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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

カテゴリ:日記( 135 )



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トン族 の 少女




福山雅治 が 次に訪れた 所は

中国 貴州省 占里村(せんりむら) でした

少数民族『 トン族 』と呼ばれる 人たちが住む

山に囲まれ 鼓楼 と呼ばれる 村の聖地を中心に

700人ほどの 村民からなる 小さな村 です

ここも 独自の文字をもたない 「トン族大歌」という 歌で

村の歴史 や 文化を伝えてきた 人たちでした

幾重にも重なる 棚田 で もち米を作る人たち

古き 日本の 農村をコピーした様な 風景がそこにはありました

人々は 祖神を そして 山の神 地の神を 祭っていました


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村に入るには 川に架かる 「 風 雨 橋 」と呼ばれる

屋根付きの橋を渡らなければならないといいます

その姿を テレビの画面で 見た時

私の中で 幾つかの記憶が 繋がり

それは ひとつの確信に繋がっていったのでした

『 あの橋 と いっしょだ 』

私の記憶は かつて 見たことのある

あの橋を 思い出していました

その橋とは 宇佐神宮 の 寄藻川(よりもがわ)に架かる

「 呉 橋 」(くれはし)です

いつの時代に造られたのか 解らないとされ

ただ 呉の人が造ったと 伝えられる 謎の橋です


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宇佐神宮 呉橋



中国春秋時代 「呉越同舟」と言われる様に

仲の悪かった「呉」も「越」も 同じ風俗 と 文化をもつ

同じ 民族 だったのです

呉越 の 末裔は 海を渡り 倭人となりました

山に追われた人々は 奥へ奥へと 迫害を逃れ

少数民族 となって そこに 山里を築きました

そのひとつが 「トン族」だったのでした



そういえば 倭人もまた

独自の文字をもたない 人達 だったのです

日本における 文字の起源 といえば 万葉仮名 が最初です

やがて そこから 片仮名 平仮名 が生まれます

とすると 万葉以前の人達は 「トン族」と同じように

山の神を祀り 水の女神を祀り


神の使いである カラスに

その年の豊作を 託した 人々だったのでしょうか

そこには 祖神を伝承する 「歌」があったのかもしれません



番組では 300人の トン族の合唱隊 と

「トン族大歌」の代表曲である 「セミの歌」をバックにして

福山雅治 が 自分の歌 「明日へのマーチ」を歌いあげます

ひとつになった 歌声は やがて ひとつの 絆となって

山の木々 山の神々 と繋がり

私の魂の中で ひとつの 感動となっていったのでした



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by nonkei7332 | 2016-04-17 07:11 | 日記 | Comments(0)


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ヨルング族の踊り




3月25日 NHK の SONGS スペシャル

『 福山雅治 SONG LINE 歌い継ぐ者たち 』

という番組を見ました。

最初は 福山雅治 の 特別番組だと思っていましたので

そのうち 見てみようと思って 録画していたのです

昨日 思い出して 観てみました

予想とは違い 奥の深い ドキュメンタリー番組だったのです



人はなぜ歌うのか 人類にとって 歌うとは何なのか

福山雅治が 独自の文字を持たなかった 二つの民族を訪ね

人類における歌の起源に迫るという 壮大なテーマの番組でした



福山が訪ねた最初の訪問地は

オーストラリアの北西部 アーネムランド

先住民〈アボリジニ〉の住む《ヨルング族》でした

彼らは 今でも 狩猟生活を営みながら

歌い継がれた 神話や伝承を 文字ではなく

歌う事と踊る事で おそらく 何千年も 語り繋いできた人達で

私が最も 驚いたのが ヨルング族に伝わる 神話の歌と踊りです

古老のソングマンが語る 物語は こんな内容でした



『 虹蛇(ニジヘビ) の 物語 』


はるか昔 遠く旅をして 虹ヘビ が やってきました

虹ヘビ は 休憩をとるために ある 一本の木に近寄り

そこで 嵐を巻き起こし 雷をおこします すると そこから

水が湧き上がり 泉があらわれ 泉は大地を潤します

( 虹ヘビによってもたらされた水源を レインボーリバーといいます)

子供たちは 聖なる水で 水浴びをします

そこに 神の使いの鳥(キジ・カラス)が飛んできて 沢山の葉 を集めます

鳥たちが 住処(すみか) に戻る時 大地を 風が吹き抜けていきます



儀式(祭り) には 必ず 最初に この物語を 歌い 踊るといいます

踊りでは 二本の棒 を持った 虹ヘビ(二人の男)の後を 女たちが 続きます

木のそばに来ると 虹ヘビは 二本の棒で 木を叩き折ります

(虹ヘビは女神の様に思えます 二本の棒は 稲妻を表しているのでしょう)



