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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

カテゴリ:菅公・太宰府( 12 )



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筑前国分寺 に 行きました

福岡平野を 南に 走ると 太宰府市の入り口でもある

〈水城跡〉に着きます

そこから 500m 位 先に 国分寺前 という交差点に出ます

左の 四王寺山に向かって 上った辺りが 太宰府市国分地区です

1250年前 このあたりに 聖武天皇が 開基 となる

「筑前国分寺」「筑前国分寺尼寺」が造られました

11世紀の後半には 戦乱で 七重塔も 講堂も焼失しましたが

江戸時代には 草庵跡に 今の国分寺が創建されたとされています



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十一面観世音像




本殿に座ると 正面に 本尊の 薬師如来座像 が


正面に左手に 十一面観世音像 が 配置されています

正面の欄干に 飛天の彫り物が 飾られています

弁財天を思わせるような 琵琶を抱えた 飛天です

古いものではないようですが 見事なものでした



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天平13年(741年) 聖武天皇は 国家鎮護の為

「国分寺建立の詔」をだします


七重塔を建て 今光明教 と 法華経 を写経して 塔に納め

全国 66カ国に 国分僧寺 と 国分尼寺 を 一寺ずつ設置し

僧寺の名は 金光明四天王護国之寺

尼寺の名は 法華滅罪之寺 とすることという


壮大なものでした


この頃 飢饉や天然痘などの 流行などで

国土は疲弊していました

聖武天皇は その救いを 仏教に求めたのですが

実は その裏には 天皇をそこまで導いた 二人の女性がいました

一人は 母である 藤原宮子です


そして もう一人が 皇后の 光明皇后(光明子)でした

宮子 と 光明子 は 共に 藤原不比等の 娘(異母姉妹)です

この二人の 女性に大きな影響を与えた 一人の僧侶がいました

その名を 『 玄 昉 』(げんぼう) と言います

歴史において 大きな功績を残しながらも 闇に書き変えられ

悪人とされた 人物が何人もいますが

玄昉も その一人だと 私は思っています

太宰府に流され そこで亡くなった 菅原道真 は誰もが知る人ですが

同じように 太宰府に流され そして そこで 観世音寺 を作り

落成したその日に 殺された 玄昉 について 知る人は少ないのです

私は 奈良東大寺 も 奈良法華寺 も 全国の国分寺 の建立も

二人の女性を通して


天皇にその気にさせたのは 玄昉 だと思っています



玄昉 は 霊亀2年(716年) 留学僧として 唐に渡ります

18年間の修行を終え 唐の玄宗皇帝から

三品に准ずるとされ 紫衣を許されました

天平7年(735年) 経論五千余巻 や 仏像 を携えて

吉備真備らと共に 帰国します

後世 日本仏教の開祖として伝わる 最澄 や 空海 と雖も

唐での高僧としての評価は 玄昉の方が

上だったのではないでしょうか

持ち込んだ 経巻 の数が それを物語っています

のちの 仏教の拡大には 欠かせない 経典ばかりだったようです

聖武天皇を取り巻く 政局が大きく変わり 藤原仲麻呂は

玄昉を 観世音寺 開設の名目で 太宰府に送り そこで 殺します

史実は 〈藤原広嗣の乱〉の残党達の仕業にされていますが

恐らく それも 嘘です 書き換えられています



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春の穏やかな 陽射しの中

戒壇院 裏にある 玄昉の墓を訪れました


手を合わせ 玄昉 の霊に向かって 私は喋っていました


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お前さんが造った 国分寺に行ってきたぞ

菅公 や 広嗣 の 無念も合わせて 鎮めてやってくれ

阿刀玄昉 物部の血を引く お前の生きてきた道に 嘘はなかったぞ

どうか 安らかに 眠ってくれ



どこから 飛んできたのか 紋白蝶 が 一頭

私の前を 横切っていきました




赤 : 筑前国分寺
緑 : 玄昉の墓










by nonkei7332 | 2017-03-31 11:15 | 菅公・太宰府 | Comments(0)


