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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

カテゴリ:古代史( 78 )


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法隆寺 百済観音像


百済から 多くの王子が 倭国にわたってきた

百済国最後の王である 義慈王の王子
「豊璋王」と「禅広王」を人質として倭国に滞在させた話は 史実として残っているが
そのほかにも 伝説や伝承として 百済王子の渡来話が 多くのこっている

崇神天皇の頃 岡山の吉備(きび)の里に
『 温 羅 』(うら)という 百済の王子が住んでいた
温羅は名のごとく 温和にして温厚な王であり 里人からは 吉備冠者(吉備火車)と呼ばれていた
この 温羅 を ヤマト朝廷は、凶暴で獰猛な悪鬼にしてしまう 『温羅伝説』という 話があって
あの おとぎ話 「桃太郎の鬼退治」の下敷きになる話なのだ



《 温羅伝説 》

むかし むかし
異国の鬼神が飛来して吉備の国にやってきた
百済の王子で 名を温羅(うら)といい 吉備冠者(きびかじゃ) とも呼ばれていた
目は豹のように輝き 髪は赤みを帯びた異様な姿であった
そのうえ温羅は火を吹いて山を焼き 岩をうがち
人間や猿を食い 美しい女を奪ったりする
そのような 温羅は 人々から大変恐れられていた
そこで 五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)というヤマト朝廷の将軍が
この温羅を退治することになる 五十狭芹彦命が「鬼ノ城」に向かって矢を放つと
温羅の放った矢と途中で食い合って落ち 勝負がつかない
住吉大明神のお告げに従い 一度に二本の矢をつがえて射たところ
一本の矢は途中で食い合ったが もう一本は温羅の左眼に命中した
温羅は大雷雨で洪水を起こし その流れに乗って逃げようとした
川の水は 温羅の傷から流れ出た血で赤く染まった
温羅が雉(きじ)となって山中に逃げるが 命(みこと)は 鷹 となってこれを追う
追い詰められた温羅は今度は鯉に姿を変え 川を下り始めたが
命はすばやく鵜になって鯉を追い ようやく温羅を捕まえた
絶体絶命 温羅はついに命に降伏し 自分の「吉備冠者」の名を奉(たてまつ)った
五十狭芹彦命は吉備津彦命になった
戦いに勝利した命は 温羅の首を串に刺してさらし首にした
ところが不思議なことに この首はいつまで経っても吠え続け
執念を燃やし続けてやまない
そこで命は家来の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に食わせたが
ドクロとなっても温羅の首は吠え続けるのだ 命は釜殿の地下八尺あまりも掘って
その中に埋めたが 13年間唸(うな)りやまなかった
ある夜のこと 命の夢になかに温羅が現れて言った
「阿曽郷にいる わが妻の阿曽女に命じて お釜の神饌(しんせん)を炊かしめよ
幸いあれば豊かに鳴り 禍があれば 荒々しく鳴ろう」と
命がその通りにすると 温羅の首はやっと吠えるのをやめたという


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吉備神社と桃太郎



百済からは 仏教をはじめさまざまな 文化や技術 を学んで 国づくりをした
吉備の豊かな砂鉄資源の開発も 渡来人とその技術に負うところが大きかったと思う
「火を吹いて山をうがつ温羅が片眼を射抜かれた」とされているのは
〈赤い顔〉や〈一つ目〉といった「たたら製鉄」に従事する「鉄の民」の姿である
各地に残る 鉄の民 と 下流の農民 との諍いが この地もあって
そこに 便乗して 吉備の国を我が物にしようとした ヤマト朝廷の調略というのが
真実の姿なのかもしれない
全国に残る 《鬼退治》は このパターン が多い
温羅の祟りを鬼といって 畏れ 神社に祀る 地元の 吉備彦神社 には 吉備津彦命(温羅)が祀られている
神社を建立して これを鎮める それでも だめなら 物語をつくり 後世に残す
私達が知っている「桃太郎」の話は こうやって 伝承されてきたのであろう

鬼の祟りを鎮めるために 多くの神社を建てて これを 鎮める
これこそ 伝統的な日本的なソリューションなのだ

とすると この国で
もっとも 鬼 として畏れられ もっとも 多く 神として 祀られた渡来人は 誰だったのか
それは ( 鉄の民 土師氏 )を 先祖とする『 菅 原 道 真 』だったといえば 考えすぎだろうか


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by nonkei7332 | 2014-10-29 14:14 | 古代史 | Comments(2)

