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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

<   2015年 01月 ( 13 )   > この月の画像一覧


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名島神社の梅


人の命を 盾にする 卑劣な ニュース に心が痛む。

布教活動の老女が 19才の女子学生に 斧で殺されれたという
「誰か 殺してみたかった」女の子は 動機をそう語ったという。

顔を隠し 銃を持つ 若い兵士達をそこまで 追い込んだ ものは
いったい 何だったのだろうか
何の不自由もなさそうな 少女を 卑劣な行為にまで 追いやったのは
いったい 何だったのだろうか

かれらを 非難し 問い詰めるだけのことは 誰にでもできるだろう
しかし かれらの そばに居た 誰かが もっと 一言でもいい
人としての 温もりを 伝えることができていたのなら
かれらの 行為を止めることが できたのではないだろうか

《 温もり欠乏症候群 》ちまたには この病が 充満している

一昨年の秋だった
息子が 仕事と家庭の 両立に悩んでいると いってきたことがあった
私は 私の経験から 『 10 × 3 の 朝の習慣 』を やってみろ と提案してみた
それは

《 毎日 二人の子供と嫁 を 出勤する時に 一人 10秒間 抱きしめろ 》

という ことだった
ただし 1・2 秒 ではダメだ 温もりが伝わるには 10秒は かかる
この 毎日 30秒の 習慣さえ 身につけば
仕事のことで頭が一杯の 自分自身の切り替えもできるし
重い荷物を抱えている 嫁への感謝も伝わるし 愚痴も 半分に減る
なによりも 子供達へは 最高の朝のプレゼント になるからだ と補足した
そして 私にはできなかった
( 後悔 )という 経験だと いうことも
忘れずに 伝えた

後日 三人で 酒を飲んだとき このことが話題になった
『 子供には できたけど 嫁にしたら 「なんしょっとね 朝の忙しい時に」って
言われたよ(爆笑)』と
長男は言った
『 子供には いいけど 嫁には 無理だ(苦笑) 』と
次男はいった
やっぱり そうかと 私も笑った
今も 続けているかどうかは その後 聞くこともないから 定かではない


私には 去年から 毎日 50人 の子供達と 会う 朝の時間ができた
名前も知らない 近くの 小学生だ
元気な声で 「おはようございます」と頭をさげて 挨拶する子もいれば
蚊の鳴くような声で 「おはよ」という子もいる
全く 反応がない子もいる
私は 出来る限り 一人一人の子供達の目をみて
笑顔で 声をかけるようにしている
昨日元気だった子が 今日は悲しそうな顔をしていたり
寝坊したのか 時間ギリギリに 走りこんで きたり
毎日 千差万別の 風景がそこにはある
どんな生活しているのかも 名前も知らない 子供達
中には 親が 朝早く 勤めに出て 親が作った朝食を 一人で食べて
始めて 声をかける 相手が 私だったりする子も いるかもしれない
だから 私は 一人一人 抱きしめるように
笑顔で声をかける ようにしている

温もりは 伝わるものだ

今朝 嬉しい 出来事があった
今まで 全く 声をかけても 無表情だった 男の子がいた
その子が 私の後ろに じっとして 立っていた
『 どうした 忘れ物でも したのか』と 私が聞くと 首を振って
『 あの〜 。毎日 ここに 立ってくれてるけど おじさん 名前 何て言うの 』
と 聞いてきた
『 おじさんか おじさん ⚪︎⚪︎⚪︎って言うんだ 』と答えると
『 わかった ありがとう 』というと 校門へ 向かって 走って行った
初めて聞いた あの子の 声に
私は 嬉しくてしかたがなかった

いつものように 冷たい 部屋に 戻って
いつものように 熱いコーヒーを飲む
いつものように その 暖かさに 安堵する

でも 今日の私は いつもとは 違う

ささやかな そして 確かな 温もり の中にいた



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by nonkei7332 | 2015-01-29 13:27 | 日記 | Comments(0)


《 懸 想 文 》とは
恋文。相手に対する恋心を和歌に詠んで
紙にしたため それに関連する草木を添えて
人づてに渡しあったといいます


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〈鏡王女〉川崎幸子さん 万葉人形集 より


もう 記憶も 覚束ないほど
たくさんの 季節がすぎてしまいました
あの頃のことは いまでも 心の中の宝箱に 隠しています
今のように MAIL も ない時代でしたから
二人を繋ぐものは 手紙 だけでしたね
端麗な あなたの字に 似てもにつかない わたしの 丸文字は
いまでも 子供達に 笑われています
たくさん あった 貴女からの 手紙は もう どこにも ありません
ただ 一つだけ 残っているものが あるとすれば
あの頃 わたしにくれた 手紙のなかに 書いてあった
万葉集の 《 鏡 王 女 》の ひとつの 歌です
過ぎ去った 日々の数ほど 何度も口ずさんだ 歌ですから
いまでも すらすらと 詠むことができます