私の驚きは この物語が

日本の古代神話 との共通点が多いということでした

一本の木とは 山 を想像させます

虹 という漢字はなぜ虫偏なのかの意味も よくわかります

日本の伝説でも 虹 は 蛇 の化身だといわれていましたし

その姿は 龍 そのものです 龍神は 日本古代神話では

罔象女(ミズハノメ)という 山の神です

すべての 水の起源 を取り仕切る 女神でした

子供達が 聖水で水浴びする姿は 禊(みそぎ)の儀式とダブります

神の使いのカラスが 葉(恵み)を集める などは

導きの神 八咫烏(やたがらす) 豊玉彦 の姿を連想してしまいます



番組では 福山雅治が 日本の魂の歌だと言って 彼らの中で

自分の歌「クスノキ」を 歌います

(詳しくは 去年の8月9日に「被爆クスノキ」という記事にしています)



言葉もわからない ヨルング族の少女が

目を閉じて その 歌 に 聞き入っていました

この歌 に秘められた 木の神 の魂を

人類すべての 平和への叫びの 願いを

その小さな体で 必死に 受け止めようとしているその姿に

私は まぎれもなく 感動していました


それを 可能にしたのは

文字でもなく 言葉でもなく

人類共通の言語である

歌 だったのです






by nonkei7332 | 2016-04-14 11:30 | 日記 | Comments(0)



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この 季節 は

たくさんの 『ありがとう』の言葉に包まれます

その 最たる 場所といえば 小学校の卒業式 かもしれません

今年も 私は その場所にいました

子供達は 両親や 先生達や 友達に 『ありがとう』の言葉を残して

学び舎を巣立って行きました

その 一人ひとりの 後ろ姿に 私が かけた言葉も やっぱり


「毎朝 元気をくれて 『ありがとう』」でした

日本語で もっとも 美しい言葉といわれる


『ありがとう』という言葉は

人として 生まれて 最初に 覚える言葉のひとつでもあります



『ありがとう』の 言葉の意味を 語源辞典にはこう書かれていました


《 ありがとうの語源は 形容詞「有り難し(ありがたし)」の連用形

「有り難く(ありがたく)」が ウ音便化して ありがとうになった

「有り難し」は「有る(ある)」ことが「難い(かたい)」という意味で

本来は「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味を表した

『枕草子』の「ありがたきもの」では「この世にあることが難しい」

という意味 つまり「過ごしにくい」といった意味でも用いられている

中世になり 仏の慈悲など貴重で得難いものを自分は得ている

というところから 宗教的な感謝の気持ちを言うようになり

近世以降 感謝の意味として 一般にもひろがった 》


おそらく 『有り難し』とは

原始においては 人知人力を 超越した 自然神に対しての

畏敬の念をこめた 祈りの 言葉だったのかも知れません

古代神 は 多くの恵みをもたらす 《山の神》でした

山の神とは 〈火の神〉でもあり〈水の神〉でもありました

〈火〉は 産鉄の神であり 〈水〉は 農地を潤す 水源の神 でした

そして 人々は この神が「荒ぶる神」だという事 も知っていました

〈神の火〉は ある時は 火を噴く山となって 全ての大地を消し去り

〈神の水〉は 山を崩す 山津波となって ある時は 全てを飲み込む

津波 となって 全てを流していったのでした

『有り難し』神の両刃の剣に 人々は 一喜一憂 したのでしょう

人は 荒ぶる神 の 鎮魂 するために 神を《祀り》(まつり)ます

《祭り》はこうして生まれました それは 吉兆を占う場所であり

〈火〉や〈水〉で 穢れを祓う 禊の場所でもありました



この国は 近年 《荒ぶる神の火》の恐怖を二度も体験しました

最初の 体験は 《 原爆 》でした 人類が初めて 体験した 惨事でした

人知人力を超越した 〈神の火〉である 《原子の火》でした

それは 決して 人が 踏み越えてはならぬ 〈神の火〉の 領域だったのです

そして 二度目の恐怖は 《 原発 》です

5年前 の 3月 封じ込めたはずの 〈神の火〉が メルトダウン した

あの 88時間の恐怖は 人類が初めて体験した 恐怖だったのでした

原子力が 《荒ぶる神の火》だと 知った私達が

今 すみやかに とりあえず やらなければならない事は

〈原爆〉も 〈原発〉 も『止める』という事です

そして その次にやらなければならない事とは

〈神の火〉への 鎮魂 の祈りなのです



井上陽水 が歌った 『 最後のニュース 』という歌があります

1989年につくられた 歌ですが その中で 彼は こう 歌っています



原子力 と 水 と 石油達の為に

私達は 何をしてあげられるの


今 あなたに Good Night

ただ あなたに Good Bye



彼が歌う「あなた」という 相手が「神」だとすれば

この歌は 鎮魂の歌 なのかも知れません











by nonkei7332 | 2016-03-20 11:43 | 日記 | Comments(0)

