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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

カテゴリ:古代史( 78 )


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地震前の 鯰三神社




《 鯰三神社 》を訪ねました

阿蘇熊本に残る 《大鯰伝説》で

大鯰が流れ着いたとされるところです

今も 〈鯰〉という地名がのこり そこにある 神社です

正式には 〈 三社宮鯰三神社 〉といわれています








嘉島町史 に拠れば

鯰村には 上社 下社 西社 という 三つの 神社があって

それぞれ 違う祭神

《 上社には 四面大菩薩 ( 高木大神?) 》

《 下社には 八幡大菩薩 ( 大幡主神?) 》

《 西社には 国祖大明神 ( 国龍神(草部吉見)?) 》

が祀ってあったのを 習合したとあります

(?は私見です)

とすれば この鯰神社の祭神 はいずれも 鯰をトーテムとした

古代熊本の 祖神 なのでしょうか



菊池の乙姫神社 山鹿の二宮神社など 肥後から 筑後 肥前にかけて

多くの神社で「鯰」が祀られています

各地にある 鯰の宮 の中から 私が この宮を 訪れた目的は

この宮こそが 元宮 だと思ったからでした

そして なによりも この地を 護る 産土神 の

荒ぶる神霊を 鎮めるためです



熊本県神社庁 によれば

今回の地震で 県内の社殿 約130 社

鳥居 約230基が 全壊したといいます



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荒れ果てた 境内には 人の気配はありませんでした

無残にも壊れた 台輪鳥居 と 傾いた 神門 には 近づけません

拝殿に貼られた 危険の赤紙 が 復旧の厳しさを物語っていました

そんな中でも 神木の楠は 青々と繁っていました





40年前 この地を初めて訪れた私でした

思い出と懐かしさの詰まった ふる里です

今でも お世話になった 方々が住んでおられます

傾いた 赤紙の貼られた 母屋のそばで

こんな 私の訪問を 喜んで 頂きました


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2015/10/26 拙ブログ 《 もうひとつのルーツ 》参照
http://hisamitsu.exblog.jp/25029702/




 

by nonkei7332 | 2016-06-23 12:40 | 古代史 | Comments(0)


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写真は 左から 真鍋大覚さん 宮崎康平さん 和子夫人
那珂川町の 裂田の溝 を訪れた時の様子です
「神々のふるさと」宮崎康平著 より




私が語る 二人の賢人 とは

宮崎康平 さん (1917~1980) と

真鍋大覚 さん (1923~1991)


の ことです


宮崎康平さん の 著書「まぼろしの邪馬臺國」(1967年) は

当時 邪馬台国論争の火付け役として 話題になった ベストセラーでしたが

古代史などには まったく興味がなかった私には

知ってはいても 目を通す事はありませんでした

その後 私が どんな人なんだろうと 興味を持ったは

さだまさし の 「邪馬臺」という歌を聴いた時だったのです

( 詳しくは 拙ブログ 1915/7/20 「海の日に」参照下さい )

それこそ 「出逢いは いつでも 偶然の風の中」でした



出逢い と言えば 私を 古代史へと 導いてくれたのは

ブログ「ひもろぎ逍遥」の 〈綾杉るな〉さん でした

綾杉ワールド は 多くの 出会いを私に与えてくれました

私が 記事の中で 《筑紫の賢人》と 勝手に 呼ばせていただいている

真鍋大覚さん との 出会いは 今では 大きな 存在です

図書館を巡って 真鍋さんの 書物を読みあさりました

難解な内容の書物ですので どうしても 自分の物にしたくて

綾杉さんに お聞きしてやっと手に入れたのが 『儺の国の星 拾遺』です

本の中で 度々 出てくるのが あの 宮崎康平さん の 名前でした

先日 数少ない 宮崎さんの著作の中で 『神々のふるさと』という本を

手に入れ 読んで 驚いたのが これまた 度々出てくる

真鍋さんの お名前だったのです



宮崎さんは本の中で こう書かれています


『 真鍋先生は 気象学者で 年輪と気象の関係を研究されている人である

私は その年輪から 古代の歴史を読み取ろうと すでに 何年も

先生について学び かつ 研究しているが おかげで 新しい幾多の事実を

確認することができた 』89p



奇しくも 同じ時代に 生まれた 古代史研究者 と 気象学者 の

お二人が 互いに 大事な存在であったことが

この本の 一行 一行 の 間に 感じることができますが

この 本の あとがき には

和子夫人が こんな 事を書かれていました



『 そもそも 康平 がはじめて『まぼろしの邪馬臺國』を世に問うてから

今日まで 大方の期待を裏切って なぜ 後続の著書を出さなかったかと

かねて先輩や友人からは苦言を呈され しかも 農園の経営や講演に

ひっぱりまわされて ペンを執ることがおろそかになったのではないか

と非難されたのだったが これは あくまで 副次的な現象で ほんとうは

九州大学の 真鍋大覚助教授 との出会いがきっかけで

脱線してしまったようなものである

人間が 自然をゆがめるほどの 巨大な力 を持ちはじめたのは

僅か百年このかたのことで 千七百年 という歳月は 自然界においては

束の間の時間にすぎない だから 古代に最も肉薄することができるのは

自然現象 を通じてだと考えた康平は 九州大学で航空気象学を

研究されている 真鍋大覚博士に教えを乞い 過去三千年にわたる

気象のプリントともいうべき 屋久杉の年輪を研究 を手始めに

〈気象〉〈日蝕〉〈海流〉等々 貴重なデータ や

九大図書館の資料を 提供していただいた 』




二人の賢人が あと10年 長生き されておられれば

新たな 古代史 発見に 大きく 寄与されたに違いないと

私 は 思っています



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by nonkei7332 | 2016-04-28 18:59 | 古代史 | Comments(0)