《 秋山の 木の下隠り 行く水の 我れこそ益さめ 御思ほすよりは 》
2-92

( あきやまの このしたがくり ゆくみづの われこそまさめ おもほすよりは )


秋山の 樹の下を

隠れるようにして 流れていく 水のように

私は 流れて行かなければなりません

でも 私は あなたより もっと

あなたのことを 想っています



この歌は〈鏡王女〉の 遠の朝廷 ( とおのみかど ) に住む
〈 志 貴 皇 子 〉に送った歌です

〈天智天皇〉へ 送った 歌だと されている歌ですが
真実は 皇子の存在を 隠さなければならなかった 誰かの 仕業です

記紀 にも 万葉集にも 隠された 倭国九州王朝
白村江の戦い に 自ら 赴いた
〈筑紫君薩夜麻王〉(ちくしのきみ さちやまおう) は
戦いに敗れ 唐の捕虜になってしまいます
天皇の 代行を務めたのが 薩夜麻王 の 皇子 志貴皇子 ( 中宮天皇) でした
皇子の愛した 〈鏡王女〉 と 妹の〈額田王女〉は
唐と手を組んだ 天智 のもとに
采女(うねめ) として 大和に 送られてしまうのです
鏡王女 は 大和 で 皇子の子を 産みます
そんな 悲しい 別れの歌 だったんですね


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鏡王女 万葉歌碑



毎年 秋に なると

私は あなたの 面影を追って あの 美術館にいきます

去年は あなたの名前を見つけて 思わず 涙してしまいました


遠い 遠い 万葉 の 懸想文。

宛名を 書くこともない 懸想文。






by nonkei7332 | 2015-01-27 13:56 | 万葉集 | Comments(0)


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『筑紫舞』を伝承する 宮地巌神社の 浄見譲宮司




豊臣秀吉

文禄2年(1592年) 名護屋城内に入ってからの 五年間
〈 能 〉を自ら稽古し始め 憑かれたように その世界に没頭します

その場所こそ 遠く 〈 魏 〉の使者が 最初に上陸した 〈 末盧国 〉でした
その 〈 倭人伝 〉には

《 海を渡ること千余里 末盧國に至る 》 とあります

そして 秀吉の舞う 能舞 こそが
かつて 呉の民 が 荒波を乗り越え いのしえの 九州王朝をつくり
宮廷舞 『 筑 紫 舞 』として 1000年もの間
傀儡子達によって 隠し伝えられた 《祖神の舞》 だったことを
秀吉は 知っていたはずです

享楽ではなく 今 滅亡の淵に立つ 尊き 山河 と 民 を護る為に
猿楽師 秀吉は 祈るように 舞い続けたのでした

秀吉は 死の間際 東山の麓に立てた 方広寺の大仏の鎮守として
自らを 《 八 幡 》として祀るよう遺言します

そして 辞世の句を遺します


《 露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢 》


『 難波のこと 』とは 決して 摂津の国 (大阪) のことではありません

秀吉は 謡曲 『 蘆 刈 』の 笠の段
《 津の国の 難波の春は夢なれや 名に負う梅の花笠 》
この 一節の奥に 世阿弥 が 隠そうとした
九州王朝の 博多の海の物語 だということを 知っていたのでしょう

九州王朝の復興を 『 夢のまた夢 』と 偲びつつ

息を引き取る 最期まで

《 猿楽師のせがれ 》

秀吉は 猿 だった のでした



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那の津(難波の津) 博多湾 磯良の海 の夕暮れ


by nonkei7332 | 2015-01-26 13:38 | 博多ルーツ | Comments(0)


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フェリペ2世 (スペイン最強王)



『 秀吉の 朝鮮出兵の 本当の動機は

《 スペインのアジア侵略の対抗手段》

だったって 知ってる?』


この質問に 友人の答えは こうでした


『 そんなの 初めて聞いたけど

秀吉の天下統一 によって 恩賞をめぐり

家臣の中には 不満が高まっていて

狭い国土には 与えるべく領地も乏しいために

家臣達の不満のはけ口として

朝鮮出兵を行ったんじゃ ないの 』


確かに 私も 学校では そう 習ったような気もします



『太陽の沈まない帝国』と称された スペイン は

最盛期(16~17世紀前半)には 世界中の 8割 の国を 植民地にしていました

アジアにおいても フィリピンを侵略して

残るのは 明 (朝鮮半島を含む) と 日本 だけでした

スペイン の 軍事侵略 は

中南米の インカ帝国 や マヤ文明が滅ぼされたように

カトリックの布教活動と植民地獲得の軍事侵略が

一体化した形で遂行されてきたようです

日本にも イエズス会の フランシスコザビエルに はじまり

多くの 宣教師が 布教活動をやっていましたし

その中で 改宗した キリシタン大名も数多くいました


《 キリシタン大名 》


有馬義貞(肥前領主)

