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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

カテゴリ:古代史( 79 )



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興福寺 阿修羅像と八部衆像(一部)




奈良興福寺 阿修羅像 と 八部衆達です



阿修羅 とは



インドにおける 仏教以前の 古代神 八部衆のひとりです



釈迦に帰依して 十大弟子と共に 護身善神となったといいます



ちなみに 八部衆とは



五部浄(ごぶじょう)・沙羯羅(さから)・鳩槃荼(くばんだ)



乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)



緊那羅(きんなら)・畢婆迦羅(ひばから)




本来 闘いの神 荒ぶる神 と言われた 阿修羅



優しい少年の顔をして 合掌している 三面六臂の姿は



何を 物語っているのでしょうか




神亀4年(727年) 待望の男の子 基王(もといおう)の誕生に



光明皇后と聖武天皇の喜びに包まれていました



しかし その 喜びも束の間 愛児は



一歳の誕生日を前にして 亡くなります



失意の中 6年後 亡き基王を偲び 光明皇后によって



阿修羅像 は造られたといわれています




光明皇后 一生も 修羅 の道 だったのでしょう




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光明皇后 小泉淳 作




我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の嬉しからまし


万葉集8-1658 光明皇后



〈通釈〉


あなたと二人で この雪を見たのなら どれほど 嬉しかったでしょう



(あなたとは 夫である 聖武天皇 だと言われていますが



亡き 基王 だともいえるのかもしれませんね)









by nonkei7332 | 2017-04-10 10:30 | 古代史 | Comments(0)


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羽賀寺 木造十一面観音菩薩像





元正天皇 が モデル の 十一面観音像 です

福井県 小浜市 羽賀寺 の 本尊です

霊亀2年(716) 元正天皇 勅願によって

行基 が 創建したとされる お寺です

観音像は 像高 146.4㎝ 元正天皇の等身大の 御影 だといわれています

数ある 十一面観音像の中でも 艶やかな 美しさは 際立っています



生涯 未婚であった 元正天皇でした

ミステリアス な 生涯 でしたので その影に 見え隠れする

三人の 男性の姿がよぎります



ひとりは 〈長屋王〉であり

ふたりめが 〈橘諸兄〉であり

そして 三人めが 〈泰澄〉です



長屋王は 氷高皇女(元正天皇)にもっとも 近い存在でした

4歳年下になりますが 小さな頃から の幼馴染だったようです

皇女の方が 皇位は上ですが 婿としての 決して不釣り合いな相手ではなく

将来を嘱望された 皇族のサラブレッドだったのです

しかし 運命は 長屋王の相手に 妹の 吉備内親王 を選びます

長屋王は 元正天皇の元で 太政官をつとめ 側近中の側近として

元正治世の中心的役割を担います

神亀6年(729年) 藤原不比等亡き後

その意思を引き継ぐ 藤原四兄弟が 聖武天皇を抱き込み

長屋王を失脚させるという

『長屋王の変』が起こります

長屋王家(長屋王 吉備内親王 そして 子供達) は 殺されてしまいます

運命の人 長屋王との 別離は 悲痛の極みでした



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長屋王墓




《 降る雪の 白髪までに 大君に 仕へ奉れば 貴くもあるか 》

万葉集 3922


【通解】

降り積もった雪のように 髪が白くなるまで

陛下に仕える事が出来たことを思うと

ありがたいものでございます


天平18年(746) 正月 皇宮に雪が降り 雪かきに来た 側近たちに

元正上皇が 雪を題にして 歌を詠ませた時 左大臣 橘諸兄 が歌った歌です

この時 上皇66歳 橘諸兄 62歳

長屋王 亡き後 ずっと 側で 支えてきた もう一人の 男が

橘諸兄(たちばなのもろえ) です

諸兄 も 長屋王と同じ歳でした

氷高皇女の乳母をしていたのが 諸兄の母 橘三千代 でした

おそらく 小さな頃から ずっと側にいて

姉のように 慕っていたのでしょう

そんな 諸兄 を 上皇は 生涯 側に置いたのでした


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橘諸兄 の墓




さて 十一面観音像 が 元正天皇 をモデルとされるのは

そこに 白山信仰の開祖 泰澄 の 存在があります

泰澄 は 21歳の時に 朝廷から 鎮護国家法師 に 任じられていました

おそらく 元正天皇は この頃から 泰澄を知り

帰依していたのではないでしょうか

泰澄 は 霊亀2年(718)