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時は平安末期

容姿端麗で 将来を大いに嘱望された 若武者がいた

本名 「佐 藤 義 清 (よしきよ)」

藤原氏の家系を継いだのが17歳でした
兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となり
御所の北側を警護する 精鋭部隊「北面の武士」に選ばれ、
同い年の 平清盛 は 友人でもあります
北面生活では歌会が頻繁に催され そこで 義清の歌は高く評価されます
武士としても実力は一流で 疾走する馬上から的を射る
「流鏑馬(やぶさめ)」の達人でもありました
しかし 義清 22歳の若さで出家し 周囲を驚かせてしまいます
死が日常の戦国の世の中で 阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから
「 西 行 」と名乗り 現世の執着を捨てるべく「西方への道 」「死への道」を選んだのでした

【 近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」には 御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして 苦悩から死にそうになり 女院が情けをかけて一度だけ逢ったが「あこぎ」と言われて出家したとある この女院とは 白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった 待賢門院璋子です】


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NHK大河ドラマ「平清盛」で 藤木直人 扮する 佐藤義清(西行) と
檀れい 扮する 鳥羽天皇の中宮で崇徳天皇の母 待賢門院(たいけんもんいん)



私が 西行 に惹かれるのは
執着を すべて捨てたようで しかし どこか悶々としながらも
桜を詠み 月を詠みながら 徐々に 人生の極みに近づいていく姿
列についていけない者の悲哀を 決して周りには見せず かと言って
漂泊の人にもならず 生臭い世俗にも満ちた ふてぶてさも
兼ね備えた人でもあったことです
そして 生涯の 憶い女(ひと)を 死ぬまで 恋した人でもありました



《 好きな歌を四首 》


《 世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいふ 》


(訳) : 出家した人は悟りや救いを求めており 本当に世を捨てたとは言えない
出家しない人こそ自分を捨てているのだ



《 弓はりの 月にはづれて 見しかげの やさしかりしは いつか忘れむ 》


(訳) : 三日月の光をうけずに見た
恋しい人(待賢門院)の姿を生涯忘れることはありません


《 何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 》


(訳) : 伊勢神宮で詠んだ歌だとある

(註釈) : とうてい 超えることができない 絶対的な何かが そこにあって
ただ 「かたじけない」という 神に対して
最も人間らしい言葉で 首を垂れる その姿に
感動さえおぼえるのは 私だけでしょうか



《 願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月の頃 》


(訳) : 願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい

(註釈) : 西行が来世へ旅立ったのは 73歳の 2月16日
如月の望月とは 2月15日の釈迦の命日 であったので
釈迦の後ろを一日遅れてついて行ったと言われている


自分の 最後の 死の姿までも 演出しぬいてみせた 悟りの人でもありました


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by nonkei7332 | 2014-10-08 11:58 | 古代史 | Comments(0)


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織幡宮 より 鐘崎港を望む



私の大好きな
心 和ぎる(なぎる) 海沿いの神社に
連れて来ていただいた



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《 織 幡 神 社 》



そこは ちはやぶる 鐘の岬





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この海を そして この国を護る
海神達が 武内宿禰の周りに 勢ぞろいされていた
この宮には それ以上の解釈も注釈もいらない
〈祭神〉
竹内大臣 (武内宿禰)
志賀大神(底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神)
住吉大神 (表筒男、中筒男、底筒男の三柱)
天照大神 (宗像三女神の母神)
宗像大神 (宗像三女神)
香椎大神 (神功皇后)
八幡大神 (応神天皇)
壱岐真根子臣
(武内宿禰の身代わりとなって 自害した壱岐の豪族 娘の豊子はその後 武内宿禰の妻となる)



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楯崎神社



そして
津屋崎 の 《 楯 崎 神 社 》
出雲の神様と
神功皇后の物語が
今も 伝承されていた


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〈祭神〉
大己貴命
少彦名命
飛龍権現(神功皇后)



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〈宗像〉 〈津屋崎〉 〈志賀島〉
この国の神話はこの海岸線から はじまっているみたいだ
ここが 入り口なのだろう
何も知らなかった 古代の神のことを
私は 月の名前(LUNA)を持つ 不思議な一人の女性に出会い
多くを 教えていただいた
そして そこには 私一人ではなく
おなじように 繋がっていた 志賀の男達や早乙女達の笑い声があった
ようやく わたしも ここまで 辿り着いたみたいだ

