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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

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我が家にあった 一幅の家系図である

『 小 堀 氏 略 系 図 』

写真は 昨年の暮に福岡市博物館で開催された

【山笠の力 ハカタウツシ展】 に展示されたものである


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私の母が遺した 母方の家系図を 昨年の春に

福岡市博物館に寄贈させて頂いた



現存する小堀家に関する最古の文献は

櫛田神社所持の社伝である


 『 筑 前 櫛 田 社 艦 』原田種美編 

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「小堀家の古記に曰く、永享九年 春三月に 博多より

京都の木偶師土偶師 を召かかえんとて上京せしが、

小堀善左衛門 とて四条に居住せし木偶師を召抱えて 帰国す。

櫛田神社内へ居宅を作りて 扶持米を遣わし

その年の作り山に 甲冑を着せ 旗幡を、ささせ、さまざまの

模様を作りて 祇園祭礼を勤む。・・・」 

と書いてある




近年 博多人形に関する文献のなかで


小堀家については多く 紹介はされているが


最も詳しい 文献は 郷土玩具研究会発刊


梅林新一著 の 『 稿 本 古 博 多 人 形 史 』であろう



  <小堀流細工物人形>

博多人形師は、土人形専業、土人形と山笠人形(細工物人形を含む)

その他に 山笠人形専業仏師で 山笠人形を兼ねるという 


複雑な形態となっている

門弟養成に力のあった白水六三郎の三羽烏といわれる

小島与一、原田嘉平、置鮎与一の三人は、土人形製作が主体であるが、

山笠人形の作者でもある。山笠人形だけでなく細工物人形の作者でもある

このことは,永享九年〈1437年)4月

山笠人形製作の為,博多津の招きで京都から下った

小堀甚左衛門とその後胤の影響である。

小堀家は 《 野見宿祢 》 の後胤 といわれ、

京都四条にすむ木偶師であった。

博多津の招きで下向、初め櫛田神社境内に住み,


津中から扶持を給せられ、

山笠人形の製作に従事した。 

いわば 博多山笠人形の始祖である。

応仁の乱が始まり、博多津は戦火で焼失、

善左衛門は難をのがれて一時唐津に滞したが文明年間 

周防の大内義隆が博多津を管領することになり、

招かれて博多に帰り、下土居町に居住して、山笠人形を作った。

天正年間、豊臣秀吉は 神屋宗湛 島井宗室等の請をいれ、

博多再興、善左衛門は櫛田前町に居住した。

その後の善左衛門の事跡は不明であり、


その生年、没年も不明である。

善左衛門には 善左衛門〈襲名) 善三郎 の二子があった。

弟善三郎は土居町に分家したが、

元和三年博多の大火で、本家が焼失したため分家に同居した。

嗣子がなかったため、善三郎が家業を継ぎ、

山笠人形製作の業を永代子孫に伝える事になった

分家小堀善三郎を新しい初代として、


十三代善之助まで山笠製作をつづけた。



二代 甚三郎 寛永十九年九月二十七日殁
三代 善三郎 慶安年間没
  四代  善三郎  天和年間歿
   五代  善太郎  貞享四年十月二十一日歿    
   六代  甚 六  元禄元年九月二十四日歿    
   七代  善三郎  正徳元年九月三日歿      
   八代  弥 平  寛政五年十月六日歿      
   九代  甚 六  寛政十一念一月二十四日歿   
   十代  甚 次  天保十三年九月二十八日歿   
  十一代  甚 三  安政五年十月二十五日歿   
  十二代  甚 三  明治三十四年八月五日歿  
  十三代  善之助  昭和五年七月二十四日歿   

