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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

カテゴリ:古代史( 81 )



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能面 「般若」「山姥」 (福岡市博物館所蔵)




今日は 《節分》です

そもそも 〈季節を分ける〉日のことを言ったので

年に四回の節分があるのですが そのうち 一年の始まりとされる

〈立春〉の前日だけが 節分として 残っています

暦の上では 今日は 大みそか みたいなものですね


さて 先日は 《 鬼 》の話をしました

鬼は 山の幸を麓の村にもたらす 山の神の使いだといいましたが

もう一人 山に棲む 怖い 妖怪 の姿をした 山の神がいます

それは 《 山 姥 》(やまんば) です

昔ばなしには 鬼や山姥の話が多く残っています

そんな昔ばなし の中には こんな お話がありました



《 節分の鬼 (岩手の話) 》


昔、ある山里に、

妻も子供にも先立たれた一人暮らしの貧乏な爺さんがいました。

爺さんは毎日二人の息子のお墓にお参りすることだけが楽しみでした。

やがて冬になり、村はすっぽりと深い雪に埋もれ、

爺さんもじっと家の中に閉じこもっていました。

節分の日、寂しさに耐えられず、爺さんは雪に埋まりながら

二人の墓参りに出かけました。村のどの家からも

『鬼は外、福は内』と楽しそうな家族の声が聞こえてきました。

爺さんはしみじみ一人ぼっちが身に染みて、

涙があふれて止まりませんでした。

墓参りから帰った爺さんは、息子が生きていた頃に作ってくれた

鬼のお面を取り出して、昔の楽しかった時を思い出していました。

『妻も子供ももういない、ましてや福の神など どこにもいやしねえ』

そう思った爺さんは、鬼の面をかぶり、

わざとあべこべに叫びながら豆をまき始めました。

『鬼は内!福は外!』

すると、爺さんの家に誰かが訪ねてきました。

それは、節分の豆に追われた鬼たちでした。

この家に客人とは何年ぶりでしょう、

たとえ鬼でも爺さんは嬉しくなりました。

鬼たちはみんな爺さんの家に集まり、持ってきた甘酒やご馳走で

大宴会が始まりました。やがて朝になると、鬼たちは

「来年も来るから」と上機嫌で帰って行きました。

やがて春になった頃、爺さんは鬼の置いて行ったお金で

二人の墓を立派に作り直しました。そして

『おら、もう少し長生きすることにしただ』

『来年も鬼を呼ばないといけないからなぁ』

と晴れ晴れした顔で言いました。

(日本昔ばなし より)





《 ちょうふく山 の 山んば (秋田の話) 》


ちょうふく山に住む 山んば が子どもを産みました。

ふもとに住む村人に祝いの餅をもって来いといいつけると

村人は餅をついたものの、誰も怖がって持っていこうとしません

村一番の乱暴者のカモ安と権六に頼むことになりましたが

二人とも山んばが怖くて、道を知らないから行けないとごねました。

そこで、村一番の年寄りの杉山の 大ばんば が

道案内役としてついていくことになりました

山を登っていく途中で山んばの声が聞こえると、

カモ安と権六は 大ばんば と餅を置いて逃げていってしまいました

大ばんば は しかたなく餅をその場において、頂上まで行き、

山んばの家を訪ねて、事情を話しました

すると昨日産まれたばかりの まる という子どもが

ひとっ飛びで餅を担いで帰ってきました

その後 大ばんば は 山んば に引き留められて二十一日間

山んばの世話をして、そのお礼にと錦の反物を貰って帰ってきました

村に戻ると おばんば が死んだものと思われていて

ちょうど おばんばの葬式をしているところだったのです

大ばんば は事情を話して、

山んばからもらった錦をみんなにも分けてあげました

不思議なことにこの錦の反物は

いくら使っても なくなることがなかったといわれています

(日本昔ばなし より)


鬼と山姥 は 昔ばなしの中では 温かい心をを持った

麓の村に 多くの幸を届けた 神々として生きていました

特に 山姥伝説は 山の神は 女神だったことを 教えてくれます

そういえば 富士山の神は 浅間神社の 祭神

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)でしたし

脊振山の脊振神社の神は 市杵島姫(いちきしまひめ)でした

宝満山の竈門神社の神は 玉依姫(たまよりひめ)

香春岳の香春神社の神は 辛国息長大姫(からくにおきながおおひめ)

別名を 宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ) あの 稲荷の女神です


このように 山の神は 女神 ばかりです


だとすれば 山姥 は どんな 女神だったのでしょう


昔ばなしの中には 餅と反物 を交換していましたね

機を織るといえば 七夕の起源とされる

《棚機津女(たなばたつめ)の伝説》があります

棚機津女とは 七月七日に訪れる神様を迎えて祀るため

町や村の乙女が水辺の機屋に籠もって機を織るというものです

七月六日に訪れた神様は 翌日の七日に帰ります

このとき水辺で禊ぎ(みそぎ) を行うと

災難とのかかわりを取り去ってくれると考えられています

もう一つ《山姥の洗濯日》という 伝説があります

北九州では 暮れの十三日 または 二十日には 必ず雨が降るから

水を使ってはいけないとか 洗濯をしてはいけないとする日があります

雨を司る山姥(山神の巫女)の禊の日であったものだといわれています


山の幸と麓の村の幸を交換するのが 《市》の起源だとされていますが

この〈市〉の 名前がついた 女神が 一人 おられます

《 神大市姫 》(かむおおいちひめ)

