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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

<   2015年 02月 ( 12 )   > この月の画像一覧



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先週 太宰府に住む 姉からの 誘いがあった


梅も見頃だし 国博 にも行っておきたいし OK の返事


兄も誘って 兄弟三人で 天満宮 へ



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菅原道真公の誕生日が 6月25日 そして 命日が 3月25日

おなじ 25日 ということで 《天神さまの日》とされている

私は 今日は 特別な日だとは知らなかったが

姉が この日にした 目的が すぐに解った

じつは 参道の〈梅ヶ枝餅〉が この日だけは

いっせいに 〈よもぎ梅ヶ枝餅〉となるからだった




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それにしても 正月でも 日曜でもないのに

この混みようはなんだ

人 が 多過ぎる 聞こえてくるのは ほとんどが Chinese

いったい ここは どこの国なんだと 思ってしまう




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お昼は 太宰府では 数少ない 倭風料理の 『 古 紺 』(ココン)

小鳥居小路 沿いの 路地の奥にある店

和風定食 (1250円) もいいが カレー (1000円) も美味しい

知る人ぞ知る 店なのだ





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今日は 拙ブログ《 磯良の海 》の 一周年記念日


道真公 に 感謝を伝え 二年目の飛躍を


《 麒麟さん》に お願いして きました





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by nonkei7332 | 2015-02-25 18:45 | 菅公・太宰府 | Comments(2)

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糸島半島に沈む夕陽 右手前が 能古島 その向こうが 可也山



