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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

カテゴリ:ルーツ( 27 )



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白水英章 さん




博多 人形の町 なんです



有名なのが 〈博多人形〉そして 博多祇園山笠 〈山笠人形〉



それと 張子虎などの 細工人形など




独特の人形文化 の発祥の町なのです




特に 有名なのが 〈博多人形〉でしょうか




Wikipedia 博多人形 についてこう書かれています




発祥には諸説があり、



・陶師(すえし)の〈中ノ子家〉



・博多祇園山笠の小堀流山笠人形の流れを汲む〈白水家〉



・瓦職人の〈正木宗七(惣七)〉



三説が有力とされていたが 現在では学術的研究が進み



1600年代に博多の町で陶師を営んでいた中ノ子家より転業した



中ノ子安兵衛・吉兵衛親子と、



小堀流山笠人形の流れを汲む 白水家との



複合的要因が最も有力とされている ・・・中略・・・



白水家は小堀家の流れを汲む家である



小堀家は京都の細工人形師 (初代小堀善左衛門正直) であり



現在より500年以上前(永享91437年) 櫛田神社の招聘により



博多櫛田神社境内に移り住んだ



小堀家は山笠人形の独占制作を 代々 行ってきたが



明治維新と共にその制作権も自然消滅し



13代目善之助の時 山笠人形の制作を廃業した



なお 博多祇園山笠で用いる山笠人形は



博多人形師が代々制作していたものと思われているが



実際には (少なくとも明治以前では) 小堀家のみが



独占的に制作を許されたもので 他のものによる制作は許されなかった



その小堀家細工人形の流れを汲むのが〈初代白水仁作〉で



白水家直系の人形師は




現在 では 博多人形師の〈白水英章〉が居る




博多人形の 起源には 山笠人形の 小堀流細工人形が



大きな影響を与えていることがわかります



博多の 人形文化の 起源とも言える 小堀流細工人形を



今に伝えているのが 初代白水仁作 の白水家 であり



白水英章 さんが その伝統を今も繋いでいるのです




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今回 〈山笠の顔〉として



天神1丁目の 飾り山の 作成中の 白水英章さんに お会いしました



山笠人形師としての 白水英章さんは 現在



東流の 舁山と 天神1丁目の飾り山を担当されています



現場には 飾り山の下絵が展示されています



下絵が描けてこそ 人形師だとされています



下絵の左下の署名には



小堀流人形司 英章 書かれていました






東流 舁山 毎年楽しみです



その中で 私の お気に入りの 人形達 です




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いよいよ 東流 今年の人形のお披露目が



2日だと教えていただきました



身体の中を流れる 小堀家 の血が 騒いでいるのでしょうか



そこには 紛れもなく〈のぼせもん〉の がいます









by nonkei7332 | 2017-06-30 11:58 | ルーツ | Comments(0)


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筑前琵琶師 尾方蝶嘉さん
ホームページより




明治の始め 博多の町に

栗山幽斎という 旧黒田藩士が住んでいました

黒田二十四騎の筆頭 栗山大膳 の ゆかりの人物かどうかはわかませんが

明治3年6月 この旧藩士に 愛くるしいひとり娘が生まれます

この親子に その後何があったのかは 定かではありませんが

両親が やがて亡くなり ひとり残された 娘は

博多の花町の養女となって たくましく 生きていくのでした

娘はやがて 妓名 を 《 金 時 》と 名乗ります

その 生まれ持った 美貌 と 美声 で 若くして

博多の 券番 でも 人気の芸妓の ひとり となりました

金時 は 三味線 と 月琴 の名手でした

引く手数多の贔屓筋の中で 金時 を射止めたのは

博多の富豪 《 加納 熊次郎 》です

酒造家の 加納熊次郎は 金時の奏でる 月琴を聴きながら

その芸才を 誰よりも 理解していましたし

その為なら 財を惜しむことはありませんでした

金時という名に別れを告げ 《 吉 田 竹 子 》と名乗りました

そして 明清楽 や 八雲琴(二弦琴)をも 修めたのでした


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筑前琵琶
尾方蝶嘉さん ホームページより



京都におこった 平家琵琶 は 室町以降 100年の間に 全盛期を迎えます

その後 戦国の世に入り 仕事を無くした 琵琶法師達 は

生活苦のために 京を離れ 多くは 流浪の僧となって

西へと 流れて行きました

琵琶と云えば 太宰府 四王寺山に 居を構えた

筑前琵琶 の 始祖である 玄清法師 は 成就院 を建立し

九州盲僧の中興の祖と仰がれたのですが

法印の 第九世 寿讃(じゅさん) は 博多の 蔵本町に 成就院を移し

〈臨江山 妙音寺〉と 名前を変えます

妙音寺 は 西日本の盲僧院坊の触頭として隆盛を続けますが

天正末期に兵火により灰塵に帰してしまいます

黒田二代藩主 忠之は 福岡城の鬼門除けの霊寺 として

藩の祈祷所として 妙音寺 を 再興したのでした

博多には 妙音寺 の元で いくつかの 盲僧坊がうまれます

妙福坊(橘智定の家祖) 大泉坊(鶴崎賢定の家祖) 観照坊(高野観道の家祖)