別名を 大歳御祖神(おおとしおやのかみ)とも呼ばれています

この女神は 木花咲耶姫 のお姉さんです

あの 醜い 磐長姫(いわながひめ) と呼ばれた 女神です

龍神 とも呼ばれていて

辛国息長大姫(稲荷神) のお母さんです

実は 去年 京都の松尾大社の奥宮 松尾山から流れる 滝のそばで

この女神にお会いしました

そこは 身震いがするほどの 霊域でした

山姥の女神の名前が 書かれていました


《 罔象女神 》(みずはのめのかみ)



水の全ての禊を司る 女神


あの 《 瀬織津姫 》(せおりつひめ) ともいわれています


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松尾大社 滝御前



小さな頃の 我が家の慣例 元旦の朝 銭湯へ行く理由を

兄が言ったように 「正月だから」という意味で

なんとなく そんなものだと思っていました

最近 そのより深い 理由を知る事ができました

町の銭湯も少なくなりましたので 若い人は知らないでしょうが

昔の銭湯の 壁絵には 必ずといっていいほど

《富士山の絵》が描かれていました

長年 この富士山 だけの絵 を描かれていた人がこんな話をされていました


『この絵は 海でも 花でもいいわけではない

何故なら この絵は 宗教画だからです

富士山は 神の山です

山から流れ出る 神水で 心身ともに 浄めることは

禊(みそぎ) の儀式なんです 』


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銭湯富士山絵


今日は 節分の日 暦の上での 大晦日 だと いいました

昔のように 富士山の描かれた銭湯で

新しい季節の始めに 家族揃って身を浄めたいものですが

家族も 銭湯も もう 私のそばには ありません

時は いつのまにか ひとつの昔ばなしを 消そうとしています


妖怪にされてしまった 鬼 や 山姥 の 神

よみがえれ !! 祓い浄め の 水の女神よ !!

この 汚れきった 世の中を 洗い流すために








by nonkei7332 | 2016-02-03 12:09 | 古代史 | Comments(2)

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雲仙市 橘神社の 世界一大きい 門松




日本人は嬉しい事があったら

『盆と正月が一緒に来た』という言葉を使います

一年の中に 祝うべき日が二日あったからです

おそらく 冬至(12/22) と 夏至(6/21) の季節の節目を祝ったのが

そもそもの起源でしょうが 何度か 暦や風習が変わっていき

現在のような 祝祭 に変わってしまいました

冬の正月 と 夏の七夕 (仏教に習合され 盆となった) がそれです



特に 正月は昔の村々では 歳神様 という その氏族の祖先神を

迎える行事だったといわれています

その名残が 今ではもう見られる事が少なくなった

「門松」「注連飾り」に残っています

こういった松飾りを飾っておく期間を「松の内」といいます

地方よっては 7日だったり 15日だったりしますが

松飾りは 歳神様が道に迷う事なく 家々に迎えるための目印とも

家に歳神様の滞在を示す印だともいわれていました

その松飾りを焼くことで お送りするのが

「どんと焼き」などと呼ばれる 各地の火祭りです


さてさて 歳神様といわれる 祖先神はどこにおられたのでしょうか

それは 「山」です 歳神様は 「山の神」だったのです

その昔 人とも 神ともいえない 神人(かみびと)が山には住んでいました

冬になると 里に下りてきて 山の幸と里の幸を交換しては

山に帰ったといいます

神人は 赤い顔をしたり 青い顔をしたり 片目が無かったり

鼻が異様に高かったり そんな 顔をしていました

そうです 後の世に 「鬼」とか「天狗」と呼ばれた人達でした

神人は いろんな 山のみやげ物を 麓の村に もってきました

遠い昔 稲作を村に教えたのも 神人でした

山で木を刈り炭を作り その火で鉄を造っていました

その鉄で 鍬(くわ) や 鋤(すき) を造っては 村人を助けました

酒の作り方も 薬も 村人に与えたのでした

そして 神人は 星を読むことができました

星を読んでは 暦を作り 村人にその年の 天地の動きを教え

稲を植える品種 や 時期までも教えていたのです

沢山のみやげを持ってきてくれる 神人を 村人は 正月になると

門松を立て 晴れ着を着て迎えたのでした

平和な 風景 だったのでしょう



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太宰府天満宮 鬼すべ神事



1月7日に 太宰府天満宮や糸島市の老松神社では

「鬼すべ神事」や「鷽替え神事」が行われます

歳神様(神人)を迎えた 村人の祭りの面影を残しています

ただ 悲しい事に 日本の 偽りの 歴史は

神人(鬼・天狗) を 幸をもたらす者から

災いをもたらす者へと 変えてしまいました

そのもっともひどい行事が 「節分」です

《鬼は外 福は内》といって 鬼に豆を投げつけます

本来の姿は 《鬼は内 福も内》と言って 頂いた土産と交換に

里で取れた 豆を 鬼に献納したのではないかと思います

ちなみに 埼玉県嵐山町の鬼鎮神社 や 奈良県天川村の天河神社など

多くの神社やお寺での 節分には 《鬼は内 福も内》と言っているのです

最近はやりの 節分の 恵方巻 も 歳神様のいる方向(南南西)