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エントランスの壁




『伊都国歴史博物館』です

本当は 去年 比叡山に行って以来 山岳信仰に興味があったので

今 開催中の

「国境(くにざかい)の山岳信仰ー背振山系の聖地・霊場を巡るー」

を見たかったのですが

この日は 女神の日ですので ぐっと我慢して

3階の 「王墓の部屋」で 館内ガイドさんの

三雲遺跡と平原遺跡 の説明を聞きました


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伊都国歴史博物館 のパンフレットより



博物館の説明によると

平原遺跡は 伊都国の王墓と考えられる1号墓を中心とした墳墓遺跡で

昭和40(1965)年に発見されました。発見は偶然によるもので、

土地の持主がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、

多数の銅鏡の破片が出土しました。

そこで 故 原田大六(はらだだいろく)氏が調査主任となって、

故 大神邦博(おおがみくにひろ)氏とともに発掘調査が行われました。

1号墓は14m×12mの四隅が丸い長方形で

その中央に木棺が埋葬されていました。

この墓は弥生時代終末期(約1800年前)に造られたものです。


副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの

玉類が多数発見されています。

銅鏡のなかには直径46.5cmの 内行花文鏡 が5枚ありますが、

これは日本最大の銅鏡で非常に貴重なものです。

また ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一で、

伊都国王の墓にふさわしい内容です。


この墓に葬られた人物は女王ではないかと考えられています。


その理由は、副葬品の中に武器がほとんどないこと、

ネックレスやブレスレットなどの装身具(アクセサリー)が多いこと、

中国で女性が身につける「耳とう」といわれるイヤリングが

副葬されているからです



孤高 の 発掘考古学者 で有名な 原田大六さん の著書によれば


『 この大女王を葬った木棺は、東南方の日向(ひなた)峠の方角に

正確に合わせ、股間をそちらに向けてあった。こうなると、

日向峠から昇る太陽の光芒は彼女の股間に射しこむことになる。

太陽祭祀を行った大女王が太陽と性的に結ばれている

この事実を解釈すれば、彼女こそが太陽の妻であり、

日本古典のあの大日靈貴(おおひるめのむち)であったことになる。』


大日靈貴(おおひるめのむち)とは 天照大神(アマテラス)のことです

(綾杉さんは方角が正確ではないのではとブログでおっしゃっていましが)


しかし 大胆な発想ですね

原田さんの他の著書によると 卑弥呼は 一人ではなく

「日の御子」で 太陽の妻として君臨する女王の位階名の事で

少なくとも3人の「日の御子」が いたとされています

最初の「日の御子」は 平原弥生古墳に埋葬された人物で

なんと あの 〈玉依姫〉神格化され 〈天照大神〉であるという説です

ところが 何故か〈魏志倭人伝〉の 卑弥呼の墓は 近畿説なんですね?

これが 発掘考古学的な発想なんでしょうか


今 勉強させてもらっている

神社考古学者の 故百島由一郎先生 の説では

〈卑弥呼〉 = 〈天照大神〉

〈神武天皇〉 = 〈卑弥呼の弟〉説 です


古代史を 発掘考古学 から 神社考古学 から いろんな側面から

繋ぎ合わせていくと 真実の伊都国 の姿が見えてくるのも 近いのでしょう


ツアーは 次の目的地 産宮(さんのみや)神社 です



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祭神は

・鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト) 山幸彦と豊玉姫の子

・奈留多姫命(ナルタヒメ)

・玉依姫命(タマヨリヒメ)