友 へ



一雨ごとに 春めいてきます


先日 久しぶりに会って 懐かしかったですね


短い時間だったから 話し足らなかったことを 文にします


しげしげと 私の 真っ白な 頭を見ながら 語った 君の一言に


「老いは隠せないからな」とつぶやいた 私の言葉は


答えになっていたでしょうか


五年前の 私しか 知らない 君の目には


全くの 他人のように見えたのだろうからね


そう 自分でも 隠しおせないものは しっかりと自覚しています


花が咲いて 散っていくのは やがてまた 咲くための 生の証しなのだから


もう 花とはみえない 朽ちかけた 私の姿とて


生きている証しだと思ってください



五年前の春の事から 話します


春三月 東北の惨事に 全ての人達が 憂いているころ


私は 病院の中に居ました


車椅子を押しながら 動かぬ 手足を呪いながら


それでも 必ず 自分の意思で動かしてみせると もがいていました


その前の年の大晦日 私の脳の中でおきた 惨事は


私の多くの 身体の機能を止めてしまいました


幸いにも 生命を 繋いでくれた 何かがあったのでしょう


今だから 話せる その 何かの話 をしようと思います


その後の私は 辛いリハビリを乗り越えて


半年後 退院し 職場に復帰することができましたが


残った障害で これ以上 会社に迷惑もかけれないので


その年の暮れに 定年退職をしました


住居を変え 生活も何とか落ち着いたころ


90歳になる 母の認知症がひどくなったので


兄弟で まだ わかるうちにと 持ち物を整理していたら


話には聞いていた でも 見たこともなかった


母方の家系図を見つけたのです


君との 別れ際に話した


拙ブログ《 磯良の海 》もここからが 始まりです


先祖は 《 小堀甚左衛門正直 》と書いてありました


調べてみると


博多祇園山笠 の〈山笠人形の始祖〉だという事がわかりました


思い切って 福岡市博物館を訪ね 見てもらったところ


貴重な資料との事だったので 相談の上 博物館に預けることにしました


〈 12月に 安心したかのように 静かに 母が亡くなりました 〉


翌年 3月に調査委員会をへて 正式に博物館より要請連絡があり


寄贈する事に決めました


思ってもいなかった 私の ルーツ を追いかける旅が 加速したのです


小堀甚左衛門 は〈野見宿弥〉の 後胤 と書かれていて


京都四条に住む 〈木偶師〉 ( からくり人形師 ) でした


櫛田神社の招聘で 永享九年(1437年)に


博多に下向したと系図には書かれていて


周防の〈大内義隆〉 や 〈豊臣秀吉〉とも 交流があったと 書かれています


図書館に行って 何か文献は残ってないかと 調べる日が続き


野見宿禰を知る為に 古事記 日本書紀 を 読みあさり


〈からくり人形の歴史〉を調べる為に


京都の祇園社あたりを DNAを探して 歩き回りました


そんなころ 福岡市博物館から 朗報があったのです


その年の 11月に 博物館で『山笠の力~ハカタウツシ』という展示会があり


〈小堀氏略系〉という資料名で 展示するという報せでした


綺麗に 展示された 家系図を見ながら


博多の町に 室町から 明治に至るまでの


十二代続いた 人形師の魂が 私の中の 何かを 揺さぶってくるようで


母が遺してくれた 私の生命を繋いだ


魂の仕業を 感じずには おられませんでした



年が変わり 去年の 1月 の終り 近くの 〈名島神社〉を散策していて


小さな 石を拾い 不思議な 体験をしました


部屋に戻って ネットであれこれ 調べていると


とても 興味深い ブログを 見つけたのです


『 ひもろぎ逍遥 』管理人が 《綾杉るな》と書かれてありました


とにかく 面白かった


自分でいろいろ調べてきた 答えが


そこには あるから 驚きです


一週間 時間も忘れて そのブログを読むことに 没頭したでしょうか


当然 綾杉さんが 出されている 本


『神功皇后伝承を歩く (上) 』も 出版社から


取り寄せて 読んでみました


〈傀儡〉〈傀儡の神〉 〈安曇磯良〉 〈記紀のからくり〉


断片的な 私の中の 知識が 次々 と見事に 繋がっていくのです


そして 2月15日 その 綾杉さんが 講師となる 研究会が


宮地嶽神社 であるのを知り


立場も弁えず 出向いて行きました


綾杉さんは 穏やかな 中にも 自信にあふれた お話をされる方でした


そして 去年の 2月25日


何かに 導かれるように


拙ブログ 《 磯 良 の 海 》を立ち上げたのでした


それから 3月2日 の アクロス福岡の〈筑紫舞〉のイベントを皮切りに


綾杉さん の 勉強会 講演会には ほとんど 参加させて頂きました


そこで 多くの 安曇連 の方々とも 知り合うことができました


皆さん 素晴らしい 方々 ばかりです



随分 長い話に なりましたが


この一年は 私の人生の中で 最も重要な 一年でした


最も 魂の揺れる そして 多くを学んだ 一年でした


世阿弥 の 言うように 『 初心わすれべからず 』


これからも もっと 多くの人から 多くの事を学び


この国の 真実の姿を繋げる 好好爺 の『語り部』 になりたいものです


これからも 時々は 《 磯 良 の 海 》を 覗いて下さい


それでは MATA-NE.


友 へ




2015年 2月 24日





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『 小堀氏略系 』 福岡市博物館所蔵














by nonkei7332 | 2015-02-24 17:58 | 博多ルーツ | Comments(1)


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《 中 原 中 也 》(なかはらちゅうや)

私の中で 詩人 といえば 必ず この人の 名前が出てきます。

「春宵感懐」は 中也 の自選第二詩集 「在りし日の歌」 にある詩です



【 春宵感懐 】

雨が、あがって、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵(よい)。
 なまあったかい、風が吹く。