これらの盲僧達は 「般若心経」や「地鎮経」を 琵琶に弾じたり

荒神払いといって 家々を回り 布施でなんとか 命を繋いでいたのですが

明治4年 になると 新政府は「盲官廃止令」を発布します

この廃止令 は 盲僧の存在が 治安維持や 戸籍編成 の妨げになると

考えられたからですが 明治5年 には 「修験禁止令 」も 出され

修験道も 禁止されます

仏教寺院にとっては 多難の時代の始まりでした



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明治22年 の 博多地図




荒神琵琶 も 時代の流れには 逆らえません

この流れに危惧した ひとりの 愛琵家 が 動きます

あの 加納熊次郎 でした

加納 は 絶滅寸前の 琵琶再興の志を 二人の人物に委ねます

妙福坊の橘旭翁 と 吉田竹子 でした

二人には 薩摩琵琶の改良研究と 新たな 弾法と音曲の開拓を託します

盲僧琵琶と三味線の折衷を試みた 吉田竹子は

明治26年(1893) 博多の文士 今村外園 が 忠君愛国の軍人を詠った

「谷村計介」の作詞に 自ら 曲を付け弾奏し 大好評を得ます

この音曲が 筑前琵琶の原形 だとも いわれているのです

この流れに 博多の政財界の名士たちも後押しをします

伊藤博文 や 金子堅太郎 その弟 金子辰三郎 そして

玄洋社総帥の 頭山満 など が

橘旭翁 や 吉田竹子 の 東京進出に 力をかします

筑前琵琶の五弦を 提唱したのは 頭山満だったという話も伝わっています

吉田竹子 は 加納熊次郎 が亡くなると 博多に戻り

筑前琵琶後進の育成に 力を注ぎ 多くの名手を育てます


大正12年 11月 博多の町で 多くの弟子に看取られながら

吉田竹子 は 52年 の 波瀾万丈の華やかな 人生を閉じます

竹子は 意識が遠のく中で 熊次郎 の姿を見つけたのでしょうか

『 旦那さん そばに行くのは 早すぎましたか 』

幽かに そう呟いて 目を閉じたと言います



加納熊次郎 と 吉田竹子

筑前琵琶を語るとき 忘れては いけない 二人なのです






by nonkei7332 | 2017-03-15 00:37 | ルーツ | Comments(0)

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桃中軒雲右衛門




私が生まれて初めて聞いた音楽といえば 母の子守唄でしょうか

昭和30年代 我が家にまだテレビがないころ

ラジオから 流れてきた音の記憶をたどれば

三味線の音の後に聞こえてきた あの 濁声の唄(?)なのかもしれない

『 旅行けば〜 駿河の国に 茶のかおり〜 』

後になってわかったのが これが 〈浪曲〉というもので

二代目広沢虎造 の 「石松三十石道中」だったようです



『日本のリバプール』と呼ばれる 博多の街は

70年代 から 多くの ミュージッシャンが ここを発信地として

上京し やがて スーパースター となっていきました

チューリップ・海援隊・井上陽水・長渕剛・チャゲアス

女性では 高橋真梨子・浜崎あゆみ・MISIA などがいます



さて 明治の終わりから 大正にかけて 好景気に沸く博多の街から

一人の スーパースター が 出て

一世を風靡した事を 知る人は少ないようです

浪曲界では 『浪聖』と呼ばれた人で その名を

《 桃中軒雲右衛門 》(とうちゅうけんくもえもん〉といいます

(以降 雲 と略します)


本名を 岡本峰吉 生まれは 群馬県高崎です

父の 繁吉 は 浪花節の前身である 〈祭文語り〉という 旅芸人でした

父を師匠として 雲 は やがては 吉川亭繁吉 という

父の名を継ぎ メキメキと技量を蓄えていきます

やがて 東京に出て 三河屋梅車の 門下となり


関東一円を廻っていたようです

明治36年 繁吉 が31歳の時でした 運命の罠が 雲を覆います

師匠 梅車の女房であった お浜 と恋に落ちたのでした

お浜 は離縁。繁吉は破門。その上 関東から追放を言い渡されます

仕方なく お浜を連れて 繁吉は 西へ向かいます


この時 お浜 35歳


途中 静岡で 駅前の弁当屋の屋号を真似て

桃中軒雲右衛門 を 名乗ります

京都に入り 一人の男が 雲 の弟子となりました

その男 は かの 孫文の辛亥革命を援助した 熊本菊池の素封家

〈宮崎滔天〉でした ( 柳原白蓮の最後の夫 宮崎龍介の父 )