夢の中に現れた貴女(白山神)の呼びかけにより

養老元年(719)

白山へ登拝し 頂上で 白山神の本地仏 十一面観音を体現します

実は この時 元正天皇 は 霊亀元年(717) 2年(718) と 二度にわたり

美濃養老を 行幸されているのです

そこの 美泉 がもつ若返りの効能に感心された元正天皇は

元号を「霊亀」から「養老」へ改元されています

泰澄の白山開山と 元正天皇の養老改元が 同じ年であったのです

偶然なのでしょうか 泰澄 36歳 元正天皇38歳 の時です

ここからは 私の妄想です

泰澄 と 元正天皇 は 何度か 会っていたのではないか

養老7年(722) 元正天皇が病に伏すと 泰澄は 弟子の浄定行者とともに

都に赴いて元正天皇の病の治療にあたります

その効あって和尚は護持僧として禅師の位を授けられ、

諱(いみな)を 神融禅師 と号したといいます

元正天皇 崩御の折には 御自らの髪と歯が 泰澄の元へ 送られたといいます

平泉寺墓地には「御歯髪塚」が今も 残っているそうです



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平泉寺白山神社








by nonkei7332 | 2017-03-05 16:25 | 古代史 | Comments(0)


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養老改元1300年祭 公式ホームページ より
《 元正天皇 》





日本には 女帝は 8人おられます

皇后や皇太子妃 だった 女人が 天皇になっておられるのですが

歴史上 稀に見る 独身(未婚)の女帝が ひとりだけおられます

44代 天皇 元正天皇 (680~748) がその人です

在位は 715年から 724年 までの 9年でした


今 とっても気になる 女帝 (女神) です

元正天皇の目から 歴史を追ってみます


母は 43代 〈元明天皇〉この方も女帝です

女帝から 女帝への 母から 娘への 譲位だったのですね

このお母さん 天智天皇の娘です

父は 〈草壁皇子〉天武天皇 と 持統天皇 に 生まれた

血統強き 皇太子 だったのですが 皇位を継ぐこともなく

28歳という歳で 夭折します


父と母には 三人の 子供がいました


弟 ・軽皇子(かるのみこ)(のちの文武天皇)

私 ・氷高皇女(ひたかのひめみこ)(のちの元正天皇)

妹 ・吉備内親王(きびのないしんのう)(のちの長屋王の妃)


祖母 持統 は 祖父天武亡き後 父 草壁皇子 を 皇位につけるために

ライバルであった 大津皇子 を 亡き者にします

ところが 皮肉にも 草壁皇子 の 突然の死です

持統は 孫の 軽皇子(文武天皇) をと画策しますが 弟はまだ7歳です

持統は 自ら 41代を即位し 夫 天武天皇の治世の後を継ぎます

弟 軽皇子が15歳になると 42代文武天皇として 即位しますが

持統は上皇として 文武を補佐したのでした

5年後 (703年) 祖母持統上皇は 波乱の人生を閉じます 58歳でした

弟 文武天皇は 藤原不比等の娘 宮子を妃とします

首皇子(おびとのおおじ) が 生まれていましたが

弟文武 も 父(草壁皇子)のDNA を引き継いだのか 25歳で崩御

首皇子 またしても 7歳でした 宮子が心的障害を持っていたため

母 元明天皇 が 弟文武の後を継ぎ 43代天皇に即位します 47歳でした

皇后でない女帝の誕生でした

首皇子(のちの聖武天皇) が14歳になりました

譲位をして 年少天皇という選択もあったのですが

皇太子としての基盤作りを 最優先とした 藤原不比等 と 母元明天皇の

強い要望もあって 私に白羽の矢が立ち

聖武天皇 即位までの 中継として 44代 女帝として 即位したのでした

続日本紀の中には もっとも美しい 未婚の女帝 だと書かれています

氷高皇女(ひたかのひめみこ) 35歳の時でした


なぜ 未婚だったのかって ?


