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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

カテゴリ:古代史( 75 )




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博多区 青木 の 地禄神社
(空 sofa そら) さんの ブログより




福岡市近郊の神社を調べていると



しきりと出てくる



同じ名前の神社があります



それは 《地禄神社》と 《埴安神社》です




《地禄神社》は 博多区に 5



〈堅粕〉・〈上牟田〉・〈竹下〉・〈青木〉・〈上月隈〉



南区に 4



〈塩原〉・〈向野〉・〈三宅〉・〈井尻〉



早良区に 〈野芥〉地禄天神社



春日市に 〈春日〉地禄神社



大野城市には 5



〈仲畑〉・〈畑詰〉・〈釜蓋〉・〈瓦田〉・〈白木原〉



太宰府市には 〈大佐野〉地禄神社



大小合わせて 17 地禄神社 鎮座しています




不思議なことに 中央区や博多区の都心部には無く



都市部近郊に散らばっています



各神社とも 創建は不詳となっていますが



古くは 67世紀前後の古社もあるのではと思われます



その頃の 福岡は 今の海岸線ではなく 内海が拡がっていて



おそらく 地禄神社 建っている辺りが 海岸線であったようです



人々の住む海岸線に 同じように祀られた 祭神 とは



『埴安神』(はにやすしん) です




埴(はに)とは「和名類聚鈔」に



『土薫而細密日埴』(つちかおりてさいみつなるをはにという) とあります



埴安神 土の神様 であり



田畑の土壌に宿り 穀物の豊作をもたらす神様なのです





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早良区 西 の 埴安神社
(空 dora そら)さん の ブログより





〈埴安神〉を祀った 《埴安神社》も 福岡には 8 ありました



早良区に 2 〈次郎丸〉・〈西〉



西区 2 〈姪浜〉・〈今宿〉



糸島市の野北・中央区の鳥飼・南区の柏原



筑紫野市の杉塚 にも 鎮座しておられます




甘木朝倉一帯に 無格社や摂社を含め 40社近く鎮座する



〈田神社〉がありますが



この祭神も 埴安神 なのだと 知りました




〈埴安神〉とは



博多の総鎮守 櫛田神社 の主祭神 である



《大幡主神》なのです




福岡 地禄神社 埴安神社が多く鎮座する 理由がここにありました





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百嶋系図 部分



百嶋神社考古学系図 によれば



大幡主 (埴安神)の妹が 〈埴安姫〉となっていることも



これを証明しています




〈土〉といえば 神話に出てくる 山幸彦を竜宮城に連れて行ったのは



塩土翁(しおつちおじ) でしたが



百嶋説は 大幡主神 塩土翁 同一人物だとします



もう一つ 〈土〉といえば



埴輪 (はにわ) の神様といわれたのは 〈野見宿禰〉(のみのすくね)です



土師氏の 祖神 といわれていますが



百嶋説 〈野見宿禰〉を



出雲神話における 天穂日命(アメノホヒ)の子供である



天夷鳥命(あめのひなとり) = 武夷鳥(たけひなどり) だとします



そして 天穂日命(アメノホヒ)は 豊玉彦 と同一人物ですので



これによって 博多の祖神 三代にわたる 系図が出来上がります




大幡主神 = 埴安神 = 地禄神 = 塩土翁 (初代)



豊玉彦 = 天穂日命 = ヤタガラス (二代)



野見宿禰 = 武夷鳥 = 土師祖神 (三代)





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埼玉県久喜市 の 鷲宮神社



後世 大和朝廷より 関東開拓を命じられた 河内の土師氏が



下総の利根川の上流 久喜市辺りで 祖神 である



〈天穂日命〉と 〈武夷鳥〉そして 〈大己貴命〉(大国主命) を祀ったのが



「関東最古の大社」「お酉様の本社」といわれる



『鷲宮神社』(わしみやじんじゃ) です



出雲族の草創に関わる 神々 といわれていますが



私には 博多の主の 神々 に見えてきます





博多の主の神々(大幡主命・豊国主命・大国主命)



神武天皇 から 代々 続く 九州王朝 を支えていたのでした







by nonkei7332 | 2017-05-19 13:10 | 古代史 | Comments(0)