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博多駅前 大博通り




「 山笠のあるけん 博多たい 」

博多の住む人だけでなく 広く知られるこの 言葉は

かつて 某博多の銘菓が使った TVCM のコピーでした

その中で 博多や 博多町人の気質をこう言っていました


博多には 安泰を祈る 縁起担ぎ や しきたり が 今も息づいている

その中で生まれ育った博多っ子は あけっぴろげ で 人がいい

すこしばかり横行(おうぎょう)で祭り好き


博多出身 の 〈チューリップ〉は 名曲『博多っ子純情』の歌詞の中で

博多の男 をこう歌っています


男たちは とても見栄っ張りで気が強い

海の風に吹かれるから

だけど みんな 貰い泣きするようなやつ

酒を飲んで 肩をたたく


巷に言われる 「博多」のイメージはそんなとこかもしれません


それでは 何故 この町が

博多 と呼ばれるようになったかについては

知っているひとは少ないようです


《 博 多 》(はかた)というの 地名の語源については

Wikipedia では こう書かれています


「ハカタ」の語源は

「土地博(ひろ)く 人・物産多し」という言葉から「博多」

大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」

海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」


射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」

切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」

などの説がある。 
    


Wiki には 書かれていない ハカタ の語源に

『 伯 方 』(はかた) という 名前があります

〈方〉という漢字は 場所とか 国土 という意味があるので

〈伯〉がいた場所 とか 〈伯〉が治めた国土 という意味なのでしょうか

博多駅から 博多港へ一直線に伸びる 大通りがあります

『大博通り』といいます それから この通りから一筋入った 上呉服町には

大正時代に作られた 古き博多人にとっては懐かしい

「大博劇場」と呼ばれる 劇場(後に映画館となった)がありました


神社考古学の 故百嶋由一郎 さんは


この 「大博」(たいはく) という名前について

『太伯』(たいはく)の名残りが残っていると語られていました


魏志倭人伝 には

『 倭 は 呉(中国)の 太伯の子孫である』


と書かれています

呉太伯という 王は どんな人だったのかは

司馬遷が書いた「史記」に詳しく書かれています

それによると


紀元前10世紀ごろ 中国は 周 という国が治めていました

周の先王である〈古王〉には

太伯(たいはく)虞仲(ろちゅう)季歴(きれき)という

三人の息子がいました 古王は後継に 三男の 季歴 を選び

太伯 と 盧仲 は 南の地 に移り 「句呉」(後の呉)という国を興します

やがて 紀元前480年ごろから 〈呉〉は 隣の国 〈越〉と激しく争い

とうとう 紀元前473年 呉の最後の王 「夫差王」の時 呉は滅びます


中国の史書には


「周の元王三年 越は呉を亡し その庶(親族)ともに海に入りて 倭 となる」


と記されています

国を追われた 呉族系海洋民族 (白族・伯族) の一部は 海を渡り

博多湾岸にたどり着き やがて 倭人の国 奴国(なこく)をおこします

安曇族 の祖先 です


百嶋説 によると

古事記神話に出てくる 最初の神

『天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 』の 別名を

『白山姫』又の名を 菊理姫(くくりひめ) といい

全国の水天宮 や 白山姫神社 祀られている 女神 は

伯族の女神であります

その 弟は 奴国 の 先王 である『白川伯王』なのです

百嶋説では その息子こそが

博多の総鎮守 「櫛田神社」の主祭神

『大幡主神』(おおはたぬしのかみ)だと言われています

白川伯王には あと 二人の娘がいました

ひとりは 神武天皇(大白王子) の母 「神玉依姫」であり

もうひとりは 大国主命 の母である 「埴安姫」だと言われています

安曇族の祖神 『豊玉彦』(ヤタガラス) は

「大幡主神」伯族直系の 奴国の王子として

古代九州王朝の 礎を築いていったのでしょう


山笠が近ずくたびに 頭を悩ませていた

「 おくしださん の 謎 」

「 博多 の 主 」

少しは見えてきたような気がします



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百嶋系図 の一部





by nonkei7332 | 2016-04-09 18:42 | 古代史 | Comments(0)


