鳥 の さえずり だけの世界
まるで 結界に
迷い込んだ 蝶 のように
しばし その 異空間 を 遊ぶ
香り深い Coffee と 係りの方の 笑顔が嬉しい


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この 庭園に来ると いつも 初めての花 に 会えるのが いい



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紅山あじさい ( べにやまあじさい )



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京鹿子 ( きょうがのこ )



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花菱草 ( はなびしそう )



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アスチルベ



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三葉下野 ( ミツバシモツケ )



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小麦仙翁 ( コムギセンノウ )



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白鳥 (はくちょう)



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八丈千鳥 ( はちじょうちどり )



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白扇 ( はくせん )




私 の 花暦 は すでに

紫 陽 花 ( あじさい )

の 季節 のようだ







by nonkei7332 | 2015-05-28 20:01 | | Comments(0)

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私は 二週間に一度くらい 図書館にいく
そして 五冊位の 書物を借りてきては 読んでいる
明日は 図書館に行く日なのだが
明日 返す本の中で 特に 面白かった本があった
それは 養老孟司 著『自分の壁』という 新潮新書だった
彼は かなり ひねくれた 考え方をする人だが
その ひねくれかたに ハッと 気づかされる ものがあった

以前から気になっていたのは、団塊の世代の人々が しばしば、
「 老後は子供の世話には ならない」と言っていることでした
親孝行といった道徳をなくしていけば、当然そういう考え方になります。
「 私は親孝行しない よって 子供も親に孝行する必要はない」となるからです
でも、体が動かなくなれば他人に迷惑をかけざるをえません。
それでいいのです。世の中には元気でも迷惑な人だって、たくさんいます。
他人に迷惑をかけずに亡くなるのが一番いいというならば、災害で死んで、
遺体も見つからないのが理想だという事になってしまう。
いくら何でも、それはおかしいと思うでしょう。
「子供の世話にならない」という考え方を持つ人は、
それを一種の美学だと捉えているのかもしれません。しかし、
社会全体がそういう考え方に向かうのは、ちょっと危ない傾向に思えます
それは、「子供の世話をしない」ということの裏返しだからです。
要は、「人のことなんか知ったこっちゃない」ということです
これは実は人間関係において、手抜きをしていることです。
このことは、「自分の体は自分のもの」という考え方にもつながります。
そして自殺も「俺の勝手」になってしまう。』

親孝行の本当の意味について こんなふうに 書かれている

『人間が最初に付き合う自分以外の人は、親です
それを徹底的に大切にしろ、とはどういうことか。
親のほうは「子供は親の言うことを聞くべきだ」
という教えだと考えているかもしれません。
でも、それは誤解です。親孝行は、子供に対して
「お前は お前だけのものじゃないよ」
ということを 実は 教えていたのです』


親子関係について言えば
私は 「子供の世話にはならない」派の部類なので
養老さんのいう 「危ない傾向」「手抜き」の指摘をもろに 受けてしまう
幸い 出来た息子達だから 年に一二度会いに来てくれるし
誕生日や父の日には キチンとプレゼントを送ってくれるのだが
私の中で 「子供や孫の世話はしない」という
手抜きが存在するのを 自覚している

私の 近所には 一人暮らしの老人がたくさん住んでおられる
まるで 姥捨山 みたいな 光景がそこにはある
でも 決して 子供達に 捨てられた人達ではない
自らの意志で 私とおなじように
「子供の世話にはならない」といって
独り暮らしを選んだ人達なんだろう
養老さんがいうように 日本人が 抱えた 核家族という 負の連鎖が
やがて この国を 間違った方向へ 向かわせていくのであれば
それは どこかで 断ち切らないと いけないのかもしれない

老人達よ 先ずは この山から 降りて 子供達の住む里へ戻ろう
そして 孫の世話をしながら 子供に世話をしてもらうのだ


父の日が近い
初めての事だが
次男に 『電気カミソリ』が欲しいと ねだってみた
『わかりました』と返事が来た
さてさて 長男には 何をねだろうかと
今 思案中だ





by nonkei7332 | 2015-05-28 09:33 | 日記 | Comments(0)


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筑紫野の 歴史 はるかに 受けついで 
文化の光 かざしつつ
学びの道にはげむ今
かしこく つよく 助け合う
宮竹校に 栄えあれ

