海賊大将になりたかった男 ①
明治維新は 6000人もいた 黒田藩士にとって
多難の時代の始まりでした
福岡を離れ 帰郷して 鍬を持った者 や
福岡に残って 慣れない町人の手仕事から 生業を始めた 藩士など
文明開化の流れは
そこに 多くのドラマを生みだしていったのでした
『海賊と呼ばれた男』で 一躍 有名になった 出光の創業者
出光佐三 は 宗像市赤間の 藍玉問屋の息子でしたが
士族ではありません
福岡には 幕末 の動乱 に乗じて 旧藩士の子弟で
多くの事業を興し やがて 大富豪となり
近年の 福岡の礎を 作ったとされる 一人の人物がいました
〈博多の怪商〉と言われた その 男
名前を 《 村 上 義 太 郎 》といいます
『 海賊大将になりたかった男 』
と でも 言っておきましょうか
波乱万丈の 壮絶な 一生を送りながらも
福岡でも あまり 知られてないのが不思議なくらいです
嘉永元年(1848年) 戊申 1月13日
薬院に住む 貧しい 修験道者(山伏) の家に 男の子が産まれます
申年生まれだったので 母親から いつも
「お前は太閤さんの生まれ変わりだ」と いつも言われていました
先祖で海賊大将と呼ばれた 村上水軍の祖 〈村上義弘〉の事を
いつも聞かされ いつか 自分も 海賊大将 になるんだと
夢みていたといいます
この一家の先祖は
因島に拠点を持つ 因島村上水軍と呼ばれる 武士で
播州に住んでいました
その後 播州出身の 黒田如水 に とりたてられ
天正15年の 秀吉九州征伐の時 には 黒田水軍の 参謀をつとめたといいます
豊後の戦いで 島津軍敗退につながる 戦功をあげたので
以来 代々 黒田家の功臣 として 仕えたのでした
ところが 世の中は 無情なもので この一家にまさかの 不幸が訪れます
黒田家 と 島津家 に 姻戚関係 ができたのでした
かつて 島津軍を痛め付けた 張本人 である 村上家 は
黒田の要職から外され とうとう 藩士 からも追われてしまいます
武士を捨てた 村上家は
その頃 武士の次に勢力を持っていた 修験道者 となったのでした
修験者として 権勢をふるうまで のし上がった一家でしたが
世の中は どこまでも 儚いものです やがて 明治になって
修験道廃止令 が 下され 一家は どん底に落とされます
そんな 一家の中で 義太郎少年は 育っていました
修験者の毎日は 法螺貝を吹きながら
鈴を鳴らして 家々の 軒先きに立つのですが
義太郎 は そんな乞食坊主にはなりたくないと 言い張り
とうとう 親からも 勘当されてしまいます
時は 万延元年(1860年)
この年 江戸では 桜田門外の変 が おこりました
義太郎 12歳 の時でした
元はといえば 村上家は 黒田藩の功臣
話を聞いた 黒田藩士 月形潔は 黒田藩主11代黒田長溥 の作った
藩校文武館 の 雑用係として 義太郎を 住み込ませ
子弟達と共に学ばせたといいます
文武館は 明治4年に 藩校修猷館と合併されています
文武館時代の同期には 後の伯爵 金子堅太郎 や 安川財閥の 安川敬一郎
がいて 安川とは とくに仲が良かったと言います
藩士 月形潔 は その後 新政府の官僚となり
後年 内乱反乱者の収容所としての 北海道に作られた
刑務所の初代所長として 収容者と共に 北海道開拓に従事します
現在の 樺戸郡月形町 の町名は 月形潔 の姓が付けられたそうです
世相は 勤皇へと 流れ
村上義太郎 は 黒田藩隊士として 戊辰戦争で 江戸に出征します
そして 明治維新
この時 義太郎 21歳 でした
続く