滔天はすべての財産を社会運動につぎ込み

家は破産 このころ 京都に落ちていたようです


雲は 滔天に 桃中軒牛右衛門 の芸名を与えたようです

こうして 雲 と お浜 と 滔天 の三人の巡業旅は

関西 そして九州へと続きますが 一向に 不入りで 鳴かず飛ばず

やがて 雲達は 滔天のかつての同志 玄洋社の 重鎮

〈末永 節〉を頼って 博多に流れ着いたのでした


末永翁は 雲の後援をする条件を三つ挙げたそうです

ひとつ 雲右衛門が 苦学生を援助して 特待生を出す事

ふたつ 孝子節婦・忠臣義人などを顕彰する事

みっつ 神社仏閣に 手水鉢 、鳥居などを寄進する事

雲はこれを受け入れ 孤児院の寄附興行を皮切りに

多くの興行の利益を 博多の町に還元したのでした

やがて 雲右衛門の浪曲は 博多の町に知れ渡りました

時あたかも 日本は 日露戦争の大勝利に沸き立っている時勢でもあり

雲 の語る 数々の 義士伝 は 全ての劇場を満員にするほどの人気で

博多に 雲右衛門 あり の噂は 全国まで 拡がっていったのでした

雲右衛門流 と呼ばれる「三段流し」の歌唱法というのがあって

30秒ほど息を止めて歌い込むそうですが

聴衆もそれに合わせて息を継げなくなってしまうほどだったと言います

雲 は 薬院に御殿のような 邸宅を建てたのもこの頃でした



明治40年 雲 は 東京の 本郷座で 旗揚げします

東京を追われて 5年目のことでした

それまで 浪曲といえば 下層階級のものだといわれていましたが

武士道鼓吹の波と 雲 の天才的な技量をもって 上流社会にまでも

その人気は不動のものになっていったのでした

松竹 は 雲右衛門と年間10万円で 興行権をかったといいます

(今の金額でいえば 3億円位でしょうか)

横浜在住のドイツ人の貿易商リチャード・ワダマンが

雲 の SP版のレコードを作成しましたが

72000枚のプレスだったといいます 当時の日本の人口が5000万

蓄音機が高額で そんなに普及していなかったということを考え合わせると

今でいえば ミリオンセラー(100万枚) を


はるかに超えるのではないかといわれています


明治45年 雲 の全盛期 でした

博多に戻り 豪遊を続けていたようです

長い間 雲 を支えた お浜 はこの年の春 肺を病み 他界します

これを機に 続いて 雲 も肺を病み 声量も 技量も落ちてしまいます

またたくまに その人気は 落ちていったのでした

かくて 大正5年 11月 7日

浪聖 とよばれた 桃中軒雲右衛門 こと 岡本峰吉は

博多の 借家の二階 で その一生を終えます

享年 わずか 44歳

雲のように湧き

雲のように消えた

博多の町が 育てた スーパースター でした












by nonkei7332 | 2016-07-12 15:19 | ルーツ | Comments(0)


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下鴨神社 糺の森



古代の人々は 鎮守の森で

一年に二度だけ 冬と夏 に 神様から 霊力をもらいました

これが 祭りの始まりです

神は 海の彼方から来るのでしたが いつの間にか

山から来る神や 天から来る神に 変わっていきました

神が降臨(おり)てくるまえに 人々は まず 身を浄めます

神の威霊を 新たな心身で 受け取るための 禊の儀式です

冬の禊を 『年越祓』

夏の禊を 『夏越祓』『名越祓』『水無月祓』などといいます

神が降りてくる目印として〈標山〉(しめやま)という

松や杉で作った高い木の棒に 旗や幟をたてます

この〈標山〉に神霊が降ります

各地の夏まつりで この 標山に 飾りつけしたものが

山車(だし)・鉾(ほこ)・山(やま)・地車(だんじり) と呼ばれました

それとは別に 人の形をした紙人形 人形(ひとがた)に息を吹きかけたり

その紙人形で体を撫でて穢れを人形に移した後

川や海に流すという厄払いも行われていました


これが 人形の起源です



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博多の夏まつり は山笠です

《博多祇園山笠》の起源については 幾つか説がありますが

通説となっているのが 「仁治2(1241)年説」です

博多で疫病が流行り 承天寺の開山の 聖一国師(弁円)が 人々の担ぐ

施餓鬼棚に乗って 祈祷水を撒いて 疫病を鎮めたとされます

これが 櫛田神社の祭神 のひとつ 素戔嗚尊(祇園神) と結びついて

櫛田神社の祭礼になったという説なのです

〈博多祇園山笠振興会〉も この説をとっています


あくまでも 通説なのです おかしなことも幾つかあります

まず一つは 仁治2年頃に 疫病が流行ったという記録がないこと

もう一つは 施餓鬼というのは 仏事の法会であって 神事ではないこと

たしかに 当時は神仏混淆の世相であって 祇園神そのものが

素戔嗚と牛頭天王が神仏習合した 神と考えれば おかしくもないのですが

仏教伝来以前 まだ 櫛田の杜に

社殿が出来る前の 祭りの様子が気になりました

文化4年(1807)に書かれた

『 筑前 櫛田社鑑 』原田種美著 に 思わぬ 記述がありました


昔より 山笠のいはれあり

水無月祓 に 形代とて 茅、麻の葉にて 人形を作り

( 是を賀茂川祭りというなり )

身を撫でし時に となえる歌に

『水無月に名越しの祓する人は 千と世の命延ぶ 』というなり

となへの歌は外に数あり

是を川え流すと言へり

是 我が身の不浄を潔白に解除するの法にて

俗に是を 撫物(なでもの)と言う

( 当社の社宮 祝部家 等 水無月の祓に今是を用う )