隠された真実を この海は知っているのなら
わたしも この海に寄り添って 小さく 声を挙げよう
安曇の海人達の 生命の支えであった
優しく 揺り籠をゆらしてくれた
あの 《 月読の女神 》のことを





by nonkei7332 | 2014-09-26 13:08 | 古代史 | Comments(0)


秋の風に誘われるように


二年ぶりに 香椎宮を 歩いた


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御神木「綾杉」のそばの立て札に 歌が二首


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『 ちはやふる 香椎の宮の 綾杉は 神の みそぎに たてるなりけり 』


「新古今和歌集」詠み人知らず


『 秋立や 千早ぶる 世の杉ありて 』


(明治29年 夏目漱石が松山から熊本五高へ赴任途中 香椎宮に寄った時に 詠んだ歌)


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「ちはやふる」「千早ぶる」とは


「神」に続けるための枕詞である


千早(ちはや・襅)とは


日本において古来より神事の際に用いられた衣装で、


主に女性が着た(Wikipediaより)





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香椎かもめ大橋 から 博多湾をみる



帰り道 なぜか 宮沢賢治の詩を口ずさんでいた


みんな むかしから の きやうだい なのだから


けつして ひとりを いのつてはいけない


(青森挽歌)より







by nonkei7332 | 2014-09-20 21:16 | 古代史 | Comments(2)


大国主命と少彦名命については 前回触れてみましたが
もう一人 どうしても 触れなくてはならない 神様がいました

事代主命 (ことしろぬしのみこと)
別名 恵比寿様

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大国主命の子供であって 少彦名命が 常世の国に帰った後を託され
少彦名命の意志を継いだ「託宣の神」といわれた為に
少彦名命=事代主神 のイメージが強い神様です

後世 〈七福神信仰〉の中で「 エビス様 」といわれ 大国主命の「 ダイコク様 」と一緒に 多くの神社の祭神となっている

さて この エビス様 いろんな話があるが
えびす宮総本社の西宮神社で「十日えびす」を前にした正月五日
人形遣い達の祖神、百太夫神を祭る境内末社・
百太夫神社(ひゃくだゆう じんじゃ)で、百太夫神社祭という祭りがおこなわれる という

その由来については 西宮市の産所町に 史跡がありました

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〈 傀儡師故跡 〉 
                          
この附近は昔産所といわれた所で
1690年頃には40軒程の傀儡師(人形操を業とする者)が住んでいた。      

傀儡師は遠く平安末期に現れ 傀儡師、木偶まわし、人形まわしなどと呼ばれ
諸地方を巡廻興業していたが 室町時代にはいるとその一部がこの産所の地に住みつき西宮神社の雑役奉仕のかたわら 神社のお札を持って諸国を巡り、お得意の人形を踊らせながらご神徳をひろめた。        
1590年頃にはその人形芸が「えびすかき」又は「えびすまわし」といわれて全国的に知られるようになりたびたび京都の宮廷で天覧を受けるまでになった。
さらにその後発展して淡路の人形屋や文楽人形浄瑠璃芝居へと成長していった。  
しかし1850年頃から彼らはおいおいこの地からなぜか姿を消してしまった
おそらくは世相の変遷や好みの変化によるものと思われる。      
傀儡師らは永らくこの産所の地に住み祖神を信ずる百大夫を崇拝して神社にまつり
守護神としたがその社は産所の地が1840年頃に衰微するに至った時すぐ近くの
西宮神社の境内に移されて現存している。        

                       昭和63年3月31日

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傀儡子(人形遣い達)の祖神 百太夫については
平安時代の文人 大江匡房の『 傀儡子記 』には

《 男は馬に乗り弓を持ち、狩猟で生計を立てる。長剣を持って跳躍し、短剣をもてあそぶ類の者たちである・・・石を魔術で金銭に変じ、草木を鳥獣に変え、よく人目を惑わす》

面白いのは 〈石を魔術で金銭に変える〉ということだが これは 鉄の鋳造技術を持った 鉄の民 であったということであり そして 〈草木を鳥獣に変えよく人目を惑わす〉とは からくり人形 を使って 人びとを驚かせたということだろう
また

《 夜は百神を祀りて 鼓を打ち、舞い、喧嘩し、もって福助を祈る》

百神とは 百太夫のことであり その舞は 傀儡子舞( 細男舞)と呼ばれていることから
傀儡子が祀った神こそ 阿曇磯良 (あづみいそら) にまちがいないようです
傀儡子の魂の在処は、志賀島のようです

