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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

カテゴリ:古代史( 81 )



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真鍋大覚さん 「灘の國の星 拾遺」



記事の中で 何度か 引用させて頂いていましたが



今回 絶版 となっていた 「灘の國の星」が 再版されました



初版が 昭和57331 となっています



「灘の國の星 拾遺」の方は 昭和60330 が初版です



欲しかった 本でしたので こうやって 二冊並べてみると



嬉しさがこみ上げて来ます




読みこなすには かなり 難解な 本ではありますが



処処に エッと思うような 初めて知る 知識が散りばめられています



それは まるで 夜空を 埋め尽くした 星の中から



ひと光の 自分の星を見つけたような 喜びでもあります




この本との出会いは



ブログ『ひもろぎ逍遥』の 綾杉るな さん との出会いでした



真鍋大覚の世界を ブログの中で 勉強会の中で



数多く 教えていただきました



実は 「灘の國の星 拾遺」を 手にしたのも 綾杉さんから



那珂川町の図書館に まだ 在庫があるかもしれませんよ と



入手の仕方まで 教えていただいたからです



しかし 「灘の國の星」は何処にもありませんでした



那珂川町 に 再販を 強くお願いしておられたのも 綾杉さんでした



真鍋大覚研究の第一人者である 彼女が



「真鍋ノート」という 項目別の ファイルを作っておられるのを



知っておりましたが 最近 ブログ「ひもろぎ逍遥」の中で



「真鍋ノート」を 公開されているの知りました



愛読者として 嬉しい限りです





秋の夜長 ジャスミン茶 飲みながら



遠く 古代の人々の 星に託した 祈りの世界に 想いを馳せる



私の 至福の刻 でもあります





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真鍋大覚 氏 の プロフィール






by nonkei7332 | 2017-11-04 12:23 | 古代史 | Comments(0)


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那珂川 と 背振山





遠い記憶です



季節 は 晩秋



朝早く 起きて 庭にでると 霜柱が立っていました



民家の屋根の上から 《背振の山々》が見えます



山頂付近には 雪が降ったのでしょう 白く輝いていました



背振 白くなると 雪が近いぞと 冬支度を急いだものです



背振山 私の原風景のひとつです





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比叡山 延暦寺



これまで 私は



〈比叡山〉〈信貴山〉〈英彦山〉〈国東〉と



神仏習合の霊山を訪ねてきました



いずれも 修験道の霊場でもあり 山の神が御座する



《なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼれる》と



西行法師 が歌ったような 聖地でした



年内 には 白山 (石川県) 行く予定にしています



これらの地を訪れるたびに思うことは



仏教伝来 神仏習合 以前には これらの地には どんな神が



祀られていたのかという 素朴な疑問でした



そんな中でも とても気になる 存在が 在ります



それは 白山 です





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白山市 から見た 白山の山並み




遠い昔 この国の住む人々の前に



南の海を越えて渡来してきた がいました



人々は それらの民を客人(客神) と呼びました



幾たびとなく 訪れる海人達 船を操り わずかな平地で稲を植え



海岸線伝えに 多くの村を作っていったのでした



多くの海の幸をもたらした 《海の神》です



やがて 北の海を渡って 鉄を作る 客人(客神)たちもやってきました



山に入り 鉄をつくり 里に降りてきては 鍬や鎌の農具を



そして 山の幸をもたらした 《山の神》です





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百嶋 系図




白山 とは 白き神の住む山 です



白き神 《菊理姫》(くくりひめ) 《白山姫》(はくさんひめ)と



呼ばれる 女神でした



百嶋説 》は 菊理姫 天御中主神 (アメノミナカヌシノカミ) だとします



古事記 には まだ 天地も定まらず 混沌とした時に



最初に現れた 宇宙根源の神だと書かれています



造化三神 と呼ばれる もっとも最初に出てくる中心神です



それに 続く 二神は



高皇産霊神 (たかみむすひのかみ)