山笠も其始めは 茅の形代の例にまなびしが

永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 云々



博多の山笠の起源は

賀茂川祭り(夏越の祓い) だと書かれています

賀茂川祭りとは 京都下鴨神社の 《みたらし祭り》のことでしょう

下鴨神社の祭神は

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)賀茂族の祖神 です

その神こそ ヤタガラス である 古代博多の皇子 《豊玉彦》なのです


2015/11/10 拙ブログ《鴨(賀茂)の流れ》を参照ください
http://hisamitsu.exblog.jp/25076752/


〈 永享年中より いかめしき 作り山となりぬ 〉と書かれているように

博多の夏越の祓い が 祇園山笠(いかめしき作り山) と 変わったのが

永享年間 だと書かれています

さて 永享年間に 何があったのでしょうか

同じく『 筑前 櫛田社鑑 』には こう書かれていました


永享九年 (1437) 春三月に 博多より

京都の木偶師土偶師 を召かかえんとて上京せしが

小堀善左衛門 とて四条に居住せし木偶師を召抱えて 帰国す

櫛田神社内へ居宅を作りて 扶持米を遣わし

その年の作り山に 甲冑を着せ 旗幡を ささせ さまざまの

模様を作りて 祇園祭礼を勤む



櫛田神社 が 京都から 一人の男を 連れてきます

夏越の祓い祭り を いかめしき作り山 に変える為に連れてきた

若き 人形師 でした

《 小堀善左衛門 正直 》

博多山笠人形の始祖 であり

明治時代まで 13代 続いた 小堀流細工人形の 小堀家でした


2014/4/25 拙ブログ 《ルーツの旅》参照下さい
http://hisamitsu.exblog.jp/22508540/



博多の祭りを

〈夏越の祓い祭り〉から 〈祇園山笠〉へと変えた

張本人 が 私の先祖 だったとは

驚きの ファミリーヒストリー でした


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明治初年
最古の 博多山笠の写真
高さ16m です







by nonkei7332 | 2016-06-16 15:47 | ルーツ | Comments(0)


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博多 出会い橋 にある 「三人舞子像」




博多には 行町 という町があった


古くからの町だったが 今はもう町名も残ってはいない

(現在でいえば 昭和通り(通称50メーター通り) 付近になる)


《806年》空海(弘法大師) が

唐 での修行の帰りついた港は 博多の津であった

空海は 早速 一軒の船宿を買い取り そこに 唐から持ち帰った

仏像や教本や仏具を備えた一寺をこの町に建て

やがては 真言密教が 東へ長く広まるようにと 東長寺となずけた

( 現在は 大博通りに面している 御供所町に移った 南岳山東長寺である )

人々は はじめは 勤行(朝夕の読経)の町 と呼んでいたが いつのまにか

行の町 行町 となったと言われている



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明治25年 博多町図



この 行町 に 大工の 《 成 田 善 兵 衛 》が住んでいた

実は 私の 母方の 高祖父 になる人である

成田家 は 旧藩士だと伝えられてきた 黒田本藩なのか

士藩の直方藩なのか 秋月藩なのかは定かではないが

江戸の頃 扶持を捨て 町人となったようである

土居流沿いの 西方寺前町 に住し 代々 大工を営んできた

幕末の頃 博多史誌『石城遺聞』に 西方寺前町の町年寄として

〈成田宗次郎〉の名前が 残っている 善兵衛との関係は不詳だが

町の重鎮として 大工の棟梁 をしていたのかもしれない



さて 話は 前回の話しに戻るが

相生町に 米倉藤三郎 が建てた料亭『大寿楼』の話をしたが

相生には 大寿楼のほかに 名の売れた料亭が三軒あったといわれている


『松の家』『満月』『長門』がそれである

実は この『松の家』は

明治の中頃 大工の 成田善兵衛 が転業して 始めた 料理屋 だった

大正になると 『満月』も譲り受けたようだ

私は 母から 『 成田 の 本家(ほんや)は 料理屋をしていた 』という話を

〈満月〉の店の名前といっしょに 聞いたことがあった

善兵衛には 後嗣 がおらず 二人の娘 「ルイ」と 「テフ」がいた

ルイ には 善七という婿養子が もらい 料理屋を継いだが

善七がどういう人物であったのかはわからない

一方 『テフ』には 下土井町に住む

山笠人形師 小堀家十二代 〈 小堀甚三 〉の弟


『小堀甚兵衛』を婿養子にもらった

分家すじにあたる この二人こそ

私の 曾祖父 曽祖母 なのだ

『 土居流 の恋 』という 拙ブログの記事があります
( 2015/7/5 http://hisamitsu.exblog.jp/22898770/ )



券番の取締という 男 〈 米倉藤三郎 〉と

料理屋の旦那 だった 〈 成田 善兵衛 〉とに

どういう繋がりであったのかは わからない

旧藩士あがりの この二人の名もなき博多町人が

博多花柳界の 華々しき 一時代を 作っていったことには

間違いない ようだ



座敷で よく 歌われたであろう 〈 黒田節 〉のほかに

〈 正調博多節 〉という 座敷歌がある

有名な 一節 がある


《 博多へ来る時ゃ 一人で来たが 帰りゃ人形と 二人連れ 》



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博多人形 ごとう 提供





参考文献
小田部博実著「博多風土記」


by nonkei7332 | 2016-06-09 09:50 | ルーツ | Comments(0)


