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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

カテゴリ:古代史( 81 )



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鏡山山頂 の佐用姫像




松浦佐用姫(まつらさよひめ)は、
現在の 唐津市厳木町 にいたとされる 豪族の娘で単に
佐用姫(さよひめ)と呼ばれていました
『竹取物語』『羽衣物語』と並んで 日本の三大悲恋 と呼ばれる
『佐用姫伝説』の話があります

《 佐用姫 伝説 》

宣化天皇二年(537年)朝廷の命を受け、
隣国の新羅に侵略されていた 朝鮮半島 の任那、百済を救援するために
兵を率いて唐津へとやってきた
大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は、
出陣のための軍船の建造や 準備の為にしばらくここ 唐津に留まり、
その際、篠原長者の館に滞在することにしました。
篠原長者には、佐用姫というとて も美しい娘がおり、
佐用姫が挟手彦の身の回りの世話をするうち、
二人はお互い惹か れ合って恋仲となり
やがては夫婦の契りを結びました。
やがて軍船は出来上がり、いよいよ船出の日となりました。
別れのとき、挟手彦は 佐用姫に
「これを私と思って待っていて欲しい」と言って、
銅の鏡を手渡しました。
そして、狭手彦の乗った船は松浦の港を出港。
佐用姫は玄界灘を見渡す山に登り
遠ざかり行く狭手彦の船に領巾(ひれ)を振りつづけました。
船が遠ざかるにつれ、狭手彦を慕うあまり 船を追って
山を駆け下りた 佐用姫は、栗川 を一気に飛び渡り、
川岸の岩に飛び移りました。
しかしその時、狭手彦からもらった大事な銅の鏡の緒が切 れ、
鏡は川に落ち川底深く沈んでしまいました。
しかし佐用姫は、遠ざかる船をさらに追い、
途中、川で濡れた衣を乾かし、呼子の浦まで追いかけ、
最後に加部島の天童山に登って船の影を探 します。
しかし海原にはすでにその姿は見えず、
佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣き明かし、
とうとう石になってしまいました。
〈 肥前風土記 〉より


〈世阿弥〉も 『松浦佐用姫』という 演目で物語を残しています
史実にもとずいた話なので 「羽衣」「竹取」のような 隠された話は見えません
だから 今日は 能の話はしません

大伴旅人 と 山上憶良 が 万葉集の中で 歌を残しています

《 海原の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用姫 》
(大伴旅人 万葉集 5-874)  
  
《 遠つびと 松浦佐用姫 夫恋に 領巾振りしより 負へる山の名 》
(山上憶良 万葉集 5-871) 

旅人が この地を訪ねた訳は 祖先の 大伴狭手彦を 追想することによって
大伴氏に流れる DNA を確認するためだったような 気がします



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大伴旅人(菊池容斎・画)






大伴氏 の祖は
高皇産霊神 の子 天忍日命(あめのおしひのみこと)だといわれています
〈記紀〉では 天忍日命 は
天孫降臨の場面に登場し 瓊瓊杵尊(ニニギ)の先導をしたとあり
また 神武東征では 天忍日命(アメノオシヒ)の曾孫 大道臣命(ミチノオミ)が 随伴したとあります
雄略天皇の頃には 大伴室屋が大連を賜わり、
その孫 「大伴 金村 」の頃 自ら武烈天皇の後継に 継体天皇を擁立するなど 絶頂期を迎えます
田川郡糸田町に 「金村神社」があって 『豊前史』には
「 仁賢天皇の御世より 欽明天皇の 御代まで 六御代に仕奉り 」
とあることから 代々 天皇のそばで 権勢をふるっていたのでしょう
おそらく 大伴氏の根拠地は 一般に言われている 摂津 ではなく
豊前(京都郡・田川郡あたり) だったのだろうと思っています
継体21年(527年)に あの 「 磐井の乱 」が起こります
継体天皇 大伴金村は 物部麁鹿火 と共に 磐井を破ります
その後 〈紀〉には 宣化天皇が
「筑紫の那津口に宮家を脩造させよ 筑紫 肥国 豊国 の屯倉もまた 那津口に運ばせよ」
という内容の 詔勅を出したとあります
〈紀〉には 欽明元年(540年) 金村は 「住吉の宅」に疾(やまい)と称して引きこもる ともあります
このことから 大伴の根拠地が 豊前から 那の津(博多) に移っているのがわかります
摂津の住吉ではなく 博多の住吉だったのですね
大伴金村には ふたりの子がいました
兄の「大伴 磐」(いわい) と 弟の「大伴 狭手彦 」です
「狭手彦」は 佐用姫と別れて 任那復興のために 海を渡ります
兄の「磐」は 筑紫 岩屋城にて国政をとったと 紀に書かれています
岩屋城とは あの太宰府政庁の裏手にある 高橋紹運(たかはしじょううん)
が 島津軍 と戦った あの山城です
「岩屋城」の名前は 「磐の城」が訛ったようです