神皇産霊神 (かみむすひのかみ) です



《百嶋説》では 高皇産霊 高麗 大伽耶国の王 高木大神 とします



神皇産霊 倭の奴国王 櫛田の神 大幡主神 とします




系図を見るとわかるように



天御中主 大幡主 の伯母にあたります



主(ぬし)の神々 白族 と呼ばれ



豊玉彦(豊玉主) 大国主 事代主 なども 博多を中心に展開した



あの 奴国 (春日市 那珂川町) の神々 なのです




百嶋研究家 の中には 天御中主 〈中〉は 那珂川の那珂 ではないか



という説を言われる方もいます そうだとすると



天御中主・菊理姫・白山姫 の坐した山とは



那珂川 の水源の 背振山 なのかもしれません





真鍋大覚 さんは 『儺の国の星 拾遺』の中で



〈儺〉或いは 〈奴〉は 夏を知らぬ残雪の形容であり



花の白さの形容である また



倭人伝に出る 奴国、日本書紀に出る 儺縣(なかのあがた)の



“ぬ“ “なか” 韓語 nun(ヌン) 即ち 〈雪〉或いは



霧雲の過冷却状態 即ち 〈霧氷〉のことである



と書かれていて



かつての 背振山 かなり雪深き 白き山であったようです



古い記録によれば 背振の雪が 6月まで残っていたともいいます





石川県の白山連山 朝鮮半島の北にある 長白山(白頭山)



古代 倭人 移り住んだ 土地から見えた だったのかもしれません



故郷 奴国 にそびえる 白き山 背振山 を偲んで



つけた 名前ではなかったのか





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東山魁夷 『 白い朝 』





私の 海馬の奥深く眠る 記憶は



幼き頃の 背振の景色 と 古代 白き神の住む山を



繋いでしまったようです




菊理姫 の里 》それは 背振の山々 だったのです











by nonkei7332 | 2017-10-19 23:46 | 古代史 | Comments(0)

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筥崎宮 の境外末社となっています

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沖浜恵比須神社 正面から




大きな神社には 頓宮 (とんぐう)とか 御旅所 (おたびしょ)



とか言われる場所があります



年に一度の御神幸の時に 神輿はここで休みます



なぜそういった場所に 決めるかと云えば



そこが


伝承上ゆかりの深い場所であるとか



祭神に近い神が鎮座される場所であるとかだからです



筥崎八幡宮 の頓宮は 浜宮 と呼ばれ 大鳥居 高燈籠のある 側にあります



黒田四代藩主 綱政 が寄進したものです



それまでの頓宮はと云えば



博多大浜の沖浜恵比須神社でした



毎年 盛大な神幸渡りだったようです 毎回 博多の課役として



新船三艘を造り それに三神を乗せ 衣冠の装いをした神官達が



音楽を響かせながら 海を渡っていったといいます




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社殿 正面


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本殿に掛けられた 吊り灯籠
社紋は 〈三つ蔓柏〉
恵比寿紋 です




貝原益軒 筑前国続風土記 の中で



沖浜恵比須神社 のことをこう書いていました




・夷社


博多の北の海辺濱口に在。沖浜の夷の社是なり。



この社も 昔は 今の社地より東南の方に在しならん



今は海辺もはるかに築出したれば



今の社のある所は昔の海中なるべし



昔は 箱崎八幡宮の御旅所にして八月十四日に此所まで



神輿渡りたまひしという。



櫛田祇園の神輿も六月七日此所に渡御ありて



十三日に本社かへり奉りしと云。





筥崎宮 櫛田宮 二つの大社の頓宮 であった



〈 浜沖恵比須神社 〉



今は 朽ちかけ 鉄格子に囲まれた 神社になっていますが



博多の夷 の本家本元は



この 沖浜宮 だったのです



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右上に 浜夷 と書かれているのが 沖浜宮です
江戸時代の 博多古図 です