それは 謎ということにしておきましょう






by nonkei7332 | 2017-02-26 11:00 | 古代史 | Comments(2)


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霊峰白山





白山には 女神がすんでいます

なまえを 菊理姫 (くくりひめ)といいます 白山比咩ともいいます


古事記の神話には 《造化の三神》(ぞうかのさんじん) といって

天と地が出来たとき 高天原に成られた三柱の神様がおられました


〈天之御中主神〉(あめのみなかぬしのかみ)

〈高御産巣日神〉(たかみむすひのかみ)

〈神産巣日神〉(かみむすひのかみ)


一番初めに出てくる 最高神だといわれるのが

《 天之御中主神 》

この神様 アマテラス みたいに 有名な神様ではないのですが

みなかのぬし (真ん中におられる 中心におられる 主の神) なのです

主の神 といえば

大幡主命(オクシダサン)・豊国主命(ヤタガラス)

大国主命(ダイコクサマ)・事代主命(エビスサマ) などがおられます

博多から 出雲 越前に至る 領域を治めておたれました

〈主(ぬし)のつく神様 の頂上におられる神様です〉



それから 天(あま)の神様 といえば

天照大神(アマテラス)・天日槍(スサノオ)・天忍穂耳(ウミサチ)

天穂日(トヨタマヒコ)・天鈿女(アメノウズメ・オイナリサン)

などの神様がおられますが

いずれも 海を渡ってきた 神 なんですが

〈天(あま)のつく神様の頂上におられる神様でもあるのです〉



白山の女神 の 正体こそが 実は

《 天之御中主神 》だったのです



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白山平泉寺





今年になって

白山平泉寺 に住む 方と 不思議な縁で知り合えました

昨日 その方から 写真が届きました

2月10日 朝起きて 外を見た時の 雪景色だそうです

雪に埋もれた 霊峰白山

遠い 久遠の記憶を辿る 魂の旅 が

私の中で 始まったようです


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by nonkei7332 | 2017-02-15 13:19 | 古代史 | Comments(0)


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九州国立博物館に行きました

特別展という ふれこみにしては 来館者はまばらでした

宗像と沖ノ島 その祭祀と大和朝廷 のかかわり を主張した展示ですが

今ひとつ 焦点のぼけた 展示構成でした

沖ノ島の祭祀 については

4世紀後半から 9世紀末まで 出土した奉献品の数は

約8万点にも及び ほとんどが 国宝になっていて

「海の正倉院」とよばれていますが

大陸や半島との 対外交流によって もたらされた 多くの奉献品は

国家祭祀だったといわれています

そして その 国家というのが 大和朝廷(畿内王朝)だという

前提での 展示には 多くの疑問が残りました

そもそも「謎の4世紀」といわれるくらいです

沖ノ島の祭祀の主体が 最初から 宗像氏だったという事自体も 謎なのです

500年の間には 祭祀の形態も何度も変わっているわけで

宗像氏と大和朝廷が ずっと関わっていた祭祀だと言い切る理由は

どこにも見当たりませんでした

2017年の 世界遺産登録 のための

デモンストレーションなんでしょうか

世界遺産ってなんなのでしょうね

九州唯一の 国立博物館 こんなんでいいんでしょうか




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沖ノ島





出雲の沖にも 隠岐の島があります

宗像の沖にも 沖ノ島があります

字は違っても 同じ〈おきのしま〉です

列島と半島を繋ぐ 中継島 です 海人たちの 辿ったルートです

もうひとつ 中継島が あります 名前はよく似ています

おそらく 最も多くの 海人たちが 通ったであろう 中継島です

その島とは 壱岐の島 です

魏志倭人伝 に出てくる 一大国(壱岐) と 末盧国(唐津)へのルートです



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上の陸地が 九州 です



〈半島〉〜〈おきのしま・いきのしま〉〜〈出雲・宗像・唐津〉



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呼子町 加部島 の 田島神社



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先日 唐津 に 行きました

宗像と出雲の 原風景は 唐津に有りという

大それた真説を求めての 神社巡りです

唐津市湊町の 湊疫神社 と 呼子町加部島の 田島神社 を訪ねました

肥前の古書には 宗像大社の元宮は 田島神社 であると書かれています

宗像大社も田島神社も祭神は 三女神 なのですが

二つの神社の 千木は 男神です

大国主命(おおくにぬしのみこと) が隠れておられます



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風の見える丘公園 からの 展望




加部島 には〈風の見える丘公園〉があります

展望台にあがって 風を見ると

遠く 海の向こうから オモニ の歌が聞こえてきます






by nonkei7332 | 2017-02-12 23:55 | 古代史 | Comments(0)