を向いて食べないといけないといいます

歳神様(鬼)から頂いた物への感謝のお返しなのです



初春に行われる 風習や神事の起源は

山の神から そして もつと古くは 海の彼方から 来訪すると信じた

祖先神を 祀る事だつたのでしょう


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沖津宮 御手洗浜




明日 私は 海神の住む 龍の都 志賀海神社に行きます

遠い昔に 海の彼方から 渡ってきた 祖先神 に

今年一年の 感謝の想いを伝えます

今頃 明日の『歩射祭』のために 八人の若者が

沖津宮 の 御手洗浜 の海に入って


禊 (みそぎ) をしている ころでしょうか








by nonkei7332 | 2016-01-16 13:11 | 古代史 | Comments(0)


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博多松囃子





『博多どんたく港まつり』

5月の連休に行われ 200万人もの人が集まる

博多の祭 〈どんたく〉 の 正式名称です

ところが この 〈どんたく〉と言い出したのは 明治以降で

それまでは 『博多松囃子』と言っていました

それも 5月ではなく 正月の行事だったのです

古来から 正月になると 門松をたてます

その年の新しい神様が松に降りてくるといわれていました

松囃子 は その松を伴って それぞれの 領主に年賀挨拶をする

行事として始まったとされます 室町時代だといわれますが

その 起源は 定かではありません もっと古いのかもしれません


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博多町家館 より



謡曲に 『蘆刈』という演目があります

この話は 仁徳天皇のころ 〈津の国難波の都・博多〉の話です

貧困の為 別れた夫婦がいました その後 妻は高貴な家の乳母となり

夫を探しに筑紫の国にきます そこで 蘆売りとなっていた夫と巡り会い

二人で 都に帰って行ったという話ですが

蘆売りの夫が 蘆を売るために 昔からの歌を賑やかに囃して謡います


名に負う梅の花笠、難波女の被く袖笠、

肘笠の雨の蘆辺も乱るるかたを波、彼方へざらりこの方へざらり、

ざらざらざっと風の上げたる古簾、つれづれもなき心よ、



津の国 難波の春は 夢なれや



仁徳天皇善政 と 筑紫の国の華やかさを歌っているのです

その風景こそ 〈博多松囃子〉の いにしえの風景に見えてくるのです

梅 ・ 松 ・ 笠 これは 九州王朝の象徴でもあります


囃子の語源をたどると はやす(生やす) に繋がります

〈囃す〉は 増殖させる 増やす 豊にする の意味でもあります

『松囃子』の意味するものは

松である かつての 九州王朝を 偲び その思いを拡げていく

祭りではなかったのでは ないでしょうか



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京都今宮神社




京都の北に 《今宮神社》があります

ここでは 京都の三大奇祭 と呼ばれる『やすらい祭』があります

因みに あとの二つは 鞍馬寺の「鞍馬の火祭」そして

広隆寺の「太秦の牛祭」ですが ここでは ふれません

「やすらい祭」は 古来より疫神を鎮めるために行われていました

由緒によれば

『 神祇官の「鎮花祭」と「御霊会」が結びついた「花のまつり」で、

花の精にあおられて 飛散する悪魔の精霊を

囃子や 歌舞によって追い立てて 風流傘に宿らせ、

紫野ノ社に送り込んで神威を仰いで降伏させる 』

と 書かれています

元々は 3月に行われていました 花笠や若松もでてきます

博多松囃子 に よく似ています

やすらい を 「夜須礼」と書くそうです

『夜須に礼をつくす』という意味なのでしょうか



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やすらい祭



『夜須』といえば 日本書紀に

「神功皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峽宮に遷りたまふ」

とあります その後 羽白熊鷲を征服した 神功皇后は

「我が心則ち安し(やすし)」といったので

この地を「夜須」というようになったいう 伝承があります

夜須町は 筑前市 と名を変えましたが

松峡宮 とされる 跡地には

松峡八幡宮(まつおはちまんぐう)が鎮座します


明治以前においては 博多の松囃子が

朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もあるのです

( 文献として 残っているかどうか 調査中 )



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松峡八幡宮 ( 空 sora そら さんのブログより)



気になる 都市伝説を ひとつ

京都弁で 「おいでやす」「おこしやす」というように

語尾に 「やす」という言葉を使いますがが 宮廷言葉からきたもので

「やす」は 「夜須」が語源だとの事



京都 今宮神社の 「やすらい祭り」 の 発祥は 博多の「松囃子」

京都 下鴨神社の 「葵祭り」の 発祥は 背振神社の 「賀茂まつり」

あとひとつの 謎解きは

京都 八坂神社の 「祇園祭り」の 発祥は・・・


博多 櫛田神社の 「博多山笠」?。



京都の謎 と 妄想は どこまでも 続いていきます。







by nonkei7332 | 2015-11-23 16:57 | 古代史 | Comments(5)