少彦名命(海神)の託宣した 事代主命(エビス)を 全国に拡めた 傀儡子(クグツ)
その 傀儡子 が祀る 守護神(祖神)は 安曇磯良(海神) だった
いにしえの魂が繋がったみたいですね (^_^)

次回は からくり人形 について





by nonkei7332 | 2014-09-11 18:55 | 古代史 | Comments(0)


神話には たくさんの 神がいて

それにまつわる 多くの話がある

記紀のなかにも 神社の伝承にも…

まだまだ ビギナーの私ですが

神話を追いかける 日々は楽しいものです (^O^)


その中で 最近 私の前に しきりに 行ったり来たりする

神様がいます その方の名前が


少彦名命(すくなひこなのみこと)


なんと あの 『一寸法師』のモデルになった 小さな 神様なんです


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少彦名命 が 活躍する場所は 「出雲」

相方はなんとあの 「大国主命」(おおくにぬしのみこと)


父親は 「 高産巣日神 」(たかみむすびのみこと)

アマテラスとともに 天孫族の長であり

いわば 日本神話のレジェンド

あの 高良大社の主であった 高木神 のことである

その御曹子だから 天孫族のエリートなのである

(古事記では 神産巣日神の子供になっている)


どんな お話かというと

大国主命が出雲の御大(ミホ)の岬にいるとき、

波頭を伝わって天の羅摩船(ガガイモの殻でできた船)に乗り

鵝(ヒムシ=蛾)の皮を着て現れた。

不思議に思った 大国主命 が家来の神に尋ねたが 誰もその正体を知らなかった。

そのときそばにいた蟇蛙(ガマガエル)が

「クエビコ(山田のかかしのこと)なら知っているでしょう」

というのでクエビコに聞くと、

「 高産巣日神 の 御子で 少彦名神 です」と答えた。

そこで大国主命が 高産巣日神 に伝えると、神は

「これは私の掌の股からこぼれた子である。

これからは兄弟の契りを結び、国を造り固めるがよい」 と二神に申し渡した。

こうして少彦名神は、大国主命とコンビを組んで全国を巡り歩き、国造りを行い、

その任務を果たしたのちに再び 常世の国 に帰っていったという話


かんたんにいうと

天孫族の 小さな 少彦名命 が 常世 の国から 出雲にきて

出雲族の 大きな 大国主命 と一緒に 国づくりをする

少彦名 は 農業技術 や 医薬(薬や酒や温泉)を伝えたとあります

異界から訪れ 人々に幸いをもたらして そして 帰っていく 神 といわれる

来訪神 のひとりでした


常世の国って どこなんだという疑問 ?

少彦名命 は 海からやって来た 海神なので

わかりやすく 海の底の 龍宮城 でいいのでしょうか?

海神といえば わたつみの神 志賀島の安曇族ですね

日本書紀では わたつみの神 を 少童命 と書かれています

この 少童命 と書いてわたつみと読ませていますが

この 少童命 と 少彦名命 どう見ても 同じにみえますね

ということは 少彦名命 は 安曇族 だったのでしょうか?

いまひとり 天孫族で 来訪神の先輩といえば

素戔嗚尊(スサノオ)もそうですね 祇園神社の神様です


少彦名命 を 祖神として 祀っている一族といえば 秦氏 です

全国にある 秦氏 に関わる 多くの神社の祭神には

大国主命=大己貴命(おほなむち)と少彦名命 のセットが多いですね

福津市の 楯崎(たてざき)神社 をはじめ 津屋崎 や 遠賀から 飯塚にかけて

まるで ここが 出雲であるかのように 数多く セットで祭祀されています

秦氏発祥のこの地域は「鉄の民」の伝承も多いところですね


話を 少彦名命に戻しますが

少彦名命が 高産巣日神 の手の間から産まれたので 手間天神 といいますが

この 手間天神が 天満天神となり 天満宮と呼ばれるようになったという話があります

天満宮の元祭神は 少彦名命 であったという話なんですが

その後 少彦名命 と 菅公 の すり替えが行われていったという話も面白いですね



まとめると

① 少彦名命は 安曇族だった

② 北九州の 玄界灘沿岸から 遠賀川沿岸にかけてが 出雲だった

③ 天満宮はもとは 少彦名命がまつられていて いつのまにか 菅公にすり替わっていった


今日のところは 妄想は ここまでとします

切りが無いですからね




何も知らなかった時から比べると いろんな事が解りました

古代史は 永遠です!








by nonkei7332 | 2014-08-25 13:36 | 古代史 | Comments(0)