これからは 妄想です
大伴氏 の歴史 は筑紫の歴史だったんですね
旅人の DNA は この 筑紫の地には あちこちに 転がっていることが解りました
朝廷から 外され 同志であった 長屋王も大和で殺され
すでに 大和に戻しても 影響が無いと 判断した朝廷は
再び 旅人を 都に呼び戻します
旅人は 果たして 戻りたかったのでしょうか !?
遠い祖先の地の 筑紫で 妻はなくしましたが ここには 友もできたし
想ってくれる人もいたし 出来れば このままここに住みたかったという
旅人のため息が聞こえてくるようです
私と ほぼ同じ年齢ですから 解るんです
できるなら 旅人の旅は 筑紫で 終らしてあげたかった
それでも 都に戻ったのは
家持の将来のことだったのかもしれませんね

もうひとり 都に 戻らなかったひとがいます
菅原道真公 です じつは 菅公の母は 大伴氏(伴氏)だったのですね
菅公には 輝かしい 筑紫 の 真実の歴史も
大伴氏の歴史も わかっていたのでしょう
だからこそ 筑紫の里に眠ることに決めたのでしょう



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今夜は 天満宮の 『鬼すべ』 です
その年の災難消除や開運招福を願い、
境内東神苑にある鬼すべ堂で行われる勇壮な火祭りです。
寛和2年(986)
道真公の曾孫にあたる 菅原輔正(すがわら すけまさ)
によって始められたと伝えられています
『鷽替え神事』も今日です
「かえましょ かえましょ」の 巫女さんの掛け声が聞こえると
近くにいる人と 持っていた「木うそ」を交換します

巫女さんの声が 菅公の声のように聞こえてきます

どなたか 私の持っている 「木うそ」を変えてくれませんか

『 真実の 筑紫の里 の歴史に 』


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木うそ



   


by nonkei7332 | 2015-01-07 12:27 | 古代史 | Comments(0)

名島神社 本殿
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神功皇后との 繋がり 多き 名島神社 の沖に

かつて 《 妙 見 島 》と呼ばれた 島があった



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名島神社 より 妙見島を見る



この島は 干潮になれば 200m程の距離を 歩いて 渡れた
島の規模は 東西約100m 南北約50m 標高10数mで
ふたこぶの小さな 峰がある
写真には 鳥居があるのを 確認できます
かつては この島には 妙見を祀った神社があって
那の国の宮殿といわれた 名島の 北方の守り神として
その役目を果たしていたのであろうか



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大正時代の妙見島




『 筑前国続風土記附録 』には
【 妙見島は 神功皇后の三韓より 御帰陣の時に 船具を納めし所也。
故に今も 波濤 列しき時は 鉾 及び 矢の根 など 砂中よりでる 】
という記述がなされている