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現在の 〈博多券番〉 の 芸妓衆




明治の維新は

廃藩置県によって 多くの藩士を路頭に迷わせた

福岡黒田藩においても 然り 六千人 に近い藩士がいたが

ある者は帰農し またある者は 町人となって 慣れない手仕事を生業とした


博多には 明治24年 黒田旧藩士のみで組織される 「報古会」という

団体が結成された 藩主はいなくとも 黒田家訓を護り

旧藩士としての連携を密にするという相互扶助の団体であった

初代会長は 初代福岡市長の 山中立木 で 結成当時の会員は

三千人もいたというが ほとんどが 上級藩士出身であったようだ


家柄の低い 下級藩士の中に


米 倉 藤 三 郎 》という男がいた

米倉家については 定かではないが 維新後 一家没落したとされ

辻堂町の 承天寺境内で 仮家住いの赤貧暮らしをしていた

若き 藤三郎も 物心ついた頃には やむもなく 家を出て 渡世人となる



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明治25年の博多の町
市小路小学校(今の博多小学校)の上に
釜屋町 萱堂町 がある





博多には 釜屋町 や 萱堂町 (現在の奈良屋町界隈) という町があり

明治の始めから 多くの町芸妓がたむろする 色街だったという

ここを拠点にした 米倉藤三郎 は 大柄で ドスの効いたその風貌で

いつの間にか この町の顔役となっていったのである

やがて 釜屋町と萱堂町をつなぐ 筋に 多くの 芸妓置屋の連なる 花街

俗称 相生町が できた 〈相生の松〉に因んだ町名だという

当時 61名の芸妓が 相生町には居たが 翌年には 89名に増え

その勢いは 衰えることをしらなかった

町の一角に 相生花街の 顔ともいうべき 木造三階建ての 料理屋

『大寿楼』を 藤三郎 が 建てたころには 相生花街 の顔として

米倉藤三郎 の名前は 博多中に知れ渡っていたようである

明治22年 米倉 は 博多では 初めての 芸妓置屋の 組合組織

『相生券番』をつくり 自らその取締となって 花街を仕切っていった

長崎 丸山検番にヒントを得たという 〈線香代〉という 芸妓の花代と

時間制を創ったのも 米倉だといわれている

博多花柳界の大御所となった 米倉 は 芸妓達からは 恐れられ

その 独断暴君振りは 誰もが知るところであったようだ

そんな中 明治34年 夏 騒動は起きる 相生券番の芸妓総代を務めていた

小三(根本アキ) と 小滝(高橋タキ)が 米倉のワンマン振りに反旗を翻し

28名の名うての芸妓を引き連れて 千代町にあった 水茶屋券番に

移って行ったのだった 米倉の怒りは収まらず すぐに 手を打った

全ての料亭(料理屋) 茶屋待合(料理は作らず場所だけ提供しする座敷) に

もし 水茶屋の芸妓を呼んだ場合は 相生券番と中洲券番からは

芸妓は送り込まないという 報復手段だった

しかし 芸妓達はひるむことはなかった

何故なら 彼女達を後押しする


強力な 旦那衆が 後ろに控えていたからだ

ざっと 名前を挙げると



具島太助 ・・・ ( 当時日本三大財閥といわれた 具島財閥の当主 )

平岡浩太郎 ・・( 政治結社「玄洋社」の初代社長 )

安川敬一郎 ・・( 安川電機・九州工業大学の創始者 )

麻生太吉・・・ ( 現財務大臣 麻生太郎 の曽祖父。麻生グループの創始者 )

中野徳次郎 ・・( 伊藤と共に 筑豊の炭鉱王と呼ばれた )

伊藤伝右衛門 ・・(あの柳原白蓮を妻にした 筑豊の炭鉱王の一人 )

堀三太郎 ・・・( 直方の炭鉱王 )



筑豊の五大炭鉱王 や 福博の名士がこぞって 水茶屋券番に繰り出し

千代町の料理屋を貸し切り 水券芸妓を総揚げするなどして

大尽遊びを競うようにしたものだから 評判は拡がり やがては

相生券番と肩を並べるほどの 大券番となっていったのだった

後世 水茶屋券番の芸妓に『馬賊芸者』という 艶名がついたが

こんな騒動を乗り越えて来た 男まさりの度胸 と 切符の良さが

言わせたものだろう



その後 明治 大正 と 産業革命の波に乗って 博多花街は拡大を続け

空前の好景気に沸く大正時代には

〈相生券番〉〈水茶屋券番〉〈中洲券番〉〈新券番〉〈南券番〉

という五つの券番が 芸を競い 芸妓の数も 二千人に及んだという

博多花街は 東京の 築地や新橋 と並び

全国に 名を馳せるようになっていった


さて その後の 米倉藤三郎 だが

大正の末頃まで 大御所としての 威厳を揮ってはいたが

あまり 人に好かれる こともなく

昭和の初期に 寄る年波には勝てず ひっそり 他界したという


一人の赤貧の若者が築いた 華やかな 花柳界も

あの 戦災で すべてが 消えてしまうことになる



旧藩士 《 米倉藤三郎 》 の名前を 知る者も

今は この街には もう誰もいない






参考文献
小田部博実著「博多風土記」




by nonkei7332 | 2016-06-05 20:27 | ルーツ | Comments(0)


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時々 君たちの夢を見ます

いまでは 37才 と 35才 のいい歳の親父になっているのに

夢の中に出てくる 君たちは

いつも 小さな子供だった頃の夢ばかりです

時々 送ってくれる 子供達(孫) との写真を見るたびに

そういえば 私にも こんな頃が あったなと

昔の写真を 探しては 失われていく 記憶を呼び戻しています

君たちが はしゃいでいる 昔の写真です

家族で 阿蘇に旅行に 行った時のスナップです

小さな旅でしたが 覚えていますか?

