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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

2016年 08月 30日 ( 1 )


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警固神社 ( 天神2丁目 )




福岡市の中心街といえば

《天神》と呼ばれる 地域です

最近は 博多駅界隈も 駅の再開発にともなって

賑やかになりましたが

それでも 天神地区は 多くの商業施設や地下街 市庁舎などがあり

多くの市民が集まる 場所です

天神の明治通り沿いにある 〈水鏡天満宮〉が

天神という名前の出処だと言われています

さて 西鉄福岡駅に隣接する 三越 や ソラリアホテル に囲まれるように

警固公園があり その南に接するのが

『 警 固 神 社 』です

今日は この神社の謎を解いてみます


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祭神は 警固三神と書かれていました


神直昆神 (かんなおびのかみ)

大直昆神 (おおなおびのかみ)

八十渦津日神 (やそまがつひのかみ)


聞いたこともない神様だと思いますが

神直昆神 とは 下鴨神社の祭神 〈鴨玉依姫〉 の事です

大直昆神 とは 日吉神社や松尾神社の神様の 〈大山咋神〉のことです

京都下鴨神社の 〈丹塗り矢神話〉に出てくる お二人ですね ご夫婦です

お二人の子供が 上賀茂神社の祭神の 賀茂別雷神 なのです

さてさて 三番目の 八十渦津日神 とは誰なのか

実は 後世 歴史の闇に 消された 祓いの女神

あの 〈 瀬織津姫(せおりつひめ)〉のことです





警固神社は昔からここ(天神)にあったのではありません

由緒によりますと この神社の元宮は 南区警弥郷三丁目にある

警固神社(上警固神社)だといわれています

扁額には 〈 警固宮 〉と書かれていました。


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上警固神社 (警弥郷)


上警固神社の 由緒 にはこう書かれていました


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赤 (警固神社)
緑 (背振神社)







「筑前国続風土記」で 貝原益軒は

天神の警固神社の事を こう書いています


『 今かんがるに、警固と名付けしは、古、此の地に 警固所ありし故、

其の所にまします神なれば、名付け侍りしにや、

神功皇后の新羅を討ちたまひし時、此の神、

軍衆を警固したまふと云うは

其の名によりて 後の人附会せるなるべし』


すごい内容ですね 上警固神社は

その後 神功皇后が 福崎(福岡城本丸あたり)に祀ったとされていますが

益軒は 警固の名を借りた 後ずけだと言っています

おそらく 真実は いにしえの地図を見れば分かりますが

南区警弥郷近くまで海岸線だったのですが

その後 現在のように陸地が広まっていったので

福崎(黒田城本丸付近) に分社したのではと私は思っています

神功皇后は 国を護った神として 後世 度々 後ずけされていますが

これもその一つだと思います



そもそも 貝原益軒は 天神警固神社の事を

「小烏警固神社」と書いています

この神社の門前辺りは 古い地名で〈小烏馬場〉

と呼ばれていたためでしょうか


『 小烏の神社は、古より 此所に鎮座し給ふ。

城州下加茂の小烏の社と同神にて 建角身命 為。』



下鴨神社と小烏神社の ご祭神は 同じで

建角身命(ヤタガラス) こと 豊玉彦 だといっています

ただ 小烏神社が この場所(天神) にあったように書いていますが

益軒 の勘違いのような気もします

古地図をみると 警固所 と 小烏神社 は ちょっと 離れています


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呉服町路上にある 博多の地図

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鎌倉時代の 博多の古地図 「博多往古図」



鎌倉時代の古地図(上図)には 北警固所の南に〈小烏大明神〉とあります

現在 薬院の近くに 古小烏(ふるこがらす)という 地名があります

おそらく そこに 古い小烏神社 はあったのでこの地名が残ったのでしょう

じつは 現在は 警固三丁目の丘の上に 〈 小烏神社 〉があります

というより 丘の上に移されたようです


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小烏神社 (警固3丁目)