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唐津の 『久里双水古墳』に行きました

全長 108.5メートル 後円部径 62.2メートル 前方部幅 42.8メートル


の 前方後円墳 です

私が去年見てきた 百舌古墳群などは 5世紀から7世紀のものですが

この古墳は 3世紀に造られたもので

国内でも 最も古い古墳のひとつです



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副葬品 は 後漢時代の「盤龍鏡(ばんりゅうきょう)」

「管玉(くがたま)」「刀子(とうす)」

被葬者は 末盧国 の王族 でしょうか



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墳丘に登りました

鏡山 の向こうに 浮嶽 が見えました

西には 松浦川が流れています 川が二つに別れている地点なので

双水 という地名みたいです

ズカズカと 登っていったので 墓に眠る王様が怒ったみたいです

突然の 驟雨

ビッショリ 濡れてしまいました



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《 おまえが墳丘にのぼれば 》

吉本 隆明




おまえが墳丘にのぼれば

そこは誄(るい)をひく長びいた音吐と幡旗(はた)の

しめやかな殯(あらき)の場にかわる

時間のないものが夢をみている

この首長の葬礼が長びくとして

たった三年くらいのあいだに

葬られた死者は 白鳥に

尾長は ふくろうに

風景は 廃市に

語り部は 乞食に

幡旗(はた)は 雲に

かたつむりは 死魚に

かわるといえる



  
それから疾風のように 夢は

とおい海を襲う

おまえが一瞬眠っているうち

この世界が革まるとしても

死にきれなかった下丁が

高句麗の軍歌などうたって

喜捨を乞う

その道に

千年も前のあせびの白い花が垂れている




けっきょくこれは風景

ほんの小さな安息日

無際限にふりそそぐ夏の炎から

おまえの渇きに送られた訴状だ

それから挨拶だ

かすれた咽喉がありったけ時間を呑みこむとしてわ

とうていおまえに耐えられない この

時間を失った夢を

殺りくの山陽(やまなみひなた)の道の岸べから

まっさおな空と

ひきつった雲に投げかけることは

愛の死を意味している


 

丹(に)の土の層 それらしい土器のかけら

あけび色の蔓から第五号墳丘の土面に昇ってくる

さらば 夏の日の

迅速な憩い  








by nonkei7332 | 2017-02-04 11:07 | 古代史 | Comments(0)