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西鉄電車 《旅人》




大伴旅人(たびと)は

天平二年(730)正月

大宰府の帥邸において梅花宴を催しました



梅雪(ばいせつ)残岸(ざんがん)に乱れ

煙霞(えんか)早春(さうしゆん)に接す



《雪のように白い梅の花びらが切り立った岸壁に乱れ散り》

《霞が早春の空にたなびいている》


「初春侍宴」

大伴旅人

『懐風藻』より



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早咲き の 白梅



今年 始めて の 太宰府です

去年の最後が 太宰府の 〈入穴神社〉 でした

今年の最初は 観世音寺 の鎮守 〈日吉神社〉(ひえじんじゃ) です



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日吉神社 扁額




日吉神社 は 観世音寺の鎮守であり

地元では ひよし神社と呼ばれています

鳥居の扁額は 〈山王宮〉になっています

六十六段の急な階段を登ると 本殿

神社誌によれば 創建は 朱鳥大宝年間(686〜703年) とされ

平安時代に 比叡山の日吉大社を分霊したと言われています

とすると 旅人 は ここに 登った事があるのでしょうか



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日吉神社




江戸時代の地誌によると〈豊臣秀吉〉が九州下向の折

この神社に陣を張ったが 時の観世音寺の別当は世情に疎く

秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て

秀吉の怒りをかい 寺領を没収されたと伝えられています

承応元年(1652年) 領主が再興しました

祭神 は 大山咋神 と 大己貴命(大国主命)

日吉神社は山王社とも呼ばれ 観世音寺の守護神とされています



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旭地蔵尊






日吉神社 から 天満宮方面へと 小径を歩いていくと

坂の途中に 旭地蔵尊 があります

この堂 は 〈横岳山崇福寺〉を創建した

湛慧(たんね)禅師の墓と伝えられています

『筑前国続風土記』によれば


「 この地谷間にありて いと 閑寂なる境区なり。

湛慧の墓は 横岳 に行く道の傍にあり、此所入定の地なる故に

石塔を立てそのしるしとする。」とあります


伝承では禅師が正月に観世音寺の前を通りかかった時、

正月最初に門前を通った者を鬼とする 追儺(ついな)があった為

追儺 : (後世 節分となった神事)

捕えられて追儺の鬼にされたそうです

禅師は これを恥じて 後年この地に穴を掘って籠もり

入定したと言われています

土地の人々は手厚くここに葬り石塔を建てて供養し

後に地蔵を祀り 山の名前 朝日山にちなみ朝日 又は日の出の旭をとり

〈旭地蔵〉として、信仰厚く現在に至っています




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崇福寺別院






仁治元年(1240)に

湛慧禅師によって.ここに 創建された 横岳山崇福寺 は

文永9年(1272) 大応国師によって 崇福寺別院として 開山されてから

中世 影響力のある 寺院として 往時には 隆盛を極めましたが

天正14年(1586)の島津氏と大友氏との 岩屋城の合戦によって焼失し

その後・慶長5年(1600)に 福岡藩初代藩主黒田長政 によって

福岡市博多区千代 に移設 再建がなされ 黒田家の菩提寺となって

大きく発展し 今日に 至っています




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崇福寺 朝日地蔵堂





千代の崇福寺 山門横にある 〈朝日地蔵〉何度も見たことがあるのに

太宰府 白川の〈旭地蔵〉が 本家本元 だなんて


知る由もなかった



今年も 知る由もなかった事を


たくさん 探しに行くんでしょうね


旅人の 夢 は 果てしのない 旅です






黄 : 日吉神社
緑 : 旭地蔵尊
赤 : 崇福寺別院



by nonkei7332 | 2017-01-10 21:40 | 菅公・太宰府 | Comments(2)

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古都の光 の提灯





太宰府天満宮 の 秋の祭り

『神幸式大祭』が終わりました

この行事が始まったのが 今から 900年前 康和3年(1101年)

大宰権帥 大江匡房(おおえまさふさ)が


菅公を偲んで始めたとされています

菅公 在世の往時を偲び 御神霊をお慰めするとともに

皇室のご安泰と国家の平安


さらには 五穀豊穣を感謝するというのが

祭りの由来だと言われています


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心字池 の 巫女舞




最終日の25日は 菅公の命日 です

陽が落ちると 境内の心字池に千本のローソクに火が灯される


「千灯明」(せんとうみょう)