なんだか、深い、溜息(ためいき)が、
 なんだかはるかな、幻想が、
湧(わ)くけど、それは、掴(つか)めない。
 誰にも、それは、語れない。

誰にも、それは、語れない
 ことだけれども、それこそが、
いのちだろうじゃないですか、
 けれども、それは、示(あ)かせない……

かくて、人間、ひとりびとり、
 こころで感じて、顔見合(かおみあわ)せれば
にっこり笑うというほどの
 ことして、一生、過ぎるんですねえ

雨が、あがって、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
 なまあったかい、風が吹く。



この詩を書いたのは 詩人 27歳のころ
公私ともに最も 充実した 時期の作品です
昭和8年 26歳で 遠縁の 上野孝子と結婚し
翌年の10月には 長男の文也が生まれます
苦労した第一詩集の『山羊の歌』が 12月に発刊 され
その後の評判も良く 職業詩人として活動範囲が大きく拡がってきた
翌年の 7月に 「文学界」に発表された詩です
しかし いい時期は そんなに長くは 続きませんでした
昭和11年 詩人 29歳 の11月
溺愛していた 2歳になったばかりの 文也が 小児結核で 亡くなります
絶望は 詩人の精神を破壊へと 追い込んでいきます
被害妄想やノイローゼが高じたために
翌年1月 には 療養所に1ヶ月入院し ます
退院後 鎌倉へ転居したのは 心機一転を図り 再生を期すためでした
鎌倉では 中断していた 第二集「在りし日の歌」の編集を再開 します
文也追悼詩集となる「在りし日の歌」が完成し
親友の小林秀雄に 原稿を託します
詩集の 後記 には 詩人はこんなふうに 心境を書き述べています




私は今、此(こ)の詩集の原稿を纏(まと)め、友人小林秀雄に托し、
東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠(ひきこも)るのである。
別に新しい計画があるのでもないが、
いよいよ詩生活に沈潜しようと思っている。
扨(さて)、此(こ)の後どうなることか……
それを思えば茫洋(ぼうよう)とする。
 さらば東京! おおわが青春!
                  〔一九三七・九・二三〕



不安の中にも 過去を断ち切り 郷里での 新たな生活への 意思もみえる 文章です
1937年(昭和12年) 9月27日 の日付けです
10月になると 突然 結核性脳膜炎を発病します 10月6日 入院
そして 10月 22日 余りにも 短く あまりにも 多感な人生にピリオドを打ちます
享年 30歳 遺した 詩 370編 だと いわれています


研ぎ澄まされた 針のような 感性と早熟しすぎた 比類の才能を持ち
あまりにも 巨きな悲しみの魂を背負った 愛すべき 詩人でした



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中也 と 文也


四行詩 ( 中原中也 最後の詩 )

おまへはもう 静かな 部屋に帰るがよい

煥発(かんぱつ)する 都会の夜々の燈火を後に

おまへはもう 郊外の道を 辿る(たどる)がよい

そして 心の呟やき(つぶやき)を ゆつくり 聴くがよい







by nonkei7332 | 2015-02-23 18:04 | 日記 | Comments(0)



とても 87歳とは思えぬ 凛とした 声は いまでも 私の脳裏に残っています
それは 去年の 3月2日 アクロス福岡 で行われた イベント
《 筑紫舞 再興三十周年記念 国宝大神社展 「宮地嶽 黄金伝説」》に
特別ゲスト として参加された 歴史学者 《 古 田 武 彦 》さん


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おおよそ 歴史・古代史 などとは 全く縁の無かった 私でしたが
縁あって ご講演を聞くことができました
古田さんが 提唱された 『九州王朝説』とは 次のようなものです

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《 九州王朝説 》

我国には近畿天皇家に先行する王朝が存在した。

この王朝は、一貫して九州を本拠とし
「天孫降臨」とされる海人族の博多湾岸への進出に始まり、
701年に近畿天皇家に取って代わられるまで存続した。

海外史書に見える 3世紀 邪馬壹国の卑弥呼・壹予、
5世紀の倭の五王、7世紀の 阿毎多利思北孤 はこの王朝の天子であった。

漢・魏・隋・唐 など歴代中国、朝鮮半島の高句麗や新羅・百済との
交流・戦闘はこの王朝の事績だ。

また、517年の「継体」に始まる32の「九州年号」をたて、
磐井の律令や冠位12階などを制定し、全国に評制を敷き、国宰・評督等を任命し、
難波に副都を建設するなど全盛期には九州にとどまらず、全国を支配領域としていた。