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当時の航空図



天正十五年(1587)秀吉の九州征伐の後
筑前太守に毛利の 小早川隆景(こばやかわたかかげ)が任ぜられた
隆景は それまでの筑前支配の拠点・立花山城へは入らず 名島城を改築して入った
ともかく 名島 が 筑前の政治の中心となったのである
秀吉も淀君を伴って 名島城に滞在したという 記録がある
安土桃山時代 から 江戸時代の始めに 活躍した 博多の豪商 神屋宗湛
が記した『宗湛日記』と呼ばれる 自身が出席した 茶会の記録文がある
この日記によると 天正16年(1588)2月25日に始まった
小早川隆景の名島城普請の見舞いに
翌月6日 日本酒(練り酒)と肴を持って参上し
この島と名島の間の浜辺で酒宴を 開いた
また 同月27日には 隆景主催の茶会がこの島で開催され
質素な 茶席で茶を点てた様子や隆景が上機嫌だったことが 記されているという



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『軍師 官兵衛』
鶴見辰吾 扮する
小早川隆景




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妙見島跡に豊臣秀吉が使ったと言われる井戸が今も残ってる



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名島海岸から 妙見島跡を望む
白いマンションの裏手が妙見島跡



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百年公園側から 妙見島跡を望む


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名島海岸 の 夕日




神功皇后の三韓征伐の時も

豊臣秀吉の朝鮮出兵の時も

この島の 北辰妙見の神は

この国の行く末を じっと見守って くれていたのだろう












by nonkei7332 | 2014-11-09 05:42 | 古代史 | Comments(0)

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北斗七星と北極星




周防国(山口)の守護大名 大内氏の先祖は、
百済国 第26代聖明王の第3王子・琳聖太子(りんしょうたいし)と言い伝えられている
15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、
琳聖王子は 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。
聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという
その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は大内介と名乗り、
以降歴代の当主もこれを世襲した
鎌倉 室町にかけて 西国一の戦国大名に駆け上がった 大内家は
31代 大 内 義 隆 の時代に絶頂期を迎え 京都に劣らぬ 絢爛たる大内文化が花開き
山口が「西の京」と呼ばれるまでになった
しかし 琳聖太子という人物名が
当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く
琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した 大内家の自作自演との説もあり
真偽は謎である
ただ 多くの戦国大名が 「源平藤橘」やその他の中央の貴族の嫡流を名乗ったなかで
唯一 百済の末裔を名乗った 大内氏の狙いは なんだったのか 興味深い話でもある

『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には 琳聖王子の 『降星伝説』が残っている



《 降 星 伝 説 》
 
 595年推古天皇3年(17年説もあり)、9月18日、
周防国鷲頭庄青柳浦(わしづのしょう・あおやぎのうら)にある
松の大木に突如星がおり、七日七晩輝きました。
里人は不審に思い、巫女に星の精を呼び出させたところ、
「我は北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)である。
これから3年後、百済の国の琳聖太子が、
聖徳太子に合うために来日されるので、お守りするためにやってきたのだ」
と語ったといいます。
 星の予言通り、推古5年、琳聖太子は来日し、聖徳太子に会われました。
この不思議な星の話を聞いた琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、
北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、
日本で初めての星祭りをおこなったとされています。
そして、星が松に下った霊地として、青柳浦は
下松と呼ばれるようになったと伝えられています。

(下松の地名の起こりについては、百済の国への風待ちの港だったことから、「百済待」あるいは「百済津」と呼ばれていたものが訛ってくだまつとなり、下松の字を充てたという説がある)
「下松市史」より引用


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大内家の氏神 氷上山興隆寺・北辰妙見社



古代中国で起こった 北辰妙見信仰が伝わったのが 推古天皇の頃といわれているが
この伝説との関係については わからない
ただ 明日香の高松塚古墳 (被葬者は百済王族説もある) の天井と北壁の壁画には
北斗七星と玄武像が描かれていることから
百済を通して 北辰妙見信仰が伝わったという説はあながち 嘘でもないようである
日本の三代妙見のひとつである 熊本八代の 妙見宮 では 社記などによると
中国渡来説の他に 妙見神は 百済国聖明王の第三皇子 琳聖太子 であるとの
百済渡来説が伝承されているのも興味深い話である