安曇系 神功皇后 ゆかりの安産祈願の神社です

謎 の 奈留多姫命 ウガヤフキアエズの妃であったという説もあります

千木 は 外削ぎ の 男神 ですが 鰹木は四本 女神 を表していました



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《空 sora そら》さん の 2/6 のブログより


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《空 sora そら》さん の 2/6 のブログより





志登神社 に 寄りました

焼失後 去年 総ヒノキ造り の立派な神社になりました

ご祭神は 豊玉姫命

案内板には

『 志登神社は延喜式神名帳(西暦905年醍醐天皇の時代)に記載せられた

式内社で筑前十九社の一社に列せられた由緒ある古社である

この事は延喜年間にこの地方に於ける最も有力な神社として

中央にも認められ 志摩郡の総社として郡民一体の崇敬を集めていた』


iPad の具合が悪かったので 写真は 神社を撮らせたら日本一の

《 空 sora そら 》さんの 先月の写真をお借りしました



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木賊


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櫻井神社 です

入り口の鳥居のそばに 立派な 《 木賊 (とくさ) 》が植えてありました

かつて ここには 古墳 があったそうです

本殿裏は かつては古墳の石室だった場所に 岩戸宮の扁額がありました

二見ヶ浦の夫婦岩の直線上にある神聖な場所だといいます

1610年の大雷雨の日に岩戸神窟の口が開き、

神霊が現われたと知った黒田長政の息子・忠之が、櫻井大神宮の隣に

櫻井神社を造営し 以後 歴代藩主が家宝を奉納するなど

黒田家の崇敬する社となったそうです

拝殿・本殿・楼門は 福岡県の重要文化財にも指定されています


神社そのものの歴史は古くもないのですが

もっと古い 山の神 産鉄の神 の 聖地 だったような気がします


祭神は

《與止日女命 (よどひめのみこと)》

肥前一ノ宮 河上神社の祭神と一緒です

豊姫・淀姫・世田姫 と呼ばれた 神功皇后の妹と言われた 水の女神です

《神直日神》とは 鴨玉依姫のことです

《大直日神》とは 大山咋神のことです

夫婦神 ですね

もう一神の 《八十禍津日神(やそまがつひのかみ)》

イザナギが黄泉の国から帰って 禊を行って 穢れを祓った時に生まれた神

瀬織津姫 と同神だという説もあります



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真新しい 伊勢神宮より 移設された 鳥居を上ると

《 桜井大神宮 》です

祭神は 天照皇大神 (伊勢内宮) と 豊受姫大神 (伊勢外宮)


神明造り三殿の桜井大神宮(創立寛永二年)は

与止姫大明神の御神託で建立され、伊勢皇大神宮の分神が祀られています


神社考古学の百島説によりますと

伊勢の外宮様こと 豊受姫 ( アメノウズメ・稲荷神・辛国息長大姫 ) は

スサノオ と 伊都国の女神 磐長姫 (神大市姫・罔象女) との間に

生まれたの 女神 だといわれています



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筑前二見ヶ浦 です

櫻井神社の宇良宮です 伊弉諾命と伊弉冉命をお祀りしています



もう 50年前になりますが

私の父が大好きだった この浜には 毎年のように

家族で 海水浴にきていました

当時は 鳥居もなく ましてや 素敵なカフェなど ありゃしません

西ノ浦 のバス停を降りて ひたすら 田舎のじゃり道を

スイカ畑 を抜けて この海岸に来たものでした

父は 岩場まで泳ぎ 潜っては 銛で 大きなベラ(魚)を突いていました

私達は 磯岩場で ビナという貝をいっぱい採ってきて

海水で茹でて 爪楊枝で 食べていましたね

その 光景の記憶は 身体に染み付いています

5年前に 伊勢神宮に行った帰りに 伊勢二見ヶ浦に寄ってみたのですが

その ちっぽけな岩 には 唖然とした事を覚えています


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ツアー も いよいよ ラストタイム です

二見ヶ浦を一望できる 素敵なカフェ

『 SURF SIDE CAFE 』


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女神達は

美味しい ショートケーキ を食べながら

楽しかった 一日の思い出に 浸っていました


プロデュース してくれた 綾杉さん スタッフさん

本当に ありがとうございました

冥土の土産 が また一つ 増えたのを 喜ぶ 白髪翁 でした










by nonkei7332 | 2016-03-05 18:25 | 日記 | Comments(0)


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桃の節供 の事を 『ひいなあそび』ともいいます

この日は 3月3日の 桃の節供の日です 雛祭りの原型は

終日 女性や子供たちが外に出て 川辺や 海辺で 手に手に 重箱を下げて

野あそびをする 一日だったようです

この日 集った 26名の女神達 が お隣の 伊都国に向けて

バスの中に鎮座しておられました

私には 女神を訪ねるというよりも この26名の女神達が

祖神 の眠る丘に 野あそびに行くという光景にみえました

そう考えると 私も含めた 4名の男達はというと

間違いなく 完璧な ミスキャスト です

しかし 同じ バスに乗ってしまったからには 腹をくくって

女神達の付き人として 迷惑かけないように 楽しむことにしました

そういえば 古代から 世の中は 女神や巫女が中心であって

男たちは その周りをうろちょろしていたわけですから

それもありということで 納得したのでした

私見によれば 伊都国(伊那国) は 海を隔てた


一支国(壱岐)・対馬国・狗邪韓国 とおなじ氏族だと思っています

大山祗(月読尊) は 山の神 であり 海の神でもあり 産鉄の神でもあります

その娘である 木花咲耶姫 と 磐長姫 こそが 伊都国の女神なのです

この日は 山の女神である この二神が里に降りてこられる日なのです



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バスは 最初の目的地である「三雲南小路遺跡」につきました