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神奈備(かんなび) とは

神籬(ひもろぎ) と 磐座(いわくら) の総称でもあります

神が「鎮座する」または「隠れ住まう」

山 や 森 や 岩 や 滝 などの 神域 のことをいいます

今年も たくさんの 神奈備を 訪ねてきましたが

最後の 杜 は 太宰府 五条 でした



伊藤まさこ著 『太宰府・宝満・沖ノ島』を読んで

ずっと 気になる場所が 記事の中にありました


第2章 倭国の成立

(6) 王宮はどこに置かれていたか~太宰府の中心ラインを復元する


太宰府の古代 王宮はどこだったのか という興味深い内容でした

山頂・王墓・神社を結ぶ 古代の祭祀ラインを手掛かりに

消された 歴史を 復元する というのが 伊藤さんの試みです

まず 太宰府の四角形の謎解きでした

〈宝満山〉の西に5km の位置にあるのが 〈大城山(四王寺山) 〉

南に 5km の位置にあるのが 〈宮地岳〉それを結び

もう一点の頂点は JR二日市駅の西側にある 〈塔ノ原〉付近

この 四つの頂点を結ぶと ほぼ正方形の聖域が出来上がるといいます

塔ノ原には 定かではないらしいのですが 何かがあったのでしょう

昔から 宝満山は太宰府の鬼門(東北)と言われているので

その中心となる 王宮の位置は 正方形の中心地点

太宰府天満宮から 南西に 500M くらいに行ったところにある

高尾山の斜面に鎮座する 《石穴稲荷神社》ではなかったかというのが

伊藤さんの 説 でした


天満宮 や 観世音寺 や 竈門神社 や 光明禅寺 に行くことがあっても

この 石穴神社を 訪れる参拝者は 極めて少ないみたいです

近くに住んでいたことがある私でも知らなかった 神社 です

伊藤さんは その由緒と 様子を 詳しく書かれていましたが

どうしても行ってみたいという 衝動には勝てません

近くにお住いの Tomさん に連絡すると 案内しますよ との返事

今年の 最後の神奈備訪問となりました


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場所は 筑紫女学園大学入口のすぐ側にありました

祭神は 宇迦之御霊大神(うかのみたまのおおかみ) 稲荷神です

由緒 は 文献や資料が消失して残ってないので

伝承によると 菅原道真が 太宰府に降られた時に

一緒に来られた神様だとされています どうやら

菅公没後に京都伏見稲荷が勧請されたようです


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本殿の横から 奥に 〈奥の院〉と呼ばれる

巨大な磐座(いわくら)がありました

まず 入口で 靴を脱ぎ 準備してある 履物を履き替えねばなりません

これだけでも エッと 身が竦みます

濡れた 石道を 転ばないように 登りました

聞こえてくるのは 鳥の鳴き声 と 耳をすますと 微かに

高尾山を水源とする せせらぎの音が聞こえます

上り詰めた処に 桃若稲荷神社 の祠があります





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一帯は 2Mから3Mの岩が 重なるように点在する 磐座です

ここが奥の院の入り口 左奥に トタン屋根があり 奥の院 がみえます

足元が滑るので 危険なので奥には進みませんでした

ここは神社境内とは 全くの別空間といってもいいでしょう


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神迎えの 原始信仰としての 神奈備の杜 としての 〈奥の院〉 と

後世 菅公守護の元で 京都から勧請された伏見稲荷の〈本殿〉

神道の変遷が 同時に見られる 特異な聖地でもあるのです


日本書紀 神功皇后62年条に 面白い話がありました

『 新羅からの朝貢がなかったので、葛城襲津彦が新羅討伐に派遣し

新羅 を討とうと した。 『百済記』によると 沙至比跪(襲津彦)は

新羅から出された女性二人を受け取り 反逆して加羅國 を 討 った

加羅王 は百済に 逃げ込み 事の次第を伝える

この事が日本の天皇に伝わり 天皇 は 怒って兵 を送り加羅國を助ける

襲津彦は天皇が怒っているのを知って 公 には 帰らず 潜伏する。

襲津彦の妹に天皇へ仕えている者が居たので

襲津彦は 使 いを 送って 取 り次いでもらおうとする

妹が天皇に夢で襲津彦を見たと伝えてみる と

天皇 はなぜ 帰ってくる と 怒ったという

襲津彦は天皇の怒りが解けない事を知り、石穴に入っ て 自殺した 』


九州王朝説の 古田武彦さんは

『ここに 古代王朝ありき』 の中で

この「石穴」は 太宰府の石穴神社ではないかと書かれています

襲津彦の妹が気になりますが 天皇に仕えていたとなると

襲津彦の娘である 磐之媛は 仁徳天皇の妃だったので

ここにでる 天皇とは 仁徳天皇になるのでしょうか




古代の太宰府の王宮は何処か

その 王 とは

石穴 が 何かを つぶやいていましたが


Tomさん には 何かが聴こえていたみたいですが

私には まだ 聴こえなかったようです





赤 : 石穴稲荷神社
黄 : 大城山
緑 : 宝満山
青 : 宮地岳
紫 : 塔ノ原









by nonkei7332 | 2016-12-26 09:14 | 古代史 | Comments(0)


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白山連峰




NHKBSプレミアム

『 八百万の神がすむ山河~村治佳織・白洲正子祈りの道を往く』

(初回放送:2011年)の再放送を見ました


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白洲正子



白洲正子 (しらすまさこ)