泊まった宿は 乙姫のペンション村 でしたね

丸太でできた 中二階の部屋を 君たちは 走り回っていました

乙姫ペンション村 なんて 洒落た名前をつけたもんだとしか

あの頃は 思っていませんでしたが

阿蘇の古代を紐解いていて 最近 わかったことがあります

近くに 乙姫神社 があります

祀られている祭神は 阿蘇の神々の母神 『蒲池媛』でした

( 9/30 の ブログ 「蒲池媛の謎」参照 )



ピンクスポット 〈乙姫神社〉ブルースポット 〈乙姫ペンション村〉


阿蘇神話 には 健磐龍命(たけいわたつのみこと) がいます

健磐龍命 は 阿蘇の開拓に携わった 豪族で 神武天皇の孫になります

全国にいくつかある 「蹴裂伝説」が残っています


《 昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であった

健磐龍命は湖の水を流して田畑を拓くことを考えました

満身の力で湖の壁を蹴り壊したのですが 湖の水は流れ出したものの

大鯰 が横たわり水の流れをせき止めてしまいます

健磐龍命はこの大鯰を退治して湖の水を流します

大鯰の流れて行った後は 白川 となり

大鯰は 《上益城郡嘉島町鯰》という

土地に流れ着いたと言われています》


乙姫についても 熊本の各地に 「乙姫伝説」が残っていますが

概ね 乙姫様が鯰に助けられる という ストーリーです

乙姫 といえば 「龍宮城の乙姫様」を思い浮かべるのですが

どこかで 繋がっているのかもしれません

〈熊本〉は 昔は 〈隈本〉といっていました

隈(くま)という字は 狗奴国 の 狗奴(くな)が訛ったものです

熊襲 もそうでしょう

隈 という地名は 熊本だけではなく 福岡の 筑後にも 筑紫にも

たくさん残っています 雑餉隈 月隈 などもそうですね

鯰の伝説 も 佐賀にも 糸島にも 那珂川町 にも 残っています

狗奴国(熊襲) の 勢力は広範囲の九州に及んでいたようです

鯰 の伝説の起源 は 遠く中国の呉の国 からきています

呉人の風俗に「提冠提縫」というものがあります

提とは鯰のことで 呉人は鯰の冠を被っていたとされています

嘉島町の鯰という場所は そういった 謂れがある

今でいう パワースポット でもあるのです

かつて この鯰の村に 戦国時代の 南熊本の守護大名

小西行長 の 陣跡があったときいたことがあります

小西行長は 有名な クリスチャン大名でしたので

南熊本や宇城や八代 の神社などの多くを焼き払ったと言います

おそらく 多くの古代からの歴史遺産 が失われたようです

鯰の地 にも 何かあったのではと 思っています

陣屋跡 を代々守ってきた 庄屋 には いまでも


年老いた 御夫婦 が 住んでおられます


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私が 自分のルーツを追っかけてきた 旅も


まだ 旅の途中 です


それは 君たちにとっての ルーツでもあるのですが


君たちには もうひとつの ルーツがあるのです


ふたつのルーツ は 遠い昔 はひとつのものでした


奴国 と 狗奴国 争いはしましたが


やがて 九州王朝 という きらびやかな


この国の始まりでもあったのです



来月 京都に 孫に会いに行きます


紅葉真っ只中の いい季節をえらびました


1000年の王朝 の煌びやかさの奥に隠された


1500年前の 筑紫の王朝 の面影を探す 旅 になりそうです




熊本県 上益城郡 嘉島町 鯰





by nonkei7332 | 2015-10-26 12:07 | ルーツ | Comments(2)


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博多祇園山笠 飾り山 『 博多の豪商 神屋宗湛 』




博多商人の 三傑 と言えば

〈神屋宗湛〉〈島井宗室〉〈大賀宗九 〉

そのなかでも 博多町人にとって 最も親しみのある 豪商こそ

《 神 屋 宗 湛 》でしょう


神屋家の祖先は 鎌倉幕府の御家人で

宗像の大宮司 宗像氏貞 に仕えた 神人(神職) でした

いわゆる 物部氏の末裔の もののふ だったようです


宗湛は 天文20年 (1551年) 時は 室町時代の終わりに

神屋紹策 の子として 博多に生まれています

幼名は 善四郎貞清

中世の博多は 常に戦乱に巻き込まれ

町は何度も荒廃しました

永禄12年(1570年) 毛利 と 大友 の両軍が

博多で激戦をした時は

宗湛一家は 肥前唐津に難を逃れて移り住みます

宗湛19歳の時でした

( この時 山笠人形の小堀家も 唐津に難を逃れています )