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下鴨神社





平安遷都 前の 京都 には

筑紫の古代氏族 ・秦氏(宗像) ・土師氏(筑豊) ・賀茂氏(背振)

が多く住みついていました

桂川流域 の 秦氏の 松尾神社

鴨川流域 の 賀茂氏の 下鴨神社

南部伏見深草 の 土師氏の 伏見稲荷神社

この三つの 神社を通して

遠き 筑紫王朝の 面影を追うのが

今回の京都行きの旅の目的でもあります


下調べで 下鴨神社 の 賀茂氏 を探ってみました


筑紫の賢人(真鍋大覚さん) の

『灘の國の星』にはこんな記述があります


天智天皇 は 662年、筑紫の長洲宮に遷都された。

そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。

天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、

筑紫と同じ「葵祭」を催行された。

こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、

故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。

「背振神社」は京都「賀茂神社」に、

「現人神社」は大阪の「住吉大社」に

生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。

そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、

細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。

これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。

玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。

ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を

模した品にほかならないのと同じです。


土産のおこし や 京都名物「八つ橋」起源が 背振 にあったとは驚きです

もうひとつ 「下鴨神社」の名物に 「みたらし団子」があります

「御手洗」を みたらし と呼びます

綾杉さんの「志賀島歴史講座」で 志賀海神社沖津宮の浜あたりを

〈御手洗〉という地名だと知りました

イザナギが 黄泉の国の穢れを洗い清めた 禊の地 だと聴きました

今では どの神社には 手と口を濯ぐ 〈御手洗〉がありますが

下鴨神社境内には 瀬織津姫を祀る 御手洗社という末社があり

その前にある 御手洗池では 1年ごとに 禊の儀 が行われるそうです

みたらし団子の起源は 後醍醐天皇が参詣の時

この池に浮かぶ五つの泡にちなんで 団子の数が5個になったとも

人の身体の五体から 5個になったとも 言われているそうです

今度 街中で みたらし団子を 食べるときは

ほんとうに 5個 有るのか 確かめてみましょう



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志賀海神社沖津宮 と 御手洗浜




さてさて 下鴨神社の正式名称は 『賀茂御祖神社』

祭神は 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

神武東征の際 八咫烏(やたがらす)に姿を変えて 神武天皇を

導いた あの謎多き 神です


ヤタガラス と言えば 日本サッカー の旗印でもある

三本足の からすです

韓流ドラマ「朱蒙」(チュモン) には

高句麗の国鳥であった 三本足のからす が

画面には たびたび 出てきたのでよく覚えています


この 八咫烏 という鳥 は いったい どういう 鳥だったのでしょう


筑紫の賢人は 『灘の國の星 拾遺』でこう書かれています

烏鵲 (うじゃく) (カササギの別名) は

干潟の冠水の有無遠近を見さだめる鳥として

昔は 旧約聖書のノアの洪水の神話の時代からしられていた

縄文弥生の祖先は 烏鵲と共に干潟の開拓に努めてきたのである

神代には 賀茂の氏族は 八咫烏(やたがらす)を伴として

日々を過ごしていた

今、肥前に棲む 『かちがらす』即ち『かささぎ』は

まさに その生きた化石というべきである

有明の干潟にいる「むつごろう」なる 鯊(はぜ)を餌としていたが

干潟が稲田となった今日では 全く無縁になるまでに

三千五百年以上の歳月をようしたことになる。


八咫烏 は カササギ の事であり

背振山山麓の肥前 に 起源を持つ 賀茂族 の 祖神 だったのです


現在 カササギ は 天然記念物 として

福岡の筑後 や 佐賀県に 生息しています


下鴨神社 は 肥前背振山麓 の 賀茂の祖神

「賀茂建角身命」を 祀る 神社でした

背振神社 の 「葵祭り」が

京都三大祭りの 賀茂社 の「葵祭り」の起源 だったのです



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背振神社 下宮




賀茂建角身命 なる 人物 が 八咫烏 だと言われていますが

安曇磯良 の 母が あの 鴨玉依姫 その父が 『豊玉彦』


この 『豊玉彦』こそが 八咫烏 であったという 説があります


神功皇后 に 仕えた 安曇磯良

神武天皇 に 仕えた 豊玉彦

九州王朝 を 支えた 安曇族


これで すべてが 繋がったみたいですね。















by nonkei7332 | 2015-11-10 20:13 | 古代史 | Comments(2)