水上舞台では 巫女による神楽舞が奏上されます

この夜は 天満宮の境内だけではなく


『太宰府古都の光』という

イベントがおこなわれます

観世音寺 や 戒壇院 大宰府政庁跡や水城跡などの 5カ所が

灯籠や光のオブジェで彩られ

灯明の灯りによる光の道ができあがるのです



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政庁跡の 光のオブジェ
後ろは 四王寺山





都府楼という名で 地元では 親しまれてきた 古き都跡

筑紫万葉と呼ばれた 優雅な 宮廷文化が そこには見え隠れしています



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戒壇院 山門


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戒壇院 の 境内





この場所は 菅公という 一人の男を偲ぶだけの場所ではないのです

九州王朝という 歴史の闇に 消された

この国の ルーツ を偲ぶ場所なのです


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観世音寺 正面




隠された 真実とは 何なのか

観世音寺の梵鐘の音が

私に こっそり 教えてくれた

物語がありました



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榎社 を行き来した 御所車







by nonkei7332 | 2016-09-27 07:18 | 菅公・太宰府 | Comments(0)


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久しぶりに 兄弟三人で 大宰府へ行きました

お目当は 九州国立博物館 の 特別展『始皇帝と大兵馬俑』

そして 『花菖蒲』です



まずは 腹ごしらえ

姉が 穴場を見つけていました

姉の家の側にある 《介護付有料老人ホーム アクラス五条》の中にある

食事処「よっと~と」

日替わりランチ 550円(コーヒー・デザート付)

この日のメニューは 〈酢鶏〉でした かなり美味しかったです

コーヒーは 場所を変えて となりの 「カフェブリュネ」

さすが 高級老人ホーム アンティークな調度品に囲まれて 至福のひと時


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参道は 平日にもかかわらず


相変わらずの チャイニーズ王国でした


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特別展は 今週一杯ということなのか


花菖蒲満開に合わせてなのかかなりの人の波でした


〈兵馬俑〉については また後日 記事にします


何れにしても 20世紀最大の考古学発見と言われる 〈兵馬俑〉

始皇帝という 一人の男の為せる術の壮大さは

海馬の奥深くに眠る 記憶の魂を 充分に 揺さぶってくれました


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東神苑 の 菖蒲池 には


約55種3万本の 「花菖蒲」が 咲き誇っていました

池のほとりの茶屋に座って 抹茶をすすりながら しばし 無言。

池の向こうに見える 緑濃き 四王寺山 も 美しかったです


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by nonkei7332 | 2016-06-09 13:32 | 菅公・太宰府 | Comments(4)