1910-1998 昭和・平成時代の随筆家

明治43年1月7日生まれ。伯爵樺山愛輔の次女。

夫は 吉田茂の側近で活躍した 白洲次郎。

女人禁制の能舞台に演者としてはじめてたつ。

昭和18年「お能」を刊行し

「能面」「かくれ里」で 読売文学賞を二度受賞

古美術 古典文学 紀行 など 幅広い分野で活躍。

平成10年12月26日死去。88歳。東京出身。



この一年 多くの書籍を読みましたが

誰の本が一番多かったかといえば

〈白洲正子〉の本 だったかもしれません

絞って選んだというより いく先々で 白洲正子に 出くわした

というのが 正しい答えなんです

テーマでいえば 最初は〈能・謡曲〉で出逢いました

それから〈西行〉〈明恵上人〉〈河合隼雄〉〈神仏習合〉

と 続きました


肌触りがいい文章を書かれる方です




この番組は 白洲さんが 歩いた

神の宿る日本の山河 〈美濃〉・〈越前〉・〈吉野〉・〈河内〉を

ギターリスト《村治佳織》さんが 辿る旅でした


白山とは 一つの山の名前ではないのです

加賀・越前・美濃 にまたがる

最高峰の 御前峰(2,702m)・剣ヶ峰(2,677m) ・大汝峰 (2,684m) の

「白山三峰」を中心とした 連峰を 白山と呼びます

白洲さんは 『かくれ里』『十一面観音巡礼』で

白山信仰を開いた 泰澄上人 の跡をたどりました


『 泰澄大師 は 山岳信仰の創始者で

神仏習合の元祖であるといっていい

私は この思想が 日本のすべての文化にわたる 母体だと思っている

明日には 白山の日の出を拝み

夕べには 落日に染まる日本海を眺めたに違いない

十一面観音が現れたのは そういった 瞬間ではなかったか 』




緑 : 越知山
赤 : 平泉白山神社
黒 : 白山




泰澄 は 越智山で 修行を積み ここで 十一面観音を夢見

早く来るべしと お告げを受けたといいます

途中 〈平泉寺白山神社〉により 真東に鎮座する

白山山頂をめざしたのが 泰澄36歳の春でした

御前峰の池のほとりで

十一面観音に化身した 白山の神に出会うのでした


白洲さんは 本の中で こう書かれています


『 周知のとおり 〈本地垂迹〉とは

仏が 仮に神の姿に現じて 衆生を済度するという考え方だが

それは仏教の方からいうことで、日本人の本来の心情からいえば、

逆に神が仏にのりうつって影向したと解すべきであろう。

その方が自然であるし、実際にもそういう過程を経て発達した。

泰澄の場合でいえば、

白山信仰の長い伝統があったから、仏教が無理なく吸収され、

神仏は極めて自然に合体することを得たのである 』


そして


『 神仏混淆の思想では、天竺の仏が衆生を済度するために、

かりに神の形に現じて、垂迹したことになっているが、

事実はそれと反対で、仏教を広めるには、

神の助けを必要としたのではないだろうか。

その差は紙一重でも、意味は大いに違う。

言葉をかえていうなら、

日本の神を経糸に、仏教を横糸にして織りあげたのが、

いわゆる本地垂迹説であった。

ただ相手が黙して語らぬ木や石であったため、


証明することは不可能だが、

日本の自然が私に、そういうことを物語る 』



神仏習合について 私自身 今ひとつ解りにくかったことを

すっきりと 解決してくれたのでした




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百嶋神社系図 一部



白山神社は 日本各地に 2,700社余り鎮座しています

ほとんどの祭神は 菊理媛神(白山比咩大神)・

伊邪那美尊(イザナギ)・伊邪那美尊(イザナミ) の三柱です


主祭神の 菊理媛(白山姫) は くぐり姫 ともいわれます

《百嶋神社考古学》では この白山姫 は

造化三神のひとり 天御中主(アメノナカヌシ)とします

水天宮の神 でもあります

主(ぬし)の神の母であり 大幡主・豊玉彦(ヤタガラス)・大国主・事代主

と続く 白族の祖でもあります

そして 白山姫の 婿は 金海伽耶の 〈金越智〉です

記紀では 〈ウマシアシカビヒコチ〉と呼ばれている神で

越智族の頭領です

越智族の男と 白族の姫の 恋物語が ここにはあります

越智山 と 白山神社 そして 白山頂上を 地図で結ぶと

東西一直線に 繋がっているといいます




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村治佳織さん




村治佳織 (むらじかおり)