大村純忠(日本で最初のキリシタン大名)

大友宗麟(豊後領主)

織田有楽斎(織田信長の弟)

織田秀信(信長の孫)

蒲生氏郷(会津領主)

黒田如水

小西行長

高山右近



秀吉が 九州平定を終え

博多湾岸の 箱崎 にいる時に 事件は起こります

当時 イエズス会初代準管区長 の 〈 ガスパール・コエリョ 〉が

秀吉に謁見し大砲を装備したスペイン船 を 秀吉 に見せたのですが

その船の動力源である 船漕ぎが 全て日本人であったのを

コエリョに聞くと『 皆犯罪者だと 』と平気で言ったことや

スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく 誇示したことに対して

秀吉は 激怒します

そして 1587年7月24日《 バテレン追放令 》 を出したのです


秀吉は こんなふうに 考えたのでは ないでしょうか


『 もし 〈スペイン〉 と 〈キリシタン大名〉 が

手を組んで 反旗を掲げれば

神国 日本 は たちまち 異教徒に侵略されてしまうだろう

よしんば 〈明〉が先に 征服されたとしても

明の軍兵を使って いずれは

〈スペイン〉は 我が国を襲い

あの 元寇の役 のようになるかもしれない

とすれば 方法はひとつ

〈スペイン〉より先に 〈明〉を奪うしかない 』



文禄元年(1592年〉4月12日

秀吉は (小西行長) 率いる一万八千 の 一番隊 を 釜山浦に上陸させます

これが 〈 文禄の役 〉です

当初 快進撃をした 日本軍でしたが

縦に伸びた戦線の食糧補給路を

朝鮮水軍に絶たれ 苦戦し やむ無く撤退することになります

その後 明との講話交渉も決裂した為 に

慶長2年(1597年) 再度の出兵を決意します

これが 〈 慶長の役 〉です

総力戦 で臨んだ 秀吉軍でしたが

1958年 8月 秀吉の 突然の病死により

退却を決め 7年に及んだ 戦いは幕をとじます


秀吉の 朝鮮出兵とは いったい なんだったのか 評価は二分します


多くの 負の遺産 は残した戦いでしたが

歴史を 一元的に見るのではなく

結果として スペイン植民地政策 という 脅威から 国を護り抜いた 評価も

私は 忘れてはならないと 思っています




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NHK「軍師官兵衛」 秀吉の最期






by nonkei7332 | 2015-01-26 10:12 | 博多ルーツ | Comments(0)


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NHK『軍師官兵衛』豊臣秀吉 役 竹中直人さん



《 豊臣秀吉 》(とよとみのひでよし)

尾張の国 中村 (名古屋市 中村区) の 生まれです

織田信長に仕え 《 木下藤吉郎 》と名乗りました

その後 織田家の有力武将だった 丹羽長秀 と

柴田勝家 から一字ずつをもらい受け

《 羽柴秀吉 》 改名します

信長は 秀吉に「筑前守」(ちくぜんのかみ) という 官職を与えますので

『 羽柴 筑前守 秀吉 』と呼ばれていたようです

信長は通常は 秀吉のことを 「筑前」とよんでいたみたいですね

ちなみに 明智光秀は 「日向守」でした

それにしても 二人の側近に 九州を護らせた

信長の意図は なんだったんでしょうか

やがて 本能寺の変で

信長から 秀吉の時代に変わります

天下統一を目指した 秀吉は 信長に習って 《 平氏 》を名乗ります


姓 には 必ず 最後に 「の」がつきます

平氏(たいらの) 源氏(みなもとの) 藤原氏(ふじわらの) 菅原氏(すがわらの)


貴族にとって 特に 『 源 平 藤(藤原) 橘 』の 四姓 を名乗ることは

血筋や家系を明らかにする 権威ずけの 常套手段 だったようです

賎民あがりの 秀吉にとっては 見え見えの 詐称 になりますが

しかし 信長の 織田氏は 〈平氏〉

島津氏は 〈源氏〉と自称していましたが

実際のところは 織田氏は 〈忌部氏〉

島津氏は 〈惟宗氏〉だったみたいですので

まあ そんなもんだったんでしょう

ただ 秀吉が 関白 になる時は 簡単には いかなかったみたいです

あれこれ 考えた挙句 前関白の 近衛前久 の 猶子(ゆうし)になります

(猶子 とは 養子ではなく 後見人 みたいなものです)