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九州国立博物館



『 10年は 一昔 』といいます

九州国立博物館 ができて 10年

開館記念展 の 名称 は 『 美の国日本 』でした

そして 10周年の今回も 『 美の国日本 』


渡来人で溢れる 参道を抜けて 博物館に上る

何時ものように 虹のトンネルを抜けると 目の前に

青い空を映した 鏡張りの 博物館が 目の前に 現れる


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今回の目当ては 『正倉院宝物』

正倉院は 奈良東大寺にある 校倉造(あぜくらづくり)の高床式倉庫

奈良天平の宝物が納められている と教科書で習った

パンフレットを覗くと 全国の国立博物館から取り寄せた

展示品がほとんどで 正倉院宝物 は たったの 6点だけ

あたかも 正倉院宝物展 のごとき メディア の紹介だったので

またしても 上げ底展の感を歪めない


『螺鈿紫檀五絃琵琶』今回の目玉がこれだ




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聖武天皇の愛玩品だったというが 日本の工芸ではない

ラクダに乗って琵琶を奏でる ペルシャ人からしてみると

唐に渡り 遣唐使によって 日本にもたらされて物のようだ

紫檀の上に貝の螺鈿の美しさは 目を瞠るものがある




気になった 宝物が 『筑前国嶋郡川辺里戸籍』


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説明を読むと

《大宝2年(702)の筑前国嶋郡川辺里

(今の福岡県糸島市および福岡市西区の一部あたり)住民の戸籍で、

現存する 日本最古の戸籍として知られています。

戸主とその家族の名前、年齢などが一行一名ずつ記録され、

その上から「筑前国印」が丁寧に捺されています。》

この文書は 『正倉院文書』とよばれる 一万数千点にもなる

古文書の一部だといわれているが 戸籍 天皇への献上品 などの

様々な文書群であり 今も その解析研究が進んでいるといわれる


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「九州王朝説」の 故 古田武彦さん は


講演の中でこんな話をなさっていた


『 正倉院文書の問題である。

私はあれ!と思ったのは筑後だけが献上品が全然違う。

他の地方は醤油や味噌など非常に分かり易い地方の特産物等である。

しかし筑後だけが全然違う。

まず天平10年(738年)に、

銅の竈(かまど)を作る工人を献上させられている。

次は轆轤(ろくろ)の職人を献上させられる。

轆轤(ろくろ)の職人も重要な技術である。

更におかしいのは、鷹狩りの技術者を30人献上させられている。

30人と書いて有る。先ほどの銅の竈を作る工人の数は書いていない。

もっと多いみたいだ。さらに犬を献上させられている。

犬というのは御鷹犬です。鷹狩りには人間だけいても駄 目。犬がいる。

特殊技術を持った犬を筑後から献上させられている。

奈良の犬では駄 目だったみたいだ。

( 中略 )

一番の問題は玉類。玉というのは玻璃製・ガラス製品。

現代では安っぽく見えるが、当時ガラスは最高の工業製品。

15・16世紀に西洋で大量 生産の方法が発明されるまでは、

尊い宝玉のトップの位置にあったのが玻璃製・ガラス製品。

その玻璃製品を930枚、「賣」という名目で献上させられている。

どうせ買い上げたと言っても大した金は出していない。

さらに今度は真珠。白玉 113枚、これもすごい数。

その他にもいろいろ竹玉・ガラスの勾玉・管玉とか献上させられている。

要するに弥生時代に博多湾岸にあった物が皆筑後の方に有ったらしく、

それを献上させられている。そういうことがありました。

それで今度の古田史学会報に少し皮肉を書いたのですが、

従来の正倉院文書の研究者は多いが、

どうして九州王朝論者にならなかったのか。

あれを見れば筑後は他の国と違って、

最高権力者の土地であることが 明確ではないか。

それから天平10年から14年後に東大寺の奈良の大仏が建立されている。

これは銅の製品ですよ。そうであれば今の数が書いていないほど

「銅の竈の工人」が献上させられている。その彼らが

奈良の東大寺の大仏の建立の中心になったことはまず疑いがない。

そういうことは教科書では教えていないでしょう。

天平10年以前の権力の中心地は福岡県でした。

王朝はそこにありました。

正倉院文書の研究者がみんな言わなければいけない。

言わなかったのが後世から見ると謎になるのではないか。

こういう皮肉を書いた。そこから始まった問題は

(近畿に)献上する前のおびただしい宝玉はどこに有ったのか。

そういう疑問を持っていた。そこへ東京の高木さんから、

筑後国に「正倉院」が有ったと言われたので、本当にビックリした。

天平10年に献上させられた膨大な宝玉 はどこに入ったか。

おそらく奈良の正倉院に入ったことはまず間違いがない。

我々は今奈良の正倉院の宝物を見ていますが、

何処からきたか知らずに見ています。』


古田武彦さん 古代史研究の第一人者であられました

先月14日 亡くなられました 89歳でした

歴史は 必ず 彼が遺した偉業を 称賛するでしょう

元気なお姿を 知っている 私には 想いも深きおひとりでした

日本の賢人が またひとり 亡くなられました

御冥福をお祈り致します

拙ブログ 2/22 の記事に 《孤高の魂ー古田武彦さん》として

紹介させて頂きました




歴史に 隠された 正倉院の謎

歴史に消された 九州王朝の真実

秋の太宰府は どこまでも 青き空に包まれ

宝満から下りてくる 澄みきった神の風に

ひたすら 身をゆだねているようでもありました









by nonkei7332 | 2015-11-03 10:08 | 菅公・太宰府 | Comments(2)