1978年4月14日日本のギターリスト 東京都出身

3歳から ギターを習い


1994年に 日本フィルハーモニー交響楽団と共演し


1995年イタリア国立放送交響楽団の日本ツアーにソリストとして同行

翌年には村松賞を受賞

第19回日本ゴールドディスク大賞

クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー(洋楽)を受賞

女性ギタリスト 日本ギタリストとして

世界で活躍する一流ギタープレイヤーと名高い





番組の中で 白山の麓での
ギター演奏 です










by nonkei7332 | 2016-12-20 14:49 | 古代史 | Comments(0)


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古墳時代の高低差地図に現在地図を重ねたものです
赤色 : 住吉大社
青色 : 高津宮




「 大坂 は 凡そ 日本一の境地なり 」

織田信長 は そう いったそうです

境地とは 何処だといえば それは 上山台地 だと言われています

その言葉を 引き継いだ 秀吉が


その 北端に 大阪城を 築城しました


それ以降の商都としての 大阪の繁栄は 歴史の示すとうり


難波宮(なにわのみや) が台地の北部に造られたのが

652年 孝徳天皇 の頃 その後 天皇一人残されて

飛鳥に遷都されるなど 出たり入ったりの 存在感のうすい都です

発掘されたのも 戦後になってからです

最近はおもむろに 公園などを整備しているようです


《 難波津に 咲くやこの花冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花 》


百人一首の序歌とされるこの歌

仁徳天皇の即位を祝った 王仁の作だといわれています

出典は 万葉集ではなく 古今和歌集の仮名序です

謎が多いこの歌

最大の謎は 難波津 は はたして 何処だったのかです


その謎を求めて この台地の 南端に 鎮座する


『住吉大社』

そして 仁徳天皇ゆかりの宮と言われる


『高津宮』を訪ねました



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住吉大社 正面 鳥居




博多に住む者にとって 住吉は馴染みの深い宮です

全国に 2129社 ある 住吉神社の中で

大阪の住吉大社 下関にある 住吉神社 そして 博多にある 住吉神社が

三大住吉といわれています



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住吉大社 は 摂津国一の宮 です

創建は 神功皇后に絡めた話になっていますが

何故か 説得力に欠ける話になっています

(神功皇后に絡む話に 違和感を持つようになったのは何故でしょうか)

文献として残るものからして 8世紀になってからの創建でしょう

綺麗な神社ですが なぜか 魂を揺さぶるような 霊験を感じませんでした



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第一本宮






路面電車に乗って 北へ


途中 谷町線に乗り換え 9丁目で降りて 坂を下ると


『高津宮』の 一の鳥居です


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北に向かって参道を下ると 注連柱(しめばしら)が建っています


文字が刻まれていました


「仁風敷宇宙」「徳化洽乾坤」


仁徳天皇の 治世を表しているのでしょうか



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階段を登ると 本殿に出ます 思ってたよりも小さく


こじんまりとした お宮さんです



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お目当の一つ 狛犬 です


尻尾の数に 意味があるそうですが

どんな意味があるのかは 聞きそびれました



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創建は 866年 です 勅命だそうです


直感で 前が あるなと思いました

摂社 の前で 足が止まります 「これか」思わず声をあげました

比売古曽神社(ひめこそじんじゃ)


〈比売古曽神〉別名 〈阿加流比売神〉(あかるひめ)といいます



〈アカルヒメ〉と 〈スサノオ〉の話は こんな 話です

倭国の主の王 《大幡主》は 新羅の王子でもある

天日穂(アメノヒボコ)こと スサノオ に手を焼いていました

そこで 自分の娘 阿加流比売神(アカルヒメ)を 新羅に嫁がせたのですが

スサノオのヤンチャは収まりません アカル姫 も とうとう

「私はあなたの妻となるべき女ではない 祖国へ帰ります」と言って

小舟を操り 倭国に戻ってきました

大幡主は アカル姫を 豊後の姫島に隠し アカル姫 はそこで

スサノオとの間の娘 市杵島姫を産みます

スサノオは 形相を変え アカル姫を追って 大幡主のもとにやってきました

大幡主は 妹の 埴安姫と 金山彦との娘 櫛稲田姫(クシイナダヒメ)に

スサノオ の 悪行を 治めるようにと 一緒にさせます(出雲神話)