この時 に 平氏 の姓から 近衛家の《 藤原氏 》に変わることになるわけです

藤原氏というと 中臣鎌足が天智天皇から藤原の氏姓を賜ったのが始まりで

鎌足の次男 〈 藤原不比等 〉は 朝廷に大きな勢力を築き

代々皇室の強固な外戚となります

聖武天皇から今上天皇まで85人の天皇の母方の中で 実に 78.8% が

藤原氏の出自なのですから まるで 藤原王朝 と言ってもいいでしょう


さてさて この事は 秀吉にとって 大きな 決断を迫られることになります

藤原を名乗る訳にはいかない 理由が 秀吉には あったからです


それは 秀吉を 影で支える 『同朋衆』の先祖達が ことごとく

〈不比等〉を始めとする 藤原朝廷に


消された過去の事実を 知っていたからです

「古事記」や「日本書紀」を編纂することで

九州にあった 古の王朝の姿を

史実から消しました そして 「神」さえも 変えてしまったのでした

菅原道真公も 藤原時平の讒言により 祟り神にされました

『同朋衆』達 は 鬼と呼ばれ ある時は 漂泊の民 といわれ

長い年月を ひたすら耐えてきたのでした

その無念の魂を いにしえの 祖神の姿を 神社の伝承の中に 封じ込め

猿楽を始め 多くの芸能のなかに 隠してきたのでした


秀吉は 幼い頃から その事を 知っていたのではないでしょうか


やがて 秀吉は 朝廷に対し 『 豊 臣 』の 姓を 上申します


『関白任官記』では 秀吉の言葉が残っています


「 古姓 を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし 」


「 われ天下を保ち末代に名あり ただ新たに別姓を定め 濫觴 たるべし 」

( 濫觴とは : 今一度起源にもどるという意味 )


天正14年(1586年)


12月19日の太政大臣任官を契機に 豊臣家が誕生します

豊臣の語源については 諸説ありますが

臣(おみ)とは 古代の姓 (かばね) の一つで 地名を名としたので

豊臣を名乗るということは

《 豊の国を先祖とする氏族である 》

との 意味ではなかったのかと 思います

豊国とは 福岡の豊前から 大分にかけての 地域をさしていますが

(ここでは 総称して 北九州にあった 倭国を中心にした 九州王朝と呼ぶことにします)

結論から言えば 秀吉は 8世紀前半から 途絶えた


《 九州王朝 の 復活 を 宣言した 》


というのが 私の推論です


やがて 秀吉は 1587年に 島津攻めで 九州を 平定し

1590年には 小田原城を落とし 全国を統一を果たします


落ち着く暇もなく 1592年 文禄の役 (朝鮮出兵) を おこします

秀吉は 肥前に名護屋城を築きますが

明の征服 と 朝鮮の服属を 目論んだ 最後の戦でした

そこには 領土の拡大だけとは言えない

世界の列強国 スペイン の影 が見え隠れしています

隠された 謎は まだまだ 続きます。





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名護屋城 の模型








by nonkei7332 | 2015-01-23 21:45 | 博多ルーツ | Comments(0)