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九州国立博物館

開館10周年記念特別展

『美の国日本』を 見るために

太宰府 五条に住む 姉を訪ねた

秋の陽が穏やかな 中を

御笠川 沿いを 散歩しながら 歩いた

30年前に この近くに住んでいた私には

想い も 古(いにしえ) も 深き 思川(御笠川) なのだ

川沿いに 太宰府市役所があり

上流を望むと 源流である 御笠山(宝満山) がそびえる



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この道は 姉の毎朝の 散歩道

以前 「カワセミ」を見た と聞いた事があったので

そんな話をしながら 歩いていると

チチーと鳥の鳴き声が聞こえた

「あっ カワセミ」と 姉が 言った

10mぐらい 先の 川面に 青い羽根をした 鳥が横切った

「やったー カワセミ だ」思わず 私も叫んだ

カワセミ は 向こう岸の ヨシの葉に止まっていた

しばらく 立ち止まって見ていると

瞬間 水面に コバルトブルーの 色が拡がり 水柱が立った

カワセミ が小魚を 捕らえたのだ

そして あっというまに 何処かへ 立ち去っていった

「あっ すごい」

なんという 嘘みたいな ほんとの 初めての 出逢いだった



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カワセミ は いくつもの名前がある

〈川蝉〉・〈翡翠〉・〈魚狗 〉

〈川蝉〉は 蝉のよう鳴くから とか

背中が美しいから (川背美) が訛ったからといわれている

〈翡翠〉というのは 中国でのこの鳥の呼び名で

赤い羽根と青い羽根を持った鳥という意味だという

翡翠(ヒスイ)という宝石の名前がこの鳥の名前になったのではなく

鳥の美しさが 宝石の名前になったようだ

〈魚狗〉は 魚を食べるからの名前だといわれている

〈狗〉という字は 〈食べる〉という意味なのだろうか

筑後川の下流で取れる ヤソ という魚 を 『狗母魚』と書く

筑後川下流を 古代『狗奴国』といったので

面白い解釈 が できる つまり

《 母を食べる魚がとれる 国とは 母なる国である奴国を食べる国 》

《 奴国 を 滅ぼした 狗奴国 》


万葉集には 鳥の詠まれた歌が 600首あるというが

これだけ美しい 〈かわせみ〉の歌が 一首もないというのも

不思議 でしかたがない


妄想は また 新たな 妄想を作ってしまう


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途中 『光明禅寺』に寄った

紅葉には 早いが 秋の気配 が 漂っている

階段を上って 梵鐘の横からの景色 に思わず シャッター

柿の木の向こうに 四王寺山 が美しい

宝満山と共に この山にも 多くの 神話が隠されているのだ









by nonkei7332 | 2015-11-01 22:32 | 菅公・太宰府 | Comments(0)


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先週 太宰府に住む 姉からの 誘いがあった


梅も見頃だし 国博 にも行っておきたいし OK の返事


兄も誘って 兄弟三人で 天満宮 へ



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菅原道真公の誕生日が 6月25日 そして 命日が 3月25日

おなじ 25日 ということで 《天神さまの日》とされている

私は 今日は 特別な日だとは知らなかったが

姉が この日にした 目的が すぐに解った

じつは 参道の〈梅ヶ枝餅〉が この日だけは

いっせいに 〈よもぎ梅ヶ枝餅〉となるからだった




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それにしても 正月でも 日曜でもないのに

この混みようはなんだ

人 が 多過ぎる 聞こえてくるのは ほとんどが Chinese

いったい ここは どこの国なんだと 思ってしまう




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お昼は 太宰府では 数少ない 倭風料理の 『 古 紺 』(ココン)

