海賊大将になりたかった男 ③
村上義太郎 の 手がけた事業は
世間を あっと言わせた 仕事ばかりでした
明治13年 3月
甘木の富豪 佐野弥平 と組んで 海軍輸送船
「 高 尾 丸 」を
政府参議 大隈重信 の斡旋で 買い取り
東京 博多間 の 海運業 を始めました
博多湾に浮かぶ 蒸気船 から運ばれてくる 新時代の文明を
博多人は誇らしく思ったことでしょう
驚きの ひとつ が 「 博 多 灯 台 」です
海運の仕事を通して 博多の港の不備については 誰よりも
義太郎には 解っていました
明治16年12月 下対馬小路下の波打ち際に
高さ12m 六角木造の灯台を 私財 7千円 を投じて 建てたのでした
灯火は 晴れた夜で 18.5キロ先からでも 見えたと言われています
ところが 翌年から 船舶に入港税を徴収する 県令が出されると
港関係者だけでなく 各方面からの反対運動が拡がり
とうとう 明治23年6月には 村上の私設灯台は
博多財産区会という 公共団体に譲渡されてしまいます
さらに 同年11月には 全国で 私設灯台の許可が取り消される事となり
博多灯台 は 永遠にその姿を消したといいます
反射鏡は グラバー商会から購入した フランス製の物でしたが
撤去後 櫛田神社に奉納され そのレプリカが
現在 福岡市博物館に保存されているそうです
灯り と言えば 街路灯 ですが
明治30年に 博多では 博多電灯会社が開業し
本格的な 電灯が 付設されたのですが
さかのぼること 明治25年ごろ
義太郎 は 博多で 「 ガ ス 灯 」の 会社も 立ち上げています
商家 の 軒先 を照らす 提灯 が ガス灯 へ 変わり
博多の町を 一挙に明るくしたのも 義太郎 だったようです
村上義太郎 を 語る上で 欠かせない 大事業に
「 今 津 湾 大 築 港 計 画 」があります
ヒントは 西南戦争の折の 荷揚げにあったと言われていますが
今津湾を 九州最大の 石炭輸出港にするのみならず
糸島の船越から 飯塚まで繋ぐ「船越鉄道計画」に乗じて
早良 糸島 両郡に 300万坪の 土地を準備し 博多に隣接する
商工都市をつくるという 壮大な計画でした
計画が 発表されるやいなや 博多の実業家からの
猛反対運動もおこりますが 義太郎 は
『博多を東京とするなら 今津大築港は さしずめ 横浜港だ』
そう 言って 反対者を説得して回ったといいます
海運 陸運 鉄道 港湾 それらの 多くの 技術専門家を 抱えて
研究の為の 資金 も 提供していたようです
全ての 私財を投じる つもりでいた 最後の事業でしたが
日清戦争後の恐慌で 船越鉄道 が その後できた 九州鉄道 に併合され
計画は 変更され 博多 飯塚間の 飯塚線(現在の福北ゆたか線) の
敷設に留まった のを 契機に 「今津湾大築港計画」も
それ以上 進むことは なかったようです
大正11年4月30日
『今津湾の築港を完成せよ』との遺言を遺し
《博多の怪商 》 村上義太郎 は 亡くなります
享年 75歳 でした
《参考資料》
博多風土記 (小田部博美 著)
博多港の歩み (福岡市 編)