綾杉さんの『ひもろぎ逍遥』によると
百済国のあった 地域は もともと 帯方郡 と呼ばれていて
帯方とは 天の川のことであり 真鍋大覚の記述によれば
【 帯方とは銀河の傾きを見量りて、自らの空間的時間的位置をおさえる
特技ある民族の総称でもありました。】
と述べられています



《 星の国 百済 》《 百済王子の伝説 》
そして それを 出自とした 《 戦国大名 大内家 》
興味は ますます 拡がっていく



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by nonkei7332 | 2014-10-31 08:35 | 古代史 | Comments(0)

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法隆寺 百済観音像


百済から 多くの王子が 倭国にわたってきた

百済国最後の王である 義慈王の王子
「豊璋王」と「禅広王」を人質として倭国に滞在させた話は 史実として残っているが
そのほかにも 伝説や伝承として 百済王子の渡来話が 多くのこっている

崇神天皇の頃 岡山の吉備(きび)の里に
『 温 羅 』(うら)という 百済の王子が住んでいた
温羅は名のごとく 温和にして温厚な王であり 里人からは 吉備冠者(吉備火車)と呼ばれていた
この 温羅 を ヤマト朝廷は、凶暴で獰猛な悪鬼にしてしまう 『温羅伝説』という 話があって
あの おとぎ話 「桃太郎の鬼退治」の下敷きになる話なのだ



《 温羅伝説 》

むかし むかし
異国の鬼神が飛来して吉備の国にやってきた
百済の王子で 名を温羅(うら)といい 吉備冠者(きびかじゃ) とも呼ばれていた
目は豹のように輝き 髪は赤みを帯びた異様な姿であった
そのうえ温羅は火を吹いて山を焼き 岩をうがち
人間や猿を食い 美しい女を奪ったりする
そのような 温羅は 人々から大変恐れられていた
そこで 五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)というヤマト朝廷の将軍が
この温羅を退治することになる 五十狭芹彦命が「鬼ノ城」に向かって矢を放つと
温羅の放った矢と途中で食い合って落ち 勝負がつかない
住吉大明神のお告げに従い 一度に二本の矢をつがえて射たところ
一本の矢は途中で食い合ったが もう一本は温羅の左眼に命中した
温羅は大雷雨で洪水を起こし その流れに乗って逃げようとした
川の水は 温羅の傷から流れ出た血で赤く染まった
温羅が雉(きじ)となって山中に逃げるが 命(みこと)は 鷹 となってこれを追う
追い詰められた温羅は今度は鯉に姿を変え 川を下り始めたが
命はすばやく鵜になって鯉を追い ようやく温羅を捕まえた
絶体絶命 温羅はついに命に降伏し 自分の「吉備冠者」の名を奉(たてまつ)った
五十狭芹彦命は吉備津彦命になった
戦いに勝利した命は 温羅の首を串に刺してさらし首にした
ところが不思議なことに この首はいつまで経っても吠え続け
執念を燃やし続けてやまない
そこで命は家来の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に食わせたが
ドクロとなっても温羅の首は吠え続けるのだ 命は釜殿の地下八尺あまりも掘って
その中に埋めたが 13年間唸(うな)りやまなかった
ある夜のこと 命の夢になかに温羅が現れて言った
「阿曽郷にいる わが妻の阿曽女に命じて お釜の神饌(しんせん)を炊かしめよ
幸いあれば豊かに鳴り 禍があれば 荒々しく鳴ろう」と
命がその通りにすると 温羅の首はやっと吠えるのをやめたという