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狛 魚




どこの神社でも よく 見られるのが 狛犬 (こまいぬ) です



入り口 辺りに 一対 置かれています



獅子 狛犬 だけではなく 神仏の 守護獣 として



多くの 動物 その役目を果たしています



一般には「神使」といわれています



神の使いですから そこの 祭神と



何らかの縁のある 動物が置かれているわけです



有名なのが 稲荷神社の 〈狐〉であったり



弁財天 〈蛇〉であったり 毘沙門天 〈虎〉だったりします



さて 名島神社 には 全国でも 珍しい



》が あります



ギョ ギョ ギョ~ 初めて見た人は そう云います





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シーラカンス




生きた化石といわれる 深海魚



シーラカンス (coelacanth) によく見ると 似ていますよね



対馬の琴崎にある 胡禄神社の伝承に 海神の姿を



金鱗の蛇 》だという話が残っています



もともと 名島神社は 明治になるまでは 名島弁財天 として



世間に認知されていたわけですから も絡んで 当然です



狛魚 = シーラカンス = 金鱗の蛇 = 海神



名島神社の謎解き こんなところにもありました





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名島神社 の 千木





ところで 名島神社の 祭神はと いえば



宗像三女神 田心姫 ・湍津姫 ・市杵島姫 ) です



ところが 神殿の千木 をみると 男千木 です



もうひとつの



この神社の古祭神 女神ではなく 男神 かもしれません



このパターン いくつか見て来ました



宗像大社 呼子の 田島神社 もそうでした



そこに 隠れて 鎮座する 古祭神 大国主命 でした




神殿の裏に鎮座する 摂社 を見てみると





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妙見宮 (天之御中主神)




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大黒天社 (大国主神)




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恵比須社 (事代主神)




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百嶋系図 より 主の神々




主の神 (ぬしのかみ) の勢揃い ですね



とすると 古祭神は



〈大幡主 = 大若子〉もしくは 〈豊国主 = 小若子 = 豊玉彦) となります



海神といえば 安曇磯良 を思いますが



磯良 もっと 後世の 海人族の主だと考えています



ここでは 豊玉姫の父 豊玉彦 》が 名島神社の 古祭神なのでしょう





名島神社 そうですが 北九州には



神功皇后の伝承 が多く残されています



日本書紀 異様なほど 神功皇后紀 多くの紙面を割かれています



そこには 九州王朝 (神武・懿徳・孝霊・孝元・開化・仁徳)



存在を隠そうとする 畿内王朝の意図を感じます



私的な考えですが 神功皇后の三韓征伐は 作り話だと思っています



『三国史記』にも 史実として 幾たびかの



倭国の新羅への侵攻の記事が書かれていますが



とりわけ 斉明天皇(女帝) 新羅侵攻



だぶらせて 描かれたのではないかと 私は思っています





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本殿四角 の 四神
東 の 青龍


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南 の 朱雀





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西 の 白虎





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北 の 玄武









豊玉彦 別称 八咫烏 (やたがらす) です



同じ 鳥でも カモメ カモメ



海神神社 の中を カモメ達は 自由に 走り回っていました







by nonkei7332 | 2017-04-26 20:48 | 古代史 | Comments(0)


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名島神社から見える 博多湾





カモメ達が 登っていった後から



最後に 神社の階段を登りました



途中 左手に下り曲輪〉と呼ばれる 土俵のある 広場から



遠くに 志賀島が見える 見晴らしのいい場所があります



そこから 見える海が



〈 磯良の海 〉です



そう 名づけたのは 私 です



今では 100年公園 カモメ大橋 にさえぎられて



能古島 志賀島 隠れてしまいますが



ほんの 50年前迄 は



島影 の美しい 景観だったのでしょう




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博多湾屏風図






博多八景 〉という 博多の町の 景勝地がありました



近江八景 金沢八景 というのは 有名ですので



博多八景 なんて 二番煎じゃないの と思われるかもしれませんが



実は 中国北宋時代 元祖八景〈瀟湘八景〉に影響を受けた



日本での 最初の八景は 博多八景 》だったのです



初代八景は 中世 鎌倉末期



聖福寺の僧 〈鉄庵道生〉(てつあんどうしょう)