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沙也可将軍 肖像画





司馬遼太郎 の本に 『街道をゆく』という 紀行集があります

この本との出会いは 40代の頃 でした

某商社の部長さんと お酒を飲んだ時の話で 話題が老後の話になりました

私 が 『 部長は老後はどんな生活をするつもりですか 』と聞くと

彼 は 『 司馬遼太郎の「街道をゆく」という紀行集があってね

彼が行った場所を同じように旅行をしようと思ってます 』と話されました

翌日 本屋に飛び込んで さっそく この本を買った

というのが この本との出会いでした


『街道をゆく』の中の

『韓のくに紀行』という本の中で

《 沙 也 可 》という 人物を知りました


沙 也 可(さやか) (1571年? - 1643年?)は

1592年 豊臣秀吉の 文禄・慶長の役の際 加藤清正の 先鋒隊長として

三千の兵を率いて 朝鮮に渡ったが なぜか 投降して朝鮮軍に加わり

朝鮮には無かった 鉄砲の技術を朝鮮に伝え 豊臣軍と戦います

その後 李朝14代宣祖(ソンジュ)の 臣下となり 功績により

正憲太夫の位と 金海金氏を名乗るよう賜り 号を 慕夏堂とし

名を 金忠善(キム・チュンソン)と改名 します

賜姓金海金氏の始祖として慶尚北道の友鹿里(ウロクリ)に

領土を与えられ 臣下と共に 朝鮮の民として その生涯を閉じます

現在 友鹿里 には 200名位の 沙也可の子孫が暮らし 半島全土には

4000名にもなる 氏族 がおられるようです

毎年 「鹿洞(ノクトン)書院」の「韓日友好館」には 2000人もの

日本人旅行者が訪れるといいます



沙也可 は 何故 反旗を翻したのでしょうか ?

沙也可 は いったい 誰だったのでしょうか ?


諸説ある中で

紀州の雑賀衆 ではないかという説 があります

雑賀衆は鉄砲の軍事傭兵部隊です 秀吉によって滅ぼされました

ただ 三千の兵を動かすだけの カリスマ性を持った

人物名が出て来ませんので 小説にはなりましたが

おそらく 違うでしょう


そこで 今 永年 伊都国糸島の 高祖山城主 であった


原田家の46代当主 原 田 信 種 (はらだのぶたね)


の名前が とりだたされています


原田家の出自は 古代 秦氏の大蔵一門 です

大蔵氏の氏祖は 漢の霊帝4代目の素孫 阿知使主 だと言われています

隋に追われ 百済を経て 倭国にきた 漢人系渡来人 です

応神・仁徳 の頃 呉国より 兄媛・弟媛・穴織・呉織 の 四媛 を連れてきて

養蚕・染色・機織・裁縫の技術を伝えたのも この人達でした


大蔵一党の三大豪族といえば 原田氏・秋月氏・高橋氏

いずれも 筑紫の豪族です 特に 嫡流の 原田家 は

藤原純友の乱を平定した功績により 太宰少弐の官位を与えられ

筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬を管理することになります

当初 基山に拠点を置きましたが 麓の原田に移り 原田家を名乗りました

その後 岩門城(那珂川町)をへて 建仁3年(1203年)

怡土郡五郎丸(三雲)に移り原田種継・種頼親子が 高祖山城を築き

麓に館を構えて 原田氏代々の本拠としました

中世の博多は 戦乱が続きます

原田氏は 西国一の守護大名になった 大内義明 の傘下に入ります

その後 大内家と共に 大友氏と戦い 筑前統一を成し遂げます

大内氏拡大の裏で原田氏の貢献は大きく

1551年 大内義隆が 陶晴賢 の謀反により 討たれるまで

永年に渡る 友好関係は続いたといいます

45代原田隆種 自身も 義隆から「隆」の字を貰い受けた間柄だったので

大内氏への恩義から原田隆種は陶氏の指図に服しなかったといいます

陶氏 は 大友氏 と組みしたので 原田家には 苦難の時代が続きます

やがて時代は 秀吉の時代へと変わっていきます

天正二年(1574年)46代 原田信種 が家督を継ぎます

秀吉が島津征伐で 九州に凱旋すると 島津と同盟を結んでいた 信種は

徹底抗戦するつもりでいましたが その強力な陣立に勝ち目はないと思い

秀吉に降伏します 秀吉が原田家 の 所領を尋ねたところ

広すぎると 没収されるとの考えから少なく報告したことが

秀吉の神経を逆撫でする事となってしまいます

その結果 筑後に三百町歩を与えられ 肥後へ国替えとなってしまいます

高祖山城は破壊され 家臣達は帰農したり 他家へ仕官していって

原田信種 は 全てを失ってしまいます

肥後熊本城主となった加藤清正の 下で 信種 は再起にそなえます


ここからが 原田信種 の謎の歴史です

( 史実にもとずく フィクション です )