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吉備神社と桃太郎



百済からは 仏教をはじめさまざまな 文化や技術 を学んで 国づくりをした
吉備の豊かな砂鉄資源の開発も 渡来人とその技術に負うところが大きかったと思う
「火を吹いて山をうがつ温羅が片眼を射抜かれた」とされているのは
〈赤い顔〉や〈一つ目〉といった「たたら製鉄」に従事する「鉄の民」の姿である
各地に残る 鉄の民 と 下流の農民 との諍いが この地もあって
そこに 便乗して 吉備の国を我が物にしようとした ヤマト朝廷の調略というのが
真実の姿なのかもしれない
全国に残る 《鬼退治》は このパターン が多い
温羅の祟りを鬼といって 畏れ 神社に祀る 地元の 吉備彦神社 には 吉備津彦命(温羅)が祀られている
神社を建立して これを鎮める それでも だめなら 物語をつくり 後世に残す
私達が知っている「桃太郎」の話は こうやって 伝承されてきたのであろう

鬼の祟りを鎮めるために 多くの神社を建てて これを 鎮める
これこそ 伝統的な日本的なソリューションなのだ

とすると この国で
もっとも 鬼 として畏れられ もっとも 多く 神として 祀られた渡来人は 誰だったのか
それは ( 鉄の民 土師氏 )を 先祖とする『 菅 原 道 真 』だったといえば 考えすぎだろうか


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by nonkei7332 | 2014-10-29 14:14 | 古代史 | Comments(3)

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時は平安末期

容姿端麗で 将来を大いに嘱望された 若武者がいた

本名 「佐 藤 義 清 (よしきよ)」

藤原氏の家系を継いだのが17歳でした
兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となり
御所の北側を警護する 精鋭部隊「北面の武士」に選ばれ、
同い年の 平清盛 は 友人でもあります
北面生活では歌会が頻繁に催され そこで 義清の歌は高く評価されます
武士としても実力は一流で 疾走する馬上から的を射る
「流鏑馬(やぶさめ)」の達人でもありました
しかし 義清 22歳の若さで出家し 周囲を驚かせてしまいます
死が日常の戦国の世の中で 阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから
「 西 行 」と名乗り 現世の執着を捨てるべく「西方への道 」「死への道」を選んだのでした

【 近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」には 御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして 苦悩から死にそうになり 女院が情けをかけて一度だけ逢ったが「あこぎ」と言われて出家したとある この女院とは 白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった 待賢門院璋子です】


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NHK大河ドラマ「平清盛」で 藤木直人 扮する 佐藤義清(西行) と
檀れい 扮する 鳥羽天皇の中宮で崇徳天皇の母 待賢門院(たいけんもんいん)



私が 西行 に惹かれるのは
執着を すべて捨てたようで しかし どこか悶々としながらも
桜を詠み 月を詠みながら 徐々に 人生の極みに近づいていく姿
列についていけない者の悲哀を 決して周りには見せず かと言って
漂泊の人にもならず 生臭い世俗にも満ちた ふてぶてさも
兼ね備えた人でもあったことです
そして 生涯の 憶い女(ひと)を 死ぬまで 恋した人でもありました



《 好きな歌を四首 》


《 世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいふ 》


(訳) : 出家した人は悟りや救いを求めており 本当に世を捨てたとは言えない
出家しない人こそ自分を捨てているのだ



《 弓はりの 月にはづれて 見しかげの やさしかりしは いつか忘れむ 》


(訳) : 三日月の光をうけずに見た
恋しい人(待賢門院)の姿を生涯忘れることはありません


《 何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 》


(訳) : 伊勢神宮で詠んだ歌だとある

(註釈) : とうてい 超えることができない 絶対的な何かが そこにあって
ただ 「かたじけない」という 神に対して
最も人間らしい言葉で 首を垂れる その姿に
感動さえおぼえるのは 私だけでしょうか



《 願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月の頃 》


(訳) : 願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい

(註釈) : 西行が来世へ旅立ったのは 73歳の 2月16日
如月の望月とは 2月15日の釈迦の命日 であったので
釈迦の後ろを一日遅れてついて行ったと言われている


自分の 最後の 死の姿までも 演出しぬいてみせた 悟りの人でもありました


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by nonkei7332 | 2014-10-08 11:58 | 古代史 | Comments(0)