そもそも 筥崎宮も 八幡宮の元宮 〈大分宮〉の頓宮であったのです



延喜二十年(921年)託宣がおり お汐井とりの場所として



ここに新宮を建てたといわれています



百嶋神社考古学では 正八幡 櫛田の 大幡主神 だとします



大幡主 事代主 深いところで 繋がっていたのでしょう




かたや 近年(昭和27年)出雲大社から 大国主 勧請し



神社庁の看板神社となった 〈十日恵比須神社〉



なんでも揃えれば 良いというものではないでしょうに



かたや 誰も訪れる人も無く 朽ち果てた 〈沖浜恵比須神社〉



時代の流れといえばそれまでですが



何か 間違っているように思えるのは 私だけでしょうか。



櫛田宮も 筥崎宮も どんな風に 考えているのでしょうか










by nonkei7332 | 2017-09-09 21:37 | 古代史 | Comments(0)

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十日恵比須神社





夷神社・戎神社・胡神社・蛭子神社・恵比須神社・恵比寿神社



恵美須神社・恵毘須神社



みんな (えびすじんじゃ) と呼びます



祀っている祭神は 事代主神 (ことしろぬしのかみ)です



いろんな 書き方が あるのは この神 出自 のせいでしょうか




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十日恵比須神社 社殿



博多で 恵比須神社と云えば



〈十日恵比須〉と誰もが 言います



毎年 18日から11 まで 正月大祭 では



かなりの人出で 賑わいを見せます



夷(えびす)と呼ばれる神が



いつの間にか 商売繁昌の神様に 成り下がってしまっています



真実の 博多の夷 とは 何なのか



まずは 十日恵比須神社の真実から 調べてみました





福岡神社参拝帳 に 由来と沿革 がこう書かれています



十日恵比須神社は、



天正十九年(1591年)正月三日、



香椎宮大宮司武内家隠居、五右衛門と申す者、



香椎宮、筥崎宮に参拝し、浜辺通り潮先において



ゆくりなく夫婦恵比須神の御尊像を拝し



恐懼奉戴して自宅に奉斎せしが、



これより武内五右衛門商売繁昌するに至り、



いよいよ御神徳をかしこみ、翌文禄元年正月十日新社殿を営み、



十日恵比須と称し祭祀を厳修す。



これより世人聞き伝え庶民の賽詣年と共に殷盛となり、



天和元年(1681年)には更に御社殿を壮麗にし、



益々社運の隆昌を見る事と相成った。



更に明治四十年(1907年)、広く崇敬者の浄財に依り御社殿の改築、



同四十三年に閑院宮御台臨の建物を買収し、開運殿と名付け



開運お座を開きしより御神徳を仰ぐ参拝者激増の一途をたどり、



ついで昭和二十七年十月、御父神、大国主大神を出雲大社より勧請。



昭和四十三年に宏大な現社殿を新築。同年七月神社本庁より



「別表に掲げる神社」に加列相成り、



現今西日本屈指のえびす祭りとして暄伝せられるに至った。




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拝殿




武内家 武内宿禰 の末裔だといわれています



香椎から 博多の橋口町に移り 古くから 漁業を営んでいました



漁の神様である 恵比須様への 信仰心が篤かったのでしょう



さて 十日恵比須神社 現在 県庁に隣接する東公園の脇にあります



沿革を読むと



あたかも 創設から この地に鎮座しているかのように書かれていますが



それは 間違いです



五右衛門が 祠を祀ったのは もっと海寄りの 筥崎の松原あたりでした



寛政年間の古書にはこう書かれています




『この 夷社は 〈松原恵比須〉と 呼ばれ 元来 博多澳の恵比須なる由。


櫛田社人が支配せし博多七社の恵比須の内の一つなり。


当村(那珂郡)神主の支配なり云々』



また 貝原益軒 筑前国続風土記 には



『崇福寺の東にあり 澳の恵比須とは事代主命を祭る小社』



と書いています


つまり 社殿は 200年近く あまり目立たない



崇福寺東の松原の中にあって 参詣するものも



一部の漁業関係者だけだったのだろうと思われます



明治9 東公園が できた頃 博多の実業者達のはからいで



松原恵比須 小社今の場所に移されました



無資格社 だったので 正月十日の祭典以外は



ほとんど 参拝者もいなかったといいます