小鳥居小路 沿いの 路地の奥にある店

和風定食 (1250円) もいいが カレー (1000円) も美味しい

知る人ぞ知る 店なのだ





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今日は 拙ブログ《 磯良の海 》の 一周年記念日


道真公 に 感謝を伝え 二年目の飛躍を


《 麒麟さん》に お願いして きました





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by nonkei7332 | 2015-02-25 18:45 | 菅公・太宰府 | Comments(2)


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長者の藤




太宰府の 昔話に 『 田中長者 』という お話があって
二人の 長者 がでてきます
今日は そんな 話をしてみます

《 田 中 長 者 》 日本昔ばなし より

昔、九州の太宰府に近い通古賀(とおのこが)という所に、
田中長者と言う大変な長者がいた。
その屋敷の広さと言ったら、使用人でさえ迷子になる程で、
また屋敷には数えきれないくらいの蔵があった。
そんな大金持ちの田中長者であったが、決して人に対して威張るという事はなく、
そのため村人や使用人たちからたいそう尊敬されていた。
ところで、この通古賀から山一つ隔てた隣村には、
これまた大金持ちの虎丸長者という長者がいた。
この虎丸長者は、田中長者とは対照的に、自分が金持ちであるという事を鼻にかけ、
いつも隣村の田中長者に対抗心を燃やしていた。
ある時、虎丸長者は自分の財力を通古賀の村人や田中長者に見せつけるため、
千人の使用人を引き連れて、太宰府の寺にお参りに行くことにした。
千人の長い行列は、太鼓や笛などを鳴らしながら、
にぎやかに通古賀の村を通り過ぎて行く。
さて、その太宰府からの帰り道のことであった。
虎丸長者が田中長者の屋敷の前を通りかかると、折から雨が降り始めた。
虎丸長者はちょうど良いと、田中長者から傘を千本借りることにした。
いくら田中長者でも、傘千本は用意出来ずに泡を食うだろうと思ったからだ。
ところが田中長者は、新品の傘を千本いとも簡単に用意して、
虎丸長者の使用人に持たせた。
これに悔しい思いをした虎丸長者、何とか田中長者に一泡吹かせようと、
今度は千人の大飯食らいを集めた。
傘を返すのを口実に、田中長者の屋敷に千人の大飯食らいを昼飯前に向わせたのだ。
これにはさすがの田中長者もさぞ困るだろう。ところがどうだろう。
田中長者の屋敷では、ちょうどご飯を多めに炊き過ぎたと、
千人の大飯食らいをもてなし、
さらに食べきれなかったご飯は、一人三つずつお握りにして渡し、
計三千個の握り飯をもらって帰って来たのだ。
これを見て、とても太刀打ち出来ないと思った虎丸長者は、
二度と田中長者と張り合おうとしなかったそうだ。



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武蔵寺



『 虎丸長者 』 どんな人?

藤原鎌足の子孫の 《 藤原虎麻 》(ふじはらのとらまろ) がその人です
初代の大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官) だといわれています
天拝山の麓にある 《 椿花山武蔵寺 》
虎麻 が 夢の中で 薬師如来が宿る霊木の精から
薬師十二神将像を作り 堂を建てて祀るようお告げがあったので
ここに寺を建てた これが武蔵寺の由来と伝えられています
ここには 「瑠璃姫伝説」という話が残っています
《 子供のいなかった 虎麿 は薬師堂にこもり 薬師三尊に祈り縋ったところ
その加護をえて 瑠璃姫 を授かったといいます
ところが疫病が流行り 瑠璃姫もこの流行病に罹り 虎麿はさらに薬師如来に祈願し続けたところ
ある夜、夢の中に一人の僧侶が現れて
「ここから東方に葦の生えている湿地があり、そこに温泉がある。
ここで入浴させれば、必ず病は治るであろう」と告げ、姿を消しました
早速 虎麿はその場所に行き茂った葦を刈り こんこんと湧き出る温泉を見つけました
その温泉に瑠璃姫を 入浴させると たちまち病気が治ったといいます
これが二日市温泉の始まりです》

天拝山・武蔵寺 は 私の大好きな 散策路です
(長者の藤といわれる 藤棚) (駐車場横の 深紅の寒椿) (新緑の山路)
(菅公が身を清めたという 紫藤の滝) 懐かしい風景がそこには 残っています
今は 「天拝山歴史自然公園」として 綺麗に整備されていて
遠く 万葉の風の中で 静かに 佇んでいます


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王城神社



《 田中長者 》どんな人?