赤 (小烏神社)
緑 (警固神社)
黒 (古小烏町)



いったい いつ 誰が 丘の上に 移したのでしょうか

もう一度 上警固神社の由緒を見てください ヒントが書かれています

つまり 福岡城主 黒田長政が 慶長6年(1601年) 黒田城を築城する時に

城の本丸近くにあった 分社された下警固神社を

今の小烏神社のある所に移し

古小烏 にあった 小烏神社も移して 合祀したのでした

小烏神社跡は 藩士の住居にしたと記録には残っています

その後 慶長13年(1608年)二代目藩主忠之が本丸で 生まれると

警固三神こそが 産神だといって 山の上の 小烏の祠だけを残して

警固所があった 今の天神に 警固三神を祀る 警固神社として

神社を造営し 黒田藩主 代々 厚く 祀ってきて 今に続いています


天神警固神社 は 黒田家によって 慶長6年(1608)に


建てられた 社殿 だったのです





さて 私は 去年の11/10 の 記事の中で

京都下鴨神社の葵祭りの起源は

背振山麓に住む 賀茂氏が背振神社で行っていた祭りを

天智天皇が 京都にもってきたものだという

真鍋大覚さんの説を引用して 紹介しました


その後 下鴨神社を訪ね 八咫烏(ヤタガラス)こと豊玉彦と

鴨玉依姫 そして 大山咋神 の三神の繋がりを知り得ました

そして その影で 瀬織津姫が この神様達を

じっと 見守っている事を感じて帰ってきました


警固神社の元宮である 上警固神社のすぐ側には 実は 〈背振神社〉が

鎮座されています。同じ賀茂氏が祀ったものだと思っています

そもそも 背振神社の祭神は 宗像三女神になっていますが

私は 豊玉彦(ヤタガラス)が 隠れておられるような気がしてなりません


天神警固神社のご祭神には 警固三神のほかに 相殿神として


建角身命

豊玉姫命

神功皇后

応神天皇


の四神が 祀られていますが ここでも 建角身命 の名こそあれ

豊玉彦(ヤタガラス)は 表に出ずに 隠されているようにも思えます

神社をよく見て回りましたが

神紋は 黒田家の紋章と同じ「下がり藤」でした

千木 は 間違いなく 男千木 で 男の神様です

拝殿の瓦の上に 烏のような 置物が乗っているではありませんか

間違いなく あれは 八咫烏 (ヤタガラス) です

社務所で確認させて頂くと「その通りです」という答えでした

何か 安心したような 複雑な心境でした

何故に 警固神社の神様が 建角身命 を含めた 四神 ではないのかという

疑問ですが これ以上 突っ込むと 神社に迷惑が かかりますので

口を閉じることにします


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百島系図


ここからは 百島神社考古学 の世界です

百島説によると 祓戸神である 〈瀬織津姫〉と

出雲神話で スサノオ が 嫁にした 〈櫛稲田姫〉そして

「山城国風土記」に出てくる 丹波の姫 〈伊賀古夜姫命〉(イカコヤヒメ)

は 同じ人物だとされています

そして この姫 と 豊玉彦(ヤタガラス)の間に生まれたのが

鴨玉依姫 であり その夫が あの 大山咋神 なのです

私が 下鴨神社でみた あの神々の系譜が

博多の 小烏神社 警固神社の神々の系譜に重なるのです


それは 取りも直さず

豊玉彦の父である 博多の主の神である 櫛田の大幡主神

そして 大国主神 と 続く 白族(主の神の系譜)の中に

出雲族と言われる 秦氏の系譜が 取り込まれていった

出雲神話(国譲り神話) の 隠された 世界なのかもしれません


次は 豊玉彦と 豊秋津姫 と間に生まれた

豊玉姫 (鴨玉依姫とは異母違いの姉妹)を訪ねて


『若宮神社』を訪ねます








by nonkei7332 | 2016-08-30 10:51 | 古代史 | Comments(0)