恵比須像も 普段は 武内家に安置され 正月祭典の時だけ



運ばれていたようです その後 武内本家が潰れたりして



博多の人は 貧乏恵比須 などと 悪口を叩いたといいます



明治34年ごろ 東公園に 元冦記念碑ができたころ になって



ようやく 社務所もでき 社殿も整い



恵比須像も常時安置することができたといいます



今の賑わいは つい最近(大正以降) になってからの事なのです




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手水舎





博多の夷 の話



今度は 筥崎八幡宮もからんだ



もうひとつの 夷社の話 に進みます






by nonkei7332 | 2017-09-08 10:42 | 古代史 | Comments(0)


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ジリジリと灼けるような陽射しの中



夏越しの祓い の 山笠神事を終え



〈鎮めの能〉の余韻が 幽かに 境内に残る



博多の総鎮守 《櫛田神社》に 寄りました




神社の宝物 として残る 一枚の 〈山笠絵馬〉を



確認したくて 社務に寄ったのですが



残念なことに 今後は 門外不出 だと言われました



福岡市博物館 5年前の イベントに展示されていたんですが



何か トラブルでもあったのでしょうか



そんな事を 匂わすような 答えでした




時間があったので 境内 歩いてみました



神社には 拝殿 本殿の他に 小さな祠に納められた があります



〈摂社〉とか 〈末社〉と呼ばれています



かつては 摂社 末社 区別する 基準というのがあったようで



神社庁によれば 摂社に該当する条件とは



本社御祭神の荒魂(あらみたま)や 后神・御子神 を祀った社のほか



御祭神と関係のある神 現社地の地主神(じぬしがみ)など



特別な由緒がある社となっています



こうした基準に当てはまらないのが末社です



摂社は 末社より上位に置かれていたようです



今では そんな基準も無く 総じて 境内社 と呼ばれ ています



櫛田神社 境内には 社務所奥の 注連掛稲荷社 をはじめ



十三の境内社があります




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豊宇気毘売神 は いくつもの 名前を持っています

伊勢の下宮様 であり 辛国息長大姫

アメノウズメ だとも云われています



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櫛田神社 主祭神 大幡主命 》です



その左右にアマテラス〉 スサノオ〉 祀られています



境内社に祀られる 祭神達 大幡主 との関係を



百嶋系図 の中で見つけてみました




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百嶋神代系図




天御中主 (白山姫) ・大幡主 ・豊玉主(豊玉彦)



大国主 ・事代主 ・大物主(大山咋) などの



主の神 (ヌシノカミ) の神々 筑紫 倭国 海人族 祖神 なのです



これが〈おくしださま〉と 博多の民に 慕われてきた 神々の系譜です



やがて 志賀海神社 安曇族 繋がり



この国の 礎を 各地に 拡げていくことになります









by nonkei7332 | 2017-07-24 23:58 | 古代史 | Comments(0)

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桂川 の氾濫に崩れた 比良松中学校




福岡の朝倉市 大分の日田市を中心とした 豪雨災害は



有明海に流れ着いた 5人の遺体が見つかり



死者は 23人になったといいます



しかし 朝倉では まだ多くの未確認の方が多く 祈りは続きます



先月 私は 穏やかな初夏の風に包まれた 朝倉の里 を訪ねたばかりでした



濁流に流され 修羅と化した 景色は まるで 悪夢です






日本書紀の 「斉明紀」に 朝倉山の記述があります



斉明天皇は 661 3 福岡市南区にあった



〈磐瀬行宮〉(いくせのかりみや)に入り



5月には 朝倉の 〈橘広庭宮〉に 遷宮して 百済復興の戦いに備えますが



724 朝倉宮にて 崩御されます



天皇の葬儀がおこなわれた日の夕方の朝倉山についての記述です




鬼有(あ)りて、大笠を着(き)て、喪(も)の儀(ぎ)