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今津湾岸 のヨット




博多湾沿い 唐津街道 を 西に向かう

姪浜をすぎると 今津湾沿いの

生の松原 長垂海岸と 白砂青松の 綺麗な海岸線 が続く

唐津街道 は 今宿から は 海岸線をはなれ 前原へと

糸島半島の田園地帯を 突き抜けるように 西へ 道が伸びていく

このあたり かつては 海峡であったといわれ

糸島の名前は 海を隔てた 怡土国 と 志摩国 から

怡土志磨 (いとしま) と呼ばれるようになったといわれている

伊勢・志摩(イセ・シマ)は この地の名前が 移ったものだ

天照大神が降臨したとされる(天の)岩戸が 天ケ岳の傍にある

桜井神社(岩戸宮)の裏手にある


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今津北崎 から 志賀島がみえる


『魏志倭人伝』には、伊都国と呼ばれた このあたり

「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。

そこの長官を爾支(にし)といい、

副官は泄謨觚(せつもこ)・柄渠觚(ひょうごこ)という。

1000余戸の家がある。世々に王があるも、

みな女王國に統べて属する

帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、

ここに常にとどまる場所である。」

また

「 女王国より北には、特別に一つの大率(だいそつ)を置いて

諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。

大率はいつも伊都国で政務を執り、

それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割を持っている。

王が京都(洛陽)や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、

帯方郡が倭国へ使者を遣わすときは、

いつも津(港)で、文書や賜与された物品を点検して、

伝送して女王のもとへ到着する時に、間違いがないようにする」

と書かれている


大率 と呼ばれた 王が 代々 この国の 政務を執行したとあるが

女王とは 卑弥呼 であって 大率の王は 神武天皇 だったのだろうか

この二人が 兄妹 であったという 説もある

とすると アマテラス は 卑弥呼であったというのも

おかしくもない


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北崎海岸より 能古島が見える 手前は 海釣り公園


そんなことを 考えながら 今宿から 海岸線を 北にむかった

入海にかかる 橋のたもとには ヨットが停泊し

今津 北崎 唐泊 に続く 白砂の綺麗な 海沿いを 楽しんだ


《 韓亭能許の浦 波立たぬ日はあれども 家に恋ひぬ日なし 》

万葉集 15巻 3670 遣新羅使

《 訳 》

韓亭(からとまり) の沖の 能古島の海に波が立たない日はあっても

家のことを恋しく想わない日はない


《解説》

韓亭 と 呼ばれた 唐泊の港は

遣隋使 遣唐使 遣新羅使 との 要港だった

沖の波が高いと 舟人は 何日も この場所に停泊し

海の鎮まるのをまったという 韓人が多く泊まる 宿もあり

人々は ここを 韓亭 と呼んだ


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半島の先端の町が 唐泊


志賀島 能古島 が 沖に見える 今津の浜・唐泊

ここは 磯良の海の 入り口だったのだ









by nonkei7332 | 2015-10-22 15:06 | 古代史 | Comments(0)


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まんが日本昔ばなし より





私達のまわりには 沢山の 昔話がうごめいています

今は昔 で始まる 今昔物語ではありませんが

この国には 数えきれない 昔話が それこそ

八百万(やおろず) と言われるくらい 存在しているのでしょう


柳田国男さん は 「日本の伝説」でこう述べています


『 伝説と昔話とはどう違うか。

それに答えるならば、昔話は動物の如く、

伝説は植物のようなものであります。

昔話は方々を飛びあるくから、

どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、

伝説はある一つの土地に根を生やしていて、

そうして常に成長して行くのであります。』


昔ばなし といえば TBS系のテレビアニメ

『まんが日本昔ばなし』を よく見ていました

土曜日の 7:30〜8:00 という 時間帯でしたね

今でも オープニングの曲を覚えています

♪ ぼうや 良い子だ ねんねしな 今も昔もかわりなく

母のめぐみの 子守唄 遠い昔のものがたり ♪

市原悦子 と 常田冨士男 の独特の語りぐち がなつかしい

物語の総数が 1474話 もあったということを知って 驚いています

そのデータを調べてみると

タイトル数が多かった 物語でいうと


① 鬼 ・・・ 110話 《鬼がわらった(熊本)》《牛鬼淵(三重)》et

② 龍(竜) ・・ 73話 《小太郎と母龍(長野)》《龍の淵(宮崎)》et

③ 地蔵 ・・・ 72話 《笠地蔵(東北)》《身代わり地蔵(大分)》et

④ きつね ・・ 54話 《きつねの恩返し(奈良)》《ごんぎつね》et

⑤ 大蛇(ヘビ)・ 53話 《大蛇の棲む岩(岩手)》《大蛇の塔(山口)》et

⑥ 河童 ・・・ 29話 《河童の雨乞い》《河童のくれた妙薬》et

⑦ たぬき ・・ 27話 《狸の手習い(滋賀)》《たぬきのしっぽ(栃木)》et

⑧ さる ・・・ 27話 《サルの生き肝(山口)》《猿の恩返し》et


上位 の タイトルでもわかるように

〈鬼〉〈龍〉〈きつね(稲荷)〉〈大蛇〉〈河童〉

〈地蔵〉をのぞくと 出処は やはり 北九州 (筑紫) のようですね

多くの 伝説や昔ばなしが 海人達によって

全国津々浦々まで 拡がって

やがて その土地土地 の 昔ばなしとなって

伝え語られていったのでしょうか





by nonkei7332 | 2015-10-17 18:34 | 古代史 | Comments(0)