秀吉の朝鮮出兵 で 名護屋城 に全国の大名が集まります

その中でも 加藤清正 と 小西行長 が 中心となる 陣立が組まれます

信種は 名護屋城に近い 糸島の地の利を生かし 加藤清正の許しを得て

原田家 再興の のろしを 上げたのです

他家に仕官した臣下も 刀を鍬に変えた 臣下達も 傍に 鉄砲を抱えて

名護屋に集まります

その数 600名 その気勢は 他軍を圧していました

軍議は 半島の海岸沿いに 小西軍 山沿いを加藤軍 が攻め上がるものでした

信種 率いる 3000の兵は 原田隊を先頭に 金海(キメ)近くに上陸し

洛東江(ナクトン川)を北上します

朝鮮軍は 初めて見る鉄砲に驚き 散りじりに 逃げていくばかりです

信種軍は 中流にある 友鹿里(ウロクリ)に陣を建てます

山河は美しく かつての 伽耶の民と言われた 農民達の老いた母を背負い

逃げていくその後ろ姿に 故郷糸島の事を思いだしていました


『 俺はいったい 何をやろうとしているのか

憎き 秀吉の為に 故郷の糸島の匂いのする この美しき山河を

壊してしまう 義 とは何なのだろうか

我を信じて 集まった 原田の民が望んでいるのは 』


海をはさんだ 伽耶 と 伊都 を繋ぐ いにしえの 魂の叫びに

信種 の 想い は 玄海の海 のように 激しく 震えるのでした

戸惑う兵を前にして 原田信種 は 叫びました


『 我が軍 に 義 なし 』


驚いたのは 朝鮮軍でした やがて 沙也可と呼ばれた 原田信種 と

原田軍は 銃砲を 南に向けたのでした。



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司馬遼太郎 さん



司馬遼太郎 は 「韓のくに紀行」の中で こう書いています


『 国家という面倒なものが無いに等しかった 古代を

我々は その洋上の街道をゆく時 懐かしまざるをえない

そういう時代 朝鮮人は日本へ冬に来た、

冬になると 風は 日本に向かって吹くからである

我々 日本人の血に 朝鮮半島通過の血液が混じるのは

この海域を吹く風がそれを 運んで来たのに ちがいない 』



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糸島二見ヶ浦





春の穏やかなる 3月3日 伊都国を訪ねます

女神 が 眠る この里に 海を渡って吹く風は

沙也可の魂 を 運んでくれるでしょうか






by nonkei7332 | 2016-02-29 23:40 | 古代史 | Comments(0)


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「鉄の王キムスロ」で ソクタレ を演じる イ・ピルモ さん




新羅の国の王朝は

朴氏・昔氏・金氏 の族長が 国を治めてきました

特に 卵が絡む王として有名なのが 第4代 昔脱解(ソクタレ)王 です

この王様 倭人の血を引いた 王だったのです

朝鮮の歴史書『三国史記』にはこう書かれています

《 倭国の東北1千里のところにある多婆那国 の王様が

女人国(不明)の王女を妻に迎え王妃としました


大妃は 妊娠してから7年後に大きな卵を産みました

王様は不吉だと言って 捨てるように言います

王妃は捨てるに忍びず 卵を絹に包んで宝物と一緒に

箱に入れて海に流しました

卵は やがて 伽耶国 に流れ着きますが 人々は怪しんで

箱を引き上げようとはしませんでした 箱はさらに流されて

阿珍浦の浜辺(慶州)に打ち上げられました この時 紀元前19年でした

老婆がその箱を開け 中にいた男の子を育てます

男の子は立派に成長し 第二代南解王の娘を娶り

軍事・国政を担う大輔の地位につき

西暦57年 新羅の第4代脱解王 が誕生します 》

また 歴史書『三国遺事』によると

初代からの 朴氏の王族ではないので 姓がわからず

ただ 箱が流れ着いた時にそばに 鵲(かささぎ)がいたことから

鵲の字を略して 「昔」を姓としたとあり

箱を開いて生まれてきたことから「脱解」を名としたと書かれています

西暦57年という年は 漢の光武帝が倭国王に金印を授けた年です


さて 問題なのは 多婆那国 とは何処なのか という事です

丹後国 だったというのが 主流をしめていますが

《多婆那》は 《玉名》(熊本県玉名市) であったという説があります

鵲(かささぎ)がいた国と考えれば 筑後の玉名しか考えられませんし

もともと イザナミ や スサノオ を 昔氏 を名乗っています

二人とも 新羅とは縁のある人物でした

日本書記には スサノオ は 高天原を追われ 新羅の国に行きますが

「私の住む国ではない」といって 息子 五十猛神(イソノタケル)とともに

渡来してきたとありますし

天日槍(アメノヒボコ)は 新羅の王子で

妻のアカル姫を追って 母国伊都国 (糸島) に渡来してきたと

筑前風土記には 書かれています

そう考えれば 多婆那 とは 玉名 であり 狗奴国 だったのかもしれません

脱解王 は 狗奴国 の王子だったのです


話は 韓流ドラマ 「鉄の王 キムスロ」にもどりますが

このドラマの中にも 脱解王 は 《ソクタレ》として

キムスロ の ライバルとして登場します

ここでは 親に捨てられ 伽耶国に流れ着いた ソクタレは

鍛冶職人として 力をつけ キムスロ と鉄器の製造技術を競います

やがて 新羅の将軍となり


伽耶国をめぐって キムスロ と戦いますが 最後は キムスロ を認め

自分は 新羅の王となるというストーリーでした


〈伊都国〉と〈狗奴国〉に 出自をもつ 《金首露》と《昔脱解》が

〈伽耶〉と 〈新羅〉をめぐって 対立する

倭国における 対立が 半島でも繰り広げられたといえば

なんと 興味深い 話なのでしょう







by nonkei7332 | 2016-02-28 15:00 | 古代史 | Comments(0)