菅公よりも 天智天皇よりも もっと もっと 昔の話になります
通古賀(とおのこが) あたりに住んでいた
大野県主 《 田中熊別 》(たなかくまわけ ) がその人です
もとより 太宰府が 「遠の朝廷」(とおのみかど) とよばれたように
通古賀 も 「遠の国衙」(とおのこが)と呼ばれた場所で 政務を司る
役所があったところでした
熊別は 四王寺山の向こうの宇美町に至るまでの 広い土地を おさめていました
通古賀にある 《 王城神社 》の「縁起」によると
玉依姫の子 神武天皇が 東征にあたり 四王寺山の山頂に仮宮を建て
ここに (事代主命) と (武甕槌命) を祀ったとされます
東征には 田中熊別も息子の(熊則)を伴って 援軍したとされています
四王寺山 の名前も 神武の初めての 仮宮だったので 「始王地 」
神武天皇の子供 (蚊田王) 出産に由来して 「始皇子」と呼ばれたと書かれています
田中の庄 宇美町は 蚊田の庄 に名前がかわったといいますから
「蚊田王」の産まれた場所も 熊別の所領であった 宇美町で
ほんとうは 応神天皇ではなく 神武天皇の子 蚊田王の産まれたところだと
「縁起」に書かれています
熊別 は東征後 通古賀にもどり 御笠川の支流である 鷺田川のほとりに
田中の森 という 墓に眠っているそうです
天智天皇は 大野城や基肄城を作った時に 四王寺山頂に祀られた
「事代主命」は 通古賀にある 王城神社へ
「武甕槌命」は 春日市の 春日神社に それぞれ 移されたとも書かれています


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昔話の行き着く先は『 遠の筑紫 』の物語になりました

小さな 王城神社の縁起ですが 神武天皇 から始まる
筑紫の謎がうごめいています










by nonkei7332 | 2015-01-19 15:42 | 菅公・太宰府 | Comments(0)

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観世音寺

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奈多海岸




人は 生涯 どれだけの 《 こころに 残る 音 》というものを
記憶しているのだろうか
私の中では

『 大晦日の 観世音寺の鐘の音 』

『 奈多海岸の 波の音 』

目を閉じて 海馬を震わせると なんの注釈もなく
あの 音達が 聞こえてくる



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観世音寺の天智院には 歌碑がある

《 手をあてて 鐘は たふとき 冷たさに 爪叩き聴く そのかそけきを 》

《 長塚 節 》(ながつかたかし)
歌人、小説家。茨城県結城郡の豪農の家に生まれ、
3歳のときすでに百人一首を暗誦できたとの言い伝えがある。
長じて正岡子規の門下に入り、『馬酔木』『アララギ』に多数の短歌を発表した。
30代前半に東京朝日新聞に連載した小説「土」は
日本の農民文学を確立した作品といわれる。
明治45年(1912年)、喉頭結核治療のため夏目漱石の紹介により、
九州大学病院に入院
この時 観世音寺の住職・石田琳樹と親交を持ち、幾度かこの寺を訪ねている
この歌は、死の前年 大正3年(1914年)の晩秋、
観世音寺を訪れて詠んだ歌
翌年 2月8日 36歳の若さで 亡くなっている

千年もの間 この国の歴史をずっと見てきたこの鐘に
手が触れた時の 尊さ その 冷たさ
そして 爪で叩いて鳴る その幽かな音に
残された 我が生命の日々を 重ねたのだろうか

初めて この歌碑の前に立った時
若き歌人の 哀しみに 私は涙が止まらなかった


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この 鐘の音を 穏やかに そして 深き 哀しみの中で 聞いておられた方がいる

菅原道真公 の 謫居の館は 十条右郭一坊にある南館だった
今の 榎社 のあたりだろう

『 不 出 門 』という 漢詩を遺されている (一部)