八つの景観に合わせて 漢詩を作ったのが 初代です





香椎暮雪(かしいぼせつ)


箱崎蚕市(はこざきさんし)


長橋春潮(ながはししゅんちょう)


荘浜泛月(しょうはまはんげつ)


志賀独釣(しかどくちょう)


浦山秋晩(うらやましゅうばん)


一崎松行(いっさきしょうこう)


野古帰帆(のこきはん)





その後 近世 江戸時代 に書かれた『石城志』(せきじょうし)という



博多紹介本には また 違った 八景が 書かれています





濡衣夜雨(ぬれぎぬやう)


箱崎晴嵐(はこざきせいらん)


若杉秋月(わかすぎしゅうげつ)


奈多落雁(なたらくがん)


博多帰帆(はかたきはん)


横岳晩鐘(よこたけばんしょう)


竃山暮雪(かまどやまぼせつ)


名島夕照(なしませきしょう)






余程の 博多通でないと 場所が 特定できませんね



この中で 名島夕照 があります



名島海岸から 見える



島影に沈む 夕陽 朱く染まる海が



絶景だとされたのでしょう






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名島海岸から 落ちていく夕陽を 写していました




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夕陽に 飛び込んできた カモメです



カモメ大橋 から写した



お気に入りの 一枚 です




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カモメ達は



拝殿横の 手水舎 囲んで 清めの作法 を習っていました



飲んじゃダメ ! 口をゆすぐだけ ‼︎



キョトン とした 男の子が 私に云いました



どうして 飲んじゃ ダメなの







by nonkei7332 | 2017-04-26 06:45 | 古代史 | Comments(0)