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「鉄の王キムスロ」で キムスロ を演じる チソン さん




古代朝鮮の国々は 倭国と密接な関係をもっていました

とくに 伽耶 は 古くは 金海伽耶 と呼ばれ

歴史書(魏志倭人伝)には 狗邪国 狗邪韓国 と書かれ

倭国の中の 一つの国家として 位置づけられています

金海金氏 の 始祖として 伽耶国を建国したのが

『 金 首 露 』です


建国神話によると 金首露は 天降った6個の金の卵の中から生まれ

一番最初に殻を破って世に出てきたので首露と名づけられた

6個の卵からそれぞれ生まれた男の子たちは

伽耶六部族国家の長となり 後にこれらの部族国家が

金首露の下に統合されて 西暦42年 伽耶国が建国されたとされています

そういえば 高句麗も新羅も伽耶も 半島国家の始祖は

神話の中で ほとんどが 卵から 生まれています

いずれも 他国から 流されてきた 王子 だったようです


韓流ドラマ に 『 鉄の王 キム・スロ 』があります

韓流歴史ドラマから 半島の歴史を学んだ 私にとっては

当然 何度も見た ドラマ です


《あらすじ》

狗邪(クヤ)国は優秀な製鉄技術によって栄えているが、

9つの村の部族長たちの合議制で成り立っていて王がいない国だった

北方から来た子が王になるというお告げを受けた祭司長イビガは

乗った船が難破して流れ着いた チョンギョン(スロの母)が

そのお告げに関係すると考え求婚する

チョンギョンも自分の子が王になると信じ

イビガを受け入れて イジンアシ(スロの異父弟)を生み

王になる教育をほどこしていく

だが お告げの主はチョンギョンの前夫との子供で

難破で死んだと思われていた キム・スロ のことであった

浜で拾われたスロは鍛冶長チョバンの子として


優秀な鍛冶職人に成長していく

スロは自分が王になるなどとは思っていない

だが 運命は彼に王への道を示し 数々の試練を乗り越えて

成長していく スロは やがて 王となり

鉄器製造技術を武器に伽耶国を海洋貿易国家へと導いていった



糸島半島 に 可也山(かやさん) という 山があります

綺麗な山で 糸島富士とも呼ばれています

伊都国は 製鉄の技術を持った 国でした

おそらく 伽耶国 と 伊都国 は 海を隔ててはいますが

同じ国だったのかもしれません

キムスロ の 王妃 はインドの豪商の娘 許黄玉(ホ・ファンオク)です

キムスロとの間に10人の子をつくります

10番目に生まれた 娘 が 《卑弥呼》だという説があります

糸島伊都国は

キムスロの娘 女王卑弥呼の治めた 国だったのでしょうか





by nonkei7332 | 2016-02-24 16:30 | 古代史 | Comments(0)

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木偏に 冬と書いて 柊 (ひいらぎ) と読みます


冬に白い花をつけます

葉先が尖っていて 人の進入を防ぐ為でしょうか 垣根によく使われます

この 柊 は 昔から 邪気を祓うとされて 庭の北東(表鬼門)に 柊 を

南西(裏鬼門) には 南天を植えると 良いと言われています


伝承によれば 昔 山神達は 杖をついて 山から下りてきたと言います

そして 山の戻る時には その杖を 地面に突き刺して帰りました

やがて その杖から 根が生えて 花が咲くと

村 の その年は 豊年満作 になるといわれていたのでした

その杖は 〈柊の木〉だったのです

山神 は 村の土地の精霊に向かって 必ず 根を生やし 花を咲かせよと

祈っていったのでしょうか それとも

鉄の民であった 山神が 多くの木を伐って 麓の田畑を荒らした

償いだったのでしょうか


渡来の神 が 木を植えていったという故事があります

紀の国 の 起源である 佐賀の〈基山〉には

スサノオ が 高天原から追放され 子供の五十猛神 と新羅に行き

持ち帰った木の種を最初に植えたという伝承が残っています

(基山山頂には「日本植林発祥の地碑」があります)


《柊》は 《疼木》という 漢字でも使います

もともと 〈ひいらぐ〉という意味から ついた名前ですが

〈ひいらぐ〉は ヒリヒリ痛む とという意味です

やまいだれ に 冬をいれた〈疼〉の字は

〈うずく〉とか〈いたい〉と読みます

若い頃の 痛みも 疼きも いつかは 消えていきます

柊の葉も 若い頃には 棘だらけですが

必ず いつかは 丸くなっていくといいます

人も 歳を重ねるごとに 丸くなるといいですね



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by nonkei7332 | 2016-02-17 17:40 | 古代史 | Comments(2)


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能面 「般若」「山姥」 (福岡市博物館所蔵)