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すべてがここに
導かれていた
この島に
この海に
この神に



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《 ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも 我は忘れじ 志賀の皇神(すめがみ)》
万葉集(巻7・1230)

訳 : 航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、
わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を忘れない



太古の記憶の淵を
海馬は駆けめぐる
静けさと木洩れ陽の中で
歌姫が詠う 魂の讃歌も
海辺を笑みをうかべてはしゃぐ
穢れなき 八乙女らの舞も
私は 知っていた
初めてではなかったの?
どこで 知っていたの?
と誰かが聞いた
私は答えた
そう それは 私が生まれてくる前のこと
母の海に私が漂っていた頃に
私が見た 光景だったんだ と



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詩人 三好達治は「郷愁」という詩に
こう書いた

《 海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。》

漢字の「海」の中に 「母」はいる
フランス語の 「母」は mere(メール)「海」は mer(メール)
フランスでは 「母」の中に 「海」はある


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この島で
この海で
すべての儀式は終わりを告げた
疲れきった 過去の戦神に訣れを告げよ
海人よ 風を読め
そして 追い風に帆を上げよ



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by nonkei7332 | 2014-05-30 12:41 | 古代史 | Comments(0)

筑紫舞再興三十周年記念
国宝大神社展
「 宮地嶽 黄金伝説 」

アクロス福岡にて 開催されたイベントに参加させて頂いた。

講演は 九州国立博物館の展示課長の 赤司善彦氏の
『 よみがえった宮地嶽古墳黄金の太刀 』
そして
古代史研究家の 古田武彦氏による
『筑紫舞と九州王朝』
そして 最後に 宮地嶽神社の皆様による
筑紫舞 『笹の露』「神無月の舞』が 披露された


まぼろしの秘舞 『 筑紫舞 』

シルクロードの文化は韓半島を経て北部九州にも伝えられました。
彫刻や工芸、そして音楽も伝えられ、幾多の舞も伝えられたと思われます。
現存する楽器や音調等、韓国にて伝承される音楽と我が国の雅楽等は
非常に 酷似しています
海を渡って伝えられた 楽 や 舞 は、時代と共に日本独自に発展していきます。
海人族、安曇一族の安曇磯良は芸能の名手とされ、細能を舞ったといわれてますが、
細能は田楽舞に変遷、後の猿楽となり、能楽へと発展していきます。
そして 筑紫地方に根ずいた舞、それを 筑紫舞 と申します。
続日本記 巻十(天平三年731年)の冒頭に筑紫舞が出てきますが、
筑紫地方で舞われていたので、九州王朝の宮廷舞とも言われています。
今日では消えかけている幻の筑紫舞、宮地嶽神社で復興、伝承しています。
昭和十一年にこの舞が当社奥の宮巨石古墳で舞われていたとの史実があり
その様な所から昭和五十七年、唯一無二の伝承者 西山村光寿斎が 当時の
宮司、故浄見 学に伝授、西山村光寿(現鵬扇流宗家) 筑紫(現鵬扇流家元代行)
両氏の指導により約三十曲が今日まで伝承されています。
筑紫舞の所作には跳躍や回転等、独自な振りがあり、
ルソン足やナバエ、ナンバと称される舞振り等各所に出てまいります。
王朝に伝わる “秘舞” や神に仕える者が舞う “神舞(かんめえ)”
正に幻の秘と言われる珍しい舞です
当宮地嶽神社では毎年十月二十二日 御遷座記念大祭にて 奉納されますが
舞の復興伝承以来 三十年が経過しました。
この 三十年を記念し 筑紫舞の会を開催させていただくものです。

宮地嶽神社


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荘厳な趣をそなえた 九州王朝に伝わる 秘舞の前で
私は 時間と空間を超えて 安曇磯良の世界を堪能する事ができた
二千年もの間 歴史の裏世界の中を ひたすら伝承されてこられた多くの
伝承者達《筑紫傀儡子(ちくしくぐつし)》の悲壮なまでの想いは一つであった
「おやかたさま の為に」

宮地嶽古墳に 眠っていた 3mにもおよぶ 国宝 「金銅装頭椎大刀」
(こんごうそうかぶつちたち)いったい 誰が こんなにも大きな太刀を
何のために作ったのか そして それが納められた この古墳に眠る
真実の被葬者とは・・・
古代九州王朝の真実が やがて 明かされる日も近いみたいだ。

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by nonkei7332 | 2014-03-05 05:43 | 古代史 | Comments(0)