国内最大級の弥生王墓だといわれています



糸島市教育委員会の案内には

《 弥生時代中期 (約2000年前) の 伊都国王の墓で

墓の周囲に幅3~4m・深さ0.5~0.7mの溝で東西32m・南北31mの

方形区域を設けた国内最大級の弥生王墓です。

江戸時代(1822年)に発見された時には 甕棺の上には1.5mほどの

盛土があったとされ 墳丘があったと推定されます

墳墓の中央部には 2基の 長特大の合わせ甕棺(全長2.5m)があって

1号甕棺から35面 2号甕棺から22面 合わせて57面にのぼる前漢鏡・

青銅製武器・金銅製四葉座飾り金具・ガラス製壁・装身具など

豪華な副葬品が出土しました 》



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遺跡のそばにある 「細石神社」

祭神は 〈磐長姫〉と 〈木花咲耶姫〉 伊都国の女神が祀られています

由緒は 古いのでしょうが 豊臣秀吉によって 焼失されていました


古事記には この二人の姫について こう書かれています


《 降臨した ニニギ は 木花咲耶姫 という美しい娘に出会い 求婚します

彼女の父 大山祗 は喜んで 木花咲耶姫と 姉の磐長姫の二人を

妻として差し出しました しかしニニギは容姿の醜い磐長姫は送り返し

木花咲耶姫だけを妻としたのです 大山祗 は深く恥じ入り、

『 磐長姫を妻とされれば、天つ神の御子の命は岩のように永遠で

揺らがないものになり 木花咲耶姫を妻とされれば 木の花が

咲き栄えるように繁栄されますようにと祈願いたしましたのに このように

磐長姫だけをお返しになり 木花咲耶姫だけをお留めになりましたから

天つ神の御子の命は、木の花のように儚いものになってしまうでしょう』

と申し送った、そういうわけで 今に至るまで

天皇の寿命は長くはなくなってしまった 》



日本国歌 の一節の中にも そのような 歌詞があります

《さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 》

(小さな小石が やがて 岩となり その岩に苔が生えるまで)

大山祗の願った 思い があふれています

磐長姫 苔牟須売神(ニニギと木花咲耶姫の娘)

まるで 国歌の原景 がここにあるみたいです


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細石神社の参道から 見た 高祖山 です

まさしく この景観が 伊都国の原風景です


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バスで 高祖山の中腹まで登ると

伊都国の総鎮守 《高祖神社》に着きました

長い坂道の参道を登ると 社殿 です


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高祖神社 (県神社史より)

【祭神】

天津日高彦火々出見命・玉依比売命・息長足姫命・天照皇大御神・

豊受神

【由緒】

社説に曰く 当社創立の起源詳かならざるも怡土県鎮土の社として

上代より鎮座ありて怡土県主の崇敬厚かりし事明かなり。

怡土県主五十述手の勤王、一に当社尊崇に因るものと思惟せらる。

神功皇后三韓御征伐の御時香椎の宮より此処まで御幸ありて、

高祖の神に異国降伏の御惠を仰ぎ給ひけるに

果して冥助特に深くありければ皇后御帰りの後報賽の御祭として

新に御宮を造り乾に向つて御社を建て給ひき。

下つて奈良朝孝謙天皇の御代吉備真備に勅して怡土城を築き給ひしが、

当社を怡土城鎮護の神とし給へり。当社は城内中央の岡の上にあり。

三代実録に元慶元年(877年)九月二十五日癸亥授筑前国

正六位上高礒比咩神従五位下、とあり。


但し正六位を授けられし時代は不詳。

原田氏怡土城の旧跡を修理し高祖城を築き

此の地に威を振ふ事凡そ四百年(建久八年より天正十四年迄)、

その間当社を城中の鎮護の神として崇敬し

毎年正月元日・同十五日・二月初卯・三月三日・五月五日・七月七日

九月九日・十一月初卯 には原田氏祭主となり、

殊に九月二十六日の大祭には原田当主御輿に供奉して御幸をなせり。

原田時代の棟札、古文書等多数現存せり。

黒田氏筑前国主に封ぜらるるに至り、当社を 怡土郡の総社 と定め、

諸事郡中にて辨ぜり。

現今も四月二十六日祈年祭の節には郡内各大字より祭典費を寄進し、

大神楽 を奉納するを例とせり。


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本殿前には 県無形民俗文化財 『高祖神楽』の 神楽殿がありました