那珂川の清い流れにはぐくまれ
あしたの希望めざしつつ
学びの道にはげむ今
かしこく つよく 助け合う
宮竹校に 力あれ

玄海の潮の香りを友として
日本の理想かかげつつ
学びの道にはげむ今
かしこく つよく 助け合う
宮竹校に 光あれ




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雲よ湧き立て 宝満の
峰も輝く 朝空に
旗も希望に ひるがえれ
学び働く 新天地
われら 福岡那珂中の
みなぎる息吹き この誇

薫るみどりの 筑紫野に
強く正しく 朗らかに
堪えて進まん この苦節
稔れ郷土の 新文化
われら 福岡那珂中の
ひびけよ若き この力

那珂と御笠の 清流に
古き歴史を 偲ばずや
呼べよ間近かに この空港
つばさとどろく 新世紀
われら 福岡那珂中の
世界にひらく この瞳




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丘上我等偲 ・・・おかのえに われらしのぶ
遥々筑紫国原・・ はるばると つくしくにはら
思出夢遠 ・・・・おもいでの ゆめは とおし
民族歴史荷・・・ みんぞくの れきし にないて
日本守護 ・・・・にっぽんを いざ まもらん

丘上我等立 ・・・おかのえに われら たてば
碧空港彼方 ・・・あおぞらの みなとのかなた
盛上大都 ・・・・もりあがる おおきみやこ
東西文化学 ・・・とおざいの ぶんか まなびて
日本開拓 ・・・・にっぽんを いざ ひらかん

丘上我等若 ・・・おかのえに われらわかし
高校我等若 ・・・こおこおの われら わかし
若人此処集 ・・・わこおどよ ここにつどえ
健康叡智正義 ・・すこやかに さとく ただしく
日本創造 ・・・・にっぽんを いざ つくらん




いずれの 校歌 にも

筑紫 の 歴史 が 刻まれています


by nonkei7332 | 2015-05-23 09:09 | 日記 | Comments(0)


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5月14日 Am 7時27分 撮影
福岡市 東区から 南の空に 旗雲がなびいていました
「嫌な雲だな」と 思っていました


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5月21日 Am 10時20分

鹿児島の桜島で 爆発的噴火を起こしました
噴煙が 火口から 4300Mに達したようで
1955年の 観測開始以降 史上6位の高さでした



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22日 AM 10時 静岡 静岡新聞社



5月22日

昨日のニュースで『水平環アーク』と呼ばれる

彩雲が 各地で 観測されています



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AM 10時 大阪



『 白 虹 』 も 観測されていました




22日 午後22時28分

奄美大島近海で M5.1の 地震が起こりました

最大震度 5弱 でした

地震雲 について

公的機関や学術団体は
地震の観測 と 因果関係が 不明とする見解をとっています

証明出来ないから 不明で済ませていいのですか

明日の 小学校の運動会の 天気さえ

明日になってみないと判らないといっている

気象庁さん

何か おかしいのでは ないですか





by nonkei7332 | 2015-05-23 01:05 | 日記 | Comments(0)


散歩していて 見つけた 花々です


釣 鐘 草 (つりがねそう)

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別名を カンパニュラ (ラテン語で 「小さな鐘」の意味) とか
風鈴草 (ふうりんそう) といわれています


車 輪 梅 (しゃりんばい)

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垣根の中で 見つけました いい匂いがしました
卯の花 ではないのですが ホトトギスも鳴いていませんが
夏はきぬ ですね



どくだみ の 花

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軒下に咲いていました
抜いても抜いても 毎年生えてきます
今年は うっかりしていました 花が 咲きました



銭 葵 (ぜにあおい)

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立 葵 (たちあおい)

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葵 (あおい) の花といえば 京都の葵祭り
葵祭り は 古代 背振山の賀茂氏に起源を持つ
筑紫のお祭りだったんです
それを 天智天皇 が 京都の鴨神社 で 再興したんです
〈京都〉は〈筑紫〉の コピー と言えば 皆んな 怒りますよね
『源氏物語』も 実は ・・・



私の 花暦 で言えば もうすぐ

紫陽花 (あじさい)

そして

梔 (くちなし)・木槿 (むくげ)

の 季節です






by nonkei7332 | 2015-05-20 17:58 | | Comments(0)