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『 豊 臣 秀 吉 』ほど

波乱の人生を送った 戦国武将はいません

草履取りから 太閤 まで上り詰め 立身出世の旗頭として

多くの日本人から 愛されてきた人でもあります

ただ その 人 たる 全容はまだ

明らかには されていないような気がします

秀吉は どこで産まれ どのように育ち 何をしようとしてきたのか

私には ただ 目先の欲望に駆られ 人たらし と言われ

人身術に長けた 能力があったから だけとは到底思えないのです


そこには 誰も知らない 何かが 隠されていたように 思えます


秀吉の出自には 諸説ありますが 最も まともといわれている

土屋知貞という武士が書き残した


『太閤素性記』という書物があります

そこには


秀吉 は 其母 野合の子なり、

その いとけなかりしとき、つれ子にして

木下彌右衞門に嫁したるに、

彌右衞門早く世を去りければ、

其の頃 織田家の茶坊主にて 筑阿彌 といひしもの、

浪人して近村にあるをもつて、すなはち之を入夫したり、

此の故に彌右衞門は秀吉の繼父にして、

筑阿彌は假父なり、

秀吉も亦此を悟りて、吾には父なしと云はれしなり、

若し彌右衞門にもせよ、筑阿彌にもあれ、生の父ならんには、

はや世を去りて年を經るとも、

秀吉武運比類なく富四海をたもつに至りて、

父の廟を建立し贈官の追福あるべし、

然るに其事なかりしは、

野合の子なりしなれば也



「野合の子」とは 父が誰だかわからないということです

木下彌右衞門にしても 筑阿弥 にしても

自分のほんとうの父ではないと秀吉は知っていました


その 証拠に もし 父だとすれば


あれだけ 上り詰めた秀吉ならば


陵墓 を建て 後世まで祀ったであろうし


そういった記録も 説話さえも残っていないから と


ここには書いてあります



彌右衞門は 秀吉 八歳の時に死んでいます

おそらく 少年時代の 秀吉に 最も影響を与えたのは

二人目の義父 阿 弥 〉であったであろうと 私は 思っています

「織田家の茶坊主 筑阿弥」とは 一体 どんな人物だったんでしょう

茶坊主(ちゃぼうず)とは

大名家の城中のあらゆる雑用に従事し

刀を帯びず 剃髪していたため「坊主」と呼ばれていますが

僧ではなく また 『同胞衆』


とも いわれていたといいます


その中でも 芸能に優れた 同朋衆 を 阿弥衆と言って

阿弥号 を用いたといわれていますから

筑阿弥 は 織田家 専属の 「猿楽師」だったのではないでしょうか

〈 猿楽(能)の歴史については http://hisamitsu.exblog.jp/23738288/

織田信長が 桶狭間の戦い出陣前に舞ったといわれる


みやま市(瀬高町)〈大江天満神社〉に伝わる


「幸若舞」の 『敦盛』(あつもり)

『 人間五十年 下天の内を 比ぶれば 夢幻の如く也 』

の一説で有名ですが

〈筑阿弥〉と 〈大江天満神社〉 何か 繋がりそうですね


話をもどします

秀吉は いろんな 経緯があって 信長に仕えるのですが おそらく

信長は『猿楽師のせがれ』として 秀吉を知り

『猿』『猿』と言って

秀吉を呼んでいたのではないでしょうか

もうひとつ 推論を重ねると


その当時『同朋衆』のネットワークは

影の組織のようにして 神社を中心に全国に拡っていたようです


( 歴史から消されていった 秦氏 安曇氏 の渡来系ネットワーク )


( 神社で言えば 八幡系 稲荷系 天神系 )


信長は その事を知っていて 情報網のパイプとして

秀吉の存在価値を高めるために

他の武将よりも 重用していったのではないか

また 秀吉も そのネットワークを巧みに使って


力を蓄えていったのではないかと思っています




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大阪城



信長のあと 天下統一を果たした 秀吉は

五十歳の時 太政大臣となり 朝廷から豊臣姓を 授かります


何故 『 豊 臣 』だったのか


『 豊 臣 』とは 何なのか


何故 朝鮮出兵にこだわったのか


辞世の句に残る 謎 は


隠れた謎は まだまだ 続きます。






by nonkei7332 | 2015-01-22 18:29 | 博多ルーツ | Comments(0)


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長者の藤




太宰府の 昔話に 『 田中長者 』という お話があって
二人の 長者 がでてきます
今日は そんな 話をしてみます

《 田 中 長 者 》 日本昔ばなし より

昔、九州の太宰府に近い通古賀(とおのこが)という所に、
田中長者と言う大変な長者がいた。
その屋敷の広さと言ったら、使用人でさえ迷子になる程で、
また屋敷には数えきれないくらいの蔵があった。
そんな大金持ちの田中長者であったが、決して人に対して威張るという事はなく、
そのため村人や使用人たちからたいそう尊敬されていた。
ところで、この通古賀から山一つ隔てた隣村には、
これまた大金持ちの虎丸長者という長者がいた。
この虎丸長者は、田中長者とは対照的に、自分が金持ちであるという事を鼻にかけ、
いつも隣村の田中長者に対抗心を燃やしていた。
ある時、虎丸長者は自分の財力を通古賀の村人や田中長者に見せつけるため、
千人の使用人を引き連れて、太宰府の寺にお参りに行くことにした。
千人の長い行列は、太鼓や笛などを鳴らしながら、
にぎやかに通古賀の村を通り過ぎて行く。
さて、その太宰府からの帰り道のことであった。
虎丸長者が田中長者の屋敷の前を通りかかると、折から雨が降り始めた。
虎丸長者はちょうど良いと、田中長者から傘を千本借りることにした。
いくら田中長者でも、傘千本は用意出来ずに泡を食うだろうと思ったからだ。
ところが田中長者は、新品の傘を千本いとも簡単に用意して、
虎丸長者の使用人に持たせた。
これに悔しい思いをした虎丸長者、何とか田中長者に一泡吹かせようと、
今度は千人の大飯食らいを集めた。
傘を返すのを口実に、田中長者の屋敷に千人の大飯食らいを昼飯前に向わせたのだ。
これにはさすがの田中長者もさぞ困るだろう。ところがどうだろう。
田中長者の屋敷では、ちょうどご飯を多めに炊き過ぎたと、
千人の大飯食らいをもてなし、
さらに食べきれなかったご飯は、一人三つずつお握りにして渡し、
計三千個の握り飯をもらって帰って来たのだ。
これを見て、とても太刀打ち出来ないと思った虎丸長者は、
二度と田中長者と張り合おうとしなかったそうだ。



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武蔵寺



『 虎丸長者 』 どんな人?