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織幡宮 より 鐘崎港を望む



私の大好きな
心 和ぎる(なぎる) 海沿いの神社に
連れて来ていただいた



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《 織 幡 神 社 》



そこは ちはやぶる 鐘の岬





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この海を そして この国を護る
海神達が 武内宿禰の周りに 勢ぞろいされていた
この宮には それ以上の解釈も注釈もいらない
〈祭神〉
竹内大臣 (武内宿禰)
志賀大神(底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神)
住吉大神 (表筒男、中筒男、底筒男の三柱)
天照大神 (宗像三女神の母神)
宗像大神 (宗像三女神)
香椎大神 (神功皇后)
八幡大神 (応神天皇)
壱岐真根子臣
(武内宿禰の身代わりとなって 自害した壱岐の豪族 娘の豊子はその後 武内宿禰の妻となる)



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楯崎神社



そして
津屋崎 の 《 楯 崎 神 社 》
出雲の神様と
神功皇后の物語が
今も 伝承されていた


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〈祭神〉
大己貴命
少彦名命
飛龍権現(神功皇后)



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〈宗像〉 〈津屋崎〉 〈志賀島〉
この国の神話はこの海岸線から はじまっているみたいだ
ここが 入り口なのだろう
何も知らなかった 古代の神のことを
私は 月の名前(LUNA)を持つ 不思議な一人の女性に出会い
多くを 教えていただいた
そして そこには 私一人ではなく
おなじように 繋がっていた 志賀の男達や早乙女達の笑い声があった
ようやく わたしも ここまで 辿り着いたみたいだ

隠された真実を この海は知っているのなら
わたしも この海に寄り添って 小さく 声を挙げよう
安曇の海人達の 生命の支えであった
優しく 揺り籠をゆらしてくれた
あの 《 月読の女神 》のことを





by nonkei7332 | 2014-09-26 13:08 | 古代史 | Comments(0)


秋の風に誘われるように


二年ぶりに 香椎宮を 歩いた


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御神木「綾杉」のそばの立て札に 歌が二首


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『 ちはやふる 香椎の宮の 綾杉は 神の みそぎに たてるなりけり 』


「新古今和歌集」詠み人知らず


『 秋立や 千早ぶる 世の杉ありて 』


(明治29年 夏目漱石が松山から熊本五高へ赴任途中 香椎宮に寄った時に 詠んだ歌)


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「ちはやふる」「千早ぶる」とは


「神」に続けるための枕詞である


千早(ちはや・襅)とは


日本において古来より神事の際に用いられた衣装で、


主に女性が着た(Wikipediaより)





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香椎かもめ大橋 から 博多湾をみる



帰り道 なぜか 宮沢賢治の詩を口ずさんでいた


みんな むかしから の きやうだい なのだから


けつして ひとりを いのつてはいけない


(青森挽歌)より







by nonkei7332 | 2014-09-20 21:16 | 古代史 | Comments(2)



大国主命と少彦名命については 前回触れてみましたが

もう一人 どうしても 触れなくてはならない 神様がいました


事代主命 (ことしろぬしのみこと)