今日は 《節分》です

そもそも 〈季節を分ける〉日のことを言ったので

年に四回の節分があるのですが そのうち 一年の始まりとされる

〈立春〉の前日だけが 節分として 残っています

暦の上では 今日は 大みそか みたいなものですね


さて 先日は 《 鬼 》の話をしました

鬼は 山の幸を麓の村にもたらす 山の神の使いだといいましたが

もう一人 山に棲む 怖い 妖怪 の姿をした 山の神がいます

それは 《 山 姥 》(やまんば) です

昔ばなしには 鬼や山姥の話が多く残っています

そんな昔ばなし の中には こんな お話がありました



《 節分の鬼 (岩手の話) 》


昔、ある山里に、

妻も子供にも先立たれた一人暮らしの貧乏な爺さんがいました。

爺さんは毎日二人の息子のお墓にお参りすることだけが楽しみでした。

やがて冬になり、村はすっぽりと深い雪に埋もれ、

爺さんもじっと家の中に閉じこもっていました。

節分の日、寂しさに耐えられず、爺さんは雪に埋まりながら

二人の墓参りに出かけました。村のどの家からも

『鬼は外、福は内』と楽しそうな家族の声が聞こえてきました。

爺さんはしみじみ一人ぼっちが身に染みて、

涙があふれて止まりませんでした。

墓参りから帰った爺さんは、息子が生きていた頃に作ってくれた

鬼のお面を取り出して、昔の楽しかった時を思い出していました。

『妻も子供ももういない、ましてや福の神など どこにもいやしねえ』

そう思った爺さんは、鬼の面をかぶり、

わざとあべこべに叫びながら豆をまき始めました。

『鬼は内!福は外!』

すると、爺さんの家に誰かが訪ねてきました。

それは、節分の豆に追われた鬼たちでした。

この家に客人とは何年ぶりでしょう、

たとえ鬼でも爺さんは嬉しくなりました。

鬼たちはみんな爺さんの家に集まり、持ってきた甘酒やご馳走で

大宴会が始まりました。やがて朝になると、鬼たちは

「来年も来るから」と上機嫌で帰って行きました。

やがて春になった頃、爺さんは鬼の置いて行ったお金で

二人の墓を立派に作り直しました。そして

『おら、もう少し長生きすることにしただ』

『来年も鬼を呼ばないといけないからなぁ』

と晴れ晴れした顔で言いました。

(日本昔ばなし より)





《 ちょうふく山 の 山んば (秋田の話) 》


ちょうふく山に住む 山んば が子どもを産みました。

ふもとに住む村人に祝いの餅をもって来いといいつけると

村人は餅をついたものの、誰も怖がって持っていこうとしません

村一番の乱暴者のカモ安と権六に頼むことになりましたが

二人とも山んばが怖くて、道を知らないから行けないとごねました。

そこで、村一番の年寄りの杉山の 大ばんば が

道案内役としてついていくことになりました

山を登っていく途中で山んばの声が聞こえると、

カモ安と権六は 大ばんば と餅を置いて逃げていってしまいました

大ばんば は しかたなく餅をその場において、頂上まで行き、

山んばの家を訪ねて、事情を話しました

すると昨日産まれたばかりの まる という子どもが

ひとっ飛びで餅を担いで帰ってきました

その後 大ばんば は 山んば に引き留められて二十一日間

山んばの世話をして、そのお礼にと錦の反物を貰って帰ってきました

村に戻ると おばんば が死んだものと思われていて

ちょうど おばんばの葬式をしているところだったのです

大ばんば は事情を話して、

山んばからもらった錦をみんなにも分けてあげました

不思議なことにこの錦の反物は

いくら使っても なくなることがなかったといわれています

(日本昔ばなし より)


鬼と山姥 は 昔ばなしの中では 温かい心をを持った

麓の村に 多くの幸を届けた 神々として生きていました

特に 山姥伝説は 山の神は 女神だったことを 教えてくれます

そういえば 富士山の神は 浅間神社の 祭神

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)でしたし

脊振山の脊振神社の神は 市杵島姫(いちきしまひめ)でした

宝満山の竈門神社の神は 玉依姫(たまよりひめ)

香春岳の香春神社の神は 辛国息長大姫(からくにおきながおおひめ)

別名を 宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ) あの 稲荷の女神です


このように 山の神は 女神 ばかりです


だとすれば 山姥 は どんな 女神だったのでしょう


昔ばなしの中には 餅と反物 を交換していましたね

機を織るといえば 七夕の起源とされる

《棚機津女(たなばたつめ)の伝説》があります

棚機津女とは 七月七日に訪れる神様を迎えて祀るため

町や村の乙女が水辺の機屋に籠もって機を織るというものです

七月六日に訪れた神様は 翌日の七日に帰ります

このとき水辺で禊ぎ(みそぎ) を行うと

災難とのかかわりを取り去ってくれると考えられています

もう一つ《山姥の洗濯日》という 伝説があります

北九州では 暮れの十三日 または 二十日には 必ず雨が降るから

水を使ってはいけないとか 洗濯をしてはいけないとする日があります

雨を司る山姥(山神の巫女)の禊の日であったものだといわれています


山の幸と麓の村の幸を交換するのが 《市》の起源だとされていますが

この〈市〉の 名前がついた 女神が 一人 おられます

《 神大市姫 》(かむおおいちひめ)