を臨(のぞ)み視(み)る。



衆(ひとびと)、皆(みな)嗟怪(おかし)ぶ。》




いったい 何があったのでしょうか



実は 橘広庭宮 を作るときに 朝倉山の木を切って宮殿を作ったので



神の怒りが落雷となって 宮殿を壊し



鬼火となって人々を殺したという記事があります



鬼が 大きな傘を着て 山の向こうから 葬儀を覗いていたのを



人々は びっくりしながら 見ていたというのです




それから 1000年後 同じ 朝倉山の景色を



貝原益軒 『筑前国続風土記』の



朝倉=上座郡(かみつあさくら) の〈志波〉の欄に



地元に残る こんな説話を残していました




(一部私略)


香山淵という 大なる長淵 があります



寛永の初め(寛永21625年) 黒田忠之公の家老 栗山大膳が



家人から 宴に呼ばれ 住まいのあった志波村から池田村に行こうとすると



川の淵に 大きな亀がいたので 鉄砲名人でもあった 大膳は



思わず その亀を撃って 見事に命中させると



亀は二間ほど飛んで 淵に落ちたといいます



すると 六月中旬 極めて晴天なりしが 志波村の鳥山の峰から



黒雲が一片立ち昇ると にわかに 大雨となり 洪水がおこり



水は路上に溢れ たちまち 大膳が乗ってきた



馬の鞍までが浸かるほどになってしまった



前に進めなくなったが 久喜宮の宿までやっとの思いで着いたという



雨は こぼすように降って 白昼 暗夜のごとく昏くなり



物の色も消えるほど 降り続いた



三時(6時間)程 降り続き暮れ方にやっと止んだ



この辺の 民家は ことごとく 破壊されまた 動目来の山より



大木が 根から抜けて流れてきて



香山淵もこの時埋もれて陸になってしまった



田畑は 所々 川になって 上座郡では



三千石(300ha)ばかりの田んぼが川になってしまった 』





二つの話に共通するのは



大傘を着て覗き込んでいるのは 山に立ち昇り大雨をもたらした



黒雲であり それは 木を切られた 山の神(鬼) の仕業であり



淵の神である 大亀の祟りだと 人々に伝えられてきたのでしょう



大水だけでなく その後に起こった 疫病で多くの貴族が亡くなり



斉明天皇も それが原因で亡くなったとされる説もあります





1300年前 そして 400年前 そして



いつの時代も 自然の脅威の前では



人間は いつの時代も無力です



人の力が及ぶこともない その姿を 人は 〈神〉と呼んだのでしょう



そして 〈鬼〉と呼んだのでしょう



間違いなく 朝倉山には がいるのです








by nonkei7332 | 2017-07-09 21:51 | 古代史 | Comments(0)


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両子寺





密かに 人を惹きつけている 場所があります



それは 世界遺産登録で浮かれた 宗像 ではありません



です 〈くにさき 〉と呼ばれた 場所です



国の東にある であるとすれば



ここで言う 国とは 何処を さしたのでしょうね





大分の 北東部 に位置する 国東半島



豊後高田市、国東市、杵築市 を擁し



北には 姫島が浮かぶ 神と仏が息づく 神秘の半島なのです





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国東半島 の 航空写真
六郷満山





半島の中央に位置する 両子山(りょうごさん)から



放射状に 六つの谷が 海に流れ落ちていきます



六つの谷は 六郷 と呼ばれています



武蔵(むさし)・来縄(くなわ)・国東(くにさき)



田染(たしぶ)・安岐(あき)・伊美(いみ)