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平成元年 三月 高祖神楽殿 落成の時の写真です


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面神楽十二番の中の 七番神楽『磯羅(いそら)』


《 高祖神楽 》は

今から五百数十年前の応仁元年、戦国動乱の時代時の高祖城主、

原田筑前守種親 が明主である周防国山口城主、大内政弘の要請を受けて

京都守護の大任に当たった時、戦陣のつれづれに習得した

「京の能神楽」を郷土に伝えたものとされていますが、

この外にも異説があり、その始めは定かではありません。

永い歴史と伝統に受け継がれて来た高祖神楽は、江戸時代までは

旧怡土郡の神職の奉仕で舞われていました。

明治になってからは高祖神社の氏子の人達によって受け継がれています

(高祖神楽保存会の栞より)



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社殿向かって 左奥に ご神池 の《女池》がありました

澄んだ水に 木立が映り 木洩れ陽 が 霊魂 を揺らす 神域でした

磐長姫 ・神大市姫・罔象女(ミズハノメ)・山姥神

四つの名前を持つ 龍の顔をした 水の精 が 舞っていました

イザナギ・イザナミは この女神に

「山野に含まれる水=地下水は、天の安河原の水なので、

汝らがこれを治めて、外に溢れ出さないように、

植物の生育の助けとなるように管理せよ」と命じたといいます

伊都国の女神 の 神触れ を 一番感じた 場所でした



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平原遺跡に寄りました

昼からは 伊都国博物館 で 詳しい説明を聞けるみたいでした



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さてさて そろそろ 重箱をひろげる 野あそびの楽しい 時間になりました

洒落た カフェレストラン 『集い』です なんと 貸し切りです

まさしく 女神達の集う場所です

綾杉さん 素敵な演出 ありがとう


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「つどい御膳」です



女神達に囲まれて 白髪翁 も 楽しい時間を過ごせました






by nonkei7332 | 2016-03-05 07:23 | 日記 | Comments(2)

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『 平成28年第5週(2月1日〜2月7日)

感染症発生動向調査に基づく インフルエンザの1定点あたりの

患者報告数は「59.14人」となり、

警報の開始基準値である「30人」を超えました 』

福岡市が発表した

そういえば 子供達のマスク姿も多くなって 咳をしている子もいる

気候も 三寒四温の連続で

大人であっても体調の管理が難しい日が続いていて

用心しなければと思ってはいるものの

外出後の 手洗い うがい をしていたかといえば

はっきり言って NO である

17日朝 眼が覚めると ちょっと 様子が違う

近年 咳き込む事も無かったのに 咳が出る

それも 胸に響くかすかな痛みもある

熱を測ると 平熱だったが ちょっと寒気もする

用心するに越した事はないというから

ボランティアを他の方に お願いし さっそく 主治医の元に駆けつけた

毎月一度は 必ず 訪問するようになって 4年になるから

私の身体の事はよくご存知な先生である

改めて 薬手帳を見ても 風邪の薬を処方された 記録もない

『 先生 口惜しけれど やっちまったみたい 』

『 日頃の慢心が油断を招くと言いますからね 』と笑っておられたが

もし明日になって 熱が 38度をこえたら インフルエンザ感染の

疑いがあるので また来てください 検査しますから と言われて

一応 普通の風邪薬の処方をしていただいた

子供の頃 父がよく言っていた

『 風邪なんてものは 力一杯食べて 力一杯寝たら 治る 』

そう思ってみたものの なぜか 食欲も無く

お粥と白菜の漬物だけで済ませた

悪寒がする ので 熱を測ると 38.3度 。

週末に予定していた イベントに行けないどころではない

そのうちに 腰や背中が痛みだしてきた 満身創痍 だ

考えてみたら 独り住いの病気程 心細いものはない

かといって 救急車を呼ぶほどでもないから ひたすら我慢と決めた

翌朝 熱を測ると 39.1度 すぐに 病院のベットに転がり込んだ

やがて 看護婦さんが来られ 検査しますと言って

鼻の中に 検査棒を突っ込んで 15分ほどでわかりますよと言われた


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先生が来られて 『 インフルエンザA型 です 』と 言われ