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名島神社 二の鳥居




名島海岸 を通り過ぎると



名島神社の入り口 に出ます 二の鳥居です



珍しい 両部鳥居です



道路をはさんで 海岸には 一の鳥居が あります



海岸下手 小さな祠があります




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名島神社 古宮





何も知らない 一人の子が その前で手を合わせていると



ぞろぞろと 後から来たカモメ達が



同じように 手を合わせていきます



何とも 不思議な光景を 私は 見入っていました



祠には 何も書かれていませんが



実は ここは 名島神社の 古宮〉 です




古代より この神社は



島(名島は島だった) の頂上に鎮座していましたが



中世 豊前大友氏の庶流



立花家7代の 立花鑑載(たちばなあきとし)が



立花城の出城として 築いたのが 城の始まりで



その後 秀吉が 筑前を 小早川隆景 に与えると 隆景は



名島城を 改修して 居城に仕上げます




その際 頂上の社を 海岸下手に移動させたのが



この祠の場所だったようです




黒田長政が 名島城を廃城にすると




現在の位置に 社殿は移され 古宮は



昔の面影として 小さな祠が残っているだけになっているのです





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庚申塚




二の鳥居の横には 大小数体の 石碑が建っています



石碑というより これらは 〈庚申塚〉です



庚申塔 とも呼ばれる これらの 石塔は



福岡の町のあちらこちらでも 見られます



庚申信仰 の始まりは 古く 奈良時代だと言われています



その後 平安貴族や 武士階級にも拡がり



猿田彦 地域を護る 塞の神 田の神 地蔵尊とも習合した



道祖神信仰として 民間にも 拡がり



江戸から明治にかけて 大流行します




庚申信仰は 中国の道教が起源です



人の体には 〈三尸の虫〉(さんしのむし) という虫が



生まれた時から 誰にでも 住みついていて



60日に一度 庚申の日の夜 人が眠っている間に



天に昇って 人が行なった 悪事を報告しに行くといいます



それによって人の寿命が短くなったり 死んで地獄に落ちたりするので



だったら その夜は 寝ないで過ごそうというのが



〈庚申待ち〉といわれる 行事です 近所で集まって



朝まで呑み明かすという 行事が 全国的に流行したそうです



庚申待ち 3年続けると その記念に 石碑を建てたといいますから



江戸時代には 町中 庚申塚 だらけになったそうです



明治になって 廃仏毀釈にともない 庚申信仰は迷信だとされ



政府は 多くの 石塔を壊します



それ以来 庚申信仰は急速に衰えてしまいました



まだ 未だ 地域によっては 多く 残っている所も あるようですが



町の景観の変化に いつかは 無くなっていくのでしょうか





名島神社脇の 庚申塚 には



「庚申大福神」「青面金剛」と書かれています



〈青面金剛〉は 仏教系の庚申塔の性格が強いとされる



三尸の虫を抑える 神様です





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神社の階段を


若葉が薫る 木洩れ陽の中を


カモメ達は 翔ぶように 登っていきます


危ないぞ 走るな~‼︎


私の声は 全く 無視されていました









by nonkei7332 | 2017-04-24 21:20 | 古代史 | Comments(0)


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毎月 2回 土曜日になると



地域の カモメ(子供)達が 〈カモメの城〉(公民館) に集まってきます



私達(ボランティアスタッフ) 支援団体からいただいた



食材で カモメ達の昼食の準備に取りかかります



今回の 献立は 〈ちゃんぽん〉 〈おにぎり〉



私の役目は いただいた りんご の皮むきです



午前中 公民館の講堂で カモメ達は 自由に遊んでいます



卓球をしたり カードで遊んだり ケンカをしたり 大騒ぎです



昼になると 一転 静かに ランチタイム です



食事が終わると 前回カモメ達と 約束させられていた



近くの公園まで ハイキング です



行く先は 近くの名島城址公園です



総勢21 私一人では とても 引率できないので



お母さんスタッフ2人も 手伝ってくれました





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名島海岸 から 湾岸倉庫街を望む

奥が 背振山系




名島海岸に つきます



白砂の海岸です 開発されるまでは




妙見島という島があって



島に伸びる 砂州が 名島海岸になって残っています



この〈妙見島〉今は陸化して 島の面影はありませんが



いろんな 伝承が残っています





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博多近隣古図 (1812年)

妙見島 弁財天 名島城址




「筑前国続風土記」には 神功皇后 三韓征伐 に出発したのが



黒津(名島)だと言われていて その突端にある 妙見島は



船具や武器が収められていた 倉庫だったと 書かれています



中世 博多の豪商 神屋宗湛 が書いた 「宗湛日記」には



秀吉が 博多に来た時には この島で 茶会が催され



名島城主の 小早川隆景 この島で 度々 茶会を行なったと記され



この海岸でも 何度となく 酒宴も行われていたと書かれています



島跡には 今でも 井戸跡が 残っています





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名跡地 太閤秀吉公茶遊井戸跡

右側が 井戸跡です



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昭和31年 名島付近の航空写真



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昭和34年の妙見島の写真




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現在の鳥居跡




古い写真には 建物の横には 鳥居がみえます



今でも その辺りには 注連縄がはられています



かつては この島には 妙見神 が祀られた 社殿 があって



島自体が 聖地 だったのでは ないかと思えます



〈妙見神〉といえば 北極星と北斗七星の御神霊です



宇宙の中心であり 全ての方位や 人間の運命を左右する



根源の神だといわれています



そして この神は



天之御中主命 同一神 だと 言われています



天之御中主命 主の神 白族の女神 菊理姫



博多の主の神 大幡主命 祖母に当たる 天之御中主命



ここで 子孫の 海神達を見護っていたのではないでしょうか





白砂は 多くを語ってくれます



裸足になったらダメだぞ



私の言うことなど 全く無視して 靴を脱いだ女の子が



嬉しそうな顔をして 叫んでいます



だって こんなに気持ちいいんだよ








by nonkei7332 | 2017-04-24 13:39 | 古代史 | Comments(0)


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興福寺 阿修羅像と八部衆像(一部)




奈良興福寺 阿修羅像 と 八部衆達です



阿修羅 とは



インドにおける 仏教以前の 古代神 八部衆のひとりです



釈迦に帰依して 十大弟子と共に 護身善神となったといいます



ちなみに 八部衆とは



五部浄(ごぶじょう)・沙羯羅(さから)・鳩槃荼(くばんだ)



乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)



緊那羅(きんなら)・畢婆迦羅(ひばから)