別名を 大歳御祖神(おおとしおやのかみ)とも呼ばれています

この女神は 木花咲耶姫 のお姉さんです

あの 醜い 磐長姫(いわながひめ) と呼ばれた 女神です

龍神 とも呼ばれていて

辛国息長大姫(稲荷神) のお母さんです

実は 去年 京都の松尾大社の奥宮 松尾山から流れる 滝のそばで

この女神にお会いしました

そこは 身震いがするほどの 霊域でした

山姥の女神の名前が 書かれていました


《 罔象女神 》(みずはのめのかみ)



水の全ての禊を司る 女神


あの 《 瀬織津姫 》(せおりつひめ) ともいわれています


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松尾大社 滝御前



小さな頃の 我が家の慣例 元旦の朝 銭湯へ行く理由を

兄が言ったように 「正月だから」という意味で

なんとなく そんなものだと思っていました

最近 そのより深い 理由を知る事ができました

町の銭湯も少なくなりましたので 若い人は知らないでしょうが

昔の銭湯の 壁絵には 必ずといっていいほど

《富士山の絵》が描かれていました

長年 この富士山 だけの絵 を描かれていた人がこんな話をされていました


『この絵は 海でも 花でもいいわけではない

何故なら この絵は 宗教画だからです

富士山は 神の山です

山から流れ出る 神水で 心身ともに 浄めることは

禊(みそぎ) の儀式なんです 』


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銭湯富士山絵


今日は 節分の日 暦の上での 大晦日 だと いいました

昔のように 富士山の描かれた銭湯で

新しい季節の始めに 家族揃って身を浄めたいものですが

家族も 銭湯も もう 私のそばには ありません

時は いつのまにか ひとつの昔ばなしを 消そうとしています


妖怪にされてしまった 鬼 や 山姥 の 神

よみがえれ !! 祓い浄め の 水の女神よ !!

この 汚れきった 世の中を 洗い流すために








by nonkei7332 | 2016-02-03 12:09 | 古代史 | Comments(2)

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雲仙市 橘神社の 世界一大きい 門松




日本人は嬉しい事があったら

『盆と正月が一緒に来た』という言葉を使います

一年の中に 祝うべき日が二日あったからです

おそらく 冬至(12/22) と 夏至(6/21) の季節の節目を祝ったのが

そもそもの起源でしょうが 何度か 暦や風習が変わっていき

現在のような 祝祭 に変わってしまいました

冬の正月 と 夏の七夕 (仏教に習合され 盆となった) がそれです



特に 正月は昔の村々では 歳神様 という その氏族の祖先神を

迎える行事だったといわれています

その名残が 今ではもう見られる事が少なくなった

「門松」「注連飾り」に残っています

こういった松飾りを飾っておく期間を「松の内」といいます

地方よっては 7日だったり 15日だったりしますが

松飾りは 歳神様が道に迷う事なく 家々に迎えるための目印とも

家に歳神様の滞在を示す印だともいわれていました

その松飾りを焼くことで お送りするのが

「どんと焼き」などと呼ばれる 各地の火祭りです


さてさて 歳神様といわれる 祖先神はどこにおられたのでしょうか

それは 「山」です 歳神様は 「山の神」だったのです

その昔 人とも 神ともいえない 神人(かみびと)が山には住んでいました

冬になると 里に下りてきて 山の幸と里の幸を交換しては

山に帰ったといいます

神人は 赤い顔をしたり 青い顔をしたり 片目が無かったり

鼻が異様に高かったり そんな 顔をしていました

そうです 後の世に 「鬼」とか「天狗」と呼ばれた人達でした

神人は いろんな 山のみやげ物を 麓の村に もってきました

遠い昔 稲作を村に教えたのも 神人でした

山で木を刈り炭を作り その火で鉄を造っていました

その鉄で 鍬(くわ) や 鋤(すき) を造っては 村人を助けました

酒の作り方も 薬も 村人に与えたのでした

そして 神人は 星を読むことができました

星を読んでは 暦を作り 村人にその年の 天地の動きを教え

稲を植える品種 や 時期までも教えていたのです

沢山のみやげを持ってきてくれる 神人を 村人は 正月になると

門松を立て 晴れ着を着て迎えたのでした

平和な 風景 だったのでしょう



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太宰府天満宮 鬼すべ神事



1月7日に 太宰府天満宮や糸島市の老松神社では

「鬼すべ神事」や「鷽替え神事」が行われます

歳神様(神人)を迎えた 村人の祭りの面影を残しています

ただ 悲しい事に 日本の 偽りの 歴史は

神人(鬼・天狗) を 幸をもたらす者から

災いをもたらす者へと 変えてしまいました

そのもっともひどい行事が 「節分」です

《鬼は外 福は内》といって 鬼に豆を投げつけます

本来の姿は 《鬼は内 福も内》と言って 頂いた土産と交換に

里で取れた 豆を 鬼に献納したのではないかと思います

ちなみに 埼玉県嵐山町の鬼鎮神社 や 奈良県天川村の天河神社など

多くの神社やお寺での 節分には 《鬼は内 福も内》と言っているのです

最近はやりの 節分の 恵方巻 も 歳神様のいる方向(南南西)