注意する事をいくつか言われたが よく覚えていない

『 良くならないなら また来てください 水は飲んでますか 』

と聞かれたが 返事に躊躇していると

『 点滴をしますので それが終わったら帰られていいです 』といわれた

何年ぶりかの点滴だった

一滴一滴 管を通して 私の中に入ってくる ブドウ糖 をみていると

睡魔がやってきて 寝てしまったようだ 眼が覚めると 点滴も終わり

幾分 楽になったような気がした

帰りに 処方された薬が 『 タミフル カプセル 75 』

意識障害などの 副作用もあるといわれた 薬だが

今はこれに頼るしかないと思った


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タミフル



今日は 昼まで 寝ていた 喉の痛みと 咳は 少し残っているが

熱を測ると 平熱 だ タミフル の効用には 驚く

発症して 48時間以内の服用だと 重症化を防ぐ事ができるとあるから

早めの検査が良かったのだろうか

先生に電話で報告すると 『 2、3日 安静にしとくように 』といわれた

日本の諺に

『 禍は 口より出でて 病は 口より入る 』とある

エチケットマスク 忘れないようにしよう












by nonkei7332 | 2016-02-20 18:00 | 日記 | Comments(2)


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国会予算委員会



日本人は マツリゴトが好きな 人々が多いのでしょうか

テレビでは 朝から イクメン休暇を取った国会議員が 不倫して

『本当に 本当に 申し訳ありません』と頭を下げています

イクメン休暇を取ったのが悪かったのか

国会議員だったのが 悪かったのか

不倫したのが 悪かったのか

見てる ほうも 何と無く 訳が解らなくて 馬鹿らしくなってしまいます

こんなのが 毎日 続くのですから たまったものではありません


マツリゴトの起こりは 古来 祭りの日に

村中の人が集まるので 村の決め事を 神に神託をして決めたのが

始まりだったのです

今の日本の神様は 金神様 だから マツリゴト が決める事も

おおよそ 見当がついてしまいます

いつになったら 改宗してくれるのでしょうか ため息が出てきます



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パチンコ店



日本人は 賭け事が好きな人 多いみたいです

そもそも 賭け事とか 博打 とかは

祭りの中での 吉凶を占った 事が 始まりだったようです

祭りの日には 相撲が行われ 闘犬や闘牛や 綱引きまで


年に 二度だけ

勝った負けたで 村中 大騒ぎできたのが お祭りだったのです

パチンコ 宝くじ 競艇 競馬 毎日 大騒ぎしている人達

全く 困った人たちばかりです


日本人は お酒が好きな人が 多いみたいです

そもそも お酒とは 神様に供える 年に二度だけ 作った

最高級の お供え物だったようです

年に二度だけ 神様のお許しを得て ご相伴に預かるわけであって

いつでも飲めるものではなかったみたいなのです

毎日 晩酌で一杯なんて コンビニに行けば いつでも買えるなんて

昔では 考えられなかったのですけど



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日本人は 晴れ着で 着飾る事が 好きな人が 多いみたいです

そもそも ハレという 祭りの日にだけ 着られたのが 晴れ着だったのです

帯閉めて 着物を着る事が 自分でできない人が 多いのですが

着物を 着る事だけが ハレ着ではなく

普通の日とは違って 着飾ることが 晴れ着の本質ですから

やたらと 毎日 着飾っていたら

昔は おかしな奴だと思われていたのでしょう


こうやって考えてみると

日本人ほど 祭りが 大好きな 人々は いないようです

毎日が お祭りなんでしょうね

年に 二度だけ 神様をお迎へ していたのが 祭りだったのですが

毎日 毎日 来る日も来る日 神様を 呼んでいたのでは

最近では 神様も 疲れて ストレスを溜めておられるのではないかと

それだけが 心配です








by nonkei7332 | 2016-02-14 08:10 | 日記 | Comments(0)