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博多祇園山笠 飾り山 『 博多の豪商 神屋宗湛 』




博多商人の 三傑 と言えば
〈神屋宗湛〉〈島井宗室〉〈大賀宗九 〉
そのなかでも 博多町人にとって 最も親しみのある 豪商こそ
《 神 屋 宗 湛 》でしょう

神屋家の祖先は 鎌倉幕府の御家人で
宗像の大宮司 宗像氏貞 に仕えた 神人(神職) でした
いわゆる 物部氏の末裔の もののふ だったようです

宗湛は 天文20年 (1551年) 時は 室町時代の終わりに
神屋紹策 の子として 博多に生まれています
幼名は 善四郎貞清
中世の博多は 常に戦乱に巻き込まれ
町は何度も荒廃しました
永禄12年(1570年) 毛利 と 大友 の両軍が
博多で激戦をした時は
宗湛一家は 肥前唐津に難を逃れて移り住みます
宗湛19歳の時でした
( この時 山笠人形の小堀家も 唐津に難を逃れています )

宗湛の祖父 神屋寿貞 は 明国で 冶金術を学び
石見銀山を発掘して 銀鉱の精錬術を成功させた
偉大な 商人でした
その血をひいた 宗湛は 唐津における 17年間
父 紹策の指導の元
海賊松浦党の援護もあり 海外貿易の商才を磨く かたわら
茶道の修行にも励み その道にも 精通したとされます

天正13年(1586年) 宗湛 35歳の時 上洛の志を果たします
茶道の名人であった 京都大徳寺の住職 古渓和尚の弟子になり
宗湛 の名前を 号するようになります
天正15年 堺の茶人 津田宗久 の手引きで
豊臣秀吉と 大阪城の茶会で 謁見します
秀吉は 「筑紫坊主」と宗湛のことを呼んだといいます
その時 宗湛は 島津氏に焼き払われた
博多の町の 再興を願い出たのです
宗湛の先見は 見事に的を得たようです
その年 秀吉は 九州征伐の軍を起こし 自ら 出兵します
九州に戻った 宗湛の活躍は 目を見張るものがありました
兵糧 や 秣(まぐさ: 軍馬の餌) の供給を一手に引き受けたり
秀吉のそばで 戦地に赴き すべての 雑務をこなしたのでした

島津征伐を終えた 秀吉は 博多に戻り 箱崎に本陣を置き
宗湛は 諸大名や千利休も呼んで
盛大な茶会を 催したりすることで
さらに 秀吉の信頼を 得たようです
そして それは 秀吉の 願望だった
朝鮮出兵の補給拠点としての
博多の町の 再興を決意させることにも 繋がっていきます
こうした 政商 神屋宗湛 の 機敏な 行動と働きは
秀吉の 朝鮮出兵の時期を早めたとも 言われているのです

博多の町を 再興させた 豪商 神屋宗湛
秀吉亡き後も 黒田家の 御用職人として 博多に住みつき
博多の人々に愛された 宗湛 は 83歳の長寿を全うしました


宗 湛 と 秀 吉

もののふ の血を引き継いだ

博多那の津の商人 と 尾張の猿楽師のせがれ の 出会いは

ひとつの 歴史を 後世に残したのでした







by nonkei7332 | 2015-05-18 21:31 | 博多ルーツ | Comments(0)


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(出典 ALL ABOUT)




九州北部の 梅雨入りは 平均すると 6月5日ごろ
梅雨明けは 7月20日ごろ だといいます
3ヶ月予想は 5月 6月が 暑い日が続いて
本格的な 梅雨は 7月にはいってからだと
気象庁はいっていますが
あくまでも 予報は 予想であって あてにはならない
最近は 3ヶ月先の事など 誰もわからない程
異常気象が続いているからです
梅雨期間が 70日以上も あった年を調べると
1889年・1901年・1920年・1945年 で
概ね 20年ごとの周期
とくに 第2次大戦が終わった 1945年は
5月中旬から 8月まで 長雨が 100日も続いたようです
また 反対に 1904年は
6月中旬のわずか 4日間 の梅雨だったとか

真鍋大覚さんの 《大地の雲映》の中で
霖雨 の兆候を表すものとして

《 斑 鳩 》(いかる) という鳥と

《 彼 岸 花 》の話をされていました




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斑鳩



斑鳩 は 初冬にきて 中春 ( 3月 ) に去る 渡り鳥です
聖徳太子が愛した鳥として知られています
法隆寺あたりに 太く黄色い口ばしを持つ
斑鳩 という鳥が 群れをなしていたことから
その地を 斑鳩の里 (いかるがのさと) と
名ずけた といわれています
この 斑鳩 が 立夏 (5月) になっても 渡らずにいると
その年は 長梅雨 になるといわれています