宗湛の祖父 神屋寿貞 は 明国で 冶金術を学び

石見銀山を発掘して 銀鉱の精錬術を成功させた

偉大な 商人でした

その血をひいた 宗湛は 唐津における 17年間

父 紹策の指導の元

海賊松浦党の援護もあり 海外貿易の商才を磨く かたわら

茶道の修行にも励み その道にも 精通したとされます


天正13年(1586年) 宗湛 35歳の時 上洛の志を果たします

茶道の名人であった 京都大徳寺の住職 古渓和尚の弟子になり

宗湛 の名前を 号するようになります

天正15年 堺の茶人 津田宗久 の手引きで

豊臣秀吉と 大阪城の茶会で 謁見します

秀吉は 「筑紫坊主」と宗湛のことを呼んだといいます

その時 宗湛は 島津氏に焼き払われた

博多の町の 再興を願い出たのです

宗湛の先見は 見事に的を得たようです

その年 秀吉は 九州征伐の軍を起こし 自ら 出兵します

九州に戻った 宗湛の活躍は 目を見張るものがありました

兵糧 や 秣(まぐさ: 軍馬の餌) の供給を一手に引き受けたり

秀吉のそばで 戦地に赴き すべての 雑務をこなしたのでした


島津征伐を終えた 秀吉は 博多に戻り 箱崎に本陣を置き

宗湛は 諸大名や千利休も呼んで

盛大な茶会を 催したりすることで

さらに 秀吉の信頼を 得たようです

そして それは 秀吉の 願望だった

朝鮮出兵の補給拠点としての

博多の町の 再興を決意させることにも 繋がっていきます

こうした 政商 神屋宗湛 の 機敏な 行動と働きは

秀吉の 朝鮮出兵の時期を早めたとも 言われているのです


博多の町を 再興させた 豪商 神屋宗湛

秀吉亡き後も 黒田家の 御用職人として 博多に住みつき

博多の人々に愛された 宗湛 は 83歳の長寿を全うしました



宗 湛 と 秀 吉

もののふ の血を引き継いだ

博多那の津の商人 と 尾張の猿楽師のせがれ の 出会いは

ひとつの 歴史を 後世に残したのでした







by nonkei7332 | 2015-05-18 21:31 | ルーツ | Comments(0)



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小堀流山笠人形の直系といわれている
人形師 白水英章さん と 山笠人形
(西日本新聞)




木偶の坊 (でくのぼう) は 《語源辞典によれば》


「 平安時代の 「くぐつ」という木彫りの操り人形のことである

木偶の坊が 役立たずの意味になった由来は

木の人形を無能な人に喩えたことによるものなのか

人形が手足のない 木の棒のようなものであったことからされる

ただし 「でくのぼう」の「ぼう」は親しみや軽い嘲りを表す

接尾語として用いられている為 「木偶の棒」と書くのは誤りである


人形が「木偶の坊」と呼ばれるようになった由来は

「でくるぼう」とも言われたことから

「出狂坊(でくるひぼう)」を語源とする説。


「手くぐつ」が訛った「でくる(坊)」から

「木偶の坊」になったとする説などが

有力とされるが 正確な語源は未詳。


その他 「泥人形」の「泥偶(でいぐう)」が訛り

「でく」になったという説もあるが

《泥人形》と《木彫りの操り人形》の関連性の薄さや

「でく」から「でくる」になった後で

「でく」に戻ることは 考え難いために

有力視されていない 』


この語源説の中で 私がもっとも 興味深いのは 有力視されていない

「泥人形」と「木彫りの操り人形」の 関連性です





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小堀氏略系図 (福岡市博物館所蔵)




小堀善左衛門正直 《小堀氏略系図》によると

『 京都四条 に 住む 木偶師 』でした

「木彫りの操り人形」を作ることを生業にしていたことは

永享9年(1437年) に 京都から 博多の櫛田神社に 召喚され

博多祇園祭りの 山笠人形の始祖 になったとされています

当初の山笠人形は 木彫りであり

手も足もない 頸だけの木彫りだったことから


博多の山笠人形の 元の形は 京都のからくり人形 だったと考えられます



《追懐松山遺事》山崎藤四郎著 によれば


『小堀家12代 小堀甚三方の古記によれば

同家が 人形の頸 を種々所持していたので

当番町はその中から適当なものを選び

人形一つに 白木綿一反 と 木綿形付きの浴衣

博多織の男帯 に 足袋一足宛をやっておけば

小堀家にて 人形の形態を造り

その浴衣を着せ 人形の男女にかかわらず 右の帯を締めさせ

両足には 黒木綿の脚絆の如き物を作り

足袋をはかせて 人形が出来上がる

しかして 各人形の前には「八つ足」机をすえ 榊 お神酒 お灯明等 を供え

旧5月28日 櫛田神職 天野氏は 小堀甚三方に赴いて

“御祓(ご神入れ)” をする

その夜 小堀家へ 人形を見に行く人が多かった』 とあります




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博多人形 白水英章作



「泥人形」といえば

国内で最も古い 土人形といえば

京都伏見の 「伏見人形」だといわれています

伏見城から伏見稲荷までの一帯 は 深草 と呼ばれ 7世紀の初めには

この地では 土器がつくられ 土師部(はじべ・埴輪や土器を作る職人)が 

奈良の菅原から移住してきたという 文献が残っています

やがて 稲荷信仰の 全国への拡がりと一緒に この人形も全国にひろがり

各地の郷土玩具へと なっていったようです

さて 博多人形 の歴史をたどれば 素焼き人形として 最初に作られたのが

文化5年(1821年) 中ノ子吉兵衛 によるものとされています

九州に於いては 最も古い土人形と言われているのが

長崎の 「古賀人形」です 文録元年(1592年)