〈 別名 恵比寿様 〉



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大黒様




大国主命の子供であって

少彦名命が 常世の国に帰った後を託され

少彦名命の意志を継いだ「託宣の神」といわれた為に

少彦名命=事代主神 のイメージが強い神様です


後世 〈七福神信仰〉の中で「 エビス様 」といわれ

大国主命の「 ダイコク様 」と一緒に 多くの神社の祭神となっています


さて この エビス様 いろんな話がありますが

えびす宮総本社の西宮神社で「十日えびす」を前にした正月五日

人形遣い達の祖神、百太夫神を祭る境内末社

百太夫神社(ひゃくだゆう じんじゃ)で

百太夫神社祭という祭りがおこなわれる といいます


その由来については 西宮市の産所町に 史跡がありました


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〈 傀儡師故跡 〉 

                          
この附近は昔〈産所〉といわれた所で

1690年頃には


40軒程の傀儡師(人形操を業とする者)が住んでいた。 
     

傀儡師(くぐつし) は遠く平安末期に現れ


傀儡師、木偶まわし、人形まわしなどと呼ばれ


諸地方を巡廻興業していたが 室町時代にはいると


その一部がこの産所の地に住みつき


西宮神社の雑役奉仕のかたわら 神社のお札を持って諸国を巡り


お得意の人形を踊らせながらご神徳をひろめた。
    
    
1590年頃には


その人形芸が「えびすかき」又は「えびすまわし」といわれて


全国的に知られるようになり


たびたび京都の宮廷で天覧を受けるまでになった。


さらにその後発展して



淡路の人形屋や文楽人形浄瑠璃芝居へと成長していった。

 
 
しかし1850年頃から


彼らはおいおいこの地からなぜか姿を消してしまった


おそらくは世相の変遷や好みの変化によるものと思われる。

   
   傀儡師らは永らくこの産所の地に住み


祖神を信ずる 百大夫 を崇拝して神社にまつり


守護神としたが


その社は産所の地が1840年頃に衰微するに至った時



すぐ近くの西宮神社の境内に移されて現存している。 

       

   昭和63年3月31日

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傀儡子(人形遣い達)の祖神 百太夫については

平安時代の文人 大江匡房の『 傀儡子記 』には


《 男は馬に乗り弓を持ち、狩猟で生計を立てる。

長剣を持って跳躍し、短剣をもてあそぶ類の者たちである

・・・石を魔術で金銭に変じ、

草木を鳥獣に変え、よく人目を惑わす》


面白いのは 〈石を魔術で金銭に変える〉ということだが

これは 鉄の鋳造技術を持った 鉄の民 であったということであり

そして 〈草木を鳥獣に変えよく人目を惑わす〉とは

からくり人形 を使って 人びとを驚かせたということだろう

また


《 夜は百神を祀りて 鼓を打ち 舞い 喧嘩し

もって福助を祈る》


百神とは 百太夫のことであり

その舞は 傀儡子舞( 細男舞)と呼ばれていることから

傀儡子が祀った神こそ

阿曇磯良 (あづみいそら) にまちがいないようです

傀儡子の魂の在処は、志賀島のようです


少彦名命(海神)の託宣した 事代主命(エビス)を

全国に拡めた 傀儡子(クグツ)

その 傀儡子 が祀る 守護神(祖神)は 安曇磯良(海神) だった

いにしえの魂が繋がったみたいですね (^_^)


次回は からくり人形 について








by nonkei7332 | 2014-09-11 18:55 | 古代史 | Comments(0)


神話には たくさんの 神がいて

それにまつわる 多くの話がある

記紀のなかにも 神社の伝承にも…

まだまだ ビギナーの私ですが

神話を追いかける 日々は楽しいものです (^O^)


その中で 最近 私の前に しきりに 行ったり来たりする

神様がいます その方の名前が


少彦名命(すくなひこなのみこと)


なんと あの 『一寸法師』のモデルになった 小さな 神様なんです


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少彦名命 が 活躍する場所は 「出雲」

相方はなんとあの 「大国主命」(おおくにぬしのみこと)


父親は 「 高産巣日神 」(たかみむすびのみこと)

アマテラスとともに 天孫族の長であり

いわば 日本神話のレジェンド

あの 高良大社の主であった 高木神 のことである

その御曹子だから 天孫族のエリートなのである

(古事記では 神産巣日神の子供になっている)