本来 闘いの神 荒ぶる神 と言われた 阿修羅



優しい少年の顔をして 合掌している 三面六臂の姿は



何を 物語っているのでしょうか




神亀4年(727年) 待望の男の子 基王(もといおう)の誕生に



光明皇后と聖武天皇の喜びに包まれていました



しかし その 喜びも束の間 愛児は



一歳の誕生日を前にして 亡くなります



失意の中 6年後 亡き基王を偲び 光明皇后によって



阿修羅像 は造られたといわれています




光明皇后 一生も 修羅 の道 だったのでしょう




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光明皇后 小泉淳 作




我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の嬉しからまし


万葉集8-1658 光明皇后



〈通釈〉


あなたと二人で この雪を見たのなら どれほど 嬉しかったでしょう



(あなたとは 夫である 聖武天皇 だと言われていますが



亡き 基王 だともいえるのかもしれませんね)









by nonkei7332 | 2017-04-10 10:30 | 古代史 | Comments(0)


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羽賀寺 木造十一面観音菩薩像





元正天皇 が モデル の 十一面観音像 です

福井県 小浜市 羽賀寺 の 本尊です

霊亀2年(716) 元正天皇 勅願によって

行基 が 創建したとされる お寺です

観音像は 像高 146.4㎝ 元正天皇の等身大の 御影 だといわれています

数ある 十一面観音像の中でも 艶やかな 美しさは 際立っています



生涯 未婚であった 元正天皇でした

ミステリアス な 生涯 でしたので その影に 見え隠れする

三人の 男性の姿がよぎります



ひとりは 〈長屋王〉であり

ふたりめが 〈橘諸兄〉であり

そして 三人めが 〈泰澄〉です



長屋王は 氷高皇女(元正天皇)にもっとも 近い存在でした

4歳年下になりますが 小さな頃から の幼馴染だったようです

皇女の方が 皇位は上ですが 婿としての 決して不釣り合いな相手ではなく

将来を嘱望された 皇族のサラブレッドだったのです

しかし 運命は 長屋王の相手に 妹の 吉備内親王 を選びます

長屋王は 元正天皇の元で 太政官をつとめ 側近中の側近として

元正治世の中心的役割を担います

神亀6年(729年) 藤原不比等亡き後

その意思を引き継ぐ 藤原四兄弟が 聖武天皇を抱き込み

長屋王を失脚させるという

『長屋王の変』が起こります

長屋王家(長屋王 吉備内親王 そして 子供達) は 殺されてしまいます

運命の人 長屋王との 別離は 悲痛の極みでした



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長屋王墓




《 降る雪の 白髪までに 大君に 仕へ奉れば 貴くもあるか 》

万葉集 3922


【通解】

降り積もった雪のように 髪が白くなるまで

陛下に仕える事が出来たことを思うと

ありがたいものでございます


天平18年(746) 正月 皇宮に雪が降り 雪かきに来た 側近たちに

元正上皇が 雪を題にして 歌を詠ませた時 左大臣 橘諸兄 が歌った歌です

この時 上皇66歳 橘諸兄 62歳

長屋王 亡き後 ずっと 側で 支えてきた もう一人の 男が

橘諸兄(たちばなのもろえ) です

諸兄 も 長屋王と同じ歳でした

氷高皇女の乳母をしていたのが 諸兄の母 橘三千代 でした

おそらく 小さな頃から ずっと側にいて

姉のように 慕っていたのでしょう

そんな 諸兄 を 上皇は 生涯 側に置いたのでした


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橘諸兄 の墓




さて 十一面観音像 が 元正天皇 をモデルとされるのは

そこに 白山信仰の開祖 泰澄 の 存在があります

泰澄 は 21歳の時に 朝廷から 鎮護国家法師 に 任じられていました

おそらく 元正天皇は この頃から 泰澄を知り

帰依していたのではないでしょうか

泰澄 は 霊亀2年(718)

夢の中に現れた貴女(白山神)の呼びかけにより

養老元年(719)