白村江の敗戦もこの王朝の出来事であり、
これ以降勢力は急速に衰え、8世紀初頭、
則天武后の承認を得た近畿天皇家に名実ともにとってかわられた。

近畿天皇家は九州王朝の存在を消し、自らの正統性を主張するため、
その史書を盗用・改変し『古事記』『日本書紀』を編纂し、
我が国の初元から近畿天皇家が統治していたという歴史を作り上げた。


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定説の 歴史観を くつがえす 新史観であるために 多くの批判を受けながらも
私も含め 徐々に その理解の裾野が 拡がっているようです

「 人が人の為に作った 国や宗教が 自己正統化するために
歴史を改ざんし その為に戦争を起こし 多くの人が 犠牲となった
歴史が 今なお 続いています
もう こんな 歴史は繰り返してはいけない その為にも
いまこそ この国の 本当の歴史を見つめ直すことが 大事だ 」と

古田さんは いわれます

そして 講演の最後は こんな 印象的なお話で締めくくられました。


『 私も もう87歳 間違いなく もうすぐ 死ぬでしょう 。
死んだら どこに行きたいかといえば
私は 地獄 に行きたいと 今 思っています。
そこには 生きているうちに いろんな不幸を抱えて
いまだ 地獄の思い をしている人が たくさんおられるからです
その地獄に行って 一人でも多くの人から
悔しかったこと 辛かったことを 聞いてあげたいからです
私の人生をふりかえってみたら こんな 欠陥だらけの 私のことを
多くの人が 理解をし 支援をして頂きました
ほんとうに 恵まれた 人生 でした
その お返しの為に 私は まっしぐらに 地獄に行きたい
それが 今の 望みなんです 』
(内容要略)


古田さんの 人となりを 深さを 感じさせて頂いた 温かいお話でした。
いつまでも お元気で いて欲しいです。



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博多湾から見た 鉾立山・砥石山・宝満山 に 昇る 朝日







by nonkei7332 | 2015-02-22 22:38 | 日記 | Comments(0)


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先週 〈綾杉るな さんの お話会〉に参加しました
会場が北九州市の 八 幡 でした
仕事でよく 訪れた街で 仕事を離れてからですから 3年ぶりの 北九州 です
なぜか 懐かしく いつものように 折尾駅で降りて
東筑軒の「かしわそば」を 実食


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早めに着いて 会場のそばの 小高い丘の上にある
『 豊山八幡神社 』を訪ねました
木々に囲まれた 趣きのある神社です



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《 御祭神は 親子三世代 》

帶仲津日子命 たらしなかつひこのみこと (仲哀天皇)
譽田和気命 ほんだわけのみこと (応神天皇)
息長帶比賣命 おきながたらしひめのみこと (神功皇后)
宇遲和紀郎子命 うじわきいらつこのみこと (応神天皇の皇子)


《 御由緒には 》

神功皇后、筑前宇美町に於いて応神天皇を御出産され、
穂波郡大分村より小倉村に行幸されこの地を治めていた
岡県主熊鰐より応神天皇に御衣を献上されました
神功皇后いたくお喜びになられ、三韓を従え給いし御弓矢を
山中に納め天下が豊かになる事をお祈りされ
この山を豊山(ゆたかやま)と名付けられました
明治二十二年、市町村制実施により尾倉、大蔵、枝光、三村合併の折、
三村の氏神様が『八幡神社』の為、八幡村と称しましたが、
当社が『やはた』地名の発祥の地と言われる所以であります



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全国にある 八幡宮 八幡神社 は 44000 社 もあるといわれています
稲荷神社につぐ 多さで 日本人には なじみある 何処にでもある 神社です
《宇佐神宮》が総本社ですが
元宮は 飯塚市の 《大分八幡宮》だといわれています
祭神は 応神天皇 神功皇后 仲哀天皇 や
宗像三女神 武内宿禰 など 多彩ですね
八幡(はちまん) と呼ばれるようになったのは
8世紀のはじめ 神仏習合されてからで
それまでは 八幡(やはた)の神と 訓読みされていたようです
神功皇后が 三韓征伐の時に 対馬で 八本の旗を祭壇に祀ったとか
応神天皇が生まれた時に 屋根に 八本の旗が立っていたとか
いろんな 謂れがあるみたいですが
いずれにしても 応神天皇は あとずけみたいな気がします
大元は《幡=旗》に 関わる 神様が絡んでるみたいですね
《幡=旗》にかかわる 神様といえば