なお 菩提寺は始祖以来、箱崎にある時宗金波山称名寺である。

十代甚次 生存中、博多津中からの願出により、

黒田藩から 山笠人形細工を永代仰付けられたが、

十二代甚三、二十二才の時、明治維新、廃藩置県という大変動で、

古例は一切廃止され企業の自由が許され

小堀家が独占した山笠人形製作権は 自然消滅して


山笠人形製作は 自由になった。

十三代善之助の代になり、山笠人製作を捨て、


荒戸二番丁に移り貸家業を営んだので、

小堀家の山笠人形製作は十二代で終わったことになる。

しかし 小堀家は山笠人形製作を廃業したがその後しばらくの間は

他家で山笠人形を製作する場合は、


首代といって若干の金子に浴衣一枚を添えて 

小堀家に挨拶する慣習がつづいたという。  

小堀家によってもたらされた 山笠人形や細工物人形から、

〈浄瑠璃操人形〉〈釣り人形 〉

或は 明治の中頃まで、五月の初節句を迎えた家の表口に、


小さな舞台を設け歌舞伎狂言の小型細工を飾って、


一般の観覧に供したり、夏祭りに町内に飾った〈造り物人形 〉

三月雛の節句に飾った〈内裏雛〉、張子玩具の〈首振虎〉、

〈破魔弓〉、〈獅子頭〉、〈びんびん鯛〉、〈八朔のさげもん〉

その他の張子ものは 小堀流の人形から派生したものといわれている。

博多の郷土玩具の一つとして知られる博多の張子人形が、

何時頃から作られたという文献はないようであるが、 

古い歴史のあることはうなずかれる。




ルーツを追うということは 

自分の中に流れる 魂の発見なのだ

博多山笠人形 博多人形 そして 博多細工物人形

これらの 多くの博多の町人文化の源が 


京都から 来た小堀善左衛門正直という


一人の男から 始まっていたとすれば

はたして どんな 人物だったのだろうか?

京都における 小堀家のからくり人形とは?

祇園社とのかかわりは?

先祖 とされる 野見宿禰 土師氏 菅原氏 については・・・

尽きることがない 魂の旅である。
   
      





by nonkei7332 | 2014-04-25 22:33 | 博多ルーツ | Comments(0)

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私が 思春期だった頃
ティーンエイジャーと呼ばれる13歳から19歳までの頃に
夢中になっていた事がいくつかある
いわゆる マイブームはひとつではなかったが
最近 その頃のマイブームが 還暦を過ぎた今でも
果たして マイブームになりうるのかという
壮大な実験に挑戦している

〈ヘルマン・ヘッセ〉
〈司馬遼太郎〉
〈三国志〉
〈吉本隆明〉
〈ビートルズ〉
〈サイモン&ガーファンクル〉
〈井上陽水〉 ・・・

記憶は途切れるものだということがわかったし
そして 記憶は 甦るものだということもわかってきた
多くの事は 闇の中だが
闇の中から かすかに 光る何かに出遭うこともある

昔 なんの気なしに 歌っていた サイモン&ガーファンクルの歌
こんな歌詞だったのかと 今 あらたに 何かに出逢えた歌だった


《The Sound of Silence》

(訳詞)
暗闇君 こんにちは
また話に来たんだ
なぜって 幻がそっと忍び寄って
寝ている間に種を置いて行ったんでね
僕の頭に植えた種は
まだ芽吹いてもいない
沈黙の音の中で

目くるめく夢の中で僕は一人で歩いていたんだ
古い石畳の狭い通りを
街頭の灯りの下
僕は冷たい霧に襟を立てる
僕の目にネオンの光が突き刺さった時
それは夜の闇を割いて
沈黙の音に触れた

裸の光の中に見えたのは
一万人かそれ以上の人達
口もきかずに話している人達
耳もかさずに聞いている人達
声が出る幕のない歌を書いている人達
だれも勇気を出して
沈黙の音を破ろうとしない

「馬鹿者め」
僕は言った
「知らないのか 癌みたいに沈黙は広がっていくんだ
教えてやるから僕の言葉を聞くんだ
君たちに手を差し伸べるから僕の腕をとるんだ 」
でも 音をたてない雨粒みたいに
僕の言葉は落ちて行き
沈黙の井戸の中で こだました