1300年前 この半島に 宇佐の八幡信仰と



半島全域(六郷満山) で発展した 山岳信仰が結びつき



独特の 仏教文化 が形成されました



総持院である 両子寺 国宝阿弥陀堂のある 富貴寺。



国東市にある 古刹 文殊仙寺。をはじめ 多くの仏教寺院が点在します





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奈多八幡社






4 遅い桜 国東では 満開の頃



三人の 仲間とともに 私たちは 国東半島 神社 巡っての



トレッキング 楽しみました



国東で 仏教寺院ではなく 神社だけを巡っているのも



私たちは ぐらいでしょうかね



リーダーの F ポツンと呟いていました





杵築市の 奈多八幡社。豊後高田市の伊美八幡社



国東市の岐部神社・富来八坂神社。を 訪ねました





八幡社に関しては 宇佐の別宮や末社 を名乗っていますが



そこには 八幡神社に多く見られる 祭神の変遷が見られます



隠された 祭神は 境内摂社 残されていました



高良社 若宮社(仁徳) 多く 祀られています



国東の謎 見え隠れしています





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伊美八幡社




国東には 金海伽耶系の 大山祇神社



素戔嗚の八坂神社も 多く存在します



ということは おそらく 神仏習合以前の 国東は



半島からの 渡来製鉄氏族の住む 郷で あったのでしょう



地形的にも 谷沿いに吹き上がる 北風



たたら製鉄 には必須条件でもあります



旧正月に いくつかの 寺院で行われる



『修正鬼会』(しゅじょうおにえ) と呼ばれる 火祭りが



古代の 国東の姿を 今に 残しています



この祭りに出て来る 鬼伝説 吉備の桃太郎伝説に 似ています



多くの 恩恵を この地にもたらした 善神 としての



国東 先祖神 なのでしょうか





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岐部神社





岐部神社 では 年に二回行われる



『子供獅子舞』に 偶然にも 遭遇することができました



鬼役と獅子役の子供達が 境内を踊りまわります



二頭の白鹿が神の化身として鬼の姿で現れ



田畑を荒らすイノシシを退治して豊作をもたらしたのが由来だそうです





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岐部神社 子供獅子舞




九州国立博物館 展示会です



神と仏と鬼の郷 - 国東宇佐 六郷満山展



913 から 始まります







by nonkei7332 | 2017-06-22 17:47 | 古代史 | Comments(0)



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博多区 青木 の 地禄神社
(空 sofa そら) さんの ブログより




福岡市近郊の神社を調べていると



しきりと出てくる



同じ名前の神社があります



それは 《地禄神社》と 《埴安神社》です




《地禄神社》は 博多区に 5



〈堅粕〉・〈上牟田〉・〈竹下〉・〈青木〉・〈上月隈〉



南区に 4



〈塩原〉・〈向野〉・〈三宅〉・〈井尻〉



早良区に 〈野芥〉地禄天神社



春日市に 〈春日〉地禄神社



大野城市には 5



〈仲畑〉・〈畑詰〉・〈釜蓋〉・〈瓦田〉・〈白木原〉



太宰府市には 〈大佐野〉地禄神社



大小合わせて 17 地禄神社 鎮座しています




不思議なことに 中央区や博多区の都心部には無く



都市部近郊に散らばっています



各神社とも 創建は不詳となっていますが



古くは 67世紀前後の古社もあるのではと思われます



その頃の 福岡は 今の海岸線ではなく 内海が拡がっていて



おそらく 地禄神社 建っている辺りが 海岸線であったようです



人々の住む海岸線に 同じように祀られた 祭神 とは



『埴安神』(はにやすしん) です




埴(はに)とは「和名類聚鈔」に



『土薫而細密日埴』(つちかおりてさいみつなるをはにという) とあります



埴安神 土の神様 であり



田畑の土壌に宿り 穀物の豊作をもたらす神様なのです





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早良区 西 の 埴安神社
(空 dora そら)さん の ブログより