都 府 樓 纔 看 瓦 色
( 都府樓は纔かに瓦の色を看 )
觀 音 寺 只 聽 鐘 聲
( 觀音寺は只鐘の聲を聽く )

口語訳 : 近くの都府楼は 毎日わずかに瓦の色を遠くから眺めるばかりで、
観音寺 も ただ鐘の音を聴くだけで訪れたこともない

都での全ての栄華を そして 幼い我が子の 隈麿 までも 無くした
菅公の 御心情は 私には はかりしれない

ただ 時を超え 私の中にある あの鐘の音と
同じ 鐘の音を聞いておられた という まぎれもない 真実だけで
私の魂は 延喜二年(902年) 1113年前の
あの 冷たき 真冬の 榎の住処に 繋がっていく事ができる

今年もあと 三日
観世音寺の鐘の音は 今年も 多くの人々の魂を 癒しながら
百八つの 煩悩を 払っていくのだろう



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観世音寺 の 梵鐘






by nonkei7332 | 2014-12-28 12:02 | 菅公・太宰府 | Comments(0)


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秋の一日

姉の誘いで 九州国立博物館の 故宮展 に出かけた
姉も 家族で 旅行した時 寄ったというし 実は 私も
25年前 台湾の 故宮博物院を 訪れていたのだが 記憶が あまりない
何か 海馬に 触れるものが在るかと 期待したが 残念ながら
扁桃体は ほとんど 反応してくれなかったようだ
期待 外れだった



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〈 霜 降 〉は 過ぎたが 紅葉には まだ 早いようだ

秋の空には やはり 白い雲 が 似合う



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白い雲といえば

九州国立博物館の庭には、( 大伴旅人の歌碑 ) がある
かつては 九州歴史資料館の前庭にあったものだが 今は
九州国立博物館西側 アクセス入り口 に 建っている



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『 ここにありて 筑紫や何処 白雲の たなびく山の 方にあるらし 』
          (巻4・574・大伴旅人)

詳しくは 〈旅人の恋〉 を http://hisamitsu.exblog.jp/23099658/



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天満宮 に戻り

修学旅行の子供たち と 中国旅行者 の間を 手水所 楼門 を抜け

本殿 裏に回ると 二つの石碑が 建っている




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楠(くす)の古木の前に 俳人 荻原井泉水 の句碑 がある

《 くすの木 千年 さらに 今年の若葉なり 》



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野見宿祢公碑 が 建っている

野見宿祢は 菅原道真公の祖先に あたるということは

菅公は 私の祖先でも あるのかな? …

詳しくは 〈ルーツの旅〉を http://hisamitsu.exblog.jp/22508540/



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参道にもどり 昼食は 《 蕎麦 の やま武 》

蕎麦ではなく 知る人ぞ知る 隠れメニュー 《 雑煮 》を 食べる

六十年 博多雑煮 を食べ尽くしてきた二人の コメントは

「 まぁ まぁ やね 」。



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戻りの参道で カマキリ に出会った

カマキリが獲物をねらうとき
胸の前でカマをそろえて静止する 独特のポーズは “祈り” を連想させるというので
日本ではカマキリを「おがみ虫」という方言で呼ぶ所もあるらしい

京都祇園祭の山鉾「蟷螂山(とうろうやま)」を 思い出す
蟷螂山は「かまきり山」とも呼ばれ かまきりが羽を広げ
御所車の車輪が回転する など 祇園祭の山鉾では唯一の「からくり」
何かが 繋がってるのか 不思議な 出逢い もあるものだ



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帰りに 宝満宮竈門神社 に 久し振りに寄ってみた

最近 リニュアル されて 随分 変わったと 聞いてはいたが
あまりにも 世俗化した その様相には 正直 がっかりさせられた

あの 神功皇后を 心で支えた 玉依姫命 ゆかりの 社であるというのに



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綺麗すぎる 社務所





鳥居のそばにある 民家の垣根に 〈 花 梨 の 実 〉

秋 の 空に 揺れていた




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by nonkei7332 | 2014-10-24 02:41 | 菅公・太宰府 | Comments(2)