を向いて食べないといけないといいます

歳神様(鬼)から頂いた物への感謝のお返しなのです



初春に行われる 風習や神事の起源は

山の神から そして もつと古くは 海の彼方から 来訪すると信じた

祖先神を 祀る事だつたのでしょう


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沖津宮 御手洗浜




明日 私は 海神の住む 龍の都 志賀海神社に行きます

遠い昔に 海の彼方から 渡ってきた 祖先神 に

今年一年の 感謝の想いを伝えます

今頃 明日の『歩射祭』のために 八人の若者が

沖津宮 の 御手洗浜 の海に入って


禊 (みそぎ) をしている ころでしょうか








by nonkei7332 | 2016-01-16 13:11 | 古代史 | Comments(0)


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博多松囃子





『博多どんたく港まつり』

5月の連休に行われ 200万人もの人が集まる

博多の祭 〈どんたく〉 の 正式名称です

ところが この 〈どんたく〉と言い出したのは 明治以降で

それまでは 『博多松囃子』と言っていました

それも 5月ではなく 正月の行事だったのです

古来から 正月になると 門松をたてます

その年の新しい神様が松に降りてくるといわれていました

松囃子 は その松を伴って それぞれの 領主に年賀挨拶をする

行事として始まったとされます 室町時代だといわれますが

その 起源は 定かではありません もっと古いのかもしれません


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博多町家館 より



謡曲に 『蘆刈』という演目があります

この話は 仁徳天皇のころ 〈津の国難波の都・博多〉の話です

貧困の為 別れた夫婦がいました その後 妻は高貴な家の乳母となり

夫を探しに筑紫の国にきます そこで 蘆売りとなっていた夫と巡り会い

二人で 都に帰って行ったという話ですが

蘆売りの夫が 蘆を売るために 昔からの歌を賑やかに囃して謡います


名に負う梅の花笠、難波女の被く袖笠、

肘笠の雨の蘆辺も乱るるかたを波、彼方へざらりこの方へざらり、

ざらざらざっと風の上げたる古簾、つれづれもなき心よ、



津の国 難波の春は 夢なれや



仁徳天皇善政 と 筑紫の国の華やかさを歌っているのです

その風景こそ 〈博多松囃子〉の いにしえの風景に見えてくるのです

梅 ・ 松 ・ 笠 これは 九州王朝の象徴でもあります


囃子の語源をたどると はやす(生やす) に繋がります

〈囃す〉は 増殖させる 増やす 豊にする の意味でもあります

『松囃子』の意味するものは

松である かつての 九州王朝を 偲び その思いを拡げていく

祭りではなかったのでは ないでしょうか



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京都今宮神社




京都の北に 《今宮神社》があります

ここでは 京都の三大奇祭 と呼ばれる『やすらい祭』があります

因みに あとの二つは 鞍馬寺の「鞍馬の火祭」そして

広隆寺の「太秦の牛祭」ですが ここでは ふれません

「やすらい祭」は 古来より疫神を鎮めるために行われていました

由緒によれば

『 神祇官の「鎮花祭」と「御霊会」が結びついた「花のまつり」で、

花の精にあおられて 飛散する悪魔の精霊を

囃子や 歌舞によって追い立てて 風流傘に宿らせ、

紫野ノ社に送り込んで神威を仰いで降伏させる 』

と 書かれています

元々は 3月に行われていました 花笠や若松もでてきます

博多松囃子 に よく似ています

やすらい を 「夜須礼」と書くそうです

『夜須に礼をつくす』という意味なのでしょうか



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やすらい祭



『夜須』といえば 日本書紀に

「神功皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峽宮に遷りたまふ」

とあります その後 羽白熊鷲を征服した 神功皇后は

「我が心則ち安し(やすし)」といったので

この地を「夜須」というようになったいう 伝承があります

夜須町は 筑前市 と名を変えましたが

松峡宮 とされる 跡地には

松峡八幡宮(まつおはちまんぐう)が鎮座します


明治以前においては 博多の松囃子が

朝倉夜須村に残る 宮家に参詣していたとする 伝承もあるのです

( 文献として 残っているかどうか 調査中 )



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松峡八幡宮 ( 空 sora そら さんのブログより)



気になる 都市伝説を ひとつ

京都弁で 「おいでやす」「おこしやす」というように

語尾に 「やす」という言葉を使いますがが 宮廷言葉からきたもので

「やす」は 「夜須」が語源だとの事



京都 今宮神社の 「やすらい祭り」 の 発祥は 博多の「松囃子」

京都 下鴨神社の 「葵祭り」の 発祥は 背振神社の 「賀茂まつり」

あとひとつの 謎解きは

京都 八坂神社の 「祇園祭り」の 発祥は・・・


博多 櫛田神社の 「博多山笠」?。



京都の謎 と 妄想は どこまでも 続いていきます。







by nonkei7332 | 2015-11-23 16:57 | 古代史 | Comments(4)

by ヒサミツ