京の伏見人形の流れをくんだ土人形をつくるようになったといわれています

実は 博多には 文化年間より もっと古くから

京都の伏見の流れをくんだ 人形が 作られていたという 説があります

貞享元年(1684年) 正徳元年(1711年) 元文3年(1738年) に

没した人の 墓に 土人形が 納められていたという

記録が残っているというのが

その根拠になっています




《 稿本 古博多人形史 》梅林新一著 によれば


『 小堀家が 京都出身である事から 時代の古い 墓地からの出土品が

伏見人形の移入品であるか それとも 小堀家

或いは その系統の人によってつくられた

伏見人形を模索した 土人形であるやもしれない 』



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野見宿禰




その説を 補足するのが 《小堀家略系図》の最初に書かれている

『 野見宿禰 後胤 』の 文字です


野見宿禰 (ノミノスクネ) とは


『天穂日命(アメノホヒノミコト) の子孫で 垂仁天皇の命により

当麻蹴速(タイマノケハヤ) と力を争って勝ち 相撲取りの祖とされている

また 皇后の死に際し 殉死の代わりに 陵墓に 埴輪(はにわ)を立てる事を進言して

土師臣(はじのおみ) を 拝し 子孫は 天皇家の葬儀をつかさどったようだ

土師氏 の 直系が 菅原氏 である 』



文献が見つからず 推論の域をでませんが

小堀家 の祖先は おそらく 菅原家 の流れをくむ 深草の 土師部 であり

伏見人形を 造っていたのではないでしょうか

後三条天皇の延久4年(1072年) には 伏見稲荷社 と 祇園社に 天皇が行幸し

これを 「両社行幸」と称して 歴代の慣例として鎌倉時代まで続いていたようで

おそらく 両社の繋がりは 深いものであったのでしょう

その繋がりで その後 小堀家は

祇園社(八坂神社) の所領である 京都四条に移り住み

その地にて 木彫りの操り人形 をつくるようになったのではないでしょうか




《 泥人形 》と 《 木彫りの操り人形 》

《 博多人形 》と 《 山笠人形 》を 博多の町で 結びつけた

小堀善左衛門正直

彼こそ 正真正銘の 《 木偶の坊 》(でくのぼう) だったのです







by nonkei7332 | 2015-05-11 22:50 | ルーツ | Comments(0)


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正面より


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拝殿





博多には 古くからの町である 「綱輪町」(つなわまち) という町があった

いつのまにか 訛って「綱場町」(つなばちょう) と呼ばれ 今日まで 残っているが

町名の由来は その地に鎮座する 『 綱敷天満宮 』からである

この天満宮に謂れは


菅原道真公 が 筑紫の国への 下向の船旅の終わりの時


津の国 (博多) 『 袖の湊 』に上陸された


そこが 海辺だったので


漁師達が 船の友綱を手繰り上げて


蚊取線香のように 巻いて 輪にして


円座をつくり 道真公 をその座に迎えて


休んでいただいたという話からきている


実は 全く 同じ名前 と 由来の 綱敷天満宮 が

摂津須磨の浦 (神戸市東灘区) と

豊前国築城群高塚村 (福岡県築上町高塚) にもある



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沖の濱 の 南岸に 綱場天神の表記があります




博多の町は しばしば 兵火のため 焦土となっていたので 天満宮も何度か場所を変えたが

落ち着いたところが 「袖の湊」の博多本土 と 大水路 (博多中の道) を隔てた

対岸の 沖の濱地の南岸であった ( 鎌倉時代の博多古図 参照)

その後 袖の湊も やがて 陸地となり 今の 博多の地形になると

天満宮は 綱場通りと呼ばれる 往還沿いに 北向きに建てられたようだ

江戸の元禄の頃の大火で焼失したあとは 土居通り沿いに 西向きに建て直されたようで

再建当時の 境内地の広さは 五、六百坪もあって 土俵場があり

松の木や 梅の木や 多くの樹木が繁っていたといわれている

( 明治22年の博多地図 参照 )


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中央あたりに 綱場天神が 土居通り沿いにあります





昭和の戦災で 社殿も楼門も全焼し しばらく 官有地となっていたが

昭和25年 現在地に 百坪ほどの土地の 無償払下げを受けて

戦後の都市計画で出来た 新道沿いに 南向きに 神殿を 造営し

現在に至っている


天満宮の祭祀は 古来より

綱場町 と 下土居町とが共同で 今日まで奉仕されてきたようだ

去年の山笠の時に 訪れたが 「土居流」の 詰所 として 境内が使われていた

「下土居町」と言えば このブログの〈ルーツのタグ〉で紹介したように

我が家の先祖 「小堀家」があった町で 文献によれば

天満宮の四軒となりに「山笠細工人形店」の看板が出ていたようである

おそらく 先祖達が 子供だった頃 天満宮の 境内で 日が暮れるまで

真っ黒になるまで 汚れて 遊んでいたのだろう

目を閉じて 海馬を覗くと 子供達の唄う声が 聞こえてくる



通りゃんせ 通りゃんせ

ここは どこの細道じゃ

天神様の細道じゃ~




by nonkei7332 | 2015-03-26 12:02 | ルーツ | Comments(0)

by ヒサミツ