織幡神社の 『武内宿禰』か

櫛田神社の 『大幡主命』か

謎が 謎を呼ぶ

八幡(やはた)の神



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by nonkei7332 | 2015-02-20 17:51 | 古代史 | Comments(2)


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昨日 は 旧暦の 正月
暦では 二十四節句 の 『雨水』です
雪が雨にかわり 春一番 も もうすぐでしょう
ところで 今年( 西暦2015年 ) は 皇紀2675年 です
皇紀 とは 神武天皇 が即位された年を 元年とする日本の 紀年法ですが
西暦に慣れた 今の 私たちには 馴染みのない ものです
西暦になおすと 神武元年は 紀元前660年になるそうです

初代の天皇といわれた 神武天皇 とは いったい 何処の人で
何処で 育ち 何処で死んでいったのでしょうか

古事記には
『畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)にましまして』とあり
辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた 神武天皇は
橿原宮で即位したとあります
その 宮殿は「畝火の白檮原宮」
奈良の橿原市にある 橿原神宮 付近だと 言われていますが
宮跡が残っているわけではなく 橿原神宮も
明治23年 明治天皇によって造られたのものです




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香椎宮



『 香 椎 宮 』
古事記では 「詞志比宮(かしひのみや)」
日本書紀では 「橿日宮(かしひのみや)」と書かれています
このばあいの 「宮」は 神社の「宮」ではなく
天皇の御所 であり 宮殿であったとされています
「白檮原宮」=「橿日宮」=「詞志比宮」
こうしてみると
「香椎宮」こそ 神武天皇が即位した場所であり
宮殿であったと思うのは 私だけでしょうか
陵墓については 古事記には
「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」
畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり とあって
若杉山にある 太祖宮 が 神武陵だという説もあります
若杉の名前の謂れも 香椎宮の神木である
綾杉を 分けたので (わけすぎ) なまって
(わかすぎ)だといわれています


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香椎かもめ大橋 から見える 志賀島(右)



神武天皇の母である 玉依姫 は 安曇族の姫です

香椎宮の 目の前の海には 母の生まれし 志賀島 がみえます

母の海に抱かれるように

神武天皇 は そこに 宮殿を建てたのでしょう


筑紫に産まれ 筑紫に育ち 筑紫に死んでいった

神武天皇 だったのでしょう








by nonkei7332 | 2015-02-20 00:49 | 古代史 | Comments(0)



一雨ごとに 暖かくなる頃の 雨を

『 木の芽おこし 』といいます

雪が 雨に 変わるころ

寒さを 耐えた 草花達 が 芽を覚まします



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古木の『 梅 』 には 春告鳥 (うぐいす) が 似合います





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『 福 寿 草 』

またの名を 「 元日草 」 「朔日草」 といいます




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『 大 文 字 草 』

花弁が開くと人が手を広げたような「大」の字に見えます




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『 ムスカリ の 花 』

別名 ブドウヒアシンス




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『 ルピナス の 花 』

藤の花 が 逆さにさいてるみたいなので

「 昇 藤 (のぼりふじ)」とも 言われています





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『 シネンシス の 花 』

中国産のサクラソウ という意味らしいです





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『 紅 侘 助 (べにわびすけ)』

といいます







by nonkei7332 | 2015-02-11 21:26 | | Comments(0)



 

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〈 藤原俊成 に自作の和歌集を差し出す 平忠度 〉



この 謡曲 は 平安時代の 二人の 歌人の物語です


一人は 『 藤 原 俊 成 』(ふじはらのとしなり)