〈埴安神〉を祀った 《埴安神社》も 福岡には 8 ありました



早良区に 2 〈次郎丸〉・〈西〉



西区 2 〈姪浜〉・〈今宿〉



糸島市の野北・中央区の鳥飼・南区の柏原



筑紫野市の杉塚 にも 鎮座しておられます




甘木朝倉一帯に 無格社や摂社を含め 40社近く鎮座する



〈田神社〉がありますが



この祭神も 埴安神 なのだと 知りました




〈埴安神〉とは



博多の総鎮守 櫛田神社 の主祭神 である



《大幡主神》なのです




福岡 地禄神社 埴安神社が多く鎮座する 理由がここにありました





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百嶋系図 部分



百嶋神社考古学系図 によれば



大幡主 (埴安神)の妹が 〈埴安姫〉となっていることも



これを証明しています




〈土〉といえば 神話に出てくる 山幸彦を竜宮城に連れて行ったのは



塩土翁(しおつちおじ) でしたが



百嶋説は 大幡主神 塩土翁 同一人物だとします



もう一つ 〈土〉といえば



埴輪 (はにわ) の神様といわれたのは 〈野見宿禰〉(のみのすくね)です



土師氏の 祖神 といわれていますが



百嶋説 〈野見宿禰〉を



出雲神話における 天穂日命(アメノホヒ)の子供である



天夷鳥命(あめのひなとり) = 武夷鳥(たけひなどり) だとします



そして 天穂日命(アメノホヒ)は 豊玉彦 と同一人物ですので



これによって 博多の祖神 三代にわたる 系図が出来上がります




大幡主神 = 埴安神 = 地禄神 = 塩土翁 (初代)



豊玉彦 = 天穂日命 = ヤタガラス (二代)



野見宿禰 = 武夷鳥 = 土師祖神 (三代)





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埼玉県久喜市 の 鷲宮神社



後世 大和朝廷より 関東開拓を命じられた 河内の土師氏が



下総の利根川の上流 久喜市辺りで 祖神 である



〈天穂日命〉と 〈武夷鳥〉そして 〈大己貴命〉(大国主命) を祀ったのが



「関東最古の大社」「お酉様の本社」といわれる



『鷲宮神社』(わしみやじんじゃ) です



出雲族の草創に関わる 神々 といわれていますが



私には 博多の主の 神々 に見えてきます





博多の主の神々(大幡主命・豊国主命・大国主命)



神武天皇 から 代々 続く 九州王朝 を支えていたのでした







by nonkei7332 | 2017-05-19 13:10 | 古代史 | Comments(0)


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狛 魚




どこの神社でも よく 見られるのが 狛犬 (こまいぬ) です



入り口 辺りに 一対 置かれています



獅子 狛犬 だけではなく 神仏の 守護獣 として



多くの 動物 その役目を果たしています



一般には「神使」といわれています



神の使いですから そこの 祭神と



何らかの縁のある 動物が置かれているわけです



有名なのが 稲荷神社の 〈狐〉であったり



弁財天 〈蛇〉であったり 毘沙門天 〈虎〉だったりします



さて 名島神社 には 全国でも 珍しい



》が あります



ギョ ギョ ギョ~ 初めて見た人は そう云います





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シーラカンス




生きた化石といわれる 深海魚



シーラカンス (coelacanth) によく見ると 似ていますよね



対馬の琴崎にある 胡禄神社の伝承に 海神の姿を



金鱗の蛇 》だという話が残っています



もともと 名島神社は 明治になるまでは 名島弁財天 として



世間に認知されていたわけですから も絡んで 当然です



狛魚 = シーラカンス = 金鱗の蛇 = 海神



名島神社の謎解き こんなところにもありました





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名島神社 の 千木





ところで 名島神社の 祭神はと いえば



宗像三女神 田心姫 ・湍津姫 ・市杵島姫 ) です



ところが 神殿の千木 をみると 男千木 です



もうひとつの



この神社の古祭神 女神ではなく 男神 かもしれません



このパターン いくつか見て来ました



宗像大社 呼子の 田島神社 もそうでした



そこに 隠れて 鎮座する 古祭神 大国主命 でした




神殿の裏に鎮座する 摂社 を見てみると





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妙見宮 (天之御中主神)




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大黒天社 (大国主神)




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恵比須社 (事代主神)