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岸和田 だんじり祭り




九州では 秋祭り を 「くんち」「おくんち」といいます

秋 の 豊穣収穫祭 です


起源 は 天皇が 五穀の新縠を 天津神 国津神に 捧げ

自らも食しその年の収穫に感謝する

〈新嘗祭〉(にいなめさい) だといわれています

現在でも 11月23日 に宮中や 各地の神社で 祭祀が行われ

「勤労感謝の日」として 国民の祝日 になっています

〈くんち〉の語源は 諸説ありますが

〈九日説〉が 主説でしょう つまり 旧暦の9月9日 (10月21日)

重陽の節句 にあわせて 祭りがおこなわれました

各地によって 多少 日程が ずれたりしますが

これが 元となっているようです


『三大くんち(九州三大秋祭り)』といえば

「長崎くんち」「博多おくんち」「唐津くんち」です


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長崎くんち 龍踊


《 長崎くんち 》(10月7日〜10月10日)


長崎市の諏訪神社の秋季大祭です

見どころは 各町の「奉納踊り」

各町の奉納踊りには 有名な「龍踊(じゃおどり)」や

「鯨の潮吹き」「御朱印船」「阿蘭陀万歳」などがあります

祭(くんち)の始まりは 江戸時代の寛永年間(17世紀)

二人の遊女が諏訪神社に舞を奉納したことだと言われています

その後 年々盛んになっていき さらに長崎という土地柄から

中国や南蛮文化の影響を受けました

この「長崎くんちの奉納踊」は重要無形文化財となっています



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博多おくんち 神輿渡御



《 博多おくんち 》(10月23日〜10月24日)


博多おくんち」は 博多の総鎮守である

櫛田神社の秋の例祭です

かつては収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)でしたが

昭和28年より 名称を変更して新たに祭礼を行うようになりました

神輿渡御や 稚児行列の他 五穀豊穣市 相撲大会などが催されています

昭和28年といえば 6月26日に 〈北九州大水害〉がおきた年で

北九州各地で1000名の死亡者を出しています

4月に起きた阿蘇山の噴火による 土石流と戦中戦後の森林乱伐が

被害を大きくしたと言われています




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唐津 曳山



《 唐津くんち 》(11月2日〜11月4日)


毎年11月に唐津神社で開催される

例祭「唐津くんち」は掛け声とともに

曳山が駆け抜ける勇壮な祭として知られています

その特徴はなんといっても 獅子

漆塗りの獅子頭を被って舞う「カブカブ獅子」の奉納や

大きな赤獅子 青獅子を乗せた曳山の巡行で知られています

唐津くんちは江戸時代に始まったと考えられていますが

この曳山は、文政2年(1819年)に

《石崎嘉兵衛》が伊勢参りの帰途に

京都で見た祇園 山笠をヒントにして仲間たちと

赤獅子をつくり奉納したのが始まりだといわれています

今では14基の曳山があり「唐津くんちの曳山行事」として

重要無形文化財となっています







by nonkei7332 | 2015-10-12 08:30 | 古代史 | Comments(0)

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中秋 の 名月

〈 空 sora そら 〉 さんの ブログ より




10月は 《 神 無 月 》(かんなずき) です

神無月 の 語源は

神を祭る月だから 「神の月」とする説が有力とされています

「無」は 「水無月」(みなずき) と同じく

「の」を意味する格助詞「な」です

中世の俗説には 10月に 全国の神々 が 出雲大社に集まり

諸国には 神がいなくなることから「神無月」になった説があり

出雲国 では 反対に「神有月」(かみありつき) と呼ばれています

その他の説では 雷の鳴らない月で「雷無月」が転じたとする説や

新穀で酒を醸す月なので「醸成月」が転じたとする説もあります


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筑紫の賢人 真鍋大覚さん は

著書 『 玄界灘の海上気象 』で

日本の神話発祥の地を 筑紫 背振山系 の 伊都国 であるとされ

筑紫に残る たたら鍛冶 の 砂鉄選別の 《 かんな流し 》を 示し

神無月 の 起源に言及されています

 

" かんな "