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富士山




〈Google〉で この国を 見てみました

改めて この国が 山ばかりの国なんだと わかります

なんと 76% が山地だといいます

2000年前の この国はといえば

今ある平地は ほとんど 海だったみたいですので

平地など ほとんど無い 山ばかりの 国だったのでしょうか

海を渡ってきた 海人達は 平野ではなく 山に住み着いたのかもしれません

木々を刈っては 炭を作り 鉄を作りました

そして 長い年月をかけて 山を崩して 湿地を作り

そして 長い年月をかけて 塩抜きをして

やっとの思いで 稲を植える 田畑を作ったのでしょう

山から流れ来る 川 のほとりで 米を作り

山の恵みの海で 魚を捕り 貝を取って 生き抜いてきたのです

すべての 恵みは 山の恵みである事を

知っていた 古代の人々にとって

山こそが 命を繋ぐもの 即ち 神 だったのでしょう


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福岡市から見た 脊振山




私が この世に生まれて 最初に見た山 は

おそらく《 脊振山 》 でしょう

せふり せふり と言っていました

福岡市から見える山では 最も高い山(1054m) ですが

なぜか 近くて遠い 近付き難い 山でした

まだ 一度も 登った事の無い 山なのです

冬が近まり 山頂付近が白く冠雪すると

もうすぐ ここにも雪が降るなと思ったものでした

筑紫の古代史は というより この国の古代史は

この山並みを中心に 展開されたのでした

謎とされる 日本に最初に伝わった

山岳仏教の伝承地だったのかもしれません


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京都から見た 比叡山



私が 今まで登った山の 最後の山

それは 《 比叡山 》です

死ぬまでに 一度は行ってみたかった 山でした

去年 京都の最終日に 次男が車で 連れて行ってくれました

日本の仏教の礎となる 聖地であり

天台宗の開祖 《 最 澄 》が 延暦寺を建立した地でもあります

この地で日本古来の 山の神 と 仏教が 習合します

それまで 祭祀信仰 だった神々が この頃から

〈権現〉や〈菩薩〉〈明王〉や〈天〉といった名前で

人々の前に姿を現わすことになります

市杵島姫 は 弁財天 へと 天照大神 は 十一面観世音菩薩 へと

仏法を護る 守護神 へと 変わっていったのでした

比叡山は 若い修行僧の中から 後世名を成す 名僧を輩出しました

浄土宗の法然。浄土真宗の親鸞。臨済宗の栄西。

曹洞宗の道元。日蓮宗の日蓮。などです

日本の仏教はここから始まったと言っても過言ではありません


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延暦寺 塔中

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延暦寺 根本中堂 中庭




登山 には ほとんど 縁のない 私でしたが

それでも 登った事のある 数少ない 山の名は

宝満山。 四王寺山。 天拝山。 立花山。

阿蘇山。 久住山。 雲仙岳。 霧島山。

そして 富士山(五合目)。

どの山も 山の神 の 住む 霊山 でした








by nonkei7332 | 2016-01-29 19:30 | 日記 | Comments(0)

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昨日は 雪の日

なぜか ウキウキして

いつもは 閉めたきりの カーテンを開けて

雪の降る 様を 飽きることもなく 見ていました

みるみるうちに 真っ白になっていく 風景 を見ながら

心は いつになく 穏やかでした


私の情動は 脳の中の扁桃体を刺激して

海馬のチャンネル から

幾つかの 記憶を取り出してくれました

そう それは どこかで 見たことのある 風景でした



わたしの 10歳 の誕生日 (12月中旬)

その日は 朝から ボタン雪が降っていて

わたしは 窓枠に座って 一面 真っ白な その光景を 魅入っていました

空を見上げると 雪の色は 灰色をして ゆっくりと 落ちてきます

雪ってなんだろうね そんなことを 考えていました



わたしの 5歳頃 の元日の朝早く

一面の雪の中を 家族で 近くの 銭湯に行きました

丹前を着て 滑らないようにと 姉と手を繋いで歩いていました

『なんで 朝から お風呂屋さんに行くと』


そう 兄に聞くと

『お正月やけんたい』と 答えてくれました

(この頃 我が家は 元日の朝は銭湯に行くのが恒例でした)



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雪国の子供達



今朝は 少し 早めに 目が覚めました

外を見ると 雪はまだ残っていて 小雪が舞っています

ウキウキした 気持ちで 完全防寒 で 旗を持って 外へ出ました

子供たちの 楽しそうな笑顔が 目に浮かんできました

その異変に気が付いたのは 校門の近くに来た時でした

先生達の駐車場に 車がないのです

教頭先生が 近寄ってきて



『 おはようございます ニュースご覧なりませんでしたか

今日は 雪の為 休校なんです 』


『 えー そうだったんですか

雪だから はしゃいでいたのは 私だけでしたか 』


そう言って 二人で 大笑い したのでした

部屋に戻り 熱いココアを飲みながら

《 この国は やっぱり 何かを まちがえている 》

そんな事を 考えていました

なぜなら 子供達の 多くが いつもと違う 雪の日だから

学校に行って みんなと遊びたいと 思っている事を

私は 知っていたからです。







by nonkei7332 | 2016-01-25 14:20 | 日記 | Comments(0)


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一年のうちで 最も寒い 大寒の候です


七十二節気では

《 水沢腹堅 》(さわみずこおりつめる)

沢に厚い氷が張りつめる頃。

沢に流れる水さえも凍る厳冬。


福岡は 最低温度が −3度 最高でも 1度

北西の風が強く 雪が横から 飛んできます

この冬一番の 寒さですが

子供たちは 待ちかまえたように 外に飛び出してきました


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 淡雪の たまればかてに くだけつつ

  わが物思ひの しげきころかな

     (古今集 よみ人しらず)


【 私訳 】

淡雪は積もることなく 降っては崩れ 降っては崩れ

まるで 私の 積もることのない 淡い想いのようです


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by nonkei7332 | 2016-01-24 13:50 | 日記 | Comments(0)