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彼岸花



彼岸花 は 9月の中旬 に花を開きます
ところが 50年に一度の位の 周期で
15日も早く 咲く年があって
その年は 長雨冷夏となる といわれています

夏に 帰る 鳥を見て
棚田 の 畔に咲く 花をみて
天 を 知る
いにしえの民の知恵なのでしょうか



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今年 4月の チリのカルブク火山噴火が

日本にも 異常気象を起こすのではないかと言われてます

斑鳩 の鳥が まだ 日本の空を飛んでいたら

今年 彼岸花が 8月に咲いたら

気にならないと言えば 嘘になりますね







by nonkei7332 | 2015-05-17 22:40 | 日記 | Comments(0)


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宮沢賢治




雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク 決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニソウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ

北ニケンクワヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ




南無無邊行菩薩

南無上行菩薩

南無多寳如來

南 無 妙 法 蓮 華 經

南無釋迦牟尼佛

南無淨行菩薩

南無安立行菩薩



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宮沢賢治のメモ帳




が この詩と 出会ったのは 中学生の頃です

いまでも 暗誦できる 唯一の 詩 なのです


仕事の 朝礼ネタ で 困った時に みんなの前で 暗誦したり

思春期の息子たちに 覚えさせたくて トイレの壁に貼ったり

いくつもの 思い出がある 詩 です


宮 沢 賢 治 は 詩人であり 童話作家でもあります

多くの人 に 愛される 多くの 作品を残していますが

とくに 『 アメニモマケズ 』は 有名です

原文には 詩文のあとに このような メモが残こしていたようです


彼は 法華経信仰 の 仏教徒でした

「国柱会」という 信徒教団に所属して

熱心に布教活動もやっていたようです

このメモは おそらく 法華経の日本での教祖のひとりである

『 日 蓮 』の書いた 曼荼羅の一部ではないかと思われます

仏教者としての 生き方を 自分の生活と重ねあわせて 綴ったのが

「アメニモマケズ」だったのでしょう

私が とくに 気になるのが 後段にある言葉

『 デクノボ- 』「木偶の坊」です

前回のブログの記事で その語源について書いていますが

ここでは 『日蓮上人』と 木偶の坊 について 繋げてみます



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日蓮 は 貞応元年(1222年) に

安房国長狭郡小湊 (千葉県鴨川市) に生まれています

日蓮の書いた 多くの 著作 や 書簡 の中には


「 海辺の施陀羅が子なり」(佐渡御勘気抄)

「 片海の石中の賎民が子なり」(善無畏三蔵抄)


などという 自分の出自を書いたものがあります


安房 の 地名は 四国の阿波が由来とされているように

元をただせば 海人 安曇族の末裔といってもいいでしょう

阿波や 渥美 や 熱海 も

安曇族の移動していった地名として 残っています

やがて 古代天皇の祖である 安曇族の名前も

歴史の中から 消されていくのですが

安曇の血を引いた 海人の魂は

全国各地に 連綿と受け継がれていたのでしょう

日蓮が 「立正安国論」で

他国侵逼 ( 元寇 ) を予言したとされていますが

海人族のネットワークによる

情報が 成せる技 だと思えば 納得もできます

豊臣秀吉を支えた 「同朋衆」と呼ばれる

秦氏 土師氏 のネットワークと同じような

海人族の ネットワークが 各地に 存在したのではないか

そしてそれを 後世 引き継いできたのが

日蓮門徒衆 と呼ばれる 人達であったのでは ないでしょうか


真鍋大覚さん も「儺の国の星」で


《 安住(あずみ) なる氏族は

舟人として上古に知られた家系でありまして

北辰を氏神として祈ってきました

その子孫は 後に倭寇となりますが

元寇の後は 日蓮の宗派に吸収されて

維新の後までも 西海の重鎮たる

一代勢力を維持しました 》

と書かれています


歴史 の 影 では

いつの時代も

蔑まされ 役立たず と

迫害を強いらられてきた人々がいました


みんなに 木偶の坊と呼ばれ

ほめられもせず 苦にもされず

そうゆう者に 私はなりたい


日蓮門徒衆の一人であった 宮沢賢治 の 言霊 (ことだま) の裏に

消されていった 九州王朝の

影を見たといえば 言い過ぎでしょうか



《 病のゆゑにも くちん いのちなり みのりに棄てば うれしからまし 》


宮沢賢治の辞世の句と云われています







by nonkei7332 | 2015-05-13 15:33 | 日記 | Comments(0)