鋳物師間の用語で 砂鉄を選別する 水樋(すいひ) のことであり

木工具の " かんな " (鉋) はこれから 暗示されて

平面の削り出しに考案されたものである。

" かんな " は 女子の携わる作業として

かわのおみな(川女) の 転訛であろうか

背振山系の農家は 秋の彼岸に水を落とす。

すなわち 那珂川を堰でとめて水田に送る灌漑用水の

水門、取出口を開くのである。

稲の収穫はそれから始まる。

したがって 多量の河水を必要とする " かんな流し " は、

土砂 が 水田や溝渠 を埋没することを極度に忌避した 古代、

すなわち 素戔嗚尊の溝埋、畦放 以来、

すべての水の使用が出来、かつ 農閑期に入る


十月から ということになる。

これが おそらく 神無月 の 起源であろう。



【 語訳 】

水樋 (すいひ) ・・・ 水を流す管

素戔嗚尊の溝埋、畦放・・・記紀には スサノオ が アマテラスに

多くの 狼藉を働いたと記されています 溝埋(みぞうえ)とは

田に水を引くために設けた溝を埋めることで

水を引けないようにすることで 畦放(あはなち) とは

田に張っている水を、畔を壊すことで流出させることです




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井上陽水 さん



井上陽水 の セカンドアルバム〈陽水Ⅱセンチメンタル〉に

《 神無月にかこまれて 》という曲が 収録されています

ちょうど 私が 二十歳の頃

東京新宿の 三畳一間 の アパート で 飽きるほど 聴いていた曲です

まさしく この曲は 我が青春 の ポートレート でした



人恋しと泣けば 十三夜

月はおぼろ 淡い色具合

雲は月を隠さぬ様に やさしく流れ

丸い月には 流れる雲が

ちぎれた雲が よくにあう



風がさわぐ 今や冬隣り

逃げる様に 渡り鳥がゆく

列についてゆけない者に また来る春が

あるかどうかは誰もしらない

ただひたすらの 風まかせ



神無月に 僕はかこまれて

口笛吹く それはこだまする

青い夜の空気の中に 生きてるものは

涙も見せず 笑いも忘れ

息をひそめて 冬を待つ








by nonkei7332 | 2015-10-02 22:22 | 古代史 | Comments(0)

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西鉄大牟田線 蒲池駅 (かまちえき)