藤原鎌足の子孫の 《 藤原虎麻 》(ふじはらのとらまろ) がその人です
初代の大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官) だといわれています
天拝山の麓にある 《 椿花山武蔵寺 》
虎麻 が 夢の中で 薬師如来が宿る霊木の精から
薬師十二神将像を作り 堂を建てて祀るようお告げがあったので
ここに寺を建てた これが武蔵寺の由来と伝えられています
ここには 「瑠璃姫伝説」という話が残っています
《 子供のいなかった 虎麿 は薬師堂にこもり 薬師三尊に祈り縋ったところ
その加護をえて 瑠璃姫 を授かったといいます
ところが疫病が流行り 瑠璃姫もこの流行病に罹り 虎麿はさらに薬師如来に祈願し続けたところ
ある夜、夢の中に一人の僧侶が現れて
「ここから東方に葦の生えている湿地があり、そこに温泉がある。
ここで入浴させれば、必ず病は治るであろう」と告げ、姿を消しました
早速 虎麿はその場所に行き茂った葦を刈り こんこんと湧き出る温泉を見つけました
その温泉に瑠璃姫を 入浴させると たちまち病気が治ったといいます
これが二日市温泉の始まりです》

天拝山・武蔵寺 は 私の大好きな 散策路です
(長者の藤といわれる 藤棚) (駐車場横の 深紅の寒椿) (新緑の山路)
(菅公が身を清めたという 紫藤の滝) 懐かしい風景がそこには 残っています
今は 「天拝山歴史自然公園」として 綺麗に整備されていて
遠く 万葉の風の中で 静かに 佇んでいます


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王城神社



《 田中長者 》どんな人?

菅公よりも 天智天皇よりも もっと もっと 昔の話になります
通古賀(とおのこが) あたりに住んでいた
大野県主 《 田中熊別 》(たなかくまわけ ) がその人です
もとより 太宰府が 「遠の朝廷」(とおのみかど) とよばれたように
通古賀 も 「遠の国衙」(とおのこが)と呼ばれた場所で 政務を司る
役所があったところでした
熊別は 四王寺山の向こうの宇美町に至るまでの 広い土地を おさめていました
通古賀にある 《 王城神社 》の「縁起」によると
玉依姫の子 神武天皇が 東征にあたり 四王寺山の山頂に仮宮を建て
ここに (事代主命) と (武甕槌命) を祀ったとされます
東征には 田中熊別も息子の(熊則)を伴って 援軍したとされています
四王寺山 の名前も 神武の初めての 仮宮だったので 「始王地 」
神武天皇の子供 (蚊田王) 出産に由来して 「始皇子」と呼ばれたと書かれています
田中の庄 宇美町は 蚊田の庄 に名前がかわったといいますから
「蚊田王」の産まれた場所も 熊別の所領であった 宇美町で
ほんとうは 応神天皇ではなく 神武天皇の子 蚊田王の産まれたところだと
「縁起」に書かれています
熊別 は東征後 通古賀にもどり 御笠川の支流である 鷺田川のほとりに
田中の森 という 墓に眠っているそうです
天智天皇は 大野城や基肄城を作った時に 四王寺山頂に祀られた
「事代主命」は 通古賀にある 王城神社へ
「武甕槌命」は 春日市の 春日神社に それぞれ 移されたとも書かれています


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昔話の行き着く先は『 遠の筑紫 』の物語になりました

小さな 王城神社の縁起ですが 神武天皇 から始まる
筑紫の謎がうごめいています










by nonkei7332 | 2015-01-19 15:42 | 菅公・太宰府 | Comments(0)


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韓流歴史ドラマ 「近肖古王」



去年 友人から 「百済」や 「新羅」を調べるなら
「韓流歴史ドラマ」を見るといいよ と聞いたので
凝り性の私です かなり 見まくりました

高句麗系の 「朱蒙」をスタートに 「風の国」
百済系の 「近肖古王(クンチョゴワン)」 「階伯(ケベク)」
新羅系の 「善徳女王」「著童謡(ソドンヨ)」「大王の夢」「海神」
伽耶系の 「鉄の王キム・スロ」 など