どんな お話かというと

大国主命が出雲の御大(ミホ)の岬にいるとき、

波頭を伝わって天の羅摩船(ガガイモの殻でできた船)に乗り

鵝(ヒムシ=蛾)の皮を着て現れた。

不思議に思った 大国主命 が家来の神に尋ねたが


誰もその正体を知らなかった。

そのときそばにいた蟇蛙(ガマガエル)が

「クエビコ(山田のかかしのこと)なら知っているでしょう」

というのでクエビコに聞くと、

「 高産巣日神 の 御子で 少彦名神 です」と答えた。

そこで大国主命が 高産巣日神 に伝えると、神は

「これは私の掌の股からこぼれた子である。

これからは兄弟の契りを結び、国を造り固めるがよい」


と二神に申し渡した。

こうして少彦名神は、大国主命とコンビを組んで全国を巡り歩き、

国造りを行い、その任務を果たしたのちに再び


常世の国 に帰っていったという話


かんたんにいうと

天孫族の 小さな 少彦名命 が 常世 の国から 出雲にきて

出雲族の 大きな 大国主命 と一緒に 国づくりをする

少彦名 は 農業技術 や 医薬(薬や酒や温泉)を伝えたとあります

異界から訪れ 人々に幸いをもたらして


そして 帰っていく 神 といわれる

来訪神 のひとりでした


常世の国って どこなんだという疑問 ?

少彦名命 は 海からやって来た 海神なので

わかりやすく 海の底の 龍宮城 でいいのでしょうか?

海神といえば わたつみの神 志賀島の安曇族ですね

日本書紀では わたつみの神 を 少童命 と書かれています

この 少童命 と書いてわたつみと読ませていますが

この 少童命 と 少彦名命 どう見ても 同じにみえますね

ということは 少彦名命 は 安曇族 だったのでしょうか?

いまひとり 天孫族で 来訪神の先輩といえば

素戔嗚尊(スサノオ)もそうですね 祇園神社の神様です


少彦名命 を 祖神として 祀っている一族といえば 秦氏 です

全国にある 秦氏 に関わる 多くの神社の祭神には

大国主命=大己貴命(おほなむち)と少彦名命 のセットが多いですね

福津市の 楯崎(たてざき)神社 をはじめ


津屋崎 や 遠賀から 飯塚にかけて

まるで ここが 出雲であるかのように


数多く セットで祭祀されています

秦氏発祥のこの地域は「鉄の民」の伝承も多いところですね


話を 少彦名命に戻しますが

少彦名命が 高産巣日神 の手の間から産まれたので


手間天神 といいますがこの 手間天神が


天満天神となり 天満宮と呼ばれるようになったという話があります

天満宮の元祭神は 少彦名命 であったという話なんですが

その後 少彦名命 と 菅公 の すり替えが


行われていったという話も面白いですね



まとめると

① 少彦名命は 安曇族だった

② 北九州の 玄界灘沿岸から 遠賀川沿岸にかけてが 出雲だった

③ 天満宮はもとは 少彦名命がまつられていて


いつのまにか 菅公にすり替わっていった


今日のところは 妄想は ここまでとします

切りが無いですからね




何も知らなかった時から比べると いろんな事が解りました

古代史は 永遠です!








by nonkei7332 | 2014-08-25 13:36 | 古代史 | Comments(0)

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すべてがここに
導かれていた
この島に
この海に
この神に



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《 ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも 我は忘れじ 志賀の皇神(すめがみ)》
万葉集(巻7・1230)

訳 : 航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、
わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を忘れない



太古の記憶の淵を
海馬は駆けめぐる
静けさと木洩れ陽の中で
歌姫が詠う 魂の讃歌も
海辺を笑みをうかべてはしゃぐ
穢れなき 八乙女らの舞も
私は 知っていた
初めてではなかったの?
どこで 知っていたの?
と誰かが聞いた
私は答えた
そう それは 私が生まれてくる前のこと
母の海に私が漂っていた頃に
私が見た 光景だったんだ と



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詩人 三好達治は「郷愁」という詩に
こう書いた

《 海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。》

漢字の「海」の中に 「母」はいる
フランス語の 「母」は mere(メール)「海」は mer(メール)
フランスでは 「母」の中に 「海」はある


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この島で
この海で
すべての儀式は終わりを告げた
疲れきった 過去の戦神に訣れを告げよ
海人よ 風を読め
そして 追い風に帆を上げよ



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by nonkei7332 | 2014-05-30 12:41 | 古代史 | Comments(0)