悪行の DNAは 間に生まれた 長髄彦(ナガスネヒコ)が 引き継ぎ

大きな 問題を起こすのでした (神武への謀叛)


大幡主 は 妹の埴安姫の 二番めの旦那 伽倻国大山祇(月読尊)

との間の長女の 神大市姫(かみおちひめ) に スサノオ を託します

神大市姫こと ミズハノメ の霊力により とうとう スサノオ の悪霊は

静めることができたのでした。


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高津宮 灯篭





河内 大阪 を回って 見たいものを 見てきましたが

感じたものは ここは 〈商都〉だということでした

少なくとも 歴史の都 では ないようです

私には アカルヒメ も 仁徳天皇 も 難波津 も 九州筑前倭国の話が

後世 畿内に飛び火しているように思えます

まるで 後出しじゃんけんに 勝った 場所のようだといえば

怒られますでしょうね

古代史の真実は 未だに ふたをされたままのようです




by nonkei7332 | 2016-12-12 12:16 | 古代史 | Comments(0)


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信貴山から 大和盆地




信 貴 山 (しぎさん)


奈良県生駒郡平群町にある 山です

紅葉が 美しい境内を 多くの参拝者が訪れていました


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神仏習合 の 霊場です

去年訪ねた 比叡山 と 同じなのでしょうが

なぜか 空気の重さが違います

信貴山は 古くは 神の山 だったのでしょうか



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ここの地名は 平群(へぐり) です

平安時代の辞書 『和名類聚抄』によると

《大和国平群郡》には 六ヶ所の 郷名 が 記されています

那珂 ・飽波(あくなみ)・平群(へくり)・夜麻・坂門・額田(ぬかた)

福岡に住んでいる者は 『あれれ これ 福岡だ』 と思っちゃいますね

ちなみに 《筑前国早良郡》の 郷名 には

毘伊(ひい)・能解(のけ)・額田(ぬかだ)・早良(さわら)・

平群(へぐり)・田部(たべ)・曽我(蘇我)

七郷があったと記されています。

新撰姓氏録 (平安初期に書かれた 氏族の出自録) によると

平群氏とは

「河内国 皇別 早良臣 平群朝臣同祖 武内宿禰男平群都久宿禰之後也」

と 記されています

早良 と 平群 は 同祖 みたいですね

早良(福岡)から 平群 (奈良) へ 移動してきたと考えるのが 自然ですよね

そういえば 筑紫の賢人 真鍋大覚 は

『 背振(せふり)の語源は 平群(へぐり)にあった』とも 言っていました



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古事記には

武内宿禰の第四子「平群都久宿禰」(へぐりのつくのすくね)


についての 面白い 話があります

仁徳天皇が生まれた時 仁徳天皇の産屋には

「木菟(ヅク=ミミヅク)」が飛び込んできました

同じ日に生まれた ヅクノスクネの産屋には

「鷦鷯(サザキ=ミソサザイ)」が飛び込んできました

それで飛び込んだ鳥の名を交換して お互いの 本名としたという話です


仁徳天皇=大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)

平群都久宿禰=木菟宿禰(つくのすくね)


謎が多いこの 鳥達の話 何が隠されているんでしょうね



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もう一つ 地名でいえば


前回 大阪古代地図に 「河内湖」がありました

この 河内湖 4世紀から 5世紀頃には「草香江」と呼ばれていたのです

「草香江」といえば 博多古図 には 同じ名前の入り海があります


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博多古図



この入り海に注ぎ込む 川を 樋井川 (ひいがわ)といいます

早良郡の郷に 毘伊(ひい) とあったのがこれでしょう

この川の上流に 柏原 という 地区が今も残っています

《 草香江 に 注ぎ込む川 の 上流に 柏原という里がある 》

これは 河内国 の話ではありません 筑前博多 の話なのです。


百舌鳥から 始まった


《 鳥 づくし の 旅 》は まだ 続きます




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信貴山 から 大和を望む









by nonkei7332 | 2016-12-06 15:45 | 古代史 | Comments(0)

by ヒサミツ