邪馬台国の女神 は 《 卑弥呼 》 だということは 誰でもが知っています

では 邪馬台国に敵対した 狗奴国 の 女神は と聞くと

そんな人 いたの と誰もが言うのではないでしょうか


そもそも 古代は 神代も人代も 何故 か 女神 や 女王ばかりです

男がだらしないというのは 今も 昔も 変わりはないのですが

何か 理由があるとすれば

それは 呉 から 移り住んだ 海人族の男たちは


忙しくて 単身赴任が 多かったからでしょうか

集落に女子供を残して あちらこちらの 海岸に 集落を開拓してまわり

屋根付きの 家船 に のった 漂泊民 となります

その 土地土地に 胤を残して 勢力を拡げるのに 頑張ります

一方 山に登った 鍛冶の男たちは 一心不乱にに 鉄を作ります

鍛冶場は 女人禁制 の場所 だったみたいです

ストレスがたまったのでしょうか いい鉄が作れなくて

イライラがつのると 里に下りては 時々 悪いことを したのでしょう

だから そんな出来事が重なって 鍛冶の男は 鬼 や 蜘蛛 と言われて

恐れられたのかもしれません


こんな 男たちはにとって 怖い存在といえば

《 地震・雷・大風・女房 》だったのでしょうか

とくに 女達の中には 自然を読み取る 憑依体質の 女性がいて

巫女として 占いや 祭祀をたずさわる ようになり

集団の中で 男達からも 一目置かれるようになります

やがて 小国達 をまとめるような 存在となったのが

《 卑弥呼 》では なかったのではないでしょうか

でも 卑弥呼であっても スーパーウーマン ではなかったみたいで

その 霊力が及ばないような 天変 があることもあって

集団の信頼を失っていった と 倭人伝には書かれています

やがて 卑弥呼が 亡くなると 小国家は混乱して 衝突が始まり

これが 《倭国の大乱》といわれる ものだったのではないでしょうか



「後漢書倭伝」に

「会稽の海外に その名は 東鯷人あり 分かれて二十余国を為す」

とあります

呉人 が 流れ着いた 東鯷国 は 八代から 宇土半島 そして

阿蘇 から 菊池地区 有明海対岸の肥前に至るまでの

広い土地を 治めていました

《 狗奴国 》(くなこく) ともよばれ

のちの世 隼人(はやと) や 熊襲 (くまそ) と呼ばれます

景明天皇や ヤマトタケル が征伐しようとした あの熊襲です

鯷 とは 鯰(なまず) のことで 鯰をトーテム とした 海人族でした

多くの神社には 鯰の伝説が残っていますね


この国に 一人の 女神がいました

その名を 《 蒲 池 媛 》といいます

阿蘇の母神 であり

肥前川上では 《 與止日女 》(よどひめ) と呼ばれ


多くの神社で祀られています

〈淀姫〉とも呼ばれ 〈世田姫〉ともよばれました



〈豊姫〉とも呼ばれ 神功皇后の三韓征伐にも 同行し

満珠干珠の玉を使って 勝利に導いたといわれます

まるで 豊玉姫 や 玉依姫 が重なりますね


実は 豊姫は 神功皇后の 妹 だったという説もあるんです



神功皇后の遠征を 満珠干珠の玉を使ったといえば 安曇磯良 です

高良玉垂宮 に 秘される 安曇磯良 の 妃 となった という説があります

なんと 奴国 の王 と 狗奴国の女王 が 繋がるというわけですから

私とすれば 鳥肌が立つような ゾクゾクする話なのですが

でも よく考えると 両国とも 呉人 を祖とするわけですから

不自然な事ではないないのかもしれませんね


海と川 を治める 女神ということでは

あの 〈瀬織津姫 〉も重なるんですね

〈瀬織津姫〉も 〈蒲池媛〉も 記紀には書かれることがなかった

隠さざるをえなかった 女神 だったのでしょうか


蒲池媛 の 謎 の極め付けは

卑弥呼の 後を継いで 諸国を平定した

13歳の少女《 宗女 台与 》(トヨ) です

蒲池媛 は 実は 卑弥呼宗女 トヨ(豊) だったという 説です

となれば 蒲池媛=トヨ によって その後 安穏な国がつくられ

倭の五王 に 続く 九州王朝 の全盛期 へと つながっていったのでしょうか


これらの 説 は 記紀には書かれていない 風土記 や

神社に遺る縁起 古い家々に遺る 家伝書 にのこる 伝承 なのですが

何が本当なのかは 誰にもわかりません


本当の真実 を 語れる人 は

今 この世には 誰もいないのです

もし 解き明かす人が 未来に 出てきたとすれば

その人は きっと タイムマシン にのって


その時代に 行って見てきた人なのです

これが 古代史の醍醐味 なんですね


《 筑後に 残る 蒲池媛 の謎 》

私が知る限り 現在の 蒲池媛 が 二人 います

ひとりは 名前 を

蒲池法子(かまちのりこ) といいます

もうひとりの名前は


蒲池幸子 (かまちさちこ) といいます


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松田聖子 (まつだせいこ)さん

本名 蒲池法子



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坂井泉水 (さかいいずみ)さん

本名 蒲池幸子

「ZARD」のボーカル

2007年5月 惜しまれながら 40歳の若さで亡くなりました









by nonkei7332 | 2015-09-30 13:30 | 古代史 | Comments(0)

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観世音寺 参道



行楽の 秋日和 太宰府へ行きました

ただ 天満宮にはいかず 目的地は 迷わず

清水山普門院 の 山號をもつ 九州一の古刹

《 観 世 音 寺 》

ここには 日本一 古いと言われる 国宝の 梵鐘 があります

その鐘の音 は 菅公 が 榎社に幽閉され 失意の中で聴いた

あの鐘の音と同じだということを知る人は少ないのです

造られたのが 681年 糟屋郡の多々良 あたりだと書かれています

作った人は 〈上三毛麿〉この人がどんな人かは 詳しくは残ってませんが

562年 大伴狭手彦が 高句麗を征伐して 多数の珍宝と優秀な工人を

連れ帰った中の一人ではないかという説もあります

同じ鋳型で造られた梵鐘が 京都の妙心寺にあります 兄弟鐘です

なぜ 離れ離れになったのかは 歴史の闇のなせる技でしょうか


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国宝 梵鐘



梵鐘 の事を 別名 〈 鯨 鐘 〉とか 〈 華 鯨 〉といいます

なぜ 鯨なのかについて 考えてみました

対馬海峡は 鯨の通り道で 壱岐には 多くの捕鯨基地がありました

万葉集にも 「いさなとり」(鯨魚取り) という 海を表す 枕詞があります

安曇の海人は 壱岐の港を出て 筑紫の都をめざします

筑紫の賢人 真鍋大覚さんの『 玄界灘の海上気象 』のなかに

こんな記事がありました



『 壱岐島 郷浦 を 出ると


やがて見える 筑紫の山々は

東が 九千部山 中央が 脊振山 西が 鏡山 と

大鯨 が 水平線に浮上した形である 』



三笠川の上流 までが まだ 海だった頃


鯨 の 頭 の 九千部山 の 麓にある


太宰府の都をめざした 海人達にとって

やがて 聞こえてくる 観世音寺 の 鐘の音 は

厳しい 船旅に 終わりを告げる


安堵の 音色だったに 違いありません

だから 海人達は この鐘のことを 《 鯨 鐘 》と呼んだのでしょう

鯨 の 字は 魚偏に 京 (みやこ) と書きます



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参道脇の 萩の花





教科書では 538年に 百済から 仏教が伝来したと教えます

しかし 仏教が 筑紫に 伝わったという 記録が残っています

『雷山縁起』に 418年に 清賀上人が 仏教を伝えたとあります

王朝がある 筑紫に 多くの経典や 仏像や そして 梵鐘も 伝わりました

観世音寺 は


天智天皇が 母斉明天皇(崩御661年)の 追善のため 発願され

746年に落慶供養が行われたとされていますが

その間 80年もの空白の謎は 何を隠そうとしているのでしょうか


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苔むす 樟 の 古木 と 観世音寺講堂





観世音寺の 鐘の音は

筑紫 の 栄華 も そして 哀しみの物語も

すべてを 包み込んで

私 の 魂に 語りかけてくれました



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《 観世音寺 夕べの鐘に 花散れば 身も世も非ず 泣かまほしけれ 》


《 観世音寺 みあかし暗う 唯一人 普門品よむ 声にぬかずく 》


柳原 白蓮 の 歌






by nonkei7332 | 2015-09-24 08:33 | 古代史 | Comments(0)