そして人々は頭を垂れて 祈る
彼らの作ったネオンの神に
そしてネオンは警告の言葉を映し出す
ネオンが作り出した言葉は
こう言っていた
「預言者の言葉が地下鉄の壁に書いてある 安アパートの玄関にも」
そしてネオンは何やらささやいた
沈黙の音の中で




by nonkei7332 | 2014-04-22 07:00 | 日記 | Comments(0)
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ちょうど 50年前
東京オリンピックがあった年
私が 小学校卒業の時の話だ
木造校舎の二階の教室だった
窓際の前から 三番目が私の席で ひとつ前の席が
ヒロシの席だった
ヒロシのあだ名は〈ポッキン〉
いまにも折れそうな位 痩せていたから
みんなからそう呼ばれていた
いつも ニコニコしていて 優しい無口な男の子だった
ある日 ヒロシはノートいっぱいに 〈風信子〉という字を書いていた
私が 「誰の名前?」と聞くと
ヒロシは「違う」と言って 急いで ノートを閉じた
私は 前の黒板までいって 大きな字で 〈風信子〉と書いた
その時 担任の先生が 教室に入ってきたのだ
「席につきなさい」 の一言で
字を消すのもできず そのまま席についた私に
「これは なんの名前ですか」と先生は聞いた
「それは ヒロシ君の好きな女の子の名前だと思います」と
とっさに私は答えると 皆んながどっと笑った
「どうして そう思うの?」 先生は重ねて私に聞いた
「だって ヒロシ君がノートにびっしり書いていたからです」
というと またしても どよめきが 教室中に響いた
「静かに」 先生はそう言って
ニコニコしながら ヒロシに言った
「ヒロシ君 可愛い名前ね」
ヒロシは 真っ赤な顔をして立ち上がると
「ち 違います」 と答えた それが 精一杯だった
先生は 黒板に向かい 私が書いた 白墨の字の横に
黄色いチョークで 〈ヒヤシンス〉と書いて
「この名前は人の名前ではなくて 花の名前です」
「ヒロシ君 よく知ってたね」と先生はヒロシにむかって言った
ヒロシは 真っ赤な顔を また真っ紅にして 下を向いていた
私はヒロシの背中を突ついて
「ポッキン ゴメン」と小さな声でいうと
ポッキンは 下を向いたまま 小さく 頷いた


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《 遠い昔のギリシャの話 》

ヒュアキントスはスパルタ生まれの美しい少年だった。
アポローンと 西風の神ゼピュロスの二人は競って
ヒュアキントスの気を惹こうとしたが、
彼はアポローンとばかり仲良くしていた。
ある日、仲良く円盤投げを楽しんでいた時、
アポローンの投げた円盤がヒュアキュントスの頭に当たり、
ヒュアキントスは死んでしまった。
西風の神ゼピュロスが二人の仲睦まじい様子を空から見て嫉妬し、
円盤の飛ぶ方向を西風で狂わせてしまったからだった
アポローンは嘆き悲しみ 溢れ出た少年の真っ赤な血の中から、
赤い花が咲いた
人々は この赤い花を少年の名にちなんで
ヒュアキントス(ヒアシンス)と呼ぶようになったと言う。






by nonkei7332 | 2014-04-15 09:31 | | Comments(0)




サイモン&ガーファンクルの歌に
そんな 歌があった
たしか〈四月になれば彼女は〉という名前の歌だった

♪♪ April come she will
When streams are ripe and swelled with rain;
(四月、彼女に僕は出会った
春の小川は満ち 雨があふれる頃に ) ♪♪

いろんな事が始まる 四月
新しい季節との出会いは
残された季節への
カウントダウンでもあるようだ




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〈 転位 〉

東風ふけども
匂いをおこす事を忘れし
悲しき梅の子達よ
主の居ない 神無島の春を忘れし
貧しき 陵守連の子達よ
妙見(ボラリス)の浜に集いし
哀しき 海人の子達よ
あれから もう何千という 季節を数えたではないか
われらが讃えた 海神の怒りを静めることが
私達はできなかったではないのか
雷(イカズチ)にかかる雲も
三笠に沈む 月読みの光も
歌仙の荒魂さえも
鎮める事はできなかったではないか