白山へ登拝し 頂上で 白山神の本地仏 十一面観音を体現します

実は この時 元正天皇 は 霊亀元年(717) 2年(718) と 二度にわたり

美濃養老を 行幸されているのです

そこの 美泉 がもつ若返りの効能に感心された元正天皇は

元号を「霊亀」から「養老」へ改元されています

泰澄の白山開山と 元正天皇の養老改元が 同じ年であったのです

偶然なのでしょうか 泰澄 36歳 元正天皇38歳 の時です

ここからは 私の妄想です

泰澄 と 元正天皇 は 何度か 会っていたのではないか

養老7年(722) 元正天皇が病に伏すと 泰澄は 弟子の浄定行者とともに

都に赴いて元正天皇の病の治療にあたります

その効あって和尚は護持僧として禅師の位を授けられ、

諱(いみな)を 神融禅師 と号したといいます

元正天皇 崩御の折には 御自らの髪と歯が 泰澄の元へ 送られたといいます

平泉寺墓地には「御歯髪塚」が今も 残っているそうです



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平泉寺白山神社








by nonkei7332 | 2017-03-05 16:25 | 古代史 | Comments(0)


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養老改元1300年祭 公式ホームページ より
《 元正天皇 》





日本には 女帝は 8人おられます

皇后や皇太子妃 だった 女人が 天皇になっておられるのですが

歴史上 稀に見る 独身(未婚)の女帝が ひとりだけおられます

44代 天皇 元正天皇 (680~748) がその人です

在位は 715年から 724年 までの 9年でした


今 とっても気になる 女帝 (女神) です

元正天皇の目から 歴史を追ってみます


母は 43代 〈元明天皇〉この方も女帝です

女帝から 女帝への 母から 娘への 譲位だったのですね

このお母さん 天智天皇の娘です

父は 〈草壁皇子〉天武天皇 と 持統天皇 に 生まれた

血統強き 皇太子 だったのですが 皇位を継ぐこともなく

28歳という歳で 夭折します


父と母には 三人の 子供がいました


弟 ・軽皇子(かるのみこ)(のちの文武天皇)

私 ・氷高皇女(ひたかのひめみこ)(のちの元正天皇)

妹 ・吉備内親王(きびのないしんのう)(のちの長屋王の妃)


祖母 持統 は 祖父天武亡き後 父 草壁皇子 を 皇位につけるために

ライバルであった 大津皇子 を 亡き者にします

ところが 皮肉にも 草壁皇子 の 突然の死です

持統は 孫の 軽皇子(文武天皇) をと画策しますが 弟はまだ7歳です

持統は 自ら 41代を即位し 夫 天武天皇の治世の後を継ぎます

弟 軽皇子が15歳になると 42代文武天皇として 即位しますが

持統は上皇として 文武を補佐したのでした

5年後 (703年) 祖母持統上皇は 波乱の人生を閉じます 58歳でした

弟 文武天皇は 藤原不比等の娘 宮子を妃とします

首皇子(おびとのおおじ) が 生まれていましたが

弟文武 も 父(草壁皇子)のDNA を引き継いだのか 25歳で崩御

首皇子 またしても 7歳でした 宮子が心的障害を持っていたため

母 元明天皇 が 弟文武の後を継ぎ 43代天皇に即位します 47歳でした

皇后でない女帝の誕生でした

首皇子(のちの聖武天皇) が14歳になりました

譲位をして 年少天皇という選択もあったのですが

皇太子としての基盤作りを 最優先とした 藤原不比等 と 母元明天皇の

強い要望もあって 私に白羽の矢が立ち

聖武天皇 即位までの 中継として 44代 女帝として 即位したのでした

続日本紀の中には もっとも美しい 未婚の女帝 だと書かれています

氷高皇女(ひたかのひめみこ) 35歳の時でした


なぜ 未婚だったのかって ?