《 七 支 刀 》の話は「近肖古王」の最終話に出てきたので はじめて知りました
七支刀 のデザインは 中央の刃が 百済で 左右の 六枚の刃は 百済の属国を表します
「倭国」は ここでは 属国だという設定になっていますが 近肖古王は
「倭は小さな国だが、いずれ大国になる だから 百済の文化を教え 仲良くなるんだ」
と 話しています

『近肖古王』… 4世紀 百済の最盛期を築いた第13代王
百済から日本へ贈られた七支刀の話があります


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綾杉さんの 『ひもろぎ逍遥』の最近の記事で 《七支刀 》 の興味深い話が載っていました
七支刀のデザインの元は《 ヒカゲノカズラ 》という植物だということや
(アメノウズメ) が挿していた〈髪飾り〉と同じデザインだということ
そして 京都下鴨神社の「葵祭」の 葵は 「ヒカゲノカズラ」のことで
祭りの起源は 背振の賀茂氏 の祭りだという 凄い 内容でした

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ヒカゲノカズラ



万葉集の中には ヒカゲノカズラ の歌が 有りました 4首 紹介します

《あしひきの山かづらかげましばにも 得がたきかげを 置きらさむ 》
14巻 3573 作者 : 不明

訳 : 山の ヒカゲノカズラ。めったに手に入らないそのかずらを手にしたら
放って置いて枯らしたりするものですか

(なかなか手に入れられない ヒカゲノカズラ を 素敵な女性に たとえて詠んだ歌です)


《 あしひきの 山縵の子 今日行くと 我れに告げせば 帰り来まを 》
16巻 3789 作者 : 不明


訳 : 山縵(やまかづら)の子が きょう逝(い)ってしまうと
私に告げてくれたのなら 帰ってきたのに。

解説 : 「縵児(かづらこ)の悲劇」と言われる伝説があります
昔々 三人の男たちが一人の 娘(ヒカゲノカズラを髪に飾った娘) を好きになり 求婚しました
縵児は 思い悩んだ末に池に身を投げました
三人の男たちが 嘆き悲しんで 歌を詠みました
その歌(三首)の一つです


《 見まく欲り 思ひしなへにかづらかけ かぐはし君を 相見つるかも 》
18巻 4120 大伴家持の歌

訳 : お逢いしたいと思っていたところ
かづらを飾りつけた素敵なあなたさまにお逢いすることができました

解説 : この歌の題詞には
「京に向ふ時に (京で)貴人を見たり美人に相(あ)って飲宴する日のため
あらかじめ憶(おもひ)を述べて作る歌二首」とあります
合コンの前に あらかじめ 口説き文句を作っておいたという
さすが プレイボーイの (家持) らしい 歌です


《 あしひきの 山下 ひかげかづらける上にや さらに梅をしのはむ 》
19巻 4278 大伴家持の歌

訳 : 山の下蔭に生える ヒカゲノカズラを 髪の飾りのかづらとしているのに
どうしてさらに梅を褒めようとしているのですか

解説 : 大伴家持が新嘗祭の時によんだ歌です
神事の際に ヒカゲノカズラを飾りとして使っていたことがうかがわれます


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九州国立博物館 では
特別展『 古代日本と百済の交流 - 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘 』が 開催中です

明日 は 『七支刀』を見に 太宰府 行こうかな





by nonkei7332 | 2015-01-16 14:16 | 万葉集 | Comments(0)


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大伴家持の像



664年に 中大兄皇子 が〈防人と烽(のろし)の制度〉を作ります
これは、前年(663年) 百済を助ける為に 唐・新羅 の連合軍と戦いますが
〈白村江の戦い〉に負けたために 対馬・壱岐・筑紫に兵を配置したり
水城を作ったりして 防衛網をつくる為のものです
敗戦により 九州の兵の多くが 唐の捕虜となったために
徴兵令を敷いて 集めた兵が 《 防 人 》とよばれています
主に 東国から 2000人の名もなき民が その役を課せられました
防人の任期は 3年 です 全てが自己負担という 厳しいものでした
生きて 帰れるかどうかもわからない 戦役でした
残された家族の思いは 計り知れません

そのころ 《 大伴家持 》(おおともやかもち)
兵部少輔の職にあり 東国から防人の兵士を集め
難波津から筑紫に向かって船出させる任にあたっていました
家持は 東国の国府に 防人達の歌 を集めるように 命じます
その中から 84首 の歌を選び 自らも 23首の歌を歌いました

万葉集巻二十には
「天平勝宝七歳乙未二月、相替へて筑紫の諸国に遣はさるる防人等が歌」とあります

《 防人に 行くは誰が背と問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず 》
万葉集巻20-4425 作者 : 不明

訳 : 「防人に行くのはどなたのだんな様だろうね」と
何の悩みも無く 話をしている人を見るとうらやましくて仕方ありません
(筑紫へ向かう 主人を見送る 妻が詠んだ歌です)