もはや 私達は
転位の準備をしなくてはならない
秘めていた魂の紐を解かなくてはならない

女神の決起の叫びを聞いたからには





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by nonkei7332 | 2014-04-11 19:06 | 日記 | Comments(0)


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華厳寺(鈴虫寺)


生まれて初めての 入院だった

半身不随のリハビリ療養が半年続いていた

そんな 辛い日々の中でも

嬉しいこともある

京都に住む 次男の嫁が 送ってくれたのは

京都洛西の 鈴 虫 寺(華厳寺)

一願成就 の御守りだった。 

鈴虫が一年中鳴いているというこの寺の御守りは

ひとつだけ願いを叶えてくれるという

京都では有名な パワースポットらしくて 

一年中 人が絶えないという

添え書きには

早く良くなって 御礼を返しに 京都まで

来て下さいねと書いてあった

(去年の秋 無事にお札を納めに 鈴虫寺に行くことができた)

入院患者の多くは リハビリ以外の時間を 

本を読んだり 患者同士でおしゃべり などをして 過ごすのだが

私は いつも 屋上に行って 好きな歌をヘッドホンで聞きながら

流れていく 浮浪雲を追いかけていた

そんなある日 いつものように屋上にいると 

ケアスタッフの Sさんが近づいてきて

『いつも 音楽 聞いてますね』 と話しかけてきた 
 
聞くと 彼は ライブなどもこなす ミュージシャンだという

それから 話が盛り上がり 退院までに 一曲だけ 

私が詩を書いて 彼が曲をつけるという話が出来上がっていた

後日 私は彼に <セピア通り> <一願成就> という二つの詩を渡した


〈セピア通り〉は香椎駅前の通りの名前で せつない青春の別れを書いた詩

〈一願成就〉は 鈴虫寺の御守りをイメージした 大人の哀しい別離の詩


退院間際に Sさんから渡されたCDは <セピア通り> だった






  《 一 願 成 就 》


( 通りゃんせ 通りゃんせ)

  百十日の幽かな命に

  鳴けるのは 最後の二十日だけ

  そんな 鈴虫が

  一年中鳴いているからと

  どんな願い事も叶うからと

  あのひとが 鈴虫寺のお札を送ってくれました

  願った事は ひとつだけ

  あの人に もっといい人

  見つかりますように

  洛西の 竹林から 吹く風は 比叡の祈りをのせて

  桂の水面を揺らします

夕霧が秘めた想いの 藤袴の花

  今年も咲いてくれましたか


月が渡った橋なれど 渡れぬ恋を責めますか

    
  あれから もう三度目の秋

  百十日も泣くのはいやだから

  二十日だけ泣いて

  お札を納めにまいります


  もう くる事もない この街の

  錦市場でみつけた ちりめん山椒

  母へのみやげに 買いました


  叶えた願いはひとつだけ

  あの人に もっといい人

  見つかりますように

〔 通りゃんせ 通りゃんせ ここは どこの 細道じゃ)


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天龍寺の藤袴の花


『 源氏物語 』二十八帖 「藤袴」 光源氏37歳秋の話

夕霧(光源氏の息子)が玉鬘(たまかずら夕顔の娘)に送った歌がある


《 同じ野の 露にやつるる藤袴 あわれはかけよか ことばかりも 》


(訳) : 私は あなたと同じ 野で露に濡れる フジバカマ なのです

かりそめにでも あわれと 言葉をかけて下さい

(註釈) : 光源氏の使いで 夕霧が玉鬘を訪ねた際に 

藤袴の花を送って 秘めた想いを伝えたという 

しかし 玉鬘は相手にしなかった

源氏の所へ帰った夕霧は 世間では 源氏が

玉鬘を側室の一人にするつもりだという噂がひろがっていると言って

その真意を鋭く追求したとの話がある






by nonkei7332 | 2014-04-05 14:18 | 日記 | Comments(0)