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百嶋系図 より 主の神々




主の神 (ぬしのかみ) の勢揃い ですね



とすると 古祭神は



〈大幡主 = 大若子〉もしくは 〈豊国主 = 小若子 = 豊玉彦) となります



海神といえば 安曇磯良 を思いますが



磯良 もっと 後世の 海人族の主だと考えています



ここでは 豊玉姫の父 豊玉彦 》が 名島神社の 古祭神なのでしょう





名島神社 そうですが 北九州には



神功皇后の伝承 が多く残されています



日本書紀 異様なほど 神功皇后紀 多くの紙面を割かれています



そこには 九州王朝 (神武・懿徳・孝霊・孝元・開化・仁徳)



存在を隠そうとする 畿内王朝の意図を感じます



私的な考えですが 神功皇后の三韓征伐は 作り話だと思っています



『三国史記』にも 史実として 幾たびかの



倭国の新羅への侵攻の記事が書かれていますが



とりわけ 斉明天皇(女帝) 新羅侵攻



だぶらせて 描かれたのではないかと 私は思っています





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本殿四角 の 四神
東 の 青龍


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南 の 朱雀





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西 の 白虎





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北 の 玄武









豊玉彦 別称 八咫烏 (やたがらす) です



同じ 鳥でも カモメ カモメ



海神神社 の中を カモメ達は 自由に 走り回っていました







by nonkei7332 | 2017-04-26 20:48 | 古代史 | Comments(0)


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名島神社から見える 博多湾





カモメ達が 登っていった後から



最後に 神社の階段を登りました



途中 左手に下り曲輪〉と呼ばれる 土俵のある 広場から



遠くに 志賀島が見える 見晴らしのいい場所があります



そこから 見える海が



〈 磯良の海 〉です



そう 名づけたのは 私 です



今では 100年公園 カモメ大橋 にさえぎられて



能古島 志賀島 隠れてしまいますが



ほんの 50年前迄 は



島影 の美しい 景観だったのでしょう




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博多湾屏風図






博多八景 〉という 博多の町の 景勝地がありました



近江八景 金沢八景 というのは 有名ですので



博多八景 なんて 二番煎じゃないの と思われるかもしれませんが



実は 中国北宋時代 元祖八景〈瀟湘八景〉に影響を受けた



日本での 最初の八景は 博多八景 》だったのです



初代八景は 中世 鎌倉末期



聖福寺の僧 〈鉄庵道生〉(てつあんどうしょう)



八つの景観に合わせて 漢詩を作ったのが 初代です





香椎暮雪(かしいぼせつ)


箱崎蚕市(はこざきさんし)


長橋春潮(ながはししゅんちょう)


荘浜泛月(しょうはまはんげつ)


志賀独釣(しかどくちょう)


浦山秋晩(うらやましゅうばん)


一崎松行(いっさきしょうこう)


野古帰帆(のこきはん)





その後 近世 江戸時代 に書かれた『石城志』(せきじょうし)という



博多紹介本には また 違った 八景が 書かれています





濡衣夜雨(ぬれぎぬやう)


箱崎晴嵐(はこざきせいらん)


若杉秋月(わかすぎしゅうげつ)


奈多落雁(なたらくがん)


博多帰帆(はかたきはん)


横岳晩鐘(よこたけばんしょう)


竃山暮雪(かまどやまぼせつ)


名島夕照(なしませきしょう)






余程の 博多通でないと 場所が 特定できませんね



この中で 名島夕照 があります



名島海岸から 見える



島影に沈む 夕陽 朱く染まる海が



絶景だとされたのでしょう






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名島海岸から 落ちていく夕陽を 写していました




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夕陽に 飛び込んできた カモメです



カモメ大橋 から写した



お気に入りの 一枚 です




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カモメ達は



拝殿横の 手水舎 囲んで 清めの作法 を習っていました



飲んじゃダメ ! 口をゆすぐだけ ‼︎



キョトン とした 男の子が 私に云いました



どうして 飲んじゃ ダメなの







by nonkei7332 | 2017-04-26 06:45 | 古代史 | Comments(0)