《 小竹が葉の さやく霜夜に七重かる 衣に増せる 子ろが肌はも 》
万葉集巻20-4431 作者 : 不明

訳 : 笹の葉が揺れ 霜が降る冷たい夜は 衣を七枚も重ね着をします
でもそれよりも 温かい 妻の肌のぬくもりを思い出してしまいます


家持は 朝廷の指示により 万葉集を編纂するのですが
ある意味で 朝廷の意向を憎む 民の声を どうして こんなにも
たくさん 残そうとしたのか という 疑問が残ります
私は 家持の中に 抑えることのできない 衝動があったように思えてなりません
それは かつては 天皇の側近として この国を守って来た 先祖の怨念だったのかもしれません
そうでないとしても 家持にとって 多くの「防人の歌」は
《 反戦歌 》だったのではないでしょうか


いつの時代でも 国家という 魔性に踊らされた 為政者のために
哀しむのは いつも 名も無き民 でした
民の悲しみは 残された家族であり
変わってはならない 故郷の山河だったのです



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《 さだまさし 》は 反戦の叫びを「防人の詩」に込めて 歌いあげました


おしえてください

この世に生きとしいけるものの

すべての生命に限りがあるのならば

海は死にますか 山は死にますか

風はどうですか 空もそうですか

おしえてください



《 村上春樹 》 は エルサレム賞の 受賞スピーチで こう話しました

私が皆さんにお伝えしたいことは一つだけです
我々は国や人種や宗教を超えて 同じ人間なのだということ
システムという名の硬い壁に立ち向かう壊れやすい卵だということです
見たところ 壁と戦っても勝ち目はありません
壁はあまりに高く あまりに暗くて-あまりに冷たいのです
少しでも勝機があるとしたら
それは自分と他人の魂が究極的に唯一無二でかけがえのないものであると信じること
そして、魂を一つにしたときに得られる温もりだけです
考えてみてください 我々のうちにははっきりとした、生きている魂があります
システムは魂を持っていません システムに我々を搾取させてはいけません
システムに生命を任せてはいけません システムが我々を作ったのではありません
我々がシステムを作ったのです


今日も テレビのニュースでは フランス で起きた 悲劇が 伝えられています

そして 日本では 新春恒例の宮中行事『歌会始の儀』を あったことを
21,000人の国民が 歌を送ってきたことを テレビで 伝えています

《 夕やみの せまる田に入り 稔りたる 稲の根本に 鎌をあてがふ 》

天皇陛下は 毎年植えた稲を鎌で収穫される 秋の情景を詠まれました

21000首の「歌会始の歌」 そして 98首の「防人の歌」
同じ 日本人の歌だということを 私達は忘れてはいけないのです

今日 太宰府天満宮の「飛梅」が 例年より 16日も早く咲いたそうです
国博での 七支刀展示に 合わせてくれた 菅公の 計らいみたいですね

この星の ほんとの春は いつになるのでしょうか



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プリムラジュリアン の 花








by nonkei7332 | 2015-01-14 23:43 | 万葉集 | Comments(0)



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寒風 肌を刺す 志賀島 を訪ねました

というのも 今日は 綾杉るなさんの 「歴史講座」「安曇磯良と神功皇后」の二回目
これは 見逃さずにはいられない
渡船場で 安曇連の Aさん と Kさんとも 合流 しました
《 勝手に 愛称を作らせてもらいました Aさんは (アントンさん) Kさんは (クルメさん) 》

まずは 志賀海神社へ 行きました
松も取れる頃になりましたので 参拝の方もまばら です



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参道沿いの民家に咲く 「木瓜」ボケ の花

去年の冬に尋ねた折に 名前が解らなかった 木花です
「これは 木瓜 です」アントンさん が 即答してくれました さすがです
アントンさんは 志賀島出身の方なので
神社のことも なんでも詳しい「語り部」さんです
今日は 正面の参道が「龍の道」駐車場から 上がってくる
階段の参道を 「亀の道」だと言うことを 教えてくれました

お昼は 地元の 「中西食堂」アントンさんと私は 「特製ちゃんぽん」
クルメさんは 名物 「さざえ丼」 マジ 美味しかったです。


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中西食堂の さざえ丼


講座の会場は 志賀島公民館
地元の方も多く なかなかの 盛況でした
受講者の中には 九州大学の教授や 神奈川からの参加者がおられました
終わった後の 質問も多く テキパキと答えられる るな先生 でした
待ちに待った 『神功皇后伝承を歩く』の 下巻も 二月に発売とのこと
楽しみですね


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今年も 《 磯良の海 》は キラキラ と輝いていましたよ


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by nonkei7332 | 2015-01-12 08:03 | 日記 | Comments(2)