若い時から 和歌一筋にして 名を馳せ 『 千 載 和 歌 集 』を編纂するなど

息子 「藤原定家」とともに 平安末期の和歌文化を確立した 歌人です


もう一人が 『 平 忠 度 』(たいらのただのり)


忠度 は 平家の武将 平忠盛の六男。平清盛の異母弟になります。

歌人としても 優れた才能を持ち 俊成 に 師事しました

41歳の時 源平の 一の谷の戦い にて 源氏方の 岡部忠澄 と戦い 討死 をします




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【 謡 曲 の あ ら す じ 】

都の 俊成 の邸宅に 岡部忠澄 が訪ねてきます

じつは 岡部忠澄 は 源平の合戦で 平 忠度 を討ちとり

その亡骸から 和歌を 記した 短冊 を見つけ

忠度 の 師である 俊成 のもとに 届けてきたのでした

辞世と言われた句には 『 旅宿の花 』という題がついていました


《 行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花や今宵の 主ならまし 》


俊成が忠度の 辞世の句を詠むと

忠度の亡霊が現れます。

忠度 は 俊成 に『千載和歌集』におさめられた 自分の歌が

「詠み人知らず」になっていることを ただします

その歌は 『故郷の花』という題でした


《 さざ波や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな 》


俊成は 平氏として朝廷の敵となってしまった 忠度の名前を

表に 出すのは難しいと答えます

しかし この歌がある以上 いつかは 忠度 の名も

世間に知られることになると 慰めるのでした

忠度 は 俊成 に向かい 自分の和歌についての考えを語ります

和歌のはじめは スサノウ が出雲を 詠んだ 歌だったこと


《 八雲立つ 出雲八重垣 妻こめに、八重垣つくるその八重垣を 》


柿本人麻呂 の詠んだ 歌については


《 ほのぼのと あかしの浦の 朝ぎりに 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ 》


この 情景の本当の場所について 思い至りましたと話すのでした

夜の間 ずっと二人は 時間をわすれ 語り合っていました

やがて 急に 忠度 が立ち上がり 興奮した 錯乱状態になってしまいます

忠度の中で 〈 修羅王 〉が暴れだしたのでした

すると 忠度の「さざ波や」の歌に心を寄せた 〈 梵天帝釈天 〉が 現われ

修羅の苦しみを 鎮めてくれたのです

忠度 の姿は 山の木陰に隠れるように 消えて行きました





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八重桜 (牡丹桜)







歌人である 師弟の 別れ

弟子であった 忠度 は 武人として 戦いに敗れた 無念を晴らすために

師である 俊成の前に 亡霊と成って 現れたのではありませんでした

自分の歌を 「詠み人知らず」と 残してくれた 師 への 感謝 と

歌人として 万葉の歌の真実を 最期に

師匠に聞いて欲しかったのでしょう

この物語には「旅宿の花」「故郷の花」という 忠度の歌

スサノオの 「出雲の歌」 柿本人麻呂の 「あかしの浦」の歌 がでてきます

四編の 歌の奥に 隠された 真実を 語ることで

忠度 は 修羅の世界を抜け出すことができたのでした


忠度の 二つの歌を繋ぐものは 山桜 という 花 です

シテとツレの掛合いの中で エッと思う 台詞が登場します


《 情の末も・深見草 》


花の名を 『 深見草 ( 牡丹 ) 』といっているのです

万葉の頃に 《牡丹の花》はあったのですね

そういえば 山桜は 八重桜 とも 牡丹桜 とも呼ばれています

一夜の宿を 一世の宿と 忠度は詠みます

山桜が咲き誇っていた いにしえの都 こそが

私の 眠る所と言っているのです

そして その都こそ 今は 荒れ果てた 志賀の都 だともいっています

さて『志賀の都』とは いったい どこでしょうか

多くの人が 滋賀の 近江の都 だと 思っています

昔 栄華を誇り 今は荒れ果てた都といえば

筑紫王朝 しかありません

志賀 とは 博多湾に浮かぶ 志賀島のことです

掛合いの最後に シテは この言葉で 終わります


《 謡へや舞へや・の・国の。なにはの事も忠度なり 》

謡曲『蘆刈』の中で 〈世阿弥〉は
〈 津の国 難波(なには)の都は 仁徳天皇が 創られた 筑紫(博多)の都 〉
だと 明かしますが
ここでも 津の国 とは 那の津(博多) のことであり
なには の事 も 忠度のいう 故郷の都 だといっているのです