それは 謎ということにしておきましょう






by nonkei7332 | 2017-02-26 11:00 | 古代史 | Comments(2)


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霊峰白山





白山には 女神がすんでいます

なまえを 菊理姫 (くくりひめ)といいます 白山比咩ともいいます


古事記の神話には 《造化の三神》(ぞうかのさんじん) といって

天と地が出来たとき 高天原に成られた三柱の神様がおられました


〈天之御中主神〉(あめのみなかぬしのかみ)

〈高御産巣日神〉(たかみむすひのかみ)

〈神産巣日神〉(かみむすひのかみ)


一番初めに出てくる 最高神だといわれるのが

《 天之御中主神 》

この神様 アマテラス みたいに 有名な神様ではないのですが

みなかのぬし (真ん中におられる 中心におられる 主の神) なのです

主の神 といえば

大幡主命(オクシダサン)・豊国主命(ヤタガラス)

大国主命(ダイコクサマ)・事代主命(エビスサマ) などがおられます

博多から 出雲 越前に至る 領域を治めておたれました

〈主(ぬし)のつく神様 の頂上におられる神様です〉



それから 天(あま)の神様 といえば

天照大神(アマテラス)・天日槍(スサノオ)・天忍穂耳(ウミサチ)

天穂日(トヨタマヒコ)・天鈿女(アメノウズメ・オイナリサン)

などの神様がおられますが

いずれも 海を渡ってきた 神 なんですが

〈天(あま)のつく神様の頂上におられる神様でもあるのです〉



白山の女神 の 正体こそが 実は

《 天之御中主神 》だったのです



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白山平泉寺





今年になって

白山平泉寺 に住む 方と 不思議な縁で知り合えました

昨日 その方から 写真が届きました

2月10日 朝起きて 外を見た時の 雪景色だそうです

雪に埋もれた 霊峰白山

遠い 久遠の記憶を辿る 魂の旅 が

私の中で 始まったようです


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by nonkei7332 | 2017-02-15 13:19 | 古代史 | Comments(0)


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九州国立博物館に行きました

特別展という ふれこみにしては 来館者はまばらでした

宗像と沖ノ島 その祭祀と大和朝廷 のかかわり を主張した展示ですが

今ひとつ 焦点のぼけた 展示構成でした

沖ノ島の祭祀 については

4世紀後半から 9世紀末まで 出土した奉献品の数は

約8万点にも及び ほとんどが 国宝になっていて

「海の正倉院」とよばれていますが

大陸や半島との 対外交流によって もたらされた 多くの奉献品は

国家祭祀だったといわれています

そして その 国家というのが 大和朝廷(畿内王朝)だという

前提での 展示には 多くの疑問が残りました

そもそも「謎の4世紀」といわれるくらいです

沖ノ島の祭祀の主体が 最初から 宗像氏だったという事自体も 謎なのです

500年の間には 祭祀の形態も何度も変わっているわけで

宗像氏と大和朝廷が ずっと関わっていた祭祀だと言い切る理由は

どこにも見当たりませんでした

2017年の 世界遺産登録 のための

デモンストレーションなんでしょうか

世界遺産ってなんなのでしょうね

九州唯一の 国立博物館 こんなんでいいんでしょうか




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沖ノ島





出雲の沖にも 隠岐の島があります

宗像の沖にも 沖ノ島があります

字は違っても 同じ〈おきのしま〉です

列島と半島を繋ぐ 中継島 です 海人たちの 辿ったルートです

もうひとつ 中継島が あります 名前はよく似ています

おそらく 最も多くの 海人たちが 通ったであろう 中継島です

その島とは 壱岐の島 です

魏志倭人伝 に出てくる 一大国(壱岐) と 末盧国(唐津)へのルートです



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上の陸地が 九州 です



〈半島〉〜〈おきのしま・いきのしま〉〜〈出雲・宗像・唐津〉



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呼子町 加部島 の 田島神社



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先日 唐津 に 行きました

宗像と出雲の 原風景は 唐津に有りという

大それた真説を求めての 神社巡りです

唐津市湊町の 湊疫神社 と 呼子町加部島の 田島神社 を訪ねました

肥前の古書には 宗像大社の元宮は 田島神社 であると書かれています

宗像大社も田島神社も祭神は 三女神 なのですが

二つの神社の 千木は 男神です

大国主命(おおくにぬしのみこと) が隠れておられます



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風の見える丘公園 からの 展望




加部島 には〈風の見える丘公園〉があります

展望台にあがって 風を見ると

遠く 海の向こうから オモニ の歌が聞こえてきます






by nonkei7332 | 2017-02-12 23:55 | 古代史 | Comments(0)