《 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花 》

この歌は 仁徳天皇の都の繁栄を歌った歌 です これも 筑紫の都でしょう

それともうひとつ 「詠み人知らず」にした 理由です
「詠み人知らず」 とは 歌の選集で 作者が 不明か またはそれを
明らかに示しにくい事情あるときに記載する とあります
その歌の 作者の名前だけでなく 歌の内容も
朝廷にとって 不利益になるのなら
内容を 変えたり 場所を消すことも あるのだと 示唆しているのです

忠度 は 名前を消された 敗者でした
筑紫王朝 も 名前を 消された 敗者でした
忠度は 夜を賭して 俊成に語ります
スサノオの 和歌の起源は 〈倭国〉だということを
歌仙 と呼ばれた 柿本人麻呂 の 詠んだ歌の海こそ
博多の海 ( 磯良の海 )であることを




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志賀島の海



この 謡曲 は ほんとうの 和歌 とは何かを
ふたりの 歌人を通して 伝えようとしています

その 真実とは

『 〈 和 歌 〉は 〈 倭 歌 〉だった 』

『 万葉の 風景 は 全てが 筑紫 にあった 』

驚き の 発見です。





 


by nonkei7332 | 2015-02-11 01:13 | | Comments(2)


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赤い つぼみ の 中から


冷たい風 に 揺れながら


いっせいに 飛び出してきた


白い 妖精たち


カサカサとした 感触のある白い花を


舞妓の かんざし と なずけたのは 誰でしょう


妖艶な 冬牡丹より


わたし の 想いを さらっていった


あなたの 愛しさに包まれて


わたしの 中の 少年 は


ただ ドキドキ しているだけでした










by nonkei7332 | 2015-02-07 15:19 | | Comments(0)


百獣の王が ライオン なら
百花の 王 は 《 牡 丹 》だと云われています


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毎年 立春を過ぎると 必ず 訪れる場所があります
そこは 筥崎宮 の 『 神苑花庭園 』です
二の鳥居の側で 地下鉄箱崎宮前駅1番出口を上って
海の方へ 向かうと 左手に 庭園の入り口があります
いつも 四季折々の花が出迎えてくれます
2月の 〈 冬牡丹 〉
4月の 〈 春牡丹・芍薬 〉
6月の〈 百合 〉
9月の 〈 りこりす(ひがんばな) 〉
が 特に おすすめです



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なかでも 冬牡丹 の 絢爛たる 美しさは ためいきが 出る程です

立てば 芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花 』

昔から 美しい女性の 例え にも 使われてきました


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この 牡丹の花 なぜか 万葉集には 一句も 出てきません
万葉の頃は まだ 渡って来ていなかったのでしょうか? 謎です。
牡丹の古い品種で 『 染川 』という 名前があるそうです
太宰府の 藍染川 の名前がつけられています

和歌に登場するのは 平安時代になってから
それも 牡丹という名前ではなく
『 深見草 』という 別称で 出てきます

《 人知れず 思ふ心は深見草 花咲きてこそ 色にいでけれ 》
千載和歌集11巻684 賀茂重保 


【 私訳 】
いつまでも 秘密にしておきたかった
あの女(ひと) への想い は 深いものでした
深見草の花が 色濃く 咲くように
あのひとの前では この想い 隠せそうもありません



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夕暮れには 冷たい雨になりました

昨日聴いた歌です

特別な スープを あなたにあげる あったかいんだからぁ♪

特別な スープ 飲んで みたいですね







by nonkei7332 | 2015-02-06 11:18 | | Comments(2)